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異世界料理道  作者: EDA
第二十五章 モルガの御山洗(上)
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復帰の日③~日常の喜び~

2017.3/8 更新分 1/1 ・2019.7/28 一部文章を修正。誤字を修正。

 ルウの家からファの家に戻った後は、明日のための下ごしらえである。

 かまどの間では、すでに9名もの女衆が待ち受けていた。

 その内訳は、宿場町での商売に参加していたマトゥアとミームの女衆、リリ=ラヴィッツ、そして、フォウとランとリッドから2名ずつ、というものである。


 それで俺のほうにはトゥール=ディンとユン=スドラがいるのだから、総勢では12名にもなってしまう。それでも何とか不自由なく作業ができるぐらい、この新設されたかまどの間は立派なものであったのだった。


「お疲れさま、アスタ。香草はあらかた粉にしておいたからね」


「はい、ありがとうございます」


 かまどの間は、カレーの素を作るための香草の香りで満ちている。ポイタン不足でパスタが提供できない分、カレーの素の下準備は雨季の前と変わらぬペースで継続する必要があったのだ。


 俺がこまかい指示を送るまでもなく、女衆はてきぱきと動いて次の作業の準備を始めている。俺が不在でも過不足なく仕事を仕上げられるぐらい、作業工程は確立されているのだ。何名かは不慣れなかまど番がまじっていても、手馴れたかまど番がそれをフォローして、次々と仕事を片付けてくれていった。


「……最近、ラヴィッツのほうはいかがですか?」


 肉の切り分けをユン=スドラに指導するかたわら、俺がそのように呼びかけると、カロン乳の攪拌作業に取りかかっていたリリ=ラヴィッツは「はあ」と短い首を傾げた。


「これといって、大きな変化はございません。雨季のために、ギバの収穫が落ちたぐらいでしょうか」


 リリ=ラヴィッツは、これまで下準備の仕事には参加していなかった。しかし、雨季が近づいて家の仕事にゆとりができると、こうして自分が当番の日のみ、参加するようになったのだった。


 ラヴィッツではごく限られた食材しか購入されていないのだから、この場で得た知識を活用する機会もあまりないことだろう。それでも、ファの家の行いに否定的な見解であるデイ=ラヴィッツが伴侶にこの仕事を申しつけてくれたのは、俺にとって喜ばしい変化であった。


 また、デイ=ラヴィッツは猟犬についても大きな関心を寄せている。ルウの家で猟犬が有用と判断されれば、雨季が明けてすぐに購入のための段取りが整えられるはずだ。そうしてラヴィッツでもギバの捕獲量が上がり、今よりもさまざまな食材を扱えるようになればいいな、と俺はひそかに考えていた。


「あ、そうだ。こうしてアスタも元気を取り戻したことだし、例の話をそろそろ進めてみちゃあどうだろうね、ユン=スドラ?」


 そんな風に声をあげたのは、フォウの年配の女衆だった。

 ユン=スドラは手もとに視線を落としたまま、「そうですね」と静かに応じる。


「でも、わたしは何も口出しする立場ではありませんので……家長の判断を待ちたいと思います」


「ええ? だけどあんたこそ、立派な当事者じゃないか。あんたたちを家に招く日を、あたしらは楽しみにしてるんだけどねえ」


 俺がきょとんとしていると、別の側からランの女衆が笑いかけてきた。


「実は、フォウとランとスドラで、それぞれ晩餐の会を開こうと考えているんだよ。おたがいの家の若い娘を相手の家に送り出して、若い男衆と引きあわせようっていう話なのさ」


「ああ……そうだったんですか」


 言うまでもなく、それはお見合いに該当する話なのだろう。

 ユン=スドラは、無言で肉を切り分けている。


「とりあえず、スドラは家人の数そのものが少ないだろう? だから、男衆を余所の家に引っ張るのは難しいかなって考えたんだよ」


「だから、スドラの女衆をフォウかランに嫁入りさせて、こっちからも女衆をスドラに嫁入りさせることができれば、家人の数は減らさずに済むじゃないか?」


「狩人よりは、女衆のほうが余所の家の流儀にも合わせやすいからね! そうしてひとまず眷族になれたら、男衆も一緒に狩りの仕事をして、おたがいの流儀を学べば面倒も少ないだろう? だからとにかく、まずはおたがいに嫁入りができないもんか確かめてみようって話になったんだよ」


