黄の月の十八日①~モルガの掟~
2017.8/10 更新分 1/1
翌日、黄の月の18日である。
宣言通り、その日の朝にククルエルたちが行路の下見に訪れることになった。
城下町からは、前日の日が暮れる寸前にサウティの家へとその報がもたらされることになったのだ。ダリ=サウティが律儀に使者を飛ばしてくれたため、ファとルウからも見学に駆けつけることができた。
「まったく、朝から慌ただしいことだな。べつだんお前が同行せずとも、その者をシュミラルに面会させる了承は取りつけることができたのであろうが?」
ギルルの手綱を操りながら、アイ=ファはそのように述べていた。
「いや、俺個人もククルエルというお人に興味がわいたんだよ。あのお人がシュミラルと何を話すのか、ちょっと聞いてみたくなっちゃってな」
「まったく物好きなことだ。ようやく休息の日が訪れたというのに、身体のほうは大丈夫であるのか?」
「大丈夫だよ。忙しいながらも楽しい5日間だったからな」
屋台の商売は5日置きに休業日がやってくる。しかし今回は、営業2日目にルウ家の婚儀があり、昨日の最終日にはお菓子の勉強会が開催されたため、俺はなかなか多忙な日々を過ごすことに相成ったのだった。
また、婚儀の日とその翌日はルウ家が商売を休んでいたので、その分はファの家で倍の料理を準備することになった。それがまた、忙しさに拍車をかけたわけである。
だけど俺は強がりでなく、元気いっぱいであった。シーラ=ルウとダルム=ルウの婚儀ではまたとない幸福感を得られることになったのだから、疲労感などそれで吹き飛んでしまったのだろう。婚儀から4日が過ぎた現在でも、俺の心にはまだ幸福感の余韻が残されているほどだった。
「アイ=ファのほうこそ、大丈夫なのか? 最近じゃあ、1日に2、3頭のギバを狩るのが当たり前になってきたみたいだけど」
「それはブレイブの力が加わった成果であるのだから、私の労苦はむしろ減らされている。森に出る時間を短くしたのだから、なおさらにな」
アイ=ファはこれまで、中天から日没までみっちり森にこもることが多かった。しかし、それが毎日続くとブレイブに疲労がたまっていくことが判明したので、数日に一度は半休の日をもうけることになったのだった。
半休の日は、仕掛けた罠に異常かないかを確認して、すぐに家まで戻ってくることになる。あとはブレイブと一緒に身体を休めたり、身体の負担にならないていどの修練に時間をあてているのだそうだ。
「ブレイブを家に招いて以来、私は一度として『ギバ寄せの実』を使っていない。それでこれだけの成果をあげられているのだから、やはりブレイブの力は大きいのだ」
「そっか。本当に猟犬ってのはすごいんだな。シュミラルにはどれだけ感謝しても足りないよ」
『ギバ寄せの実』を使わないということは、それだけアイ=ファの危険が軽減されるということなのだ。
荷台の中で揺られながら、俺は万感の思いを込めてブレイブの頭を撫でることにした。当然のことながら、ブレイブだけにお留守番をさせようとは考えないアイ=ファなのである。
「よー、早かったな、アスタにアイ=ファ」
ルウの集落に到着すると、あくびまじりにルド=ルウが出迎えてくれた。
そのかたわらにひっついたリミ=ルウも、「おはよー!」と元気に笑いかけてくる。
この好奇心旺盛な兄妹も、本日は同行を申し出てきたのである。
「そっちと合わせてちょうど6人だから、荷車は1台でいいよな。ジザ兄を呼んでくるから、ちょっと待っててくれよ」
「うん。もうひとりは誰なのかな?」
「ダルム兄だよ! リミが呼んでくるね!」
「あ、それじゃあ俺も挨拶させていただこうかな」
アイ=ファは興味がなさそうであったので、俺はリミ=ルウとふたりでダルム=ルウたちの家に向かうことになった。
シン=ルウ家の隣に立てられた、もとはミダ=ルウが住んでいた家である。リミ=ルウが戸を叩くと、待ちかまえていたように「はい」というシーラ=ルウの声が聞こえてきた。
戸が開き、昨日と同じシーラ=ルウの姿が覗く。
その向こうから、狩人の衣を羽織ったダルム=ルウも近づいてきた。
「もう時間か。それじゃあ、行ってくる」
「はい。お気をつけて、ダルム」
シーラ=ルウがやわらかく微笑むと、ダルム=ルウは「ああ」と低く応じた。
