ユン=スドラの憂鬱③~小さき氏族の家長たち~
2017.6/3 更新分 1/1
「本当に申し訳ありませんでした!」と、翌朝はいきなりユン=スドラに謝られることになった。
商売の下ごしらえを始める直前のことである。他の女衆よりも先んじてファの家を訪れたユン=スドラは、俺とアイ=ファの前で深々と頭を下げてきたのだった。
「か、顔を上げてくれよ、ユン=スドラ。君が謝るような話じゃないだろう?」
「いえ! まさかジョウ=ランがアスタたちに話を打ち明けてしまうなんて……わたしはまたあの顔を叩いてしまわないように我慢するのが大変でした!」
そのように述べながら、ユン=スドラは上目づかいで俺とアイ=ファを見比べてきた。
その顔は、昨晩の俺たちに負けないぐらい真っ赤になってしまっている。
「き、きっとアスタもアイ=ファも、さぞかし不快な気持ちになってしまったことでしょう。本当に、心から申し訳なく思っています」
「不快と思うなら、それはあのうつけ者に対してだ。お前がそのように申し訳なく思う必要など一切ないのだぞ」
「いえ、ですが……そもそもわたしがアスタに対してよからぬ気持ちを抱いてしまったことが、原因のひとつであるのでしょうから……」
と、ユン=スドラは灰褐色のサイドテールを揺らしながら、もじもじとした。
「でも、わたしはその気持ちを打ち捨てるように自分で決めました。アスタからも聞いていると思いますが、その点だけは疑わないでほしいと思います」
「その言葉を疑ったりはしていないし、それについても、我々が謝られる筋合いではあるまい」
「いえ。わたしはアスタともアイ=ファとも正しい縁を紡いでいきたいと願っていますので……こんな形で騒ぎになってしまったことを、本当に申し訳なく思っています」
言いながら、ユン=スドラはますます小さくなってしまう。
アイ=ファは何とも複雑そうな面持ちでその姿を見つめていた。
「ともあれ、我々のことなど、どうでもよいのだ。スドラやランの者たちに事情を打ち明ける気持ちにはなれたのか?」
「はい。このような事情を打ち明けたら、アイ=ファたちにも迷惑がかかってしまうのではないかと思い悩んでいたのですが……今日の朝、ジョウ=ランと話をしていて気持ちが変わりました。それに、ジョウ=ランが隠しだてのできない気性であるということも痛感させられてしまいましたし」
とにかくユン=スドラは、ジョウ=ランが俺たちに事情を打ち明けてしまったことに憤慨している様子だった。
だけどそれも当然の話なのだろう。彼はまず、ユン=スドラと意思の統一をはかってから、ファの家を訪れるべきであったのだ。
「今日はこのまま宿場町の商売がありますので、夕刻に家長たちが森から帰ったら事情を打ち明けたいと思います。申し訳ありませんが、それまではどうかご内密にお願いします」
「相わかった。繰り返すが、お前に罪のある話とは思えん。あのようなうつけ者と関わってしまったことが、お前の不運であったのだ」
「……わたしは自分にも罪があるという気持ちをぬぐえませんが、アイ=ファにそう言ってもらえるのはとても嬉しいです」
まだちょっと頬に赤みを残したまま、ユン=スドラはにこりと微笑んだ。
「それでは、仕事に取りかかります。余計な時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」
そうしてユン=スドラがかまど小屋に消えていくと、アイ=ファは小さく息をついた。
「ユン=スドラは本当に真っ直ぐな心を持っているな。あのような女衆を見合わされて、どうして私などへの執着を捨てきれぬのか、まったく理解することができん」
「……それはちょっと、俺も耳が痛いかな」
俺が余計なことを言ってしまうと、アイ=ファは瞬時に顔を赤くして足を蹴ってきた。
