表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界料理道  作者: EDA
第三十章 群像演舞~三ノ巻~
514/1680

第六話 幼鳥の羽ばたき(上)

2017.10/16 更新分 1/1

・今回の更新は全8話です。

 その日、トゥール=ディンはドムの家でかまど番の手ほどきをしていた。

 ゲオル=ザザの言葉が発端で始まった、北の集落におけるかまど番の手ほどきである。屋台の休業日の前日は下ごしらえの仕事がないために、トゥール=ディンの手も空いているので、6日にいっぺんはこうして北の集落を訪れることに定められたのだった。


「……こうしてタラパが煮詰まってきたら、別の野菜の煮汁とタウ油を混ぜ合わせます。それでおたがいの味が馴染むまで煮詰めたら、完成ですね」


 今日の手ほどきは、アスタが『ウスターソース』や『ケチャップ』と呼ぶ調味料の作り方であった。

 なおかつ、それらの食材を火にかけている間は、『マヨネーズ』と『ドレッシング』の作り方を教えていた。

 アスタもダレイムのドーラ家では真っ先にこれらの調味料の作り方を教えていたので、トゥール=ディンもそれにならうことにしたのだ。


 黄の月も終わりに差しかかり、北の集落を訪れるのもこれが3度目となる。

 最初の回はザザ、その次はジーンときて、今回はドムの順番が回ってきたのだ。

 しかし、どの家に招かれようとも、手空きの女衆はのきなみ集まっていた。本日も、ドムの女衆に負けない人数で、ザザやジーンからもたくさんの女衆が集まっている。


 そして、それらの女衆は、みな真剣な眼差しでトゥール=ディンの言葉を聞いていた。

 いまだ宿場町の商売に関しては懐疑的である北の集落の人々も、こと美味なる料理に関してだけは全面的に受け入れるようになっていたのだった。


「タウ油にはたくさんの塩が使われているためか、このうすたーそーすやけちゃっぷといったものも、しばらくは腐ることもありません。作るときは多めに作って、数日に分けて使うようにすれば、時間を無駄にせずに済むと思います」


 北の集落の女衆というのは、一種独特の気配を纏っている。どちらかというと寡黙であり、めったに声を荒らげることもないのであるが、何とはなしに迫力があるのだ。なおかつ、ギバの毛皮や骨を使った飾り物を身につけているのも、いささかならず恐ろしげに感じられた。


 しかしトゥール=ディンも、この数ヶ月で北の一族に物怖じすることはなくなっていた。

 いかに恐ろしげであっても、彼女たちはまぎれもなく血族であるのだ。ましてやトゥール=ディンの父親はスン家の生まれであったのだから、その身には北の一族の血だって少なからず流れているはずであったのだった。


「……これらの調味料は、ポイタンに塗っても美味しいですよね」


 と、ふいに横合いからやわらかい声があがった。

 ドム家に客人として招かれている、モルン=ルティムである。

 トゥール=ディンは、そちらに向かって「はい」とうなずいてみせた。


「ポイタンの上にうすたーそーすやけちゃっぷを塗って、さらにその上に焼いた肉や野菜を載せて食べると、美味しいし食べやすいと思います。あとは、ポイタンと他の食材を、あらかじめ一緒に焼いてもいいですし……」


「あらかじめ一緒に焼く?」


 ドムの女衆が、いぶかしげな声をあげる。

 トゥール=ディンは、そちらに「はい」と向きなおった。


「それは、おこのみやきという料理ですね。ポイタンの粉を水で溶いて、それに肉と野菜を混ぜて焼くのです。あとは、ぴざという料理もあるのですが……それは石窯という器具がないと、難しいかもしれません」


