黄の月の二十四日③~アスタの腹案~
2017.9/3 更新分 1/1
「あんなていどの計算で手間取ってたら、お話にならないヨ。まったく、先が思いやられるネ!」
商売の後、荷台の中でそのように騒ぎたてたのは、ツヴァイ=ルティムであった。
本日の仕事は終了したが、広場には大勢の人々が詰めかけていたため、トトスの引く荷車を動かすことは難しい。ということで、しばらくはこの場で反省会を行うことに取り決められたのだった。
荷車を動かすわけではないので、荷台には本来のキャパを超える人数が陣取っている。フォウ、ラン、ダイ、レェンの女衆、ツヴァイ=ルティム、俺、レイナ=ルウ、リミ=ルウという顔ぶれで、荷台の前側からはアイ=ファが、後ろ側からはジザ=ルウが内部の様子をうかがっていた。
「足と肩はひとり分で赤銅貨3枚、ひと箱で白銅貨9枚。胸と背中はひとり分で赤銅貨5枚、ひと箱で白銅貨15枚。たったこれだけのことなのに、何を手間取る必要があるのサ?」
「申し訳ありません」と、4名の女衆はうなだれてしまっている。途中からはメンバーを入れ替えて、4名全員に銅貨の計算を経験してもらったのだが、誰ひとりとしてツヴァイ=ルティムを満足させることはできなかったようだった。
「森辺で手ほどきをしてやったとき、レェンのアンタなんかは、けっこうスラスラ答えてたでショ? どうして今日は、あんなにつっかえつっかえだったのサ?」
「は、はい……やはり、町の人間を相手にする商売というのが初めてだったので、いささか心を乱してしまっていたのかもしれません……」
「無法者がうろついてたわけでもないし、男衆だってそばについてたんだから、心を乱す理由なんてないでショ? ダイのアンタなんて、足と胸の代金を取り違えてたしサ! あのまま売ってたら大損するところだったヨ!」
「も、申し訳ありません。わたしもやっぱり、平常心ではなかったようです……」
しょんぼりと肩を落とすふたりの女衆から、ツヴァイ=ルティムは左側に視線を転じる。そこに座しているのは、一番年配のフォウの女衆であった。
「アンタなんかは、この中で一番すんなり計算できてたみたいだネ。とりあえずは、値段を間違えることもなかったしサ」
「ええ、年を食ってる分、他のみんなよりは落ち着いていたのかもしれませんねえ」
俺やアイ=ファには気安く語りかけてくれるフォウの女衆も、族長筋に連なる者を相手にするときには口調を改めていた。
ツヴァイ=ルティムは「フン!」と鼻息をふいてから、俺のことをにらみつけてくる。
「本当にそれだけの話なのかネ? 足を13人分、胸を7人分なんて、こっちのふたりだったら手ほどきのときでもそんなにすんなりは答えられなかったと思うけど」
「ああ、そちらの方は、フォウの中でも数を数えるのが得意ということで、この仕事に選ばれたそうだよ。実際、俺が手ほどきしたときにも見事な手並みであったしね」
「ふうん? コッチでは、年をくった女衆より若い女衆のほうが、数を数えるのが得意そうだったんだけどネ」
ツヴァイ=ルティムがそう言うと、フォウの女衆が穏やかに微笑みながら発言した。
「ファの家と縁を結びなおすまで、うちの家は貧しかったもんでねえ。限られた銅貨でどうやりくりしていくか、そういうことに頭を使うことが多かったんですよお。あたしは分家の家長の嫁だったんで、なおさらにねえ」
「なるほどネ」と、ツヴァイ=ルティムは下唇を突き出した。
「とにかく、これじゃあお話にならないヨ。今よりもたくさんの肉を扱うようになったら、小分けで買おうとする人間も増えるはずなんだからネ。足を3人分、胸を11人分、肩を13人分、背中を4人分、なんて買い方をするやつがいたら、アンタたちに相手をできるの?」
女衆は、目を白黒とさせてしまっている。
すると、ツヴァイ=ルティムがまた俺のことをにらみつけてきた。
「アンタだったら、これぐらいは悩みもしないでショ?」
「いや、さすがにちょっとは迷うよ。……ええと、48枚に75枚で、合計は赤銅貨123枚、かな?」
4名の女衆のみならず、レイナ=ルウとリミ=ルウも目を丸くしていた。
「すごーい! アスタはどうして、そんなにすぐ答えがわかるの?」
「まずは、同じ代金である肩と足、胸と腹の数を足して、そこに値段の数字を掛けるんだよ。……この、『掛ける』っていう計算に馴染みがないと、そりゃあ大変になっちゃうよね」
