雨季の終わり③~明るい明日へ~
2017.4/22 更新分 1/1 ・2017.6/26 誤字を修正 ・2018.4/29 一部表記を修正
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森辺を切り開く工事の完了が告げられたのは、それからさらに5日後のことだった。
日時としては、赤の月の25日のことである。
工事は赤の月いっぱいまでかかる予定であったが、それよりも5日ほど猶予を残しての完了であった。
何故に予定が早まったかというと、それはギバの襲撃で負傷者が出て以降、数十名ばかりも北の民が増員されたためであった。
もともと作業の進捗はやや遅れ気味であったため、テコ入れがされたということなのだろう。護衛役たる森辺の狩人に見守られながら、彼らは粛々と仕事をこなしていたのだった。
その護衛役の狩人は、当初の予定通り、赤の月の前半をラヴィッツの家が、後半をサウティの家が受け持つことになった。
その間に一度だけ、飢えたギバが接近してきたことがあったらしいが、それを察知したサウティの狩人たちの手によって、すみやかに撃退されたらしい。工事の現場にいた人々も、大半はギバが近づいてきていたことにすら気づいていなかったという話であった。
明けて翌日、赤の月の26日の休業日に、俺は完成した新たな道を見物させてもらうことにした。朝方であればアイ=ファも動けるので、最低限の仕事を片付けたのち、ギルルの荷車で駆けつけた次第である。
道は、当たり前のような顔をして、そこに長々と切り開かれていた。
森辺を南北に切り開かれた集落の道よりも、しっかりと道幅が取られている。どんなに大きな荷車でもすれ違えるように、それだけの広さが確保されているのだ。
道はやや湾曲しながら、西から東へとのびている。
その出発点は三叉路で、北に向かえば森辺の集落、西に向かえばダレイム領の南端の農村部、東に向かえばモルガのふもとの岩山地帯――そして、その果てには東の王国シムへと繋がるのだった。
「で、こっちの集落に繋がる道のほうには、柵だか何だかを作る予定なんだってよ。ま、旅人なんかが集落に迷い込んできたら、ややこしいことになっちまうしな」
そのように述べたのは、ルド=ルウであった。
早起きできていれば同行したいので、行きがけにルウの集落に寄ってくれ、と頼まれていたのだ。さらにはリミ=ルウとジザ=ルウ、そしてシュミラルとギラン=リリンまでもが顔をそろえていた。
「この道の果て、大陸の中央部、出ることができます。本来、シムからアブーフ、向かうとき、通る区域です」
「アブーフというのは、西の王国の町の名前か?」
ギラン=リリンが問いかけると、シュミラルは「はい」とうなずいた。
「アブーフ、西の王国で、北東の端、存在します。ジェノスからアブーフまで、ひと月かかります」
「ふむ。ジェノスからシムまではふた月ほどという話だったな。それがこの道を使うことによって、どれぐらい早められるものなのだろうか?」
「わかりません。でも、10日は確実です。また、苦しい砂漠の地帯、通らずに済みます。その分、野盗の危険、増えますが、宿場町、たくさんなので、過酷、ないと思います」
「へー、モルガの森のその向こうにも、まだ町なんてあったのか。シムまでは何にもねーのかと思ってたぜ」
そのように述べてから、ルド=ルウは「あれ?」と小首を傾げた。
「でもさっき、アブーフって町はセルヴァの北東の端にあるって言ってなかったか? それにジェノスだって、南東の端の町とか言われてるよな」
「はい、その通りです」
「だったらそれよりも東側にあるその町は誰のもんなんだ? セルヴァじゃなくってシムの連中が町を作ってんのか?」
「シム、セルヴァ、色々です。どちらにせよ、王国の民ではなく、自由開拓民の町です」
「西や東の民なのに、王国の民ではねーってのか? 何だか意味がわかんねーんだけど」
「自由開拓民、魂、四大神、捧げています。ですが、王国への忠誠、ありません。森辺の民も、かつて、そうだったではないですか?」
