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異世界料理道  作者: EDA
第三十章 群像演舞~三ノ巻~
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第五話 去りし日の恋物語(上)

2017.9/28 更新分 1/1 ・11/16 誤字を修正

 レイの本家のかまど小屋において、ラウ=レイは姉たちのかしましい声を聞きながら、ぐつぐつと煮える鉄鍋の中身をかき回していた。


「レイとリリンの婚儀の祝宴も、ついに7日後だね!」


「うんうん。こんなに大きな宴はひさしぶりだよねえ。楽しみだなあ」


「でも、婚儀の祝宴だから男衆の力比べはないんだよね。あたしは、それだけが残念だよ」


 ラウ=レイには、3名もの姉がいる。外見も気性もまったく似ていない姉たちであったが、共通点がひとつだけあった。それは、無類のおしゃべり好きである、という点である。


「力比べだったら、ついこの前ルウ家でやってたじゃん。だからこそ、リリンの家長もルウの眷族になることを許されたんだしさ」


「うんうん。4人の家長に勝ち抜くなんてすごいよねえ。さすがにルウとルティムの家長にはかなわなかったみたいだけどさあ」


「当たり前じゃん! ドンダ=ルウとダン=ルティムはルウの血族でも一番の勇者なんだから! あーあ、あたしも見に行きたかったなあ」


 ラウ=レイをかまど小屋に引っ張り込んでから、姉たちはずっとおしゃべりに興じている。ラウ=レイは、ついに限界を迎えてそちらに文句を言うことになった。


「お前ら、少しは静かにできないのか? 3人がかりでぎゃんぎゃんとわめきやがって……お前らの声は、頭に響くんだよ」


 一瞬だけ静かになった姉たちが、いっそういきりたって反撃をしてくる。


「ずいぶん偉そうな口を叩くじゃないのさ。末っ子は、黙って働きな!」


「そうだよお。年長の家族にお前とか言うのはいけないんだよお?」


「ちょっとばかり背がのびたからって、いい気になってるんじゃないの? あんたなんて、まだ見習いの狩人でさえないんだからね!」


「ああもう本当にやかましいな」と、ラウ=レイは溜息をつくことになった。

 当時のラウ=レイは12歳で、すでに一番上の姉よりも背が高くなっていたが、いまだに末っ子扱いされてしまっているのである。


 長姉は18歳で、赤みがかった褐色の髪をしており、いかにも我の強そうな面立ちをしている。すらりとした体格で、なかなか見目は整っているものの、女性らしい慎ましさは微塵もない。


 次姉は16歳で、黄褐色の髪をしており、姉妹の中では一番ふくよかな体格をしていた。性格は、きわめて温厚である。


 末妹は14歳で、黒褐色の髪をしており、それをきゅうきゅうに引っ詰めている。あんまり背は高くないが、身体を動かすのが大好きで、男衆の力比べなどではやたらと騒がしくする、血気盛んな娘であった。


 森辺の民は、祖父や祖母からも髪や瞳の色を受け継ぐことが多いので、ラウ=レイも含めて全員が異なる色合いをしている。なおかつみんな顔立ちも似ていないので、一見の相手には姉弟であると見破られることも少なかった。


