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異世界料理道  作者: EDA
第三十章 群像演舞~三ノ巻~
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第三話 雨の日の二人(上)

2017.9/23 更新分 1/1

 鈍い痛みと息苦しさに苛まれながら、シュミラルは覚醒した。

 そうして覚醒するなり、夢の中でも見ていた愛おしい相手の姿を目前に見出すことになり、シュミラルはちょっと混乱することになった。


(……私はまだ夢から覚めていないのだろうか?)


 シュミラルのすぐかたわらで、ヴィナ=ルウがひっそりと座していた。

 窓から差し込む弱々しい朝日に照らされて、その色の淡い髪が美しくきらめいている。ヴィナ=ルウは、シュミラルが目を覚ましたことにも気づかぬまま、自分の手首をまさぐっていた。


 そこに光っているのは、かつてシュミラルが贈った厄災除けの腕飾りだ。

 その小さな石の連なりに指先を這わせながら、ヴィナ=ルウはけだるげに息をついている。


 睫毛の長い、美しい横顔であった。

 シムの美の基準で言えば、いささか肉のつきすぎた顔である。しかしシュミラルには、それが美しく感じられるのだ。


 顔の造作や肉の有無など関係ない。その瞳の輝きや、表情や、内側からかもしだされるヴィナ=ルウの気配が、彼女を美しく見せているのである。

 そのようなことをぼんやり考えていると、ヴィナ=ルウが何気なくシュミラルのほうを振り返ってきた。


 やや目尻の下がったとろんとした目が、驚きに見開かれる。

 それもシュミラルには、好ましい表情であった。


「何よあなた……いったい、いつから起きていたのぉ……?」


「つい、さきほどです」


 そのように答えた瞬間、胸の奥がずきりと疼いた。

 思わず眉をひそめてしまうと、ヴィナ=ルウが心配げに身を寄せてくる。


「無理に喋らなくていいわよぉ……ロムの葉を持ってきましょうか……?」


「いえ。ロムの葉、飲みすぎる、危険です」


「それじゃあ、水でも飲む……? あれだけひどい汗をかいていたのだから、身体が干からびてしまっているでしょう……?」


「はい。ありがとうございます」


 シュミラルは身体を横に倒して、起きあがろうとした。

 が、ずきずきと胸が痛んでしまい、それだけの動きもままならない。それはまるで、胸の内側に焼けた炭でもねじ込まれたかのような心地であった。


 昨日、シュミラルはギバ狩りの最中に、手傷を負ってしまったのである。

 飢えたギバに出くわして、みなで木の上に避難しようとした。それに失敗してギバの鼻先に落ちてしまったリリンの狩人を救うために、自分が盾となってしまったのだ。


 幸いなことに、牙や角でこの身をえぐられることにはならなかった。

 しかし、ギバの体当たりをまともにくらって、あばらがめりめりと軋むことになった。


 それでも骨は折れていなかったと、ギラン=リリンには言われていた。

 シュミラル自身がこの集落に持ち込んだ薬を胸に塗られて、包帯を巻かれている。痛み止めのロムの葉を準備してくれたのは、リリンの人間だ。昨晩はそれを服用して、深い眠りについた。そうして今、ようやく目覚めることがかなったのだった。


