第四話 黒き騎士の忠誠(上)
2017.9/25 更新分 1/1
記憶の中の母親は、いつも憂いげな表情をしていた。
特によく覚えているのは、その横顔である。母親はじっと窓の外を見つめていることが多かったため、幼かった彼もその横顔を見つめる機会がもっとも多かったのであろうと思われた。
椅子に浅く腰かけて、背筋を真っ直ぐにのばして、窓の外を静かに見つめている。その姿は、凛々しくもあり、はかなげでもあった。それは、何よりも母親を敬愛している彼にとって、うずくような胸の痛みを誘発される姿であった。
『母上は、どうしていつもそのように寂しげなお顔をしているのですか?』
まだずいぶん幼かった頃、そのように尋ねたことがある。
母親は、ひどく驚いた様子で目を見張った後、とても申し訳なさそうに目を細めていた。
『何も寂しいことはありませんよ。あなたさえそばにいてくれたら、私は幸せなのですから』
それが彼を安心させるための虚言であるということはすぐに察せられたが、それ以上言葉を重ねることはできなかった。また、大事な母親を悲しませたくなかったので、それ以降は二度とそのようなことを尋ねたりもしなかった。
彼ら母子が暮らしていたのは、ダバッグという町の郊外である。
丘の上に建てられた、大きくて古い屋敷だ。建物は石塀に囲まれていたが、もともと高台に建てられていたため、眼下にカロンの牧場を見下ろすことができる、たいそう立派な屋敷であった。
もちろん、この屋敷の主人は貴族であった。
母親は、貴族からその留守を任されている立場であったのだ。
この屋敷は別邸であるので、主人の貴族は年に数回しか立ち寄らない。残りの時間は、母親を筆頭とする使用人たちが住み込んで、部屋の掃除や庭の手入れなどに勤しんでいるのだった。
しかし、彼がその事実を知ったのは、けっこう後になってからのことである。
少なくとも、7、8歳ぐらいになるまでは、母親こそがこの屋敷の主人であるのだと誤認してしまっていた。
それは、他の使用人たちが母親に対して恭しくかしずいている姿を何度となく目にしたことがあったためだった。
他の使用人たちは毎日忙しそうに働いているのに、母親は、日がな編み物をしたり読書をしたり、みんなのためにお茶をいれたりするぐらいで、とても優雅に振る舞っている。そして彼にも家の仕事を課せられることはなく、剣の扱いやトトスの乗り方、西の言葉の読み書きなどを習わされていたので、自分たちは使用人とは異なる立場にあるのだと思い込んでしまっていたのだった。
その認識は、半分当たっており、半分外れていた。
彼と母親は、周囲の者たちとは異なる立場であった。だけどやっぱり、使用人に属する存在ではあったのだ。
彼がそれをまざまざと思い知らされたのは、10歳になる少し前のことであった。
ひさびさに貴族が屋敷を訪れて、また帰っていった後、母親からその事実を知らされることになったのだった。
『あなたもあの御方のお役に立てるように励みなさい。それこそが、あなたにとって一番の崇高なる使命なのですから』
母親は、そのように述べていた。
彼には、あんまり納得がいかなかった。
『僕はあの人のことを何も知りません。そんな人間のために、どうして僕が忠義を尽くさなければならないのですか?』
『……あの御方が、私たちの主人であるからですよ。私たちがこうして何の不足もなく生きてこられたのは、すべてあの御方のおかげなのです』
『そうだとしても、僕にとって一番大事なのは母上です。僕は母上さえいてくだされば、それで幸せなのです』
母親は、とても悲しげな目つきで首を横に振っていた。
『それならば、どうか私のためだと思って、あの御方にお尽くしなさい。あなたにとっても、それが一番正しい道であるはずなのです』
やっぱり彼には、納得がいかなかった。
しかし、母親に悲しい顔をさせたくなかったので、その場では何も言い返さずにおいた。