「それは、ジバ=ルウたち先人が『黒き森』という場所に住まっていた頃の話か。確かに『黒き森』というのはジャガルの領土であったらしいが、外部の連中とはいっさい交わりがなかったらしいな」
ギラン=リリンの言葉に、シュミラルはまた「はい」とうなずく。
「森辺の民、その時代、自由開拓民であったのでしょう。ですが、ジェノス、移り住み、王国の民、なりました。ジェノス、セルヴァの王、認められた、王国の町だからです」
「ふーん。だったらもっと別の場所に移り住んでれば、貴族なんかと関わらずに生きていくこともできたってわけか」
「はい。ですが、これほど豊かな森、王国の領土の他、存在しないと思います。ゆえに、モルガの森、選ばれたのでしょう」
『黒き森』を戦火で失った当時の森辺の民は、千名を超える数であったのだ。それだけの人々が狩猟で暮らしていける森など、確かにそうそう存在しないのだろうと思う。
それに森辺の民は、おそらく数百年単位で森の中に引きこもっていた一族であるのだ。よって、自分たちが自由開拓民と呼ばれる立場であったことも、まともには認識していなかったに違いない。それでは、王国の領土の外に新たな故郷を探すという発想に至るわけがなかった。
「モルガの山は古来より人間の立ち入りを禁じられた聖域であり、その麓のこの森辺には、凶暴なギバがあふれかえっていた。そうであるからこそ、これほど豊かな森でも切り開かれることがなかった、というわけか」
雨の中で静かにたたずんでいたジザ=ルウが、低い声でつぶやいた。
「確かに我々の先人は、狩人として生きていける地を探し求めていた。たとえ自由に生きていくことができたとしても、森のない場所を故郷と定める気持ちにはなれなかったのだろう」
「そりゃまあそうだよな。俺も別に、他の土地で生まれたかったわけじゃねーよ。……町や城の連中と関わるのも、そんなに悪いことばっかでもねーからさ」
そう言って、ルド=ルウはにっと白い歯をこぼした。
それには答えず、ジザ=ルウはシュミラルを振り返る。
「リリンの家のシュミラルよ、貴方は商人として大陸中を駆け巡っていたのだという話だったな。ならば、聞かせてほしいのだが――やはり、これだけの人数が住まうことのできる森というものは、王国の領土の外には存在しないのだろうか?」
「はい。豊かな森、すべて、いずれかの王国、支配されています」
「……では、貴族や王都の人間が気に入らないと言っても、もはや我々に移り住む場所は残されていない、ということだな」
その言葉には、ルド=ルウが反応した。
「まだジザ兄はモルガを捨てることとか考えてたのか? サイクレウスともめてた頃は、そんな話も出てたけどさ」
「それを最初に言いだしたのは、グラフ=ザザだ。俺はモルガを捨てることをよしとはしてない。……ただし、いずれ族長を継ぐ身として、世界の様子というものを正しく知っておく必要があると考えただけだ」
それはやっぱり、メルフリードたちの言う王都の視察団というものを気にかけているゆえの言葉であったのだろうか。
ジェノスの領主マルスタインとは、今のところうまくやっていくことができている。しかし、さらにその上の立場である王都の人間たちは、森辺の民のことをそっとしておいてくれるのか。俺としても、北の民に関わって以来、その一点はずっと気にかかっていた。
「ともあれ俺たちは、正しいと思う道を進むだけだ。あとは森が導いてくれよう」
「大丈夫だよ。これだけ楽しいんだから、正しい道を歩いてるに決まってるって」
ルド=ルウのそんな言葉を最後に、俺たちは道を引き返すことにした。
誰も通ることのない新たな道は、しとしとと降りそぼる雨の下で、白く煙っていた。
◇
その後も、俺はいくつかの追加事項をルウ家やフォウ家から聞かされることになった。
まずひとつは、新たに切り開かれた道も、しばらくは通行が禁止されているということだった。
モルガの森と岩山地帯を抜けた後も、しばらくは人跡まれなる荒野を進み、最初の宿場町までは丸一日もかかるのだそうだ。準備の足りない旅人では無事にそこまで辿り着けるかもわからないし、いきなり死者が出るような奇禍にでも見舞われれば、苦労をして道を開いたジェノスの面目が潰れてしまう。よって、ここは王都にまで出向いているシムの商団《黒の風切り羽》が戻ってくるのを待ち、彼らに栄誉ある最初の通行者になってもらおうという算段であるらしかった。