「石窯というのは、以前にモルン=ルティムが言っていたものだね」


 別の女衆が、モルン=ルティムに目を向ける。

 モルン=ルティムは「ええ」と笑顔でうなずいた。


「でも、それを作ることはいったん取りやめとなりました。グラフ=ザザが、無駄に銅貨をつかうべきではない、と判断したようです」


「ああ、今は猟犬を買うために銅貨をためるべきだって話をしていたね。石窯というのは、そんなに銅貨のかかるものなのかい?」


「そうですね。町で煉瓦というものをたくさん買わないといけないので、それなりの銅貨が必要になると思います」


「それじゃあ、しかたない。……別にそんなものをこしらえなくったって、十分に美味なる食事ってもんを作ることはできるんだろうからさ」


 そのように述べながら、ドムの女衆は穏やかな眼差しをしていた。


「それもこれも、トゥール=ディンの尽力あってのことだけどね。あたしらは、みんなありがたく思っているよ」


「い、いえ……わたしなどが少しでも血族の力になれたら、嬉しいです」


 トゥール=ディンは、ぎこちなく微笑んでみせた。

 大勢の人間の前で笑顔を見せるということに慣れていないのだ。それでも北の女衆たちは、いたわるような眼差しでトゥール=ディンを見守ってくれていた。


 そのとき、騒々しい気配が屋外から近づいてきた。

 狩人たちが、森から戻ったのだ。かまど小屋に差し込む陽光も、いつしか夕暮れ時らしい赤みを帯びていた。

 ちょうど手ほどきも終わりどきであったので、一同は全員で狩人たちを出迎えることにした。


「あら、トゥール=ディン。ついにドムの家に来てくれたのね」


 その先頭を歩いていた人物が、白い歯を見せて笑いかけてくる。

 この中では唯一の女衆たる、レム=ドムである。いまだ見習いの身である彼女も、仕事の際には立派な狩人の衣を纏っていた。


 その肩にはグリギの棒を担いでおり、後ろの男衆とふたりがかりで巨大なギバを運んでいる。よく見ると、それを手伝っているのは家人のディガであった。


「よお、トゥール=ディン」と、ディガもはにかむように笑っていた。

 いつだったかの祝宴以来、彼とも縁を結ぶことができたのだ。トゥール=ディンは、笑顔を向けてくれたふたりにぺこりと頭を下げてみせた。


「見事なギバですね。ふたりが討ち取ったのですか?」


 モルン=ルティムが尋ねると、レム=ドムは勇猛な顔つきでまた笑った。


「だったら、いいんだけどね。わたしたちは、ただの運び役よ。早くこの手でギバを仕留めたいものね」


 見習いの身であるレム=ドムやディガは、ギバの頭骨をかぶっていなかった。狩人としての力が十全に備わったと見なされるまで、彼女たちはずっと見習いであるのだ。トゥール=ディンは詳しく知らなかったが、その基準は他の氏族よりもずいぶん厳しいものであるようだった。


 しかし、古来よりの習わしを重んじる北の集落にあって、女衆のレム=ドムが森に入ることを許されただけで、驚きに値するだろう。巨大な獲物を担いだレム=ドムは、他の狩人に劣らず雄々しくて、なおかつ幸福そうにも見えた。


「……家長、お疲れ様でした」


 と、ドムの女衆がいっせいにうやうやしく頭を垂れる。

 本家の家長、ディック=ドムが姿を現したのだ。

 この場にいる誰よりも長身で、立派な体格をした、17歳の若き家長である。その丸太のように太い腕には、森で剥いできたギバの毛皮が何枚も抱えられていた。


 女衆の何名かがその毛皮を受け取り、代わりに手ぬぐいを差し出した。

 毛皮はすでに川の水で清められており、ぐっしょりと濡れそぼっていたのだ。ディック=ドムは無言のまま、濡れた腕をぬぐい始めた。

 その眼前に、モルン=ルティムがすっと進み出る。


「手ぬぐいをお預かりします。……今日も無事に戻られて何よりでした」


 ディック=ドムは、やはり無言のまま手ぬぐいを受け渡した。

 そして、トゥール=ディンの姿を見下ろしてくる。


「トゥール=ディン、遠いところをご苦労だった。よければ今日は、本家のかまどで晩餐をこしらえてもらいたい」


「はい、他の女衆からも、そのようにうかがっていました」


 ザザやジーンで手ほどきをしたときも、トゥール=ディンは本家に招かれていた。ただ晩餐を作るだけでなく、そこで夜を明かすことになるのだ。ドム家でもっとも親交が深いのはレム=ドムであったので、トゥール=ディンとしてもありがたい話であった。