それからは、これまで以上に習い事を頑張ることにした。
自分と母親の生活を守るために、立派な人間にならなければならないと決意したのだ。
ときおり訪れる屋敷の主人は、どうにも気に入らない。外見からして薄気味悪い小男であるし、使用人に対する横柄な態度も気に入らなかった。そして何より、母親がその小男の来訪を心待ちにしているように見えたのが一番癪にさわったのだった。
母親を悲しい気持ちにさせていたのは、あの貴族の小男であったのだ。
母親は、あの小男の来訪を待ちわびて、いつも窓の外を見つめていたのである。
(いくら貴族だからといって、どうして母上があんなあやしげな小男を……あんなやつ、母上には不釣り合いだ)
そんな思いを糧にして、彼はさまざまな修練に取り組んだ。
あんな貴族の世話にならずとも、母親に幸福な生活を与えてみせる。そのために、今は力を蓄えるべきだと決意したのだった。
幸いなことに、彼には剣技の才覚というものが備わっていたようだった。
頭を使うよりも、身体を使うほうが性に合っていたらしい。西の言葉はなかなか上達しないのに、剣技やトトスの扱いでは指南役の人々を驚かせることが多かった。13歳になる頃には、ついに剣技の師匠から一本を取れるようにまで成長を遂げることができていた。
「まいったな。今のは見事な太刀筋でありました。もうそのへんの無法者では、あなたの相手にもならないことでしょう」
腕を打たれて木剣を落としたその人物は、感嘆しきった様子でそのように述べていた。
40歳を少し過ぎた、西の民である。非常にがっしりとした体格をしているが、東の血が入っている彼とはもうそれほど背丈も変わらないぐらいであった。
「私、剣で、生きていけるでしょうか?」
彼がそのように尋ねると、男は手首をさすりながら、「ええ」とうなずいた。
「この辺りは戦もないために、それほど剣の腕を求められることもありませんからな。あなたでしたら、いずれ騎士団を率いることもかなうでしょう」
「騎士団? ……私、あなたのように、生きていきたいのですが」
「わたしのように? わたしはしがない《守護人》に過ぎませんよ。それも、王都の認可を受けていない、もぐりの《守護人》でありますしね」
「だけど、剣の腕、頼りに生きていく、素晴らしいと思います。私、守りたいもの、あるのです」
男は、とてもけげんそうな顔をしていた。
「ですから、王国の騎士として生きていけばよろしかろう。あなたでしたら、血筋も申し分ないのですし――」
「血筋?」と彼が首を傾げると、男はふいに顔色を変えた。
「あ、いや、これは失言を……申し訳ありません。今の言葉は、忘れてください」
「血筋、どういう意味でしょう? あなた、私の父親、知っているのですか?」
彼は胸を高鳴らせながら、男に詰め寄ることになった。
「私、父親、知りません。母上、話してくれないのです。あなた、知っているなら、教えてほしいです」
「ああ、いや、ですからその……」
「母上、高貴な血筋、ありません。あなた、私を、高貴な血筋、言うならば、父親、知っているはずです」
すると男は真っ青になりながら、地面に膝をついてしまった。
「ど、どうかご勘弁ください。あなたが母上様から知らされていない話を、わたしが口にすることは許されないのです。もしもそのようなことがあの御方の耳に入ってしまったら……わ、わたしは首を刎ねられてしまいます!」
その後、剣技の指南役は別の人間に差し替えられることになった。
弟子の技量に見合わなくなったためなのか、それとも単に逃げだしただけなのか、彼にはそれを知るすべもない。ただ、彼が父親の正体を探ることは大きな禁忌であり――それでいて、周囲の人間はあらかたその正体に察しがついているのだということは理解できた。
そうして迎えた、16歳の年。
母親の魂は、神に召されることになった。
肺の病を患った母親は、ダバッグの中央から呼びつけられた医術師の看護の甲斐もなく、この世を去ってしまったのである。