 席を立って、水瓶から木皿に水を汲んできてくれたヴィナ=ルウが、とても心配そうにシュミラルを見下ろしている。


「まだ動けないのかしらぁ……? ウル・レイ=リリンたちは、朝の仕事で出かけてしまったのだけれど……」


「はい。申し訳ありませんが、手、貸していただけますか?」


 ヴィナ=ルウは、困り果てた様子で眉を下げていた。

 しかし、やがて決然と頭をもたげると、木皿を床に置き、シュミラルのほうに腕を差し伸べてくれる。


 そのしなやかな手を握り、シュミラルは何とか半身を起こすことができた。

 ヴィナ=ルウの腕は、シュミラルが想像していた以上に力強かった。


 胸の痛みをこらえて呼吸を整えていると、ヴィナ=ルウがかたわらに屈み込んでくる。

 その手の木皿が、シュミラルの口もとに届けられてきた。


 自分でも木皿の端を支えつつ、冷たい水を少しだけ口に含む。

 それを飲み下すと、やはりまた重い痛みが胸の中を走り抜けていった。


「少しずつでいいから、もう少しお飲みなさい……昨日は食事をしていないのだから、水だけでも飲まないと、身体がまいってしまうわぁ……」


「はい。ありがとうございます、ヴィナ=ルウ」


 ヴィナ=ルウの存在をこれほど間近に感じたのは、初めてのことであった。

 現在は雨季であるために、ヴィナ=ルウも長袖の上衣を着込み、丈の長い腰巻を巻いている。その姿もまた目新しく、魅力的であった。

 そんな風に思いながら見つめ返していると、たちまちヴィナ=ルウの頬が赤くなってしまう。


「……そんなにまじまじと人の顔を見つめないでもらえるかしらぁ……? 何かわたしに文句でもあるというのぉ……?」


「いえ。ただ、ヴィナ=ルウがいる、不思議でした。昨日、夕方、別れた、思っていたので」


 昨日の夕暮れ時、ヴィナ=ルウはアスタたちとともにリリンの家を訪れてくれたのだった。

 ただし、シュミラルを見舞いに来たわけではない。何かサウティの集落に用事があって、その帰り道にたまたま立ち寄っただけであるという話であったはずだ。


 その後にロムの葉を飲まされて、以降の記憶はない。

 ヴィナ=ルウはまだ頬を赤くしたまま、じっとりとシュミラルをにらみつけていた。


「あなたがリリンの家に住みつくことになったのは、そもそもわたしが原因であるのだから……わたしがリリンの家に力を貸すのは当然のことでしょう……? 誰にも文句を言われる筋合いはないわぁ……」


「では、昨晩、宿泊したのですか?」


「ふん……あなたは眠ったままだったから、わたしには何の仕事もなかったけれどねぇ……夜の間に付き添ってくれていたのは、家長のギラン=リリンよぉ……」


 それはもちろん、家族でもない異性が同じ部屋で眠ることは許されないのだろう。森辺の民というのは、町の人間よりも厳しい習わしの中で生きているのだ。


「ギラン=リリンは、夜が明けてから寝所に戻っていったわぁ……他の女衆は、水場で洗い物ねぇ……」


「そうですか。感謝しています、ヴィナ=ルウ」


「……だからわたしは、まだ何の仕事も果たしてないんだってばぁ……」


「いえ。身を起こし、水を飲む、手助け、してくれました」


 ヴィナ=ルウは赤い顔に怒った表情を浮かべて、木皿を突きつけてくる。


「だから、そんな目つきでわたしを見ないでってばぁ……いいから、水をお飲みなさい……」


 そんな目つきとは、どのような目つきであるのだろうか。

 とりあえずシュミラルの胸に満ちているのは、ひさびさにヴィナ=ルウとゆっくり言葉を交わせたという幸福感のみであった。


                 ◇


「それではな。無理をするのではないぞ、シュミラルよ」


 中天になると、ギラン=リリンたちは2頭の猟犬を連れて森に入っていった。

 シュミラルがさんざん手本を示してきたので、彼らのみでも猟犬を有効に使うことは難しくないだろう。昨日の騒ぎでも猟犬たちが手傷を負わずに済んだのは幸いであった。


 そうして家に残されたのは、シュミラルとヴィナ=ルウ、そしてウル・レイ=リリンの3名であった。

 ウル・レイ=リリンの子供たちは、分家に預けられている。シュミラルは相変わらず広間で寝かされており、ヴィナ=ルウたちは毛皮をなめす仕事に取り組んでいた。


 シュミラルも多少は回復してきたので、あとはひたすら休養するのみである。

 が、相変わらずひとりでは身を起こすこともままならないので、誰かしらがそばにいなくてはならないのだ。寝具の上に横たわったまま、シュミラルはずっとヴィナ=ルウたちの様子を観察していた。


