第一話 城の少女と森辺の少女(上)
2017.9/18 更新分 1/1
・今回の更新は全12話です。
オディフィアの1日は、上りの三の刻の鐘とともに始まる。
もっとも、オディフィアは眠りが深いため、窓を開けられていても鐘の音色など聞こえた試しはない。それでもその刻限が訪れると、乳母の無慈悲な手によって無理やりにでも揺り起こされてしまうのである。
「おはようございます、姫様。沐浴の準備ができております」
眠い目をこすりながら身を起こすと、さっそくそんな声がかけられてくる。これも毎朝のことであった。
やわらかい屋内用の靴を履かされて、寝所のすぐ近くにある浴堂にまで連れていかれる。5歳を過ぎてからは手を引かれることもなくなったので、どんなに眠くとも転ばないように気をつけなくてはならなかった。
扉を開けると、薄物を纏った2名の女官が待ち受けている。
その女官たちのたおやかな指先が、オディフィアの着ていた夜着をするすると剥ぎ取っていった。
生まれたままの姿となり、浴堂に導かれる。
白い蒸気のたちこめた、石造りの一室である。
蒸気には、香草や花の香りが混じっている。オディフィアがぼんやりとその香りにひたっている間に、女官たちがやわらかい布で身体を清めてくれるのだ。
身体を清めたら、ぬるい湯で満たされた浴槽の中に座らされる。
水面には、たくさんの花びらが浮かべられていた。
オディフィアが腕を動かすと、花びらたちがくるくると回る。べつだんそれが楽しいわけでもなかったが、女官たちが髪を洗い終えるまで、オディフィアには他に為すべきことも残されていないのだった。
黙って座って湯に浸かっていると、うっかり眠ってしまいそうになる。だからオディフィアは、今日もせいいっぱい花びらを踊らせて、眠気を撃退するという大事な仕事に取り組むことにした。
そうしていい加減に腕がくたびれてきたところで、女官たちが仕事の終わりを告げてくる。
小部屋に戻って、水気を拭われ、髪をくしけずられるとともに、香油を全身にすりこまれていく。オディフィアはあんまりこの香油というやつの香りが好きではなかったが、これを塗らないとジェノスの民はすぐに肌が黄色く焼けてしまうのだという話であった。
(どうしてきいろくなったらいけないんだろう)
オディフィアの祖父にあたるマルスタインは、とても黄色い肌をしている。だけどそれが格好悪いとは思わないし、そもそも男であれば黄色い肌をした人間はたくさんいた。もしかしたら、男は香油というものを塗っていないのかもしれない。
しかし、父親のメルフリードみたいに、男でも白っぽい肌をした人間はいる。それは、メルフリードの母親が色の白い北部の生まれであるからだ、と聞いたような覚えがあった。
メルフリードの母親、つまりオディフィアの祖母にあたる人物は、オディフィアが生まれる前に亡くなっていた。だから、オディフィアは名前も覚えていない。王宮に飾られた肖像画を見る限り、確かに色が白くて美しい女性であるように思われた。
それにその女性は、色の淡い灰色の瞳をしていた。
オディフィアやメルフリードの瞳が灰色であるのは、その女性の血筋であるのだという。祖父などは顔をあわせるたびに、オディフィアがどんどんその女性に似ていくようだと笑いながら頬ずりをしてくれていた。
「お待たせいたしました。それでは、母上様のお部屋に参りましょう」
気づくと、オディフィアはすべての準備を整えられていた。
香油のすりこまれた身体には、ひだの飾りがたくさんついた白の装束が着させられている。母親のエウリフィアが白色を好んでいるために、オディフィアはこういった装束を着させられることが多かったのだった。
乳母と侍女に前後をはさまれて、回廊を歩く。
すれ違う人間は、全員女官だ。ここはジェノス城の後宮であり、原則としては男性の立ち入りが禁じられていた。
「おはよう、オディフィア。今日も素敵な衣装ね」
部屋に入ると、エウリフィアが笑いかけてきた。
