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異世界料理道  作者: EDA
第三十章 群像演舞~三ノ巻~
511/1682

    黒き騎士の忠誠(下)

2017.9/27 更新分 1/1

 リフレイアとの対面を果たしてから3日間、サンジュラはずっとジェノスの宿場町に留まっていた。

 サイクレウスたちに無断でジェノスを離れることは許されていない。だから、仕事のない期間はこうして商人のふりをしながら宿を転々としなければならないのだ。


 もちろん城下町のほうが安全で快適な宿屋は多かったが、サンジュラは宿場町で過ごすことのほうが多かった。城下町に逗留するほうが人目につきやすいし、それに、宿場町の粗野で雑多な宿屋のほうが、自分の立場には相応しい気がしたのだった。


(もともと私は、城下町への出入りが許されるような立場でもない。自分の素性を明かすことさえ許されない、日陰の存在であるのだ)


 薄汚い宿屋の食堂の片隅で、サンジュラはひとり果実酒をあおっていた。

 まだ太陽も沈みきっていない、夕暮れ時のことである。こんな時間から酒をあおっているのは、いずれも真っ当でない身なりをした無法者ばかりであった。


 ジェノスは豊かな町であるので、宿場町には無法者も多い。特にこの宿屋は、そういった輩の集まりやすい裏通りの安宿であった。

 しかし、頭巾をかぶっていても黒い肌の覗いているサンジュラには、近づいてくる者もいなかった。東の民は毒を扱うので、無法者もそうそうちょっかいを出そうとはしないのである。


(もっとも、西で生まれ育った私には、毒草と薬草の区別もつかないがな)


 そんな益体もないことを考えながら、サンジュラは新しい酒を要求するために手を上げてみせた。

 サンジュラよりも少し若そうな娘が「はいよ」と気安く声をあげて近づいてくる。


「……果実酒、もう一杯、お願いします」


「果実酒だけでいいの? 少しは食べ物も腹に入れないと、身体に悪いんじゃない?」


 サンジュラは無言のまま、赤銅貨の割り銭を卓に置いてみせた。

 若いくせにむやみに肉感的な身体つきをした娘は、恐れげもなく「何だい」と片方の眉を吊り上げる。


「せっかく親切心で言ってやってるのにさ。シム人ってのは、どうしてこうも愛想がないんだろうね!」


「……果実酒、お願いします」


「あー、はいはい。少々お待ちくださいませ、だ」


 娘が奥のほうに引っ込んでいくと、その母親らしき女が心配そうな面持ちで何か呼びかけていた。きっと東の民にいらぬ口を叩くなと注意しているのだろう。


 こんな場末の宿屋でも、やはり親と子の間には温かな関係が築かれているのだ。

 サンジュラの懐には、つかいきれないほどの銀貨が隠されている。それでも、より幸福な生を歩んでいるのはあの親子たちのほうなのだろうと思えてならなかった。


「そういえば、おかしな噂を耳にしたんだよな」


 と、ひとつの空席をはさんで馬鹿騒ぎをしていた無法者のひとりが、そんな風に語り始める声が聞こえてきた。


「北のベヘットの宿場町でよ、《黒死の風》の姿を見たってやつがいたんだよ」


「《黒死の風》? あいつらは去年、親玉から下っ端まで全員ジェノスの護民兵団にとっ捕まって首を刎ねられただろ?」


「ああ。そいつらが、ベヘットの宿屋で大騒ぎしてたって噂なんだよ。宿中の酒樽を買い上げて、そりゃあたいそうな羽振りだったって話だぜ」


「だから、死人がどうやって酒を飲むんだよ? ただの見間違いだろ」


「ひとりやふたりだったら見間違いってこともあるだろうけど、そいつは《黒死の風》と古いつきあいがあったから、どいつもこいつも見知った顔だったんだってよ。それで、慌てて宿屋を飛び出したそうだ」