 それで、スドラに未婚の女衆は2名しかいないため、わずか15歳のユン=スドラもそのメンバーに選ばれてしまったというわけだ。

 事前にそういった話は聞かされていたものの、やっぱりユン=スドラの心情を思いやると、俺はいたたまれない気持ちになってしまった。


「まあ、どうしても気に入る男衆がいなけりゃ、スドラに嫁入りさせるだけでもかまいやしないさ。そうすりゃ、あたしらはもう立派な眷族なんだからね!」


「あの、弓の的あてで勇者になったチム=スドラなんかもまだ伴侶はないんだよね? なりは小さいけど狩人としては立派だし、それになかなか可愛い顔もしているから、あれなら喜んで嫁入りを願う娘もいるだろうさ!」


 フォウやランの女衆は、実に楽しそうな笑顔である。先細りであったフォウの家が新たな眷族を得るというのは、きっとたいそう幸福なことなのだろう。

 どの氏族だって、俺にとってはかけがえのない同胞だ。全員が満足できる形で話が進むよう、こっそり胸の中で森に祈る他なかった。


 そんな中、やはり笑顔でこの話を聞いていたリッドの女衆が、「あっ!」と声をあげる。


「日が出たよ! アスタ、ポイタンやピコの葉は隣の部屋かい?」


「はい。食料庫にすべて準備されています」


 火を扱っていなかった女衆は、全員が先を争うようにかまどの間を飛び出していった。雨季において、太陽を見られる時間はごくわずかだ。日々消耗していくポイタンやピコの葉は、その貴重な日差しを使って干さなければならないのだった。


 俺とユン=スドラも、きりのいいところまで肉の切り分けを片付けてから、みんなの後を追う。見上げると、灰色の雲は薄く広がり、その向こうから白っぽい日差しがふんわりとした質感で地上に降りそそがれていた。


 女衆は子供のようにはしゃぎながら、敷物の上にピコの葉を広げていく。ポイタンも、手に入る分はすべて煮詰めてあったので、それも木箱ごと日当たりのいい場所に設置されることになった。


「かまどのそばに置いておけば、水気を飛ばすことはできるけどさ。やっぱり、おひさまに当ててやらないとね!」


「今ごろは家の連中も大あわてだろうねえ。夕暮れが近いけど、いい日差しじゃないか」


 確かに、日が出るだけで体感温度すらもが格段に変じたようだった。頬や手の甲にやわらかい日差しを当てられて、大いなる存在に優しく抱きすくめられているかのような心地である。

 俺は、格子のはまった窓からかまどの間に居残っている女衆へと呼びかけた。


「そちらも一段落したら、少し休憩にしましょう。せっかくだから、俺たちも太陽神の恵みを受け取っておかないと」


「はい。かれーのもとも煮詰まってきたところなので、ちょうどよかったですね」


 そうして数分もすると、鉄鍋を抱えたトゥール=ディンと3名の女衆も外に出てきた。カレーの素も、最終的には干し固めなければならないのだ。


 俺たちは、しばし太陽神の恵みを満喫した。これもまた、雨季のもたらすささやかな喜びであった。


 それから、どれぐらいの時間が過ぎたのか――思い思いにくつろいでいた俺たちのもとに、荷車の走る音色が届けられてきた。

 やがて茂みの陰から姿を現したのは、2頭引きの巨大な荷車である。その手綱を握るのは、革のフードつきマントをかぶった東の民であった。


「ようこそ、ファの家に。早かったですね、《銀の壺》のみなさん」


「はい。仕事、思ったより早く、片付きました。狩人、シュミラル、まだ戻っていない、思って、ファの家、最初、訪れました」


 名前を知らない若めの東の民が、そのように述べながら御者台を下りる。それから、8名の東の民が、荷台からぞろぞろと姿を現した。

 その中で、ひときわ長身の人物が、俺の前に進み出てくる。


「アスタ、挨拶、参りました。雨、やんで、何よりです」


「ええ、本当に。……雨季の期間に長旅をするのは大変そうですね?」


「問題、ありません。しばらく進めば、雨季、関係ない土地、入ります」


 そのように述べてから、ラダジッドはフードをはねのけた。


「屋台、手伝う女衆、たくさんですね。……みなさん、このひと月、ありがとうございました。私たち、美味なる食事、幸福な時間、得ることができました」


「わたしたちには見分けがつかないのですけれど、毎日来てくれていた東の民のお客ですね? そのように言っていただけると、わたしたちも嬉しいです」


「わたしたちなんて、少し前から参加しているだけの新参者ですが」


 ミームとマトゥアの女衆が、はにかむように笑っている。

 そのやりとりを見届けてから、「少々お待ちくださいね」と俺は食料庫に向かう。一緒についてきてくれたユン=スドラに協力してもらい、俺は彼らのための餞別の品を屋外に引っ張り出した。