「ともに暮らしているお前と、数えるほどしか顔をあわせていないジョウ=ランでは、事情も異なろうが? あまりたわけたことを抜かすな」
「そりゃまあ、アイ=ファの魅力を一番に理解してるのは自分だという自負はあるけれど……いてて、わかったってば!」
足の筋を痛めない内に、俺もかまど小屋に避難することにした。
が、そこで待ちかまえているのはユン=スドラのみである。彼女は大鍋でカレーの具材を煮込む準備をしながら、照れくさそうに笑いかけてきた。
「……アスタ、本当に申し訳ありませんでした」
「いや、アイ=ファの言っていた通り、ユン=スドラが謝る必要はまったくないよ。他のみんなだって、絶対にそう思ってくれるはずさ」
「どうでしょう。それでもやっぱり、ジョウ=ランを叩いてしまったのは軽率だったと思います」
そう言って、ユン=スドラは深々と溜息をついた。
「以前にも語った通り、アスタはアイ=ファと結ばれるべきだと思うのです。ふたりの間に、わたしなどが割り込む隙間はありません。そう思って、わたしは自分の気持ちを捨て去ることに決めたのに、ジョウ=ランにあのような申し出をされてしまい……わたしは、我を失うほどの怒りにとらわれてしまったのです」
「うん。怒って当然の話だと思うよ。きっとそれは、ユン=スドラの気持ちを土足で踏みにじるような行為だったんだろう」
ジョウ=ランにも同情すべき点は存在するのだろうと思うが、それでユン=スドラに働いた無礼が帳消しにされるわけではない。どのような想念にとらわれていたとしても、そこにユン=スドラを巻き込んだのは明白な間違いであったはずだ。
「ランやフォウの家長たちは、いったいどのように思うでしょうね。……もしもわたしの罪が許されたとしても、やはりジョウ=ランとの関係は変わらないままなのでしょうか」
「え? いや、さすがにそれでジョウ=ランの伴侶になるべしとは言われないんじゃないかなあ?」
「どうでしょう? 罪を犯しても、報いを受ければそれは許されます。あらためて、おたがいが伴侶に相応しいか見定めるべし、と命じられるのではないでしょうか」
「それなら、伴侶に相応しくない相手だった、と告げればいいんじゃないのかな。何にせよ、意にそわない相手と無理に婚儀をあげるようなことにはならないはずだろう?」
「そうであることを切に願います。……でも、わたしだけの心情で、フォウやランとの絆を危うくするわけにはいきませんからね……」
くつくつと音をたて始めた鍋の中身を見つめながら、ユン=スドラはまた溜息をついた。
彼女の苦悩が晴らされるかどうか、まずは夕刻の訪れを待つしかないようだった。
◇
日中は、平穏に過ぎていった。
客足もいつも通りで、料理は飛ぶように売れていく。日が経つにつれて、宿場町の活気は見る見る取り戻されていっている様子である。
そんな中、特筆するべき話がひとつだけあった。
なんと、ユーミたちがルウ家の収穫祭に招待されることになったのだ。
「えー、ほんとに!? そのお祭だけは無理だろうなってあきらめてたのに!」
勢い込んでユーミが反問すると、レイナ=ルウは笑顔で「はい」と応じていた。
「最初は別の日にするべきだという話になっていたのです。ただ、今はルウの集落にミケルにマイムという客人を招いているので、そこに数名を加えるだけなら問題はないのではないか、という話に落ち着きました。そのほうが、ミケルたちの心も安らぐだろう、という判断もあったようです」
「やったー! こう言っちゃ何だけど、レイナ=ルウたちの親父さんって懐が深いよね! 見た目はおっかないし、すっごく頑固そうに見えるけど、うちの親父なんかとは大違いだよー!」
「ええ。すごく怖くて、すごく頑固な一面もありますけれどね」
そう言って、レイナ=ルウはくすくすと笑った。
