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異世界料理道  作者: EDA
第二十五章 モルガの御山洗(上)
438/1703

復帰の日②~雨の下の誓い~

2017.3/7 更新分 1/1

 商売の後は、予定通り《玄翁亭》や《南の大樹亭》を巡ってから、森辺の集落に戻ることになった。

 ネイルもナウディスも、それぞれの流儀に従って、俺の復帰を祝福してくれた。どちらもミラノ=マスやドーラの親父さんのように取り乱すことはなかったが、それでもその真情を疑う気持ちにはいっさいなれなかった。


「アスタが不在の間も、届けられる料理の質が落ちることはありませんでしたからな。まったく心強いことです」


 宿屋のご主人の中ではもっともビジネスライクなナウディスも、そのようなことを述べながら、とてもにこやかに笑ってくれていた。


 あとは《西風亭》にも顔を出しておきたかったのだが、中天を過ぎるとあのあたりは物騒な人間が増えるので、護衛役もなしに近づくのは危険なのではないかとたしなめられてしまった。しかたないので、いずれ朝方にギバ肉を届ける際にご挨拶をさせていただくことにして、その日は来訪を断念せざるを得なかった。


 その代わりに訪れたのは、《タントの恵み亭》である。

 こちらは商売上の繋がりはないが、料理人のヤンが毎日のように訪れては料理の下ごしらえを受け持っているのである。ここのところ、屋台の商売などは別の人間に一任して、ヤンは裏方に徹している様子だった。


「ああ、アスタ殿。本日から仕事を再開されたのですか。お元気になられたようで何よりです」


 厨房から出てきたヤンも優しく微笑みながら、そのように言ってくれた。彼の主人たるポルアースとは2日前に顔をあわせているので、俺の復帰が近いことはすでに知らされていたのだろう。


「先日、城下町の市場でヴァルカス殿のお弟子とたまたま顔をあわせることになったのです。その頃はまだアスタ殿の病状も思わしくなかったので、たいそう心配をされておりましたよ」


「ヴァルカスのお弟子ですか。シリィ=ロウやボズルですか?」


「シリィ=ロウ殿と、もうおひとりはタートゥマイ殿でありました。野菜の仕入れに関しては、タートゥマイ殿が一任されているようですね」


 タートゥマイというのは、シムとの混血であるご老人だ。その人物およびヴァルカスとは、もうずいぶん顔をあわせていないような気がした。


「ヴァルカス殿は、いまだにシャスカというシムの食材の研究にかかりきりのようですね。いったいどのような料理がお披露目されるのか、わたしも心待ちにしております」


「たしか、俺の考案したパスタやそばのような料理なのですよね。ええ、本当に楽しみです」


 しかし、城下町の民ならぬ俺には、なかなかヴァルカスの料理を口にする機会などは巡ってこない。またどこかで一緒にかまどを預かる役目が巡ってくることを待つしかないのだろうか。


「もしもシリィ=ロウたちと顔をあわせる機会があったら、ご心配をかけて申し訳ありませんでしたとお伝え願えますか? 彼女たちには、こちら側から言葉を伝える手段がないのです」


「了解いたしました。……ああ、アリシュナ殿に関しては、毎日シェイラのほうから話をお聞きになられているはずですので、ご心配なく」


 現在、商売用のポイタンが品切れであるため、屋台でパスタを売ることができず、毎日『ギバ・カレー』を売りに出しているのである。よって、アリシュナには毎日それがヤンを通して届けられていたのだった。


「アリシュナ殿もひどくアスタ殿のことを心配されていたようですので、仕事を再開されたと聞けば、胸をなでおろすことでしょう。……本当に、誰もがアスタ殿の身を案じておられたのですよ」