「何でだよ? 顔なじみなら、酒を分けてもらえばいいじゃねえか」


「馬鹿野郎、ジェノスで処刑したって布告のされてる盗賊団が丸ごと生き残ってたんだぞ? それが本当なら、ジェノスの貴族の誰かがあいつらをこっそり逃がしたってことじゃねえか。そんな厄介な連中に近づいたって、ロクなことになりゃしねえよ」


「ふうん。そんなもんかねえ」


「だいたい《黒死の風》ってのは、盗賊団の中でもとびきり性悪な連中だったからな。金品を奪うだけじゃなく、襲った相手を皆殺しにしないと気の済まない狂った獣みたいな奴らなんだよ。俺だったら、貴族の一件がなくたって近づきたくもないね」


「へーえ、そいつは剣呑だ。……だけどさ、そんな凶悪な連中を、どうして貴族が逃がしたりするんだよ? そんなことしたって、貴族には何の得もねえだろ?」


「知らねえよ。案外、貴族の手先に成り下がって、殺しの仕事でも請け負ってるのかもな。仁義を知らねえ連中だから、それぐらいのことはやりかねねえさ」


「なるほどねえ。《赤髭党》とは大違いだ」


「お、懐かしい名前だな! そういえば、《赤髭党》といえば――」


 サンジュラは、そこまでしか聞いていなかった。

 席を立ち、よろめく足で出口を目指す。


「あれ? あんた、この酒はどうすんのさ!?」


 娘の声が追いかけてきたが、サンジュラはかまわず宿屋を出た。

 空は紫色に染まり、日没が近いことを告げている。

 しかし、完全に日が没さない限り、城下町に入ることはできる。

 サンジュラは黒い激情に衝き動かされるままに、石の街道をひた走った。


(やはり……やはりあいつらは、自分の私腹を肥やすために、罪もない人間を殺めているだけなのか?)


 このような思いにとらわれるのも、これが初めての話ではなかった。

 宿屋には、実にさまざまな噂話が飛び交っていたのである。


 そのひとつに、バナームとの通商はことごとく失敗する、というものがあった。

 古くは6年前、国をあげての使節団が《赤髭党》という盗賊団に皆殺しにされるところから始まり、それ以降も、ジェノスとバナームを行き来しようとする商団は不慮の事故にあうことが多いようであるのだ。


「ま、バナームはフワノとママリアで知られる町だからな。トゥランの伯爵様なんかは、バナームなんかと縁を結ばずに済んで、ほっとしてるんじゃねえか?」


 そんな風に揶揄する者もいた。

 トゥランもまたフワノとママリアの産地であるため、バナームとの通商が始まると大損をすることが確定されているようだった。


 それ以外にも、ジェノスの貴族には常に黒い噂がつきまとっている。

 特に宿場町の民などは、貴族に対して強い不満を抱いている様子だった。


「あいつらは、自分の損になるような真似は絶対にしないからな」


「森辺の民なんて、町で悪さをしてもみんな野放しだしよ」


「けっきょく泣きを見るのは、いつも俺たちだ」


 聞き耳を立てていなくとも、そんな声は毎日のように聞こえてきた。

 それがまた、サンジュラの心を嫌というほど蝕んでいくのだった。


(私はいったい、何のために生きているのだ? 悪辣な貴族に加担するために、私は生まれてきたのか? それが――サイクレウスの子として生まれてきた人間の宿命であったのか?)