「それで、その日は収穫祭だけではなく、最長老ジバ=ルウの生誕の日の祝宴も兼ねています。よかったら、客人にも一輪ずつの花を準備していただけますか?」
「花? 花って、そのへんに生えてるやつでいいの?」
「はい。毒さえなければ、種類は何でもかまいません。大事なのは、祝う気持ちですので」
「了解! テリア=マスたちにもそう言っておくね! ……っと、それには何人ぐらい呼んでいいのかな?」
「そうですね。3、4名なら問題ないかと思いますが」
「それじゃあ、テリア=マスとターラで決まりだね! みんな喜ぶよ! ほんとにありがとー!」
ということで、ユーミはご機嫌な様子で青空食堂に引っ込んでいった。
ひとつの屋台をはさんで聞き耳をたてていた俺は、「すごい喜びようだったね」と声をかけてみる。
「はい。もしもその日がジバ婆の生誕の日でなかったら、ドンダ父さんも町の人間を招こうとは考えなかったかもしれません。でも、ユーミたちはジバ婆とも縁のある相手であったので、気持ちを変えたのではないでしょうか」
「うん。俺とアイ=ファも招いてもらえて、本当に感謝しているよ」
なおかつユーミに関しては、「森辺に嫁入りしたい」と願っている話もルウ家の人々には伝わっているはずだった。
それがどれほど厄介な話であるかは、シュミラルやスフィラ=ザザの件で痛感させられているはずである。それでもなお、ドンダ=ルウは客人を招くことを決断してみせたのだった。
それはきっと、各人がシュミラルやスフィラ=ザザのように正しく振る舞えば、間違った事態には陥らないはずだ、という思いがあるのだろう。そのようなことを恐れて他者との交流を差しひかえたりはしない、という覚悟があっての決断なのだと思われた。
(だったら、ユーミにもそういう覚悟を持ってもらわないとな)
ユーミはまだ、スフィラ=ザザとレイリスの一件を知らない。
シュミラルやモルン=ルティムの一件についても、そこまで深くは知らないだろう。
森辺における婚儀というのがどれほどの重みを持つものなのか、収穫祭が訪れる前に、俺はそれをユーミに伝えるべきだと思った。あとでルウ家の人々とも相談して、了承をもらうことにしようと思う。
(それでもなお、ユーミが森辺への嫁入りを望んでくれるっていうんなら……それは、俺にとっても嬉しい話だからな)
そのように考えながら、俺はその日の商売を終えることになった。
そうして、夜である。
予想通りと言うべきかどうか――ちょうど晩餐を終えて、くつろぎの時間に入ろうかというタイミングで、ファの家の戸板はまたノックされることになった。
現れたのは、ライエルファム=スドラとバードゥ=フォウ、そしてランの本家の家長である。刀を預けてファの家の広間に上がってきた彼らは、開口一番、謝罪の言葉を申し述べてきた。
「事情はすべて、ジョウ=ランとユン=スドラの両名から聞くことになった。まずは、我々の家人が無用な騒ぎを起こしてしまったことをわびさせてもらいたい」
「ふむ。我々がわびられる筋合いはない、と思うのだが」
「いや。アスタとともに仕事をしている女衆は常と異なる態度であったというし、昨晩はジョウ=ランがファの家を訪れたのだろう? それだけで、十分に迷惑であったと我々は考えている」
そのように述べたのは、バードゥ=フォウであった。
問題を起こしたのはスドラとランの家人であるが、スドラももうじきフォウの眷族となる。ここは親筋の氏族の家長たるバードゥ=フォウが取り仕切るべき場面であるのだろう。
「また、このたびの騒ぎは両人がファの人間に懸想してしまったことが原因であった。それを理由にして、我々がアイ=ファとアスタに筋違いの恨みを向けることはない、ということも告げておきたかった」
