④最悪なる晩餐(上)
2014.10/29 誤字修正
2015.2/4 「後書き」の文章を削除いたしました。
アイ=ファの住処は、そこから10分ほど歩いた場所にあった。
他の家屋と同じように、ちょっとした潅木だけを残して平らに切り開かれた空間に、ぽつんと木造の建物が建っている。
住居が間遠に建てられているのは、ここまでの道のりでも見てきた通りだが。アイ=ファの家の周囲は特に閑散としていて、ちょっと薄気味が悪いぐらい静まりかえっていた。
しかしまた、アイ=ファのワイルドな装束や「森辺の民」などというネーミングから、もっと原始的な住居を想像していたのだが。近くで見ると、それは意外に立派な木造家屋だった。
「へえ。なかなかいいところに住んでるじゃないか」
ログハウス、というほど小洒落てはいないが。平らに切った板と丸太の素材を上手い感じに組み合わせており、とにもかくにも大きさが立派である。敷地面積だけで言ったら、『つるみ屋』にも負けていないかもしれない。
だいぶん暗くなってきたので詳細は見てとれないが。とりあえず、屋根が右から左へと少し傾斜しているのが特徴的で、釘やビスなどを使用しない木組みの構造であるらしかった。
家の周囲には、幅も深さも50センチほどの堀が切られており、玄関口には丸太をくくった通路が渡されている。
動物除けか、あるいは雨水の逃し口なのかなと想像をかきたてられる。
「……何をしている。とっとと入れ」
「ああ、ごめんごめん」
玄関の戸は、これは日本式を思い起こさせる横側へのスライド方式だった。
家の主に続いて、おっかなびっくり屋内に足を踏み入れる。
「お邪魔しまーす……」
屋内は、さらに暗かった。
だけど、やっぱり広々としているのはわかる。
床には一面、茶褐色の毛皮が敷かれており、入り口の土間でアイ=ファが足先の革サンダルをほどき始めたので、俺も慌ててそれにならった。
靴下はどうしようかと悩んだが。害はあるまい、と脱いでおくことにする。
裸足に、ごわごわとした毛皮の感触が、ちょっとくすぐったい。
その背後で、ごとりと重い音が響いた。
アイ=ファが、両開きの玄関の扉にでかいかんぬきをかけたのだ。
(これでもう、呼べど叫べど助けは来ない、と)
まあ、そのような事態には陥りたくないものだと心中で祈りつつ、あらためて室内に目線をめぐらせる。
大きさは、横長の12畳といったぐらいだろうか。
左右の壁には窓が大きく切られており、さすがにガラスなどの類いは嵌っていないが、20センチぐらいの間隔で細い木材が縦向きに組み込まれて格子の役を果たしている。
奥のほうは壁で仕切られており、三つの扉がうかがえた。
天井もほどほどの高さだったが、梁がむきだしで、外観通りに左側へと傾斜している。雨風をしのぐ設計なのだろう。よくわからないけれども。
だけど……正直なところ、俺はそういった視覚上のことよりも、嗅覚からもたらされる情報のほうに興味や関心をかきたてられてしまっていた。
この娘さんが身にまとっている複雑な香気のうち、約三つまでもがそこには強く漂っていたのだ。
すなわち、肉の匂いと、香辛料の匂いと、香草の匂いが、である。
「……足はまだ痛むのか?」
「え? いや、大したことはないよ。ちょっと熱を持ってる感じはするけど、べつだん腫れたりもしていないし。何もしなくても明日には回復するんじゃないかな」
「……そうか」
部屋の中央まで足を進めたアイ=ファが、少し考えこむような顔をする。
「すぐにでも話を聞きたいところだが、私も腹が空いてきた。とりあえずは食事の準備をする」
「どうぞどうぞ、ご随意に。……えーと、俺は何ひとつ代価の持ち合わせがないんだけど、ご相伴にあずかることは可能なのかな?」
「……お前の腹の虫が騒いでいるうちに話などできるか」
そんな、歯を剥いて怒らなくてもいいじゃないですか。
だけど、無償で食事までご馳走していただけるなんて、ありがたい話である。こんな素晴らしい香りの充満した部屋でひとりおあずけを食らわされるような羽目になったら、俺など失神してしまうかもしれない。
で、食事の準備を始めるとのことであるが。もちろん俺はこの家屋に一歩足を踏み入れるなり、右側の窓の近くにそれらしい設備が整えられているのを確認していた。
そこだけは毛皮の敷物が敷かれておらず、2メートル四方ぐらいの空間に白い小石が敷きつめられており。そして、黄色い岩が綺麗な台形に組み合わされている。
その腰の高さぐらいの台座の正面にはぽっかりと黒い穴が口を開けており、その上に鎮座ましますのは――黒光りする、金属の大鍋。