「……もしかして、ラウだけおしゃべりに入れなかったから、寂しかったのかなあ?」


 と、次姉がにこにこと笑いながらそのように述べてきた。

「そんなわけがあるか」とラウ=レイは眉を吊り上げてみせる。


「だいたい、お前らは3人もいるのだから、俺の手伝いなど不要だろうが? まったく、面倒な仕事を押しつけやがって……」


「家の仕事はみんなで助け合うのが当たり前の話でしょ! いちいち文句を言うんじゃないよ!」


「そうだよ。あんたは暇にさせておくと、すぐに弱い者いじめをするんだからさ」


「弱い者いじめではない。狩人になるための修練だ」


「それが弱い者いじめだっていうんだよ! 12歳より下の男衆で、あんたにかなうやつなんてもうひとりも残ってないじゃないか」


 ざくざくとアリアを切っていた長姉が、きつい目つきでラウ=レイをにらみつけてくる。


「修練がしたいなら、家長や分家の狩人たちに稽古をつけてもらいな。あんたは人を泣かすより、もっと泣かされたほうがいいんだよ」


「狩人たちは、休息の期間でもないと手が空かないではないか。そうでなければ、俺だって最初から頼んでいる」


 仏頂面で言いながら、ラウ=レイは乱暴に鉄鍋の中身をかき回した。

 すると、次姉がいくぶん心配げな面持ちで横から覗き込んでくる。


「なんだか最近、ラウは機嫌が悪いみたいだねえ。もうすぐ祝宴なのに、楽しみじゃないのお?」


「ふん! 婚儀の祝宴などを楽しいと思えるのは、酒を飲める大人と浮かれた女衆だけだ」


 ラウ=レイがとげのある声を返すと、長姉がそれ以上にとげとげしく「こら!」と声をあげた。


「今回の祝宴は、リリンを眷族に迎える大事な祝宴なんだよ? しかも、婚儀をあげるのは分家のウル=レイだってのに、本家の長兄であるあんたがそんなことを言ってどうすんのさ!」


「……都合のいいときだけ、長兄扱いをするな」


 ラウ=レイは、いっそう険悪な気分になってしまう。

 ラウ=レイが不機嫌であったのは、まさしくその婚儀の祝宴が近づいていたためであったのだった。


 もっとも、このたびの婚儀に反対しているわけではない。分家のウル=レイは大事な血族であり、それを嫁に迎えるギラン=リリンという男衆は、とびきり立派な狩人であったのだ。

 リリンの家を眷族に迎えようというドンダ=ルウや父親たちの判断は、きっと正しいのであろうと思うし、何よりウル=レイもギラン=リリンとの婚儀を心待ちにしている。近しい血族であるウル=レイの幸福を、ラウ=レイは心から望んでいた。


 だから、不機嫌な理由は別にある。

 それはもっと自分本位でちっぽけな、それでいてラウ=レイにとっては何よりも重要な事柄であったのだった。


「あれ、サティ=レイ。もう毛皮のなめしは終わったの?」


 と、末妹がふいにそんな声をあげた。

 ラウ=レイの背後から、「はい」と澄みわたった声が響く。


「あまり大きな毛皮ではなかったので、すぐに片付けることができました。よければ、こちらを手伝います」


「ありがとー! 誰かさんと違って、サティ=レイは気がきくね! 母さんは家に戻ったのかな?」


「いえ、分家で幼子の様子を見てくると言っていました。あちらは新しい赤児が増えたばかりですしね」


 ラウ=レイは、ゆっくりと背後を振り返った。

 本家の家人のサティ=レイが、穏やかな笑みをたたえて、そこにたたずんでいる。


 サティ=レイは、次姉と同じ16歳。明るい褐色の髪と、深い色合いをした碧眼を持つ、ほっそりとした体躯の女衆である。

 これといって、他に際立った特徴はない。ラウ=レイの3人の姉たちと比べれば、ずいぶん大人しげに見える、ごく尋常な女衆であった。


 ただその面には、いつも年齢にそぐわない沈着な表情が浮かべられている。見る者を包み込むような、優しげでふわりとした表情だ。それが彼女を、森辺の集落でも特別な存在に仕立てあげていた。


 あるいはそれは、彼女の不幸な人生によってもたらされた風格であるのかもしれない。

 彼女は幼くして家族を失い、それで本家の家人になることになったのである。


 狩人が若くして森に朽ちるというのは、珍しい話ではない。しかし、父親も兄もいちどきに失い、おまけに母親まで病魔に倒れてしまうというのは、少なくともレイ家においてありふれた話ではなかった。


「ラウもいたのですね。よければ、わたしが代わりましょうか?」


 サティ=レイが、にこりと微笑んだ。

 普段通りの、たおやかな微笑みである。

 ラウ=レイは唇を引き結び、無言のまま鉄鍋をかき混ぜるための棒を受け渡した。


「今日はタラパを使っているのですね。とてもいい匂いです」


 サティ=レイが、ラウ=レイの横から鉄鍋の中身を覗き込む。

 彼女の身長も、ラウ=レイは去年の内に追い越していた。


 長くのばした褐色の髪が、夕暮れ時の日差しをあびて、きらきらと輝いている。

 それから目をもぎ離すようにして、ラウ=レイはきびすを返した。


「それじゃあな。俺は修練をしてくる」


 返事も待たずにかまど小屋の出口に向かうと、「あー、逃げた!」という末妹の声が追ってくる。

 サティ=レイは、どんな表情でラウ=レイを見送っているだろうか。

 少しは、名残惜しそうな顔をしてくれているだろうか。

 そんなことを考えながら、ラウ=レイは夕闇に包まれた屋外へと飛び出した。


 ラウ=レイは、年齢の離れた家人のサティ=レイに、生まれて初めての恋をしてしまっていたのだった。


                  ◇


 ラウ=レイとサティ=レイが出会ったのは、およそ6年ほど前のことだった。

 もちろん同じレイ家の人間であったのだから、それ以前にも顔をあわせてはいるのだろう。しかし、いくぶん年齢が離れているので一緒に遊んだ記憶はなく、名前もうろ覚えであったように思う。とにかく、ラウ=レイがサティ=レイをサティ=レイとして認識したのは、6年ほど前のことであったのだ。