「そのように言ってもらえれば、こちらとしてもありがたい。我々こそ、何かわびるべきではないのかと思いながら、何をわびるべきかを見いだせずにいたところであるのだ」
「何もわびる必要はない。懸想された側に罪などはないのだからな」
そう言って、ランの家長が頭を下げた。
「まずわびるべきは、俺であろう。ジョウ=ランめは、俺に断りもなくアイ=ファに嫁入りの話などを持ちかけていたそうだな。それは森辺の習わしからも外れる行いであったはずだ」
「嫁入りを願われたと言っても、それは遠い先の話だった。自分がいつか私よりも優れた狩人になったときは嫁入りしてほしいと願われただけであるからな。それだけの話で、あやつを責めようとは思わない」
他の家長らに負けない威厳を保ちつつ、アイ=ファは落ち着いた声でそう答えた。
「ただし、昨晩はいささか心を乱すことになってしまった。あやつがユン=スドラに持ちかけた話こそ、森辺の民にあるまじき行いであろう。その点に関して、家長らはどのような判断を下したのだ?」
「まったく、許されざる行いだ。いささか心情の読めない部分はあったが、ジョウ=ランがそこまで道を踏み外すとは想像していなかった。ランの家長として、心から恥ずかしく思う」
「うむ。あやつはユン=スドラの心情や家長らの信頼を踏みにじったことになるだろう。私としては、スドラの家長が私のように憤慨していないかが心配なところだ」
「憤慨はしていない。いささかならず、呆れることにはなったがな」
小猿のような風貌したスドラの家長ライエルファム=スドラは、額にしわを寄せながらそう言った。
「それに、いかに非礼な言葉を吐かれたと言っても、家人のユンはジョウ=ランを叩いてしまった。それもまた森辺の習わしに背く行いなのだから、おたがいに痛み分けと思って気持ちを収める他ないだろう」
「スドラの家長の温情には感謝している」
と、ランの家長はまた頭を下げた。
「当然のことだ」とライエルファム=スドラは肩をゆすっている。
「すでにフォウの女衆がスドラに嫁入りすることが決まっているのだ。もうそれほどの日は待たず、我々は血の縁を結ぶことになる。ならば、多少の諍いには目をつぶり、絆を深めていくべきであろう」
「……それで、ユン=スドラとジョウ=ランはどうなるのでしょう?」
俺が口をはさむと、バードゥ=フォウが「ふむ?」と首を傾げた。
「べつだん、どうもなりはしない。確かに両名は森辺の習わしに背いてしまったが、身を打つほどの罰は必要ないだろう。今後、同じ過ちを繰り返すようなら、その限りではないがな」
「それではやっぱり、改めて嫁入りの話が進められるのでしょうか?」
「それはない」とバードゥ=フォウはきっぱり言った。
「両名も、それを望んではいなかったからな。ジョウ=ランとユン=スドラは、おたがいが伴侶に相応しい人間であると思うことができなかった。我々は、このたびの一件をそのように受け止めている」
「そうですか」
俺はようやく安堵の息をつくことができた。
お見合いの話は終結し、両名に罰が下されることはない。これでもう、問題はあらたか片付いたように思えた。
「それに、フォウの女衆が嫁入りすることはすでに決定されているし、ランからもスドラに、スドラからもフォウに嫁入りする話が進められている。これならば、ユン=スドラを早急に嫁入りさせる必要もないだろう。……あとは、家長会議の結果を待ちたいと思う」
「家長会議? それはどういうお話ですか?」
「例の、ルティムとドムの一件だ。おたがいの親筋や眷族とは関わりのない血の縁を結ぶことを許すか否か、次の家長会議で決められるのだろう? その結果が出るまでは、無理に婚儀の話を進めるべきではない、と考えたのだ」
「それが許されるようになれば、我々もフォウを親筋としたまま、余所の氏族と血の縁を結べるようになる。そうすれば、これまでよりも強い力を得られるかもしれんからな」