これまでと何も変わらないようでありながら、やっぱりどこかに温かい空気が感じられる。俺はまた、胸中でこっそり感じ入ることになってしまった。
「えへへ。ダルム兄と一緒で嬉しいなー」
リミ=ルウはにこにこと笑いながら、さっそくダルム=ルウの腕にからみついた。
別々の家で暮らすようになってから、本日で4日目。ダルム=ルウを慕っているリミ=ルウにとっては、これも貴重なコミュニケーションの時間なのだろう。
そうして荷台に乗り込むと、ほどなくしてルド=ルウたちもやってきた。
ジザ=ルウ、ダルム=ルウ、ルド=ルウ、リミ=ルウと、なかなか濃い面子である。その全員が腰を落ち着けるのを待ってから、アイ=ファはギルルに鞭を入れた。
「それにしても、けっこうな人数になりましたね。ダルム=ルウも加わるとは予想していませんでした」
俺がそのように述べてみせると、ダルム=ルウに横目でにらまれてしまった。
「相変わらず呑気な男だな。誰のせいで、俺がこのように早くから起きる羽目になったと思っているのだ?」
「え? もしかしたら、俺のせいなのですか?」
「……お前があやしげな東の民をリリンの家に連れていきたいなどと言いださなければ、俺まで駆り出されることはなかった」
ダルム=ルウの言葉に、ルド=ルウが「ははっ」と声をあげる。
「別に駆り出されたわけじゃなくって、ダルム兄が自分から同行するって言いだしたんだろ。俺とジザ兄がそろってれば、なんにも心配はいらねーのにさ」
「心配って? ククルエルのことを警戒してるのかい?」
「俺たちじゃなくって、ヴィナ姉がな。シムを捨てたシュミラルに対して、その東の民が何か悪さをするんじゃないかって、昨日の夜からもうへろへろだったんだよ」
それは申し訳ないことをしてしまった。
そして、姉のためにわざわざ早起きをしたというダルム=ルウに、また心を揺さぶられてしまう。
「俺もククルエルってやつとは顔をあわせてるけど、あいつはそんな悪さをするようなやつじゃなかったよな。だから、なんにも心配はいらねーよって言ってやったのに、ぜーんぜん聞きやしないんだよ」
「東の民は、毒を扱うというからな。我々も油断することはできまい」
ジザ=ルウは、静かな口調でそのように述べていた。
彼はまた、族長代理として今回の視察に立ちあうのだ。
「あのシュミラルも、もともとはその身におびただしいほどの毒草を隠し持っていたと聞いている。それらはすべてリリンの家に封印させたが、あれならば確かに10名の敵に囲まれても退けることができるだろうと、ギラン=リリンはそう述べていた」
「あー、シムの旅人をひとり襲うには10人の無法者が必要ってやつか。俺たちだって、10人の無法者ぐらいなら、ひとりで片付けられるだろうけどな」
「逆に言えば、毒の武器を扱う東の民は森辺の狩人と同じていどの力量を持つ、ということになる。我々にも、それだけの心がまえが必要ということだ」
ククルエルと実際に顔をあわせているのは俺とルド=ルウとリミ=ルウぐらいであるので、妙に殺伐とした会話になってしまっている。
なおかつ、俺やルド=ルウでもククルエルの内心を知ることはできないのだ。それを思えば、ジザ=ルウたちがこれほど警戒するのも当然なのかもしれなかった。
そんな会話をしている間にも、荷車はぐんぐんと進んでいる。
その途中で、アイ=ファが「うむ?」と手綱を引き絞った。
「おい。そのシュミラルが、我々を待ち受けていたようだぞ」
その言葉が終わらない内に、荷車が停止した。
御者台の脇のスペースから、シュミラルがひょこりと荷台の中を覗き込んでくる。
「お待ちしていました、ジザ=ルウ。私、同行、よろしいですか?」
「どうしたのだ? シムの客人は視察の後、リリンの家に連れていくという手はずになっていたはずだが」
ジザ=ルウの言葉に、シュミラルは「はい」とうなずいた。
「ですが、私、おもむくべき、思ったのです。見知らぬ人間、リリンの家、招き入れる、少し、不安に思いました」
「ふーん。だけど、こっちの荷車はもういっぱいだぜ?」
「大丈夫です。レイ家、トトス、借り受けました。
シュミラルの頭上から、少し鋭い目つきをしたトトスが荷台を覗き込んでくる。ラウ=レイが個人的に買いつけた、若めのトトスだ。
