黄の月の二十四日④~誓い~
2017.9/4 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
けっきょく俺がファの家に帰りついたのは、太陽が半分がた西の果てに沈みかけた頃合いであった。
明日のための下ごしらえを終えた後は、各氏族の食料庫を巡って、食材の棚や壺に名札をつける作業をこなすことになったのだ。今日だけでフォウ、ガズ、ラッツ、ディンの本家では作業を終えることができたので、明日以降はそれを分家や眷族にまで広めてもらう手はずになっていた。
「いやあ、何とも慌ただしい一日だったなあ」
そんな独り言が飛び出してしまうぐらい、今日は多忙な一日であった。
何せ朝方には宿場町の市場に参加してきた身であるのだ。それに、ガズやラッツはそれなりに遠い家であるので、俺がこれほどあちこち動き回るというのはなかなかに珍しい話であったのだった。
御者台の上で大きくのびをしてから大地に降り立ち、俺は家の戸板をノックする。
窓から明かりが漏れているので、アイ=ファが在宅であることは知れていた。
「アスタだ。帰ったよ」
「うむ。間もなく、晩餐も仕上がるところだ」
戸板ごしに、アイ=ファの声が聞こえてくる。
アイ=ファの無事を森に感謝しながら、俺はこっそり微笑んだ。
「下ごしらえの済んだ食材をかまど小屋に運んでくるから、ちょっと待っててくれ」
「うむ」というアイ=ファの返事を聞き届けてから、俺はギルルとともにかまど小屋へ移動した。
乾燥パスタやカレーの素、それに切り分けたギバ肉の木箱などを、食料庫に収納していく。それから、かまどの間のほうも覗いてみると、そこにはまだいくぶん熱気が残されているような気がした。
家にはひとつのかまどしかないので、最後の仕上げ以外はすべてこの場で済ませたのだろう。
アイ=ファがひとりで調理をしている姿を想像すると、俺は何だかむやみに幸福な気持ちになってしまった。
アイ=ファが俺のために、俺のためだけに料理をこしらえてくれたのである。
俺が病魔で倒れたときも、アイ=ファはトゥール=ディンたちに調理をお願いしていた。だから、俺がアイ=ファの料理を口にするというのは――本当に、出会った最初の夜以来なのではないかと思われた。
(ずっと昔は、祝宴の準備を手伝ってくれたりもしていたけど、最近は荷物運びぐらいしか手を出してなかったもんな。もしかしたら、ポイタンを焼くのだって初挑戦だったんじゃないか?)
サリス・ラン=フォウは、とても不出来な料理になるかもしれないと心配していたが、俺は何ひとつ気にしていなかった。たとえギバ肉が黒焦げであっても、ポイタンが生焼けであっても、それはアイ=ファが俺のためにこしらえてくれた料理なのだ。その幸福感の前に、料理の完成度などは二の次であったのだった。
(……って、俺と出会う前から肉を焼いたりはしてたんだから、そこまで見くびるのは失礼か)
俺はかまどの間の戸板を閉めて、家に戻ることにした。
途中でギルルを荷車から解放し、手綱をもって玄関に向かう。
再びノックをしてから戸板を開けると、ギバの大腿骨をかじっていたブレイブが土間から俺たちを見上げてきた。
ギルルはその向かいで丸くなり、俺は革のサンダルを脱ぎ捨てる。
アイ=ファは上座で、いつも通りのたたずまいで俺を待ち受けていた。
「今日も一日、ご苦労であったな。晩餐の支度は済んだので、座るがいい」
「うん。アイ=ファもお疲れさま」
俺はアイ=ファの正面に腰をおろす。
俺たちの間には、いくつもの木皿が並べられていた。
だけどその前に、まずは生誕の日の儀式である。
俺が着席するなり、アイ=ファはおごそかな表情と口調でその言葉を口にした。