掛け算ぐらいは、森辺の民も日常的に使用している。そうでなければ、ギバ1頭分の牙と角から、アリアとポイタンをいくつずつ買えるのか、そういう計算にだって難渋してしまうことだろう。
しかしそれは生活の中でつちかわれてきた技術であり、俺のように系統だてて学ばされたわけではない。逆に言うと、「九九」という明確な概念のない環境でどのように掛け算をこなしているのか、俺には理解し難い部分があった。
「何なんだろうネ。3が3つあったら9だし、9が9つあったら81でショ? 何も難しいことはないと思うけど」
「い、いえ、さすがに9が9つという計算を、それほどすんなり行うことはできません。そんなことができるのは、アスタとツヴァイ=ルティムぐらいなのではないでしょうか?」
レェンの女衆がおそるおそる言うと、ツヴァイ=ルティムは「うーん!」と考え込んでしまった。
そんな彼女に、俺はかねてよりの腹案を伝えることにした。
「ところでさ、売り上げの計算について、ちょっと提案があるんだけど」
「なにサ? こっちの問題も片付かない内に、別の問題を持ち出すつもり?」
「いや、根っこは同じ問題だと思うんだよ。ちょっとこれを見てもらえるかな」
俺はかたわらに置いておいた荷物袋から、この日のための秘密アイテムを取り出してみせた。
すなわち、宿場町で購入しておいた帳面と筆である。
「フン。それは、町の連中が文字ってやつを書くのに使う道具だネ」
「うん。今後、この商売の売り上げはこの帳面に書き留めていくべきじゃないかと考えてるんだ。それでね、町の人にこの西の王国で使われている数字の書き方を教えてもらったんだよ」
B5サイズぐらいの帳面をめくると、そこにその成果が書き記されていた。西の王国セルヴァで使われている、「0」から「9」までの数字である。それらの数字の隣には、小さな点でその数が記されている。
「フン。この何も書いてないやつが『0』ってことだネ」
「うん、そうだよ。で、たとえば『24』だったら、左の側に『2』の数字を、右の側に『4』の数字を書くわけだね。だから、今日の売り上げの赤銅貨3660枚を表すには、こんな風に書くわけさ」
俺は次のページにセルヴァの文字で『3660』と書いてみせた。
「で、他の氏族から買い付けた肉の代金もここに記して、それを引いた純利益の数字も書き残していけば、森辺の民がこの商売でどれぐらいの豊かさを得られているかを家長会議で発表できるわけさ」
「なるほどネ……」とつぶやきながら、ツヴァイ=ルティムは前のページを繰った。
その白目の目立つ三白眼が、10個の数字をじいっとねめつけていく。
そして数秒後、ツヴァイ=ルティムは元のページに戻すと、俺から奪い取った木の筆でさらさらと数字を書き記した。
「ダイとレェンで買い付けに使った代金は、これだけだヨ。確かにこれなら、ルウ家が貸し付けた銅貨をちょろまかされる心配もなくなるネ」
「ツ、ツヴァイ=ルティムはもうこの数字というものをすべて覚えてしまわれたのですか?」
ダイの女衆が感嘆の声をあげると、ツヴァイ=ルティムはうろんげにそちらを振り返った。
「こんなの、ちょっと見たら覚えられるでショ? どこに難しいことがあるのサ」
「い、いえ、とてもそのように短い時間で覚えられるとは……もちろん、この仕事に必要なことなのでしたら、覚えられるように努力はいたしますが……」
「覚えると、のちのち大きな役に立つのではないかと思います。特に、掛け算の修練をするのに有効だと思うのですよね」
そのように述べながら、俺は別の帳面に新しい数字を記していった。
とりあえずは例文として、九九の二の段である。
「ここには、2に対して2から9までを掛けた数字がひと通り記してあります。2掛ける2は4、2掛ける3は6、という感じにですね。これをもっと大きな木の板か何かに書いて、時間のあるときに覚えられるように修練を積めば、計算をする際にとても有効なのではないかと思うのです」
「はあ……そういうものなのでしょうか……?」
「まずは数字の読み方を覚えないとピンとこないかもしれませんが、長い目で見ればいい修練になると思いますよ。あとは、ににんがし、にさんがろく、という音の響きまで加えると、いっそう覚えやすいのではないでしょうか」
「あはは。なんか、シムのおまじないの言葉みたい!」
リミ=ルウは、子犬のようにはしゃいでいる。