「ラダジッド、こちらが俺からの贈り物です」


 俺とユン=スドラがふたりがかりで抱えているのは、何のへんてつもない木箱だ。ただその大きさに、ラダジッドは軽く目を見開いていた。


「こちら、干し肉ですか? ずいぶん、たくさんです」


「いえ、実は干し肉の他にももうひと品……こちらの鉄鍋で干されているものの原材料、カレー用のスパイスが詰め込まれています」


「かれーようのすぱいす」とラダジッドはさらに目を見開く。


「各種の香草を配合して、乾煎りしたものですね。俺たちは、これをアリアや乳脂と一緒に炒めることで、カレーの素を作っています。とりあえず、汁物料理や煮物の料理、あとは炒め物なんかでも、こちらのスパイスを投じるだけで、カレー風味の料理に仕上げられるはずですよ」


「しかし……シムの香草、ジェノス、貴重ではないですか?」


「でも、シュミラルやラダジッドたちの身近な人たちにも、ぜひ味わっていただきたいのです。それで、今度ジェノスを訪れるときに感想でも聞かせていただけたら、それで十分です」


「しかし……」


「あ、あと、またたくさんの香草をジェノスに運んできてくださいね。シムの香草なくしては作れない料理なのですから。どうぞよろしくお願いいたします」


 ラダジッドは小さく息をついてから、ひとりでその木箱を受け取った。

 すかさず他の団員が駆け寄ってきて、うやうやしくも見える仕草でそれを受け取る。


「アスタ、お気遣い、恐縮です」


「いえ。毎日屋台まで食べに来てくださったお礼と――それに、シュミラルという共通の同胞を持つラダジッドたちに対する、友好の証とでも思ってください。お返しなどは不要ですので」


「そういうわけ、参りません」


 ラダジッドが目配せをすると、また別の若者が平たい木箱を手に近づいてきた。

 それがラダジッドに受け渡され、ラダジッドは俺のほうに差し出してくる。


「こちら、我々から、贈り物です」


「あ、いえ、このようものをいただくわけには――」


「私たち、受け取りました」


 ここはきっと、日本人的な謙虚さを発揮する場面ではないのだろう。

 俺は「ありがとうございます」と頭を下げてから、素直にそれを受け取ることにした。


 なかなかの重量である。30センチ四方の平たい木箱で、厚みは12、3センチほどだ。


「売れ残り、なってしまいましたが、質が悪い、わけではありません」


「ありがとうございます。……開けてみてもよろしいですか?」


 ラダジッドがうなずいたので、俺はユン=スドラに下側を支えてもらい、木箱の蓋を取り去ってみた。

 とたんに、頭上からの日差しが乱反射する。

 それは大きな、硝子の皿であった。


 一面にびっしりとこまかいカットが入っており、まるで宝石のようなきらめきである。横から覗き込んでいたユン=スドラや他の女衆も「わあ」と華やいだ声をあげた。


「こ、これはずいぶん値の張る品なのではないですか? 値段のことなど口にするのは無粋かもしれませんが……」


「問題、ありません。こちら、友好の証、だけでなく、アスタに願い事、その代価です」


「俺に、願い事ですか?」


「はい。……シュミラル、見守ること、お願いいたします」


 ラダジッドは長身を折って、深々と礼をしてきた。

 8名の団員たちも、それぞれ頭を下げている。


「シュミラル、運命、シュミラルのものです。アスタ、力を貸す必要、ありません。……ただ、見守ってほしいのです。私たち、見守ること、できないので、アスタ、お願いいたします。シュミラル、運命、お見守りください」


「……わかりました。この素晴らしい贈り物と、俺自身の名にかけて、それを果たすとお約束します」


「ありがとうございます」と言ってから、ラダジッドはゆっくりと面を上げる。

 その顔には、やっぱり何の表情も浮かべられていなかったが――それでもその黒い瞳には、シュミラルに対する懸念の光と、そして俺に対する信頼の光が灯っているように感じられてならなかった。