「家人アスタの18度目の生誕の日を、ここに祝福する。これからも、ファの氏に恥じない人間として、健やかなる生を送ることを願う」
「はい。ファの家人として、母なる森に恥じない生を送ります」
リミ=ルウのお誕生会で学んだ言葉を、俺は返してみせた。
アイ=ファは「うむ」とうなずいてから、料理の皿を迂回して俺のほうに近づいてくる。
「祝福の花を捧げる。お前はこれまで通り、自分が正しいと信じた道を歩むがいい」
「うん、ありがとう」
実に立派な花弁をしたミゾラの花が、俺の胸に飾られた。
かつてシン=ルウがララ=ルウに贈ったのと同じ、黄色のミゾラの花である。
「では、祝いの晩餐を始めるとしよう」
アイ=ファの言葉に従って、俺は食前の文言を詠唱した。
そこにアイ=ファの名前しか組み込まれていないというのも、初めての体験だ。その喜びを噛みしめるように、俺はゆっくりとその言葉をなぞっていった。
「それでは、いただくよ。すごく豪勢な晩餐だな」
「それは、祝いの晩餐であるからな」
とりあえず、この品数だけでも大したものであるように思えてしまった。
主菜がひと皿、スープがひと皿、さらに大量の肉野菜炒めと、生野菜サラダ、そして焼きポイタンというラインナップである。
主菜は、当然のようにハンバーグであった。
アイ=ファがハンバーグをこしらえるなんて、もちろん初めてのことである。
しかしとりあえず外観は申し分ない仕上がりで、こんがりとした焼き色も実に美味そうであった。
なおかつ、ハンバーグの上には赤褐色のソースが掛けられており、焼いたチャッチやネェノンまで添えられている。俺が普段作るハンバーグをそのまま再現したかのような仕上がりだ。
「すごいな。これを本当にアイ=ファがひとりで作ったのか?」
「……私がひとりで作らねば、他の人間をしめだした意味がなかろうが? 冷めぬ内に食するがいい」
「うん。それじゃあ、いただきます」
俺は木皿を取り上げて、そのハンバーグからいただくことにした。
見れば見るほど、素晴らしい仕上がりだ。肉汁と果実酒をベースにしたソースの香りも、俺の空腹感と幸福感を同時に刺激してくれた。
俺は木匙で、ひと口分の肉を切り分ける。
すると、クリーム色のチーズがとろりとあふれだしてきた。
これは、『乾酪・イン・ギババーグ』であったのだ。
「す、すごいな。正直、アイ=ファがひとりでここまでのものを作れるとは思っていなかったよ」
「……私がもっとも美味だと思う料理を作るべきだと考えたのだ。しょせんは、見よう見まねだがな」
厳粛な面持ちをしたアイ=ファに見守られながら、俺は乾酪をまぶしたパテを口に運んだ。
これが最後に仕上げた料理なのだろう。パテからあふれる肉汁もとろけた乾酪も、十分な熱を保っていた。
パテにはきちんとみじん切りのアリアまで使われており、口の中でほろほろとほどけていく。
熱の入り方も、塩やピコの葉の加減も、甘くて香り高いソースの仕上がりも、すべてが十二分の完成度であった。
「うん、美味しいよ。美味しすぎて、びっくりした」
「……それはいささか、言葉が過ぎぬか?」
「そんなことないよ。これをアイ=ファがひとりで作ったなんて、なかなか信じられないぐらいだ」
「そうか」と、アイ=ファは初めて笑顔を見せた。
とても幸福そうな、とても魅力的な笑顔である。
「そこまでの出来ではないと思うが、お前が虚言を吐くはずはないと信じよう」
「本当だってば。最初からアイ=ファの料理をけなすつもりなんてなかったけど、だからといって大げさにほめるつもりもなかったぞ?」
「うむ。こと料理に関して、お前が妥協を許すはずもないからな」
アイ=ファは自分の胸もとに手をやって、ふっと小さく息をついた。
「そのはんばーぐには一番の力を注いだので、お前に美味と思ってもらえたのならば嬉しく思う。……なんだか、手足から力が抜けていきそうだ」
