黄の月の十六日②~タントの恵み亭~
2017.8/8 更新分 1/1 ・8/11 誤字を修正
「この《タントの恵み亭》で数日置きに厨を預からせていただいている、ヤンと申します。僭越ながら、まずはわたしから菓子作りに関しての初歩的な手ほどきをさせていただきます」
ヤンの落ち着いた声が厨に響きわたる。
彼はこうして新しい食材の有効な使い方を、たびたび手ほどきしてきたのだという話であった。
「あまり時間がありませんので、要点から語らせていただきます。まず、甘い菓子を作るにあたっては、ポイタンのみでなくフワノも使用することをおすすめいたします。言うまでもなく、ポイタンだけを使えば食材の費用を安くおさえることがかないますが、その反面、生地の段階では粘り気の足りないポイタンのみですと、非常に取り扱いが難しくなってしまうのです。……アスタも、同じようにお考えですね?」
「はい。以前にお披露目したホットケーキというお菓子でしたらポイタンのみでも何とかなりますが、仕上がりの差を考えてもフワノを混ぜたほうが理想的だと思います」
「そのほっとけーきというのは、ポイタンの生地に砂糖とカロンの乳、それにキミュスの卵を混ぜて、乳脂で焼く、というものでしたね?」
「はい、その通りです」
「なるほど。そうして生地を鉄板などで焼くという作り方であれば、粘り気の少ないポイタンでも菓子をこしらえることが可能なのでしょう。……逆に言えば、それ以外の作り方は難しい、ということになります」
ヤンはうなずき、またご主人がたのほうに向きなおった。
「また、城下町における菓子は、その多くが鉄窯、石窯という調理器具を用いて作製されます。しかし、宿場町でそのような設備を見かけたことはありませんので、なおさら作り方には制限が生じてしまうかと思われます。それならば、やはりポイタンにはフワノも混ぜ込んで調理するべきでしょう」
「具体的には、どのように調理するべきなのでしょうかな?」
聞き覚えのある声が、人垣の中から聞こえてくる。おそらくこれは、《南の大樹亭》のナウディスの声だ。
砂糖の原産国であるジャガルにおいては普通に甘い菓子というものが流通しているため、ナウディスはこのたびの案件に対して非常に意欲的であるのだった。
「言葉で説明するよりも、実際に作ってみせましょう。シェイラ、ニコラ、それぞれのかまどに火の準備をお願いいたします」
調理助手のふたりにはそのように声をかけて、ヤンは目の前の作業台に手をのばした。そこにはすでに菓子作りのための食材が並べられていた。
「まず、宿場町でもよく食べられている、団子です。これを、フワノとポイタン、そして砂糖のみでこしらえてみましょう」
ヤンの手が、てきぱきと食材を取り分けていく。人垣の後ろのほうにいる人々は、何とかその姿を目にしようと苦心している様子であった。
「分量は、ポイタンが7に対して、フワノが3です。これ以上フワノを少なくすると、手でこねることは難しくなります。そして、砂糖の量は、ポイタンとフワノの合計の半分となりますね」
「そんなに砂糖をぶちこむのかい? そいつはずいぶんと銅貨がかさみそうだね」
レマ=ゲイトがぼやいたが、ヤンは気にした様子もなく作業を進めていく。
「仰る通り、砂糖というのはジャガルから取り寄せているために、決して安くはありません。ですが、宿場町でも取り引きが許されるようになって以来、砂糖は以前よりも大量に買いつけるようになってきていますので、もっと安値で仕入れることができるように話し合いが為されています」
そのあたりの交渉は、ポルアースやトルストが受け持っているのだろう。フワノによる収益がガタ落ちしたトゥランにおいても、他の食材の流通が活性化してきたために、もうずいぶんと財政は安定してきているのだと聞いていた。