                 ◇


 夜である。

 燭台の光の下で晩餐を食しながら、俺は広間に飾られた硝子の皿の由来について、アイ=ファに語ってみせた。


「なるほどな。シュミラルとあの者たちは、確かに血の縁にも等しい絆を持った同胞なのだろう」


 アイ=ファは厳粛きわまりない声音でそう言った。

 最初にこの硝子の皿を見せたときには子供のようにはしゃいでしまっていたので、その分の威厳を取り戻さねばとでも考えているのだろうか。アイ=ファは美しい硝子細工の品が大好きであるのだ。


「そして、あの者たちが再びジェノスを訪れた際は、シュミラルも半年ほど森辺を離れることになるのだな? ……それまでに、シュミラルがリリンの氏を授かることはできるのか、ルウ家に婿入りすることは許されるのか、アスタがその目で見守ってやるといい」


「うん、そのつもりだよ」


 昼間に見たヴィナ=ルウの涙と笑顔を思いだしながら、俺はそのように答えてみせた。

 その間にも、晩餐の料理は見る見る間に減じていく。本日のメニューは、タラパソースで仕上げたロースのソテーと、ギバ肉を使ったクリームシチュー、ピーマンのごときプラで挽き肉を包んだ副菜に、そして生野菜のサラダであった。


 タラパとプラは、本日でしばし食べおさめとなるのだ。金ゴマに似たホボイの実をすりつぶしてこしらえた特製ドレッシングのかけられたサラダにも、キャベツのごときティノをたっぷりと使っている。


 それらの料理を口にするアイ=ファの姿を眺めているだけで、俺の胸にはふつふつと幸福感がこみあげてきてしまう。もう晩餐を作る仕事を再開させてから数日は経っているのに、その感覚はいっこうにやわらぐ気配がなかった。


「……北の民に教えたのも、たしかこのカロンの乳を使ったしちゅーであったな?」


「うん。ただ、そっちでもこっちでも、本当はもっとじっくり出汁をとりたいところなんだよな。キミュスの骨ガラを半日ばかりも煮込むことができたら、もっと深みのある味にできると思うんだけど」


 銅貨を払えば、それを近在の女衆に依頼することはできる。が、日常の晩餐を作製するのに人を雇うというのは気が引けるし、かなうことなら、アイ=ファのための食事は自分ひとりで手がけたいという思いもあった。


「あ、そうだ。そういえばアイ=ファに相談があったんだよ。町で煉瓦を買いたいんだけど、許してもらえるかな?」


「煉瓦? というのは――城下町の家などで使われている、あれか?」


「うん、そうだよ。それで森辺に石窯というものを作ってみたいんだ。雨季の間は石や粘土を集めるのも大変そうだから、手っ取り早く煉瓦を買わせてもらおうかと思ったんだけど、どうだろう?」


「もちろんお前の判断に任せるが、雨季が明けるまでも待ちきれぬのか?」


 甘辛く仕上げたプラ巻きの挽き肉に手をのばしながら、アイ=ファが少し不思議そうに問うてくる。


「うん、石窯っていうのは前々から興味があったものだし……それに、北の民のためにも、雨季が明ける前に作業手順を完成させたいんだ」


「……北の民のために?」


「ああ。今は彼らもフワノを与えられているけれど、雨季が明けたらまたポイタンに戻されるはずだろう? で、ポイタンってのは水でこねてもフワノみたいに固まりにくいから、焼きあげるのが少し手間なんだよ。それで、大きな石窯があれば一気にたくさんのポイタンを焼きあげられるんじゃないかと思ってさ」


「ふむ……」


「フワノだったら、今みたいに蒸したり、あとはワンタンみたいに茹でることもできるんだけど、やっぱりポイタンは扱いが難しいからさ。あの、トゥール=ディンたちが俺に作ってくれたみたいに、美味しいポイタン汁ってものを追求していく道もあるけれど、だけどやっぱり焼いて食べたほうが腹にもたまるし、汁物よりは美味しく仕上げられると思うんだよな」