「リリンの家は家人が少ないので、ヴィナ=ルウが力を貸してくださるのはとても助かります」


 ウル・レイ=リリンが、そのように述べていた。

 金褐色の髪と淡い青色の瞳を持つ、美しい女衆である。すでにふたりの子を産んだとは思えないほど若々しく、そして草原の女衆のようにほっそりとしている。また、ただ美しいばかりでなく、何かの精霊みたいに不思議な雰囲気を持つ女衆であった。


「親筋のルウ家が眷族に力を貸すのは、当然のことだわぁ……それに何度も言っている通り、そもそもはわたしに責任のあることなんだから……」


「決してそのようなことはないと思いますが、ヴィナ=ルウをリリンの家に招くことができて、わたしはとても嬉しく思っています」


 毛皮の裏地に何かの樹液をすりこみながら、ウル・レイ=リリンはにこりと微笑んだ。

 その透明な微笑を、ヴィナ=ルウは探るように見つめている。


「……話は変わるけれど、あなたは何歳だったかしらぁ、ウル・レイ=リリン……? わたしとそれほど変わらない年齢であったはずよねぇ……?」


「はい。わたしは24歳になったところです」


「24歳……それじゃあ、リリンの家に嫁入りしたときは、まだ17、8歳であったのねぇ……」


「ああ、あれからもう6年ぐらいは経つのですね。懐かしい話です」


 レイ家の彼女がギラン=リリンに嫁入りすることで、リリン家はルウ家の眷族となり得たのだった。

 ちなみにギラン=リリンは、すでに42歳となる壮年の男衆である。


「余計なことを言うようだけれど、ギラン=リリンとは親子ぐらい年齢が離れているのよねぇ……? それでどうして、嫁入りする気持ちになれたのかしらぁ……?」


「どうしてと問われると、いささか困ってしまいますが……ギランは、立派な狩人でした。このように立派な狩人に嫁入りを望まれるのは、非常に光栄な話だと思えたのです」


「ああそう……確かにギラン=リリンは立派な狩人なのでしょうけどねぇ……」


 ヴィナ=ルウは、何やらとても喋りにくそうな様子であった。

 シュミラルは、ちょっと申し訳ない気持ちになってしまう。


「あの、ヴィナ=ルウ。私、まもなく、眠りに落ちる、思いますので、少々お待ちください」


「……いったい何を待てと言っているのかしらぁ……?」


「私、眠れば、心置きなく、会話、できるでしょう?」


 ヴィナ=ルウは、また少し頬を赤くしながら「あのねぇ……」と眉を吊り上げた。


「わたしたちは、あなたの看病をするために、こうして家に居残っているのよぉ……? あまり的外れなことを言わないでもらえるかしらぁ……?」


「はい。申し訳ありません」


 しかし、日が高くなってからは多少の食事を取ることができたので、そのときにロムの葉もわずかばかりに服用している。現時点でもシュミラルは頭がぼんやりしていたので、眠りに落ちるのも時間の問題と思われた。


「シュミラルというのは、愉快な人間ですね。まだともに暮らし始めてから半月ていどの日しか経ってはいませんが、わたしも子供たちもとても楽しく思っています」


 ウル・レイ=リリンは、ゆったりと微笑んでいる。

 ヴィナ=ルウは、いくぶん困惑気味にそちらを振り返った。


「……シュミラルは、ずっとこの本家で暮らしているのよねぇ……?」


「はい。シュミラルに氏を与えるかどうかは、家長のギランが見極めねばなりませんので」


「……うちの家長は、ミダと一緒に暮らしてはいないけれどねぇ……」


「ミダとシュミラルでは、やはり立場が異なるのではないでしょうか? それに、ルウの本家は13人も家人がいるのですから、それ以上家人を増やすことも難しかったのでしょう」