「生地は、カロンの乳で練ります。ここでキミュスの卵や果実なども入れればいっそう菓子らしく仕上げることができますが、今は土台になる生地の味を正しく知っていただくために、あえて使わずにおきます」
ヤンの手が、ピンポン玉ぐらいの小さな団子をこしらえた。
それに鉄串をぶすりと刺して、ニコラのまかされていたかまどに向きなおる。
「これを、かまどの火で炙り焼きにします。直接火をあてるとすぐに焦げてしまいますので、時間を惜しまずにじっくりと焼きあげてください」
これは確かに、フワノが主食とされていた時代でも、宿場町ではあまり見かけない調理法であった。
そもそもこれまではフワノやポイタンを単体で食べるという食習慣がなかったので、手っ取り早く鉄板で焼きあげるのが主流になっていたのだろう。団子をこしらえる際も、薄く焼きあげた生地で具材を包むか、あるいは丸めた団子をスープの中に沈めて熱を通す、というのが基本的な食べ方であったのだ。
「……そういえば、アスタの屋台でもギバの肉饅頭を売っていましたね?」
と、視線はかまどのほうに向けたまま、またヤンが呼びかけてくる。
「あれは蒸し焼きにされていたかと思いますが、生地にはフワノとポイタンの両方を使っているのでしょうか?」
「いえ、あれはフワノしか使っていません。フワノとポイタンを混ぜて使うことを思いつく前に開発した料理ですので」
「なるほど。何にせよ、蒸し籠というのはそれほど値の張る器具でもありませんし、宿場町でも売られるようになれば菓子作りの幅を広げられそうですね」
そのように述べてから、ヤンは鉄串を持ち上げた。
フワノとポイタンの団子は、ひと回り大きくなって、ふっくらと焼きあがっている。表面にうっすら焦げ目がついているのが、何とも美味しそうであった。
「これだけ熱を通せば、まずは十分でありましょう。同じ作り方をしたものをこちらに準備しておりますので、どうぞ味見をお願いいたします」
ニコラが大皿にかぶせられていた布を取り払うと、そこには団子が山積みにされていた。
何だかテレビの料理番組みたいだな、と俺はひとり愉快な心地にさせられる。
ともあれ、その場にいる全員がフワノとポイタンの団子を試食することになった。
そこで真っ先に声をあげたのは、またレマ=ゲイトである。
「何だい、あれだけ砂糖を入れたってのに、大して甘くもないんだね」
「はい。この生地だけで菓子らしい甘さを作るには、フワノとポイタンの合計と同じ重さの砂糖が必要となるでしょう。それよりは、果実などを使って味を作ったほうが、安く仕上げられるはずです」
ヤンが素晴らしいのは、城下町の料理人でありながら庶民感覚というものもきっちりわきまえているところであった。
そもそもヤンは、サイクレウスに食材を買い占められていた時代、「希少な食材に頼らずとも美味なる料理は作れるはず」という信念で仕事に取り組んでいた御仁なのである。
その頃は、城下町でもサイクレウスに縁ある料理人でなければ砂糖すら自由に扱うことはできなかったので、自然にそういう信念が芽生えることになったのだろう。
「わたしであれば、生地の中に果実を練り込むか、あるいは果実を煮込んだ汁を周囲にまぶすか、あるいは甘い香りのする香草を使います。理想を言えば、味を壊さないように細心の注意を払いながら、それらのすべてをほどこしたいところでありますね」
「ふむ。うちでも砂糖を混ぜたポイタンを鉄板で焼いたりもしてみたんだが、そいつとはずいぶん仕上がりが違うみたいだな」
ご主人のひとりがそのような感想を述べると、ヤンは「そのために団子として焼きあげてみせたのです」と応じた。
「薄く焼きあげた生地で果実などを包み込めば、それも立派な団子です。しかし、薄い生地と丸い生地では、まず食感からして大きく異なります。これにキミュスの卵やギーゴなどを加えれば、さらにふっくらと仕上がって噛み心地も変わってきますので、色々とお試しいただきたいところです」