オディフィアは膝ぐらいの高さのひだ飾りをつまんで、「おはようございます、かあさま」と応じてみせる。
エウリフィアの部屋の、応接の間である。
エウリフィアは長椅子にゆったりと腰かけており、その手には赤児が抱かれていた。
先の銀の月で2歳となった、オディフィアの妹だ。
しかし妹は藍の月の生まれであったので、まだとても小さかった。オディフィアは席につく前に、その妹の顔をよく見ておくことにした。
まん丸の顔をした、赤児である。
肌の色はオディフィアよりも白くて、ぱっちりと見開いた瞳は明るい茶色をしている。妹は、母親と同じ目の色で生まれたのだ。
「さわってもいい?」
「いいけれど、優しくね。せっかく今日は大人しくしているのだから」
この妹は、ちょっとしたことでもすぐに火がついたように泣いてしまうのだ。オディフィアも、この朝のお茶の時間で妹が泣きわめく姿を何度となく目にしている。
妹を泣かせたくはなかったので、オディフィアは優しくその頬に触れた。
とてもやわらかくて心地好い感触だ。
幸い、妹は泣いたりせずに、きょとんとオディフィアを見つめ返してくるばかりであった。
「オディフィアは、赤ん坊の頃からほとんど泣かない子供だったのにね。やっぱり、お父様に似たのかしら」
エウリフィアは、幸福そうに微笑んでいる。
確かにオディフィアは、母親よりも父親に似ていると言われることのほうが多かった。ほとんど泣かない代わりにほとんど笑うこともない、そういうところが父親に似ているのだそうだ。
「あんなに幼いのに泣いたり笑ったりしないっていうのは、さすがにちょっと普通ではないんじゃないだろうか?」
そんな風にこそこそと噂されているのを耳にしたこともあった。
オディフィアは同世代の子供とあまり触れ合う機会がないのだが、普通の子供はもっと頻繁に泣いたり笑ったりするものであるようなのだ。
オディフィアには、よくわからないことだった。
オディフィアだって、嬉しいことがあれば喜ぶし、つらいことがあれば悲しくなる。自分では、それを隠しているつもりもなかった。ただ、周囲の人々のように顔が大きく動いたりしないだけであるのだった。
「……どうしたの、オディフィア?」
と、エウリフィアが不思議そうに尋ねてくる。
「なにが?」と問い返すと、エウリフィアはころころと笑い始めた。
「だって、座りもせずに、自分の頬をぐいぐい引っ張っているのですもの。自分と妹のどちらの頬がやわらかいか、確かめているのかしら?」
どうして自分の顔はあんまり動かないのだろう、と考えている内に、そんな珍妙な真似をしてしまっていたらしい。オディフィアは両手を下ろしてから「なんでもない」と答えて、母親の向かいに着席した。
「……オディフィアがどんな気持ちでいるかは、わたくしやお父様には全部わかっていますからね。無理に表情を動かす必要はないのよ?」
オディフィアは何も言っていないのに、母親にはすべて伝わってしまっていた。
オディフィアは、「うん」とうなずいてみせる。
「それでは、お茶にしましょうね。今日はアロウのお茶でいいかしら?」
「うん」
部屋の隅に控えていた母親の侍女が、甘酸っぱい香りのするアロウの茶をいれてくれた。
「お父様は、今日も忙しいみたい。でも、ひさびさに晩餐を一緒にとれるはずだと言っていたわ」
「うん」
「わたくしも中天の軽食を済ませたら、ちょっと出かけなければならないの。下りの三の刻には戻れると思うから、あなたもお稽古をしっかりね」
「うん」
何の代わり映えもしない、いつも通りの朝の光景であった。
そうして言葉を重ねる内に、上りの四の刻の半の鐘が鳴ってしまう。
「それでは、学業の時間ね。また中天に」
「うん」
次の間に控えていた侍女とともに、自分の部屋に戻る。
部屋の前では、教師役の老女が待ちかまえていた。
「おはようございます、オディフィア姫。本日は、文字の書き取りの修練でございます」
「はい。おねがいいたします」
貴婦人の礼を返して、ともに入室する。
5歳になってから、オディフィアは勉強というものを課せられるようになった。
