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異世界料理道  作者: EDA
第三十章 群像演舞~三ノ巻~
503/1706

    城の少女と森辺の少女(下)

2017.9/19 更新分 1/1

《銀星堂》という料理店における食事会が行われたのは、黄の月の22日であった。

 朝から昼までは文字の勉強、昼からは礼儀作法の勉強、といつも通りの日課をこなしてから、母親とともにジェノス城を出立する。多忙な父親は、本日の食事会に出席できないのだそうだ。


「だから、今日の取り仕切り役はポルアースなの。無理を言ってオディフィアの席を空けてもらったのだから、きちんと御礼を言うのよ?」


「うん、わかった」


 トトスの車に揺られながら、オディフィアはまたわずかに胸が高鳴っているのを感じていた。

 けっきょくトゥール=ディンが来るか来ないかは、その場に出向いてみないとわからない状況であったのだ。これもまた、昼の軽食が当たりの日であるか外れの日であるかを待ち受けるのと同じような心境であった。


 それなりの時間が過ぎた後、トトスの車が停止する。

 まずはエウリフィアが、それからオディフィアが、それぞれの侍女をともなって車から降りる。6歳になって、オディフィアはようやくこの高い階段をひとりで降りられるようになっていた。


 地面に降り立つと、白い甲冑を着込んだ武官たちがずらりと立ち並んでいる。

 その間を通って、オディフィアたちは建物の扉をくぐった。


「お待ちしておりました。ご予約の、エウリフィア様とオディフィア様でございますね。お連れ様は、すでにお待ちになられています」


 優しそうな面立ちをした老女が、笑顔でそのように出迎えてくれた。

 エウリフィアに対して、「ジェノス侯爵家第一子息夫人」という仰々しい肩書きを述べてこようとしないのが、オディフィアには少し新鮮であった。


 ここは城下町の、平民の住まう区域の料理店であるそうなのだ。

 それでいて、非常に高額な料理が売られているために、顧客のほとんどが貴族であるのだという。両親のお供であちこち連れ回されることの多いオディフィアであるが、こういった類いの料理店というものを訪れるのは初めてかもしれなかった。


「おお、お待ちしておりましたよ、エウリフィア。よろしければ、そちらの壁側の席にお座りください」


 部屋に入ると、ポルアースがそのように述べてきた。

 大きな卓が左右に並べられており、すでに何名かの人間が座している。オディフィアにわかるのは、ポルアースの伴侶メリムと、トゥラン伯爵家のトルスト、それに占星師のアリシュナぐらいのものであった。


「あら、ずいぶん不思議な席順であるようね。これはあなたが考えたものであるのかしら?」


「考えた、というほどのものではありません。ただ、できるだけさまざまな立場のお相手と交流を結ぶことができれば幸いと思いまして」


 どちらの卓でも、ジェノスの貴族と東の民が入り乱れるように席が決められていたのだ。ポルアースが指し示す左側の席では、2名の東の民と1名の貴族らしき人物が座しており、向かいの5席はまるまる空いていた。


「なるほど。どちらの卓でも5名ずつの森辺の民を迎えられるように配置されているのね。あなたらしい愉快なやり口だわ」


 エウリフィアは左右の卓に等分に笑みをふりまきながら、指定された席に向かった。オディフィアは、その後をちょこちょこと追いかける。

 そうしてふたりが席に着くと、ポルアースが改めて声をあげた。


「《黒の風切り羽》の方々にご紹介いたします。そちらはジェノス侯爵家の第一子息メルフリード殿の伴侶であられる貴婦人エウリフィア、そしてその第一息女たるオディフィア姫であります」


 そしてこちらにも、他の客人たちが紹介される。アリシュナを除く3名の東の民はみんな《黒の風切り羽》という商団の人間で、見知らぬ貴族は外務官という職にある人物であった。

 オディフィアの隣には2名の東の民が並んでおり、その向こうに外務官が座している。2名の東の民は、商団の副団長とそれに次ぐ立場の人間であるということであった。


「本来であれば、外務官の御方がもう1名参席されるはずでしたのよね。その席を奪ってしまって非常に心苦しく思っておりますわ」


 エウリフィアに視線を向けられて、オディフィアは「ごめんなさい」と頭を下げてみせた。

 外務官は、「滅相もない」と慌てた様子で手を振っている。


「もとより、貴婦人がひとりきりというほうが心苦しい話でありましたからな。本来であればメルフリード殿が参席するところであったのですから、そのご息女たるオディフィア姫ほどその場に座るのに相応しい御方はおられぬことでありましょう」


