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異世界料理道  作者: EDA
第三章 ルティムの祝宴
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プロローグ ~峡谷にて~

2014.9/5 更新 1/1

 眼前に、肝臓が縮みあがるような光景が、現出していた。


 家から30分ほど歩いた場所にある、岩場の渓谷である。

 普段からお世話になっている水場を通過して、右手にモルガ山のたたずまいを眺めながら、黄色い砂ではなくゴツゴツとした岩場の道を歩いていくと、やがてその荘厳にして恐ろしい情景が展開されたのだ。


 峡谷である。

 切り立った断崖の下には、名も知れぬ川がどうどうと音を立てて流れている。

 しかし、そんな音色も実際には遠い。その断崖から川までは、20メートルばかりの距離で隔てられていたのだ。


 20メートル。

 俺の世界の感覚としては、5階建てビルディングぐらいの高さであろうか。


 まあ、高いところは得意でもないが、重度の高所恐怖症というわけでもない。崖の上から下を覗きこむぐらいなら、まあギリギリ足が震えたりもしなかった。


 ただし。

 俺を本当に恐怖させたのは、その断崖の存在ではない。

 俺を真に震撼たらしめたのは、その断崖にひょろんと吊るされた、木と蔓草でできたお手製の「吊り橋」の存在だった。


「……冗談だよな?」と問いかけると、我が最愛なる女主人はいぶかしそうに「何がだ?」と首を傾げたものだ。


 いや、何がではなく。

 この断崖は、世界を二分するかの如く、雄々しく勇壮に切り立っているというのに。そこに掛けられた吊り橋は、まるで枯れ果てた老人がてろーんと横たわっているかのように、実に頼りなく細々とその身体を伸ばしているのだった。


 長さは、およそ10メートル。

 幅は、およそ1メートル。


 足もとは太さが10センチぐらいの丸太をつないだもので、胸の高さぐらいにメインケーブル――蔓草をよりあわせた細い紐――が2本渡されて、そこから足もとまでの側面には網目状に蔓草が張られている。


 こっちの岸と、あっちの岸で、自生した木の幹にその主線たる蔓草はぐるぐると巻きつけられており、風もないのにゆらーんゆらーんと揺れている。


 木製である。

 というか、足もとの丸太を除けば、全部蔓草である。

 太さなんかは朝顔の蔓ぐらいしかなさそうな、そんな蔓草で構成された吊り橋なのである。


「……これでは強度に不安が残ると言わざるをえません」


 もしかしたらこの異世界にやってきて一番きりりとした面持ちであったかもしれないのに、我が女主人の表情は不審の色を濃くするばかりであった。


 森辺の民、ファの家の家長たるアイ=ファ。

 言わずと知れた、俺の大恩人にして同居人たる、勇猛果敢な女狩人である。


 複雑な形に結いあげられた長い髪は、森辺には珍しい金褐色。

 強い光を浮かべた瞳は、深い青色。

 クリーミーなチョコレートのようになめらかな褐色の肌と、研ぎすまされた細身の体躯。


 身長は人並みだがすらりとしていて、その身体には眩しいばかりの生命力と躍動感がみなぎっている。


 ギバの毛皮の長マントと、胸もとと腰まわりだけを隠す綺麗な色合いの布の服。ぎゅっと引き締まった腰にはごつい蛮刀と小刀をぶら下げて、綺麗なラインを描く脚の先には、巻きつけ型の革の履物。

 形のいい胸の上には、ずいぶん大量になってきた角と牙の首飾りを下げ、ほっそりとしなやかな手首には毒虫除けのグリギの実の腕飾り。


 いつも通りの、アイ=ファの姿である。

 昨晩――ルティムの婚儀の前祝いの仕事を無事にやりとげたのち、あてがわれた部屋において普段とは異なる様子を見せたアイ=ファではあったが、一夜が明ければもうその変調は消え去っていた。


 それは、喜ばしいことである。

 それは、喜ばしいことであるのだが――何とかして、俺の危機感を共有していただくわけにはいかないだろうか?