「俺のほうこそ、嬉しいよ。本当にありがとうな、アイ=ファ」
「うむ」と、アイ=ファは目を細めた。
その幸福そうな表情を見ているだけで、俺もいっそう幸福な心地になってしまった。
「だけど本当に、よくここまでの料理を作れたな。誰かに手ほどきをお願いしたわけでもないんだろう?」
「見よう見まねだ。お前がはんばーぐを作る姿は何度となく目にしているからな」
「すごいなあ。どこに出しても恥ずかしくない腕前だよ」
とても甘やかな幸福感にひたりながら、俺は次の皿を取り上げた。
汁物料理、ギバ・スープである。香りや色合いからしてタウ油仕立てであり、具材にはアリアとチャッチとネェノンと、それにマ・ギーゴとシィマも使われていた。
ギバ肉と野菜からしっかりと出汁が出ており、タウ油の味つけにも不備はない。サトイモのごときマ・ギーゴとダイコンのごときシィマの食感がやや固めかな、というぐらいで、それも不満の声をあげるほどのものではなかった。
(だいたい、アイ=ファがマ・ギーゴやシィマを使うのは初めてのはずだもんな。それでこの仕上がりなら、十分以上だ)
この胸中に満ちた幸福感をさっぴいたって、それは素晴らしい仕上がりであった。無粋を承知で他者と比較するならば、俺から手ほどきを受けているフォウやランの女衆にも劣る出来栄えではないだろう。
そして生野菜サラダは、シィマとギーゴを短冊切りにしたものであった。
いくぶん形は不格好であるが、それで味が落ちるわけではない。潰した干しキキをタウ油で和えたディップも、素朴でほっとする味わいであった。
「本当に、どれを食べても美味しいなあ。アイ=ファはもともと手先も器用だし、かまど番としても才能があるんだろうな」
そのように述べながら、俺は最後の料理に手をつけた。
これまた色々な食材の使われた、肉野菜炒めである。
祝いの料理ということで、惜しみなく食材を使ったのだろう。アリア、ネェノン、プラ、マ・プラに、ロヒョイとペペとブナシメジモドキまで使われていた。
「ふむふむ。これも美味しそうだな」
俺は木匙にたっぷりと載せたその料理を口に入れた。
とたんに、えも言われぬ味わいが口の中に広がっていった。
タウ油のしょっぱさとママリア酢の酸味が、ものすごい。
それでいて、砂糖の甘さも際立っていた。
それらのバラバラな味がおたがいを支え合い、不可思議なハーモニーを生み出して――などという、ヴァルカスじみた魔法が働くこともなく、俺は「んぐ」とおかしなうめき声をあげてしまった。
「……やはり、そればかりはお前にも許容できなかったか」
アイ=ファは、とても申し訳なさそうな顔になっていた。
「何か味が足りない気がして色々と加えてみたのだが、けっきょく満足な仕上がりには至らなかったのだ。不出来なものを食べさせてしまって、すまなく思っている」
「い、いや、そんなことはないよ。とても個性的な味だけれど」
「では、他の料理と差のない出来だとでも言うつもりか?」
アイ=ファは切なげに眉をひそめている。
「虚言は罪だぞ。不出来なら不出来とはっきり述べるがいい」
「いや! アイ=ファの作ってくれた祝いの料理に文句をつけるつもりはない!」
「……ならば、なぜ泣いている?」
「これは、ママリアの酢が目にしみただけだ」
俺は芯の残ったプラをガリガリと噛み砕いて呑み干してから、アイ=ファに笑いかけてみせた。
「だけどまあ、ほとんど一年ぶりにかまどに立ったアイ=ファがそこまで完璧だったら、他の女衆の立つ瀬がないだろう? だから、これでいいんだと思うよ」
「……つまりは、不出来だということではないか」
アイ=ファは、唇をとがらせてしまった。
「遠まわしに言われると、余計にみじめな気持ちになるのだ。言葉を飾らずに、率直な気持ちを述べてみせよ」