「とてもかんしゃしています」とオディフィアはもう一度頭を下げておくことにした。これは自分の我が儘であるのだから、母親のことを悪くは思ってほしくなかった。


 そうして取り仕切り役のポルアースにも御礼の言葉を申し述べると、その隣に座っていたメリムが「まあ」と微笑んだ。


「少し見ない間に、オディフィア姫はとても大人びたようですね。もう立派な貴婦人に見えてしまいますわ」


 オディフィアは、覚えたての丁寧な言葉を使っているばかりであった。

 よほど気を張らなくては、こんな言葉も出てこない。立派な貴婦人への道のりはまだまだ遠かった。


 そうして老女の手によってお茶がいれられて、しばらく歓談が続けられた後、森辺の民の到着が告げられた。

 しばらく収まっていた胸の高鳴りが、またやってくる。オディフィアは卓の陰で装束の裾を握りしめながら、そこに森辺の民が現れるのを待ち受けることになった。


 見覚えのあるようなないような、褐色の肌をした若い人間たちがぞろぞろと入室してくる。

 森辺の民は、10名も招かれているのだ。

 その中で、黄色い肌をした人間がふたりいた。アスタという料理人と、見覚えのない10歳ぐらいの少女だ。


 そのふたりの陰に隠れるようにして、トゥール=ディンがいた。

 オディフィアは思わず、卓の下でぱたぱたと足を動かしてしまった。


 しかし、トゥール=ディンのほうはオディフィアの存在に気づいていないようだった。大勢の人間がいるとき、たいていトゥール=ディンは目を伏せてしまっているのだ。

 そうしてトゥール=ディンがアスタと一緒に反対側の卓に向かってしまったので、オディフィアは思わず「あ……」と声をあげてしまった。


「あら、トゥール=ディンもそちらに座られてしまうの? オディフィアが、あなたと話したがっているのだけれど」


 すかさずエウリフィアがそのように声をあげると、トゥール=ディンはおどおどと視線をさまよわせた。

 トゥール=ディンのそばにいた西の民の娘が、笑顔でその腕にからみつく。


「それでは、わたしと一緒にあちらの卓に行きませんか? わたしは、トゥール=ディンと一緒がいいです」


 トゥール=ディンと同じように、髪を首の横でふたつに結わった、可愛らしい娘であった。

 年齢も背格好も、トゥール=ディンと同じぐらいだ。ただ、トゥール=ディンとは正反対で、にこにこと元気そうに微笑んでいる。その身なりからして、城下町の外に住む民であるようだった。


 ともあれ、トゥール=ディンはこちらの卓に着席してくれた。

 ただし、オディフィアとはちょっと席が離れてしまっている。オディフィアの正面はシーラ=ルウという森辺の料理人で、トゥール=ディンはその左隣であった。


「あら、あなたはシーラ=ルウであったのね。髪が短いし、装束も普段と違っているから、見違えてしまったわ」


 エウリフィアがそのように呼びかけると、シーラ=ルウは「はい」とたおやかに微笑んだ。


「森辺の女衆は、婚儀をあげると髪を切って、装束も新しいものに改めるのです」


「まあ、それではあなたも婚儀をあげたということね。もしかしたら、お相手はそちらのダルム=ルウであるのかしら?」


 シーラ=ルウは、また「はい」と微笑んだ。

 ちょっと恥ずかしそうな、それでいて幸福そうな微笑であった。


「やっぱりね。ダレイム伯爵家の舞踏会でお目にかかってから、いずれあなたがたが伴侶となるのではないかと感じていたわ。とてもお似合いの、素敵な夫婦ね」


「ありがとうございます、エウリフィア」


 シーラ=ルウの隣で、ダルム=ルウは目だけで礼をしていた。

 このダルム=ルウという人物は、オディフィアも舞踏会で目にした記憶がある。あのときは城下町の宴衣装を纏っていたし、髪も綺麗にくしけずられていたが、今日の彼は別人のように粗野で迫力があるように感じられた。


