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異世界料理道  作者: EDA
第二十九章 始まりの月(下)
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黄の月の二十四日①~朝~

2017.9/1 更新分 1/1

 黄の月の24日――その日が、ついにやってきた。

 俺ことファの家のアスタの、18回目の生誕の日である。


 もちろんそれは、便宜上こしらえられた、かりそめの生誕の日だ。

 だけど、そうであるからこそ、その日は俺にとって本来の誕生日よりも大きな意味を持つ日となりえたのだった。


 もとの世界で火災に見舞われ、あっけなく生命を落としてしまった俺は、何らかの超常的な作用によって、この異世界で二度目の人生を歩むことになった。そして、これはいったいどういうことなのかと頭をひねっている間に、モルガの森でギバに襲われて、そうしてアイ=ファに救われた。それが昨年の、黄の月の24日の出来事であったのである。


 一度死んだ俺にとっては、その日が二度目の人生の幕開けであった。

 だから俺は、その日を自分の新たな誕生日と定めたのだ。


 その黄の月の24日が、ついにやってきた。

 その始まりは、普段とまったく変わらない、至極穏やかものであった。


「ううん……もう朝か……」


 窓から差し込むやわらかい朝日が、俺にとっての目覚まし時計である。

 その日差しから逃げるように、寝具の上で寝返りを打つと、広間の真ん中であぐらをかいて髪を結っているアイ=ファの姿が見えた。


「ようやく起きたか。お前も身支度を済ませるがいい」


「了解であります、家長殿……ふわーあっと」


「……毎朝のことながら、とぼけた顔だな」


 器用にくるくると髪を結いあげながら、アイ=ファが微笑する。

 その微笑みの愛くるしさも普段通りの、そんな朝であった。


 俺は物置に移動して、身支度を整える。Tシャツや下帯はこの段階で着替えてしまい、水場で洗濯をするのだ。いつも俺より早起きなアイ=ファは、髪を結う前に着替えを済ませているはずだった。


 脱いだ衣服を草籠に放り入れて、俺は新しいTシャツに手を通す。

 これは、雨季が明ける少し前に、城下町で仕立ててもらった新品のTシャツだ。雨季用の装束を仕立てる際に、頭に巻くタオルやTシャツの代用たりうる生地の存在を知った俺は、ヤンを通じてこれらのものを数着分オーダーメイドさせていただいたのである。


 それらを購入する前に着ていたもともとのTシャツは、調理着と一緒にこの物置に保管してある。

 早々に着替えを済ませた俺は、何とはなしにそれらの衣服のほうに目を向けてみた。


 保管と言っても、奥の壁に掛けられているだけのことだ。

 Tシャツは調理着の内側にしまいこんであるために、外側からは見ることもできない。さらに調理着のポケットには、かつて俺が着用していた下着や靴下やよれよれのタオルまでもがきちんと収納されていた。


 さらに、その下の床には底の擦り切れたデッキシューズも置かれている。

 親父の三徳包丁を除けば、これが元の世界から持ち込んできた俺の所持品のすべてであった。


 調理着の胸もとには、《つるみ屋》のロゴが入っている。

 この地では誰も読むことのできない、俺だけが知る異国の文字だ。

 その黒く刺繍された文字をなぞりながら、俺はふっと息をついた。


(あれから、1年か……まあ、閏月があったから、実際は400日近くも経ってるんだろうけど)


 そんな風に考えながら、わずかに視線を傾ける。

 俺の調理着の隣には、2着の毛皮のマントが掛けられていた。

 1着はアイ=ファが幼い頃に纏っていたもの。もう1着は、3年ほど前から今年の生誕の日まで、アイ=ファが着用していたものだ。


 小さなマントのほうは、アイ=ファの母親がこしらえたものだった。

 負傷をして森に出ることのできなくなった父親の代わりに、アイ=ファが拙い罠で子供のギバを捕獲した。そのギバの毛皮で、アイ=ファのためにこれをこしらえてくれたのだそうだ。