「やはり、東の民というのは警戒するべきなのだろうか?」
ジザ=ルウが問うと、シュミラルは「いえ」と首を振った。
「《黒の風切り羽》、有名な商団です。その団長、見知らぬ人間ですが、信用、できると思います。……ただ、私の見込み、間違っていると、リリンの家、災厄、招くことになります。まずは、自分の目、確かめるべき、考えました」
「そうか。ならば、同行するがいい」
「ありがとうございます」
ということで、レイ家のトトスに乗ったシュミラルも並走することになった。
俺とリミ=ルウとルド=ルウは、後部の幌を引き上げて、何とかその姿を見物しようと苦心する。それに気づいたシュミラルがすぐに歩調を落としてくれたので、リミ=ルウは「わーい」と歓声をあげることになった。
「いいなあ。リミも後でルウルウに乗ろうっと!」
「ふーん。やっぱりシムの生まれだと、トトスの扱いが上手いみたいだな」
確かに、トトスにまたがったシュミラルの姿は、ものすごくサマになっているように感じられた。
背筋はのびて、ごく自然に手綱を握っている。何のへんてつもない姿であるのに、トトスがとても生き生きと駆けているように見えてしまうのだ。
森辺の民も、トトスを扱うのはとても上手いように感じられる。しかしそれともまたレベルの違う、人馬一体とも言うべき雰囲気がシュミラルたちからは感じられるのだった。
そうしてひたすら道を下り、1時間ばかりが経過すると、ようやくサウティの集落に到着した。
が、ダリ=サウティらとは現地で落ち合う約束になっていたので、集落の入り口は素通りしてさらに南へと急ぐ。
サウティの眷族たるフェイやタムルの集落をも過ぎ去ると、目的地はもうすぐだ。
やがてアイ=ファは「ふむ」と声をあげながら手綱をゆるめた。
「なるほど。このようなものが築かれることになったのか」
速歩から常歩にペースを落として、アイ=ファは荷車を前進させる。
俺は荷台の後部から、アイ=ファが見とがめたその存在を確認することになった。
3本の道が交差する分岐点のちょっと手前に、大きな門が築かれていたのだ。
そしてそれは、俺たちが通ってきた集落への出入りを制限するために造られた門であった。
現在、その門は大きく開かれている。ただ、柱の造りも立派であるし、扉もずいぶんと頑丈そうだ。高さは2メートル以上もあり、門を閉めてしまえば逆側を覗き込むことも難しいように思えた。
ただし、道の左右は森である。
森のほうに足を踏み込めば、このように立派な門も簡単に迂回することができる。
しかし、門を築いて、この先は自由に足を踏み入れていい場所ではない、と知らしめることが肝要であるのだろう。これは、新しく開かれた行路を使用する旅人たちがうっかり森辺の集落に踏み込まないようにするための措置であるのだった。
「貴族たちは、すでに来ているようだぞ」
開かれた門を抜けてすぐ、アイ=ファは荷車を停止させた。
俺たちは荷台を下りて、前側に回り込む。すると、そこにはお馴染みの兵士たちの姿があった。
メルフリード直属の、近衛兵団の武官たちである。本来は王城を守るのが任務であるはずの彼らも、メルフリードが城下町を出るときは同行を余儀なくされるのであった。
「やあやあ、ルウとファの皆様方。ご足労でしたね。少し早い到着になってしまったけれど、ダリ=サウティ殿もおられたので、先に始めさせていただいたよ」
その近衛兵たちに守られたポルアースが、笑顔で俺たちを差し招いてくる。彼と顔をあわせるのは、レイリスの一件以来であったろうか。あれから、ひと月以上は経過しているはずであった。
その向こう側には、甲冑ではなく瀟洒な武官の装束を纏ったメルフリードの姿もある。
そして、メルフリードと言葉を交わしているのはククルエルであり、彼の周囲には4名ほどの東の民の姿があった。
「メルフリード、ひさかたぶりだ。我々ルウ家とファ家の人間も見学させていただきたい」
「ああ、ジザ=ルウ。壮健なようで何よりだ。……こちらが《黒の風切り羽》の団長、ククルエルだ」
東の民の中で、ククルエルだけがフードを外していた。
ククルエルは一礼してから、俺とルド=ルウのほうに顔を向けてきた。