 きっと森辺の狩人というのは、これが普通であるのだろう。オディフィアは他にも何名かの狩人を目にしたことがあるが、たいていはこういう武官とも異なる不思議な気配を漂わせていたのだった。


 しかし今はそれよりも、トゥール=ディンである。

 トゥール=ディンは最初に会釈をしたきり、あとは隣の少女とばかり喋っていた。

 いや、トゥール=ディンは気弱そうに目を伏せており、それを元気づけるように少女が話しかけているのだ。

 トゥール=ディンがこちらを見てくれないので、オディフィアはだんだん悲しい気持ちになってきてしまった。


「……あなたがミケルという料理人の娘御であるのね。お噂は、かねがねうかがっているわ」


 エウリフィアが遠い席から呼びかけると、少女は「はい」と笑顔で振り返った。


「トゥランのミケルの娘で、マイムと申します。貴き方々に礼を失してしまわないように心がけますので、ご同席をお許しください」


「今日は格式張った会食でもないのだから、何も堅苦しくかまえる必要はないわ。……あなたがたは、今でも森辺の集落に身を寄せているのよね?」


「はい。父の怪我もずいぶんよくなってきたのですが、トゥランの治安が改善されるまでは滞在を許していただくことがかないました」


「護民兵団の綱紀粛正というやつね。わたくしの伴侶もそれには一役買っているはずなので、一日も早くトゥランに安息がもたらされるのを願っているわ」


 そのように述べてから、エウリフィアはちらりとオディフィアのほうを見てきた。


「オディフィア、あなたもトゥール=ディンに御礼を言うのじゃなかったの?」


「うん」とうなずいたが、なかなか言葉が出てこなかった。

 その間に、トゥール=ディンがオディフィアのほうに目を向けてくる。


「お、おひさしぶりです、オディフィア。わたしの菓子は毎回、無事に届いていますか?」


「うん」


「それなら、よかったです」


 ほっとしたように、トゥール=ディンが息をつく。

 それでオディフィアが御礼の言葉を口にしようとしたとき、料理人のヴァルカスが部屋に入ってきてしまった。


「お待たせいたしました。下りの五の刻となりましたので、料理をお出しいたします」


 トゥール=ディンの目も、そちらに向けられてしまう。

 オディフィアは無念でならなかったが、食事会の開始を邪魔するわけにもいかなかった。


 その後は、ぞくぞくと料理が届けられてきた。

 ジェノスでも一、二を争うと評判の、ヴァルカスの料理である。


 しかし正直に言って、オディフィアはあんまりヴァルカスの料理が得意ではなかった。

 ヴァルカスは、ジェノスでもっとも香草を扱うのに長けている、という評判であるのだ。オディフィアもその物珍しい料理には驚かされることが多かったが、彼の料理はいくぶん辛さや苦さが強すぎるように感じられてならなかった。


「子供の舌というのは鋭敏すぎて、味を強く感じすぎてしまうのよ。ヴァルカスの料理は大人のために作られた料理であるのだから、オディフィアにはちょっと刺激が強すぎるのでしょうね」


 いつだったか、エウリフィアはそのように述べていた。

 確かに城の料理人たちは、オディフィアの食べるものと大人たちの食べるもので、味をいくぶん変えてくれていた。オディフィアには、そちらのほうが美味であるように感じられるのである。


 それに、森辺の料理人アスタの料理だ。

 彼もまた、ヴァルカスほど香草を使ったりしないので、オディフィアには非常に美味であると感じられることが多かった。


 そしてやっぱり、トゥール=ディンである。

 アスタやリミ=ルウという娘の菓子も、美味だとは思う。だけどやっぱり、オディフィアにとって一番美味と思えるのはトゥール=ディンの菓子であるのだ。


 エウリフィアは、城の料理人が作る菓子もトゥール=ディンには負けていない、としょっちゅう言っている。それがオディフィアには、信じられないぐらいであった。


 トゥール=ディンの菓子を口にすると、心の底から幸福な気持ちになれる。城の料理人が作る菓子より森辺の料理人が作る菓子のほうが美味しく感じられるし、その中でもトゥール=ディンは別格に感じられてならないのだった。