そもそも森辺に道を切り開いてみてはどうかと具体的に提案してきたのは、その《黒の風切り羽》の団長たるククルエルであったのだ。
彼らはシムでも有数の大きな商団であるため、安心して道を通らせることができる。そして彼らに「新たな行路が開かれた」と、シムの人々に伝えてもらうのだ。
そうしたら、ラダジッドたちも次回はこの道を辿ってジェノスへとやってくることになるだろう。
彼らはまだ、シムへと急いでいる道の半ばだ。そろそろ雨季の区域ぐらいは抜けているのだろうか。今後の彼らの旅が少しでも快適なものになるのなら、俺にとっても喜ばしい限りであった。
そして、集落の手前に作る柵の件である。
それをどのような造りにするかで、城下町からは色々な案が届けられたらしい。
しかし森辺の族長たちは、あまりその件に重きを置いてはいなかった。
いかに頑丈な柵をこしらえたとしても、ちょいと左右の森に足を踏み込めば、いくらでも集落に侵入することは可能なのである。もともと西側には農村部へと通ずる道が切り開かれていたわけであるし、人の出入りが法で禁じられているわけでもなかった。
よって、その件に重きを置いているのは、城下町の人々のほうであった。
何せ、森辺の集落のすぐそばに、道が切り開かれてしまったのである。この道が普通に使われるようになれば、誰かが悪戯心を出して、森辺の集落に侵入しないとも限らない。そんな事態に陥ったとき、危険なのは侵入者のほうかもしれないが、それで悶着が起きるのは誰しも回避したいところであろう。
それに、日中であれば狩人たちも森に入ってしまっている。女衆や幼子や老人しかいない時間帯に無法者などの侵入を許せば、それは一大事だ。
なおかつ同胞に危険が及べば、狩人たちがその報復を行うことになる。そんなことになったら、また森辺の民は世間の人々から恐れられることになってしまうだろう。
そういえば、かつてメルフリードも「森辺の民は無法ならぬ手段でその力を世に示す必要がある」と主張していた。
なまじ俺たちが宿場町での商売を始めて、森辺の民が凶悪な蛮族などではないということを知らしめたために、今度は町の人々の警戒心が薄れてしまうのではないか、と危惧したのだ。
以前の森辺の民は、町の人々にとって恐怖の対象であった。それゆえに、森辺の集落に忍び込もうなどという悪心を起こすこともなかったのだ。その恐怖心が減じられても、森辺の民にちょっかいを出すことは危険であると、知らしめる必要がある。そんな思いもあって、シン=ルウは闘技会への参加を呼びかけられたのだった。
それにまた、森辺の民には防犯の思想が希薄である、という面もある。
以前にマイムが驚いていた通り、森辺の家屋には鍵の設備も存在しないのだ。存在するのはかんぬきだけで、これもほとんど夜間にしか掛けられることはない。森辺には貧しいからといって他者の家の金品を盗もうとするような痴れ者は存在しないため、鍵など無用の長物であったのである。
そんなわけで、城下町からは家屋に錠前を設置する提案までもが為されていた。
せめて、切り開かれた道から一番近いサウティの眷族の家だけでも、試験的に錠前をつけてみてはどうかと提案されたのだ。そうすれば、集落に盗人が忍び込んでも、すごすごと引き下がる他ない。それに、味をしめて他の家を巡ろうとすることもなくなるだろう、というのが彼らの論旨であった。
今のところ、その件については保留ということにされている。
その他にも、柵の手前に衛兵の詰め所を作ろうだとか、集落への無断侵入そのものを罪とするべく法を改正しようだとか、とにかくまあ城下町では侃々諤々の騒ぎであるらしい。
「あの連中は、そんな苦労をしてまで森辺に道を切り開こうと考えたのだな。それでどれだけの富を得られるのかはわからんが、まったくご苦労なことだ」
三族長の会議の場にあって、ダリ=サウティはそのように述べていたらしい。それを俺に伝えてくれたのは、会議に同席したバードゥ=フォウであった。そのときの表情から察するに、バードゥ=フォウも同様の心情であったようである。
