成就の日④~祝福~
2017.7/23 更新分 1/1
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そして、その瞬間がやってきた。
やぐらの上から、新郎と新婦が降りてくる。エスコートしているのは、ミーア・レイ母さんとタリ=ルウだ。
100名からの血族たちに見守られながら、両者が儀式の火の前に立つ。
そこで待ち受けているのは、ジバ婆さんとヴィナ=ルウである。
ふたりはジバ婆さんの前に膝をつき、それぞれ自分の肩をつかむような仕草を見せる。ダルム=ルウは右肩で、シーラ=ルウは左肩だ。
ミーア・レイ母さんとタリ=ルウが儀式の火の反対側に回り込み、そこに香草を投げ入れた。
料理で使われることのない、不思議な香りのする香草である。それはモルガの森でとれる香草であり、婚儀の他では手をつけることも許されていなかった。
ジバ婆さんはふたりの頭から草冠を外すと、それを香草の薫煙でさっと炙った。
そうして、ダルム=ルウのかぶっていた草冠をシーラ=ルウに、シーラ=ルウのかぶっていた草冠をダルム=ルウにかぶせなおす。
俺にとっては、これで三度目となる婚姻の儀式であった。
だけどその儀式に臨んでいるのは、シーラ=ルウとダルム=ルウであるのだ。
俺は何だか、幸福な幻でも見ているような心地であった。
儀式の火を取り囲んだ人々も、まんじりともせずに両者の振る舞いを見守っている。
そんな中で、ジバ婆さんの声が厳粛に響きわたった。
「祝福を……今宵、ルウ家のシーラ=ルウは、同じくルウ家のダルム=ルウの嫁となった……ルウ家はその絆を深めて、いっそうの力と繁栄をこの森辺に……」
ジバ婆さんは、自分の首に下げられたギバの角や牙を、一本ずつダルム=ルウとシーラ=ルウに手渡した。
それを胸もとに押し抱きながら、ふたりは宣言する。
「ダルム=ルウは、森にシーラ=ルウを賜りました」
「シーラ=ルウは、森にダルム=ルウを賜りました」
歓声が、爆発した。
そこまでが、俺の限界であった。
儀式の火の前に立ったふたりの姿が、涙でぼやけていく。
ふたりは、伴侶となったのだ。
これからは、新しい家で、ふたりで暮らしていくことになるのだ。
いずれはきっと、そこに赤ん坊が生まれるのだろう。
あの、無口で、無愛想で、内側にはとても熱いものを秘めたダルム=ルウが、父となるのだ。
あの、ひかえめで、はかなげで、誰にでも優しいシーラ=ルウが、母となるのだ。
射るような目で俺をにらんでいたダルム=ルウの姿を思い出す。
気弱そうに微笑むシーラ=ルウの姿を思い出す。
無防備な寝顔をさらしていたダルム=ルウの姿を思い出す。
てきぱきと仕事をこなすシーラ=ルウの姿を思い出す。
べろべろに酔っぱらっていたダルム=ルウと、母親のように微笑みながら、それを介抱していたシーラ=ルウ――何の気もなしにシーラ=ルウの料理を賞賛するダルム=ルウと、真っ赤に頬を染めたシーラ=ルウ――城下町の宴衣装を纏って並んだ、ふたりの姿――一世一代の告白をしたシーラ=ルウと、それに応えたダルム=ルウ――数えあげればきりがないぐらい、俺はさまざまな思い出をこのふたりから受け取っていた。
ダルム=ルウとは、それほど良好な関係を結んでいたわけではなかったものの――しかし、彼もまた、心の底からアイ=ファの行く末を憂いてくれていた。その上で、すべてを俺に託して、自分の道へと戻っていったのだ。ある意味では、誰よりも強烈な印象を俺に与えていた人物でもあった。
そしてシーラ=ルウは、ルウ家のかまど番でもとびきりお世話になっていた相手であった。レイナ=ルウが屋台の商売に参加していなかった時代は、彼女こそが商売の中核を担っていたし、その後も幾度となく力を借りることになった。シーラ=ルウの存在がなければ、宿場町の商売だってこれほどスムーズには進まなかったことだろう。
そんなふたりが、一生の伴侶となったのである。
