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異世界料理道  作者: EDA
第二十七章 朱の月は恋の季節
460/1704

遥かなる明日のために②~四番目の家族~

2017.5/13 更新分 1/1

 宿場町での商売を終えてルウの集落に帰りつくと、そこには朝方と異なる騒ぎが待ちかまえていた。

 広場の真ん中に人垣ができて、そこから幼子や女衆のはしゃぐ声が響きわたっている。俺はすでにその理由を知っていたが、胸が弾むのを抑えることは難しかった。


「あーっ! アスタたちが帰ってきたよ! レイナ姉、ララ、おかえりー!」


 目ざといリミ=ルウがそのように声をあげると、人垣が割れてその向こう側の光景が見えた。

 その真ん中に立ちはだかっているのはシュミラルであり、そして彼の周囲にはたくさんの猟犬が群れ集っていた。


「アスタ、お疲れさまでした。商売、いかがでしたか?」


「はい。今日も定時できっちり売り切ることができました。……いやあ、すごい数の猟犬ですねえ」


「はい。12頭です」


 その数については、すでに聞いていた。中天を少し過ぎた頃、城下町から戻ってきたシュミラルが屋台に立ち寄ってくれたのだ。

 そしてシュミラルは、このあとルウの集落に出向いて、猟犬の再調教なる仕事に励む予定なのだとも告げていた。どうせ今日はギバ狩りの仕事に間に合いそうもないので、その時間を利用してこの仕事に取り組むことが、あらかじめ決められていたのだという話であった。


 再調教というのはよくわからなかったが、まあ要するにギバ狩りに必要な知識を猟犬に仕込むということなのだろう。シュミラルの足もとにはギバの生皮と狩人の衣が1枚ずつ広げられており、12頭の猟犬たちはしきりにその匂いを嗅いでいた。


「今は、これらの違い、教え込んでいます。間違って、狩人、噛んだら、大変ですので」


「ああ、なるほど。主人と獲物が同じ毛皮を纏っているというのは、確かにまぎらわしいですよね」


「はい。ですが、匂い、まったく異なるので、問題ありません。毛皮、なめす際、樹液や香草、使われますし、また、人間の匂い、しみついているので、猟犬にとっては、嗅ぎ分ける、容易です」


 シュミラルがそのように述べている間も、猟犬たちはくんかくんかと毛皮の匂いを嗅いでいる。

 以前に見た猟犬たちと同じように、西洋風の外見をした犬たちだ。毛の色は褐色で、その濃淡が異なっていたり、中にはまだらの色合いのやつなどもまじっていたが、犬種は統一されているようである。


 顔は四角くて、耳は垂れている。頭は大きく、首は太く、体格はとてもがっしりとしている。それでいて、表情はとても穏やかであり、黒くてつぶらな瞳がたいそう可愛らしかった。


 これらの猟犬は、絶対に人間やトトスを襲わないように厳しくしつけられている。狩り場で主人のもとを離れた際、別の狩人に出くわしても危険がないように、そこのところは徹底されているのである。その結果として、彼らは家に忍び込もうという見知らぬ人間に対しても襲いかかることができないので、番犬の役には立たないのだという話であった。


「もともとの6頭に加えて、これで18頭ですか。一気に3倍増とは、すごいですね」


「はい。ジャガルの商人、15頭の猟犬、連れていましたが、3頭、買いませんでした。その3頭、老犬であり、目や鼻、弱っているようでした。……おそらく、質のわかる客かどうか、試すため、連れてきたのでしょう」


 それは何とも、意地の悪い話である。

 しかしシュミラルは、猟犬にも劣らぬ穏やかな表情で微笑んでいた。


「客、試す、当然のことです。彼ら、自分の商売、誇り、あるのでしょう。しかも、猟犬、生き物です。大事、育てた猟犬、おかしな客、売りたくない、思う、当然です」


「なるほど、そういうものですか。さすがは《銀の壺》の元団長ですね。……ジャガルの商人たちとは穏便に取り引きをすることができたのですか?」


「はい。私、セルヴァの民、誓い、見せたので、信用、得ること、できたと思います」


 そう言って、シュミラルは片方の腕を広げて、もう片方の手で心臓をつかむようなポーズを取った。

 西の民が、自分は西方神の子である、と宣誓するときに用いる仕草である。俺もかつて、カミュア=ヨシュがその宣誓をする姿を目にしたことがあった。一見では西の民とわからない人々は、そうして自分の身を証しだてる必要に迫られることが多々あるようなのだった。