そしてその数日後には、俺も別の筋から城下町の話を聞くことになった。
話の出どころは、護民兵団の小隊長マルスである。ギバの襲撃によって負傷をした彼は、しばし休養の期間を与えられて、その間に俺たちの屋台へと立ち寄ってくれたのだった。
もちろんというか何というか、とっさには誰であるのかもわからなかった。衛兵の甲冑を脱いだ彼は、どこにでもいそうな西の民の姿で俺たちの前に姿を現したのだ。かろうじて、相手に名乗られる前に判別をつけられたのは、彼が雨具の下で右腕を吊っていたためであった。
「これはこれは、おひさしぶりです。お怪我のほうはいかがですか?」
「ふん。そのようなことは、見ればわかるだろう。右の腕がぽっきり折れてしまったので、しばらくはお役御免となってしまったのだ」
それでも彼は小隊長という身分であったので、なんとか恩給をもらえているし、怪我が治ればすぐに復職できるのだという話であった。もっと手ひどい傷を負った人々の何名かは、衛兵の職を辞する羽目になってしまったのだそうだ。
「それでも懲りずに、森辺に詰め所を作ろうだなどと画策しているようだからな。あんな危険な場所に留まりたいと思う人間などいるものか」
「そうですね。くれぐれも危険なことにならないように取り計らってもらいたいものです」
「……さらに城の連中は、モルガの森を越えたところに、新たな宿場町を作ろうと画策しているらしいぞ。まったく、その貪欲さには呆れさせられる」
俺も、大いに驚かされることになった。そんな素っ頓狂な話は、完全に初耳であったのである。
「あ、新たな宿場町というのはどういうことですか? モルガの森を越えたところというと……当然、岩山の地帯も越えたところ、という意味ですよね?」
「ああ。モルガを越えてから自由開拓民の宿場町まで辿り着くのには、まるまる一日もかかるという話だからな。その間に町を築けば、旅人で賑わうという計算なのだろう。すでにあちらには、水脈や田畑にできそうな土地を探す人間が差し向けられているそうだ」
「それはまた……道の次は、町ですか。本当に途方もないお話ですね」
「そうだろう。もともとあのモルガの山というものも名目上はセルヴァの領土であったが、さらにその先まで領土を広げようという考えであるのだ。実現すれば、世界中で地図が描きかえられる騒ぎになってしまうだろうな」
そこまでいくと、俺にとってもキャパオーバーな話題でしかなかった。森辺の族長たちだって、「知ったことか」と肩をすくめるしかないだろう。
「まあ、俺たち下々の人間には関係のないことだ。何かとばっちりを受けそうになったら、そのときに思い悩むしかなかろう」
「……俺たち下々の人間、ですか」
「何だ、貴族とご縁のあるお前はもっと上等な身分だとでも言いたいのか?」
「いえ、まさか。……西の民であるあなたが森辺の民を同等の存在と見なしていることに驚かされただけです」
するとマルスは小石でも呑み込んだように顔をしかめてしまった。
「人の言葉尻をつかまえて、いらぬことを言うな。……それではな。せいぜい元気に銅貨を稼ぐがいい」
「え? 何か食べていかれないのですか?」
「……どうして俺が、お前の懐を潤わせてやらねばならんのだ?」
「いえ、わざわざ足を向けてくださったのは、食事をされるついでであったのかと……早とちりであったのなら、すみません」
マルスは、いっそう仏頂面になってしまう。
「俺はただ、ひまを持てあまして散策していただけだ。これまでだって、お前たちの店で料理を買ったことなどなかろうが?」
「はい。これまではいつもお仕事中でしたしね。もしも食事がこれからなのでしたら、おひとついかがですか?」
マルスはますます仏頂面になってしまった。
しかしそのまま立ち去ろうとはせず、ずらりと並んだ屋台の様相を迷うように見回している。
「よかったら、味見をしてみてください。えーと、汁物の料理なんていかがでしょう? こんな寒い日には、身体があったまりますよ」