「ええ、本当にありがたい限りです。もう滅多なことはないでしょうから、今後ともよろしくお願いいたします」


 そうして俺はヤンにも別れの挨拶を告げ、ようやく森辺に戻ることになった。

 ファファとルウルウの荷車は先に帰していたので、今は荷車も1台きりだ。朝方と同じように、その運転を担ってくれたのはユン=スドラだった。


「リミ=ルウは、今でも毎日サウティの集落に通っているそうですね。届く食材の量にばらつきがあるので、その扱い方をサウティの女衆に教えているそうです」


 ユン=スドラの言葉に、俺は「うん」と応じてみせる。復帰初日の本日は様子見で、これで問題がないようなら俺もまたサウティの家に顔を出させてもらうつもりだった。


「リミ=ルウは大したものだよ。かまど番としての腕前はわきまえていたつもりだったけど、まさかあそこまでの応用力を身につけているとはね」


「はい。それに、トゥール=ディンもですね。わたしもアスタのおかげでかまど番としての自信を持つことがかないましたが、まだまだトゥール=ディンとリミ=ルウには遠く及びません」


「いや、だけどそれは――」


「はい。それはトゥール=ディンたちがすごすぎるだけなのでしょう。ですからわたしもひがんだりはせずに、トゥール=ディンたちをお手本としていっそう励みたいと思います」


 ちなみにそのトゥール=ディンは、俺の隣で膝を抱えている。よって、顔を真っ赤にしながらいっそう縮こまることになった。


「ああ、ルウの集落が見えてきました。今日は少しだけあちらに立ち寄るのでしたね?」


「うん、ちょっとレイナ=ルウたちに用事があってね。明日から出す料理について意見が欲しいみたいなんだ」


 これも、俺が病で倒れていなければ、もっと早い段階で済ませておくべき案件であった。雨季で使えなくなるのはタラパとティノとプラであり、これはルウ家で扱っている『ギバ・バーガー』と『ミャームー焼き』に大きく関わってくる品目なのである。


 ルウの集落は、今日も静まりかえっていた。雨季の間は、ほとんどの仕事を屋内でこなさなければならないのだ。しかしまた、土間や広間で毛皮のなめし作業や薪割りにいそしむ女衆のかたわらで、幼子たちがはしゃいでいる姿を想像すると、それはそれで微笑ましい感じがしてならなかった。


 まずは本家の母屋に立ち寄って、来訪の旨を告げてから、裏手のかまどの間へと回り込む。そこで待ち受けていたのは、レイナ=ルウとシーラ=ルウ、ミーア・レイ母さんとララ=ルウの4名であった。


「ようこそ、ルウの家に。わざわざ呼びたてちまって申し訳なかったね。身体のほうは大丈夫かい?」


「はい、今のところはまったく問題ありません。……いやあ、美味しそうな香りが漂っていますね」


「レイナとシーラ=ルウが頭をひねって面白い料理をこしらえたんだよ。あたしは何の問題もないと思うんだけど、やっぱりアスタの言葉がないと安心できないみたいでさ」


 その両名は、緊張気味の面持ちでかまどのかたわらにたたずんでいた。


「それでは、味見をお願いいたします。新しい料理といっても、こちらはぎばばーがーの味付けを変えただけなのですが」


「はい。やっぱりぎばばーがーはいまだに人気のようなので、雨季の間も売り続けるべきではないかと考えたのです」


 そうしてレイナ=ルウの手によって鉄鍋の蓋が取り除かれると、いっそう芳しい香りがかまどの間に満ちた。

 見てみると、そこで煮込まれているのはオレンジ色をしたソースであった。シチューのように、とろりとした質感をしている。


「ああ、いい香りだね。この色合いは、ひょっとしてネェノンなのかな?」


「はい。タラパを使えない代わりにネェノンを使ってみてはどうかと考えました」


 ネェノンは、ニンジンに似た野菜である。ただし、ニンジンほど風味は強くなく、その代わりに甘みが強い。存在感が薄い反面、色々な料理の彩りとして使える便利な野菜であった。