その隣では、レイナ=ルウが真剣な眼差しで帳面を見つめていた。
「数字を書き残すというのは、とても興味深いですね。わたしたちもその技術を習得すれば、料理を作る際にもすごく便利になりそうです」
「うん。食材の分量とか、煮込む時間とか、そういうのを数字で残せれば、すごく便利だと思うよ。人に手ほどきをするときも、口で伝えるだけじゃあなかなか手間がかかるからね」
だけどまずは、肉の市の商売に関してだ。
いささかならず不安そうな顔をしている4名の女衆に、俺は力強く笑いかけてみせた。
「これは初めての試みですから、習得するには長い時間がかかると思います。でも、こういう商売を子々孫々まで伝えていくつもりであるなら、きっと無駄にはならないと思います」
「はい……ですが、わたしたちなどにやりとげられるのでしょうか……?」
「それは実際に試してみないことには、わかりません。でも、俺は大丈夫だと思っています。数字を書き記すことや、系統立った掛け算というものも習わないまま、今ぐらいの計算ができているということ自体が、俺にはむしろすごいことだと思えてしまうのですよね」
それは、俺の本心であった。
料理や商売の手ほどきをするにあたって、森辺の女衆はメモのひとつも取らずにここまでの成果をあげてきたのである。それは彼女たちに、きわめて高い計算能力や記憶力が備わっているゆえであると思えてならないのだった。
「掛け算に関しても、これまでは頭の中だけで計算していたのでしょう? そこに、こういう表を見たり、計算式を口にすることで、目や耳まで使うようになれば、いっそう身につけることができるようになると思うのです。あまりに苦痛になるようであれば、別の方法を考えるべきだと思いますが、まずはこのやり方を試してみてはいかがでしょう?」
「……面白いネ」と、ツヴァイ=ルティムがまた低くつぶやいた。
その目は、まだ帳面の数字をにらみつけている。
その姿を確認してから、ダイの女衆が決然とした面持ちで俺を見つめてきた。
「わかりました。試しもせずに、あきらめるわけにもまいりません。それに……わたしが駄目でも、他の女衆ならこの方法で力を得ることができるかもしれません。まずは、手ほどきをお願いしたくあります」
他の女衆も、うなずいていた。
その光景を、ジザ=ルウとアイ=ファも無言で見守っている。
さしあたって、俺の温めていた腹案は森辺の同胞たちに受け入れてもらえたようだった。
◇
半刻ほど経つと、ようやく広場の賑わいも収まってきたので、俺たちは森辺の集落に帰還することができた。
まずはルウ家に腰を落ち着けて、さきほどの案の実践である。大きな木の板に九九の表を書き記して、フォウとダイの女衆に託す。帳面と筆は必要なだけ買い求めていたので、それもまとめて配分することになった。
「で、実はルウ家でも必要かと思って、余分に購入しておいたんだよね」
俺が帳面と筆を手渡すと、レイナ=ルウはとてもびっくりしていた。
「それではやっぱり、アスタもこれらの技術が調理の役に立つと考えていたのですね?」
「うん。以前に城下町で黒フワノの取り扱いの勉強会をしたとき、食材の分量を帳面に書きつけている人がいただろう? あれを見たときから、いずれ森辺でもそのやり方を取り入れてみたいなと考えてたんだ」
「ありがとうございます! さっそく後で、さまざまな料理の内容を書き留めておこうと思います!」
こんなに喜んでもらえるならば、もっと早くから提案しておけばよかったと思うことしきりの俺であった。
ともあれ、肉売りの仕事に関しては、これにて終了である。
「肉の市場は、3、4日ごとに行われます。最初から連続で参加というのは慌ただしいので、間に1回休みをはさんで、6日後か7日後あたりの市に参加するというのはいかがでしょう?」
「はい。今回と同じ量でよろしいのでしたら、何の問題もないと思います」
「それじゃあ、もしもゆとりがあったら、何箱か追加するという形にしましょうか。いちおう城下町からは倍の数でも引き取れるというお話をいただいていますし、宿場町で売れ残ったら買い取ってくれるとも言ってくれていましたから」
話は、それでまとまった。
めいめいに挨拶をして、帰り支度を始める。その際に、ツヴァイ=ルティムがこっそり俺のほうに近づいてきて、こう囁いた。
「……次は、負けないからネ」
「え? 何の話だい?」