どうか末永く幸せに――そんなありきたりの言葉が、ものすごい熱量をもって、俺の胸からあふれかえっていく。
ガズラン=ルティムたちが婚儀をあげたのは、まだ出会って数日のことだった。
チム=スドラやイーア・フォウ=スドラとは、そこまで親密な関係を築けてはいなかった。
だから、俺が人の婚儀でこれほど心を揺さぶられてしまったことは、この人生でも他になかったろうと思う。
周りの人々と一緒になって、俺は両手を打ち鳴らした。
ぽたぽたと熱いものが胸もとにまで伝っているのはわかっていたが、どうせぬぐってもぬぐいきれないことは明白であったので、もうあきらめることにした。
そんな中、ルウの分家の女衆が大ぶりの皿を運んでくる。
それを受け取ったヴィナ=ルウが、ふたりの前に大皿を差し出した。
そこに、俺とレイナ=ルウがそれぞれこしらえた、ふたりのための祝福の料理が収められていたのだった。
俺が準備したのは、いちおうはこれが初のお披露目となる『クリスピー・ロースト・ギバ』である。
皮つきの肉で『ロースト・ギバ』をこしらえたことはある。しかしあの時代はまだ石窯もなかったので、鉄鍋に細工をして何とか体裁を整えていたのだ。
しかし今回は石窯を使って、さらなる理想を追求してみせた。
脆皮焼肉という料理を参考にして、皮をパリパリのクリスピーな感じに仕上げてみせたのだった。
使用した肉は、バラ肉である。
それを塩ゆでしたのちに、各種の調味料と香草のスパイスをすり込んで、皮には鉄串でたくさんの穴を開けていく。それを石窯で、じっくりと焼きあげるのだ。
火加減は、なかなかに難しかった。
実はこの料理は、収穫祭でもお披露目しようとして、それに完成が間に合わなかった料理であったのだった。
それからおよそ半月をかけて、俺はなんとか完成にこぎつけたのである。
脂はほどよく抜け落ちて、なおかつ内部はしっとりと焼きあがっている。
それで皮のほうは、パリッという歯応えがあるぐらいにクリスピーだ。
あらかじめ調味料をすり込んであるので、これ以上の味つけは必要ない。塩、ピコの葉、砂糖、タウ油、ママリアの酢、ミャームー、ケルの根、パナムの蜜、そして名も知れぬ何種類かの香草――その配分にも試行錯誤を重ねて、俺は満足のいく味を完成させることができた。
肉の厚みも十分で、狩人らしい料理をよしとするダルム=ルウにも不満に思われることはないだろう。
かつて俺は、狩人の力比べの優勝のお祝いとして、ドンダ=ルウに『ロースト・ギバ』を献上している。それをさらに改良した料理を、この日に捧げることに決めたのだった。
いっぽうのレイナ=ルウは、『ギバ・カツ』である。
何も奇をてらってはいない。森辺の民からは非常に好評であるその料理を、レイナ=ルウは選んだのだ。それもあって、みんなが口にする宴料理では『ギバの揚げ焼き』にしていたのかもしれない。
そうして、愛する兄とシーラ=ルウのために、レイナ=ルウは儀式の直前にこれを仕上げたのだった。
揚げたての、最高に美味しい『ギバ・カツ』だ。
分家の女衆が手渡した肉切り刀で、シーラ=ルウがそれを切り分けていく。
その途中で、ダルム=ルウがふいに花嫁の耳もとに口を寄せた。
シーラ=ルウは手を止めて、びっくりしたようにダルム=ルウを振り返る。
そしてその目が、何かを探すように血族たちの姿を見回していった。
その姿に、俺は思わず微笑んでしまう。
(まさか、俺がそいつを作ったってことを、今この瞬間に伝えたんじゃないでしょうね、ダルム=ルウ? ずっとやぐらでふたりきりだったんだから、いつでも言うことはできたはずでしょうに)
しかしダルム=ルウの気性を考えると、そんなこともありえるのかもしれないなと思ってしまった。
無愛想で、素直じゃなくて、とても奥ゆかしい性格をしたダルム=ルウであるのだ。
そんな風に考えると、俺はいっそう目もとが熱くなってしまった。
ヴィナ=ルウが不思議そうに声をかけると、シーラ=ルウは気を取りなおした様子で料理を切り分けていった。