オディフィアは6歳であり、すでに現在は黄の月も終わりかけていたから、すでに1年と半分はこのような生活に身を置いていることになる。
勉強のほとんどは、文字の読み書きというものであった。
ただ最近は、少しずつ計算の勉強というものも行われるようになってきている。それでいずれ読み書きに不自由がなくなったら、今度は王国の歴史や法などを学ばされるのだという。
そういった勉強は朝の内に行われて、昼からは宮廷内の礼儀作法などについて習わされていた。
さらに年齢を重ねれば、そこに裁縫や舞踏やトトスの乗り方なども加えられるはずであった。
その中で、トトスの乗り方だけは必ずしも学ばなくてもよいらしい。男子にとっては必須であったが、女子でそれを学ぶのは半々ぐらいであると聞いていた。
しかしオディフィアにとって、一番楽しみであるのは、そのトトスの乗り方についてであった。
特別な理由はない。ただ、頭を使うよりは身体を使うほうが楽しかったし、舞踏よりもトトスに乗るほうがより楽しそうだな、と思ったまでである。
エウリフィアも、時間があればトトスに乗っていた。
貴婦人がトトスにまたがって外に出ることなどはありえないが、健康な身体を保つのにトトス乗りというのは非常に有用であるらしい。男のような装束を纏って、城内の広場を颯爽と駆けるエウリフィアの姿は、オディフィアから見ても格好がよかったし、楽しそうであった。
「では、次の文字ですね。これらの文字の読み方は覚えておられますか?」
教師役の老女が、手本の文字を指し示してくる。
そこには、「トトス」「カロン」「キミュス」と記されていた。
ちょうどトトスのことを考えていたので、オディフィアは愉快な心地になる。
しかし老女は何も気づいていない様子であったので、オディフィアは質問の答えのみを返してみせた。
「はい、正解であります。オディフィア姫は、とても優秀であられますね」
王宮内の人間は、誰もがオディフィアに親切であった。
ときたま聞こえてくる親切でない言葉は、いずれもオディフィアに聞かれているとは知らぬままに発せられたものだ。そういう者たちも、オディフィアの前ではみんな親切にしてくれた。
だからこの老女も、陰ではオディフィアの悪口を言っているのかもしれない。
だけど、それでオディフィアが悲しい気持ちになることはなかった。
悲しくなるのは、家族の悪口を聞いてしまったときだけだった。
妹はまだ幼いので、それほど悪口を言う者はいない。ただ、泣き声が大きすぎると嘆く人間がいるぐらいである。
だから家族というのは、両親と祖父についてであった。
エウリフィアは、我が儘である。
メルフリードは、冷酷である。
マルスタインは、横暴である。
そんな悪口を、オディフィアはわずかながらに耳にしたことがあった。
冷酷だとか横暴だとかいう言葉は、意味がわからなかった。だからそれをエウリフィアに尋ねて、意味を知った上で、とても悲しい気持ちを抱くことになったのである。
「きっとオディフィアは身体が小さいから、そばにいることにも気づかれなかったのね。まあ何にせよ、そのようなものを気にする必要はないのよ、オディフィア」
エウリフィアはそのように言って、オディフィアの頭を優しく撫でてくれた。
「お父様はジェノスの規律を守るために、お祖父様はジェノスの繁栄を守るために、それぞれ厳しい態度を取らなくてはならないの。だから、それで損をしたり苦労をしたりする人たちが、こっそり文句を言っているだけなのよ」
「……おかあさまは、なにをまもっているの?」
「わたくしは、ただ我が儘なだけかもしれないわね。だから、文句を言っていた人たちのほうが正しいのかもしれないわ」
エウリフィアは、楽しそうに笑っていた。
しかしオディフィアは、悲しくなる一方であった。
「陰でこっそり悪口を言うだけで気持ちが晴れるなら、それでいいのよ。お父様やお祖父様はジェノス侯爵家の人間として果たすべき仕事を果たしているだけなのだから、そのような陰口など気にも止めないことでしょう」