 当時のラウ=レイは6歳で、サティ=レイは10歳である。

 その年に、サティ=レイはすべての家族を失って、本家の家人として招かれることになったのだ。


 血筋としては、おたがいの祖父が兄弟であるはずだった。

 おたがいの母親が姉妹であるウル=レイなどとは、ひとつ遠い血筋である。

 それでもサティ=レイは、本家に引き取られることになった。当時の母親がサティ=レイを不憫に思い、4人も5人も育てるのは一緒だ、と言い張ったためであった。


 そうしてサティ=レイとの暮らしが始まった。

 最初は、また女の家族か、としか思わなかった。3人の姉たちはとても楽しそうにしていたが、ラウ=レイはべつだん喜ばしいことだとも思わなかった。ただ、家族をいっぺんに失ってしまうなんて可哀想だな、と子供心に思ったまでである。


 それがいつしか、ラウ=レイにとっては特別な存在になっていた。

 サティ=レイは、姉たちのように騒ぐことはなかった。いつも静かで、落ち着いており、親の言いつけも正しく守っていた。しかし、いつも他者のことを思いやる優しい気性で、姉たちもラウ=レイもすぐに彼女と打ち解けることができたのだった。


 次姉を除くと、本家の子供たちはみんな気性が激しかった。ラウ=レイは姉たちを厄介に感じていたが、ラウ=レイだって姉たちには厄介だと思われていたはずだ。しかしサティ=レイはそれらのすべてと順当に絆を深めることがかない、一時期などは姉弟の間でサティ=レイの取り合いが生じるほどであった。


 そんな騒ぎも数年ほど経てば落ち着いて、今では全員が問題なくサティ=レイと仲良くしている。

 そんな中で、ラウ=レイには新たな気持ちが芽生えたのだった。


 サティ=レイのことは、ずっと大事に思っていた。もともとの家族たちと同じぐらい、大事に思っている。ただ、他の家族には抱きようのない感情――つまりは、恋心が芽生えてしまったのである。


 最初は、その意味がわからなかった。サティ=レイを見ていると、どうして胸がざわつくのか。こんなにそばで暮らしているのに、どうしてもどかしさや物足りなさを感じてしまうのか。他の家族たちとサティ=レイとは、いったい何が異なっているのか。幼いラウ=レイにはなかなか判別がつかなかったのだった。


 しかしラウ=レイも、今では12歳である。

 いまだに狩人としては働けぬ年齢であるものの、ここに至って自分の気持ちを見誤ることはなかった。

 穏やかで、優しくて、他者の気持ちをはかることに長けており、とてもひかえめでありながら、その内側には誰よりも強い芯を秘めている。そんなサティ=レイのことを、ラウ=レイはひとりの女衆として好いてしまっていたのだった。