「……オディフィア、きちんと食べているわね」


 と、エウリフィアがこっそり囁きかけてきた。

 シャスカという不可思議な料理をちゅるちゅるとすすりながら、オディフィアはうなずいてみせる。


 このシャスカも、いささか辛さがきついように感じられた。

 しかし隣の東の民などは、別に出された後入れの調味料を丸ごと投じてしまっている。そんなに辛くしたら、オディフィアにはひと口も食べられそうになかった。


 それでも何とかここまでは、すべての料理を残さずに食べることができている。

 オディフィアの料理は大人の半分ぐらいの量しかなかったし、前菜も汁物料理もそれほど刺激の強い料理ではなかった。また、他の人を押しのけて参席した身であるのだから、出された料理はすべて食べきるのが自分の果たすべき使命であるのではないかとオディフィアは考えていた。


 トゥール=ディンは、新しい料理を出されるたびに、瞳を輝かせてマイムと議論を交わしている。

 トゥール=ディンにとって、これらはきわめて美味なる料理であるのだろう。そして、料理人であるトゥール=ディンは、美味なる料理を前にしたときだけ、とても熱っぽく振る舞う気質であるのだった。


 オディフィアは、早くすべての料理を食べきって、トゥール=ディンとゆっくり言葉を交わしたいと、そのようなことばかりを考えている。

 そんな中で、野菜料理が出されることになった。


「まあ、これはとりわけ不思議な料理ね」


 エウリフィアは、そう言っていた。

 オディフィアは、悪い意味で同じ気持ちであった。


 その料理は、苦さや辛さと同じぐらいオディフィアが苦手である、酸っぱさを主体にした料理であったのだ。

 オディフィアは、ママリアの酢も苦手である。砂糖をたくさん使って甘く仕上げてもらえれば、何とか口にできるという感じだ。この料理は、ママリアの酢ばかりでなく、得体の知れない酸っぱさの塊であった。


 甘さも感じられるのだが、酸っぱさが邪魔である。せっかくの甘さも酸っぱさと混じり合って、気持ちの悪い味になってしまっている。ヴァルカスには申し訳ないが、こればかりはとうてい美味とは思えなかった。


「すごいですね! どうしたら、こんな不思議な味を作りあげることができるのでしょう!」


 と、トゥール=ディンの声がこちらにまで聞こえてきて、オディフィアを驚かせた。

 こちらの卓の人間がいっせいに振り返ったので、トゥール=ディンは「も、申し訳ありません……」とうつむいてしまう。


 その後は、みんなの視線から逃げるようにして、ひたすらマイムと言葉を交わしていた。

 その姿を見ている内に、オディフィアはどんどん悲しい気持ちになってきてしまった。


 オディフィアはまだ幼いので、その会話の中に入ることもできないのだ。

 トゥール=ディンの感じた喜びや昂ぶりを、ともに分かち合うことができない。こんなに食べづらい料理も、トゥール=ディンたちにとっては美味に感じられるのだ。


 それに、オディフィアは城下町の貴族であり、トゥール=ディンは森辺の料理人であった。

 料理というものに対する心がまえが、最初から異なっているのだろう。オディフィアは食べる側であり、トゥール=ディンは作る側であるのだから、それが当然であるのだ。


 だけどオディフィアは、悲しい気持ちを止めることができなかった。

 オディフィアは、美味しい菓子という存在を通して、トゥール=ディンを知ることになったのである。オディフィアとトゥール=ディンを結びつけているのは、美味しい菓子の存在であるのだ。その存在を同じ気持ちで分かち合うことができないというのは、何だかものすごく残念なことであるように感じられてしまった。


「これはさすがに、オディフィアの口にあわないかしら。無理して全部を食べる必要はありませんからね?」


 エウリフィアが、またこっそりと囁きかけてきた。

 オディフィアはぷるぷると首を横に振って、おかしな味のする野菜を無理やり口の中に詰め込んだ。

 ここで料理を残したら、いっそうトゥール=ディンとの間に高い壁ができてしまうように感じられたのだ。


 最後はほとんど噛まずに呑み込んで、それをお茶で流し込んだ。

 涙がにじむほど苦しかったが、皿を空にすることはできた。


 ふと正面に目を向けると、ダルム=ルウが仏頂面で酒杯をあおっていた。こちらの卓の男性たちは、みんなお茶でなく酒を飲んでいたのだ。


 シーラ=ルウはレイナ=ルウという娘とせわしなく語らっており、トゥール=ディンはマイムと語らっている。そんな娘たちにはさまれて、ダルム=ルウはオディフィアと同じぐらい静かであった。