「…………」
「あら、まだ納得がいっていないのね。……それじゃあ聞くけれど、オディフィアはその陰口を、どこで誰から聞いたのかしら?」
「……だれかはわかんない。おしろのうたげできいた」
「それは、貴族だった? 小姓や侍女たちだった?」
「きぞくだった」
「やっぱりね。お父様やお祖父様は、小姓や侍女たちに冷酷だとか横暴だとか言われるようなお人柄ではないもの。お父様やお祖父様がジェノスにとって正しい決断をすることで不満に思う人間の陰口なんて、なおさら気にする必要はないわ。文句を言いながらもきちんとお祖父様たちの言いつけに従ってくれれば、それで十分であるのよ」
そうしてエウリフィアは、にっこりと微笑んだ。
「わたくしにしても、それは同じことね。小姓や侍女たちに我が儘だと陰口を叩かれていたら少なからず悲しいけれど、そうではなかったのでしょう?」
「うん。かあさまをわるくいってたのも、きぞくだった」
「だったら、放っておきましょう。わたくしを我が儘呼ばわりする貴族なんて、どうせわたくし以上に我が儘な人間であるのでしょうから」
そう言って、エウリフィアはオディフィアの身体をきゅっと抱きしめてくれた。
「貴族というのはね、貴族としての顔と、人間としての顔と、ふたつの顔を使いわけなければならないの。友人としての絆を結んでいない限り、貴族は貴族に対して貴族としての顔しか見せないものであるのよ」
「うん」
「だから、貴族としての顔しか知らない相手に何を言われても、それは着ている宴衣装に文句を言われているようなものなの。わたくしは、家族と友人に愛されていれば、それで十分よ」
エウリフィアの言葉は難しかったが、それでもオディフィアは何とか悲しい気持ちをなだめることができた。
しかし、その代わりに別の疑念を抱くことになった。
オディフィアは、なかなか表情が動かない気質であるのだ。
これでは、オディフィアがどのような人間であるのかも、なかなか余人に伝わらないのではないだろうか。
近い家族は、みんなオディフィアのことをわかってくれている。両親や祖父が、オディフィアの機嫌を見誤ることは決してなかった。祖父などはそれほど顔をあわせる機会もないのに、きちんとオディフィアの心情を汲み取ってくれるのである。
自分も大人になったら、きちんと笑ったり泣いたりすることができるようになるのだろうか。
目下のところ、オディフィアが気になっているのはその一点だけであった。
「……では、終了の刻限ですね。オディフィア姫、本日もお疲れさまでした」
六の刻の半の鐘が鳴ると、老女が恭しくそのように述べた。
間に3回の休憩をはさんで、二刻に及ぶ勉強の時間が終わったのだ。
老女が一礼して退室するのを見届けてから、オディフィアはぐったりと卓に突っ伏した。
壁際の席でその様子をうかがっていた侍女が、くすくすと笑いながら立ち上がる。
「それでは、食堂に参りましょうか。それとも、少し休んでいかれますか?」
「ううん。いく」
重くなった頭を何とか持ち上げて、オディフィアも席を立った。
部屋を出て、回廊を歩く内に、とくとくと胸が高鳴っていく。
今日は、当たりの日か。外れの日か。それは、食堂におもむくまで知ることができないのだった。
「あら、ずいぶん早かったのね。そんなに食事が待ち遠しかったのかしら?」
すでに席についていたエウリフィアが笑いかけてくる。
妹は乳母に預けられているので、中天の軽食はたいていエウリフィアとふたりきりで食することになるのだ。お茶好きのエウリフィアは、またひとりでお茶を楽しんでいたようだった。
「まだ中天には時間があるけれど、食事を運ばせる?」
「うん」
「では、わたくしの分もお願いね。あと、新しいお茶も」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
オディフィアは、侍女の引いてくれた椅子にちょこんと腰かけた。
その間に、いっそう胸は高鳴っていく。
エウリフィアは、口もとに手をやって笑っていた。
