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異世界料理道  作者: EDA
第二十五章 モルガの御山洗(上)
436/1704

マヒュドラの民②~北の女衆~

2017.2/19 更新分 1/1

・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。

 北の民――遥かなる北方の王国マヒュドラに住まう一族である。

 その女衆が5名、衛兵の先導でこちらに近づいてきた。


 その全員が、長身である。少なくとも、俺より小柄な人間はひとりとして存在しなかった。

 体格も、決して細身ではない。バルシャほど頑強そうな者は見当たらなかったが、俺の記憶にある欧米人の女性よりも、わずかに骨格がしっかりしているような印象であった。


 シフォン=チェルなどはヴィナ=ルウを長身にしたような優美なるたたずまいであったが、あれは肉体労働から解放された結果であったのかもしれない。その場に集った5名は、いずれもシフォン=チェルよりは逞しい身体つきをしているようだった。


 全員が、フードつきの雨具を纏っている。そのフードから覗くのは、金褐色に渦巻く髪と、紫色の瞳、そして赤く日に焼けた肌だった。

 ジャガルの民などはほんのりピンク色に焼けた白い肌であったが、彼女たちはもっとはっきり日に焼けていた。ほとんど赤銅色と呼びたくなるような色合いである。そういえば、過ぎし日に出会ったエレオ=チェルも、彼女たちと同様の姿をしていた。


 年齢は、さまざまなようである。一番若いので20歳ぐらい、一番年配で40歳ぐらいだろうか。みんな彫りの深い顔立ちをしており、俺の美的感覚では美しいと言ってもいい容姿であった。


 しかし、彼女たちは両足を鎖でいましめられてしまっていた。

 30センチぐらいの長さの鎖で、左右の足を繋がれてしまっているのだ。森辺においても罪人にほどこす、走って逃走することを禁じるための拘束であった。


 かろうじて残されていた屋根の下のスペースに、その女衆が立ち並ぶ。

 何とはなしに、それは迫力のある姿だった。


 西の民には、大柄な人間が少ないのだ。男性でも平均身長は170センチぐらいで、メルフリードのように体格に恵まれた人間は稀である。よって、その場には彼女たちよりも長身の人間を捜すほうが難しかった。森辺の民でさえ、彼女たちを上回るのはジザ=ルウとダリ=サウティのみだった。


 そのジザ=ルウの手を、リミ=ルウがくいくいと引っ張る。

 ジザ=ルウが腰を屈めると、リミ=ルウはその耳にぼしょぼしょと囁きかけた。


「……普段通りに仕事を始めてもよいのか。また、自分は普段通りにこの者たちと言葉を交わしてもよいのか。と、かまど番の責任者であるリミ=ルウが問うている」


「もちろん、かまわない。我々が視察におもむくという旨は、すでに告げてある。ゆえに、普段よりはいくぶん遅い時間に集まらせたのだ」


 メルフリードの言葉を聞くと、リミ=ルウはにっこりと笑って前に進み出た。


「みんな、ひさしぶりだね! 今日もリミが手伝うから、どうぞよろしくお願いします!」


 リミ=ルウは、5日前の休業日にもこの時間からサウティの家を訪れていたのだ。俺のやろうとしていたことを、リミ=ルウはそのまま引き継いでくれていたのである。


 だから、彼女たちと顔をあわせるのも、これが2度目のこととなるのだろうが――リミ=ルウの言葉によってもたらされた変化に、俺は少なからず驚かされることになった。石像のように無表情であった北の女衆は、全員がいっせいに口もとをほころばせたのだった。