「……ダルム=ルウも、お口にあわなかったのかしら?」


 と、客人が静かになるとすかさず水を向けるエウリフィアである。

 ダルム=ルウは仏頂面のまま、それを見返した。


「肉でも一緒に出されていれば、ここまで苦労することもなかったのだがな。今の料理は、少なからず食べにくかった」


「森辺の民は、料理を残してはならないという習わしをお持ちなのよね。いっそ、奥方に分けて差し上げたらよかったのじゃないかしら」


「……そんな子供じみた真似ができるか」


 ダルム=ルウは不機嫌そうに言い捨てて、エウリフィアは愉快そうに笑う。

 そうしてエウリフィアは、東の民や外務官にも声をかけていた。

 森辺の娘たちが料理に夢中になってしまっていたため、彼らもずいぶん静かになっていたのだ。


 エウリフィアが声をかけると、そういった静けさが追いやられて、楽しく浮き立った空気が生まれることになる。エウリフィアは、いつでもこうして他者のことを一番に考えているのだった。


 そんなエウリフィアのことを我が儘であると陰口を叩くような人間は、きっと何もわかっていないのだろうと思う。オディフィアは、自分の母親ほど優しくて思いやりのある人間はいないと信じていた。


 そして――自分も大人になったら、母親のように他者のことを思いやれる人間になれるのだろうかと、オディフィアはいつもそんな風に考えさせられてしまうのだった。


「あら、これはまた見事な料理ねえ」


 と、エウリフィアの明るい声音が響いた。

 ついに主菜の肉料理が卓に並べられたのだ。

 これもいささか辛みが強かったが、オディフィアでも無理をせずに食べられる料理であった。


 カロンとキミュスと魚の肉を使った料理である。

 魚というのは、あまり食べなれない。それでも、大人は美味だと感じるのだろうな、と想像することはできる。この中では、キミュスの胸肉が一番オディフィアの口にあうようだった。


 料理人たちのほうは、もう大絶賛である。トゥール=ディンも他の娘たちも、喜びと驚きの表情で3種の肉を頬張っている。礼を失しないように気持ちを抑えているのであろうが、それでも彼女たちが昂揚の極みにあることは明らかであった。


 ダルム=ルウも、今度は満足そうな面持ちで料理をたいらげている。

 東の民は感情が読めなかったが、ときおり放たれるのはすべて賞賛の言葉であった。


 やはり、大人にとってはこの上なく美味な料理であるのだ。

 マイムと語るトゥール=ディンも、きらきらと瞳を輝かせていた。


 オディフィアの心は、これ以上ないぐらい打ち沈んでしまっている。

 この場所を訪れるまで、期待に胸を弾ませていたのが嘘のようであった。


 もしかしたら、今日はこの場に来るべきではなかったのだろうか。

 そんな風に考えてしまう自分のことが、たまらなく嫌であった。


 最後に甘い菓子が届けられても、オディフィアの気持ちが変わることはなかった。

 美味しい菓子であるのだろうとは思う。しかし、オディフィアが求めているのは、この味ではなかった。お腹はいっぱいなのに胸の中が空っぽで、そこにひゅうひゅうと冷たい風が吹いているような心地であった。


