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異世界料理道  作者: EDA
第三十章 群像演舞~三ノ巻~
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    雨の日の二人(下)

2017.9/24 更新分 1/1

 翌日――茶の月の5日である。

 その日もシュミラルは、不自由ながらも満ち足りた時間を過ごしていた。


 身体は、じょじょに回復に向かっている。立ったり歩いたりするのにはまだ人の手が必要であったものの、安静にしていれば大きな痛みを感じることもない。痛み止めのロムの葉も、昨日の夜からはすっぱり飲むのをやめていた。


 ひたすら寝ているか座っているかで、家の仕事を手伝うこともかなわない。男衆がギバ狩りの仕事に励んでいる中、為すべきこともなく休んでいるだけというのは、心苦しいものだ。それに、雨季のさなかであるので、家の中は薄暗く、冷え冷えとしており、余計に暗澹たる気持ちをかきたてられそうなところであった。


 しかしそれでも、シュミラルは満ち足りていた。

 言うまでもなく、それはヴィナ=ルウがかたわらにいてくれているおかげであった。


 ウル・レイ=リリンが席を外すときも、ヴィナ=ルウはシュミラルのそばにいてくれる。そのためにこそ、彼女はリリンの家に居座っているのである。たとえ眷族といえども、森辺の民が余所の家に数日も逗留することなど、普通はなかなかありえない話であるはずだった。


 だが、ヴィナ=ルウは自らそれを志願して、ドンダ=ルウもそれを聞き入れてくれた。

 厳しい掟と習わしの中で生きる森辺の民であるが、こういう際には情理というものを重んずるらしい。


 森辺の民がそういう一族であるからこそ、シュミラルは魅了されることになったのだろう。

 そして何より、ヴィナ=ルウがこのようなことを自ら願い出てくれたというのが、シュミラルには嬉しくてならなかった。


 シュミラルなどは、一方的に森辺の集落に押しかけた身であるのだ。

 心の底からヴィナ=ルウを愛し、神や故郷をも捨ててみせた。しかしそれも自分の気持ちに従っただけのことであるのだから、誰にほめられるような話でもなかったはずであった。


 また、シュミラルは感情を表すことを恥と考える、シムの生まれである。

 シムを捨てるからにはその習わしをも捨てさって、なるべく感情を表せるように努めているが、まだまだお粗末なものである。これでは自分の心情を、ヴィナ=ルウに正しく伝えることも難しいはずであった。


 そんな状況であるにも拘わらず、ヴィナ=ルウはシュミラルのためにリリンの家に居残ってくれている。

 それだけで、シュミラルはたとえようもない幸福感を得ることができた。

 この半月の間、会いたくてたまらなかったヴィナ=ルウが、朝から夜までかたわらにいてくれるのである。それが幸福でないはずはなかった。


 しかし――その幸福感は、中天を少し過ぎたあたりで、木っ端微塵に打ち砕かれることになった。

 ルウの家から、アスタが《アムスホルンの息吹》を発症したという報が届けられたのである。


                   ◇


「アスタが、《アムスホルンの息吹》を……? しかしあれは、幼子がかかる病魔なのではないのですか?」


 リリンの本家には、今日もシュミラルとヴィナ=ルウとウル・レイ=リリンがいた。その場に駆けつけたララ=ルウに言葉を返したのは、やはりウル・レイ=リリンであった。


「そうなんだけど、アスタはこの大陸の生まれじゃないでしょ? だから、幼子じゃなくても《アムスホルンの息吹》にかかっちゃうんじゃないかって、昨日からジバ婆が言ってたんだよね」


 ずぶ濡れの雨具を着込んで玄関口に立ちはだかったララ=ルウは、怒っているような顔をしていた。

 おそらく、内心の不安や動揺を強い気持ちでねじ伏せているのであろう。


「薬の準備はしておいたし、倒れてすぐに助けることもできたから、今はファの家でアイ=ファが看病してるよ。こっちも中天までバタバタしてたから、眷族に伝えるのが遅くなっちゃったんだよね」