「それでは、みなさんはガズラン=ルティムの提案を前向きに受け止めているのですか?」
答えは、イエスであった。
「我々は、今後もディンやリッドとともに収穫祭を祝おうと考えている。そこで新たな情愛が育まれることもあろう」
「それに今では、荷車を使って余所の氏族とも交流を持つことができるようになっている。この前などは、ルウ家の狩人を家に招くことにもなったしな」
「また、族長筋ばかりでなく、ガズやラッツなどとも女衆同士では交流を深めている。ベイムやラヴィッツだって、ファの行いに賛同するようになれば、これまで以上に縁を深めることができるだろう」
そのように述べてから、バードゥ=フォウはライエルファム=スドラを振り返った。
「そんな中、予定されている3組の婚儀が実現すれば、もはやスドラにはユン=スドラしか未婚の人間が残らぬのだ。ならば、なおさら家長会議を待つべきだろう。スドラにも、余所の氏族との絆を結ぶ余地を残しておくべきだと思う」
「うむ。今だから打ち明けるが、ユンは時間をかけて伴侶を選びたいと願っていたようだからな。もうしばらくの自由を得られれば、当人も喜ぶことだろう」
「ああ。森辺には大勢の男衆がいるのだから、いずれは理想的な相手と巡りあうこともできよう」
ずっと厳粛な面持ちをしていたバードゥ=フォウが、そこでふっと頬をゆるめた。
「まあ、これまで懸想していた相手がアスタとなると、どのような男衆を捜せばよいのかも今ひとつ判然とはせぬがな」
「うむ。それはジョウ=ランとて、同じことであろう。どれだけの数の女衆がいても、アイ=ファに似た人間などというのはそうそうお目にかかれないだろうからな」
「……あまり我々をからかわないでほしいものだな、家長らよ」
アイ=ファが渋い顔をすると、バードゥ=フォウはいっそう穏やかな感じに笑った。
「我々は友であるのだから、これぐらいの軽口は許されよう。それに、アイ=ファやアスタに似た人間などなかなかいない、というのはまぎれもない事実であろう?」
「その通りだ」とランの家長も相槌を打つ。
「何せ、狩人として卓越した力を持つ女衆と、かまど番として卓越した力を持つ男衆であるからな。それに似た人間など、なかなかいるはずはないのだ」
「それでもユンは、アスタへの想いを断ち切った。これでジョウ=ランとの婚儀の話が消えたとしても、ファの家に迷惑をかけることにはならないだろう」
と、ライエルファム=スドラが小さな目で俺とアイ=ファをじっと見つめてくる。
「アイ=ファにアスタよ、ファの家の友として、あえて聞かせてもらいたいのだが……ふたりは今後も婚儀をあげるつもりはないのか?」
「ない。……どうしてそのようなことを問うのだ?」
「それはもちろん、今後もアイ=ファやアスタに懸想する人間は後を絶たないだろう、と思うからだ」
平たい下顎を撫でながら、ライエルファム=スドラはそのように述べた。
「狩人であるアイ=ファが伴侶を迎えられないというのは、しかたのないことだ。しかしアスタも、やはり余所の女衆を嫁に迎えるつもりはないのか?」
「は、はい。申し訳ありませんが、そのつもりです」
「ふむ。やはり、気持ちは変わっておらぬのか」
かつてライエルファム=スドラとだけは、そのような話を語り合ったことがあったのだ。それも、ユン=スドラが俺に懸想していたゆえの事態であった。
「それがアイ=ファとアスタの決断であるなら、血族ならぬ我々に口を差しはさむことはできないが……こうして我々に道を切り開いてくれたファの家の血筋がまもなく絶えてしまうというのは、惜しい話だな」
「しかたあるまい。それが、我々の選んだ道なのだ」
アイ=ファは、静かな声でそう答えていた。
ランの家長は、「ふむ」と頭をかいている。