『どうやら私は、ここまでのようです……これからは、あの御方のために尽くすのですよ……?』
死の床で、母親はそのように述べていた。
別人のように細くなってしまった母親の指先を握りしめながら、彼は懸命に問い質した。
『母上、僕はやっぱり、あの男の息子なのですか?』
『……あなたのことを誰よりも愛しているわ、サンジュラ』
そうして母親は、息を引き取った。
彼――ダバッグのサンジュラの運命は、その日を境に大きくねじ曲がることになったのだった。
◇
ジェノスから迎えの車がやってきたのは、その翌日のことである。
使用人たちは全員解雇されて、屋敷も売りに出されるのだという話であった。
サンジュラは、生まれ育った場所や数少ない知人たちも、母親と同時に失うことになってしまったのだ。
サンジュラの身に残されたのは、この16年間で育んできた剣技の技量のみであった。
その他には、銅貨の一枚も所持してはいない。この場で逃げ出しても、野盗か何かに身を落とすしか道はなかったであろう。
喪失感と虚脱感を胸に、サンジュラはジェノスに連れ去られることになった。
迎えに来たのは、いつもあの小男を護衛していた武官たちで、それがジェノスという町の騎士団であるということを、サンジュラはそのとき初めて知らされることになったのだった。
その武官たちは、サンジュラに何も語ろうとはしなかった。彼らもまた、サンジュラの素性をあまりわきまえていない様子だった。そういえば、あの小男が屋敷を訪れるとき、サンジュラはいつも母親から遠ざけられていたために、彼らにはっきりと姿を見られたこともなかったのだ。
ジェノスの町に到着したのは、その夜であった。
トトスの車に押し込められたまま、サンジュラは城門をくぐり、その立派な屋敷にまで導かれることになった。
ダバッグの別邸よりもなお豪壮な、石造りの館である。
それは、石の都に築かれた石の館であった。
2名の武官に左右をはさまれながら、石の回廊を歩かされる。
やがて、巨大な扉の内側に招き入れられると――そこに、あの小男の貴族がいた。
「ご苦労であった……扉の外に控えているがいい……」
武官たちが、部屋を出ていく。
長椅子に座した小男は、毒針のように光る瞳でサンジュラをねめつけていた。
「まともに挨拶をするのは、これが初めてのことであったな……我はトゥラン伯爵家の当主、サイクレウスである」
サンジュラは、無言のまま相手の姿を見つめ返した。
やはり、薄気味悪い小男だ。十数年前に初めて見かけたときから、まったく印象は変わらない。ただ、光の加減か、ずいぶん顔色が悪いように見えた。
「母親のことは、気の毒であった……ダバッグで一番という医術師を向かわせたが、これが天命であったのであろう……もとより、身体の丈夫な女ではなかったからな……」
「…………」
「其方の母親は、長きに渡って忠義を尽くしてくれた……その子息である其方にも、十分な生活を与えてやろう……今後は、我のために尽くすがよい……」
「……あなた、どうして、ダバッグ、やってこなかったのですか?」
サンジュラは、半ば発作的にそう述べていた。
「私の母、あなたの来訪、待っていました。私の母、病魔に冒された、ひと月前です。ジェノス、トトスで半日の距離なのに、あなた、どうして、ダバッグ、やってこなかったのですか?」
「……我には伯爵家の当主として、果たすべき仕事が山積みとなっているのだ。そうそう気安くジェノスを離れるわけにはいかん……」
「あなた、私の母、愛していなかったのですか?」
貴族の小男サイクレウスは、小さな目をいっそう細めて、毒々しい眼光をサンジュラに突きつけてきた。
「言葉に気をつけるがいいぞ、ダバッグのサンジュラよ……其方がその年まで平穏な生活を送ることができたのは、すべて我の力があってこそなのだからな……」
「私の母、あなた、愛していました。あなた、私の母、愛していたか、知りたいだけです」