俺の質問には答えずに、ツヴァイ=ルティムはさっさとダイ家の荷車に乗り込んでしまう。
俺が首を傾げていると、たまたま近くにいたレイナ=ルウが笑いかけてきた。
「あれはきっと、自分が手ほどきをした女衆よりアスタの手ほどきをした女衆のほうがしっかりと計算できていたために悔しかったのではないでしょうか?」
「ええ? あれは本人が優秀だったおかげで、俺は関係ないのになあ」
「でも、ツヴァイ=ルティムにとっては悪い話でもないのでしょう。ツヴァイ=ルティムは、ダイやレェンの女衆に対してとても厳しい態度でしたが、あれは何だか……身内の人間として扱っているようにも見えました」
「ああ、それはそうかもしれないね」
それにツヴァイ=ルティムは、女衆の一挙手一投足をとても懸命に見守っていた。そしてまた、ダイやレェンの女衆はツヴァイ=ルティムのことをとても信頼し、尊敬しているようにも見えたのだった。
「口の悪さは相変わらずですけれど、ツヴァイ=ルティムは変わってきているのだと思います。そうでなければ、ガズラン=ルティムがルティムの氏を与えるわけがありませんしね」
「うん。俺もそう思ってたよ」
その後は、ミケルの家であれやこれやの雑務をこなしてから、ファの家に帰ることになった。
レシピをメモするという新しい試みに挑むには、西の文字を知る人間の協力が不可欠であったのだ。また、ミラノ=マスを始めとする宿場町の人々は、数字や簡単な文字ぐらいしか知識になかったので、城下町育ちのミケルほど心強い存在はなかったのである。
そこでかなりの時間を費やしてしまったので、ファの家に帰りついた頃には、もう中天も目前であった。
アイ=ファとブレイブは、森に向かう刻限だ。
しかし本日は、仕掛けた罠の確認だけで終わらせる、いわゆる半休の日と定められていた。
「では、二刻ほどで戻ってくる。私の言葉は忘れていまいな?」
「うん。今日はフォウの家にお邪魔することになってるから、大丈夫だよ」
本日は俺の生誕の日であったため、アイ=ファが祝いの料理をこしらえることに決められていたのだった。
で、余人がいると集中できないとアイ=ファが言い張っていたため、かまどの間を空けておくように厳命されていたのである。
「それではな。お前も日が沈むまでには戻ってくるのだぞ」
「うん。そちらも気をつけて。無事な帰りを森に祈ってるよ。……ブレイブも、しっかりな」
めったに声をあげることのないブレイブは、賢そうな黒い瞳を瞬かせながら、短い尻尾を振っていた。
そんなブレイブとアイ=ファが森へと遠ざかっていく姿を見送ってから、俺は荷車でまたフォウの家を目指す。明日の商売の下ごしらえと料理の勉強会は、そちらのかまどの間を借りることになっていたのだ。
フォウの家に到着すると、すでに大勢の人々が集まっていた。
フォウとガズとラッツを親筋とする氏族の女衆である。フェイ=ベイムやリリ=ラヴィッツは屋台の商売の帰り道でしか仕事を手伝うことはないので、これが本日のフルメンバーであった。
そのように考えてから、大事なメンバーがひとり欠けていることに気づく。
ベイムやラヴィッツと同じくファの家の行いに反対する氏族の血筋でありながら、ただひとりフル稼働で俺の仕事を手伝ってくれている重要人物――すなわち、トゥール=ディンの姿がなかったのだ。
「あ、アスタ。今日は朝からお疲れさまでした。今、肉の市場というものの話をフォウの女衆から聞いていたのですよ」
灰褐色のサイドテールを揺らしながら、ユン=スドラが笑いかけてくる。
確かに他の女衆も、九九の表が記された木の板を取り囲みながら、熱心に話を聞いていた様子だった。
「うん。初日としては文句のない結果だったよ。……ところで、トゥール=ディンはまだ来ていないのかな?」
「はい。日時計もちょうど中天を指したところですし、そろそろ――」
ユン=スドラがそのように言いかけたとき、広場のほうから荷車を引く音色が聞こえてきた。
ぺちゃくちゃと喋っていた女衆も、それで押し黙る。
やがて、フォウの本家のかまど小屋の前にまで、その荷車は近づいてきた。
「遅れてしまって申し訳ありません。まだ仕事は始まっていませんでしたか?」
荷台から降りたトゥール=ディンが、深々と頭を下げてくる。
それはザザ家の荷車であり、手綱を握っているのはスフィラ=ザザであった。
「俺もついさっき来たところだよ。スフィラ=ザザも、お疲れさまでした」