 もちろん、正式な狩人の衣ではない。もとが子ギバの毛皮であるのだから、丈などはせいぜい30センチぐらいしかないし、そもそも幼い女児であったアイ=ファに狩人の衣が贈られるわけはなかった。

 それでも家族の窮地を救った娘の行いをたたえるために、アイ=ファの母親は真心をこめてこの小さなマントをこしらえてくれたのだろう。


 10歳かそこらのアイ=ファがこの小さなマントを羽織り、誇らしげな面持ちで木登りをしたり家の周りを走り回ったりしている光景を思い描くだけで、俺は温かい気持ちになることができた。


 そしてもう1着のほうは、アイ=ファの父親の形見であるはずだった。

 アイ=ファは父親を失った15歳の年からたったひとりで狩人の仕事に取り組んでいたが、その毛皮をなめして狩人の衣をこしらえてくれる家人もいなかった。だからアイ=ファは、生誕の日にサリス・ラン=フォウたちから新しい狩人の衣をプレゼントされるまで、この父親の形見をその身に纏って仕事を果たし続けていたのである。


 そんなアイ=ファの思い出の品とともに、俺の調理着が保管されている。

 毎朝目にしている光景であるのに、今日はひとしお感慨深く感じられてしまうようだった。


(まあ、今日ばかりはしかたがないよな。何せ、アイ=ファと出会って丸1年の記念日なんだから)


 俺は強引にそちらから視線をもぎ離すと、洗い物を詰めた草籠を手に戸板を引き開けた。

 すると、拳の側面が鼻先にまで迫ってきて、俺に痛撃を与える直前で停止した。

 縦にかまえた拳の向こうから、アイ=ファの顔がひょいっと覗いてくる。


「何だ、支度は済んだのか。あまりに遅いので、戸板を叩こうと思ったのだ」


 そうなのだろうとは思ったが、心臓に悪いことに変わりはなかった。

 アイ=ファはすました顔で拳をおろして、身をひるがえす。


「では、行くぞ。水瓶の水も心もとないので、入れ替えてしまうか」


「ああ、そうだな」


 半端に余っていた水を外に流して、運搬用の引き板に水瓶をセットする。

 すると、ギルルのかたわらで寝そべっていたブレイブが元気に駆け寄ってきた。

 これといってブレイブに仕事はないが、水場まで同行するのは毎朝の習慣になっていたのだ。


 俺は水瓶を、アイ=ファは昨晩の晩餐で使用した鉄鍋および食器を受け持ち、みんなで仲良く水場を目指す。

 水場では、フォウとランの人々が先に仕事を始めていた。

 さらに、フォウの家に預けられている猟犬も同行していたので、ブレイブはそちらと親交を深めることになった。


「今日はいよいよ、肉の市だね。何とか無事につとめあげてみせるから、見てておくれよ、アスタ」


 フォウの女衆のひとりが、鉄鍋を洗いながら笑いかけてきた。

 同じように洗い物を開始しながら、俺は「はい」とうなずいてみせる。


「余計な口出しはせずに見守っていますので、どうか頑張ってください。でも、何か困ったことがあったら、すぐに声をかけてくださいね」


「ああ。今日だけでもアスタがそばにいてくれたら、あたしたちも心強いよ」


 森辺の民が初めて参加する肉の市は、本日が開催日となったのだ。

 それで、俺はたまたま宿場町での仕事が休業日であったので、同行させていただくことに決めたのだった。


 もともと案内役としてはレイナ=ルウが同行する手はずになっていたが、そこはそれ、俺もこの目でギバの肉が初めて市場で売られる光景を見届けておきたかったのである。


「それじゃあ、また後でね。ええと、三の刻の、四半刻だっけ? とにかく、決められた時間までに準備をしておくからさ」


「はい、よろしくお願いします」


 ともに仕事をしてもらう関係で、すでに近在の氏族はみんな日時計を設置している。三の刻の四半刻というのは、俺の感覚で言うと8時15分ぐらいに相応する時刻であった。


「約束の時間まで、俺たちはどうしようか? いつも通り、薪拾いでいいかな?」


「うむ。身を清めぬまま町に下りるのは気が進まぬしな」


 現在はまだ夜明けから半刻ていどしか経っていないので、2時間ぐらいは自由に使うことができる。それだけあれば、身を清めた上で薪とピコの葉の採集作業もこなせそうであった。