ちょいとばっかり原始的だが、これがきっと「かまど」なのだろう。
その横合いには、薪と思しき細い木の束がどっさりと積まれている。
この大広間が、厨房を兼ねているわけか。
みんなで作ってみんなで食べる、そういう風習なのかもしれない。
ただし――この広い家屋に姿が見えるのは、今のところ、俺とアイ=ファだけである。
「そういえば、他にご家族はいらっしゃらないのかな?」
「……父親は死んだとさっき説明しただろう。母親はもっと昔に死んでいる」
かまどの前で片膝をついた体勢で、アイ=ファはぶっきらぼうにそう言った。
まだこの世界の常識や倫理をわきまえていない俺としては、「そうか」と応じるしかない。
そうこうしているうちに、かまどに火が点いた。
どうやって着火したのだろう。見ておけば良かった。
何はともあれ、室内がじんわりと明るくなる。
「……何をぼけっと突っ立っている? 目障りだから、とっとと座れ」
「ああ、うん、えーと、どこに座ればいいのかな? 悪いけど、本当にこの土地の文化や風習ってやつが、俺にはさっぱりわからないんだよ」
かまどの前から身を起こしたアイ=ファが、けげんそうに俺を見る。
その両手に小さな火の灯りが携えられているのに気づき、俺はちょっと興味をそそられた。
取っ手のついた、小さな皿状の燭台だ。
刀と鍋に続いて現れた、この世界における第3の金属製品である。
そしてその中身は、獣脂であるに違いない。室内には、ますます食欲をそそる匂いが充満した。
室内を行き来して、左右の窓枠にそれぞれの燭台を設置してから、アイ=ファが俺を振り返る。
「腰を下ろすのに文化もへったくれもあるか。まったくわけのわからない男だな、お前は」
とことん可愛げのないことを言いながら、アイ=ファは肩から羽織っていた毛皮のマントをおもむろに脱ぎ捨てた。
だいぶん明るさを増した室内に、アイ=ファのすらりとした肢体の線が浮かびあがり――不覚にも、俺はちょっとドキリとしてしまう。
何せこいつは、その下に胸あてと腰あてと首飾りぐらいしか身につけていないのである。露出具合は、水着や下着とほとんど変わらない。
愛想はなくても、女は女だ。
それに、けっこうな美少女でもある。
華奢だがしっかりと鍛えぬかれたその身体は、革鞭のようなしなやかさと、女性らしい優美なラインを絶妙な配合具合であわせもっており、なんというか……実にその、綺麗で魅力的なのだった。
武骨なマントを脱いでしまうと、その破壊力が倍増してしまう。
「……おい」
「はい! 何でしょう!」
「でかい声を出すな。……お前が胸に差しているそれを、引き渡せ」
毛皮のマントを壁にかけ、大刀をその下にたてかけながら、アイ=ファがにらみつけてくる。
「べつだんお前のように生白い男に刀を持たせておいても、私に危害を加えることなどできはしまいが。他家の住処に腰を落ち着けるときは、主に刀を預けるのが森辺の民の流儀なのだ」
俺は、言葉を失ってしまう。
アイ=ファは少しだけ物騒な感じに目を細め、俺のほうに近づいてきた。
そのくびれた腰には、まだ小刀がぶら下がっている。
「もう一度言うぞ? 森辺の民の流儀に従う心づもりがあるならば、その刀を引き渡せ」
「ちょっと待ってくれ。それはやっぱり、おたがいの信頼関係を確認するための風習……てことなんだよな?」
アイ=ファは無言のまま、左手を差しだしてくる。
俺は3秒ほど煩悶し、決断した。
「わかった。だけどこいつは、俺にとってものすごく大事な品なんだ。それに、狩猟用の刃物より繊細な造りをしてるんで、できるかぎり丁寧に扱ってもらえるかな?」
「……私を馬鹿にしているのか? 刀を乱雑に扱う人間など、森辺の民には存在しない」
「いや、そういう意味じゃなく、たとえば刃こぼれとかすると修復が難しいデリケートな刃物なんだよ。それさえ理解してもらえれば、いい」
俺は前合わせの胸もとに差しこんでおいた三徳包丁を取り出して、柄のほうをアイ=ファに差し出した。
その黒檀の柄を見つめながら、今度はアイ=ファが動きを止める。
「……この刀は、親の形見か何かなのか?」
「ああ、まあ、そんなようなもんだ」
実際に死んでしまったのは俺のほうなのだが、二度と会えないという事実に間違いはないだろう。
アイ=ファは三徳包丁を受け取ると、それを胸におし抱くようにして、室の奥へと足を進めた。
「……家族を乱雑に扱う人間など、森辺の民には存在しない」
低い声でつぶやきながら、一番右側の戸を開けて、その向こうに姿を消す。
そうして次に姿を現したとき、アイ=ファの手に三徳包丁はなく、その代わりに食材の山と思しきものどもが抱えられていた。