 ヴィナ=ルウがどれほど取りとめのない発言をしても、ウル・レイ=リリンは如才なく応じていた。森辺には沈着で穏やかな女衆も多かったが、このウル・レイ=リリンはその中でもひときわ物事に動じない気質であったのだった。


「……ギラン=リリンに劣らず、あなたも立派な女衆よねぇ、ウル・レイ=リリン……これまではあまり口をきく機会もなかったから、あなたがこんなに立派な女衆なのだとは察することもできなかったわぁ……」


「そうでしょうか? べつだん、自分が何かに秀でていると感じたことはありませんが」


「あなたが秀でていなかったら、わたしなんて救いようもないわよぉ……」


 ヴィナ=ルウが、切なげに吐息をつく。

 ヴィナ=ルウは、むやみに自分を卑下する傾向にあるようなのだ。

 それはきっと、彼女が森辺においては変わり者の部類であるからなのだろう。シュミラルは、そのように考えていた。


 かつてヴィナ=ルウは、外の世界に憧れていたのだと語っていた。その一点においても、森辺においては変わり者と判じられてしまうはずだった。


 森辺の民というのは、その胸に強い誇りを抱いて生きている。それが彼らの強靭さであり、清廉さであるのだ。ゆえに、森の外の世界に憧れるなどというのは、なかなかありえない話であるはずだった。


 もしかしたらヴィナ=ルウは、そのような思いを抱いてしまったことに、強い背徳感を負うことになったのかもしれない。だからこそ、事あるごとに自分を卑下してしまうのだ。


(だけどあなたは、森の子として生きる道を選んだ。もはや誰にも恥じる必要はないはずだ)


 シュミラルはそんな風に考えたが、言葉を発することはできなかった。

 またロムの葉によって安息の眠りが与えられてしまったのだ。

 ヴィナ=ルウの打ち沈んだ横顔を見つめながら、シュミラルは夢の世界に埋没することになった。


 次に目を覚ましたのは、夕暮れ時であった。

 いや、もはや日没の寸前であったかもしれない。どのみち外は雨であり、広間にはいくつも燭台が灯されていた。


「あ、シュミラルがおきたよ!」


 元気いっぱいの声が響くと同時に、可愛らしい幼子の顔がシュミラルを覗き込んでくる。

 ギラン=リリンとウル・レイ=リリンの、最初の子である。年齢は4歳で、父親似の明るい眼差しをした男の子だ。


「あー! シュミラルにさわっちゃだめ! シュミラルはケガしてるんだから!」


 と、その幼子が大慌てで立ち上がり、シュミラルの上をぴょんっと飛び越えた。

 反対の側から、彼の妹がシュミラルにのしかかろうとしていたのだ。そちらは間もなく2歳となる、玉のように可愛い女の子であった。


 兄の手に抱えられた妹は、きゃっきゃと楽しげな声をあげる。

 すると、彼らの背後から父親が近づいてきた。


「お前たちが騒がしくするから、シュミラルが目を覚ましてしまったではないか。まったく、しかたのない子らだ」


「ちがうもん! シュミラルがおきるまではしずかにしてたもん!」


「はい。彼の言葉、真実です」


 シュミラルも会話に加わると、ギラン=リリンは笑いじわを深くして微笑んだ。


「まあ、そろそろ晩餐も仕上がる頃合いだから、ちょうどよかったな。胸の痛みはどうだ?」


「はい。だいぶん落ち着いた、思います」


「ならば、できるだけ腹を満たすがいい。傷を癒すには、食事と眠りが一番であるのだからな」


「はい。空腹、感じられます」


 昨晩は何も口にせずに眠ってしまったし、今日の昼は、こまかく刻んだ肉と野菜の汁物をすすっただけであったのだ。ずきずきと疼く胸の下側で、胃袋がもっとまともな食事をよこせと騒いでいるような心地であった。