 顔のほうに滴ってくる水滴をわずらわしそうに跳ねのけながら、ララ=ルウはそう言った。


「あたしはこのまま、荷車でムファやマァムの家まで回ってくるからさ。もし、ファの家まで出向きたい人間がいたら、あたしが戻るまでに準備をしておいてね」


「わたしたちでも、ファの家の力になれるのでしょうか?」


「うーん、あっちはあっちで近在の氏族が力を貸してるはずだから、あたしたちの出番はないと思うよ。でも、様子を見にいかないと気が済まないって人間もいるでしょ?」


 それはおそらく、彼女自身のことでもあるのだろう。

 ララ=ルウの青い瞳は、ゆらゆらと不安そうにゆらめきながらも、まるで男衆のように強い輝きをたたえていた。


「とにかく、そういうことだから! ヴィナ姉も、また後でね!」


 ララ=ルウが玄関口を飛び出していくと、ウル・レイ=リリンは深々と息をついた。


「アスタが《アムスホルンの息吹》にかかってしまうなんて……そんなことは、想像もしていませんでした。さすが最長老は、卓見ですね」


「…………」


「シュミラルとヴィナ=ルウはアスタと深い縁を結んでいたので、心配でしょう? アスタであれば、きっとこの試練を乗り越えられると思いますが……わたしも心配です」


 言われるまでもなく、シュミラルは目眩を感じるほどの衝撃を受けていた。

《アムスホルンの息吹》というのは、この大陸の人間であれば必ず通らなくてはならない、試練だ。その試練を乗り越えた人間だけが、大陸の民として生きていくことがかなうのである。


 力を持たない幼子は、そこで魂を返すことになる。これはどの王国の生まれであっても逃れようのない、神の無慈悲なる選別であった。シュミラルも、3歳の頃にこの試練を乗り越えていた。


(この大陸の生まれでなくとも……たとえ《星無き民》であっても、アムスホルンの選別を受けねばならないのか。ああ、いったい何ということだ……)


 シュミラルは唇を噛んで、苦悩のうめき声を呑み込んだ。

 たとえ感情を表せるように努めているさなかであっても、こんな苦しさや不安感を他者に見せることが正しいとはとうてい思えなかった。


「シュミラルは、まだ荷車に乗れるような身体ではないですよね。ヴィナ=ルウは、どうしますか……?」


 ウル・レイ=リリンの言葉に、ヴィナ=ルウがのろのろと振り返った。


「シュミラルのもとには、ひとりが残っていれば十分でしょう。ここはわたしが受け持ちますので、どうぞアスタの様子を見にいってきてください」


「…………」


「様子を見に行っても、それほど長きの時間はかからないことでしょう。ですから、何も遠慮することは――」


「いえ……」と、ヴィナ=ルウがウル・レイ=リリンの言葉をさえぎった。


「わたしは、ここに残らせてもらうわぁ……よかったら、あなたが行ってきたらいいのじゃないかしら……?」


「え? ですが……わたしはアスタを敬愛していますが、数えるぐらいしか口をきいたこともない間柄ですし……ヴィナ=ルウのほうが、様子を見に行くのには相応しいでしょう?」


「……あなたはリリン本家の家長の嫁なんだから、あなたのほうが相応しいと思うわぁ……ギラン=リリンはそれなりにアスタとも縁が深かったから、きっとどのような状態であるのかを知りたがるでしょうしねぇ……」