「そ、そうなのか? それじゃあ、えーと……ハンバーグやスープが素晴らしすぎて、同じ人間が作ったとは思えないような仕上がりだな」
「……それのどこが率直なのだ」
「これぐらいで勘弁してくれよ。俺は、アイ=ファが作ってくれたっていうだけで、この上もなく幸福なんだから」
アイ=ファはしばらくすねた顔をしていたが、やがて気を取りなおした様子で木皿を取った。
そういえば、アイ=ファはずっと俺の様子をうかがっており、まだ自分のほうはひと口も食していなかったのだ。
ハンバーグを食べ、スープをすすり、肉野菜炒めに口をつける。
そののちに、アイ=ファは苦笑気味の表情を浮かべた。
「うむ。やはり不出来だ。いったいどうやったらこれほど不出来な料理を作れるのかと、我ながら不思議になるぐらいだな」
「炒め物は、手早く仕上げないと具材が焦げついちゃうからな。作りながら味を修正するのが難しいんだよ」
「ふむ。これならば、タウ油や砂糖や酢などを使わぬほうが、よほど美味であることであろう。祝いの料理であるからと、使いなれぬ食材を使いすぎてしまった結果だ」
そうしてアイ=ファは、また穏やかな感じに微笑んだ。
「私の胃袋にもう少しゆとりがあれば、こんな不出来なものはすべて自分の腹に収めてしまい、作りなおすこともできたのだがな。はんばーぐだけで手一杯であったのだ」
「うん? ハンバーグがどうしたって?」
「だから、はんばーぐの失敗作を始末するだけで、ずいぶん腹が膨れてしまったのだ。はんばーぐをまともに仕上げられるようになるまでに、3回は失敗してしまったしな」
そうしてアイ=ファは、くすりと笑い声をもらした。
「それでもともに祝いの晩餐を食したかったので、これ以上は胃袋を満たすこともできなかったのだ。許せ」
「許すも何も――」と、俺は言葉に詰まってしまった。
熱いものが、胸の奥からせりあがってくる。ちょっと恥ずかしそうに、ちょっと甘えるように微笑むアイ=ファの姿が、俺には愛おしくてたまらなかった。
「この不出来な料理も、半分は私が受け持つので、なんとか腹に収めるがいい。たとえ不出来でも、捨ててしまうわけにはいかんからな」
「……もちろん、残したりするもんか」
なんとかそれだけの言葉を返しながら、俺も食事を再開した。
幸福感のあまり胸苦しくなってしまうというのは、俺にしてみても希少な体験だ。
だけどどんなに苦しくとも、俺が幸福であることに変わりはなかった。アイ=ファとふたりきりで過ごす、それはかけがえのない幸福なひとときだった。
そうしてついに幸福な晩餐が終わってしまうと、さらなる喜びが俺を待ち受けていた。
食器を片付けたのち、「ちょっと待っていろ」と言い残して、アイ=ファが物置に消えてしまったのである。
やがて再び姿を現したとき、アイ=ファの手には細長い包みが握られていた。
「アスタよ、お前にこれを捧げる」
「え? 何だろう、これは?」
「……生誕の、祝いの品だ」
アイ=ファが俺の正面に膝をつき、その包みを差し出してくる。
俺はきょとんと目を丸くしながら、それを受け取ることになった。
「祝いの品って……森辺では、花を捧げる習わししかないんだよな?」
「しかしお前は、事あるごとに祝いの品を捧げてきたではないか。最初はこの首飾りで、生誕の祝いには髪飾りなどを捧げてきた。ならば私も、お前の習わしに従おうと思う」
そうしてアイ=ファは、こらえかねたように微笑をもらした。
「私は飾り物など求めていなかったが、それでもまたとない喜びを得ることができた。それなら私も、同じ喜びをお前に与えたいと思ったのだ。文句を言わずに、受け取るがいい」
「も、もちろん、文句なんて言わないさ」
俺はまだ半分がた夢見心地で、その綺麗な布の包みをほどくことになった。