「おひさしぶりです、りみ=るう。きょうもよろしくおねがいいたします」


 一番年配の女衆が、そのように述べながら頭を垂れた。東の民ともまた異なる、幼子のように拙いイントネーションであった。

 そして他の女衆も、雨具に包まれた頭を次々に下げ始める。リミ=ルウも、それに負けじとぴょこんとおじぎをした。


「それじゃあ、仕事を始めよー! 他のみんなはかまどの間に集まってるのかな?」


「おいこら、勝手にひとりで動くなよ、ちびリミ」


 リミ=ルウと、それを追いかけるルド=ルウが、真っ先にかまどの間へと足を踏み入れた。

 5名の北の女衆と見張り役たる衛兵がそれに続き、メルフリードが俺たちを振り返ってくる。


「全員が入室することは難しいだろう。4、5名ずつが交代で足を踏み入れるべきだと思うが、如何か?」


「異存はない。……アスタはどのような形で仕事が進められているのか気になっていたことだろう。最初に足を踏み入れるといい」


 ダリ=サウティの言葉に甘えて、俺はアイ=ファとともに一番乗りをさせてもらうことにした。貴族の側から選ばれたのは、メルフリードとポルアースと護衛役の兵士が1名であった。


 かまどの間では、すでにミル・フェイ=サウティたちが待ち受けていた。

 ミル・フェイ=サウティも1度はお見舞いに来てくれていたので、静かに目礼をしてくるばかりだ。他の4名の女衆も、安堵と喜びの表情でこっそり俺に礼をしてくれた。


「それじゃあ、わからないことがあったら何でも聞いてね! リミたちがずっと見守ってるから!」


 すでに調理の手ほどきが始められてから、10日もの日が過ぎているのだ。リミ=ルウたちは北の女衆と一緒になってかまどの間を動き回りながら、最初の段階ではいっさい手を出そうとしなかった。


 北の女衆は、急ぐでもなく怠けるでもなく、一定のスピードで仕事をこなしていく。かまどには火がかけられ、まずはカロンとキミュスの骨ガラが煮込まれて、その間に食料庫から持ち込んだ食材の選別を済ませていく。


 それと同時に、2名の女衆は早くもフワノに水を加えて練り始めていた。何せ北の民は100名を超える数であるというのだから、饅頭の数も相応に跳ね上がるのだろう。

 また、俺のほうでも商売があるために、蒸し籠は手持ちの半分ぐらいしか貸しつけることができなかったので、すべての饅頭をふかすには何回かに分ける必要があるはずだった。


 しかし、作業の手順によどみはない。この10日間で、しっかり身につけることができたのだろう。

 そうして食材の選別を済ませた3名は、しかるべき野菜を鉄鍋に追加すると、2名が饅頭のための具材の刻み作業に取りかかり、最後の1名はカロン乳から乳脂を分離させるための仕事に着手した。


「ふうむ。以前の姿を知らないので何とも言えないのだけれども、実に統率の取れた動きであるように思えるね」


 ポルアースが、独り言のようにつぶやいた。

 俺もその言葉に異存はない。ひどく淡々とはしているが、どこにも手抜かりのない動きであった。

 また、淡々として見えるのは、彼女たちがいっさい口を開こうとしないゆえなのだろう。それでいて手抜かりが生じないのは、全員が自分の為すべきことをしっかりわきまえているゆえなのだろうと思われた。


 食材を刻んでいた女衆が、ふっとリミ=ルウを振り返る。

 それに気づいたリミ=ルウは、ちょこちょことそちらに近づいていった。

 まな板の上に載せられていたのは、タケノコにも似たチャムチャムの切れ端の山だ。

 リミ=ルウは「うーん」と可愛らしく小首を傾げた。


「チャムチャムって、饅頭に入れてもしちゅーに入れても美味しかったよね! 今日はたくさんあるみたいだから、半分ずつ使っちゃえばいいんじゃないかなー?」


 女衆はうなずき、チャムチャムの半分を木皿に移した。残りのチャムチャムは、調理刀ですみやかに刻んでいく。


「……この場にいる北の民は、全員が西の言葉を扱えるのか?」


 メルフリードが問いかけると、見張り役の衛兵が「はっ!」と敬礼した。


「この仕事を果たすには必要であろうという判断で、特に言葉に不自由のない5名が選ばれました! 少なくとも、こちらの指示はのきなみ正確に伝わるものと存じます!」


「そうか」とメルフリードが応じると、衛兵は緊張した面持ちで壁際に戻った。

 おそらく、この衛兵にとって近衛兵団の長たるメルフリードは雲の上の存在なのだろう。そもそも石塀の外で暮らす人間には、貴族自体がそのような存在であるのだ。


(だけど、森辺の民にとっては貴族も町の人間も大差のない存在なんだもんな。今まではあちらも負い目がある分、ずいぶん友好的にこちらの言葉を汲み取ってくれていたけど……北の民がからんでしまうと、話が違ってくるってことか)