「でも……」


「もちろん、行くかどうかを決めるのはあなた自身よぉ……どちらにせよ、わたしは遠慮させていただくわぁ……」


 ヴィナ=ルウはうつむいていたために、その表情を確認することはできなかった。

 ウル・レイ=リリンは「そうですか……」と心配そうに眉根を寄せる。


「それでしたら、わたしがファの家に向かわせていただきます。……本当にそれでよろしいのですね?」


「ええ……どうせルウの家からは何人もファの家に駆けつけるでしょうから、それで十分よぉ……」


 それから四半刻ほどして、ララ=ルウがリリンの家に戻ってきた。

 ヴィナ=ルウではなくウル・レイ=リリンが出向きたいという旨を告げると、ほんの少しだけうろんげな表情をしたが、姉を問い詰めようとはしなかった。


「わかった。それじゃあ、荷台に乗って。このままルティムとかにも寄った後で、ファの家に向かうから」


「了解いたしました。それではヴィナ=ルウ、しばらくシュミラルをお願いいたします」


 そうして広間には、シュミラルとヴィナ=ルウだけが残された。

 ヴィナ=ルウは幼子のように両膝を抱え込み、シュミラルのほうを見ようともしない。しばらくはその重苦しい静寂に耐えていたシュミラルであるが、じきに黙っていられなくなった。


「ヴィナ=ルウ、何故、ファの家、行かなかったのですか?」


「…………」


「私、心配、いりません。ヴィナ=ルウ、ここに残る、理由、ないと思います」


「うるさいわねぇ……わたしがどうしようと、わたしの勝手でしょう……?」


 感情の欠落した声音で、ヴィナ=ルウはそう言い捨てた。

 ヴィナ=ルウがそのような声を発するのを聞くのは、シュミラルにとっても初めてのことであった。


「でも、アスタ、心配です。ヴィナ=ルウ、私以上、心配なはずです。《アムスホルンの息吹》、生命を落とすこと、ありえるのですから……」


「うるさいって言ってるのよぉ……わたしがこの場に居残るのが、そんなに迷惑だっていうのぉ……?」


「いえ。そうではなく――」


「だったら、消えてあげるわよぉ……ひとりで好きにしていなさい……」


 ヴィナ=ルウはゆらりと立ち上がるや、そのまま玄関に向かってしまった。

 外は雨であるというのに、雨具を纏おうともしない。シュミラルは胸の痛みをこらえて立ち上がったが、その前にヴィナ=ルウは家を出ていってしまった。


「ヴィナ=ルウ、待ってください」


 シュミラルは、何も迷いはしなかった。

 自分も家を出て、視線を左右に巡らせる。

 ヴィナ=ルウは、少し離れた場所にある樹木の陰で、こちらに背を向けてたたずんでいた。


 シュミラルは、裸足でそちらに近づいていく。

 雨は、ほとんど霧雨に近い。しかし、長袖の上衣はすぐにしっとりと濡れてしまった。


「ヴィナ=ルウ、大丈夫ですか?」


 シュミラルが声をかけると、ヴィナ=ルウがハッとしたように振り返った。


「馬鹿……どうしてあなたまで出てきちゃうのよぉ……あなたは、怪我人なのよぉ……?」


「しかし、ヴィナ=ルウ、放っておけません」


 ヴィナ=ルウも、しっとりと濡れてしまっていた。

 淡い色合いをした髪が、ふくらみを失って顔や肩にへばりついている。

 その顔は、泣くのをこらえている幼子のような表情を浮かべていた。


「私、ヴィナ=ルウ、怒らせてしまったなら、謝ります。どうか、家、戻ってください」


「だから……あなたが謝る必要なんて、何もないのよぉ……」


 ひょっとしたら、ヴィナ=ルウはすでに泣いているのかもしれなかった。

 ただ、雨のしずくがその面を濡らしてしまっているために、判別は難しい。


 やがてヴィナ=ルウは、こらえかねたようにシュミラルの胸に取りすがってきた。

 その震える指先がシュミラルの肩をつかみ、傷ついた胸に、そっと頬があてられてくる。


「やっぱり、わたしは駄目なんだわぁ……わたしが何を考えても、周りに迷惑をかけるだけなのよぉ……」


「そんなこと、ないと思います」


「いいえ……わたしには、正しい道がまったくわからない……自分で正しいと思っても、こんな風に迷惑をかけてしまうだけ……わたしはきっと、森の怒りに触れてしまったんだわぁ……」