「それに、リミたちの料理も美味しそうに食べてくれてたよー! 夜もギバの肉を食べさせてくれーって貴族たちにお願いしてたもん!」


「そっか。それならきっと、ギバの腸詰肉やベーコンの料理を口にすることになるんだろうね」


 城下町で口にできるギバ肉はその2種だけだ。不定期ながら、そこそこの量が城下町でも買いつけられるようになったので、いずれかの宿屋か料理店でそれを口にすることになるのだろう。


 そうして俺たちが楽しく会話を続けていると、本家のほうからミーア・レイ母さんが近づいてきた。


「やあ、アスタ。なかなか来ないんで、こっちから出向かせてもらったよ」


「あ、すみません。すぐに勉強会を始めますので」


「何も急ぐ必要はないさ。ただ、家長からアスタに言伝があってね。ファの家は、この12頭の内の1頭を自分の家のものにしたいんだろう?」


「はい。かねがねそのようにお願いしていました」


「それじゃあ、そいつは今日の内に引き取ってほしいっていう話だったよ。明日になったら、さっそく他の氏族に連れていくみたいだからさ」


 ドンダ=ルウは、これを森辺中の氏族にお試しで使ってもらうために、ルウ家の資産で買いつけたのだった。もしもそれで「不要」と見なされたなら、今後はすべてルウの眷族のみで扱っていくことになるのだ。


 しかしファの家においては、銅貨を出して1頭を引き取る話をすでに通させていただいていた。アイ=ファの性格上、ひとたび行動をともにしたら情が移るに違いないと予測したのである。


「うーん、今日の内ですか。もしもアイ=ファの帰りが遅かったら、明日の早朝とかでも大丈夫でしょうか?」


「そりゃまあ、一番遠い北の集落でも、荷車さえあればそれほどはかからないからね。いつもの商売に行く時間よりも早いぐらいだったら、十分に間に合うと思うよ」


「わかりました。アイ=ファにはそのように伝えておきます」


「アイ=ファには、猟犬の善し悪しなんてわからないだろう? アスタが適当なのを連れて帰っちまえばいいんじゃないのかい?」


「いえ。猟犬と一緒に仕事をするのはアイ=ファですから、狩りの相棒に相応しいのはどの猟犬か、自分の目で見極めてもらおうと思っています」


「なるほどね」とミーア・レイ母さんは微笑んだ。

 ただ、目もとにいくぶん疲れの余韻みたいな陰がある。いつも朗らかなミーア・レイ母さんには珍しいことである。


「あの、身体の調子でも悪いのですか? ちょっと元気がないように見えるのですけれど」


「え? いや、身体は元気だよ。だけどほら、ルティム家の一件があるからさ」


「ああ、その件ですか。……ガズラン=ルティムたちとは、上手く折り合いがついたのでしょうか?」


「折り合いがついたっていうのかねえ。けっきょくダン=ルティムの言い分が通っちまった格好だから、あたしはちょいと心配なんだよ」


「ええ? それじゃあ、モルン=ルティムをドム家に嫁入りさせることで、話がまとまったのですか?」


 俺の言葉に、ミーア・レイ母さんは「とんでもない!」と手を振った。


「そんなとんでもないことが決定されてたら、あたしだってこんな風に呑気にはしていられないよ。ただ、ダン=ルティムたちはいっこうにあきらめる気配がなくってさ。とにもかくにも、モルン=ルティムの気持ちをもういっぺん確認させてほしいって言いだしたんだよ」


「気持ちの再確認ですか。それは確かに大事な話だと思いますが……でも、どうやって?」


「うん。この猟犬ってのは、狩人と一緒に貸し出すことになるだろう? それと一緒に、モルン=ルティムも北の集落に連れていこうっていう考えなんだよ」


 言うまでもなく、森辺の狩人がいきなり猟犬を使いこなせるわけではない。ルウ家においても、最初の内はシュミラルが同行して、どのように猟犬を活用するべきか入念に手ほどきしてみせたのである。それを眷族の末端にまで伝えるのには、かなりの時間を必要としたはずだった。