俺が担当している日替わりメニューの屋台は『ギバの揚げ焼き』であったので、作り置きをしていない。ということで、俺は店番をトゥール=ディンに託し、マルスと一緒に『トライプのクリームシチュー』の屋台へと移動することにした。
「おい、俺は食べるなどとは一言も言っておらんぞ? 今は恩給暮らしで、懐もさびしいのだからな」
「うちの料理も、そこまで割高なわけではありませんよ。味見には銅貨もかかりませんし、どうぞお願いいたします」
そうしてマルスを引っ張っていくと、店番をしていたのはリミ=ルウであった。
「あれ? 今日はリミ=ルウだったんだね」
「うん! モルン=ルティムと交代でやってるの! ……あ、あなたはサウティの集落で会った人だね! 怪我は大丈夫?」
どうやらリミ=ルウはマルスの顔を見覚えていたらしい。なおかつリミ=ルウはとても印象的な容姿であるので、マルスのほうも見忘れることはなかった。
「ああ、あのときの娘か。……お前とお前の兄には、ずいぶん世話になってしまったな」
「リミはルドのお手伝いをしてただけだよー。歩けるぐらい元気ならよかったね!」
小雨の降る中、リミ=ルウの笑顔はおひさまのように温かかった。
「リミ=ルウ、よかったらこちらのマルスに味見をさせてもらえないかな?」
「味見? なんだかすっごくひさしぶりだね! それじゃあ、お肉もおまけしてあげるねー」
リミ=ルウはにこにこと笑いながら、木皿に少量のシチューを取り分けてくれた。宣言通り、ギバのバラ肉がひとかけら入っている。
それに木匙を添えながら、リミ=ルウは「はいどうぞ」と台の上に置いた。
うろんげな顔をしていたマルスはしかたなさそうに木匙を取り、オレンジ色のシチューとともにギバ肉のかけらを口の中に運んで――そうして、「むぐ」とおかしな声をあげた。
「……これがギバ肉の料理か」
「うん、美味しいでしょー? おなかいっぱい食べたいなら赤銅貨3枚で、その半分なら赤銅貨1枚と半分ね! 半分だとこれぐらいの量で、あとはフワノの生地が1枚つくの」
そのように説明しながら、リミ=ルウは新たな木皿にレードル一杯分のシチューを注いだ。マルスは、ごくりと咽喉を鳴らす。
「そ、それでは、赤銅貨3枚分を……」
「しちゅーだけでいいの? しちゅーは半分にして、別の料理を買うお客さんが多いんだけど」
「し、しかし俺には、何が何やらわからんし……」
「隣で売ってるのはぎばばーがーで、とってもやわらかいお肉だよ! アスタのほうで売ってるのは、ぎばかれーとぎばまんと揚げ焼きだね! ぎばかれー以外なら、どれでもしちゅーにあうんじゃないかなあ?」
マルスは困惑気味に視線をさまよわせた。
その過程で俺と目があってしまい、雨具の下で顔を赤くする。
「な、何だその目は! どこで何を食べようが、俺の勝手だろうが?」
「はい。お買い上げありがとうございます」
そうしてマルスは、ついにギバの料理を購入する段と相成ったのだった。
彼と初めて顔をあわせたのは、たしか俺がリフレイアにさらわれた日のことである。そのときにはまだ名前も身分も知らなかったが、すでに9ヶ月ぐらいは経過しているはずだ。
これまで頑なにギバの料理を避けていたマルスが、ついにそれを口にすることになった。うがった見方をすれば、これもまた雨季のもたらした運命の悪戯なのかもしれなかった。
◇
それからさらに日が過ぎて、赤の月の30日である。
その日は朝から、不安定な空模様だった。灰色の雲が割れて青空が見えたかと思うと、強めの雨がざあっと降ってくる。そして、またどんよりと暗雲が垂れこめて、しとしとと陰気な霧雨が降りそぼり――さらに数時間後にはまた青空が覗くという、その繰り返しであった。
どうやらこれが、雨季の終わりに近づいた合図であったらしい。
確かに、スコールのように強くて短い雨というのは、普段のジェノスに見られる天候であったのだ。
そしてこの数日で、じわじわと気温が上がってきているような気がする。火を扱っているときは長袖の上着が邪魔になるほどであり、アイ=ファも屋内ではロングの腰巻きを巻かないようになっていた。
「ついに雨季が終わるんだな。本当に、あっという間の2ヶ月間だったよ」