「そんなこと、ないと思います」


 シュミラルは意を決して、ヴィナ=ルウの肩をつかんでみせた。

 雨季であるので、ヴィナ=ルウも長袖の上衣を纏っている。しかしそこには、確かな温もりとやわらかさが感じられた。


「正しく生きよう、思っているなら、モルガの森、自分の子、決して見捨てない、思います。そうでなければ、私、モルガの子、望まなかったでしょう。ヴィナ=ルウ、苦しい、感じるなら、きっと、贖罪なのです」


「……この苦しさを乗り越えれば、わたしの罪も許されるというの……?」


「わかりません。でも、モルガの森、ヴィナ=ルウ、見捨てること、ないでしょう」


 ヴィナ=ルウの指先が、ぐっと力を入れてくる。

 しかし、胸もとに当てられた頬の感触はやわらかいままで、シュミラルの傷を思いやっていることが知れた。


「ごめんなさい……こんな風に、自分の苦しさをあなたにぶつけてしまうことだって、絶対に正しいことじゃないはずなのに……」


「いえ。私、嬉しい、思います」


 シュミラルの触れているヴィナ=ルウの肩が、頼りなく震えた。

 しかしヴィナ=ルウは泣き崩れることなく、シュミラルから身を遠ざけた。

 ただおたがいの肩に手を置いたまま、ふたりは間近から見つめ合った。


「それでもやっぱり、これは正しくないことだわぁ……わたしの罪は、わたしがひとりで乗り越えなければならないのよぉ……」


「……そうなのでしょうか?」


「ええ、そうなのよぉ……そうでなければ、わたしは……きっと森にも見捨てられることになるでしょう……それに……わたし自身が、わたしを許せなくなってしまうわぁ……」


 ヴィナ=ルウは瞳を潤ませながら、微笑んだ。

 それはシュミラルが知る中でも、とりわけ美しい表情であった。


「ごめんなさい、家に戻りましょう……あなたまで病魔にかかってしまったら大変だわぁ……すぐに身体を温めないと……」


「はい」とうなずき、シュミラルはヴィナ=ルウの肩から手を離した。

 ヴィナ=ルウもまた、シュミラルの肩から手を離した。

 その指先が、今度はそっとシュミラルの腕に添えられてくる。


「さあ、行きましょう……転ばないように、気をつけてねぇ……」


「はい」


 そうしてふたりは、家に戻った。

 雨は変わらずに、しとしとと世界を濡らし続けていた。


                  ◇


 その夜である。

 雨に打たれたシュミラルも、身体に変調をきたすことはなかったので、昨晩と同じように皆と晩餐を囲むことができた。


「まさか、アスタが《アムスホルンの息吹》にかかるとはな。何が起きるかわからないものだ」


 いつも陽気なギラン=リリンも、さすがにこの夜ばかりは深刻な顔をしていた。


「だが、アスタであれば、きっとこの試練を乗り越えてくれることだろう。俺たちは、森に祈るしかない」


「ええ。近在の氏族も力を惜しまずにファの家を助けているようですから、何も心配はいらないと思います」


 ウル・レイ=リリンは、そのように述べていた。

 2名の幼子たちは、いまひとつ事情もわかっていない様子で、それぞれの食事を楽しんでいる。今日の晩餐は、ギバ肉の香味焼きと、タウ油を使った煮付けの料理、それにカロン乳を使った汁物料理であった。