「……これは弟のゲオルが言い出したことですし、それを認めたのは家長なのですから、あなたにねぎらわれるような話ではないと思います」
今日もクールなスフィラ=ザザであった。
ここのところ、トゥール=ディンは休業日の前日の昼下がりから翌日のこの時間まで北の集落に出向き、料理の手ほどきに取り組んでいたのである。それは確かに、スフィラ=ザザが言った通りの経緯で始まったことだった。
トゥール=ディンを運んできたのが顔なじみのスフィラ=ザザであったので、その場にいた女衆の緊張も解けている。ディンとリッドとは友となった彼女たちでも、まだ北の集落の人々はルウ家以上に畏敬の対象であったのだった。
「では、トゥール=ディン、また5日後に。失礼いたします」
「あ、ちょっとお待ちを。北の集落の方々にもお伝えしたいことがあったのですよね」
俺がそのように呼びかけると、スフィラ=ザザはけげんそうに眉をひそめた。
「何でしょう? 町で肉を売り始めたことに関しては、家長会議まで何も聞く必要はないと思いますが」
「いえ、それとは別件です。ちょうどこれから話をしようと思っていたところですので、時間があったら聞いていってください」
スフィラ=ザザは眉をひそめたまま、それでも手綱をそのへんの木にくくって、かまど小屋のほうに近づいてきてくれた。
「他のみなさんも、下ごしらえの仕事を始める前に聞いてください。実は、そちらの板に書かれている数字についての話なのです」
そうして俺は、調理をするにあたって、食材の分量や火にかける時間を書き留めることがどれほど有効であるかを、あらためて説明することになった。
「べつだん、セルヴァの文字を事前に暗記する必要はありません。その文字がどの数を表すかは、また別の場所に書き留めておけばいいのです。こうやって、文字の隣にその数の点を記しておけば、間違えることもないでしょう?」
「なるほどねえ。確かに、ややこしい料理を覚えるには便利そうだ」
そのように述べたのは、ガズの年配の女衆であった。
その隣から、ラッツの若い女衆が「でも」と声をあげる。
「その数字がどの料理の分量を示しているのかは、どうやって見分ければいいのでしょう? ひとつやふたつの料理なら間違えることもありませんが、5つや10にも増えていったら、どれがどれだかわからなくなってしまいそうです」
「いや、その前に、どの数字がどの食材の分量なのかは、どうやって見分けたらいいんだい?」
そのあたりのことも、俺は事前に考えていた。
「最初の内は、絵や色で見分けるしかないと思います。肉団子だったら丸い絵を描くだとか、塩は赤い字で書くだとか、そんな感じにですね。ただ、それと並行して、セルヴァの文字を記号として覚えていってはいかがでしょう?」
「セルヴァの文字を、記号として?」
それは実践で見せたほうが早かった。
「宿場町でも、それほど多くの文字というものは使われていなかったのですよ。だからこれは、ルウ家の客人であるミケルに教わったものなのですが……こちらには、赤で塩、青で砂糖、黄色でタウ油と書かれています」
セルヴァおよびジャガルで使われているのは、象形文字を思わせる不可思議な文字であった。帳面を覗き込んだ女衆らは、みんな感心したような声をあげている。
「最初の内は、色を頼りに見分ければいいと思います。染料はこの三色しかありませんが、色を混ぜれば十色ぐらいは使い分けられるのではないでしょうか? それで、食材と調味料はそれぞれ別に分けて使えば、しばらくは不便もないと思います」
「うーん、だけど今度は、その色がどの食材であるかを覚えるのが大変じゃないかねえ?」
「それはですね、食材をしまっている場所にその色で名前を書き留めておけばいいのですよ。調味料だったらその容器に書いてしまえばいいですし、野菜だったら棚や籠にこの帳面を張りつけておけばいいのです。そうして毎日見ていれば、やがてその文字が何を意味するかも自然に覚えられて、色を変える必要もなくなるのではないでしょうか?」
まったくゼロの状態から見知らぬ文字を覚えるというのは大変だ。俺自身、そのようなことにあまり労力はかけられないと考えている。
だからこれは、俺もこの方法だったら食材や調味料の文字ぐらいは覚えられるかもな、という意識で考案した作戦であった。