 よって、他の氏族に猟犬を貸し出す際も、ルウおよびその眷族の狩人が同行することになるのである。あの、ザザやサウティに調理や血抜きなどの手ほどきをしたときと同じ手段で、数名ずつの狩人が各氏族に割り振られる計画になっていた。


 ただ異なるのは、その規模の大きさだ。

 なにせ相手は、森辺の全氏族なのである。

 もちろん、実際に手ほどきするのは親筋の氏族に限られるが、それでも数は9氏族に及ぶ。ザザ、サウティ、フォウ、ベイム、ガズ、ラッツ、ダイ、ラヴィッツ、そしてスンの9氏族である。


 ファとスドラはそこから除外されていたが、ファでは1頭の猟犬を独自で買わせてもらう予定であるし、スドラはフォウないしスンの家と合流して、手ほどきを受ける予定になっていた。


 ともあれ、9氏族に手ほどきをする予定であるのだ。

 しかもルウ家は、休息の期間が目前に迫っている。それで、休息の期間ならば思うぞんぶん狩人を派遣することができる――とは考えず、休息の期間を迎える前に、まとめて片付けてしまおう、という方針を選んでいた。休息の期間は家族との交流を大事にするべきである、とドンダ=ルウは考えたようだった。


 そういったわけで、明日からさっそくその手ほどきが始められるのだ。

 1頭の猟犬につき、2名の狩人を同行させるらしい。そして、派遣した先からは同じ数の狩人をこちらに招き、その者たちにも手ほどきをするのである。そのあたりも、血抜きや調理の手ほどきをしたときと同様のやり口であった。


 ここ最近では、ファやフォウやスドラでも、同じような仕事に励んでいた。これまで交流の薄かったダイ、ラヴィッツ、スンなどの氏族に調理や血抜きの手ほどきをした際のことである。

 しかしあのときは狩人もかまど番も、午後の限られた時間だけ、相手の集落を訪れていた。荷車の機動力を活かして、人海戦術を取ったようなものだ。


 だが、9つもの氏族が相手では、荷車での送迎もおっつかない。それに、遠い家の氏族は荷車を使っても数時間はかかるのだから、日が沈むまで狩人の仕事に励んでいると、夜遅くの帰宅になってしまうのだ。

 よって今回、交換した狩人は相手方の家に宿泊することになる。

 ルウの一族からは18名の狩人が各氏族に散り、相手がたからは同じ数の狩人を受け入れることになるのである。


 ほとんど親交のない小さき氏族とも、ルウ家はそうして新たな縁を紡ぐことになるのだ。

 森辺の族長となってから数々の英断を下してきたドンダ=ルウであるが、このたびの行いもそのひとつに含まれるのは疑いのないところであった。


「……で、こっちでその役を担うのは、ルウとルティムとレイとミン、それにリリンの5氏族なんだよね。リリンは狩人の数が少ないけど、やっぱりシュミラルのおかげで、猟犬の扱いには一番長けているようだからさ。2人だけ狩人を出してもらうことになったらしいんだよ」


「なるほど。残りの16名を4氏族でまかなうわけですか。ひとつの氏族から4名ずつと考えれば、まあそれほど無理はないのかもしれませんね。で、北の集落にはルティムから狩人を貸し出して、そこにモルン=ルティムも同行させる、というわけですか」


 いったいどのような理由で同行させようというつもりなのかはわからないが、そうでもしないとモルン=ルティムを北の集落に出向かせることはかなわないだろう。ずいぶんとまた、絶妙なタイミングで猟犬が届いたものである。


「でも、それでもういっぺん本人の気持ちを確認させようっていうのは、正しい判断だと思いますよ。それでもしもあきらめるほうに気持ちが傾いたら、何も騒ぎにはならないわけですし」


「ああ。あたしもそこには反対しちゃいないんだよ。本当にドム家に嫁入りしたいのかどうか、頭が割れるぐらい、おもいっきり自分の気持ちと向き合ってほしいと思ってるさ」


 そのように述べてから、ミーア・レイ母さんは深々と溜息をついた。

 これまた、ミーア・レイ母さんには不似合いな所作である。


「どうしたのですか? ミーア・レイ=ルウが打ち沈んでいる理由が、いまひとつわからないのですが」


「打ち沈んでいるっていうかさ……ルティムでは、モルン=ルティムと一緒にダン=ルティムを北の集落に送りつけるつもりでいるんだよ」


「えっ」と言ったきり、俺も絶句してしまった。

 ミーア・レイ母さんは、力なく首を振っている。


「ね? こいつはちょいとばっかり、頭の痛くなる話だろう? ダン=ルティムはルウの血族でもとびきり血の気の多い御仁だからさ。普段は陽気だけど、いったん怒ったら暴れるまで収まらないし……アスタだって、そこんところはよくわかってるよね?」