ご主人たちは、そこかしこで「うーむ」とうなり声をあげていた。
もちろん失望のあらわれではなく、このプレーンの生地にさまざまな可能性を感じて驚嘆しているのだろう。これにヤンの言うような味つけをほどこせば、それだけで商品たりうるかもしれなかった。
「続いては、揚げ焼きの菓子についてです。シェイラ、準備はいかがですか?」
「はい。こちらの鍋は十分に温まったと思います」
シェイラの受け持ったかまどでは、レテンの油が温められていたのだった。
ヤンはうなずき、再び食材に手をのばす。
「さきほどと同じ分量で仕上げた生地を、今度は平たい形にして、揚げ焼きにします。レテンの油が扱えるようになってまだ日の浅い宿場町ですが、これを機に揚げ焼きの技術を身につけてみてはいかがでしょうか」
「揚げ焼きって、アスタの屋台でもそんな料理が売られてたよね!」
と、ユーミの声が後ろのほうから響いてくる。
「そうですね」と俺はその声に答えてみせた。
「俺はギバの肉を揚げ焼きにして売っていました。熱した油に具材を浸して、熱を通すのです」
「あれは美味しかったよねー! ……でも、なんであたしにまでそんな喋り方なの?」
「それはいちおう、他のみなさんにもお聞かせしている内容ですので」
ご主人たちの何名かが、楽しそうに笑ってくれていた。
ヤンもうっすらと笑いつつ、成形した生地を頭上に掲げてみせる。形は楕円形で、厚みは5ミリていどしかなさそうだ。
「生地は、これぐらい薄く仕上げます。もっと厚く仕上げても熱を通すことはできますが、このほうが揚げ焼きの特性をお伝えすることができるかと思われます」
ヤンはその生地を、レテンの油に投じてみせた。
パチパチと、小気味のいい音色が響きわたる。
それを聞きながら、リミ=ルウは期待に瞳を輝かせていた。
「アスタも油で揚げるお菓子を作ってたよね! あんなに薄くしたら、どういう味になるんだろう?」
「どうだろうね。なかなか面白い食感になりそうだけど」
生地が薄いだけあって、すぐにその菓子は仕上がった。
ぺらぺらの楕円形をした生地が、こんがりキツネ色に焼きあがっている。
「これでしばらく時間を置いて、余分な油が落ちるのを待てば、完成です。こちらも味見していただきましょう」
別の大皿に、やはり完成品が大量に準備されていた。
それを口にしたリミ=ルウが、「おいしー!」と声をあげる。
「あー、これって、前にお茶会で食べさせてもらったお菓子と似てるかも!」
「そうですね。あれは鉄窯を使いましたが、生地が薄いので食感は似ていると思います」
俺も期待してかじってみると、確かにパイ生地のような心地好い食感が伝わってきた。
パリパリ、サクサクとした噛み心地で、特別に油っぽさも感じたりはしない。そして、砂糖のほのかな甘さとカロン乳の豊かな風味が、その食感にもマッチしていた。
これはやはりさきほどの団子よりも大きな驚きをもたらしたようで、ご主人がたも大きくざわついていた。レマ=ゲイトも念入りに咀嚼しつつ、文句の声をあげようとはしない。
「もうずいぶん昔の話になりますが、城下町においてはフワノの生地を乳脂で揚げるという菓子が流行しておりました。しかし、乳脂を使いすぎると味はくどくなりがちですし、レテンの油よりも費用はかさんでしまうことでしょう」
ヤンは淡々とした口調で説明を続けていく。
これまで菓子作りというものに縁のなかった人々のために、簡単で、かつ実用的なテーマを選んで手ほどきをしているのだろう。内容そのものはごく初歩的なものであったとしても、それを理路整然と簡潔に解説するには、やはり講師の側の力量が問われるはずだ。そういう意味で、菓子作りの名手であるヤンほどこの役に相応しい人物はなかなかいないように思われてならなかった。