「それではすべての料理をお食べいただきましたので、弟子たちとともにご挨拶をさせていただきたく思います」


 ヴァルカスの言葉とともに、その弟子たちが招き入れられる。

 その後はしばらくヴァルカスたちを交えて会話がなされていたが、オディフィアの耳にはまったく入ってこなかった。

 ただ、最後にポルアースが大きく声を張り上げたので、それだけは何とか聞き取ることができた。


「それでは、食後の酒を楽しみながら、我々も交流を深めさせていただこうか。城門の守衛には話をつけてあるので、一刻ばかりはお相手をお願いするよ、森辺の皆様方」


 卓の上の食器が片付けられて、新しいお茶が配られた。

 しかしオディフィアは、それに手をのばす気持ちにもなれなかった。


 あと一刻、こうして石のように静かにしていれば、この空虚な時間も終わりを告げるのだろうか。

 そのように考えていると、エウリフィアに肩を揺さぶられた。


「どうしたの、オディフィア? さっきから、トゥール=ディンがあなたを呼んでいるわよ」


「え……?」


 ぼんやり視線を巡らせると、トゥール=ディンがオディフィアを見つめていた。

 その顔は、とても心配そうな表情を浮かべていた。


「だ、大丈夫ですか? さきほどから、ずいぶん元気がないようですが……」


「うん……」


 食事が終わって、みんな声が大きくなってきている。トゥール=ディンの言葉を聞くには、卓の上に身を乗り出す必要があった。


「それであの、さきほどのお話なのですが……」


「さっきのおはなし?」


「はい、ですからその……」


 隣の卓から響いてきた笑い声に、トゥール=ディンの声がかき消された。

 酒の入ったポルアースとトルストが、談笑を始めたのだ。席の端と端にいる両者が語らうには、こちらの卓にまで届く声を張り上げる必要があるようだった。


 トゥール=ディンの言葉をしっかり聞きたくて、オディフィアはいっそう身を乗り出してみせる。

 すると、隣に座っていた東の民がすうっと立ち上がった。


「席、移動する、失礼でしょうか?」


「え? どういうことかしら?」


 エウリフィアが不思議そうに尋ねると、東の民は「はい」とうなずいた。


「賑やか、なってきましたので、彼女たち、会話、難しそうです。私、席、交換する、いかがでしょう?」


「それは嬉しい申し出ですけれど、トゥール=ディンのほうはいかがかしら?」


 トゥール=ディンは、ガタガタと音をたてて立ち上がった。

 それから、申し訳なさそうにマイムのほうを見る。


「あ、あの、マイム、非常に申し訳ないのですが……」


「わたしのことは気にしないでください。トゥール=ディンはさっきから、オディフィア姫のことを心配そうに見守っていましたものね」


 にこにこと笑いながら、マイムは東の民のほうを見た。


「よろしければ、シムのお話を聞かせてください。シャスカやギャマや香草について、シムの方々に詳しいお話をうかがいたかったのです」


「はい、存分に」


 東の民は、ひたひたと向かいの席に回り込んでいった。

 そちらにぺこりと頭を下げてから、トゥール=ディンがオディフィアのほうにやってくる。お茶や酒杯は、給仕の老女がさりげなく移動してくれた。


「失礼いたします。やっとゆっくりお話ができますね」


 席についたトゥール=ディンが、まずはそのように述べてきた。


「あの、本当にお気分は大丈夫ですか? 食事の途中から、ずいぶん元気をなくされているように見えたのですが……」


「……しょくじのとちゅうから?」


「はい。野菜料理を出されたぐらいからでしょうか。途中からは、オディフィアが泣いているように見えてしまったぐらいです」


 トゥール=ディンは、とても心配そうにオディフィアを見つめていた。

 オディフィアの知る、優しそうなトゥール=ディンの眼差しだ。

 オディフィアは、普段とは少し異なる感じで胸が高鳴っていくのを感じた。


「何度も呼びかけようと思ったのですが、わたしは大きな声を出すのが苦手なので……最初からもっと席が近ければよかったのですが……」


「うん」


「部屋に入って挨拶をしたときも、途中で食事が始まってしまい、ずっと心残りになっていました。中途半端な挨拶になってしまって申し訳ありません」


 そうしてトゥール=ディンは、ふいに口もとをほころばせた。


「本当におひさしぶりです。最後にお顔をあわせたのは雨季の終わり頃でしたから、もうふた月以上も経ってしまっているのですね。オディフィアは元気にお過ごしでしたか?」


 オディフィアは何だか胸が詰まってしまって、「うん」としか言えなかった。

「そうですか」と、トゥール=ディンはいっそう優しげに微笑む。


「あの、たくさんの贈り物をありがとうございました。オディフィアにいただいた髪飾りなどは、この前の宴で身につけることになって……色々な人たちから立派な飾り物だと言ってもらうことができました」