「は、はい。もちろんダン=ルティムは大事な友ですし、大好きな相手ではありますが……」


「あたしだって、おんなじ気持ちさ。でも北の一族ってのは、スン家が潰れるまではルウ家と角突きあってた仲だからねえ。あたしは考えれば考えるほど心配になっちまうんだよ」


「そ、それでもドンダ=ルウは了承したのですか?」


「うん。どうか信用してほしいって、ガズラン=ルティムに言いきられちまってね。これがダン=ルティムひとりの考えだったら、たぶん家長も許さなかったと思うんだけどさ」


 ガズラン=ルティムも、その話を了承しているのか。

 そう考えると、俺は少しだけ気持ちを軽くすることができた。

 確かにダン=ルティムは爆薬のような破壊力をもった御仁であるが、ドンダ=ルウとガズラン=ルティムがそろって了承したというのなら――少なくとも、俺などが心配してもしょうがない、というぐらいの心情にはなれた。


「ま、今さらどうこう言ったって始まらないからね。どうかおかしなことにならないよう、森に祈るしかないだろうさ。……さ、リミ、そろそろ料理の勉強会なんじゃないのかい?」


「うん! アイ=ファはどの子を選ぶのかなー。楽しみだなー」


 おそらく話は耳に入っていたのだろうが、リミ=ルウは無邪気そのものであったし、シュミラルも沈着に猟犬の様子を見守っている。


 俺も心を乱すことなく、自分の仕事に取り組むべきなのだろう。

 一番大変なのはモルン=ルティム本人であるし、その次に大変なのは、ドンダ=ルウやガズラン=ルティムたちであるのだ。何かの弾みで俺の力が必要とされれば、そのときは全力で支援すればいい。そのように心を定めて、俺は自分の仕事に取りかかることにした。


                 ◇


 その夜である。

 晩餐を終えた俺たちは、新しい家族とともに穏やかな時間を過ごしていた。


 狩りの仕事から戻ったアイ=ファは、その足でルウの集落へと駆けつけて、無事に猟犬の1頭を引き取ってきたのである。

 今その猟犬は、広間に敷かれた敷布の上で丸くなっている。晩餐としてギバ肉と骨ガラを与えたので、とても満足そうな面持ちだ。


 アイ=ファが選んだのは、いくぶん赤みがかった毛皮をした1頭であった。

 今はまぶたを閉ざしているが、とりわけ賢そうな眼差しをした猟犬で、俺もひと目で気に入ることができた。その猟犬の背中ごしには土間で丸くなったギルルの巨体も見えており、微笑ましい限りである。


「可愛い寝顔だな。これで狩りのときはギバを相手にできるぐらい勇敢だっていうんだから、驚きだよ」


「うむ」とうなずくアイ=ファの目は、さっきから猟犬の姿に固定されてしまっている。愛おしくて愛おしてくてたまらない、といった眼差しである。やっぱり森辺の民というのは、トトスや犬に対して無条件に心をひかれてしまう一面があるようだった。