 城門は、まだ開いていた。

 いつものように通行証を出して、トゥラン伯爵邸を目指す。


 確固たる目的など、何もなかった。

 ただサイクレウスに、思いのたけをぶつけてしまいたかったのだ。


 それでジェノスを放逐されるなら、かまわない。

 サイクレウスが秘密を守るためにサンジュラを害しようとするならば、それもひとつの答えである。サンジュラには、この世界に生きる価値も意味もなかったということだ。


 まったく突然の来訪であったが、屋敷の守衛にあやしまれることはなかった。したたかに酒が入っていたが、この黒い肌ではあまり表に出ることもない。果実酒の香りぐらいは漂っていたであろうが、それで立ち入りを禁じられることはなかった。


 またあのマヒュドラの娘が出てきて、サンジュラを邸内へと招き入れる。

 そして彼女は、3日前と同じ台詞を口にした。


「あの……伯爵様はお出かけになられていますので、シルエル様のもとにご案内するよう言いつけられているのですが……それで間違いはなかったでしょうか……?」


 サンジュラは、立ちくらみのような感覚を覚えた。

 しかし、「はい」としか答えようはなかった。


「今日は何用だ? お前を呼びつけた覚えはないぞ」


 シルエルは、今日もひとりで果実酒を楽しんでいた。

 サンジュラは内心の激情を抑え込みつつ、あたりさわりのない言葉を発する。


「3日間、仕事がなかったので、様子、うかがいに参りました。私、仕事、ありませんか?」


「仕事があれば、こちらから連絡する。今さら何をほざいているのだ」


「……仕事、なければ、どこかの町、向かいたい、思いました。許し、いただけるでしょうか?」


「それは、兄上と話さなければ何とも言えんな。5日後にでもまた出直すがいい」


「5日後? ……伯爵様、いったいどちらに?」


「ダバッグだ。またカロンのことで何やかんやと話す用事ができたらしい」


 そう言って、シルエルは下卑た笑い声をあげた。


「まあ、あの古ぼけた別邸をようやく手放したので、今頃はダバッグ伯爵邸で歓待されているだろうさ。ダバッグには肉づきのいい女が多いので、羨ましいことだ」


「……そうですか」


 この男は、サンジュラが心情をぶつけるのに相応しい相手だとは思えなかった。


「それでは、帰ります。……リフレイア姫、ご様子、いかがですか?」


「ああ、相変わらずの暴君っぷりだ。あれはもう一生の病気だな。お前のことは気に入った様子だから、また少しでも機嫌をなだめることができれば、小姓どもが助かるだろうさ」


「では、帰る前、また少し、お話をさせていただきます」


 サンジュラは一礼して、部屋を出た。

 そして侍女に、リフレイアの部屋までの案内を願う。


「かしこまりました……もしかして、あなたは3日前に姫様のもとをお訪ねになられた御方であったのでしょうか……?」


「ええ、その通りです」


 この侍女は、頭巾をかぶったサンジュラの姿しか見ていないのだ。これでは他のシムの商人たちとの見分けもつかないことであろう。


「それは失礼いたしました……姫様は、あなたのお話にたいそう心を慰められたご様子でありましたわ……」


「そうですか」としか答えようはなかった。

 サンジュラは胸中に芽生えた黒い感情を隠しながら、適当な旅の話を聞かせただけであった。正直に言えば、どのような話をしたのかもあまり覚えてはいない。


(きっと私は彼女と言葉を交わしてしまったために、これほど心を乱すことになったのだ)


 正確には、この一年間で蓄積された鬱憤が、リフレイアとの交流で決壊してしまった、というべきだろうか。

 だからサンジュラは、宿屋で愚にもつかない噂話を耳にしただけで、これほどまでに取り乱すことになってしまったのだ。


 彼女は、何もかもを持っている。

 自分は、何も持っていない。


 彼女は、光り輝いている。

 自分は、澱んだ泥の中に沈みかけている。


 おそらくサンジュラは、彼女に嫉妬してしまっているのだった。


(私が彼女を亡き者にしたら、サイクレウスはどれほど怒り狂うだろうか。私などを自分の手もとに招き寄せたことを、一生後悔し続けるのだろうか)