「……そして、トゥール=ディンがかまどを預かってくれるならば、ディガとドッドもこの夜は本家で晩餐をとるがいい」


「え? お、俺たちを本家に呼んでくれるんで?」


 ぎょっとしたようにディガが応じると、ディック=ドムはギバの頭骨の陰から相手をねめつけた。


「トゥール=ディンは、スン家であった人間たちの行状を気にかけていると聞いている。だったら、こういう際にはともに時間を過ごすべきだろう」


「え、ええ、そりゃあ俺たちにとっては、ありがたい話だけど……」


 ディガの陰で、小ぶりのギバを担がされていたドッドも、困惑したようにディック=ドムとトゥール=ディンの姿を見比べていた。

 以前の祝宴では重い手傷を負っていた彼も、また狩人として働けるようになったのだ。


「それでは、今日の晩餐は6名分ですね。すぐに追加の分を作りますので、少々お待ちください」


 トゥール=ディンは、モルン=ルティムとともにかまど小屋へと引き返した。

 もともとドム本家の晩餐を準備する仕事は、モルン=ルティムの役割であったのだ。トゥール=ディンにとっては、これほど心強い相手はなかった。


「ドム本家のおふたりは、何か苦手とする食材などはあるのですか?」


 トゥール=ディンが尋ねると、モルン=ルティムは「いえ」と笑顔で首を振った。


「どのような料理でも、おふたりは美味だと言ってくれます。……ただ……」


「ただ、何でしょう?」


「おそらくディック=ドムは、プラの苦みをあまり好いていないと思います。もちろんそれで文句を言ったりはしませんが、以前にほんの少しだけ、切なそうなお顔をされていたので……」


「プラですか。幼子には、たまに苦手にする人間もいますよね」


「ええ。ルウ家でも、ララ=ルウなんかは苦手にしていたと思います」


 そのように述べてから、モルン=ルティムはくすりと笑った。


「ディック=ドムのように立派な狩人がプラを苦手にするなんて、可愛らしいですよね」


「え? か、可愛らしいですか?」


 トゥール=ディンが驚いて問い返すと、モルン=ルティムはふくよかな頬を赤くした。


「ごめんなさい。つい口がすべってしまいました。……あの、他の人には内緒にしてくださいね?」


「は、はい。もちろんです」


 モルン=ルティムは、ディック=ドムに嫁入りすることを願って、ドムの集落に逗留しているのである。

 いまだ11歳のトゥール=ディンに、その覚悟や心情を理解するのは難しかったが、誰もが幸福な道を歩めるように心から願っていた。


                   ◇


 およそ一刻の後、ドムの本家では晩餐が始められることになった。

 ディック=ドム、レム=ドム、ディガ、ドッド、モルン=ルティム、トゥール=ディンという顔ぶれである。本家では初めて晩餐を口にするというディガとドッドは、たいそう落ち着かなげな様子であった。


「トゥール=ディンのおかげで、いつもよりも立派な晩餐をこしらえることができました。お口にあえば幸いです」


 モルン=ルティムが、朗らかに微笑みながらそのように言っていた。

 ディック=ドムはひとつうなずくと、前触れもなしに食前の文言を唱え始める。

 詠唱を終えると、上座のレム=ドムが瞳を輝かせて身を乗り出した。


「確かに立派な晩餐ね。どれから手をつけるか迷ってしまうわ」


 本日は、宿場町の商売で出している献立を中心に組み立てていた。

 汁物料理は『ギバのモツ鍋』、肉料理は『ケル焼き』と『肉チャッチ』、それにティノとネェノンを千切りにした野菜料理に、あとは『お好み焼き』である。『お好み焼き』にはさきほど作ったウスターソースと、それにマヨネーズも使っていた。


