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異世界料理道  作者: EDA
第三十章 群像演舞~三ノ巻~
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    幼鳥の羽ばたき(中)

2017.10/17 更新分 1/1

 トゥール=ディンが住まっているのは、ディンの本家であった。

 ディンの本家はそれなりに家人も多かったが、スンの人間であったトゥール=ディンとその父親を分家に預ける気持ちにはなれなかったのだろう。今でこそ、家人として分けへだてなく接してくれている彼らであるが、スン家の大罪が暴かれた当時は、きわめて張り詰めた空気が流れていたものであった。


 もともとの家人の数は、5名。家長とその伴侶、長兄とその伴侶、そして年若い次兄である。長兄にはまだ子がなかったので、もっとも若年であるのは家人のトゥール=ディンであった。


「……いよいよ明日は、ザザとハヴィラの婚儀だな」


 その日の晩餐を食しながら、家長がそのように述べたてた。


「俺たちは早めに仕事を切り上げて、日が沈むまでに北の集落へと向かうつもりだが、トゥールは日の高い内に向かうのだという話だったな?」


「はい。ザザの家から、迎えの荷車を出してくれるという話でした」


「そうか。俺たちはけっきょくファの家から荷車を借りることになってしまったが……ファの家には関わりのない話であるのに、申し訳ないことだ」


「アスタも他の氏族のみんなも、快く了承してくれましたよ。そんな遅い時間に荷車を使おうって人間もいませんからね」


 と、家長の伴侶が、笑顔で口をはさんでくる。


「そもそもあの荷車は、あたしらの買い出しのためにアスタが準備してくれたものなんですからね。これまでもさんざん使わせてもらっているんですから、今さら遠慮したって始まらないでしょうよ」


「それはそうなのかもしれんが……」


「あたしらは、ともに収穫祭を祝った仲じゃないですか。血族ではなくとも、森辺の同胞でしょう? いずれファの家に困ったことでも起きたら、ぞんぶんに力を貸してあげましょう」


 家長はどちらかというと頑固な気質であったが、そのぶん伴侶は大らかな気質であった。

 その大らかさを受け継いだ長兄も、にこやかに笑っている。


「できることなら、俺も連れていってほしかったよ。けっきょくディンとリッドからは、6人ずつが向かうんだっけ?」


「ああ。ハヴィラ本家の女衆がザザに嫁入りするということで、普段よりも多めの人数が招かれることになった」


「ハヴィラの人間なんて、俺は見たこともないけどな。こういう祝宴でも、俺は家を守らなきゃいけないし」


 ルウ家では、大きな祝宴の際にはすべての眷族を招くこともあったが、こちらはスン家が親筋であった時代から、そのような習わしは存在しなかった。それは、ディンやリッドは家が遠すぎるし、また、森の恵みを荒らしていたという事実を眷族の人間に悟られないようにするための措置でもあった。


「それどころか、俺は族長グラフ=ザザの姿すら、ほとんど目にしたことがないんだぜ? 跡取り息子のほうは、こっちの収穫祭で酒杯を酌み交わすことになったけどさ」


「……それが、いったい何だというのだ?」


「だから、たまにはルウ家みたいに眷族のすべてを集めたりする必要もあるんじゃないかってことさ。血の縁が薄い上に顔もあわせないんじゃあ、絆の深めようがないだろ?」


 そうして長兄は、笑顔のままトゥール=ディンを振り返った。


「だから俺は、トゥールが羨ましいぐらいだよ。今では家長よりも北の集落に招かれることが多いぐらいだもんな」


「はい。確かに言葉を交わす機会が多ければ、それだけ絆を深めることもできると思います」


 数日前、ドムの本家で晩餐を囲んだときのことを思い出しながら、トゥール=ディンはそう答えてみせた。

 家長は、ぶすっとした顔で果実酒の土瓶を傾ける。


「しかし、ディンとリッドをあわせれば、40名以上の人数になるのだぞ? それだけの人数を荷車で運ぶことはできないし、徒歩では時間がかかりすぎてしまう。また、それだけの人数を眠らせる場所もないだろうし、かといって祝宴の後に歩いて帰ることもできん。俺たちの全員が北の集落に向かうことなど、最初から無理なのだ」