「何にせよ、宿場町においては揚げ焼きそのものが珍しい技術でありますため、人々の関心をひきやすいことでしょう。生地の間に果実をはさみ込んだりすれば、そちらのやわらかい食感と相まって、またさらなる美味しさを追求することもかなうかと思われます」
さらにヤンは、その果実の取り扱いについても懇切丁寧に説明し始めた。
酸味のきついアロウやシールは砂糖漬けにするか、あるいは砂糖と一緒に煮込むことによって菓子の材料とすることができる。もともと甘いラマムの実であれば、そのまま使ったり、煮込んだりするだけでも十分だ。その工程に必要な食材の分量と、火の加減、煮込む時間などが、粛々と説明されていった。
「さらにわたしは、キミュスの肉を砂糖や蜜に漬けたものを菓子に使ったりもしています」
「へえ、肉なんかを菓子に使うこともできるのですねえ」
ジーゼが感心したように言うと、ヤンは「はい」とうなずいた。
「カロンの足肉では風味が強すぎるので菓子には適しませんが、キミュスの肉ならば問題はありません。ただし、糸のように細く裂いて、肉ともわからぬように仕上げたほうが、菓子には相応しいと思います」
「なるほどねえ。確かに、どれもこれも自分では思いつかないようなやり方ばかりです。とても勉強になりますよお」
「そのように言っていただければ、幸いです」
ヤンはうなずき、また俺のほうに首を巡らせてきた。
「それでは、わたしはここまでといたしましょう。あとは、森辺のみなさまがたにお願いいたします」
「はい。自分たちはこの場で試食する分までこしらえることになりますので、少々お時間をいただくことになるかと思いますが、どうぞ最後までおつきあいください」
というわけで、いよいよ俺たちの出番であった。
ヤンとシェイラとニコラは後方に退き、その代わりに森辺の4名が人々の前に立つ。
「まずは、キミュスの卵の扱いに関してですね。キミュスの卵をただ生地に混ぜ込むだけでも非常に有効かと思われますが、さらに面白い使い方がありますので、それをお伝えしようかと思います」
それは俺がつい最近開発したばかりの、白身をメレンゲとして活用する方法であった。
余った黄身は、先んじて生地に練り込んでしまえばいい。それから、ホイップした白身を生地にあわせると、独特のやわらかい食感が得られるのだ。
「せっかくですので、フワノとポイタンと砂糖はさきほどヤンの作ってくださったものと同じ分量にしてみましょう。それを普通に、鉄板で焼いてみます」
4人がかりで卵を泡立てている間に、ヤンたちが他の食材の準備をしてくれていた。
あとは4つのかまどに火を入れて、総がかりで焼きあげていく。20名ばかりもいる宿屋のご主人がた全員に、それで何とかひときれずつの試食品を行き渡らせることができた。
それを口にした人々は、ヤンの揚げ焼きを食したときと同じぐらいの驚きをもたらされたようだった。
こっそり観察したところ、レマ=ゲイトも非常に目を見張っていた様子である。
「以前に寄り合いでお出ししたホットケーキと比べていただくと、より違いが実感できるかと思われます。基本的には、あのときと同じ食材しか使っておりませんので」
お次は、味つけに関してであった。
果実の取り扱いに関してはヤンのほうが上手であったので、俺は砂糖に照準を絞っている。
「ジャガルから買いつけている調味料に、パナムの蜜というものがありますよね。あれはお菓子作りにも非常に役立ちますが、砂糖よりもなお高価な食材です。なので自分は、砂糖に手を加えて蜜の代わりにすることが多いです」
いわゆる、カラメルソースの作製法である。
何も難しいことはない。水で溶いた砂糖を煮詰めて、茶色く色づいたところでさらに熱湯を加えれば、それで完成だ。
「これが以前にお出ししたホットケーキにかけられていた蜜の正体です。最後に加えるお湯の量を調節すれば、もっと粘り気のある状態を保てますので、手づかみで食べる軽食でも上手く活用することができるのではないでしょうか」