 酔いで濁った頭の中に、そんな妄念が渦巻いている。

 そんなことも知らぬげに、侍女は木造りの扉を叩いた。

 3日前と同じように、次の間にはムスルだけが待ちかまえていた。


「またお前か。刀と外套を預からせてもらおう」


 言われた通りに刀と外套を卓に置いて、全身をまさぐらせる。

 そうしてムスルが奥の扉に向きなおった瞬間、サンジュラは胸もとから取り出した織布をムスルの口もとにあてがった。


 2日前、町で知り合ったシムの民から買い求めた、睡眠の薬である。

 シルエルの部屋からここまで案内される間に、その薬をこっそり織布に染み込ませておいたのだ。


 ムスルは一瞬もがいたが、すぐにくたくたと脱力して動かなくなってしまった。

 商人から聞いていた以上の効き目である。


 ムスルの巨体をそっと横たえてから、サンジュラは刀と外套を取り戻した。

 そして、外套の物入れから、薬の小瓶を取り出す。

 小瓶には、まだ半分ていどの液体が残されていた。


 これは強力な薬であるため、香りを嗅がせるだけで人間を昏倒させることができる。さらに、それをひと口でも飲み込めば、永遠の死がもたらされるのだと聞いていた。


 どうしてサンジュラは、このような薬を買い求めてしまったのだろうか。

 自分が、楽に死ぬためか。

 自分でない誰かを、楽に死なせるためか。

 わずか2日前のことであるのに、サンジュラには自分の気持ちがまったくわからなくなっていた。


(何にせよ、刀で斬られるよりは楽に死ぬことができるだろう)


 サンジュラは外套を身に纏い、小瓶を握りしめたまま、奥の扉をそっと引き開けた。

 リフレイアもまた、ひとりで長椅子に座していた。

 長椅子に座して、ぼんやり窓の外を眺めている。


 その横顔を見た瞬間、サンジュラは愕然と立ちつくすことになった。

 サンジュラは、その横顔を知っていたのだ。

 凛々しくもあり、はかなげでもある、それはサンジュラの胸を疼かせてやまない追憶の中の横顔であった。


(どうして……どうしてお前が、そんな顔を……)


 サンジュラの母親は、鳥かごに囚われた小鳥のごとき存在であった。

 どれほど豪華な鳥かごであったとしても、そこからもたらされるのはどうしようもない孤独感だ。サンジュラがそばにあっても満たされることのない孤独感に、母親は魂を天に返す最後の瞬間まで苛まれていたのである。


(お前は家族に囲まれて生きているのに……何の不自由もない貴族の姫君であるのに……どうしてお前が、そんな顔をしているのだ? お前はいったい、誰のことを待ちわびているのだ?)


 サンジュラは半ば無意識の内に歩を進めて、扉を閉めた。

 その音で、幼き姫君がぎょっとしたようにこちらを振り返る。


「な、何よあなたは? 誰の許しがあって、わたしの部屋に踏み込んできたの?」


「……失礼いたしました。警護の御方、眠っておられましたので」


 ほとんど夢うつつの状態で答えながら、サンジュラは外套の頭巾をはねのけた。


「私、サンジュラです。シルエル様、ご命令で、お部屋をお訪ねしました」


「ああ、あなたなの。……ムスルが眠っていたって? あいつ、馬鹿なのかしら。あとで花瓶の水でもかけてやるわ」


 そのようにまくしたてつつ、リフレイアは何やら惑乱している様子であった。

 頼りなげに目を泳がせており、年齢相応の幼げな顔つきになってしまっている。サンジュラを恐れている様子はないので、はからずも無防備な姿をさらしてしまったことに慌てふためいているように見えた。