 メルフリードの冷たい横顔を盗み見ながら、俺はそのように考える。

 しかし、俺はもはや、メルフリードという人間を疑ったりはしていなかった。

 すっかりご無沙汰なマルスタインに対してはまだまだ底の知れない部分を感じてしまうが、少なくともメルフリードは信用に値する御仁であると思うのだ。


 もちろん、まだ数えるぐらいしか言葉を交わしていないのだから、メルフリードにだって不明な部分はたくさんある。ましてや彼は、ジザ=ルウなみに心情を覗かせない鉄面皮であった。伴侶や娘がかたわらにあるときだけ、わずかながらに人間味を感じるぐらいの状態だ。


 しかしメルフリードは、サイクレウスを討つために手を携えた相手であるのだ。

 少なくとも、彼が法や正義というものを何よりも重んじている、という一点においては疑いようもなかった。


 また、法や正義のためならば、長年の習わしだとか体面だとかにこだわる人間でもない、ということもこれまでの行状で知れている。彼はスン家の罪を暴くために自ら身分を偽って囮捜査を敢行したり、剣士の心を奮い立たせるために森辺の狩人を闘技会に招いたりもする、そういう型破りな人間でもあるのだった。


 そのメルフリードが、森辺の民に対してひさびさに厳しい態度を向けてきたのである。

 それはきっと、王国の法を守るために、という強い意思でもたらされたものなのだろうと思う。

 その上で、彼は森辺の民と正しい縁を紡いでいきたいと言ってくれたのだから、俺はその言葉を信じたかった。


(でも、それじゃあ……西の民の貴族であるメルフリードたちの目に、彼女たちの姿はどんな風に映っているんだろう)


 俺の目から見て、やはり彼女たちは普通の人間だとしか思えなかった。ただ少しばかり背が高くて体格のしっかりとした、健康で綺麗な女性たちだ。


 身に纏っているのは粗末な布の装束であったが、ことさら薄汚れているわけでもない。髪はくしゃくしゃで肌などは擦り傷が目立っていたものの、きっと毎日身を清めさせているのだろう。森辺の民や町の人々と変わらないぐらい、彼女たちは清潔な身なりをしているようだった。


 それゆえに、足の鎖だけが不相応であるように思えてしまうのだ。

 罪人であるならば、鎖で縛る必要もあるだろう。しかし、トゥランに集められたのは戦を知らない北の民ばかりであると、さきほども語られていた。それならば、彼女たちは西の民に敵意を向けたこともなく、ただ「北の民である」という理由だけで奴隷に身を落とすことになってしまったのではないだろうか。


(それに、カミュアだって北の民の血を引いてるんだよな。もしもカミュアがジェノスにいたら、今回こそはこの場に顔を出していたんだろうか)


 かつてサイクレウスの一件が落着した際、彼は頑なにシフォン=チェルに近づこうとしなかった。彼が北の民を救うためにサイクレウスを討伐したのだと思われたら大変ややこしいことになってしまうので、あえて身を遠ざけているのだという話であった。


 それぐらい、西の民にとって北の民というのは扱いが難しいものなのだ。

 いっそ、憎しみや恨みを持つ立場であったら、悩む必要もなくなってしまうのだろう。しかし、そういった悪感情もなく、ただ王国の法に従って、北の民を奴隷として扱うしかない、というのは――今さらながらに、ずいぶん錯綜した立場なのではないかと思われた。