そこから現れたのは、革の鞘に収められた、巨大な調理刀である。
ゆっくり鞘から引き抜いてみると、白銀の光がきらめいた。
刃渡りは、30センチ以上もあるだろう。その大きさに見合った厚みと重量感を持つ、それは見事な肉切り刀であった。
柄も金属で、滑り止めのために波状の模様が彫られている。研ぎ澄まされた刀身の輝きは、うっとりと目を奪われるほどであった。
「こ、これってジャガルの肉切り刀だよな。こんなの、どこで手に入れたんだ?」
「あの、ヤンという料理人に城下町から取り寄せてもらったのだ」
「ヤ、ヤンに? アイ=ファが? どうやって?」
「……お前が宿場町に下りた後、近在の氏族からファファを借り受けて、あのヤンという料理人が働く宿屋を訪れたのだ。祝いの品は受け渡す当日まで正体を悟られぬように努めるのが、お前の流儀であるようだったからな」
俺の顔を見つめながら、アイ=ファはそう言った。
「お前も肉を切るための刀は自分で買っていたが、ギバの肉を骨から外す際などには、私が授けた刀を使っていたであろう? あれは父ギルの大事な形見であるが、もともとは枝を払ったり蔓草を切るための刀だ。かまど番たるお前には、肉を切るための刀が相応しかろうと思って、それを取り寄せた」
「そうか……だけどこいつは、ずいぶん値も張っただろう?」
「うむ。しかし、私が捕らえたギバの角や牙の代価は、ほとんど手つかずで残されていたからな。何も困ることはなかったぞ」
アイ=ファの青い瞳が、とても優しげな光をたたえて、俺を見つめている。
「お前がその刀を使って美味なる料理をこしらえてくれれば、私も嬉しく思う。どうか大切に使ってほしい」
「ああ、もちろんだよ。ありがとう、アイ=ファ。……本当にありがとう」
その見事な肉切り刀を鞘に収めて、俺はせいいっぱいの笑顔を返してみせた。
するとアイ=ファも、ますます嬉しそうに笑みを広げる。
やわらかい静寂が、その場にたちこめた。
幸福感のあまり、俺はまた胸が詰まってしまいそうであった。
そんな俺の姿を見つめながら、アイ=ファはずっと微笑んでいる。
「……お前の喜びが、我が身のことのように伝わってくるぞ、アスタよ」
やがてアイ=ファは、囁くような声音でそう言った。
「お前がそれほどまでに幸福でいてくれて、私も幸福だ」
「……うん」
「お前をファの家の家人として招いて、一年もの日が過ぎた。最初にお前を見たときは、なんと得体の知れない人間だと思ったものだがな」
アイ=ファの声はとても小さくひそめられていたが、静かな夜の中では聞きもらす恐れもなかった。
「だけどお前は、とても苦しんでいるようにも見えた。故郷も家族も同胞も失って、私以上に孤独であるように思えた。だから私は、お前のことを放っておけなかったのだろうと思う」
「うん」
「だけどいつしか、私はお前に救われていた。お前のことを、本当の家人だと思えるようになっていた。お前との出会いは森の導きであり、お前とともにあることが一番の正しい道であるのだと、そんな風に信ずることができた」
「うん、俺もだよ、アイ=ファ」
「……お前のその言葉が真情であると信ずることができる。それが私の喜びであり、幸福だ」
アイ=ファの瞳が、ふいにゆらめいた。
それは、涙の皮膜がアイ=ファの瞳を覆ったのだと思われた。
「しかもお前は、私のみならず、森辺の民そのものに幸福を与えんと、その身の力を振り絞ることになった。その行いが実を結び、ついに今日、町でギバの肉を売る運びとなった。森辺の民が、町の人間の中にまざってギバの肉を売るなどと、そんな行く末を予見できた人間はひとりとして存在すまい。ガズラン=ルティムと語り合い、ドンダ=ルウの力を借りて、宿場町での商売を始めて、およそ一年――お前はついに、これほどかけがえのない仕事を果たすことになったのだ、アスタよ」