また分家の女衆に差し出された鉄串で、ふたりがそれぞれ料理を口に運ぶ。
『クリスピー・ロースト・ギバ』と『ギバ・カツ』が、ふたりの口へと届けられた。
すると、何回目かの歓声が広場を揺るがした。
「ダルムもシーラ=ルウも幸せそうだねえ……」
同じ敷物にいたティト・ミン婆さんの声が、歓声の向こうからかすかに聞こえてくる。
リミ=ルウも満面の笑みで両手を叩いていた。
その場にいる全員が、新たな花婿と花嫁をせいいっぱい祝福していた。
「婚儀の誓約は交わされた! 本日からルウ本家の次兄ダルム=ルウは新たな分家の家長となり、シーラ=ルウはその伴侶となる!」
ドンダ=ルウが、津波のごとき歓声にも負けぬ声で宣言する。
人々はいっそう騒ぎたて、果実酒の土瓶を振り上げた。
「……さあ、もうよかろう」
そんな声が響くと同時に、俺の視界が暗黒に閉ざされた。
横から手をのばしたアイ=ファが、俺の顔面を手ぬぐいで荒っぽく清め始めたのだ。
「まったく、赤子のように涙をこぼしおって……そのように取り乱しているのはお前だけだぞ、アスタよ」
「そんなことないよ」と答えながら、俺は鼻声になってしまっていた。
手ぬぐいなどは、しぼれそうなぐらい、ぐっしょりである。
「終わったね! リミたちも、料理を食べようよ!」
と、リミ=ルウが再びアイ=ファの腰にしがみつく。
まだかまどは半分も回っていなかったが、俺もしばらくこの幸福感にひたっていたかったので、大人しく腰を落ち着けることにした。
ダルム=ルウとシーラ=ルウは、押し寄せた血族たちにもみくちゃにされている。そして、あちこちから駆けつけた女衆や幼子が、料理の載せられた木皿や果実酒の土瓶を差し出していた。これでようやく、ふたりも思うさま宴料理を口にすることができるのである。
(お祝いの言葉は、また後で届けさせてもらおう)
そんな風に考えていると、ミーア・レイ母さんとタリ=ルウに付き添われて、ジバ婆さんも戻ってきた。
さらに、人垣を離脱して、ふたつの人影がこちらに近づいてくる。
「アスタ、ようやく挨拶をすることができる。遅くなってしまって申し訳なかった」
それはシン=ルウと、ララ=ルウであった。
シン=ルウは普段通りの沈着な面持ちをしており、ララ=ルウは無邪気そのものの面持ちで笑っている。
「やあ、シン=ルウ。今日はお疲れさま。そして、おめでとう」
「うむ。アスタの存在なくして、シーラが――いや、シーラ=ルウがこれほどの幸福をつかむことはかなわなかっただろう」
シン=ルウは敷物の上に膝をつき、頭を下げてきた。
ララ=ルウも、その隣にちょこんと腰を下ろす。
「もう、堅苦しい話はおしまいでいいじゃん! シン=ルウなんてね、さっきまでぽろぽろ涙をこぼしてたんだよー?」
「おい、ララ=ルウ、それは――」
「ルドには秘密にしておいてあげるよ! ま、シン=ルウもそれだけ嬉しかったんだろうねー」
ララ=ルウは、楽しそうに白い歯を見せている。
シン=ルウは、いくぶん頬を赤らめながら髪をかきあげた。
「とにかく俺は、アスタに感謝しているのだ。シーラ=ルウがあれほどの力をつけることができたのは、もとをただせばすべてアスタのおかげなのだからな」
「俺の存在なんて、ただのきっかけにすぎないよ。これまでシーラ=ルウの出会ってきた人たちのすべてが、シーラ=ルウの力になったのさ」
それは、俺の本心であった。
シン=ルウは、切れ長の目をさらに細めて、「うむ」と微笑む。
「ドンダ父さんも、ほっとしてるだろうなー。ダルム兄も、あともうちょっとで20歳だったもんね!」
「あれ? ララ=ルウは、ダルム=ルウが婚儀をあげても呼び方が変わらないんだね」
「んー? 兄弟なんだし、別にいいじゃん! シン=ルウだって、無理に変える必要はないと思うけど?」
「いちおう、習わしだからな。俺は家長だし、けじめをつけておこうと思う」