「……しかしまあ、びっくりするぐらい、いつも通りの日常って感じだな」


 ふたりきりになったのでそのように呼びかけてみると、アイ=ファは「うむ?」とけげんそうに首を傾げた。


「いや、ほら、いちおう今日は、アイ=ファと出会って一周年の記念日なわけじゃないか」


「ふむ。しかし、私が森でアスタを拾ったのは日の沈みかけた夕暮れ時であったからな。1年前のこの時間には、まだおたがいの存在も知ってはいないはずだ」


 アイ=ファはあっさりとそう言って、また洗い物に集中し始めた。


「祝いの言葉を交わすのは晩餐の刻限で十分であろう。今は、自分の仕事を果たすがいい」


「はい、了解いたしました」


 何ともドライな応対であったが、俺が物悲しくなることはなかった。

 こういう毅然とした態度もふくめて、俺はアイ=ファに魅了されてしまっているのである。


(普段通りの日常を送れるってことが、一番の喜びだもんな)


 そんな風に考えながら、俺も鉄鍋にこびりついた煤を落とすために集中することにした。


                   ◇


 その後は、ブレイブもともなって森の端に入り、ラントの川で身を清めてから、薪と香草の採集作業である。


 日が過ぎるにつれて、この辺りに実る果実もじょじょに数が減じてきている様子だった。

 あちこちの樹木に傷がついているのは、実が熟して落ちるのを待ちきれないギバが頭突きを繰り返した痕跡である。それに、ギーゴに似た草の根を掘り返した痕も、そこら中に残されている。


 もうしばらくすれば、この一帯の森の恵みはあらかた食い尽くされることだろう。

 それはすなわち、この近在でも休息の期間が迫ってきているということだ。

 先日には、ルウの血族の休息の期間が終了した。この近在の氏族は、それからおよそひと月ていどの後に休息の期間を迎えるのが通例であった。


「……しかし、前回の休息の期間が明けてから、すでに丸4ヶ月以上は過ぎているはずであったな」


「えーと、前回の休息の期間が明けたのは、たしか金の月の半ばだったっけ。それから、茶、赤、朱、黄、ときてるわけだから……うん、現時点でも4ヶ月以上は経ってるな」


「森の恵みの様子から考えるに、休息の期間を迎えるにはまだ半月ていどの猶予があろう。すると、前回からは5ヶ月ほどの期間が空くことになる」


「休息の期間がやってくるのは年に3度だから、5ヶ月だとやや長めってことになるのかな? それには何か、特別な理由でもあるんだろうか?」


「それはおそらく、この近在ではこれまで以上にギバを収穫できるようになったために、森の恵みを食い尽くされるのに時間がかかるようになった、ということではないだろうか」


 確かにファの家のみならず、フォウでもランでもスドラでも、ギバの収穫量は上がっているはずだった。しかも最近では猟犬まで導入されて、いっそう目覚しい成果をあげているはずだ。


「だったら、ルウ家のほうでも、それは一緒なんだろうな。ルウ家の休息が終わってからひと月後に俺たちの休息っていう部分は崩れてないわけだから、あちらも5ヶ月ぐらいは期間が空いてるわけだ」


「うむ。ルウ家では銀の月に入ってすぐに狩人の仕事を再開させて、前回は朱の月の終わり頃に収穫祭を行ったのだから、やはり5ヶ月は空いていることになるな」


 さすがは並々ならぬ記憶力を持つアイ=ファである。俺はそんな風にすらすらとルウ家の休息の時期を思い出すことはできなかった。

 しかしまあ、言われてみると、銀の月の初めというのは年明けのことであるし、前回の収穫祭というのはジバ婆さんの生誕の日であったのだから、記憶に残りやすい日取りではあったかもしれない。