「そういえば、俺もひとつ問うておかねばならんことがあった。ジョウ=ランめが、アイ=ファの想い人は誰なのかと、しつこく問うてくるのだ。あれは、どうしたものであろうな?」
家長として厳粛な表情を保ちながら、アイ=ファはわずかに目の縁を赤くした。
「……私がそのような問いに答える筋合いはないと思うのだが?」
「アイ=ファが答える必要はない。我々が答えてもいいのだろうかと、問うているのだ」
今度こそ、アイ=ファははっきりと顔を赤くした。
「ラ、ランの家長とて、その答えを正しく知っているわけではあるまい?」
「うむ。しかし、考える限り、そのような相手はひとりしか思いつかんからなあ」
「…………」
「俺もこれで、ジョウ=ランよりはアイ=ファらと親しくさせてもらっている。それに、あやつはアスタが病魔に犯されたときも、ファの家を訪れようとはしなかったであろう? あのときのファの家の様子を見ていれば、何も知らなかった人間でも見当はつくはずだ」
アイ=ファはがりがりと頭をかきむしった。
そしてその手を頭にあてたままにして、何とか赤くなった顔を隠そうとしている。
バードゥ=フォウとライエルファム=スドラは、ちょっときょとんとした面持ちで、アイ=ファたちのやりとりを見守っていた。
「ジョウ=ランはアイ=ファに懸想していながら、そのようなことすら知らなかったのか。そのような話は、とっとと打ち明けてしまえばよかろう」
「うむ。むしろ、隠そうと思っても隠しきれはしないだろうしな」
バードゥ=フォウやライエルファム=スドラまでそのように述べたてると、アイ=ファは取り乱しきった様子で「ちょっと待たれよ!」と大きな声をあげた。
「わ、私はそのような話を誰にも告げた覚えはないぞ! どうしてみんなして、私の心情を見抜いているかのような口ぶりで語っているのだ!?」
「どうしてと言われても……大半の人間は気づいているのではないのか?」
「うむ。俺たちでさえ気づいているぐらいなのだからな」
「気づかないジョウ=ランのほうがうつけであるということだ」
アイ=ファの隣に陣取った俺も、一緒になって公開処刑されているような心地であった。
首の上からが熱くなり、ちょっと汗まで出てきてしまう。
「俺たちは、アイ=ファとアスタがおたがいをどれだけ思いやっているか、それを幾度も目の当たりにしてきた。先日の病魔の際ばかりではなく、スン家での家長会議や、アスタが貴族の娘にさらわれたときや……それに、普段の行いからもな。ものすごく正直に言ってしまえば、いまだに婚儀をあげていないのが不思議に思えるぐらいだぞ」
「わ、わかった! わかったからもう、この話は終わりにしていただきたい!」
「そのように心を乱す必要はあるまい。それに……俺はこれでファの家の血が絶えるとも考えてはいないぞ」
そのように述べたのは、バードゥ=フォウであった。
アイ=ファと俺のことを、とてもやわらかい眼差しで見つめている。
「アイ=ファ、お前は先月、18歳になったそうだな」
「うむ。それが、何だというのだ?」
「これから10年の歳月が過ぎても、お前はいまだに28歳だ。その齢でも子を生すことはできるだろうし……10年も狩人として働けば、お前の気持ちも満たされるかもしれん。そうすれば、誰をはばかることなく、婚儀をあげることができるではないか」
「な、何を馬鹿な――!」
「人の心とは、移ろうものだ。10年ではなく、5年で満たされるかもしれん。1年で満たされるかもしれん。そのときの自分の気持ちなど、そのときになってみなければ誰にもわかるまい。すべては森の思すままにだ、アイ=ファよ」
「うむ。アイ=ファは誰よりも優れた狩人だ。5年も経てば、普通の狩人の一生分のギバを狩ることもできるのではないかな」
「アイ=ファがどのような道を辿ろうとも、俺たちはファの家の友だ。自分の信ずる道を進めばいい」