 しかしまた、ラウ=レイが伴侶を迎えられるようになるには、あと3年ぐらいもかかってしまう。

 いっぽうで、サティ=レイはすでに16歳だ。

 その事実が、今のラウ=レイには何よりも重くのしかかってしまっていたのだった。


                   ◇


「おや、ようやく帰ってきたね。どこをほっつき歩いてたんだい?」


 半刻ほど経って、とっぷりと日が暮れてから、ラウ=レイは自分の家に戻った。

 広間には、タラパの酸っぱい香りがあふれかえっている。ラウ=レイからサティ=レイに引き継がれた汁物料理も、無事に完成されたようである。


「ほら、さっさと座りなよ。ちょうど晩餐の準備ができたところだからさ」


 声をあげているのは、母親だ。サティ=レイは汁物料理を木皿によそっており、姉たちがそれを敷物の上に並べていた。


「……親父はもう行っちまったのか?」


 なるべくサティ=レイのほうを見ないように気をつけながら、ラウ=レイは自分の席に腰を下ろした。

 母親は、「当たり前だろ」と笑っている。


「レイからルウまでは遠いんだからさ。今日は早めに仕事を切り上げて、明るい内から向かったはずだよ」


 7日後に、ウル=レイとギラン=リリンの婚儀があげられる。今日はその前祝いの初日であるため、レイ本家の家長であるラウ=レイの父親もルウ家に向かっているのだった。


 父親がいないと、レイの本家には女衆ばかりが残されてしまう。祖母と、母親と、3人の姉たちと、家人のサティ=レイ。ラウ=レイを除けば、すべてが女衆だ。最近のレイ家は、女系の一族だなどと冷やかされることも多かった。


「それじゃあ、いただこうか。今日のかまど番は、あんたたち4人だね?」


「いや、いちおうラウも手伝ってたよ。ほーんのちょっぴりだけだけどね!」


 末妹の発言によって、食前の文言にはラウ=レイの名も組み込まれることになった。

 本日の晩餐は、タラパとアリアのポイタン汁と、プラとアリアとネェノンを焼いたものであった。もちろん、どちらにもギバの足の肉がたっぷりと使われている。


「なんだか今日は豪勢だねえ。まるでちょっとした宴みたいじゃないか」


 祖母がそのように述べると、長姉が「まあね」と応じた。


「父さんだってルウ家で立派な晩餐を食べてるだろうから、こっちも対抗してやろうと思ったんだよ。ま、あたしらなりの、ウル=レイへのお祝いさ」


「あはは。ウル=レイに食べさせるわけじゃないんだから、あんまりお祝いになってないけどねえ」


 そのように述べながら、次姉は幸せそうにギバの足肉を頬張っている。

 確かにまあ、アリアとポイタンだけではなく、他に3種もの野菜を使っているのだから、豪勢であると言えるだろう。このような贅沢ができるのも、レイの狩人たちが十分な数のギバを狩っているおかげであった。


「それにしても、ウル=レイがリリンの家に嫁入りするなんてねえ。相手は、父親ぐらいも年齢の離れた狩人なんだろう?」


「うん。前の伴侶は、病魔のせいで魂を返すことになったらしいね。リリンってのは小さな氏族だったから、町で薬を買う銅貨もなかったんじゃないかな」


「でも、リリンの家長は立派な狩人だよ! なんてったって、うちの父さんを力比べで負かしたぐらいなんだからさ!」


 ギラン=リリンはその身の力を示すために、ルウの血族たる6氏族の家長たちと力を試し合うことになったのである。そこで土をつけられなかったのは、ドンダ=ルウとダン=ルティムのふたりきりであったのだった。


「ま、ウル=レイももう18歳だし、いいんじゃない? 婚儀をあげるにはちょうどいい年齢さ」


「ふふ。それを言ったら、あんただって同じ年だろう?」


「あたしはいいんだよ! レイの本家の長姉として、じっくり婿を選んでるんだから」


 そのように述べて、長姉はラウ=レイを横目でねめつけてきた。


「本家の跡取りがラウひとりじゃ頼りないからね。いざというときのために、あたしもなるべく立派な男衆を婿に迎えないと」


「家長はまだまだ元気なんだから、そんな心配をするのは早いだろうよ。……それにラウだって、次の年には立派な狩人になってるさあ」


「どうだかね! 背ばっかり大きくなったって、こんな女衆みたいな顔をしてるしさ!」


 ラウ=レイはどろどろとしたポイタンの煮汁をひと口すすってから、綺麗になめた匙を長姉の顔に投げつけてみせた。

 危ういところでそれをつかみ取った長姉が「何すんのさ!」と金切り声をあげる。


「うるせえよ! 狩人の力量に顔なんて関係ねえだろ!」


「はん! 首から上だけ覗かせたら、まるきり女衆なんじゃないの? ま、その目つきの悪さを差し引けば、だけど」


「目つきが悪いのはそっちだろうが! お前こそ、刀でも下げたら男衆に間違えられるかもな!」


「何を騒いでいるんだい。まったく、しょうもない子らだねえ」


 母親が、苦笑を浮かべている。

 4人もの子を生しているのに、すらりとした体格で、その面立ちも若々しい。そうして金褐色の髪をしているせいもあって、子供たちの中ではラウ=レイがもっとも母親似であると言われていた。