サイクレウスは、まぶたを閉ざした。
そうして毒々しい眼光が隠されると、その皺深い顔は一気に力ないものに変じてしまった。
「もうよい。下がれ……客間の準備をしているので、しばらくはそこで身体を休めるがいい……其方も母親を失ったばかりで、心を乱しているさなかであろうからな……」
サイクレウスはまぶたを閉ざしたまま、銀色の鈴を打ち鳴らした。
扉が開き、武官たちが入室してくる。
「客人を、客間に案内せよ……必要があれば、晩餐を準備してやるがいい……」
サンジュラは最後にその姿を目に焼きつけてから、きびすを返した。
扉の外に引っ立てられて、また石の回廊を歩かされる。
それはまるで、迷宮のように入り組んだ屋敷であった。
壁にはたくさんの燭台が掲げられているが、どこをどのように案内されているのか、すぐにわからなくなってしまう。
それにそもそも、サンジュラ自身が周りの様子をまともに認識できる状態ではなかった。
胸の中が空っぽで、そこにちろちろと激情の火がくすぶっているような心境である。怒りや無念で押し潰されそうであるのに、何に怒ればいいのかもわからない。強いて言うならば、何も為すことのできない無力な自分に、サンジュラは怒っているのかもしれなかった。
そのとき、武官たちがふいに足を止めた。
サンジュラの身体をやんわりと壁のほうに追いやり、眼前に槍を交叉させてくる。
回廊の向こうから何者かが近づいてきたために、道を譲ろうとしている様子であった。
小さな人影と、大きな人影だ。
小さなほうは姫君であり、大きなほうは武官であるようだった。
こちらの武官たちはサンジュラの動きを止めたまま、ぴしりと背筋をのばしている。
通りすぎざまに、その小さな姫君がじろりとサンジュラたちをにらみつけてきた。
「こんな夜更けにお客人? また食材を運んできた、シムの商人かしら?」
「は……伯爵様のお客人であります」
「ふうん……」と、姫君はうろんげに目を細めた。
言葉づかいはしっかりしているが、本当に幼い姫君である。せいぜい6、7歳といったところであろう。身長などは、サンジュラの腹ぐらいまでしかなさそうであった。
その小さな身体に、豪奢な装束を纏っている。上から下まで白ずくめで、何重にも重ねられたひだの飾りがたいそう美しい。どれだけの銅貨を積んだらこれほどの装束を手にすることができるのか、サンジュラには見当もつかなかった。
(だけど何だか……嫌な目つきをした子供だな)
サンジュラは、ぼんやりとそのように考えた。
美しいことには美しい、とても端整な顔立ちをした姫君である。淡い色合いをした髪は綺麗にくしけずられて、肌は日の光をあびたこともないかのように白い。大人になれば、さぞかし男の胸を騒がせる貴婦人に成長することだろう。
それでいて、その姫君は妙にとげとげしい目つきをしていた。
傲岸で、尊大で、敵を見るような目でサンジュラたちをねめつけている。何かに常に苛立っているような、幼子らしからぬ不穏な目つきであった。
「……それで、父様はお屋敷に帰っておられるのよね?」
「はい。ですが、伯爵様はそろそろお休みになられる頃合いかと……」
「余計な口は叩かなくていいわ。行くわよ、ムスル」
大男の武官はサンジュラたちを威嚇するように肩をそびやかして、姫君とともに回廊を歩み去っていった。
ほっと息をつく武官たちに、サンジュラは感情を殺した声で呼びかける。
「今の御方、トゥラン伯爵、息女ですか?」
「……はい。第一息女の、リフレイア姫です」
サンジュラは、ゆっくりと回廊の果てを振り返った。
しかし姫君たちはもう角を曲がった後で、どこにもその姿は見えなかった。
(……サイクレウスには、娘がいたのか。それでもなお、僕の母のもとに通い続けていたのか)
がらんと空洞になった胸の中に、激情の炎が満ちていくような感覚であった。
いまだ16歳のサンジュラにとって、それは耐え難い痛苦の夜であった。