「ウル・レイとヴィナ=ルウが腕によりをかけて晩餐をこしらえてくれているから、楽しみにしているといい。……と、言ったそばから出来上がったようだな」


 家の戸板が叩かれて、ヴィナ=ルウたちがかまど小屋から戻ってきた。

 その瞬間、えもいわれぬ芳香がシュミラルの鼻腔を直撃した。

 シュミラルが驚いている間に、幼き長兄が「わーい!」と声をあげる。


「ぎばかれーだね! ウル・レイかあさんもぎばかれーをつくれるようになったの!?」


「いいえ、これはファの家のアスタが届けてくれた材料で、ヴィナ=ルウがこしらえてくれたのよ」


 ふたりの手によって、鉄鍋が広間の奥のかまどに置かれた。

 鍋には木の板で蓋をされているのに、強烈な香りがたちこめている。アスタの考案した『ギバ・カレー』とは、そういう料理であるのだ。


「他の料理も運んでくるから、もう少し待っていてね」


 穏やかに微笑むウル・レイ=リリンのかたわらで、何故かヴィナ=ルウは目を伏せていた。

 しかしすぐに広間を出ていってしまったので、理由を尋ねることもできない。


 シュミラルはギラン=リリンに手を借りて起き上がり、壁にもたれて座り込んだ。

 空いた寝具は、長兄が笑顔で片付けてくれている。長姉はよちよちとした足取りで母親のことを追おうとしていたので、父親の手で捕獲されることになった。


「……アスタ、リリンの家、訪れたのですか?」


「ああ。またサウティの集落に向かう途中で、立ち寄ったらしい。なんでも、北の民に食べさせる食事の作り方を考案しているのだそうだ」


 それはシュミラルには、初耳であった。

 雨季である現在、北の民は森辺に道を切り開く工事に駆り出されているのだ。その食事はサウティの集落で作られているという話であったので、アスタがそちらに向かうことになったのだろう。


「アスタにそれを頼んだのは、ダリ=サウティであるらしいがな。まあ、事情はよく知らないが、ダリ=サウティの考えることに間違いはなかろう」


 ダリ=サウティは、森辺の三族長のひとりである。シュミラルは数えるほどしか顔をあわせたこともないが、確かに族長たりうる立派な人物であるように思えた。


 また、かつての族長筋であったスン家から、現在の三族長がどのような形で族長の座を受け継いだのか、その顛末もこのリリンの家で聞かされていた。


 スン家の人間が大罪人であったという話は、シュミラルも最初からわきまえていた。その罪が暴かれた当時、シュミラルもまだ宿場町に滞在していたのである。


 だが、その裏でどのような騒ぎがあったのか、それを克明に聞くのは初めてのことであった。家長会議という場において、アスタがスン家の大罪を暴いたのだと知らされたときは、きわめて驚かされたものであった。


(しかし、それが『星無き民』というものであるのだろう。自らは星を持たぬまま、周囲の星に大きな変転をもたらす、それが『星無き民』であるのだ)


 そのアスタが、現在は北の民のために力をふるっているのだという。

 それで今度はどのような変転がもたらされるのか、そんな想像をするだけで、シュミラルは少し胸が高鳴ってしまった。


(思えば、私の運命もアスタとの出会いによって大きな変転を迎えることになったのだ。アスタが宿場町に屋台を出して、そこにヴィナ=ルウを招いたりしていなかったら、私が神を乗り換えることにもならなかったのだろう)