「ククルエル=ギ=アドゥムフタンと申します。ルド=ルウ、おひさしぶりです」
「ああ、あんたのことは覚えてるぜ。元気そうだな」
昨日顔をあわせたリミ=ルウも、笑顔でおじぎをしている。
そのやりとりを見守ってから、メルフリードはあらためて俺たちのほうに腕を差しのばした。
「ルド=ルウ、リミ=ルウ、アスタとは、すでに縁を結んでいるという話だったな。こちらは森辺の族長代行たるジザ=ルウ、その弟であるダルム=ルウ、そしてファの家の家長アイ=ファだ」
この頃には、メルフリードもそれらの人間全員と縁を結んでいたのである。それも何だか感慨深い話であった。
「それで……そちらは森辺の家人となった、リリンの家のシュミラルだったな。ククルエルは貴方と面会したいと申し出ていたそうだが、わざわざそちらから出向いていただけたのか」
シュミラルもまた、森辺の家人になりたいと願い出た際に、メルフリードおよびポルアースと顔合わせをすることになったのだった。
トトスの手綱を荷台にくくったシュミラルは、「はい」と進み出る。
「あなたがシュミラルですか。お会いできて光栄です」
ククルエルが一礼すると、シュミラルも同じように一礼した。
「こちらこそ、光栄です。《黒の風切り羽》、かねがね、ご高名、うかがっていました」
年齢や髪の色は違えど、やはり同じシムの生まれであるシュミラルとククルエルだ。そうして向かい合うと、両者はびっくりするほど雰囲気が似通っていた。
異なるのは、ククルエルのほうがいささか鋭い目つきをしていることぐらいであろう。だけどそれもリャダ=ルウに通ずる静かな強靭さとも言うべき眼差しであるので、嫌な感じはまったくしなかった。
そんな両者の姿をひとしきり見比べてから、メルフリードが「さて」と声をあげる。
「では、先にこちらの仕事を果たさせていただこう。いま、新しい行路についてのこまかい説明をしていたところであったのだ」
ジザ=ルウたちにも聞かせる格好で、メルフリードは説明を再開させる。
前半は、俺が昨日ククルエルに語って聞かせたのと同じような内容である。この状況ではククルエルをあざむきようがなかったし、また、あざむく必要もないはずだった。
「……ギバはみずから人間に近づくことも少ないので、大きな危険はないと考えられる。さらに我々はひとつの妙案をひねり出したので、森辺のお歴々にも意見をいただきたい」
と、メルフリードが合図をすると、武官のひとりが奇妙なものを差し出した。
短冊のような形と大きさをした鉄板が3枚ほど重ねられた、見たこともない器具である。上部に穴が空けられており、そこから革紐が通されて、ひとつにくくられているのだ。ただし、革紐はゆるく縛られていたので、それを受け取ったメルフリードが軽く手を揺らすと、金属同士がぶつかりあい、ひどくけたたましい音色を奏でた。
「ギバは、騒音を嫌うと聞く。ならば、こういった器具を荷台に取りつければ、いっそうギバを遠ざけることができるのではないだろうか?」
「ああ、それはサウティで使っている追い込みの道具とそっくりの音色だな」
ダリ=サウティの言葉に、メルフリードがうなずく。
「ダリ=サウティの言葉をもとに、こしらえさせた器具であるのだ。これは、余計な手間ではなかっただろうか?」
「ああ。荷車が走る音にその音まで加われば、飢えたギバでも近づこうという気をなくすことだろう。ギバは特に、金属の甲高い音色を嫌うのだ」
「ならば、今後この道を通る旅人たちのために、さらに同じものをこしらえさせよう。幸い、城下町にはジャガルの鉄具屋が滞在しているのでな」
それはひょっとしたら、ディアルたちのことなのだろうか。
思わぬところで、出番が回ってくるものだ。
「そして、こちらからもククルエルに問うておきたいことがあった。東の民というのは、西の文字をどれぐらい読み解けるものなのであろうか」
「文字ですか。それは、人によるとしか言えないでしょう。若い人間であれば、ほとんど読むことはできないかと思われます」
「そうか。では、東の文字で同じものを記す必要が出てくるな。ちょっとこちらまで足を運んでいただきたい」
そうしてメルフリードが案内したのは、さきほど俺たちが通過した門の前であった。