「……アスタ。お前はもしかして、この橋に不安があると言っているのか?」


 その通りでございます。


「ならば、心配はいらない。この吊り橋に使われているのは、フィバッハの蔓草だ。外見は細いが非常にちぎれにくい蔓草で、このように枯れ果てた後でも、人間の髪の毛のように頑丈なのだ」


 そんな、意外に頑丈なんだよねという物質に例えられても、不安感が解消されるわけもない。だったらもっと強度は弱くても太くてがっしりとした素材を使ってくれたほうが、まだしも精神的には安息が得られるのではないだろうか。


「……この橋は、私が生まれる以前からここにこうして吊り下げられており、今日の今日まで何の問題もなく使用されているのだ。危険などあるはずもない」


「いや、昨日大丈夫だったから今日も大丈夫という理屈はないだろ! ていうか、その歴史が長ければ長いほど老朽化が進んでいるってことじゃないか!」


「だから、渡る際にはどこか蔓草が傷んでいないか入念に確認しながら渡るのだ。それでほころびを見つけたら、見つけた人間が補修をする。そうやってこの吊り橋は何十年も守られてきたのだ」


「我が家長アイ=ファよ。それでもわたくしは心中の不安をぬぐいさることができませぬ。もっと安全で快適な道筋は存在しませぬのか?」


「……私の家からジェノスの宿場町に向かうにはこの道が一番早いのだ。他の道では帰りが夕暮れ時になってしまうからな」


 そう、俺たちはギバの角と牙を食糧に交換するため、そのジェノスの宿場町とやらにまでおもむく途上であったのだ。


 アリアもポイタンも果実酒も底を尽きかけており、普段だったらもっとゆとりをもって宿場町におもむくらしいのだが、何せドンダ=ルウとの対決が控えていた。その決着が昨日ようやく着いたから、朝一番で家に戻り、食糧庫の管理やピコの葉の採取といった最低限の仕事を果たしたのち、満を持して家を出立したのである。


 この異世界に到来しておよそ20日目にして、俺はついに森辺の外界に足を踏み出す機会を得たのだ。


 俺の心は、未知なる世界への期待と不安に震えていた。

 そして今は、別の理由で震えてしまっている。


「もういいだろう。いつまでもこのような場に留まっていたら、用も果たせぬうちに日が暮れてしまうわ」


「お待ちください! あのう……手を握らせていただいてもかまいませぬか?」


 アイ=ファはたちまち眉間にしわを寄せて「断固として断る」と言い捨てた。


「そのような行為に何の意味がある? どのみちこの橋がちぎれてしまえば、私の手を握っていたところで生命は助かるまい。つかむなら蔓草をつかめ」


「い、いや、だけど、心の安息が欲しいのです! わたくしにとってはこんな頼りなげな蔓草よりも、家長アイ=ファの存在のほうが何倍も頼もしいのです!」


「……その鬱陶しい喋り方を今すぐやめねば、舌を切り落とす」


「ごめんなさい」


「とにかくお前に手を握られるなど御免こうむる。そんなに不安なら、私の毛皮のすそでもつかんでいろ」


 きわめて冷ややかに言い放ち、マントをひるがえして吊り橋へと足を向ける。


 そのひるがえったマントのすそを、俺は両手でがっちりキャッチした。


「お、オッケーだ! では、出発しよう!」


 アイ=ファはこちらを見もせずに深々と溜息をついてから、何の迷いもなく足を踏みだした。

 俺はもうグラディウスのオプションさながらに追従する他ない。


 アイ=ファの足が、丸太にかかる。

 ぐわんと、吊り橋が大きく揺れる。

 俺も意を決して、丸太に足をかける。

 ぐわんと、吊り橋が大きく揺れる。


「……うあー」


「やかましい」


「ちょ、ちょっと! 手すりに手ぐらいかけろよお前は! こっちは両手がふさがってるんだからさ!」


「やかましいと言っている」


 アイ=ファはかまわず、いつも通りの颯爽とした足取りで歩を進めていく。


 揺れる揺れる。無茶苦茶に揺れる。

 下の景色など見れるはずもなかった。見たら、おそらくへたりこんでしまう。


 それでも吊り橋は10メートルていどだ! すでに5メートルは踏破した! このままアイ=ファの後頭部とうなじだけを凝視していれば、何とか最後まで切り抜けられる!


「……む。蔓草が切れかけているな」


「うあーっ!」と叫んで、力まかせにアイ=ファの胴体を抱きすくめてしまった。


 ぶりんぶりんと吊り橋が揺れ、足が、丸太から落ちそうになる。


「うあーっ! うあーっ!! うあーっ!!!」


「馬鹿者! 放さんか! 本当に死にたいのかお前は!!」


 アイ=ファの怒号が峡谷に響きわたる。

 とても長い1日の始まりの、それが合図の祝砲であったのだった。

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