「ねえ、ぎばかれーはもうなくなっちゃったの?」


「材料はまだ数日分あるけれど、急いで食べてしまったらもったいないでしょう? だから、一日置きに作ることに決めたの」


 穏やかな表情で、ウル・レイ=リリンが長兄の頭を撫でる。

 2歳の妹はまだ食べられるものも限られていたので、煮汁にひたした焼きポイタンをかじっていた。


「明日の朝には、俺も様子を見てくるかな。荷車は、いまは2台ともルウの集落か?」


「はい。でも、ルティムとレイでも新しい荷車を買ったそうですよ。あちらにはもともとトトスがいましたので」


「そうか。俺たちも、ゆくゆくは自分たちのトトスを手に入れたいものだな。……いや、それよりも先に猟犬を増やすべきだろうか」


 リリンの家では、今日も十分な収穫を上げていた。雨季には収穫が下がるものであるのに、猟犬のおかげで順調であると言ってもらうことができた。


「シュミラルが荷車に乗るには、もう数日ばかりの時間が必要だろうな。《アムスホルンの息吹》は3日ていどで熱も下がるはずだから、その頃にはアスタも元気になっているかもしれん」


「はい。そのように、願っています」


「では、明日はヴィナ=ルウがともに行くか? 今日はファの家に行っておらんのだろう?」


 ギラン=リリンが呼びかけると、ヴィナ=ルウは「いえ……」と首を横に振った。


「わたしは、遠慮しておくわぁ……シュミラルの傷が癒えて、ルウの家に戻ることになってから、わたしはファの家に向かうつもりよぉ……」


 ギラン=リリンは、「そうか」と破顔した。


「まあ、俺たちが出向いても、アスタの回復が早まるわけでもないからな。無理に足を運ばずとも、森に祈れば十分だ。森辺の民のほとんどは同じ祈りを捧げるだろうから、母なる森がそれを聞き逃すこともないだろう」


 ウル・レイ=リリンによると、この一件はすでに森辺の全氏族に伝えられているのだという話であった。

 ならば、ギラン=リリンの言葉も外れてはいないだろう。たとえファの家の行いに否定的な見解である人間でも、アスタの死を願うような者はいないと信じたかった。


「ねえ、ファのいえのアスタって、どんなひとなの?」


 と、幼い長兄が誰にともなくそのように発言した。

 汁物料理をすすっていたシュミラルは、いささかならず驚きにとらわれる。


「あなた、ファの家のアスタ、知らないのですか?」


「うん。あんまりしらない。とおくからみたことはあるけど」


 すると、ウル・レイ=リリンがその言葉を補足してくれた。


「5歳に満たない幼子は、祝宴の夜でも家の中に控えていなければならないので、アスタと触れ合う機会も少なかったのです。宴の料理などは、わたしたちが届けてあげていましたけれどね」


「うん! ぎばかれー、だいすき!」


「なるほど。……アスタ、素晴らしい人間です。同胞、なる前から、私、そのように思っていました」


「俺も、親しく口をきくようになったのは、銀の月ぐらいであったがな。なかなか愉快で人好きのする人間であることに間違いはない」


 やわらかく笑いながら、ギラン=リリンがヴィナ=ルウを振り返る。


「しかしやっぱり、アスタともっとも縁が深いのはヴィナ=ルウであろうな。たしか、宿場町での商売に関しても、ヴィナ=ルウは最初の日から手伝っていたのであろう?」


「ええ……最近は、妹たちと順番だけれどねぇ……」


 ヴィナ=ルウは、ふっと遠い眼差しをした。


「アスタは……不思議な人間だと思うわぁ……ものすごく強かったり、ものすごく弱かったり……とても可愛かったり、とても憎たらしかったり……なかなか一言では言い表せない人間よねぇ……」


「それはまあ、アスタに限らず誰でもそうなのだろうがな」


「ええ、本当に……最近、つくづくそう思うわぁ……」


 ヴィナ=ルウは、とても穏やかな表情をしていた。

 あの雨が、ヴィナ=ルウの迷いや苦しみをわずかなりとも洗い流してくれたのだろうか。シュミラルがジェノスに戻ってきてから、ヴィナ=ルウがこれほど落ち着いているように見えるのは初めてのことであった。


(きっとヴィナ=ルウも、アスタとの出会いによって、何らかの変転を迎えることになったのだろう)