さらに俺は、焼きあげた生地に水で溶いた砂糖を塗り、それを乾燥させるという食べ方もお披露目してみせた。
「この食べ方ですと砂糖の甘さを直接感じられるので、生地に混ぜる砂糖をいっそう節約できるかと思います。さきほどヤンがお披露目した揚げ焼きの菓子などにも非常に合う気がいたしますね」
さらにさらに、俺は生クリームの作り方も伝授してみせた。
たいていの宿屋にはすでに乳脂のこしらえ方が伝わっているので、説明は簡単だ。生クリームをさらに攪拌して脂肪分を分離させることで、乳脂はできあがるのである。
「これをさきほどの卵と同じように木串で泡立てると、こんな風にふんわりとした形状になります。あらかじめ砂糖を加えてもいいですし、甘い果実と組み合わせるのも有効だと思います。見た目もなかなか物珍しいので、お客さまにも喜んでいただけるのではないでしょうか」
ひとつひとつを実践して、さらに試食までしてもらっているので、ここまででもけっこうな時間がかかっていた。
しかしこれで、残るお題はひとつである。
「あとはですね、フワノやポイタンを使わずに、キミュスの卵だけでこしらえたお菓子というものもお披露目しようかと思います」
「キミュスの卵? そんな貧乏たらしいものを使って、評判が呼べるもんかね」
ひさびさに、レマ=ゲイトが挑むように意見を述べてきた。
手だけはきっちり動かしながら、俺はそちらに笑いかけてみせる。
「キミュスの卵に悪い印象がついているのは、貧しい人間が肉の代わりに食べる、という習わしのせいなのですよね? でも、それとは異なる食べ方をするならば、これも立派な食材だと思います。ましてや、ジェノスではいくらでも卵が手に入るのですから、これを使わないのは非常にもったいないと思えてしまうのです」
まず俺は簡単なところで、砂糖を使った甘い卵焼きというものをお披露目してみせた。
それを口にしたタパスは、「ほう」と目を丸くした。
「キミュスの卵などを口にしたのはずいぶんひさかたぶりのことですが、甘い味つけもなかなか合うものなのですな」
「はい。俺の故郷でも、砂糖で甘くするか塩でしょっぱくするかは、人それぞれという感じでしたね」
その間に、トゥール=ディンたちが蒸し籠の準備をしてくれていた。
これもけっこうな手間であるが、俺は『茶碗蒸し風プリン』もお出しする心づもりであったのである。
「以前にお出しした『チャッチ餅』というのは、まずチャッチを粉にするところが非常な手間となります。本日それをお伝えする時間は取れそうになかったので、その代わりにこの物珍しいお菓子の作り方をお伝えさせていただこうかと思います」
この人数分をこしらえるのが手間であるが、作製方法そのものはシンプルだ。溶いた卵にカロン乳と砂糖を混ぜて、蓋つきの器ごと蒸し籠で温めるばかりである。
そして食材の分量に関しては、リミ=ルウが極めてくれている。俺が以前に城下町で出したものよりも、格段に味は向上しているはずであった。
「時間がないのでおひとり様にひと口ずつぐらいしか行き渡りませんが、いかがなものでしょう?」
器から大きめの木匙で皿に取り分けて、ご主人がたに回していく。
最初はうろんげな顔をしていた人々も、味を確かめた後は驚嘆と納得の表情であった。
「驚きましたねえ。キミュスの卵が、こんな不思議な料理に仕上がっちまうなんて……なんだか、魔法みたいですよお」
ジーゼなどは、そのように言ってくれていた。
レマ=ゲイトも、驚愕の表情である。
ある意味では、このメニューが本日で一番の驚きをもたらしたのかもしれなかった。
「自分からお伝えしたかったのは、以上です。ヤンの手ほどきしてくださった生地や果実の取り扱いと組み合わせれば、かなりお菓子作りの幅が広がったのではないでしょうか」