「だったら、祝宴の後はスン家の祭祀堂ってやつを借り受ければいいんじゃないか? 俺はまだ見たこともないけれど、そこなら北の集落からも遠すぎはしないし、大勢の人間が眠ることもできるのだろう?」


「……そうまでして眷族のすべてを集めたいと願うなら、いずれグラフ=ザザがそのように命じることだろう」


 仏頂面で、家長はそう言い捨てた。

 長兄は、「ちぇっ」と子供のようにすねた声をあげる。


「けっきょく当分は、留守番が続きそうだな。トゥールの宴料理を口にできないのが、一番の心残りだよ」


「きょ、恐縮です……でも、もうすぐまた収穫祭がやってきますし……」


「もうすぐって言っても、あと半月ぐらいはかかるんだろうな。ファやフォウの狩り場なんかは、森の恵みもまだ十分に残されているらしいぞ」


 あちらは猟犬を使っている関係もあって、いつも以上に森の恵みを荒らされずに済んでいるという話であった。

 また、スドラの家などはもともと森の恵みもギバの数も少ない貧相な狩り場であったため、思うように収穫をあげることができなくなり、わざわざスン家の狩り場まで足をのばしているらしい。彼らは猟犬を使うまでもなく、それだけのギバを狩れるほどに力をつけることがかなったのだった。


「祝宴には、いまだ伴侶を娶っていない若衆を連れていく。それであちらの眷族と血の縁を結ぶ機会があれば、絆を深めることもかなうだろう。我々はスンからザザに親筋を変えたばかりであるのだから、まずは一歩ずつ進んでいくべきだ」


 家長の厳しい声音によって、その問答は打ち切られた。

 晩餐の料理も、ちょうど尽きたところである。

 普段であれば、もう少し広間に居残って会話を楽しむところであったが、本日は家長が早々に引っ込んでしまったので、家人も寝所に向かうことになった。


 トゥール=ディンは、父親と同じ寝所である。普通、この年齢になれば親子も別々に眠るものであるが、寝所の数が足りていないのだ。しかし、寝所を分けられたところで、ともに眠る家人の存在も他にはなかったので、トゥール=ディンにとってはありがたいぐらいの話であった。


 寝具を敷いて、父親のかたわらに横たわる。

 まだ時間が早かったので、しばらくは眠気が訪れる気配もなかった。

 それは父親のほうも同じであったらしく、やがて静かな声で語りかけられることになった。


「トゥールよ、明日もかまど番として招かれることになってしまったが、お前は大丈夫なのか?」


「え? 何が?」


「つい数日前にもドムの家に招かれたところであるし、それに……本来であれば、明日は宿場町の仕事を手伝う日取りだったのだろう?」


「うん。だけど、わたしの他にもアスタを手伝うことのできる女衆はたくさんいるから……一日ぐらいは、どうってこともないよ」


「しかし、お前にとってはアスタのもとで学ぶことが、一番の楽しみであり喜びであるのだろう?」


 父親は、ずいぶんトゥール=ディンの心情を気にかけてくれている様子だった。

 それを嬉しく思いながら、トゥール=ディンは「大丈夫だよ」と答えてみせる。


「血族の祝宴をまかされるなんて、すごく栄誉なことなんだから、それをないがしろにすることはできないでしょう? ディンの家は、あくまでもザザの血族としてファの家の行いを見定めるために、その仕事を手伝ってるだけなんだし……」


「だけど俺は、お前の気持ちを重んじたいと考えている」


 暗がりの中で、父親がトゥール=ディンのほうに向きなおってきた。

 月明かりに照らされるその顔は、とても真剣な表情を浮かべている。


「最近のお前は、さまざまな仕事を抱えすぎている。俺には、それが心配であるのだ」


「そ、そうかな? そんなことはないと思うけど……」


「しかしお前は、毎日のようにアスタの仕事を手伝っている上に、たまの休日には前日から北の集落に招かれることになってしまった。しかも最近では、城下町に届けるための菓子というものまで作ることになってしまったではないか」