 しかしそれでも、シュミラルの運命はシュミラルのものであった。

 アスタとの出会いによって大きく動いた自らの運命を、正しい軌道に乗せられるかどうか、それはシュミラルの行いひとつにかかっているはずであった。


「待たせてしまいましたね。それでは、晩餐を始めましょう」


 気づくと、シュミラルの前に『ギバ・カレー』の皿が置かれていた。

 その強烈な芳香が、物思いに沈んでいたシュミラルの心を現実へと引き戻していく。


 ギラン=リリンが食前の文言を詠唱し、3人の家人とヴィナ=ルウがそれを復唱した。

 その復唱が終わるなり、長兄がまた「わーい!」とはしゃいだ声をあげる。


「ぎばかれー、うれしいな! ウル・レイかあさんは、いつになったらぎばかれーをつくれるようになるの?」


「ぎばかれーを最初の香草から作りあげることができるのは、ファの家のアスタとルウ家の人間だけであるのよ。これはものすごく手間のかかった料理であるのですからね」


 母と子の会話を聞きながら、シュミラルは木皿を取り上げた。

 シムの香草が6種も使われているという、アスタの故郷の料理である。

 その香りを嗅いでいるだけで、唾液があふれかえってくる。胃袋は、今にもぎゅるぎゅると大きな音をたててしまいそうだった。


「シュミラルも、こいつを口にしたことはあるのだろう?」


 ちぎったポイタンを『ギバ・カレー』にひたしながら、ギラン=リリンが笑顔で問うてくる。

 シュミラルはしみじみとした気持ちで「はい」と答えてみせた。


「一度だけ、口にしました。森辺の家人、認められた夜です」


「ああ、あの夜はルウ家で晩餐を取ったのだったな。そんな日にぎばかれーをふるまうとは、ルウ家の女衆も気がきいているな」


 それからギラン=リリンは、けげんそうに小首を傾げた。


「しかし、その日が訪れるまでは、お前も宿場町で夜を明かしていたのだろう? それなのに、ぎばかれーを口にする機会はなかったのか?」


「……はい? どういう、意味でしょう?」


「いや、アスタは宿屋でもこの料理を売っており、お前はその宿屋の客であったと聞いていたように思うのだが、それは俺の記憶違いであったのかな」


 シュミラルは、いささかならず虚をつかれることになった。


「……そのような話、ご存じでしたか」


「それはまあ、お前に氏を与えるかどうかを見極めるためには、どんな話でも聞いておく必要があるからな。ルウやルティムに足をのばしたときに、あれこれ聞いて回ったのだ」


 シュミラルは答えあぐねて、視線をさまよわせることになった。

 その過程でヴィナ=ルウと目があってしまい、「何よぉ……」と赤い顔でにらまれる。


 シュミラルはアスタから「宿場町で『ギバ・カレー』を食べないでほしい」と願われていたのだ。

 アスタの屋台でも、シュミラルが宿泊していた《玄翁亭》でも、『ギバ・カレー』は販売されていた。《銀の壺》の同胞がそれを食するかたわらで、シュミラルは思いも寄らぬ我慢を強いられることになったのである。


 それはほとんど拷問に近い行いであった。どうしてアスタがそのようなことを願ったのか、シュミラルは苦悩しながら5日ほどの日を過ごすことになったのである。


 その答えは、シュミラルが森辺の家人になることを許された日に明かされることになった。

 ドンダ=ルウのはからいで、ルウ家で晩餐を食べていくことになり、その場でこの『ギバ・カレー』がふるまわれることになったのだった。


「こいつはヴィナ姉がこしらえたんだぜー」というルド=ルウの言葉で、シュミラルはすべてを悟ることができた。

 アスタはきっと、ヴィナ=ルウの作る『ギバ・カレー』を最初に口にしてほしいと、そのように願ってくれていたのである。


 アスタに理由を問うたわけではない。しかしそれ以外に答えはないように思われた。

 東の生まれであれば、この『ギバ・カレー』はどんなギバ料理よりも美味であると感じられたはずだ。それどころか、シュミラルはかつての故郷で口にしてきたどのシム料理よりも、『ギバ・カレー』が美味であると感ずることができたのだった。