「いや、広がりすぎて、どこから手をつければいいかわからないぐらいだよ。まったく、まいっちまったなあ」
手近なところにいたご主人は、そのように述べながら頭をかいていた。
そして、その隣にいたご主人が、「おい」と俺に呼びかけてくる。
「その、蒸し籠っていうのか? そいつはどこに行ったら手に入るんだ?」
「これは自分も、ヤンのつてで買わせていただいたのです」
俺の視線を受けて、ヤンはうなずいた。
「売られているのは城下町ですが、注文をされる方はわたしが取りつぎましょう。さきほども申し上げた通り、それほど値の張るものでもありませんので」
その場で、数名のご主人が名乗りをあげた。それだけ、『茶碗蒸し風プリン』がお気に召したのだろう。
それと、俺の屋台で『ギバまん』を食べた経験があるのかもしれない。お菓子に限らず、蒸し籠というのは料理の作製に非常に有用であるはずだった。
「では、今日のところは、これにて終了ですな。また時期を見て手ほどきの会を開きたいと思っておりますので、ご連絡をお待ちください」
タパスの宣言で、半数ぐらいのご主人は厨を出ていった。
が、もう半数は厨に居残っている。その視線は、のきなみ俺に向けられているようだった。
「なあ、菓子もいいけど、ギバ肉のほうはどうなったんだよ? まだ肉の市には店を出さないのか?」
「あ、ちょうど昨日、城下町から正式に許可をいただくことができました。黄の月の終わり頃には参加できるかと思います」
「終わり頃って、いつ頃だ?」と、ご主人がたが押し寄せてくる。
「ええと、今のところは10日後ぐらい、としか……肉の市は、前日にならないと正式な日取りがわからないようですので」
「どれだけの肉を準備するんだ? やっぱり朝一番に向かわないと手に入らないのか?」
「予定では、15箱ていどです。部位によって量は異なりますが」
「15箱? それじゃあ、5軒の宿屋しか買えないじゃないか!」
それはどうやら、3箱以上から業者価格になる、という計算に基づいているようだった。
「いえ、ですが、どれほどの売れ行きになるかも見込みが立っていませんので……」
「そりゃあいきなり5箱も10箱も買うやつはいないだろうが、わざわざ割高で買うやつはいないだろうよ。それじゃあやっぱり、5軒の宿屋しか買えないってことだ」
「そうですね。売れ残らなければ、こちらとしてもありがたいのですが」
「……この場にこれだけの人間が居残ってるのに、売れ残るなんてことがありうるか?」
確かにその場には、10名以上の人々が居残っている。これはそれぞれ別の宿屋の関係者なのであろうから、全員がギバ肉を求めていたら売り切れも必至ということになるのだった。
「15箱なんて欲がないな。それともまさか、城下町の連中に買い占められてるんじゃないだろうな?」
「ああ、はい。城下町でも宿場町でも同じ量を売る、という取り決めになったのです。もし城下町で売れ残るようなら、その分は宿場町に回してもよい、とは言われていますが……」
「俺たちよりも銅貨に困ってない貴族どもが買わないわけはないだろう。石塀の中では、こっち以上の取り合いだろうな」
そのあたりのことはポルアースらに一任していたので、俺としては何とも言えなかった。
と、そこでこっそり俺に接近してきていたユーミが、くいくいと袖を引っ張ってくる。
「ね、アスタ、あたしたちにはそれと別口でギバ肉を売ってくれるんだよね?」
「ああ、うん。これまで取り引きのあった4つの宿屋は勘定に入れなくていい、という条件にしてもらえたよ」
「本当に、うちも大丈夫なの? ギバの料理を買いつけてないのは、その中でうちだけなんだよね?」
「大丈夫だよ。そこのところは、しっかり確認しておいたから」
「よかったー!」とユーミは安堵の息をつく。