「なるほど、ネェノンか。そういえば、他の屋台で売られているキミュスの肉饅頭なんかでも、ネェノンがたっぷり使われていたね」


「はい。自分たちなりに色々と手を加えてみたのですが……率直なご意見をお願いいたします」


 そのように述べながら、シーラ=ルウがフワノの生地の準備をした。どうやら新しい『ギバ・バーガー』の完成品をこしらえてくれるらしい。


 屋台で売られているのと同じサイズの『ギバ・バーガー』が作られて、それが4等分にされる。ギバ肉のパテはオレンジ色のネェノンソースをたっぷりまぶされた状態で、一緒にはさまれたのはスライスされた生のアリアとネェノンだった。


「へえ、生野菜としてもネェノンを使っているんだね」


「はい。アリアだけですと辛みが強すぎるので……できる限り薄く切っていますので、邪魔になることはないと思います」


 リリ=ラヴィッツやマトゥアの女衆は先に帰していたので、その場にいたのは俺とトゥール=ディンとユン=スドラのみだ。4等分にされた料理の最後のひとつは、ララ=ルウの手でつままれることになった。


「それでは、いただきます」


 以前よりもサイズは小さくなっているので、4分の1ならばひと口でたいらげることができる。それに、下手にかじるとソースがこぼれまくってしまうだろう。ということで、一番小柄なトゥール=ディンも頑張ってそれをひと口で食べていた。


 お味のほうは、上々である。

 ネェノンは風味が弱いので、その色彩ほどの主張はない。俺たちの舌に届けられてくるのは、野菜の自然な甘みが主であった。

 きっとタラパソースと同じように、アリアのみじん切りや果実酒も使っているのだろう。香草の類いは使われていないようだが、ピコの葉だけはしっかりと下味を支えてくれている感じがする。


 それに、各種の調味料がバランスよく使われているようだ。タラパソースに負けないほど、味の奥行きが素晴らしい。なおかつそれは、肉汁たっぷりのギバ肉のパテとも抜群に相性がいいように感じられた。


 それに、アリアとネェノンのスライスも、心地好い食感とほどよい清涼感を加えてくれている。俺の知るタマネギやニンジンほどクセは強くないので、生でも料理の味を壊すことはなかった。