「うん、それはそうだけど……」


「さらに、北の集落で祝宴があれば、こうして毎度のように招かれることになる。これでは、気持ちも身体も安らぐことがないのではないか?」


 トゥール=ディンも父親のほうに向きなおり、その手を手探りでつかみ取った。

 狩人としての、逞しい指先である。それをぎゅっとつかみながら、トゥール=ディンは暗がりの中で微笑んでみせた。


「わたしは本当に大丈夫だよ。狩人として毎日森に出ている父さんに比べれば、こんなの全然大したことじゃないから」


「いや、しかし――」


「それにね、わたしはとても誇らしく思っているの。ザザの血族たちや、アスタや、城下町のオディフィアや……こんなにたくさんの人たちが、わたしなんかの力を求めてくれるんだもん」


 それはトゥール=ディンの、心からの言葉であった。


「だから、これがつらいだなんて考えたことは、一度もないよ。粗末なものを作ってしまって、みんなにガッカリされたりしないか、いつもすごく心配にはなるけれど……でも、みんなに満足してもらえるように、できる限りのことをしたいって思ってるの」


「そうか……」と、父親もトゥール=ディンの手を握り返してきた。


「強くなったな、トゥール……俺もこれまでの罪を贖うために、必死にやってきたつもりだったが、お前にはとうていかなわなそうだ」


「そんなことないよ。父さんなんて、一年足らずで狩人としての力を取り戻すことができたんだから」


 父親が、トゥール=ディンの身体を引き寄せてきた。

 その腕が、トゥール=ディンの頭を抱え込む。

 トゥール=ディンはたとえようもない幸福感に包まれながら、父親の胸もとに顔をうずめた。


「明日もしっかりと、自分の仕事を果たすがいい。俺はディンの家で、お前の尽力が報われることを祈っている」


「うん、ありがとう。父さんも、怪我をしないように気をつけてね」


「ああ、もちろんだ」


 やわらかい声で言いながら、父親はトゥール=ディンの髪を撫でてくれた。

 それから、「そういえば……」と、いくぶんけげんそうな声をあげる。


「森辺の同胞に力を乞われるのが誇らしいのはわかる。しかし、城下町の貴族に対しても、同じような気持ちなのか?」


「うん。それがどうかした?」


「いや、貴族と正しい縁を結ぶのも、大事な行いだとは思うのだが……何かお前は、それ以上の喜びを感じているように思えたのでな」


「うん。オディフィアに喜んでもらえるのは、とても嬉しいよ。同胞ではないし、友と呼べるような関係でもないけれど……オディフィアのことは、大好きだから」


「そうか」と、父親は笑ったようだった。


「ならば別に、言うことはない。貴族などというものは目にしたこともないが、お前に好かれるような貴族もいるのだな」


「うん、オディフィアは、とっても可愛らしい女の子だよ」


 黄の月の22日に、ヴァルカスの店で再会したオディフィアの姿を思い浮かべながら、トゥール=ディンはそう答えてみせた。

 同胞ではないし、友でもない。君主筋、というのもトゥール=ディンにはよくわからない。ただトゥール=ディンは、あの幼い姫君がきらきらと灰色の瞳を輝かせながら、無表情に菓子を頬張っている姿が、ひどく愛おしく感じられてしまうのだった。


「宿場町や城下町にまで出向いているお前は、俺よりも広い世界を見ることになったのだろう。きっとこれからは、お前やアスタのような若い人間たちが、森辺の民を正しい道へと導いていくことになるのだ」