 シュミラルは、そのように考えていた。

 アスタと関わった人間は、多かれ少なかれ運命が変ずることになる。ルウ家は森辺でもとりわけアスタと深く関わっていたのだから、その影響も顕著であるはずであった。


(ましてやヴィナ=ルウは、外の世界に憧れていたのだ。それで、大陸の外からやってきて、森辺の家人となったアスタと出会えば、これ以上もなく心を乱されてしまうことだろう)


 そしてシュミラルは、屋台で働くアスタとヴィナ=ルウの姿を見てもいた。シュミラルが出会ったときなどは、ふたりきりで屋台をきりもりしていたので、夫婦であるのかと見誤ってしまったのである。


(だけどアスタには、アイ=ファという家人がいた)


 アイ=ファと出会ったのも、そんなに遅い時期ではない。そして今度こそ、このふたりが夫婦であるのだろうと確信することになった。

 その確信は外れていたが、ふたりは実際の夫婦以上に固い信頼で結ばれているように見えた。きっといずれは婚儀をあげるのであろうと、今でもそのように思っている。アスタにとっては、アイ=ファこそが運命の相手であったのだ。


(だからヴィナ=ルウは、アスタに心をひかれつつも、想いを断ち切ることになったのだろうか)


 それは、シュミラルの憶測だ。

 ヴィナ=ルウがアスタにどのような気持ちを抱いていたのか、シュミラルにはわからない。

 いや、もしかしたら、ヴィナ=ルウ自身にもそれがどのような気持ちであったのか、わからないのかもしれない。アスタを見つめるヴィナ=ルウの瞳は、いつも不安定にゆらめいているように感じられたのだった。


 だけど、ひとつだけわかることもある。

 それは、現在のヴィナ=ルウがアスタを見つめるとき、そこには何のゆらめきも存在しない、ということであった。


 半年ぶりにジェノスに戻ってきて、アスタとともにルウの集落に向かい、そこでヴィナ=ルウと再会し、シュミラルはその事実を知ることになった。

 そして――その不安定なゆらめきの眼差しは、アスタではなくシュミラルに向けられるようになっていたのである。


(あの頃は、アスタがヴィナ=ルウを惑わせる存在だった。そして今は、私がヴィナ=ルウを惑わせている。……これは、そのように解釈するべきなのだろうか)


 何も確証のある話ではない。すべては、シュミラルの印象だ。

 よって、シュミラルにとってのまぎれもない真実とは、自分の心情のみであった。


 自分は、ヴィナ=ルウのことを愛している。

 それがシュミラルの、ただひとつの真実であった。

 だからシュミラルは、自分の気持ちに従って、自分の進むべき道を進むしかなかった。


「……また、何をじろじろと見ているのよぉ……」


 と、ヴィナ=ルウが不平の声をあげてくる。

 自分の想念にとらわれるあまり、シュミラルはまたぶしつけな視線をヴィナ=ルウに向けてしまっていたようだった。


「申し訳ありません。考え事、していました」


「今は、晩餐の時間でしょう……? 邪念は払って、森に感謝を捧げながら、食事をするべきじゃない……?」


「食べています。煮付けの料理、とても美味です」


「……それは、ウル・レイ=リリンが作った料理よぉ……」


 ヴィナ=ルウは、すねた顔でそっぽを向いてしまう。

 シュミラルは慌てたが、そんなヴィナ=ルウの姿も愛おしくてたまらなかった。


「……こうして見ると、すでに婚儀をあげた者同士のようだなあ」


 ギラン=リリンの言葉によって、ヴィナ=ルウが顔を赤くする。

 やはりシュミラルにとって、それは幸福で満ち足りた夜だった。


 あとはアスタさえ試練を乗り越えてくれれば、何も言うことはなかった。

 シュミラルは、大切な友が同胞のもとに戻ってこられるように、強く、森に祈ることにした。

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