「うん、文句なしに美味しいと思うよ。塩とピコの葉と果実酒の他には、なんの調味料を使っているのかな?」


「タウ油と赤いママリアの酢と、それに砂糖もほんの少しだけ使っています」


「でも、塩気や甘さや酸っぱさを強めても、味がよくなるとは思えなかったので……このような仕上がりに落ち着いたのですが……」


 レイナ=ルウもシーラ=ルウも、真剣そのものの目つきで俺の挙動を見守っていた。

 それを横目で眺めながら、ララ=ルウは指先についたソースをなめ取っている。


「文句なしに美味しいって言ってもらえたんだから、それでいいんじゃないの? だいたい、自分たちで美味しいって思えたんなら、もう十分な気がするんだけどなー」


「うん、その通りだよ。俺からつけ加える言葉なんて何も思いつかないし、レイナ=ルウたちは自分の味覚を信じるべきだと思うよ」


 レイナ=ルウとシーラ=ルウは静かに手を取り合いながら、ほっと安堵の息をついていた。その面に、ゆっくりと喜びの表情がたちのぼってくる。

 それを笑顔で見守りながら、ユン=スドラも満足そうにうなずいていた。


「わたしも、とても美味だと思います。以前のぎばばーがーと比べても、決して負けてはいないと思います」


「はい、わたしも同じ気持ちです。ただ……」


 と、トゥール=ディンが言いかけると、レイナ=ルウは顔色を変えて「ただ?」と問い返した。

 その様子に怯んだトゥール=ディンは、小ウサギのような俊敏さで俺の背後に隠れてしまう。


「い、いえ……ただ、おふたりであったらもっと香草を使うかと思っていたので、少し意外でした……」


「……トゥール=ディンは、香草が必要だと感じましたか?」


「け、決してそういうわけではありません! ただ、意外に感じたというだけです!」


 トゥール=ディンの小さな指先が、俺の背中の生地をぎゅうっとつかんでいる。

 レイナ=ルウは自分を落ち着かせるように胸もとを押さえながら、なんとか笑顔をこしらえていた。


「ごめんなさい。トゥール=ディンほどのかまど番であったら、わたしたちにはわからなかった失敗でも見つけられるだろうと思って……思わず取り乱してしまいました」


「い、いえ、とんでもないことです……」


「香草を使わなかったのは、こちらの料理でたくさん使っているためです。アスタのほうでは毎日かれーを売るようになりましたし、あまり香草づくしだと、南の民のお客が嫌がるのではないかと考えたのです」


 そのように述べながら、シーラ=ルウが革袋の口を開いた。とたんに、強烈な香草の香りが他の香りを圧していく。


「ああ、これはおふたりが得意な香味焼きですか?」


「はい。『ミャームー焼き』の代わりには、これを売りに出そうと考えています」


『ミャームー焼き』のほうでもティノの千切りが使われていたため、何らかの改良をほどこすことを余儀なくされたのだ。しかし、他の野菜をはさみこんでも味が落ちるだけであるようだし、それならいっそのこと味付けそのものを変えてしまおうと決断したのだ、とのことであった。


「これには、茹でたナナールを一緒にはさみ込みます。こちらも味見をお願いいたします」


 刻んだ香草と果実酒に漬け込まれたバラ肉が鉄鍋で焼かれていく。それを平べったく仕上げたフワノの生地の上に載せ、さらに茹であげたナナールも重ねてから、クレープのように折りたたむ。


 ふたりの作る香味焼きの美味しさは、もうずいぶんな昔から思い知らされている。で、ナナールというのはホウレンソウのごとき青菜であるが、この強い味付けの前では、わずかな食感を伝えてくるばかりであった。


 それより気になったのは、フワノの風味であった。

 何か、甘くてまろやかな香りがする。これも香草の香りでだいぶん中和されていたが、どうやらフワノの生地をカロンの脱脂乳で練りあげているようだった。


「ナナールは彩りと滋養のために入れました。フワノにカロンの乳を使ったのは……多少なりとも、香草の香りに馴染むように感じられたためです」


「うん。普通の生地を使うより、いっそう美味しく仕上げる役に立っていると思うよ。こちらも文句なしの美味しさだね」


 俺は大いなる満足感とともに、そのように述べることができた。

 ララ=ルウも、大喜びで香味焼きを食している。


「あたしはやっぱり、はんばーぐより普通の肉のほうが好きだからなー。こっちの料理のほうが、大好き!」


「ええ、とても美味ですね。以前に食したものよりも美味しく感じられます」


「果実酒の甘みが香草の辛さととても合っていますよね」


 当然のこと、ユン=スドラやトゥール=ディンからも文句の声があがることはなかった。

 レイナ=ルウとシーラ=ルウは、また真剣な面持ちで俺のほうに詰め寄ってくる。


「それでは、これらの料理を屋台で出しても問題ない、とアスタにも思っていただけたでしょうか……?」


「もちろんだよ。雨季が終わっても、これをこのまま売り続けてもいいぐらいじゃないかな。特に香味焼きのほうは、昔から手がけているだけあって、申し分ないしね」


 そのように言ってから、俺はひとつ思いついた。


「何だったら、『ミャームー焼き』はまた俺のほうで売りに出すことにしようか。ケルの根っていう面白い食材が手に入ったから、俺も『ミャームー焼き』の美味しさを追求したくなっていたところなんだよね」


 本来、『ミャームー焼き』というのは生姜焼きに着想を得てひねり出したメニューであった。が、ミャームーはニンニクに似た香りを持つ香草なので、実態はニンニク焼きだ。すでにレイナ=ルウたちも俺の提案で『ミャームー焼き』にケルの根も使っていたが、俺の伝えたい生姜焼きの美味しさを完成させるには、まだまだ研究が必要なのだった。