 父親の優しい声音を聞きながら、トゥール=ディンはまぶたを閉ざした。

 自分にそのような力が備わっているとは考えにくかったが、それでも父親の言葉はトゥール=ディンの幼い胸にまた強い誇りを抱かせてくれたのだった。


                  ◇


 翌日である。

 中天が近づくと、約束通りにスフィラ=ザザがトゥール=ディンを迎えに来てくれた。

 さらにトゥール=ディンの他にも、ディンとリッドから2名ずつの女衆が招かれている。客人ではなく、かまど番として祝宴に参加するのだ。それらの女衆も普段からアスタに手ほどきを受けているため、トゥール=ディンとともにかまど番の取り仕切り役を担わされるのだった。


「さらに今回は、ハヴィラとダナからも数名ずつのかまど番を呼んでいます。ほとんど手ほどきを受けていない彼女たちは見習いのようなものですが、適当に仕事を割り振ってあげてください」


 荷車の手綱を握ったスフィラ=ザザが、そのように述べていた。

 ザザ家の荷車には屋根というものがなかったが、6名の人間が乗っても窮屈なことはない。吹きすぎていく風を心地好く感じながら、トゥール=ディンはスフィラ=ザザに呼びかけてみた。


「わたしが北の集落で手ほどきをする際にも、ハヴィラやダナの女衆が加わることはありませんでしたね。彼女たちは、あまり北の集落まで足をのばしたりはしないものなのですか?」


「そうですね。ハヴィラやダナは荷車を持っていませんし、そもそも北の一族に対する畏怖の念というものもあるのでしょう。かまど番の手ほどきを望むならばいつでも訪れればいい、と呼びかけはしたのですが、最初の内に数回やってきたぐらいです」


「最初の内、というのは……スフィラ=ザザたちがルウ家で手ほどきを受けた後、ということですか?」


「ええ。わたしはその後もルウの集落に居残っていたので、時期としては金の月のあたりでしょうか。血抜きなどに関しては、男衆がしっかり伝えたはずですが……料理に関しては、ポイタンを焼きあげるのと、あとはタウ油や砂糖などを適当に使っているぐらいだと思います」


 そのように述べながら、スフィラ=ザザはちらりとトゥール=ディンを振り返った。


「でも、これまでの祝宴ではハヴィラやダナの人間も何名かずつ招かれているので、美味なる料理の素晴らしさに関しては思い知らされているはずです。今日はトゥール=ディン自身から手ほどきを受けられるので、さぞかし喜んでいることでしょう」


「い、いえその……血族の力になれたら、嬉しいです」


 ハヴィラにダナというのは、北の集落とスン家の集落の間に根をおろした氏族である。しかし、トゥール=ディンがスン家の人間であった頃は眷族の誰とも交流を結んではいなかったので、顔や名前を知る相手もいなかった。


 また、スン家が族長筋であった時代、ハヴィラとダナはたいそう肩身のせまい思いをしていたと聞いている。北の一族とスン家にはさまれていれば、それは色々と心の休まらない場面も多かっただろう。特にスン家などは、自分たちの都合でハヴィラやダナから好きなだけ嫁と婿を取っていたはずであった。


(もしかしたら、かつての眷族の中でもっともスン家を恨んでいるのは、ハヴィラとダナなのかもしれない)


 そのように考えると、トゥール=ディンはずしりと胃が重たくなるような感じがした。

 しかし、すぐにぷるぷると首を振って、弱気の虫を頭から追い出す。


(そうだとしても……いや、そうだからこそ、これからは正しい縁を結んでいけるように頑張らないといけないんだ)