メルフリードの指示で、武官たちがその扉を閉める。すると、そこにはびっしりと文字が彫りつけられていた。
文字を彫った上で、そこに黒い染料を流し込んだらしく、くっきりと浮かびあがっている。ただし、象形文字を思わせる西の言語であるために、俺にはさっぱり読む解くことがかなわない。
「ここには、森辺におけるジェノスの法が記されている。行路の逆側の端にも、同じ看板を立てる予定だ」
またメルフリードの指示で、武官のひとりがそこに記されている文章を丁寧に音読し始めた。
まずは、モルガの森における法である。
森に実った果実を収穫することは、大きな罪とされる。この法を破った者は、鞭叩き、罪人の刻印、ジェノス追放の罰をすべて課せられることとなる。
また、モルガの森には、ギバ、ムント、ギーズ、各種の毒虫が棲息するため、みだりに足を踏み入れてはならない。
そして、外部から持ち込んだ毒物を用いて森の獣を害することも、強い禁忌である。この法を破った者は、右と同じ罰を課せられることになる。
――と、そこで俺は首を傾げることになった。
(ギバ狩りに毒物を使用するっていうのは、森辺の掟だけじゃなくジェノスの法でも禁じられてたのか? それに、森の恵みを収穫するのと同じ罰だなんて、ずいぶんな重罪だな)
もとより、森辺の掟では森の恵みを荒らすと頭の皮を剥がされることになっているのだから、それよりは軽い罰であるとはいえ、俺の疑念は解消されなかった。
しかし、俺などが口を差しはさめる雰囲気ではなかったので、ここは大人しくする他ない。
続いて、森辺の集落に関する記述であった。
まず、森辺の集落においても、ジェノスの法はすべて適用される。
住人の家への無断侵入、住人への暴力行為、住人の家財の略奪行為、それらはすべて禁じられる。至極当然の話である。
さらに特筆するべき事柄は、2点あった。
そのひとつ目は、確たる目的もなく集落に足を踏み入れることは禁ずる、ということ。
ふたつ目は、森辺の民には集落の安全を守るための自治権が与えられている、ということ。
同胞ならぬ人間が集落に足を踏み入れたとき、森辺の民にはその理由を問い質す権利が存在する。そして、森辺の民にその目的の正当性が認められなかった場合は強制的に退去させられる、とそこには明記されていた。
また、森辺の集落において罪を犯した人間は、森辺の掟で裁かれることもありうる。それはジェノスの法で定められたものよりも重い罰であるが、森辺の民にはそれを行使する権利が認められている――とのことであった。
「たとえば、物盗りが森辺の家に押し入ったとしよう。ジェノスの法において、それは鞭叩きや罪人の刻印といった罰に相応するが、森辺の掟においてはどうであろうか?」
「他者の家に無断で足を踏み入れれば、それは足の指を切り落とす罰となる」
ジザ=ルウの答えに、メルフリードは「そうか」とうなずいた。
そのかたわらで、ポルアースは「あはは」とひきつった笑いを浮かべている。
「その罪人を捕らえたとき、森辺の民は自分たちの掟を行使しても許される。あるいは、掟を行使せずに罪人を衛兵に引き渡してもかまわない。どちらの罰が相応しいかは、随時そちらで判断してもらいたい」
「ふむ。俺としては、町の人間には町の罰を与えるべきと思えるが……どちらでも好きなほうを選んでよい、というのはありがたい申し出だ」
「うむ。そして、森辺の民が証もない話でむやみに他者を傷つけることはない、とわたしは信じている」
メルフリードがそのように言ってくれるのは、ともにサイクレウスを打倒するために苦心した間柄であるからなのかもしれなかった。
あの時代、森辺の民はどれほどの怒りを燃やそうとも、証のない内は刀を取ろうとしなかった。その姿を、メルフリードは間近な場所からずっと見守っていた立場であるのだ。
「森辺の民は、先の闘技会で大きな力を示すことになった。その上で、これだけの自治権を与えられているのだと知れれば、そうそう無法者が集落に押し入ることもないだろう」
「そうであることを、強く願っている。集落の幼子や女衆を危険にさらすわけにはいかないからな」
「ゆくゆくは、この場所に衛兵の詰め所を置きたいと考えている。旅人と集落の双方を守るのに、それは必要な措置だろう」