「我らがルウの血族に負けぬぐらいの収穫をあげているのだとすれば、それは誇らしいことだ。まあ、あちらは森の恵みが豊かであり、こちら以上にたくさんのギバを収穫できるのであろうがな」


「うん。だけど、スドラなんかはギバの数が減ってきているように感じたから、スン家の集落にも通うようになったんだよな。そう考えたら、やっぱりこちらでもかなり収穫の量が上がってるってことになるんじゃないだろうか」


「ああ、確かにな。……それもこれも、アスタが美味なる料理によって、近在の氏族にもルウの血族にもこれまで以上の力を与えたという証であろう」


 拾った薪を手に、アイ=ファが俺を振り返る。


「お前のことを誇りに思っている。今後もたゆまず、森辺の同胞の力となるがいい」


「うん。アイ=ファにそう言ってもらえるのが、一番嬉しいよ」


 アイ=ファは家長らしい凛然とした表情のまま、「うむ」とうなずいた。

 ただしその目には、俺を温かい心地にさせてやまない優しげな光が宿っているように感じられてならなかった。


 そうして朝の仕事を終えて家に戻ると、もう出発の時間が迫っていた。

 ギルルを荷車につないで、ファの家のフルメンバーでフォウの家に向かう。この朝も、アイ=ファは念のために同行すると言いたてていたのだった。


「ああ、アイ=ファにアスタ、お待ちしていたよ」


 フォウの家でも、出立の準備はできていた。

 なおかつそちらでも、1名だけ護衛役の男衆が付き添っていた。


 本日準備したギバ肉がすべて売れると、売り上げ金は最低でも赤銅貨3420枚に及ぶ。これではよからぬ思いを抱く無法者が現れないとも限らないので、フォウでもダイでも1名ずつ護衛役を同行させることに決定されたのである。


 商売を受け持つ女衆は2名。さきほども水場で顔をあわせたフォウの分家の家長の伴侶と、ランの若い女衆。護衛役は、フォウの若い男衆であった。


「まあ、町の人間がそうそう森辺の女衆にちょっかいを出すとは思ってないんだけどさ。あたしらはこれまで、そんなにたくさんの銅貨を持ち歩くこともなかったから、いちおう用心しておこうと思ってねえ」


「いえ、それは必要な措置だと思いますよ。余所の町から流れてきた無法者ですと、森辺の民のこともよく知らないまま銅貨を狙ってくるかもしれませんからね」


 俺たちも、ダバッグの町では森辺の狩人を恐れない無法者たちに襲われることになったのだ。ここは用心して然りの状況なのであろうと思えた。


 ともあれ、ルウの集落に出発だ。

 俺たちはギルルの荷車で、フォウとランの人々はファファの荷車で道を下る。どちらも少人数ではあったが、あちらは200キロ以上のギバ肉を積んでいたので、荷車を分ける必要があったのだった。


 ルウの集落には、20分ていどで到着する。

 集落の入り口では、すでに4名のメンバーが俺たちを待ち受けていた。

 ジザ=ルウ、ルド=ルウ、レイナ=ルウ、リミ=ルウという顔ぶれである。


「お待たせしました。けっきょく4名に落ち着いたのですね」


「うむ。案内役にはアスタもいるし、見届け役は俺ひとりでもかまわないぐらいであったのだがな」


 ジザ=ルウの言葉を受けて、「俺はこいつらのお守りだよ」と、ルド=ルウがあくびまじりに言う。


「もともとはわたしが案内役であったのですから、自分の仕事を果たしたく思います」


 レイナ=ルウが生真面目な面持ちで言うと、その妹も「リミもー!」と便乗した。

 まあけっきょくは、レイナ=ルウたちも俺と同じ心境であるのだろう。ギバの肉が本当に売れるかどうか、フォウとダイの人々が無事に仕事をつとめあげられるかどうか、この目で見届けずにはいられなかったのだ。