「…………」


「大きな皿に水で溶いたポイタンを敷きつめて、それを石窯で焼くことができれば、それほどの労力もなくたくさんの焼きポイタンを仕上げることができると思うんだよ。少なくとも、鉄板なんかを買いそろえるよりは、煉瓦で石窯を作るほうが安く済むだろうし。それだったら、北の民が普段使っているかまどの間に、自分たちで石窯を作ってもらえれば、雨季が明けた後も美味しい食事を食べ続けることができるんじゃないかと考えたんだ」


 アイ=ファは手に持っていた木皿を敷物の上に置き、俺の姿をじっと見つめてきた。

 その真剣な眼差しに、俺はいくぶん焦ってしまう。


「もちろん、北の民に関してはあまり口出しをするなっていうメルフリードの言葉を忘れたわけじゃないよ。でも、ポルアースは個人間なら忌憚なく意見を述べてほしいって言ってたし、メルフリードだって、食事に関しては森辺の民にまた知恵を借りるかもしれないって言ってくれてたし……」


「そのような話は、べつだん気にしていなかった。ただ、病魔のせいで口にすることになったポイタン汁のことまで今後に活かそうと考えているのかと、感心させられただけだ」


 アイ=ファは厳粛きわまりない顔つきのまま、そう言った。


「身体のほうはまだ七分ていどの回復であろうが、心や気持ちはすっかり元の力を取り戻せたようだな。家長として、とても喜ばしく思っているぞ、アスタよ」


「そ、そうか。でも、アイ=ファも仕事を再開させるなり、すごい収穫だったよな」


 アイ=ファは本日、八十キロ級のギバを担いで帰り、しかも、もう1頭分の牙と角まで持ち帰ってきたのだ。雨の中で飢えたギバと出くわし、肉も毛皮も使い物にならないぐらい、激しい戦いになってしまったのだという話であった。


「10日以上も休んでいたのだから、これではまだまだ足りていまい。明日からもいっそうの力で狩人の仕事に励むと誓ってみせよう」


「すごいなあ。こっちは閑散期だから、あまり頑張りようがないんだよな」


「そんなことはあるまい。そうしてお前はさまざまなことを考えながら仕事を進めようとしているではないか」


 シチューの残りをかき込んでから、アイ=ファは静かにそう言った。


「私はお前を誇らしく思っている。……そして、こうしてまたアスタの料理を食べることができるようになり、心から嬉しく思っている」


「うん。俺もアイ=ファに自分の料理を食べてもらえる幸福感を噛みしめているよ」


 反射的に、俺は口もとをほころばせてしまった。

 アイ=ファは軽く眉を寄せ、ぴくりと肩を震わせる。


「どうした? 何か気にさわったか?」


「そんなわけがあるか。……あまり無防備な表情を私に見せるな」


「え? アイ=ファに気持ちを隠さなくちゃいけないのか?」


 俺がきょとんとしてしまうと、アイ=ファははっきりと眉間にしわを刻んだ。


「そうか。今のは私が間違えていた。全面的に取り消すので、今の言葉は忘れるがいい」


「うん、わかった。でも、アイ=ファの様子がちょっと心配だな。アイ=ファのほうこそ、何か気がかりなことがあるなら、何でも打ち明けてくれよ」


「気がかりではない。この10日あまりは常ならぬ生活に身を置いていたので、家長として、狩人として、正しく生きていけるように気を引き締めているのだ」


「ああ、だからずっと難しげなお顔をしていたのか。アイ=ファは本当に融通がきかないなあ」


 俺は、思わず笑ってしまった。

 アイ=ファは、もどかしげに身体をゆすり始めている。


「……お前のほうは、腹が立つぐらい普段の調子を取り戻したようだな、アスタよ」


「そうかなあ? これでもけっこう情緒は不安定なつもりなんだよな。アイ=ファが満足そうに食事をしている姿を見ているだけで、涙がこぼれそうになるぐらい嬉しくなっちゃってるしさ」