それを見守っていたご主人がたは、みんな子供のようにすねたお顔になってしまっていた。
「ちぇっ。お前さんがたは、肉の市場に出向かなくても毎回ギバ肉を手に入れられるのか。うまいことやりやがったな」
「へっへーん! あたしはアスタが屋台の商売を始めてすぐに仲良くなったんだからね! これぐらいの役得は当然でしょ!」
相手が年配のご主人でも物怖じしないユーミである。
人々は、肩をすくめたり苦笑をしたりしながら、ようやく帰り支度を始めた。
「それじゃあ、日取りがわかったら教えてくれよな。また屋台のほうにも顔を出すからよ」
「あと、菓子についてもありがとうな。さっそく自分の宿で色々と試してみるよ」
「はい、お疲れさまでした」
ご主人がたは、ぞろぞろと厨を去っていく。
すると、脇のほうでヤンと語らっていたタパスが笑顔でこちらに近づいてきた。
「森辺の皆さまがた、本日はお疲れさまでありました。こちらがポルアース様からお預かりしていた褒賞の銅貨であります」
「あ、どうもありがとうございます」
このたびは城下町からの正式な仕事であったので、褒賞が発生するのである。場所を提供したタパスにも、同じように褒賞が支払われているはずであった。
「アスタ殿、お疲れさまでした。……本当に惜しみなくさまざまな技術を伝えてくださいましたね。わたしにとっても、非常に有益な時間となりました」
ヤンは、そのように言ってくれていた。
「こちらこそ、ヤンの手ほどきはとても参考になりました。これでまた彼女たちは美味しいお菓子をこしらえてくれることでしょう」
リミ=ルウたちも、それぞれヤンに頭を下げている。
それに応じるヤンも、満足そうな笑顔であった。
「オディフィア姫のお茶会には、数ヶ月に一度は参加されるというお話でしたね。わたしも同じ日に招かれるように祈っております」
「うん! リミもまたあなたのお菓子を食べたいです! 今日はありがとうございました!」
そうして俺たちも、《タントの恵み亭》を後にすることになった。
たっぷり2時間ぐらいは厨にこもっていたのだろう。それなりの疲労感と、それを上回る充足した気持ちが胸には満ちていた。
「おや、森辺のみなさんがた。どうもお疲れさまでしたねえ」
と、街道に足を踏み出すなり、また声をかけられる。
振り返ると、ジーゼが笑顔でこちらを見ていた。
「ちょうどよかったですよお。こちらの方々が、みなさんがたをお待ちしていたそうです」
「え? 俺たちをですか?」
ジーゼのかたわらには、ひと目でシムの生まれと知れる長身の人影がいくつも立ち並んでいた。
その内のひとりが、礼をしてからマントのフードをはねのける。
「おひさしぶりです。ファの家のアスタ――でありましたね? わたしのことを見覚えておいででしょうか?」
それは、いかにも東の民らしい風貌をした壮年の男性であった。
切れ長の目に、高い鼻。薄い唇に、面長の顔。長い黒髪は後ろでひとつにくくっており、肌は森辺の民よりもはっきりと黒い。
ただ、光の強いその眼差しには、確かに見覚えがあった。
「あ……もしかしたら、《黒の風切り羽》のククルエルですか?」
「はい。ククルエル=ギ=アドゥムフタンです。ご壮健のようで何よりです」
東の民としては非常になめらかな言葉づかいで、ククルエルはそう言った。
「今日の内にお会いできて何よりでした。ぶしつけですが、少しお時間をいただくことはできますか?」
「え? 俺に何かご用事ですか?」
「森辺の民であれば、どなたでもかまわなかったのですが。わたしが縁を結べたのはあなたとルド=ルウのみでしたので。……森辺に切り開いた行路について、いくつかおうかがいしたいことがあるのです」
とても沈着な口調で、ククルエルはそう言った。
俺にはさっぱりわけがわからなかったが、とりあえずその申し出をはねのける理由もないように思われたのだった。