 そんなわけで、ルウ家の4名もギルルの荷車に乗車する。

 あの混雑した市の現場に向かうのに、むやみに荷車の数を増やすべきではないだろうという判断で、同乗することに決めていたのである。


 そうしてさらに道を南下していくと、宿場町に通ずるT字路のあたりにダイ家の荷車が待ちかまえていた。

 前回の休息の期間に、ファの家が貸し与えたトトスと荷車である。彼らは律儀に全員が荷台から降りて、その場に待機していた。


「お待ちしておりました。本日はどうぞよろしくお願いいたします」


 若いが既婚の装束を纏った2名の女衆と、やはりまだ若めの男衆だ。

 その男衆が、荷台から顔を覗かせているジザ=ルウに深々と頭を下げた。


「おひさしぶりです、ジザ=ルウ。覚えておいでではないでしょうが、わたしはダイの分家の家長、ディール=ダイと申します」


「ディール=ダイ? ……ああ、貴方か。ひさしぶりというか何というか……まあ、息災なようで何よりだ」


「はい。ダイの家の名を汚さぬよう、今日は懸命につとめさせていただきます」


 ずいぶんと物腰のやわらかい男衆であるようだった。

 背丈はそれなりであるものの、どちらかといえば細身であり、顔立ちも狩人にしては優しげであるかもしれない。それに、ジザ=ルウを見つめる瞳には畏敬の念みたいなものまで感じられる気がした。


(ダイの家は、腰の低い人が多いんだよな。北と南を族長筋の氏族に囲まれてるせいなんだろうか)


 ダイとその眷族であるレェンは、ルウとサウティの間に存在する唯一の氏族なのである。族長筋になる前から、ルウとサウティはスンに次ぐ大きな氏族であったので、そういう意味では色々と肩身がせまくなってしまうのかもしれない。


 俺がそんなことを考えていると、彼らの背後にとめられていた荷車の荷台から、馴染み深いタマネギ頭がひょっこりと覗いた。


「いつまで挨拶してんのサ? ぐずぐずしてたら、肉の市とやらが始まっちまうんじゃないの?」


 現場の人間の監督役という大事な役目を与えられた、ツヴァイ=ルティムである。

 俺やルウ家の面々は見学であったり見届け役であったりだが、彼女はれっきとした仕事のメンバーだ。ルティムの集落はルウよりも南寄りであるため、ダイの人々が行きがけに合流することに定められていたのだった。


「それでは、出発いたしましょう」


 フォウの女衆の合図で、3台の荷車が西側の道へと進入した。

 ここから町までは下り坂であるので、震動が激しくなる。俺は転倒しないように壁にぴったりと背を預けながら、ジザ=ルウに呼びかけてみた。


「ジザ=ルウは、あのディール=ダイという人物とお知り合いであったのですか?」


「知り合いというほどのものではない。一度だけ顔をあわせただけの仲だ。……父ドンダやダルム=ルウなどは、家長会議で何度か顔をあわせたという話だったがな」


 彼は分家の家長と名乗っていたので、おそらくは本家の次兄か何かであったのだろう。それならば、ダルム=ルウと同様に、家長のお供で家長会議に参加する機会もあったはずだ。


「あれはたしか、リリンの家がルウの眷族となる祝いの宴であったかな……あのディール=ダイが、祝宴をこっそり盗み見ていたのだ」


「ダイの人間が、ルウの祝宴を? どうしてまた、そんなことを?」


「単なる好奇心であったという話だ。ただ、その際にヴィナと色々あってな」


 それでジザ=ルウが口をつぐむと、レイナ=ルウが耳打ちをしてきた。


「わたしも詳しくは知らないのですが、あの男衆はその祝宴でヴィナ姉を見初めてしまい、翌日には家長にも無断で嫁入りを願ってきたらしいですよ」


「ええ? それはずいぶん、大胆な話だね。……ていうか、リリンがルウの眷族になったのって、もうけっこう昔の話だよね」


「はい。ヴィナ姉は15歳になったばかりであったはずですから、もう6年ぐらいは経っていると思います。まあ、ヴィナ姉はあの頃から大人びていて、たくさんの男衆から嫁入りを願われていましたけれど」