しかしどのように呼び方が変わっても、シン=ルウの姉に対する思いは決して変わらないに違いない。
しかつめらしく語るシン=ルウの姿を、タリ=ルウも慈愛に満ちた眼差しで見守っていた。
「さ、あたしたちも食べようよ! うかうかしてると、舞の刻限になっちゃうからね!」
そんなララ=ルウの言葉を合図に、みんなも木皿を取り上げる。
最長老の座する敷物だけあって、そこにはふんだんに料理が届けられていたのだ。俺たちは、たわいのない話題で盛り上がりながら、しばらくはその場で幸福感を分かち合うことになった。
そこにさらなる人影が近づいてきたのは、10分ばかりも歓談を楽しんだのちのことだった。
そちらを振り返ったララ=ルウが、ぱあっと顔を輝かせる。
「ダルム兄、おめでとー! シーラ=ルウは置いてきちゃったの?」
「ああ。儀式は済んだのだから、いつまでもかたわらに置いている必要はあるまい」
見ると、シーラ=ルウが腰を落ち着けた敷物には、若い女衆が群れ集っているようだった。
リミ=ルウたちは口々にお祝いの言葉を述べ、ダルム=ルウは「ああ」「うむ」と静かに言葉を返していく。
「おめでとうございます、ダルム=ルウ。これからもどうぞよろしくお願いします」
最後に俺が声をかけると、ダルム=ルウの青い瞳にきらりと強い光が灯った。
「……アスタよ、お前に話がある」
「なーにー? また内緒話? ダルム兄って、アスタとはいっつもこそこそ喋るよね!」
ララ=ルウが不満の声をあげると、ダルム=ルウは「やかましいぞ」とぶっきらぼうに応じた。
なんとなく、ドンダ=ルウを思い出させる口調と雰囲気だ。
「それほど長く時間は取らせん。……よければ、アイ=ファにも来てもらいたい」
「そうか」とアイ=ファが腰を上げたので、俺もそれにならうことにした。
3人で敷物から遠ざかり、人気のない薄暗がりまで歩を進める。
やがて、無人の家の前まで到達すると、ダルム=ルウは足を止めて振り返ってきた。
「まずは、祝福の料理について礼を述べておく。……シーラも、たいそう喜んでいた」
その呼び方だけで、俺はいきなり胸がいっぱいになってしまった。
ちょっと声が上ずりそうであったので、俺は無言で頭を下げてみせる。
「そして、お前たちには話しておかなければならない話がある。それは、俺がかつてアスタに語った約定についてだ」
「アスタに語った約定?」
アイ=ファがうろんげに問うと、ダルム=ルウは「ああ」とうなずいた。
その面は、彼にしては珍しいぐらい静かで落ち着いているように見えた。
「俺はかつて、ひとつの約定をアスタに強いた。それは――アイ=ファが森に朽ちたときは、俺がアスタの生命を絶つ、というものだった」
「……何だと?」とアイ=ファが眼光を燃やす。
しかしダルム=ルウは、決して昂ぶらないまま、それを見返した。
「俺は、アイ=ファは女衆として生きるべきだと考えていたのだ。そして、アイ=ファの心を動かすことができるのは、アスタのみであると考えていた。だから、アスタにアイ=ファを説得するべきなのではないかと持ちかけたのだが――アスタには、それを断られた。アスタはアイ=ファの生命ばかりでなく、その気持ちや尊厳なども守りたい、と言い張っていたのでな」
そんな会話をしたのも、祝宴の夜だった。
俺とアイ=ファが初めて参加した、ルウ家の収穫祭――そこでアイ=ファに敗れたダルム=ルウが、激情に両目を燃やしながら、そのように告げてきたのだ。
「俺にはそれが、納得いかなかった。だから、アイ=ファが狩人として森に朽ちてしまったときは、俺がアスタの生命を絶つ、とそのように迫ることになったのだ」
「……なるほどな。お前たちは、そこまで不穏な会話をしていたのか」
アイ=ファに横目でにらまれて、俺は表情で「ごめん」と応じてみせる。
「それで? 私としては、とうてい捨て置けぬ話であるのだが」
「だから、こうしてお前たちを呼び出すことになった。……アスタよ、あの夜に俺が一方的に押しつけた約定は、今この場で反古にさせてもらう」