「とりあえず、晩餐の最中に匙を投げるんじゃないよ。また家長に頭を叩かれたいのかい?」


「ふん! 俺は売られた喧嘩を買っただけだ!」


「まったく、誰も彼も血の気の多い……ちっとはサティを見習いなよ」


 煮汁をすすっていたサティ=レイが、木皿を下ろしてやわらかく微笑む。


「でも、ふたりは心底からいがみあっているわけではないので、わたしは安心して見ていられます。思ったことを何でも言い合えるというのは、仲の良さの証でしょう」


「そうだといいんだけどねえ。いつまでたっても子供の面が抜けないから、あたしはちょいとばっかり心配だよ」


 にこにこと笑顔で食事を進めていた次姉が、そこで「あはは」と笑い声をあげる。


「姉さんは、ラウが自分より大きくなっちゃったのが悔しいんだよねえ。あと、ラウがもうすぐ13歳になって、狩人の仕事を始めるのが、心配なんじゃないかなあ」


「うるさいよ!」と、長姉が顔を赤くして妹の肩をひっぱたいた。

「痛いなあ」と言いながら、次姉は笑顔で新しい肉を頬張る。


「ラウだったら大丈夫だよ。何せ家長の血をひいてるんだし、身体もぐんぐん大きくなってるんだから、きっと立派な狩人になれるさ」


 そう言って、母親は少し遠い目をした。


「でも確かに、ラウもそんな年になったんだねえ。ウル=レイだって婚儀をあげるし、みんないつまでも子供じゃないってことか」


「そりゃあそうでしょ。あたしとラウ以外は、みーんな伴侶を迎えられる年なんだし」


 我関せずで肉をかじっていた末妹が、ふいにそんな声をあげる。


「でもまあ、本家で一番最初に伴侶を娶るのは、やっぱりサティかな? 姉さんたちは、お相手がいないもんね」


「いえ、そんなことは……」と、サティ=レイは困ったような微笑を浮かべる。


「だけど、そうでしょ? 今度の祝宴は眷族のすべてが集められるんだから、そこでますます絆を深められるじゃん。そうしたら、もう嫁入りも決まったようなもんでしょ」


「いえ、ですが……」と、サティ=レイは珍しくも目を伏せてしまった。

 その姿に、ラウ=レイは胸をしめつけられてしまう。


「この前の小さな収穫祭でも、サティはルウ家に行くべきだったんだよ。そうしたら、ウル=レイよりも先に婚儀をあげることになってたかもね!」


「ああ、確かにね。ルウの長兄も、サティが来てないからすごく残念そうな顔をしてたよ」


 長姉までもが、そのように言い出した。

 ラウ=レイはその手から木匙を取り返し、残っていた煮汁をすべて口の中にかきこんだ。


「相手が親筋だからって、何も遠慮することはないよ」


「そうそう。サティだって、レイの本家の人間なんだからさあ」


「うん。サティが嫁入りするのは寂しいけど、あたしたちも心から祝福するよ」


 ラウ=レイは、空になった木皿を放り捨てた。

 床に叩きつけなかったのが、せめてもの自制心のあらわれであった。

 そうしてラウ=レイが立ち上がると、母親がびっくりしたように振り返った。


「何だい、ラウ、どこに行くんだい?」


「食事が済んだから、出かけるんだよ。俺の勝手だろ」


「だから、こんな夜更けにどこへ出かけるっていうのさ。そんな勝手は通らないよ」


「うるせえな。女どもの声がやかましくて、頭が痛いんだよ。俺がいなけりゃ、好きなだけ騒げるだろ」


 ラウ=レイは、後ろも見ずに家を飛び出した。

 サティ=レイの前から逃げ出すのは、これで2度目だ。


 しかしラウ=レイには、それよりも正しい道を見出すことができなかった。

 これ以上あの場所に留まっていたら、きっと自分は我慢がきかなくなってしまう。それできっと、家族やサティ=レイを傷つけたり苦しめたりする言葉を吐いてしまうだろう。いかに直情的なラウ=レイでも、そんな行いを自分に許すことはできなかった。


(くそっ! どうして……どうして俺は、12歳なんだよ!)