「……おくりもの、めいわくじゃなかった?」


「迷惑だなんて、そんなことは……驚きましたし、申し訳ない気持ちもありましたが、とても嬉しかったです」


 トゥール=ディンは、まだ11歳ぐらいのはずだった。

 それなのに、どうしてこんな風に大人びた顔で微笑むことができるのだろう。

 いつも気弱そうで、なかなか人と目をあわせようとしないのに、トゥール=ディンはときたまこんな風に大人っぽい顔で微笑んでくれるのだった。


「でも、以前にお伝えした通り、代価の他の贈り物はもう不要です。わたしはオディフィアに菓子を買ってもらえるだけで、十分に嬉しいのですから」


「……うれしいの? めいわくじゃない?」


「嬉しいです。わたしなどの作るものを、そこまで欲してくださるのですから」


 オディフィアは、空っぽであった胸の中にぐんぐんと温かいものが満ちていくのを感じた。

 悲しい気持ちが、トゥール=ディンの笑顔と言葉で溶かされていく。それはまるで、魔法のようだった。


 トゥール=ディンも、自分のことを気にかけてくれていたのだ。

 表情の動かない自分の気持ちを、家族のように察してくれていたのだ。

 そのように考えると、幸福感が血の流れに乗って手足のすみずみにまで行き渡っていくような心地であった。


「それで、さきほどのお話なのですが……」


「うん。……オディフィア、トゥール=ディンのこえがきこえてなかったの」


「そうみたいですね。周りが、騒がしかったですから」


 トゥール=ディンが、にこりと微笑む。


「あの、お茶会のお話です。王都という場所から訪ねてくる方々がジェノスを出ていくまで、わたしたちがかまど番として招かれることはない、ということで……とても残念ですね」


「……ざんねん?」


「はい。最近、アスタに新しい菓子の作り方を教えていただいたのです。でもそれは、くりーむというものを生地の周りに塗らなくてはいけないので、森辺で作ったものを城下町にお届けする、ということが難しいのです」


「うん……」


「でこれーしょんけーきという菓子なのですけれど、早くそれをオディフィアにも食べていただきたいです。だから、またお茶会というものに呼んでいただける日を、楽しみにしています」


 そこまでが、オディフィアの限界であった。

 オディフィアは弾みをつけて席を降りると、せいいっぱい腕をのばしてトゥール=ディンの首を抱きすくめた。


「ど、どうしたのですか、オディフィア?」


 トゥール=ディンの慌てた声が、耳のすぐそばから聞こえてくる。

 それにはかまわず、オディフィアはトゥール=ディンの温かい頬に自分の頬をすりつけた。


「あらあら、また幼子に戻ってしまったわね」


 エウリフィアの笑いを含んだ声が、後ろのほうから聞こえてくる。

 それでもオディフィアは、この温かい存在を手放すつもりはなかった。


「だ、大丈夫ですか? やっぱり、お加減が悪いようですね」


 温かい感触が、頭や背中に触れてきた。

 きっとトゥール=ディンが、オディフィアの小さな身体を抱きとめてくれているのだろう。


 もしかしたら、今のオディフィアであれば、さすがに表情が動いているのかもしれなかった。

 笑っているのか泣いているのかはわからないが、こんなにも心を揺さぶられてしまっている。オディフィアがこれほどの激情に見舞われるというのは、かつてないことであった。


 だけどオディフィアはトゥール=ディンの肩に顔をうずめているので、誰にもそれは確認できないはずだった。

 それでオディフィアは、かまいはしなかった。

 オディフィアはこんなにも幸福で、その手にトゥール=ディンを抱きしめている。今のオディフィアにとって、それ以外のことはどうでもよかったのだった。


「トゥール=ディン、だいすき」


 オディフィアが言うと、トゥール=ディンはくすりと笑ったようだった。


「ありがとうございます。わたしもオディフィアのことは、大好きです」


 トゥール=ディンの温かい手が、オディフィアの背中をぽんぽんと叩いてくる。

 それを心地よく感じながら、オディフィアはいっそう強い力でトゥール=ディンを抱きすくめたのだった。

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