「そうしたら、『ギバ・バーガー』のパテ以外は、のきなみレイナ=ルウたちが考案した料理、ということになるよね。シチューやモツ鍋のほうも大好評なわけだし、何も心配はいらないさ」


「本当に大したもんだねえ。もちろんアスタの手ほどきがあったからこそ、レイナたちもここまで立派な料理を作れることになったんだけどさ。……あんたたちはルウ家自慢のかまど番だよ、レイナ、シーラ=ルウ」


 レイナ=ルウは気恥ずかしそうに微笑み、シーラ=ルウはうつむいてしまった。


「もう数日もしたら、雨季の野菜が売りに出されるそうですよ。それがこれらの料理に使えるようだったら、いっそう美味しく仕上げられるかもしれないですね」


「ああ、雨季の野菜もようやく売りに出されるのかい。……だけどねえ、雨季の野菜ってのは扱いが難しいから、どうなることやらだよ」


 当然のこと、森辺の民だって雨季の野菜は毎年口にしていたのだ。貧しい氏族であればアリアとポイタンぐらいしか買うことはできないが、ルウ家であればどのような食材でものきなみ購入していたはずであった。


「そいつが手に入るようになったら、またアスタもこうしてルウの家に来てくれるんだろう?」


「ええ、もちろん。そのときには、ミケルやマイムも招いて大々的に勉強会を再開させていただきたいと考えていました」


「ありがたい話だね。アスタに手ほどきをされなくなってから……ええと、もうひと月と半分ぐらいにはなっちまってるんだもんね。みんな、またアスタに手ほどきをしてもらえる日を心待ちにしているんだよ」