 そうして荷車は、北の集落に到着した。

 祝宴が行われるザザの集落で、荷車を降りる。広場では、すでにたくさんの女衆が待ち受けていた。


「ディンとリッドから、女衆をお連れしたわ。今日は、彼女たちにかまど番の仕事を取り仕切っていただきます」


 御者台を降りたスフィラ=ザザが、よく通る声でそのように宣言した。

 彼女はザザ本家の末妹であったが、長姉は子を孕んでおり、次姉は他の氏族に嫁入りしたため、母親とともに女衆を束ねる仕事を受け持っているのだ。


「ハヴィラとダナからは、何名ずつの女衆が出向いてきているのかしら?」


「ハヴィラからは3名、ダナからは4名でございます」


 いくぶん年をくった女衆が、うやうやしげな口調でそう答えた。

 スフィラ=ザザは、「そう……」と考え深げな顔をする。


「それじゃあハヴィラは3名のまま、ダナは2名ずつに分かれて、それぞれディンとリッドの下につくことにしましょう。トゥール=ディン、それでいいですか?」


「は、はい。わたしたちも3組に分かれるので、ちょうどいいと思います」


 ディンとリッドからは合計で5名のかまど番が招かれていたが、束ね役をまかされているのは、あくまでトゥール=ディンであった。

 トゥール=ディンはどきどきと胸を高鳴らせながら、スフィラ=ザザの横に進み出る。


「ディ、ディンの本家の家人、トゥール=ディンです。若年の身ですが、血族の祝いのために力を尽くしたいと思います。ど、どうぞよろしくお願いいたします」


 祝宴の取り仕切り役をまかされるのはもう4度目のことであったが、やはりこの瞬間だけは緊張をぬぐえない。

 それでもトゥール=ディンは懸命に、自分の仕事を果たすことにした。


「し、汁物料理はリッドの女衆、焼き物料理はディンの女衆、ポイタンの料理と菓子はわたしが受け持ちますので、みなさんもそれぞれ3組に分かれていただけますか?」


 勝手のわかっている北の女衆は、すみやかに移動し始めた。ザザ、ジーン、ドムの、若めから壮年までの女衆である。その中で、唯一の客人たるモルン=ルティムが笑顔でトゥール=ディンに近づいてきた。


「トゥール=ディンは、ひとりで取り仕切り役をこなさなければならないのですね。よろしければ、わたしがこの組に加わりましょうか?」


「あ、ありがとうございます。でも、できればモルン=ルティムには焼き物料理のほうを手伝っていただきたいのですが……」


「わたしはどちらでもかまいませんが、トゥール=ディンは大丈夫ですか?」


 トゥール=ディンは、「はい」とうなずいてみせた。

 ディンの2名は、自分たちだけで大丈夫だろうかと、ずっと心配そうにしていたのだ。モルン=ルティムが力を貸してくれれば、きっと彼女たちも安心することだろう。


「以前はわたしが焼き物料理を取り仕切っていたのですが、今回はぱすたと菓子を作りたかったので、あの2人にまかせることになってしまったのです。よければ、そちらをお願いいたします」


「わかりました。頑張ってください、トゥール=ディン」


 モルン=ルティムは温かな笑顔を残して、ディンの組のほうに向かっていった。

 それと入れ違いで、スフィラ=ザザが近づいてくる。


「ゲオルがうるさく言うものだから、ぱすたを作ることになったのですね。わたしは、こちらの組に加わりましょう」


「あ、ありがとうございます。スフィラ=ザザがいてくださったら、心強いです」


「いえ、わたしの力など、たかが知れています」


 そのように述べてから、スフィラ=ザザはちょっと上目づかいになった。


「それであの……菓子を作ることになったのは、わたしのせいなのでしょうか? ゲオルのように意地汚くせびったつもりはないのですが……」


「そ、そんなことはありません。北の集落の人々にも、甘い菓子の美味しさを知ってもらいたかっただけです」


 トゥール=ディンがそのように答えても、スフィラ=ザザはいくぶん恥じらうような仕草をしていた。

 彼女は、甘い菓子が大好きであるのだ。スフィラ=ザザを喜ばせたいという気持ちも、確かにトゥール=ディンの中にはなくもなかった。


「そ、それでは始めましょう。わたしたちは、どの家のかまどをお借りすればいいですか?」


「はい。わたしが加わっているので、本家に行きましょう」


 十数名から成る一団が、それぞれの家に移動する。

 ザザ、ジーン、ドムの女衆は、だいたい均等に分かれたようだった。ハヴィラの3名は焼き物料理の組に、ダナの4名はこちらと汁物料理の組に分かれたようである。


「トゥール=ディンから指示のあった食材も、本家の食料庫に準備しています。まずは何が必要でしょうか?」


「はい。それでは、キミュスの卵とフワノの粉、それにポイタンの粉もお願いいたします」


 まずは、一番手間のかかるパスタの麺から取りかかる算段であった。

 トゥール=ディンの指示によって、女衆がきびきびと準備を整えていく。


(あ、そうだ。水瓶の水は足りるかな)