「数日置きに大変ね。それだったら、きちんと日付を知っておくべきなのじゃないかしら」
オディフィアは、「ううん」と首を振ってみせる。
エウリフィアの言う日付とは、当たりの日付のことだった。その日程は、基本的に事前に定められていたのである。
ただし、日程通りにいくとは限らない。何か不慮の事態が生じれば、その日程は当日にいきなり崩れることもありうると聞いていた。
だったらその日程は自分に知らせないでほしい、とオディフィアのほうから言いだしたのだった。
当たりの日だと思って食堂まで出向いてきてからその期待が裏切られたら、自分は失意の底に沈んでしまうだろう。そんな悲しい思いはしたくなかったので、あえて日程は聞くまいと決心したのである。
当たりの日は、3日に1度、やってくる。
しかし、ときたま4日に1度という日取りにもなる。
そこにはきちんと法則性があるのだという話であったが、それもオディフィアは聞かずに済ませていた。
そして、前回の当たりの日から、今日は3日目であった。
不慮の事故がなければ、今日か明日のどちらかが当たりの日であるのだ。
期待はしすぎまいと念じながら、それでも足がぱたぱたと動いてしまうのを止めることはできなかった。
そんなオディフィアの前に、侍女が皿を運んでくる。
「お待たせいたしました。本日は、トゥール=ディン様からお預かりした焼き菓子でございます」
本日は、当たりの日であったのだ。
オディフィアは、その皿に載せられた菓子をくいいるように見つめることになった。
黄色くてふわりとした生地に、桃色の粒が散っている。どうやら、フワノだかポイタンだかの焼き菓子に、ミンミの果肉がまぶされているようだった。
「こちらを掛けてお召し上がりいただきたいとのことでございました」
銀色の小さな容器が、そこに添えられる。
濃い褐色の、とろりとした汁だ。ギギの葉というものを使った、甘い調味料である。
オディフィアは、いっそうせわしなく足を動かすことになった。
「あら、彼女がミンミを使うのは珍しいわね。ちょっぴり苦みのあるギギの葉とあうのかしら」
エウリフィアの前にも、同じ皿が並べられている。
昼の食事はたいていふたりで食することになる、と告げると、トゥール=ディンはエウリフィアの分までこしらえてくれると申し出てくれたのだった。
「では、いただきましょう。お茶は、チャッチにしましょうね」
エウリフィアの言葉を聞きながら、オディフィアはすでにギギの葉の汁を菓子に掛けていた。
つやつやと照り輝く汁が、フワノだかポイタンだかの生地を包み込んでいく。オディフィアにとって、それは宝石のきらめきよりも美しく感じられた。
三つ又の串と刀を使って、菓子を切り分ける。
何かその生地は、普段よりもいっそうやわらかく感じられた。
黄色っぽい断面が覗き、そこにまた褐色のきらめきが滴っていく。
オディフィアはどきどきと胸を高鳴らせながら、串に刺した菓子を頬張った。
とたんに、ギギの葉の香りが口の中に広がっていく。
もともとギギの葉というのは苦いお茶の材料であると聞いていたが、このとろりとした汁はとても甘かった。砂糖と、カロンの乳と、それに乳脂も使っているらしい。オディフィアは、特にこのギギの葉の調味料が大好きであったのだった。
そして本日は、さらなる驚きも待ちかまえていた。
最初に感じた通り、フワノだかポイタンだかの生地が普段以上にやわらかかったのである。
ほとんど噛む必要もないぐらい、生地が口の中で溶けていく。綿のように軽やかで、甘くて、美味しい、夢のような菓子であった。
「まあ。少し前にも焼き菓子が届けられていたけれど……これは格段に美味であるようね」
エウリフィアも、驚きの声をあげていた。
「以前にヴァルカスが作ったふわふわとした菓子と少し似ているかしら……ううん、でもこちらはきちんとフワノやポイタンも使われているようだし……とにかく美味しいわねえ」
「うん」