 しかもそれを手がけたのがヴィナ=ルウであると聞いて、シュミラルがどれほどの幸福感を抱くことになったか。

 5日にも及ぶ忍耐の日々は、すべてこの日の喜びを迎えるための試練であったのだと、シュミラルはそのように確信することがかなったのだった。


「……とりあえず、宿屋でも口にする機会はなかった、ということだな」


 笑顔で言いながら、ギラン=リリンが果実酒を口にした。


「まあ、何でもいいから食べるといい。冷めてしまったら、せっかくのぎばかれーも台無しだ」


「はい」とうなずいて、シュミラルは木匙を取り上げた。

 それで『ギバ・カレー』をすくいあげて、口に運ぶ。


 半月ぶりの、素晴らしい味わいであった。

 さまざまな香草の味と香りが渾然一体となって、口の中を駆け巡っていく。どれも馴染み深い味と香りであるのに、まるで初めて口にするものであるように感じられてしまう。あらためて、それは不思議な感覚であった。


 使われているのは、ギバのバラ肉と、こまかく挽かれた肉、それにアリアとチャッチとネェノンであった。

 ルウ家では、もっとさまざまな野菜が使われていた。しかしそれでも、この夜の『ギバ・カレー』があの夜の『ギバ・カレー』に劣っているとは思えなかった。


 焼いたポイタンをひたして食べると、また美味である。

 これならば、シャスカをからめて食しても美味なのではないだろうか。単体ではなく、何かを添えて食べるのに適した味つけであるのだ。


 知らず内、シュミラルは満足の吐息をつくことになった。

 それから、ヴィナ=ルウを振り返る。


「とても美味です。味わい、素晴らしいです」


「ああそう……かれーの素を届けてくれたアスタに感謝することねぇ……わたしひとりじゃ、とうていかれーの素を作ることなんてできないんだからぁ……」


 ヴィナ=ルウはずっとシュミラルのことを横目で見つめていたようだが、つんとそっぽを向いてしまった。

 その横顔がほのかに赤らんでいるのが、とても可愛らしい。


「ルウ家でも、かれーの素というものを作れる人間は限られているのでしょうか?」


 ウル・レイ=リリンがひかえめな調子で尋ねると、「そうねぇ……」とヴィナ=ルウは前髪をかきあげた。


「とにかく香草の分量を覚えるのが大変だから、よほど熱心にかまど番の仕事を学んでいる人間しか、作ることはできないでしょうねぇ……あとは、モルン=ルティムだとかヤミル=レイだとかは、商売の後でルウ家に立ち寄ることが多かったから、たしかひとりでも作れるようになっていたはずよぉ……」


「そうなのですか。眷族でも、ひとりでかれーの素を作れるかまど番はいたのですね」


「ええ……それに、ファの家の近在に住まっている氏族なんかは、あらかた作り方を覚えているのじゃないかしら……あちらは毎日のように、商売で使うかれーの素を作っているはずだから……」


「いいなあ! リリンのみんなもつくれるようになればいいのに!」


 口の周りを『ギバ・カレー』で汚した長兄が、にこにこと笑いながらそう言った。

 その口もとをぬぐってあげながら、「そうねえ」とウル・レイ=リリンも微笑んでいる。


「わたしたちも、もっと頻繁にルウ家に通って、手ほどきを受けるべきかしらね」


「あなただったら、すぐに覚えることができるわよぉ……わたしなんかは、どうしたって覚えることができなかったけどぉ……」


 それが無念でならないように、ヴィナ=ルウが軽く唇を噛んだ。

 ウル・レイ=リリンがそちらを振り返り、精霊のような表情でふわりと笑う。


「だけどヴィナ=ルウは、それを使ってこのように見事なぎばかれーをこしらえることができるではないですか。それだって、見事な手練だと思います」


「そんなことないわよぉ……かれーの素を使えば、誰だって美味しいぎばかれーを作ることができるのでしょうから……」


「そうなのでしょうか? でも、ヴィナ=ルウは何度も味見をして、この味を作りあげたでしょう? カロンの乳を使ったり、すりおろしたラマムを入れてみたり……そういった手間をかけているからこそ、このぎばかれーはこれほどまでに美味なのだと思います」