「……座ること、許していただけますか?」


「え? ああ、勝手に座ればいいじゃない。あんたみたいにひょろ長いのが立っていたら、目障りでしかたないし!」


 サンジュラが長椅子に腰をおろすと、リフレイアは疑り深そうにじっとにらみつけてきた。

 自分のあられもない姿を盗み見たかどうか、それを探っているかのような眼差しである。


「リフレイア姫、私、謝罪をせねばなりません」


「しゃ、謝罪? いったい何を謝ろうっていうの? まあ、貴婦人の部屋に無断で入ってくるなんて、護衛役の武官が居眠りをするのと同じぐらい許し難いことだけど――」


「いえ。私、虚言を吐いていたのです」


 リフレイアは、けげんそうに眉をひそめた。

 自分の気持ちも考えも見失ったまま、サンジュラは心に浮かんだ言葉を発する。


「私、商人ではありません。私、サイクレウス伯爵、部下であるのです」


「部下? 部下って、どういうことよ?」


「伯爵、命令で、さまざまな仕事、果たしています。そのために、セルヴァの色々な町、巡っているのです」


「……よくわからないわね。だったら、どうして身分を偽っていたの?」


「私、正体、秘密であったのです。秘密の仕事、命じられているために、正体、隠さねばならなかったのです」


 リフレイアは、ますますうろんげな顔つきになっている。

 その幼くも整った顔を見つめながら、サンジュラは言葉を紡いでいった。


「だけど、今、仕事を続けること、迷っています。伯爵、心情、わからないためです」


「心情って? わたしには、あなたのほうがよくわからないわよ」


「伯爵、善人か、悪人か、わからないため、従うべきかどうか、迷っているのです」


 するとリフレイアは、「はん」と小馬鹿にしきった声をあげた。

 ようやく普段の傲岸さが戻ってきたようだ。


「善人か悪人かなんて、そんな簡単に割り切れるわけではないでしょう? それじゃあ、あなたは善人なの?」


「善人でありたい、思いますが、なかなか難しいです」


「そりゃあそうでしょう。誰だって、悪人なんかになりたくはないわよ。でも、自分は根っからの善人ですなんて言い張るやつがいたら、わたしは頭からお茶をかけてやるわ」


「……伯爵、善人、思いますか?」


 なおもサンジュラが問いかけると、リフレイアは一瞬きょとんとしてから、声をあげて笑い始めた。


「あなた、本当に父様の手下なの? そんなことを娘のわたしに問い質そうだなんて、ちょっとどうかしてるんじゃない?」


「でも、サイクレウス伯爵、もっともよく知る人間、あなた、思いました」


 すると、リフレイアの顔から笑いがかき消えた。

 今度はふつふつと、怒りの表情がたちのぼってくる。


「知らないわよ! 父様なんて数日にいっぺんしか顔をあわせないし、顔をあわせたところで内心を覗かせたりしないもの! あの人は、美味しい食事と銀貨にしか興味がないのよ!」


「……だけど、家族なのでしょう?」


「家族だったら、愛し合うのが当然だとでも言うつもり? そんなのは、誰かがこしらえた嘘っぱちだわ! 吟遊詩人の語る戯言のほうが、まだしも信じられるぐらいでしょうね!」


 リフレイアは、手の平でおもいきり長椅子の座席をひっぱたいた。

 その大きな瞳には、うっすらと涙がにじんでしまっている。


「母様が魂を召されたときだって、あの人は涙のひとつもこぼさなかったわ! あの人には、人を愛する心なんてないのよ! それとも、人を愛するのが怖いのかしらね! 真実が知りたいのだったら、本人に聞いてみればいいわ!」


「……伯爵夫人、魂、返されていたのですか」


「ええ、そうよ! 母様はわたしを置いていってしまったし、父様はわたしを見ようともしない! 後に残るのは、あの暴力をふるうしか能のない叔父様だけね! なんて心の温まる話なのかしら!」


 まるで尻尾を踏まれた獣のような怒りっぷりであった。

 これこそが、侍女や小姓の恐れる幼き暴君の、真の姿であったのだ。


「伯爵家だなんて偉ぶっていたって、これが現実よ! 父様に愛想を尽かしたなら、とっととジェノスを出ていけば? まあ、銀貨が欲しいんだったら、陰で笑いながら尻尾を振ってればいいでしょうよ!」