「すげえなあ。まるで宴みたいだ」


 ディガも声をひそめつつ、そのように述べている。

 そのかたわらで小さくなっていたドッドも、無言のまま食い入るように料理の皿を見回していた。


「さあ、冷める前にお食べください。もつなべはおかわりもありますので」


 すでにひと月以上もドムの集落に滞在しているモルン=ルティムは、トゥール=ディンが知っている通りの落ち着いた姿であった。

 その声に導かれるようにして、各人が木皿を取り上げていく。


「ああ、このチャッチを使った料理は美味ね。これも宿場町で出している料理だったかしら?」


「は、はい。屋台ではなく、宿屋に売っている料理ですね。レム=ドムもファの近在に住まっていた頃、何回かは作るのを手伝ったことがあるのではないですか?」


「どうだったかしらね。わたしはひたすらポイタンを焼いていることが多かったし、どのみち口にするのは初めてよ」


 宿屋に売る料理は、ファとルウで交代で作っている。よって、それを手伝っていたトゥール=ディンとモルン=ルティムには、とても馴染み深い料理であった。


「うわ、何だこりゃ!」と、ディガが素っ頓狂な声をあげる。

 みながそちらを振り返ると、ディガはばつが悪そうに頭をかいた。


「さ、騒がしくして悪かったよ。別に、悪い意味で騒いだんじゃねえんだ」


「だったら、どうして騒いだのかしら?」


「いや、この料理……自分の知っている料理かと思ったら、まったく違う味だったから驚いちまったんだ」


 ディガが掲げているのは、『ケル焼き』の木皿であった。


「ああ、それは最近、ケルの根というものを使って味を変えたのです。以前はミャームーをたくさん使っていたので、『ミャームー焼き』と呼ばれていましたね」


「や、やっぱりそうだよな? 見た目が似てるのに味が違うから、ついつい驚いちまったんだ」


 そうしてディガはもうひと口『ケル焼き』を食べると、満足そうに吐息をついた。


「それでもやっぱり美味いなあ。……こいつを食べると、嫌でも家長会議の日を思い出しちまうよ」


「ああ……家長会議では、『ミャームー焼き』が出されましたもんね」


 トゥール=ディンも、過去の記憶を刺激されることになった。

 あの頃は、ディガもトゥール=ディンもスン家の人間であり、まったく違った立場で料理を作ったり、それを食したりすることになったのだ。

 そしてその場には、ドムの家長としてディック=ドムも参席していたのだった。


「あとひと月半ていどで、あれから1年が経つのだな。森辺の民も、ずいぶんな変転を迎えたものだ」


『ギバのモツ鍋』をすすりつつ、ディック=ドムが重々しい声音でつぶやいた。


「ディガとドッドはドムの家人となり、トゥール=ディンはディンの家人となった。レムは見習いの狩人として森に入り、あれだけ俺たちといがみあっていたルウの血族たるモルン=ルティムは客分として晩餐を囲んでいる。……あの頃にこのような行く末を想像できた者など、ひとりとしていないだろう」


「ええ、おまけにザザの家では猟犬がギバの肉をかじっていて、その隣ではトトスが丸くなっているのでしょうしね。それだって、1年前には想像もできなかった光景だわ」


 レム=ドムが、笑いを含んだ声でそのように述べた。


「でも、すべてが良い方向に変転しているでしょう? これも森の導きというものよ」


「ふん……お前を森に入れたことだけは、まだ是非もついていないがな」


「あら、だったらモルン=ルティムの存在は是であるということね」


 ディック=ドムは、眉をひそめて妹をねめつけた。

 たくさんの古傷がついた、恐ろしげな風貌である。しかし、ギバの頭骨を外して陰影が薄くなると、まだしも若々しさがあらわになるようにも思えた。


「いっそのこと、モルン=ルティムも本家の預かりにしてしまったらどうなの? 晩餐だけは同じ家で食べて、眠るときには分家に帰らせるなんて、いちいち面倒じゃない?」


「…………」


「寝所さえ別々にしておけば、何も問題はないでしょう? それとも同じ屋根の下では、ふたりとも寝つけなくなってしまうのかしらね」


「わ、わたしは今のままで何の不満もありません。ドムの集落に居座ることを許していただけただけで幸いなのですから……」


 と、モルン=ルティムがまた顔を赤くしていた。

 ディック=ドムは、仏頂面で頭をかきむしっている。


「あ、もしかしたら、わたしが寝所でモルン=ルティムにあれこれ余計なことを吹き込むのを恐れているのかしら? わたしはべつだん、ふたりの婚儀に反対しているわけでもないんだから、そんな邪魔立てするような真似は――」