ダルム=ルウは、やはり静かな口調のまま、そう言った。
「もとより、俺の気持ちもあの夜からずいぶん変わっていた。最初から、俺にファの家の行いに口出しをする資格などなかったわけだが……それ以上に、俺よりもアスタの言葉が正しかったのではないかと思うようになっていた。そもそも俺は、アイ=ファに執着していたがゆえに、失いたくないと願っていたのだろうしな」
「…………」
「だから、たとえアイ=ファが森に朽ちていたとしても、俺がアスタの生命を奪う気持ちにはならなかっただろうと思う。それを、きっちり伝えておくべきだと考えたのだ」
そこでダルム=ルウは、息継ぎをするようにしばし口をつぐんだ。
もともと寡黙である彼は、ここまで言葉を重ねること自体が珍しかったのである。
「それに……俺はこの夜、森からシーラを授かった。俺が余所の女衆に執着することなど許されぬし、また、それを理由にアスタを害することなど、なおさら許されない。そのように愚かしい真似をして、シーラを絶望の淵に突き落とすことなど、俺には絶対に許されないのだ」
「当たり前だ、そのようなことは」
アイ=ファが怒ったような声で言うと、ダルム=ルウは「ああ」とうなずいた。
「当たり前のことだ。その当たり前のことを、俺はお前たちに告げておきたかった。それに、あの夜の俺は大きく間違っていたものの、そのときの自分にとっては真情から綴られた言葉であったのだからな。自分で口にした約定を、お前たちと母なる森の前で、はっきり反古にすると告げておくべきだと考えたのだ」
そうしてダルム=ルウは、俺のほうに真っ直ぐ目を向けた。
「ルウ家のダルム=ルウは、あの夜の言葉が間違ったものであり、ファの家のアスタに告げた約定もここで捨て去ると宣言する。今度こそ、俺は二度とファの家の行いに口出しはしないと誓おう」
「……わかりました。そのお言葉を、受け入れます」
俺は何だか、胸の詰まるような思いであった。
ダルム=ルウは、いったいどのような思いであったのだろう。
俺たちは、しばらく無言のまま、おたがいの瞳を見つめ合うことになった。
しかしそれは、アイ=ファがいきなり俺の頬をつねりあげたことによって終結することになった。
「まったくお前は、このように大事な話を私に隠しおって……いったい、どういうつもりであったのだ?」
「痛い痛い痛い! ごめん! そのことは謝るよ!」
「謝るだけでは足りんから、こうして罰を与えているのだ」
どうやらアイ=ファは本気で怒っているらしく、ほっぺたのひねり具合にもまったく容赦が感じられなかった。
「それぐらいで勘弁してやれ。アスタには、俺がその馬鹿げた約定を果たす気持ちがなくなっていたことも伝わっていたのだろう」
やがてダルム=ルウの声が響くと、ようやくアイ=ファの手が俺の頬から離れた。
涙目で頬をさする俺の耳に、さらに落ち着いた声が聞こえてくる。
「それに、アスタは……アイ=ファが俺を憎む姿を見たくなかったのだろう。アスタとは、そういう人間ではないか?」
「ふん! 伴侶を娶ると、ずいぶん賢しげな言葉を吐けるようになるものなのだな!」
アイ=ファはぷんすかと怒りながら、腕を組んだ。
そこに、新たな人影が近づいてくる。
「あの、大丈夫でしょうか? 何やら悲痛な声が聞こえたような気がしたのですが……」
なんとそれは、シーラ=ルウであった。
俺は頬の激痛も忘れて、笑いかけてみせる。
「大丈夫です。すみません、こちらから挨拶にうかがうべきですのに」
「いいえ。まずは、わたしからお礼を言わせてください。アスタ、あのように素晴らしい料理を、どうもありがとうございました」
そのように述べながら、シーラ=ルウはダルム=ルウの隣に立った。
そのときに覚えた感覚を、いったいどのように表現すればよかっただろうか――ほんのついさっき、やぐらの上でも相対していたのに、ふたりを取り巻く雰囲気が一変したように感じられてしまった。