「……あなた、父君、愛していないのですか?」


 リフレイアが、涙の浮かんだ瞳をぎらりと輝かせる。


「わたしの話を聞いていなかったの? わたしが父様を愛する筋合いなんて、どこにもないわよ!」


「でも、家族であれば、断ち切れぬ思い、生じるのではないでしょうか?」


 そうでなくては、さきほどの表情の理由がつかなかった。

 リフレイアは小さな唇を噛みしめて、サンジュラを親の仇のようににらみつけてくる。


「……だからこそ、苦しいのでしょう? 愛しても愛されてもいない相手でも、家族だから捨てることもできない。そうじゃなかったら、誰も苦しんだりはしないわ」


「ああ……それならば、わかります」


 愛されたいのに、愛されない。愛したいのに、愛せない。それなのに、血の縁を絶つこともできなければ、あとは苦しむしか道もないのだ。


(しかも、自分は愛されているのかもしれない、という思いを完全に捨てきることができなければ……苦しさもいや増すばかりだろう)


 そうであるからこそ、サンジュラもジェノスを去ることがかなわなかったのだった。

 自分はないがしろにされているのだと思いながら、どこかに一片でも愛情が隠されたりはしていないのか――と、そんな希望を捨て去ることがかなわないのである。


「……あなたはさぞかし温かい家族に囲まれていたのでしょうね。東の民は、西の民よりも血の絆を重んじるという話だったものね」


 リフレイアが、咽喉にからんだ声でそのように問うてきた。

 サンジュラは、ゆっくりと首を振ってみせる。


「私、東の民、ありません。西で生まれた、西の民です。以前、お話しした通りです」


「でも、父親か母親のどちらかは東の民だったのでしょう?」


「母親、東の民でした。母親、生きていた頃、幸せであった、思います。母親、失ったため、道を見失ってしまったのでしょう」


「……それじゃあ、西の民である父親は?」


 サンジュラは迷ったが、すべてをここで打ち明けてしまうのは間違いであるように思えた。


「父親、知りません。母親、何も語ろうとしませんでした。私、家族、母親のみでした」


「……そう。それなら、わたしと似たようなものね。わたしも母様が生きていた頃は、今よりもうんと幸せであったわ」


 リフレイアは手の甲で目もとをこすると、つんとそっぽを向いてしまった。


「あなたって、おかしなやつね。普段だったら、3回ぐらいは花瓶を投げつけているところよ」


「そうですか。色々な話、聞かせていただき、ありがたく思っています」


「……それで、あなたはどうするわけ? これからも、父様の下で働き続けるの?」


 それは、難しい問いかけであった。

 しかし、ひとつだけ定まっていることもあった。


「働きます。ジェノス、離れがたい、思いました」


「ふうん? まあ、父様に逆らったら、とうていジェノスにはいられないでしょうからね」


「はい。私、この地、留まります」


 すべてを捨てて立ち去ることは、いつだってできる。

 しかしサンジュラはその前に、もっとさまざまなことを知る必要があった。


 自分の父親はどのような人間であるのか。

 自分の妹はどのような人間であるのか。


 自分はサイクレウスを愛することができるのか。愛されることができるのか。

 自分はリフレイアを愛することができるのか。愛されることができるのか。


 その内のひとつでも達成することができれば、サンジュラは自分の生まれてきた意味や価値を見いだせるかもしれない。今は、そんな希望に取りすがるしかなかった。


(それでも、これまでよりは分の悪い賭けでもないだろう)


 サイクレウスは頑なに心を閉ざしてしまっているが、リフレイアはこれほどまでにあけっぴろげである。この、弱くて高慢で危うげな少女であるならば、すぐにでもすべてをさらけ出してくれそうであった。


(私には、もはや人から愛される資格などないのかもしれない。それでも、誰かを愛することさえできれば……きっと、絶望せずに生きていくことができるだろう)


 そんな風に考えながら、サンジュラはずっと手の中に握りしめていた薬の小瓶を、そっと外套の内側にしまい込んだ。

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