その日の晩餐を終えた後、就寝前のおしゃべりタイムで、俺はそのように言ってみせた。ドーラ家では気が早いとたしなめられてしまったが、これならばアイ=ファのほうにも異論はないだろう。
髪をほどいて壁にもたれたアイ=ファは、寝具の上で「うむ」とうなずいている。
「明日からは朱の月であるからな。まだしばらくは不安定な日が続きそうだが、終わりが目前に迫っているということに間違いはあるまい」
「トライプやオンダなんかも、もうすぐ食べおさめか。まあ、半月ぐらいはまだ在庫分が出回るみたいだけどな」
「タラパやティノが出回れば、不満な気持ちにもならぬだろう。アスタたちのおかげで、雨季の間も不満な気持ちになることはなかったがな」
今日もアイ=ファは、穏やかであった。病魔明けには意識的に厳格な態度を取っていたものであるが、ほどよく緩和されて元のアイ=ファに戻った感じだ。それもまた、雨季の終わりを告げる兆候のように感じられてしまった。
「これで朱の月が終わったら、いよいよ黄の月か。正真証銘、俺が森辺に来てから一年が経つんだな」
また気が早いと言われてしまうかな、と思いつつ、俺はそのように言ってみせる。
すると、穏やかであったアイ=ファの面に、ほんのわずかだけ陰が差したような気がした。
「どうしたんだ? 何か心配事でもあるのか?」
「いや……ドーラの家で、私が話を途中で取りやめたことを覚えているか?」
「ああ、もちろん。あんまり普段のアイ=ファは見せない態度だったからな」
「うむ……いまだ赤の月も終わってはおらぬのだから、時期尚早なのやもしれぬが……心に溜めておくのは落ち着かないので、そろそろ口に出してもかまわぬだろうか?」
「何だ、そういうことなら遠慮なんていらなかったのに。ますますアイ=ファらしくないじゃないか。いったいどういった話なんだ?」
隣の寝具であぐらをかいていた俺は、座ったままアイ=ファのほうに向きなおってみせた。
アイ=ファはアイ=ファで壁から背を離し、やはり俺のほうに向きなおってくる。ただし、両膝をそろえてぴしりと背筋をのばしているのが、いささかアイ=ファらしくなかった。
「なんだか、あらたまった感じだな。別に悪い話ではないんだろう?」
「うむ。悪い話ではない……はずだ。私にも、今ひとつ判別がつかないのだが」
「ますます気になるな。どんな話でも受け止めるから、遠慮なく話してくれ」
「うむ……それは、お前の生誕の日にまつわる話であるのだが……その日、お前は誰かを招こうという心づもりであるのか?」
俺は、小首を傾げることになった。
「そんな予定はまったくなかったけど、でも、どうしてそんなことを気にするんだ?」
「それは……お前のように人望のある人間であれば、その生誕の日を祝いたいと願う人間も少なからず存在するであろうと思ったからだ。ルウやルティム、レイやリリン、それに近在の氏族の者たちだって、そのように考えるのではないだろうか?」
「そうなのかなあ。でも、生誕の日っていうのは本来、家人だけで祝うものなんだろう?」
「しかし私の生誕の日にはリミ=ルウたちを客人として招いたし、収穫祭などは近在の氏族が集まって祝うことになった。べつだんそうすることは禁忌ではないのだから、どのような話になっても不思議はあるまい」
それは確かに、その通りなのだろう。
だけど俺には、いまひとつアイ=ファの言わんとすることがわからなかった。
「まあ何にせよ、そういうありがたい申し出は受けていないよ。だいたい、生誕の日はまだふた月も先の話だしな」
「……では、残されたふた月でそのように願われることもありうる、ということか?」
「それはわからないよ。そもそも黄の月の24日を俺の生誕の日に定めたってことは、まだ数人ぐらいしか知らないはずだし」
アイ=ファは何かを思い悩むように目を伏せた。
俺は身を屈めてその顔を覗き込む。
「で? けっきょくアイ=ファは、何が言いたいのかな?」
「うむ……私は、その……できうれば、その日はファの家人だけで祝いたいと願っているのだが……」
「あ、そうなのか。それは嬉しいな」
反射的にそう答えると、アイ=ファがぐぐっと顔を近づけてきた。
「嬉しいと言ったな。それは本心か?」
「そ、そりゃそうだろう。嘘をついてどうするんだよ」