アイ=ファは片腕で頭を抱え込んだまま、「もうよい!」とギブアップの声をあげた。
「わ、悪いが頭が痛くなってきた! ユン=スドラとジョウ=ランについての話が終わったのならば、お帰り願おう!」
「うむ。このような夜更けにまで悪かったな。ふたりの話についてはすでにすべての家人に伝えてあるので、明日には女衆らもこれまで通りの姿を見せるはずだ」
そのような言葉を残して、3名の家長らは各自の家に帰っていった。
アイ=ファが動こうとしないので、俺が玄関の閂を掛ける。そうして広間に向きなおってみると、アイ=ファはすでに床をのべて横たわってしまっていた。
「す、すごい早業だな。まったく気配を感じなかったぞ」
「…………」
「……髪をほどかないと、窮屈じゃないか?」
「やかましい!」
俺に背を向けて横たわったまま、アイ=ファはがなり声をあげた。
まあ、思いも寄らぬ波状攻撃を受けて、気持ちのほうがまいってしまったのだろう。俺としても、バードゥ=フォウたちがあそこまで踏み込んだ話をしてくるとは予想できていなかった。
(でもきっと、それはみんながファの家のことを大事に思ってくれている証なんだろうな)
そんな風に考えながら、俺もすみやかに就寝の準備を進めることにした。
敷布を敷いて、燭台の火を吹き消し、目が闇になれるのを待ってから、身を横たえる。この夜も空は晴れわたっているようで、窓からは青白い月の光が差し込んでいた。
「おやすみ、アイ=ファ」
小声で、そのように呼びかけてみる。
すると、アイ=ファが何かぼそぼそと囁いた気がした。
「うん? ごめん、聞き取れなかったよ」
「……5年後や10年後の自分の気持ちなど、私にはわからぬからな?」
アイ=ファのなめらかな背中を見つめながら、俺は思わず微笑んでしまった。
「すべては森の思すままに、だろ。俺はアイ=ファと一緒にいられれば、それで幸福だよ」
アイ=ファは何か抗議するように身悶えた。
俺はゆるやかな幸福感にひたりつつ、もう一度「おやすみ」と告げておくことにした。
◇
いわゆる、後日談である。
翌朝、また誰よりも早くファの家を訪れたユン=スドラは、昨日とは打って変わって輝かんばかりの笑みを満面に浮かべていた。
「おはようございます、アスタ! 昨晩は家長がお世話になりました!」
「う、うん、おはよう。すっかり元気になれたみたいだね、ユン=スドラ」
「はい! すべての苦悩から解き放たれた気持ちです! 何だか、世界が輝いて見えるぐらいなのです!」
とても朗らかな気性をしたユン=スドラでも、ここまで浮かれた姿を見せるのは珍しいことだった。それぐらい、彼女にとってはここ数日の出来事が重い負荷になっていたのだろう。
「家長たちから話を聞きましたか? わたしは嫁入りをせっつかれるどころか、じっくりと時間をかけて相手を選ぶべし、と申し渡されることになったのです!」
「うん、聞いているよ。でもそれは、家長会議の結果次第なんだよね?」
「はい! ルティム家の申し出がすべての氏族に認められるように、わたしは毎日森に祈ろうと思います!」
そんなに婚儀をあげたくなかったのかと、俺はいささかならず驚かされることになった。
するとユン=スドラは、はにかむように笑いながら頬を染める。
「だってわたしは、アスタに懸想していたのですよ? アスタより魅力のある男衆を見つけるなんて、大変に決まっているじゃないですか。ルウ家のように、20歳ぐらいまで時間をもらいたいぐらいです」
「そ、そうか。でも、ユン=スドラはまだ15歳だったよね?」
「5年もあれば、すべての氏族の男衆を見て回ることもできるのではないでしょうか」
と、今度は悪戯小僧のように舌を出す。
ここ数日ではなく、ここ数ヶ月の鬱憤から解放されて、ユン=スドラは浮かれきっている様子だった。