 それは、本心からの言葉である。

 だから、その心情が俺の顔にはあふれかえっていたことだろう。

 その結果として、アイ=ファは決然と立ち上がることになった。

 そして3歩で俺のもとに近づき、肉食獣のようなしなやかさで膝をついてくる。


「な、何だろう? 首でもしめられそうな迫力を感じてしまうのだけれども」


「……そのような真似をするわけがあるか」


 言いざまに、アイ=ファはふわりと俺を抱きすくめてきた。

 俺の背中に軽く指を立て、頬に頬をすりつけてくる。この10日あまりでは何度となく重ねられていた行為であったが、もちろん俺は激しく心臓をどきつかせることになった。


「ど、どうしたんだよ? やっぱり様子がおかしいぞ、アイ=ファ?」


 アイ=ファは答えずに、少しだけ腕に力をこめてきた。

 アイ=ファの温もりと、やわらかさと、力強さと、甘い香りが、俺の身体に流れ込んでくる。


 俺は幸福感でおし潰されそうになりながら、アイ=ファの背中に腕を回そうとした。

 その瞬間、アイ=ファは俺の身体を解放して立ち上がった。

 寒い朝、いきなり布団をはがされたような心地で、俺はその凛然とした面を見上げる。


「すまなかったな。自分の弱さに屈するのはこれが最後と、ここに誓おう」


「え? ああ、うん……ごめん、やっぱりいまひとつ理解が及ばないのだけれども……」


「本来、私たちは、むやみに触れ合うことを許されぬ身であるはずだ。このたびばかりはその禁を破る他なかったが、今後はきっちりとけじめをつけて過ごすべきであろう」


「うん、まあ、それはそうなんだろうな」


「だから、この場でけじめをつけた。今後はただ愛しいというだけの理由でお前の身に触れることはないと、ここに誓う」


 そのように述べたててから、アイ=ファは自分の席に戻り、残りわずかであった食事をたいらげ始めた。

 で、収まりがつかないのは俺である。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。アイ=ファのそういう生真面目な部分は尊敬するけどさ! 一方的にけじめをつけられた俺の気持ちはどうすればいいんだろう?」


「うむ? 何がだ?」


「何がだじゃないよ! 俺は何の心の準備もないまま、漫然と今の時間を過ごしてしまったんだけど!」


 アイ=ファは子猫のように首を傾げていた。

 さっきまでの厳しい表情もやわらいで、何やら満ち足りた面持ちになっている。それがまた、俺の気持ちを大いにかき乱してくれた。


「そうか。私はこれが最後と覚悟を固めていたが、お前にはその準備がなかったということだな」


「う、うん、まあ、そういうことなのかな……?」


「では、お前も覚悟を固めて、私の身に触れるがいい」


 アイ=ファは座ったまま、俺に向かって両腕を広げてきた。

 俺は敷物に手をついて、渾身の力で溜息をつかせていただく。


「そのお気持ちだけでけっこうです……どうぞお食事をお続けください」


「よいのか? この夜からは、もう寝床も別にするのだぞ?」


「いいったら! あらためて口に出されると気恥ずかしいだろ!」


「……わけのわからぬやつだな、お前は」


 それは見解の相違というものであろう。

 しかしこれもまた、俺にとっては何より大事なアイ=ファの一面であった。


 アイ=ファは、こういう人間なのである。

 単純なような、複雑なような。おたがいを何より大事に思いながら、それでも婚姻を結ぶことはかなわないという現在の状況を、心の中でどんな風におさめているのか――わかるような気もするし、まったくわかっていないような気もしてしまう。


「ああ……なんだか、どっと疲れたよ」


 嘆息まじりに俺が述べると、アイ=ファは心配げに顔を寄せてきた。


「身体のほうはまだ十全ではないのだからな。あまりに手ひどく疲れたようならば、仕事は1日置きにでもするがいい」


「いや、そういう話じゃなくってさ。……ま、いいか」


 俺は、くすりと笑ってしまった。

 アイ=ファはますますけげんそうな顔になっている。


「こんな風にアイ=ファとやりとりできるようになったのも、元気になったおかげなんだもんな。そのありがたさを噛みしめておくよ」


「……うむ」


 アイ=ファはしばらく不明瞭な表情をしていたが、やがて気を取り直した様子で食事を再開させ始めた。

 家の外では、まだ雨が降っている。夕刻の前に晴れた空も、日が落ちる寸前ぐらいからまたぐずつき始めてしまったのだ。


 なかなかとんでもない幕開けになってしまったが、ジェノスの雨季はまだ始まったばかりなのである。

 期間で言えば、二ヶ月の内のようやく半月ばかりが過ぎたていどだ。


 この後には、いったいどのような騒ぎが待ち受けているのか。それを漠然と考えながら、俺はアイ=ファとふたりで過ごせる幸せをギバ肉と一緒に噛みしめることにした。

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