「うむ。虚言は罪であるからな。……そうか、お前自身もそのように思ってくれるのか……」
そうしてアイ=ファはまぶたを閉ざすと、ふうっと大きく息をついた。
そこはかとない幸福感を噛みしめながら、俺は「どうしたんだよ」と笑ってみせる。
「まさか、そのことをずっと気にかけてたのか? 生誕の日に誰かをお招きするつもりはなかったし、アイ=ファがふたりで過ごしたいと思ってくれているなら、そりゃ嬉しいよ」
「しかし私は、リミ=ルウたちのおかげでまたとない幸福な時間を過ごすことができた。しかも、私をそのような道に導いてくれたのはアスタに他ならない。ならば、お前が自分の生誕の日に客人を招きたいと言い出しても、文句を言うわけにはいかぬではないか」
「いいんじゃないか? 家長なんだから、好きなだけ文句を言えばいい」
「そんな家人の気持ちを踏みにじるような真似が許されるものか。……だから、お前もそうしたいと願ってくれるのならば、とても嬉しいのだ」
と、いきなりアイ=ファは微笑をたたえた。
それこそ、暗雲から覗く青空と太陽のように晴れがましい笑顔であった。
「特にこのたびは、アスタが森辺で迎える初めての生誕の日であり、そして、私たちが初めて顔をあわせた記念の日であったからな。どうしても、ふたりきりで過ごしたいという気持ちを止めることができなかったのだ」
「……そんな風に思ってくれているなら、俺のほうこそ嬉しいよ」
「いや、きっと私のほうが嬉しいぞ?」
そのように述べながら、アイ=ファはわずかに首を傾げた。
その面には、まだ微笑をたたえたままである。
それは家長としての厳格な態度を一時的に放り捨てて、いっさいの遠慮なく甘えているような仕草に見えてしまい――要するに、とてつもなく可愛らしかった。
「それでは、誰かがこの先そのような申し入れをしてきても、アスタの側にそれを受け入れる気持ちはない、と思っていいのだろうか?」
「う、うん。そう思ってくれてかまわないよ」
「そうか」とアイ=ファは口もとに手をやって、また微笑んだ。
挙動がいちいち女の子めいていて、俺の心臓はもう大変である。
「嬉しいな。嬉しく思うぞ、アスタよ」
「あ、ああ。こちらこそ、ありがとう」
「その日の晩餐の準備は私が受け持つので、お前は一日。ゆるりと過ごすがいい」
「え?」と今度は俺が首を傾げることになった。
アイ=ファは同じ表情で微笑んだままである。
「祝いの料理を本人が作っては意味があるまい。その日ばかりは、私がかまどに立って、祝いの料理をこしらえるべきなのだ」
「え、えーと、ここ数ヶ月、アイ=ファが調理に関わったことはあったっけ?」
「そのようなことは、お前だって同じぐらいわきまえているであろうが?」
ならば、答えはノーであるはずだった。太陽神の復活祭の折、アイ=ファに屋台の店番を短時間だけおまかせしたことがあったかな、というぐらいのものである。
「あ、あまり無理はしないでくれよな? 俺が自分で料理を作ったって、禁忌に触れることにはならないんだろうし」
「禁忌かどうかは問題ではない。私が、そのように望んでいるのだ。……もちろん、アスタの作る料理とは比較にもならぬほどの不出来な出来栄えであろうがな」
そのように宣言しつつ、アイ=ファはまだ幸福そうに微笑んでいる。
「しかし、大事な家人のために祝いの料理をこしらえるというのも、私には長らくかなわなかった行いだ。それも含めて、嬉しく思っている」
「そうか」と応じながら、俺は胸中の不安感がちりぢりになっていくのを感じていた。
どれほど不出来になってしまったとしても、アイ=ファが俺のために料理を作りたいと願ってくれているのである。その幸福感は、野暮な不安感を駆逐してあまりあるほどであった。
「そいつは、心から楽しみだな。ふた月後が楽しみだよ」
「ふた月後か。やはり、いささか話すのが早すぎたような気もしてしまうが……しかし、話してよかったと考えている」
燭台の火だけが頼りの暗がりの中で、俺たちは静かに微笑みあった。
そうして赤の月は、雨季とともに終わりを告げて――俺たちは、再び賑やかで騒がしい日々を迎えることになったのだった。