「いいかげんにしろ。晩餐のときぐらい、静かにできんのか?」


「晩餐で騒がずに、いつ騒ぐのよ? 狩りの最中に騒ぐわけにもいかないでしょう?」


 レム=ドムは、まったくこたえた様子もなく舌を出した。

 それから、ひそやかに食事を続けていたディガたちのほうを振り返る。


「あなたたちも、トゥール=ディンに最近の生活っぷりを伝えるんじゃなかったの? 黙っていたって、何も伝わりはしないわよ」


「ええ? だ、だけど俺たちは、別に何か変わったことがあったわけでもないし……」


 そのように述べてから、ディガはおずおずとトゥール=ディンのほうを振り返った。


「そ、そういえば、ルウの血族に引き取られた連中は、みんな氏を与えられたんだよな?」


「はい。ヤミル=レイに続いて、ミダ=ルウ、オウラ=ルティム、ツヴァイ=ルティムも氏を授かることになりました」


「すげえなあ。あいつらは、みんな立派だよ」


 ディガは、切なげに息をついた。

 しかし、その眼差しに陰りは見られなかった。


「しかも、ミダのやつは――いや、ミダ=ルウのやつは、収穫祭で何度も勇者の称号を得てるっていうんだろ? そんなの、俺たちにはとうてい真似できねえや」


「……あいつは昔から、力だけは誰にも負けなかったからな」


 ドッドも、ぽつりとつぶやいた。


「あいつには、いい意味でスン家の強い血が流れていたんだろう。俺なんて、スンとドムの血を引いているのに、このざまだけどな」


「ドッドは、ドムの血を引いていたのですか?」


 トゥール=ディンが驚いて尋ねると、ドッドは「ああ」とうなずいた。


「俺の母親は、ドムからスンに嫁入りした女衆だった。まあ、血の縁を絶たれた今では関係ねえけどな」


「そうだったのですか……」


 しかし、ドッドとミダ=ルウは4歳ていどしか年齢が離れていない。ということは、ドッドが物心つく前に母親は魂を返しており、そののちにミダ=ルウの母親がズーロ=スンに嫁入りを果たした、ということになるはずであった。


(5人もの兄弟がいて、その母親が全員違うなんて、他の家では絶対にありえないことだろう。この人たちも、わたしなんかには想像もつかない生を送ってきたんだろうなあ……)


 トゥール=ディンが知っているのは、その末に大変なひずみを抱え込むことになった彼らの姿だけであった。

 ディガもドッドも、ヤミル=レイもミダ=ルウも――何ならツヴァイ=ルティムだって、あの頃は恐ろしく感じられていた。きっとトゥール=ディンたち分家の人間は、彼らの存在を通して先代家長ザッツ=スンの毒に蝕まれていたのだろう。


 しかし、ザッツ=スン亡き今、彼らを恐ろしいと感じることはない。

 屋台の商売で縁を結んだヤミル=レイやツヴァイ=ルティムはもちろん、ミダ=ルウだってディガだってドッドだって、トゥール=ディンにとってはかけがえのない森辺の同胞であった。