 ヴィナ=ルウはうつむいて、その表情を隠してしまった。

 ただその口もとは、さきほどよりも赤らんでしまっている。

 なんと可憐な姿であろう、とシュミラルは胸の詰まる思いであった。


 ヴィナ=ルウのかたわらで、ヴィナ=ルウの作った『ギバ・カレー』を食している。それだけで、シュミラルの胸中にはたとえようもない幸福感があふれかえってしまうのだった。


「……もしもヴィナ=ルウとシュミラルが婚儀をあげるとしたら、いったいどちらがどちらの家に入ることになるのだろうな」


 と、ギラン=リリンがいきなりそのようなことを言い出した。

 うつむいていたヴィナ=ルウが、ものすごい勢いで顔を上げる。


「な、な、何を言っているのよぉ……? この人は、まだ婚儀をあげられるような立場ではないでしょう……?」


「いずれはそういう話に落ち着くのかもしれんのだから、今から話をして悪いことはあるまい」


 まったく悪びれた様子もなく、ギラン=リリンは笑っている。

 すべてを包み込むような、とても温かい笑顔である。


「俺としては、ヴィナ=ルウをリリンの家に迎えたいと願っているのだ。親筋たるルウの本家の長姉に嫁入りを願うというのは、いささか不遜な話なのかもしれないが、そちらには3人も立派な男衆がそろっていることだし、そうそうヴィナ=ルウの子に家長の座が巡ってくることもないだろう。それならば、やはりシュミラルに婿入りさせるのではなく、ヴィナ=ルウに嫁入りしてもらいたいと願っている」


「だ、だからぁ……」


「そうしたら、シュミラルはリリンの分家の家長ということになるが、しばらくは俺の家で晩餐をともにする機会もあろう。今日のこの夜のようにな」


 ヴィナ=ルウはくたくたと、背後の壁にもたれかかってしまった。

 その姿を見て、ウル・レイ=リリンが「家長」と声をあげる。


「今のは少なからず、配慮に欠けた言葉であると思います。ふたりはまだ、おたがいの気持ちをはかっているさなかであるのですから」


「そうなのかな。俺から見ても、似合いのふたりであると思うのだが」


「いくら外からそう見えても、大事なのはおたがいの気持ちでしょう?」


 そうしてウル・レイ=リリンは、また精霊めいた微笑みをヴィナ=ルウに投げかけた。


「ヴィナ=ルウ、何も焦らず、自分の気持ちをゆっくりと見定めてください。シュミラルにリリンの氏が与えられるまで、まだ短からぬ時間が残されているのでしょうから」


 ヴィナ=ルウは何も答えられぬまま、壁にへばりついている。

 幼子たちは、不思議そうにその姿を眺めていた。

 やがてヴィナ=ルウが、恨めしげな目をシュミラルに向けてくる。


「……あなたはよくもまあ、そんな他人事みたいな顔をしていられるものねぇ……?」


「申し訳ありません。私、肌、黒いので、あまり顔色、変わらないのです」


 シュミラルは『ギバ・カレー』の木皿を敷物の上に置いて、頭を下げてみせた。


「でも、頬のあたり、熱く感じます。たぶん、ヴィナ=ルウ、同じぐらい、羞恥、感じています」


 ヴィナ=ルウは、真っ赤な顔で「もう……」と手を振り上げた。

 しかしシュミラルを叩くことはできず、また壁に取りすがってしまう。

 そんな姿も愛おしく感じられる、騒がしくも幸福な夜であった。

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