「狩りの仕事では、フォウの人たちと一緒に手ほどきを受けるんだって?」


「うむ。私ひとりのために狩人を借り受けるのは申し訳ないし、代わりに送りつける狩人もいないしな。数日ばかりは、フォウやルウの狩人とともに森に入ることになろう」


 そこでアイ=ファは、ひさびさに俺のほうを振り返ってきた。


「どうやらフォウの家に出向いてくる狩人の片方はルド=ルウであるらしい。あやつがフォウの家で眠るというのは、何やら奇妙な気分だな」


「あ、そうなのか。ルド=ルウとアイム=フォウが仲良くなったら楽しいな」


「うむ」


 とても穏やかな顔でうなずいてから、アイ=ファはちょっと居住まいを正した。


「ところでアスタよ、このものの名前についてなのだが」


「ああ。買われた猟犬は新しい主人に名前をつけさせるんだってな。何かいい名前は思いついたか?」


「いや。その名は、お前につけてもらいたく思う」


 それは、ずいぶんと意外な申し出であった。


「どうしてだ? その猟犬はアイ=ファの相棒なんだし、そうでなくっても家長のアイ=ファが名前をつけるべきだと思えるんだけど」


「しかし、ギルルなどはお前の相棒といっていい存在であるのに、私が名づけることになった。ゆえに今回は、お前に名づけてほしいのだ」


 そのように述べてから、アイ=ファはちょっともじもじした。すでに髪はほどいているので、金褐色の光が薄闇にきらめいている。


「それに……森辺で子供が生まれたときなども、やはり家長たる父が名づけることが一番多いのであろうが、母が名づけることもある。一概に、家長だけが名をつけると決まっているものでもない」


「うん、ああ、そうなのか」


 アイ=ファがもじもじしているので、俺までちょっと恥ずかしくなってきてしまった。

 俺としては出産の擬似体験をしているような心地であったのだが、アイ=ファはどういった理由でもじもじしているのだろう。あまり深く考えるといよいよ落ち着かない心地になりそうであったので、俺は何とか気持ちを切り替えるべく努力した。


「だけどそいつは責任重大だな。しかも俺は、森辺における名前のつけ方っていうのがよくわからないんだけど……」


「うむ。その点は私も考慮した。よって、お前がいくつかの候補をあげて、私がその中から選ぶというやり方ならばどうであろうか? このギルルなども、私のあげたふたつの名前から、お前が選んだようなものであるしな」


「なるほど」と俺は納得することにした。

 いささかならずプレッシャーを感じないでもないが、ともあれアイ=ファからの提案を無下に退ける気持ちにはなれない。ならば、頭をひねってこの新しい家族に相応しい名前を考案するしかないだろう。


「それじゃあ、どうしようかな……やっぱり森辺では、名前に意味とかを込めるものなのかな?」


「込めることもあれば、言葉の響きだけで決めることもある。私のアイという名前には、これといった意味合いなども存在しないはずだ。大事なのは、その相手を思う心情なのであろう」


「ふむ」と俺は思案した。

 ギルルというのは、アイ=ファの父親たるギル=ファを偲んでつけられたものである。

 サリス・ラン=フォウの子であるアイム=フォウは、アイ=ファのように立派な狩人になれるように、という思いが込められている。


 ルウルウとファファなどは、言うまでもなく氏族の名前をもじったものだ。

 ジドゥラは……たしか、シムの言葉で「赤」という意味だ。羽毛の色合いが赤みがかっているので、そのように名づけられたのだろう。

 ルティム家のミム・チャーは、やはりシムの言葉で「明日」という意味であるらしい。恥ずかしながら、俺の名前を由来として、ダン=ルティムがそのように命名したのである。


 あとはライエルファムというのも、シムから伝わる古い言葉で「猛き猿の牙」とかそういう意味であったはずだ。黒猿を狩っていた頃の名残で、森辺にはそういう言葉が伝わっていたらしい。


 こうして考えてみると、やっぱり名前というものには、さまざまな意味や思いなどが込められているように思える。いよいよ俺の責任は重大であるようだった。


「あまり気負うな。いっそ、お前の故郷の流儀でつけてしまうというのはどうだ?」


「え? それでいいのかなあ?」


「かまうまい。お前はれっきとした森辺の民であるが、スン家のように罰として血の縁を絶たれたわけではないのだ。己の故郷を誇りに思う気持ちを捨てる必要はない」


「そうか。なるほどな」


 アイ=ファがそのように言ってくれるのならば、俺のほうにも異存はなかった。


「俺の故郷の流儀で、犬の名前をつけるとなると……まず思いつくのは、ポチかなあ」


「…………」


「あ、いや、見た目からしてポチって感じじゃないよな。今のは一例だから忘れてくれ」


「……忘れてよいのなら、幸いだ」


 どうやらポチという名前の響きはアイ=ファのお気に召さなかったらしい。

 ただ、なんとなくプレッシャーの度合いが高まってきた感がある。


「えーと、それじゃあ……タロスケとか、ムサシとか?」


「…………」


「いや、和風の名前はピンと来ないな。うーん……それじゃあ、リッキーとか、ベンとか……」


「…………」


「いやいや、やっぱり言葉の響きだけでつけるのって難しいぞ。何かしらの意味を込めてあげたいな」


「何でもかまわんが、あまり珍妙でないほうが嬉しく思うぞ」


「だから、どういう名前が珍妙に聞こえるのかが、俺にはよくわからないんだよ。えーと……毛の色が赤みがかってるから、レッドとか……身体が大きいから、ビッグとか……」


 しかしそれは、身体的特徴にすぎない。

 もうちょっと、こうあってほしい、という思いなどを込めるべきなのだろうか。


(親父や母さんたちだって、きっと色々と頭を悩ませたあげくに、明日太っていう名前をつけてくれたんだろうしな)