 そんな風に言ってもらえる俺のほうこそ、ありがたい限りであった。


「それじゃあ、今日はこのへんで。美味しい料理をありがとうございました」


「とんでもありません。下ごしらえの仕事が終わったら、ゆっくり身体を休めてくださいね」


「明日もアスタに会えるのを楽しみにしています」


「ばいばーい。トゥール=ディンたちも、また明日ねー」


 ルウ家の人々に見送られながら、俺たちはかまどの間を後にした。

 そうして荷車のほうに足を向けるなり、ぎょっと立ちすくんでしまう。木陰に繋がれたギルルのかたわらに、雨具を纏った女衆の姿があったのだ。


「待っていたわ、アスタ……帰る前に、ちょっとだけ時間をもらえるかしらぁ……?」


 それは、ヴィナ=ルウであった。

 しとしとと降りそぼる霧雨の下、雨具のフードで表情を隠しつつ、幽霊のように立ちつくしている。


「え、ええ、もちろんかまいませんよ。よかったら、荷車の中で話しましょうか」


「……ごめんなさい。他の人には聞かれたくない話なのぉ……ちょっとこっちに来てもらえるぅ……?」


 そうしてヴィナ=ルウはゆらりと身をひるがえし、木立の向こうへと歩を進め始めた。

 目をぱちくりとさせながら、ユン=スドラが俺を振り返ってくる。


「どうしたのでしょう? 何やら様子が普通ではありませんね」


「うん。シュミラルと何かあったのかな。……悪いけど、少し待っていてもらえるかな?」


 ユン=スドラとトゥール=ディンをその場に残し、俺はヴィナ=ルウを追いかけた。

 ヴィナ=ルウは、少し緑が深くなったところで俺を待ち受けていた。雨は頭上の枝葉にさえぎられて、ほとんど地面にまで達していない。


「どうしたんですか、ヴィナ=ルウ? 何かを思い悩んでいるようなご様子ですね」


 俺がそのようにうながしても、ヴィナ=ルウはなかなか口を開こうとしなかった。

 今日は赤面などしておらず、フードの陰から除く口もとにも表情らしい表情は見受けられない。

 そうしてしばらく沈黙を保ったのち、やがてヴィナ=ルウはこのように切り出してきた。


「アスタ、怒ってるぅ……?」


「え?」と俺が聞き返すと、ヴィナ=ルウは慌てた様子でぷるぷると首を振り始めた。

 そして、雨具のフードを邪魔そうにはねのけると、真っ直ぐに俺を見つめてくる。


「どうしてわたしは、こういう言い方になっちゃうのかしら……違うの、そうじゃなくって……アスタが怒っていようといまいと、わたしは謝っておきたかったのよぉ……」


「謝るって、何をですか? まったく心当たりはないのですが」


「やっぱり、そうなのねぇ……うん、アスタはこんなことで怒ったりはしないんだろうと思っていたわぁ……というか、わたしがひとりでうじうじと思い悩んでいただけだものねぇ……」


 ヴィナ=ルウは淡い色合いをした瞳に、かつてないほど真剣な光をたたえながら、さらに言った。


「わたしがアスタに謝りたいのはねぇ……アスタが病魔に苦しんでいたとき、様子を見にいかなかったことよぉ……」


「え? だけど、ヴィナ=ルウも1度はファの家を訪れてくれましたよね?」


 あれは意識が回復して何日目のことであったか。朝方に、ルド=ルウが本家の4姉妹全員を引き連れて訪れてくれたことがあったはずだった。


「あれは、アスタが病魔を退けた後のことでしょう……? わたしが言っているのは、アスタが苦しんでいた間のことよぉ……」


「ああ、最初の3日間ということですか。でも、その頃は俺も意識が混濁していて、誰が訪れてくれていたかもまったく覚えていないのですよ」


「そう……レイナやルドなんかは毎日訪れていたはずだし、リミやララやシーラ=ルウも、1回や2回は様子を見にいっていたはずよ……当然の話よねぇ……ルウ家の人間は、それぐらいアスタと深く関わっていたのだから……」


 俺には、いまだにヴィナ=ルウの言わんとすることがわからなかった。

 ただ、ひとつだけ思い出したことがある。


「でも、その頃はまだシュミラルも怪我で寝込んでいたのですよね? 俺の意識が戻るぐらいまでは、シュミラルだってまだロクに動けないような状態だったんでしょう?」


「ええ、そうよぉ……だからわたしは、リリンの家を離れる気持ちになれなかったの……」


 そのように述べてから、ヴィナ=ルウは切なげに目を細めた。


「でも、あの人は別に、生命に関わるような怪我ではなかったわぁ……アスタのほうは、生きるか死ぬかという状態だったのに……わたしはあの人のそばを離れる気持ちになれなかったの……いえ、離れることは正しくない、と思ってしまったのよぉ……」


「正しくない? それは、どういう――」


「わたしは以前、アスタに嫁入りを願っていたでしょう……? そんなわたしが、あの人よりもアスタのことを重んじるのは、いけないことだと思ってしまったの……」


 俺の言葉をさえぎって、ヴィナ=ルウはそのように述べたてた。

 人の言葉をさえぎるということ自体が、このヴィナ=ルウには珍しいことだった。


「どうせアスタはアイ=ファのことしか目に入っていないのだからと、わたしは自分の思いを断ち切ったわぁ……アスタに思いを寄せたことも、その思いを断ち切ったことも、決して後悔はしていないけど……でも、そんなわたしがあの人のそばを離れて、アスタのもとに駆けつけるのは……絶対に許されないことのように思えてしまったのよぉ……」


 振り絞るような声で言いながら、ヴィナ=ルウは雨具に包まれた自分の両肩を抱きすくめた。


「他の人間がどう思うかはわからないけど……でも、わたし自身が、そんなことは許せないと思ってしまったの……それでアスタのもとに駆けつけるようなら、この人の思いを受け止める資格なんてない、と思えてしまったのねぇ……」