 家を飛び出したラウ=レイは、その勢いのまま、集落の端にある大樹の幹を殴りつけた。

 もちろん大樹はびくともせずに、激しい痛みが拳に返ってくる。


 ラウ=レイは、月明かりを頼りに、その大樹をよじ登った。

 人間ふたり分ぐらいの高さを登ると、手頃な枝があったので、そこに腰を落ち着ける。

 ここならば、誰の目にとまることもないだろう。

 今は誰とも喋りたくなかったし、誰にも姿を見られたくなかった。


(サティは……きっとルウ家の長兄と婚儀をあげることになるのだろう)


 それは、誰しもが予見できる行く末であった。

 相手は親筋の、しかも本家の長兄なのである。そんな立派な相手から嫁入りを望まれて、それを断る女衆など存在するはずがなかった。


 ルウの血族は、年に1度の大きな収穫祭で、すべての人間がルウ家の集落に集められる。そのときに、両者は縁を結ぶことになったのだ。

 前回の大きな収穫祭は、およそ半年ほど前。その場で言葉を交わすサティ=レイとルウ家の長兄――ジザ=ルウの姿が、ラウ=レイの脳裏にはくっきりと刻みつけられてしまっていた。


 ジザ=ルウは、実に見事な男衆であった。年齢は、サティ=レイより2、3歳ほど年長であろう。ラウ=レイよりも背が高く、体格などは比べようもないほどがっしりとしている。ルウの本家の跡取りとして、申し分のない狩人であったのだ。


 ラウ=レイも本家の家長の長兄であったので、収穫祭に連れていかれることは多かった。10歳を超えてからは、小さな収穫祭でも欠かさず連れていかれたため、サティ=レイよりも早くからジザ=ルウの姿を目にしていた。


 最初に見たときは、優しそうな男衆だなと思っていた。

 しばらくすると、何だかおっかない男衆だなと思うようになっていた。

 ジザ=ルウはいつでもにこにこと微笑んでいるような顔つきをしていたが、年齢を重ねる内に、どんどん狩人としての風格を身につけることになったのだ。


 収穫祭の力比べでも、その変化は如実にあらわれていた。前回などは、たしか8名の勇者のひとりを打ち破っていたのだ。その後は別の勇者に敗れてしまい、ジザ=ルウ自身が勇者の称号を得ることはかなわなかったものの、それも時間の問題であるように思えた。


 そんなジザ=ルウが、サティ=レイに懸想してしまったのである。

 いや、サティ=レイのほうが、先に懸想したのだろうか。

 何にせよ、前回の大きな収穫祭において、ふたりはただならぬ雰囲気をかもしだしていた。サティ=レイもジザ=ルウも、とても幸福そうに微笑みながら、おたがいに相手のことを見つめ合っていたのである。


 それはラウ=レイの知らないサティ=レイの表情であった。

 サティ=レイが、あんな眼差しをラウ=レイに向けることはなかった。

 それでラウ=レイは、身をちぎられるような痛みを抱え込むことになってしまったのである。


(どうして俺は、サティより4年も遅く生まれてしまったのだ……もっと早く生まれていれば、俺だって……)