「実はわたしは、レイナ=ルウのことを羨ましく思っていたのです。婚儀の話などには目もくれず、ひたすらかまど番の腕を磨こうとするレイナ=ルウの姿が、とてもまぶしく見えてしまったのです」
「そうか。その気持ちはわからなくもないけど……きっと家人は心配するだろうねえ」
「それでもいつかは、伴侶を娶ります。わたしだって、愛する人間と婚儀をあげて、我が子をこの腕に抱きたいと願っているのですから。……まあそれは、数年の後でもいっこうにかまいませんけどね!」
そうしてユン=スドラは、まぶしいものでも見るように目を細めながら、俺に微笑みかけてきた。
「いつか絶対、アスタよりも愛おしいと思える相手を見つけてみせます。だからこれからも友として、変わらぬつきあいをお願いいたします、アスタ」
「うん、ありがとう。こちらこそよろしくね」
本当にユン=スドラは、真っ直ぐで強い人間であるのだ。
それとジョウ=ランを比べてしまうのは、あまりに気の毒であっただろう。森辺の習わしにはそぐわないので、俺は誰にも告げていなかったが――俺は、ジョウ=ランのことをものすごく気の毒に思っていた。
ジョウ=ランは、手の届かない相手に懸想して、心を乱してしまい、突拍子もない失敗を演じることになった。森辺において、それはジョウ=ランひとりに罪がある、とされてしまっていたが、俺の感想は少し違った。少なくとも、俺の生まれ育った故郷においては、ジョウ=ランみたいにしくじってしまう人もたくさんいたのではないか、と思えてしまうのだ。
なかなか思い通りに進まないのが、色恋沙汰というやつである。胸中に燃えさかる情念をもてあまして、暴走することだってあるだろう。マナーやモラルを破ってしまうことだってあるだろう。人間とは、そこまで清廉潔白の存在ではないのだ。
だけどこの森辺では、堅苦しいまでの礼儀が重んじられている。家族のため、氏族のため、同胞のため、という責任も大きくのしかかってくる。そんな中で、道を踏み外すことなく、強く清廉に生きていこうとしているユン=スドラのような存在のほうこそが、俺には凄い、と思えてしまうのだった。
いや、ユン=スドラばかりでなく、スフィラ=ザザやモルン=ルティムだってそうなのだ。特に、同胞のために自らの想いを断ち切ったスフィラ=ザザの姿が、俺の胸には強く焼きつけられていた。
そして俺もまた、そんな森辺の民に同胞と認めてもらうことのできた身であるのだ。
俺も彼女たちのように、強く正しく生きていくべきなのだろう。
自分の幸福と同胞の幸福を、うまく重ねられるように、正しい道を探さねばならないのだ。
だけど、それでも――やっぱり、俺の根っこにあるものは変わらなかった。
それは、俺の幸福というものはアイ=ファのかたわらにしかない、という思いだった。
(1年後か、5年後か、10年か――いつかアイ=ファが、狩人としての仕事を果たし終えた、と思える日が来て、それで愛する人間と婚儀をあげることができれば――それは、狩人としても女衆としても、幸福な人生を歩むことができた、ということになるんじゃないだろうか)
アイ=ファは俺と出会うまで、たったひとりで生きていた。2年もの間、ひとりで狩りをして、ひとりで食事を作り、ひとりですべての仕事をこなしてきたのだ。それは言ってみれば、ひとりで男衆と女衆の仕事を果たしていたということになるのだから――そんなアイ=ファならば、狩人としての幸福と女衆としての幸福をともに手にする資格があるのではないだろうか。
(それじゃあ、俺にできるのは――)
狩人としてのアイ=ファを家人として支え、そして――アイ=ファの伴侶に相応しい人間になることだ。
この半月ばかりのさまざまな出来事で、俺が新たにしたのはそんな痛切な思いだった。