「はい。……それが間違った考えだとは、俺も思いません」


「そう……だけどわたしは、苦しかったわぁ……このままアスタが魂を召されてしまったら、一生自分を許せなかったと思う……でも、それもこれも、全部自分で選んだ運命なのよねぇ……どうしてわたしのようなできそこないが、森辺の集落に生まれついてしまったのかしら……」


「そんなことは言わないでください。それを言ったら、俺なんて――」


「あなたは立派な森辺の民よ、アスタ……わたしなんかより、よっぽど森辺の民に相応しい存在だわぁ……」


 ヴィナ=ルウは、ふいに微笑んだ。

 そして、そのなめらかな頬に、雨水ならぬものを静かに伝らせていく。


「だけどわたしも、森辺の民としてやりなおしたい……もう二度と、故郷を捨てたいなんて考えないから……もう一度だけ、真っ当な森辺の民として生きていきたいの……」


「大丈夫ですよ。ヴィナ=ルウは立派な森辺の民です。それより何より、立派で魅力的な人間です。そうじゃなかったら、シュミラルみたいな人がヴィナ=ルウを伴侶にしたいと願うわけがありません」


「どうかしら……わたしがどれほどちっぽけで浅ましい女かを知ってしまったら、誰だって逃げ去っていくのじゃないかしら……」


「絶対に、そんなことはありませんよ」


 俺は一歩だけヴィナ=ルウに近づき、声に力を込めて言った。


「ヴィナ=ルウはこの数日間、ずっと思い悩んでいたのでしょう? そういえば、どこで顔をあわせても、ヴィナ=ルウはほとんど口をきいていませんでしたね。ヴィナ=ルウがそんなに苦しいのも、正しい心を持っているからです。苦しければ苦しいだけ、自分は正しい心を持っているんだという自信にしてください」


「わたしなんて……湿ったピコの葉よりも価値のない人間よぉ……」


「湿ったピコの葉だって、きっと正しい使い道はあるはずですよ。この世の中に、価値のない存在なんてないんです」


「……わたしが湿ったピコの葉だってことは否定してくれないのねぇ……」


「あ、いやそれは、別に悪い意味ではなく――」


「ありがとう……そういう優しいアスタが大好きだったのよ、わたしは……」


 ヴィナ=ルウはその頬の涙をぬぐおうともしないまま、いっそう透明な微笑を浮かべた。


「わたしはもう一度、自分というものを見つめなおしてみるつもりよぉ……こんな自分に、人を愛する資格はあるのか……人に愛される資格はあるのか……それがわからないと、誰の思いを受け止めることもできないはずだもの……」


「資格の問題ではないと思います。でも、ヴィナ=ルウの言いたいことはわかると思います。……ヴィナ=ルウが正しい道を見つけられるように、俺も森に祈っています」


「あなたもねぇ、アスタ……あなたとアイ=ファを見ていると、わたしはやきもきしてたまらないのよぉ……」


 そう言って、ヴィナ=ルウはほっそりとした首をのけぞらした。

 栗色の髪が揺れ、涙が地面に落ちていく。


「アスタとシュミラルのおかげで、わたしは自分がどういう存在であるかを思い知らされたわぁ……どんな運命が待ち受けているにせよ、それを知るのは正しいことだったんでしょう……わたしは森辺の民として、わたしがわたしらしく生きていける道を探してみせるわ……」


 俺は「はい」とうなずいてみせた。

 今のヴィナ=ルウに、それ以上の言葉は必要ないのだと感じられた。

 森の天蓋に閉ざされた空を見上げながら、ヴィナ=ルウもまたそれ以上の言葉を語ろうとはしなかった。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] ルウの家の子たちは他の小さい氏族に今まで習った調理手順を教えるなどはしてるんでしたっけ...?自分たちは銅貨も稼いで料理の開発もしてますが無償で頼るに頼ってそこらへんの筋というものがか…
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