「……おふたりにもドムの氏が与えられる日が訪れることを、わたしも心から待ち望んでいます」


 トゥール=ディンがそのように述べると、ディガはきょとんと目を丸くした。

 それから、にわかに手の甲で目もとをぬぐい始める。


「や、やめてくれよ。お前のその目には、弱いんだ」


「え? な、何がでしょうか?」


「何がでしょうかじゃねえよ。まいっちまうな、もう」


 ディガはその目に涙をたたえながら、にっと微笑んだ。

 そのかたわらに目を向けたトゥール=ディンは、思わず息を呑んでしまう。ドッドは『肉チャッチ』の木皿を手にしたままうつむいて、ぽたぽたと涙を流していたのだった。


「ど、どうされたのですか? わたしが何か礼を失していたなら、お詫びいたします」


「何の礼も失してはいないでしょうよ。あなたは罪作りな娘ね、トゥール=ディン」


 レム=ドムは陽気に笑いつつ、手ずから『ギバのモツ鍋』の二杯目をよそい始めた。


「あなたたちも、せいぜい氏を授かる前に魂を返してしまわないように、励みなさい。そうじゃないと、今度はトゥール=ディンを泣かせることになってしまうでしょうからね」


「ああ。俺たちの力なんてたかが知れてるだろうけど、それを惜しむつもりはねえよ」


 ディガはドッドの肩を小突いてから、残っていた『ケル焼き』を口の中にかき込んだ。


「俺たちだって、森辺の同胞として認められたいと、心から願ってる。……なあ、トゥール=ディン、お前に頼みたいことがあるんだけど……」


「はい、何でしょう?」


「ファの家のアイ=ファとアスタに、詫びの言葉を伝えてもらえねえか?」


 そう言って、ディガはわずかに身を乗り出してきた。


「俺とドッドは、まだあいつらにきちんと詫びたことがねえんだ。それで、氏を授かるまでは北の集落を出られない身だし、あいつらだってこっちに顔を出す機会なんてそうそうないだろうから、せめてお前に詫びの言葉を伝えてほしいんだよ」


「わかりました。お伝えいたします。……アスタもあなたがたのことは、とても気にかけていました」


「アスタが? あいつが俺たちのことを気にかける筋合いなんてねえだろ」


「そんなことはありません。あなたがたもアスタも、今では同じ森辺の同胞なのですから」


 ディガは、またその目に涙をにじませていた。

 しかし笑顔で、「そうか」と述べていた。

 ドッドのほうは、やはりぽたぽたと涙を流し続けていた。


「……そういえば、まもなくザザとハヴィラの婚儀だったわね」


 こちらの会話が一段落したと見て、レム=ドムが声をあげてくる。


「あれはけっこう大きな祝宴であったはずだけれど、そこにファの人間を招いたりはできないものなのかしら?」


「余所の氏族の人間を招く理由はない。婚儀というのは、血族で祝われるべきものだ」


 ディック=ドムが無表情に応じると、レム=ドムは横目でそちらをねめつけた。


「でも、ファの家を含む小さな氏族の祝宴には、ザザの人間が出向いたりもしたのでしょう?」


「あれは血族たるディンやリッドが道を踏み外したりはしないか、見届けに出向いたまでだ。ザザの祝宴にファの人間を招く理由はない」


「まったく、石頭ね。わたしだって、ひさびさにアイ=ファたちと会いたいのに」


 ディック=ドムは、黒く燃える目をディガとドッドのほうに移した。


「習わしを破ってまで、ファの家の人間を招くことはできん。お前たちも、アイ=ファやアスタに詫びたいという気持ちがあるならば、石にかじりついてでも生きのびろ。そうすれば、いずれは胸を張って彼らのもとまでおもむけるはずだ」


「ああ……わかっているよ、ディック=ドム。いずれあんたからドムの氏を授かれるように、死に物狂いで頑張ってみせるさ」


 ディガは、力強い声でそう応じていた。

 ドッドも、涙でくしゃくしゃになりながらうなずいている。

 そしてモルン=ルティムは、そんな彼らの姿を慈愛に満ちみちた眼差しで見守っていた。


(ディック=ドムは、立派な家長だな……こんなに立派な家長がいてくれれば、ディガもドッドもきっと大丈夫だ)


 トゥール=ディンは、心からそう思うことができた。

 そして、彼らが自分の血族であることを、心から嬉しく思うこともできたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