「ミンミの実は、どうやら干したものであるようね。最初はギギの葉に風味も味も隠されてしまうけれど、最後まで口の中に残っているから、その味わいも楽しむことができるわ。……ああ、だからこうして、干したものを使ったのかしら。ミンミがやわらかいままであったら、生地と一緒にするすると流れていってしまうものね」
「うん」
「あら、オディフィア、もう食べ尽くしてしまったの? わたくしはまだひと口しか食べていないのに」
確かにオディフィアは、あっという間にその菓子を食べ尽くしてしまっていた。
普段よりもやわらかくて軽やかであった分、至極あっさりとなくなってしまったのだ。
何だか、とても物足りない。
あんなに幸福であったのに、それを上回る悲しみがじわじわとせりあがってきてしまう。
すると、卓のそばに控えていた侍女がおとなしやかに笑いかけてきた。
「こちらの菓子は身が詰まっていないので、2枚で1食分なのだそうです。もしも多いようでしたら晩餐にというお言葉をトゥール=ディン様からお預かりしているのですが、いかがいたしましょう?」
「すぐたべる」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
悲しい気持ちが、嘘のように消えていく。
そんなオディフィアを見つめながら、エウリフィアもまた微笑んでいた。
「本当に幸せそうね。目がきらきらと輝いているわよ、オディフィア」
「うん」
「城で出される菓子だって、これに負けないほど美味であると思うけれど……でも、やっぱり調理の作法が異なるのよね。トゥール=ディンがアスタから習い覚えたこの菓子が、オディフィアの口には一番あうのでしょうね」
「うん」とうなずいてから、オディフィアは母親の笑顔を見つめ返した。
「かあさま。まだトゥール=ディンをおちゃかいによべないの?」
「ええ。以前に言った通り、王都の方々の視察が終わるまでは、森辺の民に厨を預けることはできないのよ。まさか、黄の月の終わりになっても視察団がやってこないとは思わなかったけれど」
「うん……」
「もう少しの辛抱よ。きっと緑の月か青の月にはやってくるでしょうから」
エウリフィアは、先月にも先々月にも同じようなことを言っていた。雨季が明ければすぐにでもその者たちはやってくるであろうという見込みであったのに、5つもの月が巡ってもいまだに姿を見せていなかったのだった。
「そんなに悲しそうな目をしないで、オディフィア。わたくしまで悲しい気持ちになってしまうわ」
エウリフィアが手をのばして、オディフィアの髪を撫でてくれた。
「……そういえば、《銀星堂》の食事会に、トゥール=ディンがやってくるのかもしれないのよね」
「え?」
「つい昨日、お父様が話しておられたのよ。東のお客人を歓待する食事会に、森辺の民も招かれることになったの。トゥール=ディンは熱心な料理人なので、きっとヴァルカスの料理を食べたがるのじゃないかってポルアースが話していたようなのよね」
「それなら、オディフィアもいきたい」
エウリフィアは、目を細めて微笑んだ。
「トゥール=ディンは、お客人として招かれるのよ? その日はトゥール=ディンの菓子を食べられるわけじゃないのに、それでも行きたいのかしら?」
「うん」
オディフィアがうなずくと、エウリフィアがまた髪を撫でてきた。
「わかったわ。それじゃあ、オディフィアも連れていってもらえるように、お父様とポルアースにお願いしましょう。ヴァルカスは苦い料理も作るけれど、失礼のないていどには口をつけるようにね」
「うん」
オディフィアの胸に、何か温かいものが満ちていた。
トゥール=ディンと、ひさしぶりに顔をあわせることができる。それを想像しただけで、トゥール=ディンの菓子を前にしたときと同じような幸福感がわきおこってきたのである。
トゥール=ディンは、元気に過ごしていただろうか。
またあの優しそうな顔で、オディフィアに微笑みかけてくれるだろうか。
2枚目の皿が運ばれてくるまでの間、オディフィアはずっとそのようなことを考えながら、足をぱたぱたと動かし続けることになった。