「あとは肝心の、料理名ですよね。こればかりは、ひとつずつ覚えていくしかないと思います。2、3種類ぐらいから始めれば、間違えることもないのではないでしょうかね」
「あたしは、くりーむしちゅーってやつの作り方をきちんと覚えたいんだよね。家で作っても、なかなかアスタみたいに上手くいかないからさ」
「クリームシチューというのは俺の故郷の言葉なので、それをそのまま文字で表すことはできないそうです。でも、さっき何とかミケルに考えていただきました」
セルヴァの文字は、表意文字なのである。10文字ぐらいで構成されたその一文には、調味料の欄に記された『カロン乳』の文字も含まれていた。これで、『カロン乳仕立ての具だくさんの汁物料理』という意味合いになるらしい。
「このクリームシチューという文字を赤で書いて、他の料理を青や黄色で書けば、ひとまず3種類ぐらいは見分けられるのではないでしょうか。それで混乱しなくなった頃合いで、新しい料理を増やしていけばいいと思います」
そうして俺は、最後にスフィラ=ザザを振り返った。
「いかがでしょう? この方式を取り入れれば、トゥール=ディンの手ほどきもよりすみやかに行えるのではないかと考えたのですが」
「……トゥール=ディンは、どう思いますか?」
質問を丸投げされてしまい、「は、はい!」とトゥール=ディンは上ずった声をあげる。
「と、とても素晴らしいと思います。最初は大変かもしれませんが、行く末を考えればかなり苦労が減るのではないでしょうか」
「そうですか。……しかし、その筆や帳面というのも、決して安いものではないのでしょうね」
「安くもなく高くもないという感じでしょうか。あくまで、俺の感覚ですが」
塗料も帳面もごく近在の町で大量に生産されているらしく、それほど値の張るものではなかった。特にこの帳面で使われているのは、パプラという樹木から作られた割安な紙であるという。これまで宿場町で目にする機会はなかったが、宿屋のご主人たちも裏ではこれらを使って帳簿をつけているのだという話であった。
「わかりました。家長と相談いたしましょう。それでトゥール=ディンの苦労が減るのでしたら、銅貨を惜しむこともできません」
「あ、いえ、わたしは何でもかまわないのですが……でも、そうやって食材の分量などを書き記すことができるようになれば、親から子へ、またその子へ、と教えを伝えていくのに、とても便利だと思うのです」
「……そうですね」と、スフィラ=ザザが薄く微笑んだ。
最近見せるようになった、大人びた表情だ。それを見て、トゥール=ディンもまたはにかむように微笑んだ。
「では、家長らにもそのように伝えます。……アスタ」
「はい、何でしょう?」
「……わたしたちにもわけへだてなく知識を授けようというあなたのお気持ちには、感謝いたします」
俺に笑顔が向けられることはなかったが、それでもそれは十分に心のこもった言葉であった。
そうしてスフィラ=ザザがトトスの荷車で帰っていくと、サリス・ラン=フォウが俺のほうに近づいてきた。
「アスタ、わたしからもお礼の言葉を言わせてください。みんなはまだあまりわかっていないようですが、これは本当に素晴らしいことだと思います。……そして、驚くべき話だとも思います」
「そうですか。意外にみなさんが前向きに受け止めてくれていて、俺もありがたいと思っています」
「ええ。これでわたしたちは、いっそう美味なる料理で家族たちを喜ばせることができるようになるでしょう。アイ=ファがアスタを見出した今日という日を、わたしも心から祝わせていただきたく思います」
そのように述べてから、サリス・ラン=フォウはにこりと微笑んだ。
「でももちろん、晩餐の時間に押しかけたりはしないのでご安心ください。アイ=ファとふたりで心ゆくまで喜びを噛みしめてくださいね」
「は、はい。お気づかいありがとうございます」
「……あと、アイ=ファの料理がどのようなものであったとしても、怒ったり悲しんだりしないであげてくださいね? アイ=ファはアスタから料理の手ほどきをされてもいないのですから」
「もちろんです。どのような料理であっても、アイ=ファが作ってくれたというだけで、俺にはかけがえのないことですよ」
いささか気恥ずかしかったが、相手が他ならぬサリス・ラン=フォウであったため、俺は包み隠さず本心を語ってみせた。
そんな晩餐の刻限まで、時間はまだまだたっぷりと残されていた。