 それは何とも、豪気な話であった。

 そしてレイナ=ルウは、さらに驚くべき話を俺に打ち明けてくれた。


「しかもあの男衆は、もともとはヤミル=レイに懸想していたそうです。……まだスン家の人間であった頃の、ヤミル=レイにですよ? なかなかすごい話ですよね」


 俺は思わず、「ほへえ」という間抜けな声を発してしまった。

 レイナ=ルウはくすくすと笑い、御者台のアイ=ファは背中を向けたまま「おかしな声をあげるな」と叱りつけてくる。


「そ、それはものすごい話だね。ヴィナ=ルウとヤミル=レイを天秤にかけるなんて、ラウ=レイ以上の型破りだ。そんな無茶な真似をする男衆には見えなかったんだけど……」


「はい。わたしも姿を見たのは初めてのことですが、あのように線の細い男衆だとは思っていませんでした。人というのは、わからないものですね」


 大人っぽさと子供っぽさの混ざり合った表情で、レイナ=ルウは楽しげに笑っていた。


「でも、当時はちょっとした騒ぎになりかけていたようですよ。ルウとスンのそれぞれの本家の長姉に懸想してしまうなんて、とんでもない話ですからね。ダイの家長も家長会議では、ドンダ父さんとズーロ=スンに、額を床につけて詫びていたそうです」


 確かに、当時のスンとルウの関係性を考えれば、そんなのは爆弾を投げ込むにも等しい行いであるように思えてしまった。それでもしもヴィナ=ルウやヤミル=レイがその気になってしまっていたら、どちらかの尊厳が丸つぶれとなり、一触即発であったルウとスンの危うい関係を崩壊させていたかもしれないのだ。


「あ……そういえばずっと昔に、ヴィナ=ルウがヤミル=レイともめたことがあるって聞いたことがあるんだよね。あれはたしか……家長会議のちょっと手前ぐらいの頃だったかなあ」


「あ、はい、わたしもヴィナ姉やララから聞いていましたよ。ヤミル=レイが、アスタの屋台を訪れてきたのですよね」


「うん、そうそう。だけどそれが、6年も昔の話だったとはね。こんなところで話がつながるとは、びっくりだよ」


「ええ。ですが、ディール=ダイはその後すぐに分家の女衆を嫁に取ったという話でしたから、何も騒ぎにはならなかったのですよ」


「え? ふたりの女衆に懸想していたのに、すぐ別の女衆を嫁に迎えたのかい?」


「はい。スンとルウを騒がせたけじめをつけさせるために、ヤミル=レイがそのように命じたのだという話でした」


 まだスン家であった頃のヤミル=レイの毒蛇じみた眼光と血臭を思い出して、俺は心の底から「おっかない」と思ってしまった。

 ディール=ダイは本当に、なんと豪胆な神経をしているのだろうか。


(いや、豪胆っていうよりは、どこか感性がずれてるのかな。自分がどれだけ大それたことをしているか理解できていなかった、とか……なんとなく、ジョウ=ランとイメージが重なっちゃうんだよな)


 だけど何にせよ、それはもう6年ばかりも昔に終わった話であるのだ。

 その頃に婚儀をあげているのなら、可愛い子供のひとりやふたりはこしらえているかもしれない。願わくは、誰もが森辺の民として幸福な生を送ってもらいたいものであった。


「お、そろそろ到着だな!」


 リミ=ルウと一緒にブレイブにかまっていたルド=ルウが、はしゃいだ声をあげる。

 木々の向こうに、建物の影が見え始めていた。


 下見のときはリミ=ルウの誕生日で、本番の今日は俺の誕生日というのも、なかなか楽しい偶然だ。

 初めて参加する肉の市で、どのような結果を収めることができるのか。俺は胸を躍らせながら、その結果を見届けることにした。

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