メルフリードとジザ=ルウが語る姿を、ククルエルたちが横からじっと見守っている。そんなククルエルたちをダルム=ルウやシュミラルたちがじっと見守るという、なかなか奇妙な構図であった。
「そして、最後の一点だな。これは特に重大な案件であるために、項目を分けて記しておいた」
メルフリードに命じられて、武官が最後の一行を呼んだ。
それは、『森の中央にあるモルガの山に足を踏み入れた者は死罪とする』という強烈な文面であった。
「森辺の民やジェノスの民にとっては周知の事柄であろうが、モルガの山に足を踏み入れることは最大の禁忌である。シムの民であれジャガルの民であれ、その禁忌を破った者は弁解の余地なく死罪が申しつけられるということを心に刻みつけていただきたい」
ククルエルはいくぶん目を細めながら、メルフリードを見つめていた。
「ギバの住まう森をかき分けて山に向かう理由などは何ひとつありませんが、どうしてその行為がそれほどまでの大罪とされているのでしょうか?」
「モルガの森は、三種の獣に支配されている。ヴァルブの狼、マダラマの大蛇、そして赤き野人だ。それらの獣の怒りに触れれば、ジェノスは滅ぶとされている。かつてこの近在に住まっていた自由開拓民にとっては、モルガの山こそが神であったのだ」
「ああ、モルガの山は聖域であったのですか。理解いたしました」
ククルエルはあっさりと言って、何か複雑な形に指先を組み合わせた。
「故郷の同胞にも広く伝えましょう。聖域を犯す罪深さは、おそらく西よりも東の民のほうがわきまえておりますゆえ、ご心配は無用です」
「そうであることを願っている。……また、さきほどの毒に関する法に関しても、同じように伝えていただきたい」
「モルガの獣を毒で害してはならない、という法ですね。それもまた、モルガの信仰にまつわる話であるのでしょうか?」
「うむ。人間の手の入ったこの行路の途上でギバに襲われた際は、毒をもちいてもかまわない。しかし、みずから森に分けいって、モルガの獣を毒で害することは、強い禁忌であるのだ。それを守るために、森辺の狩人も毒を使わずにギバ狩りの仕事を続けている」
「へー。それって、ジェノスの領主との約束ごとだったのか。俺はてっきり、毒なんざを使うのは卑怯だってことで禁忌にされたのかと思ってたよ」
ルド=ルウが気安い口調で述べたてると、ジザ=ルウが糸のように細い目でそちらを見た。
「お前も一度は、族長ドンダからすべての掟の由来については聞かされているはずだぞ、ルド」
「そんなん、いちいち覚えてらんねーよ。どーせ最初っから毒なんて使わねーし。……わかったってば、怒んなよ」
最近のルド=ルウは、叱られるより先に撤退するというスキルに磨きがかかったようである。
そんなルド=ルウたちのやりとりを見守ってから、メルフリードはまたククルエルに向きなおる。
「モルガの山には足を踏み入れない。モルガの獣を毒で害さない。それらの約定を守ることを条件に、人間はモルガの麓で暮らすことを許されたとされている。そして、その約定は自由開拓民からジェノス侯爵家へと引き継がれた。西と東の友誼のために、それらの禁忌を犯さぬよう、重ねてお願いさせていただく」
俺はなんとなく、背中にちりちりとした緊迫感を覚えながら、東の方向にそびえたつモルガの山を振り仰ぐことになった。
この山麓と同じように、豊かな緑に覆われた山並みだ。そんな恐ろしい伝承には似つかわしくない、雄大にして清涼なるたたずまいである。
(200年前、ジェノス家がこの地にやってくるまでは、この山が神だったのか……しかも、モルガを神と崇めていたのは、ミラノ=マスとかシリィ=ロウとか、レマ=ゲイトたちの祖先なんだよな)
そして現在では、森辺の民が山麓の森を「母」としている。
俺たちは、母なる森の中央に、謎めいた聖域を抱え込んでいる状態であるのだった。
(で、メルフリードたちはモルガを神とは考えていないのに、絶対に足を踏み入れてはいけない聖域である、という禁忌だけは頑なに守ってるのか。それも何だか、不思議な話だな)
俺がそんなことを考えている間に、メルフリードの説明はまた行路そのもののほうに移っていた。
モルガの山は、卑小なる人間たちの思惑や営みなど知らぬげに、ただ朝靄の中で威容を示すばかりであった。