「それは、アイ=ファを始めとする森辺のみんなの力あってのことだよ。それに、まだまだ道は半ばだしな」
「その通りだ。しかし、お前が大いなる仕事を果たしつつあるという事実に変わりはない。お前は私の誇りであり、私の喜びそのものであるのだ」
アイ=ファは床に手をついて、さらに身を乗り出してきた。
半分泣いているようなアイ=ファの笑顔が、ほとんど鼻先にまで迫ってくる。
「アスタ、私は……私はひとつだけ、お前に願いたいことがある」
「うん、何かな? アイ=ファの願いだったら、俺は何でも受け入れてみせるよ」
「そんな軽はずみに応じるものではない。私はまったく公正でない、自分本位な願いを口にしようとしているのだ」
それでも俺が、アイ=ファの願いを退けることはありえないだろう。
そんな思いを込めながら、俺はアイ=ファの瞳を見つめ返してみせた。
「私は、狩人として生きたいと願っている。狩人でない自分というのは、想像することさえかなわない。だけど、それでも――」
「うん」
「それでも、いつか――かつてライエルファム=スドラが言っていた通り、一年後か、五年後か、十年後か――いつかは狩人としての仕事を果たし終えたと思える日が来るかもしれない。そのときは――」
「うん」
「……私を、アスタの伴侶として迎えてもらえないだろうか?」
俺は床に座したまま、立ちくらみのような感覚を覚えることになった。
「そんなの……俺が断るわけないだろう?」
「そうではない。私は、本当に来るかもわからない日のために、お前の行動を縛りたいと願ってしまっているのだ。私は――自分が狩人としての仕事を捨てる覚悟もないまま、お前を他の女衆に渡したくないと願ってしまっている。こんな浅ましい話は――」
「浅ましくなんてないよ。アイ=ファにそんな風に言ってもらえるなんて、俺には一番嬉しいことなんだから」
もしかしたら、俺も泣き笑いのような表情になっているのかもしれなかった。
「一年後でも五年後でも十年後でもいい。アイ=ファの伴侶になることができたら、俺は幸せだ。今でも十分に幸せだけど、それ以上の幸せだよ」
「……お前が真情を述べているのだと、信ずることができる」
アイ=ファが微笑み、そのはずみで瞳にたまっていた涙がこぼれた。
俺は指先で、その涙をそっとすくいあげてみせた。
わずかに触れたアイ=ファの頬から、強い温もりが伝わってくる。
俺は、力まかせにアイ=ファを抱きすくめたいという衝動をこらえながら、右手の小指を差し出してみせた。
「アイ=ファ、俺の故郷では、約束をするのにこういう習わしがあるんだ。お前も指を出してくれないか?」
「うむ?」と小首を傾げながら、アイ=ファが小指を出してくる。
そのしなやかな指先に、俺は自分の小指をからめてみせた。
「いつの日か、アイ=ファが狩人の仕事を果たし終えたと思えるときが来たら、婚儀をあげよう。その日まで、俺はアイ=ファだけを待ち続けるよ」
「……私もこの先、アスタだけを愛すると誓おう」
アイ=ファの小指から、温もりと想いが伝わってくる。
俺たちは今、確かに同じ幸福と喜びを分かち合っていた。
アイ=ファが言っていた通り、相手を信ずることのできる、それこそが大いなる喜びそのものであるのだ。
いつかアイ=ファは森に朽ちてしまうかもしれない。
いつか俺はこの世界から消え失せてしまうかもしれない。
そんな不幸で救いのない想像など割り込む余地もないぐらい、俺たちは至上の幸福を見出していた。
そうして俺とアイ=ファの満ち足りた一年間は、ここで終わりを告げたのだった。
明日からは、どのような日々が待ちかまえているのか。
そんなことはわからなかったが、俺たちは希望と喜びを胸に、また新しい一歩を踏み出せるはずだった。