俺は大いに興味をかきたてられつつ、かまどの前へと移動する。
そうして近くで拝見すると、鉄鍋のサイズもなかなかのものだった。
形状としては丸底の坊主鍋で、直径は60センチほど、深さは30センチほど。まん丸の球を真ん中からすっぱり断ち切ったような、底の深い形をしている。
「何だ? 準備にはまだ時間がかかるぞ。お前は、座っていろ」
「いや、この世界の食文化ってやつに興味があるんだよ。いちおう俺はそっち関係の仕事を生業にしてたんでな」
アイ=ファはたいそう不審げであったが、それ以上文句をつけようとはせず、その手の食材を足もとに降ろした。
「へえ。こいつはなかなか豪勢じゃないか」
見たことのない野菜が、2種類。
片方は、実に鮮やかな緑色をしているが、形も大きさもタマネギそっくりだ。
もう片方は、何だろう。人間の拳大ほどのボコボコとした球状で、あえて言うなら、ジャガイモに似ている。ただし色彩はクリーム色で、芽を生やしそうな様子もないから、いわゆる地下茎ではないのかもしれない。
そして――それらを圧倒するかのように、でんと置かれた肉の塊。
おそらくは、あのギバというイノシシモドキの後ろ足、なのだろう。
股関節からぶつりと断ち切られており、使いかけのようだが腿にはまだみっしりと肉がついている。身だけで5キロは下らない。
毛皮も綺麗に剥がされていて、赤身の目立つ表面には、何やら黒い木屑みたいなものがまぶされている。黒胡椒のように刺激的な香りがするから、防腐のための香辛料であるに違いない。
その肉塊だけが、ゴムノキみたいに大きな葉の上に乗せられており、野菜は直接床の上に転がされた。
これはなかなかのボリュームが期待できそうだ。
「……何が豪勢だ? 本当にお前は森辺の暮らしというものがわかっていないのだな」
面白くもなさそうにつぶやきながら、アイ=ファはかまどの裏手に回りこんだ。
そちらには、年季の入った水瓶が鎮座しており、アイ=ファは木でできた柄杓のようなもので、熱された鍋に何杯かの水を移した。
火の勢いはなかなかのものであったので、すでに鉄鍋は十分に温まっていた。深底の鍋の半分ぐらいにまで注がれた水が、すぐにぼこぼこと沸騰し始める。
それを確認してから、アイ=ファはまず肉塊をひっつかんだ。
蹄のついた足首のほうを逆手で握りこみ、蒸気のあがる鍋の上に肉をかざす。
まさか丸ごと投入じゃないよな、と見守っていると、アイ=ファは腰から小刀を抜いて、ギバの肉を削ぎとり始めた。
あの、屋台で見るケバブの調理みたいに、肉の表面を削いでいくのだ。
薄く削がれた肉片は、煮え湯に落ちてゆらゆらと舞う。
どうやら香辛料のついた部位を優先的に削いでいるらしく、手もとに残った肉塊のほうはだんだんと赤い素肌があらわになっていく。
どう見ても狩猟用の小刀なのに、なかなかの切れ味だ。
刃渡りは20センチぐらい、刃の厚みは7、8ミリぐらいもあり、背の側はギザギザの鋸刃になっていて、刀身だけ見たらサバイバルナイフそのものである。
さっきの蛮刀と同じように柄には滑り止めの革が巻かれて、鍔の類いはついていない。
そんな狩猟用の刀で、肉をザクザクと削いでいく。何とも野趣あふれる調理法である。
しかしまあ、俺だって大衆食堂の跡取り息子だ。気取った料理なんかに興味はないし、衛生面にさえ問題がなければ、どんな調理法でも、かまわないと思っている。
料理なんて、美味いか美味くないかが、すべてなのだ。
見目を整えるのは、そうしたほうが美味く感じるからだし。
衛生面を重視するのは、美味くても身体に害があっては意味がないからだ。
要するに、何が言いたいかというと。
豪快に、かつ手馴れた仕草で肉を削ぎ落としていくアイ=ファの姿を見ているだけで、俺の空腹感はいや増すばかりである、ということだ。
「……お前は何をそんなに楽しげな顔をしているのだ?」
「え? いやあ、実に美味そうだなあと感じいってるだけなんだが」
「……食い物に美味いも不味いもない」
再び暴言を吐きながら、アイ=ファは鍋の蓋をしめた。
蓋、といっても、四角く切られた、ただの板だ。
さらにその上から、漬物石みたいに大きくて平べったい石を置く。
ギバの足は、ひとまわりスリムになって、黒い粉末をまぶされていた表面が綺麗になくなっていた。
それでもまだ十分に赤身は残っていたから、およそ800グラムぐらいを削ぎ取った感じかな。
そいつを食糧庫に戻し、火の加減を確かめてから、アイ=ファは「うむ」と首をうなずかせた。
それから、俺を振り返る。
「肉が煮えるまで、しばらくかかる。……それまでお前の話を聞かせてもらおう」