 ラウ=レイは、暗がりの中で煩悶した。

 それから、どれぐらいの時間が過ぎたのか――ラウ=レイが数えきれないほどの溜息を吐きだしたのち、下のほうから声をかけられることになった。


「そこにいるのは何者だ? こんな夜更けに、いったい何をやっている?」


 それは、ラウ=レイの父親の声だった。

 いつの間にやら、ルウ家に出向いていた父親たちが戻ってくる刻限になってしまっていたのだ。


 ラウ=レイは最後にもう1度溜息をついてから、下界を覗き見た。

 燭台の赤い火が3つ、ちろちろと燃えている。それにぶつからないように気をつけながら、ラウ=レイは大樹の下に飛び降りた。


「何だ、ラウだったのか。スン家のぼんくらどもが忍び込んだのかと期待してしまったではないか」


 ラウ=レイの父親が、勇猛な顔で笑っていた。

 残りのふたりは、ウル=レイとその父親だ。娘を背後にかばっていた父親は、ほっとした様子で息をついていた。


「で、お前はいったい何をやっていたのだ? 夜には家を出るなと言いつけただろうが?」


「……木の上だったら危険な獣が寄ってくることもないだろうと思ったのだ」


 仏頂面でラウ=レイが答えると、父親は「ふむ」と顎を撫でた。

 それほど背は高くないが、逞しい身体つきをしており、口の周りには赤褐色の髭を生やしている。そして一番の特徴は、右の目が大きな古傷でふさがれていることであった。


「とりあえず、お前たちは家に帰るといい。明日に備えて、ゆっくり眠るのだぞ」


「はい。では、また明日に」


 ウル=レイとその父親が、自分たちの家に帰っていく。

 その後ろ姿を見送ってから、父親はラウ=レイに燭台の火を突きつけてきた。


「しみったれた顔をしているな。最近は元気のない様子だったが、今日はとびきりのひどさだ」


「……言いつけを破ったのに、殴らないのか?」


「ふん。そんなしみったれた顔をしたやつを殴る気にはなれんな」


 父親は、大樹の根もとにどかりと座り込んだ。


「まあ、座れ。家に戻りたくないなら、少しぐらいはつきあってやる」


 ラウ=レイは迷ったが、ここは父親に従っておくことにした。

 燭台を地面に置いた父親は、普段通りの面持ちで暗闇に視線を飛ばしている。


「最近は、ルウの血族の誰もが浮きたっている。十数年ぶりに新しい眷族を迎えることになったのだから、まあ当然だ。しかもリリンの家は、小さいながらもルウの眷族に相応しい力を持つ氏族だからな」


「…………」


「そんな中、ひとりでしみったれた顔をしているのはつまらないと思わんか、ラウよ?」


「……つまるつまらないの話ではない。俺には俺の事情があるのだ」


「そうか。今ならやかましい女どももいないが、それでも俺に話す気にはなれんか?」


 ラウ=レイはしばし葛藤してから、「なれない」と言い捨てた。


「親父に話したところで、俺の苦しさが軽くなるわけではないからな。そんな無駄なことはしたくない」


「そうか。少し前までのお前だったら、そのような鬱憤をひとりで抱え込むなど絶対にできなかっただろうにな」


 そう言って、父親は愉快そうに笑った。


「お前ももう12歳か。少しは中身も成長しているようで安心したぞ、ラウよ」


「ふん。余計に子供扱いされている気分だ」


「しかたあるまい。12歳は、子供なのだ。13歳の生誕の日を迎えて、見習いの狩人として森に出るまで、男衆はみんな子供だ」


 そこで父親は、ようやくラウ=レイのほうに向きなおった。


「ラウよ、お前が立派な狩人になる日を待っているぞ。俺はできるだけ、お前に家長の座を継いでもらいたいのだ」


「今さら何を言っている。俺の他に男衆はいないのだから、どうしたって家長を継ぐのは俺だろうが?」


「ただの家長ではない。本家の家長だ。お前が一人前の狩人になる前に、俺が魂を返してしまったら、家長の座は3人の姉たちの婿か、あるいは俺の弟にでも引き継がれてしまうだろう? それはそれで森の思し召しだが、俺はやっぱりお前にレイの一族を導いてもらいたいと願っている」


 ラウ=レイはますます混乱しながら、父親の顔を見つめ返すことになった。


「まともな力を持つ男衆であれば、2年ていどで一人前の狩人になることができるのだろう? 俺はあと半年ていどで13歳になるのだから、一人前になるまで2年と半年だ。親父がそれまでに魂を返すことなんてありえないはずだろう」


「ああ。俺だって、そんな早々に魂を返すつもりはない。しかし、片目の狩人が長々と生きられるほど、ギバ狩りの仕事は甘いものではないのだ」


 父親は、髭だらけの口もとで、にっと笑った。


「俺はおそらく、老いて刀を置く前に、森に朽ちることになるだろう。いや、老いるどころか、3年も持てば上等だと考えている。だからその前に、お前が一人前になる姿を見届けたいんだよ、ラウ」


 ラウ=レイは、なんと答えればいいかもわからなかった。

 そんなラウ=レイの頭に手を置いた父親が、髪をくしゃくしゃとかき回してくる。


「だからお前も、そんなしみったれた顔をするな。悩むぐらいなら、暴れちまえよ。そうしたら、少しはマシな気持ちになれるだろうさ」


「……俺たちの気性が荒いのは、絶対に親父の血筋だな」


「当たり前だ。お前たちは、俺の子なんだからよ」


 そうして最後にラウ=レイの頭を荒っぽく小突いてから、父親は立ち上がった。


「それじゃあ、そろそろ家に戻るか。賭けてもいいが、家族たちは全員眠らずにお前の帰りを待っているぞ。そこできちんと頭を下げなかったら、顔の形が変わるまで殴ってやるからな」


「わかったよ」と答えながら、ラウ=レイも立ち上がった。

 その胸には、ひとつの決意が固まってしまっていた。

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