 俺は目を閉じて、熟考した。

 すると、ひとつの単語がぽっかりと頭に浮かんできた。


「ブレイブ、とかはどうだろう?」


 アイ=ファの眉が、ぴくりと動いた。


「……それには何か、意味などがあるのか?」


「ああ。たしか、『勇者』とか『勇敢な』とか、そういう意味だったと思う」


 元ネタは、映画マニアのクラスメートに無理やり押しつけられたDVDのタイトルである。ずいぶん昔に観た映画なので内容はうろ覚えであったが、たしかインディアンの登場する、なかなか陰惨な内容であったはずだ。


 その映画の内容はともかくとして、言葉の意味合いとしては猟犬にぴったりなのではないだろうか。

 そのように思ってアイ=ファを振り返ると、とてもやわらかい笑顔に迎えられることになった。


「いい名だな。それに決めることにしよう」


「うん、アイ=ファに気にいってもらえたなら何よりだよ」


 赤みがかった毛並みをした猟犬ブレイブは、いまだ自分が名づけられたことも知らずに眠りこけている。

 ファの家における、4番目の家族だ。今後はアイ=ファとともにブレイブも無事に帰ってこられるように、俺は毎日森に祈ることになるわけである。


(アイ=ファをよろしく頼むな、ブレイブ)


 そうして大役を果たした俺は、急激な睡魔に見舞われることになった。


「それじゃあ、そろそろ休もうか。色々あったから、今日は頭が疲れちまったよ」


「うむ? ブレイブを迎えた他にも、何かあったのか?」


「例の、モルン=ルティムの一件さ。俺が悩んだってしかたないけど、やっぱり色々と考えさせられちゃってな」


「ああ、その件か。……ようやくスフィラ=ザザの一件が片付いたところだというのに、せわしないことだな」


「うん。なんとか丸く収まってほしいもんだよ」


 俺たちは、寝具の準備をすることにした。

 といっても、雨季による寒冷は去ったので、敷布を広間に広げるだけのことだ。俺はアイ=ファの要請で、ブレイブのかたわらにそれを広げることになった。


「俺がこの位置でいいのか? てっきりアイ=ファはブレイブのそばで寝たがるかと思ってたのに」


「これでいいのだ。これならば、眠るまで全員の姿を目におさめることがかなう」


 そのように述べながら、アイ=ファは敷布の上で寝釈迦のような体勢を取った。その視線の先に、俺、ブレイブ、ギルルが順に並んでいる格好である。


 燭台の火は消されて、目の頼りになるのは月明かりだけだ。

 アイ=ファは新しい家族を迎えた喜びを噛みしめつつ、まだしばらくは眠る様子もなかった。


「……そういえば、アイ=ファに聞きたいことがあったんだけどさ」


「うむ、何だ?」


「ダレイム伯爵家の舞踏会で、アイ=ファはちょっと心配そうにスフィラ=ザザとレイリスの姿を見てたよな。ひょっとしたら、あのときにもうふたりの気持ちに気づいてたのか?」


 しばらくの沈黙の後、アイ=ファは静かな声で言った。


「確証はなかったが、そんなような空気を感じてはいた。まさか、あそこまでの騒ぎになろうとは予測できなかったがな」


「やっぱりそうだったのか。意外に鋭い眼力を持ってるんだな」


「意外とは何だ。私は狩人だぞ?」


「いや、色恋に関しての眼力まで持っているとは思わなかったんだよ」


 アイ=ファはわざわざ長い足をのばしてまで、俺の足を蹴ってきた。


 スフィラ=ザザやモルン=ルティムは、いったいどのような気持ちで眠りにつこうとしているのか。そんなことを考えるでもなしに考えながら、俺は睡魔に身をゆだねることにした。

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― 新着の感想 ―
[一言] 打ち沈むって珍しい感じの表現だね 日常的には使わない
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