 パスタでは、大量の水を使うのである。

 そのように考えて、トゥール=ディンが水瓶の中身を覗き込もうとしたとき――どしんと、背中に何かが当たってきた。


 悲鳴をあげる間もなく、トゥール=ディンは転倒してしまう。

 その際に、トゥール=ディンの肩が水瓶にぶつかり、中の水を盛大にぶちまけることになった。


「どうしたのですか、トゥール=ディン!?」


 スフィラ=ザザがトゥール=ディンの腕をつかみ、強い力で引き起こしてくる。

 トゥール=ディンは、わけもわからぬまま「す、すみません」と謝ってみせる。


「謝っている場合ではありません。怪我などはありませんか?」


「だ、大丈夫です。少し肩が濡れたぐらいで……ああ、水瓶を壊してしまいました……」


 横倒しになった水瓶は、地面にぶつかった部分に亀裂が入り、そこからもちょろちょろと水をこぼしていた。


「いったいどうしたのですか? 何もつまずくようなものは置いていなかったと思いますが」


「は、はい。わたしにも何が起こったのか……」


 スフィラ=ザザに両肩をつかまれたまま、トゥール=ディンは頼りなく視線をさまよわせた。

 周囲の女衆は、けげんそうな面持ちでトゥール=ディンらを取り囲んでいる。


 その内のひとりが、トゥール=ディンからふっと目をそらした。

 何かに怒っているかのように、きつく唇を噛んでいる。

 それは、ダナの女衆のひとりであった。


「……まさか、誰かがトゥール=ディンを突き飛ばしたわけではないでしょうね?」


 スフィラ=ザザが、怒気をはらんだ声でそのように述べたてた。

 すると、ジーンの壮年の女衆が「何を言ってるのさ」と眉をひそめた。


「どうしてあたしらが、トゥール=ディンにそんな意地悪をしなきゃいけないんだい? これまでさんざん世話になってるんだから、そんな真似をするはずがないだろう?」


 それでもスフィラ=ザザは、疑わしげに両目を光らせていた。

 若年ではあるが、気の強さは誰にも負けないスフィラ=ザザである。女衆の何名かは、いくぶんたじろいだ顔をしていた。


「そうであればいいのですが、血族のために力を尽くそうとしているトゥール=ディンに無礼を働く人間がいれば、わたしは決して許しません。皆、そのつもりでお願いします」


 女衆は、めいめいうなずいていた。

 そんな中で、ダナの女衆だけはそっぽを向いている。

 トゥール=ディンは、どくどくと嫌な感じに胸が高鳴っていくのを感じた。


(わたしは……あの女衆に恨まれているのだろうか?)


 膝が、震えそうになる。

 しかしトゥール=ディンは、怯懦の気持ちを無理やり腹の底まで呑みくだした。


「お騒がせしてしまって申し訳ありません。どなたか、代わりの水瓶を運んでいただけますか? これから作るぱすたという料理には、たくさんの水が必要になるのです」


 ふたりの女衆がうなずいて、かまど小屋を出ていった。

 それを見送ってから、スフィラ=ザザがトゥール=ディンに顔を寄せてくる。


「トゥール=ディン、本当に大丈夫ですか?」


「はい。わたしは大丈夫です」


 これしきのことで、へこたれることはできなかった。

 トゥール=ディンは正しく生きていこうと決めてから、まだ1年も経ってはいないのだ。かつてスン家であった大罪人たち――ヤミル=レイやツヴァイ=ルティム、ディガやドッド、そして父親の姿などを思い浮かべながら、トゥール=ディンは懸命に頭をもたげた。

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