べつだん、ぴったりと寄り添っているわけではない。礼節のある距離を保って、普通に並んで立っているだけだ。しかし、そうであるにも拘らず、ふたりはもはや伴侶以外の何者にも見えなかった。
玉虫色の輝きに包まれたシーラ=ルウは、いつもの感じで優しげに微笑んでいる。
ダルム=ルウはわずかに首を傾けて、そんなシーラ=ルウの姿を静かに見やっている。
それだけで、ふたりがおたがいをどれだけ信頼し合い、慈しみ合っているかが伝わってくるような気がしてならなかったのだった。
「まさかあの場でアスタの料理を口にできるとは想像もしていなかったので、わたしは天にものぼる心地でした。本当に……本当にありがとうございます」
「いえ。お礼でしたら、ダルム=ルウに伝えてください」
「ダルムには、さきほどさんざん伝えましたので」
シーラ=ルウは、恥ずかしそうに微笑んだ。
以前のダルム=ルウであれば、「ふん」とそっぽを向いていたところだろう。
だけどダルム=ルウは、穏やかにシーラ=ルウを見つめるばかりであった。
「この幸福な夜のことを、わたしは生涯忘れません。そして、アスタとアイ=ファがどれだけかけがえのない存在であったかも、胸に刻みつけておこうと思います」
「アスタはまだしも、私などは何の力にもなっていないと思うぞ、シーラ=ルウよ」
アイ=ファが落ち着いた声で答えると、シーラ=ルウは「いいえ」と首を横に振った。
「これまでに授かったすべての出会いが、この幸福をもたらしてくれたのです。そしてその中で、わたしにとってはアスタとの出会いが、ダルムにとってはアイ=ファとの出会いが、何よりも大きかったのだと思います。わたしたちは、ファの家に関わることで、新たな自分を見つけることができた――わたしは、そう信じています」
そんな風に言いながら、シーラ=ルウはかたわらのダルム=ルウを振り仰いだ。
ずっとシーラ=ルウを見つめていたダルム=ルウと、それでようやく視線が交錯する。
シーラ=ルウは、瞳に涙をためてダルム=ルウを見つめていた。
ダルム=ルウは、とても優しげな眼差しでそれを見つめ返していた。
その姿に、俺はまた涙をこぼしてしまいそうになった。
「それでは、みなのもとに戻りましょう。……ダルム、すべての用事は果たせたのでしょうか?」
「ああ、いや……まだひとつだけ残っていたな」
ダルム=ルウは、シーラ=ルウから俺のほうへと視線を移してきた。
そうして、婚儀の装束である狩人の衣の内側に右手を差し入れながら、俺のほうに近づいてくる。
「アスタよ、お前にこれを」
「え?」と首を傾げる俺の前に、ダルム=ルウが右手を差しのべてきた。
そこに握られていたのは――一本の、立派なギバの牙だった。
「今日の婚儀の料理の礼だ。……お前の作ってくれた料理は、俺にもシーラにもまたとない喜びを与えてくれた」
「あ……ありがとうございます」
俺は半ば呆然としながら、それを受け取った。
俺の首には、10本の牙や角の飾り物が下げられている。それは、ダルム=ルウとジザ=ルウを除くルウの本家の人々から授かった祝福の牙なのである。
今そこに、1年近い時間を経て、11本目の祝福の牙が捧げられることになったのだった。
「ファの家は、森辺の習わしをいくつもくつがえしてきた。それはすべて正しいことであったのだと、俺も認めよう。俺とシーラにこれほどの喜びを与えてくれたお前の行いを、俺は心から嬉しく思い、祝福する」
そして、ダルム=ルウは――俺に向かって、初めてはっきりと微笑をこぼしたのだった。
「これで残るは、ジザだけだな。言うまでもないが、あいつは手ごわいぞ」
ダルム=ルウから受け取った祝福の牙を手に、俺はけっきょく涙をこぼしてしまった。
俺のほうこそ、この日、この瞬間のことを忘れることは永遠になかっただろう。
黄の月の14日――その日付けは、たとえようもない幸福感とともに、俺の胸に深く刻みつけられることになったのだった。