「あっ! ちょっと待って! そっちの食材はまだ混ぜないでほしいの!」


 と、いきなりリミ=ルウの声が響きわたったので、俺は思わずドキリとしてしまった。

 刻んだ食材を木皿に移そうとしていた女衆が、静かにリミ=ルウを振り返る。


「今日はちょっと饅頭の作り方を変えてみようと思うんだよねー。……って、勝手にリミが思いついちゃったんだけど、いいかなあ?」


 それは、俺に向けられた言葉だった。

 俺は「もちろん」とうなずいてみせる。


「今の責任者はリミ=ルウなんだから、俺なんかに遠慮をする必要はないよ。……でも、いったい何を思いついたのかは聞かせてほしいかな」


「うん! 今日はいつもよりアロウだとかラマムだとかがいっぱいあるみたいだから、肉の饅頭とは別に果実の饅頭も作ってみようと思ったの! ほら、ミンミだってこんなにあるんだよー? ミンミは高いのに、もったいないよね!」


 ミンミはたしかジャガルから運ばれてくる、桃のごとき果実である。西でも収穫できるアロウやラマムよりは、かなり値の張る食材であるはずだ。

 で、確かにその場にはリミ=ルウの言う通り、甘みや酸味のゆたかな食材がありあまっていた。ベリー系のアロウに、リンゴとよく似たラマム、そして外見はドリアンだが中身は柑橘系のシールである。


「せっかく砂糖を使えるようになったんだから、甘い果実の饅頭があってもいいでしょ? 砂糖を使えば、アロウとかシールとかだって美味しく食べられると思うんだよねー」


「うん、いい考えだね。そうしたら、余計な食材を使わなくて済む分、肉饅頭の出来栄えだってよくなるはずだから、なおさらばっちりだね」


「えへへ」とリミ=ルウは嬉しそうに笑った。


「それじゃあ、シールは酸っぱい部分だけくり抜いて、皮のほうは普通の饅頭で使おっか。シールの皮って苦みがあるしゴリゴリ固いし、甘い饅頭にはあわないと思うんだー」


 北の女衆に出す指示も的確だ。もはやリミ=ルウは、ルウ家におけるかまど番としてはナンバースリーの座を確固たるものにしていた。


 そんな風に俺がこっそり感心していると、ずっとフワノの生地をこねていた年若い女衆が無表情に振り返ってきた。


「……あなた、ふぁのいえのあすたですか?」


「あ、はい。ファの家のアスタです。はじめまして」


「……あなた、とてもかんしゃしています」


 女衆は小さく頭を下げると、また黙然とフワノの生地をこね始めた。

 俺の名前や存在は、最初の段階から彼女たちにも告げられていたのだろう。彼女たちが涙を流して喜んだ、という姿はまったく想像することもできないが、今の短いやりとりだけでも、彼女たちの真情に触れることはできたような気がした。

 そこでポルアースが「ふむふむ」と声をあげる。


「とりあえず、彼女らがいかに手際よく作業を進められているかは理解できたかな。メルフリード殿、僕はトルスト殿と交代しようかと思います」


 ならばと、俺とアイ=ファもジザ=ルウたちにこの席を譲ることにした。ジザ=ルウとレイナ=ルウとトルストがかまどの間に入っていき、俺たちは屋根の下でポルアースと相対する。


「あのリミ=ルウという娘さんは、本当に優秀な厨番だね! 余計な口ははさまずに、それでいて作業の場にくまなく目が届いている。あの幼さで、大したものだよ」


「うむ」とアイ=ファが率先してうなずいたのは、きっとリミ=ルウをほめられたことが嬉しかったゆえなのだろう。アイ=ファはすぐに目を伏せて「失礼した」という言葉を添えた。


「何も失礼なことはないよ。森辺の民と言葉を交わすのが、今の僕には正式な職務なのだからね。……そして、こういう非公式の場においては、忌憚のない意見を聞かせてもらいたいと願っているよ」


「……ひこうしき?」


「うん。森辺の族長が民の総意として言葉を届けるのが公式の場で、こういう風に個人的に言葉を交わすのが非公式の場さ。こういう場では、言葉を飾る必要はないよ」


 アイ=ファは軽く眉を寄せて、考え込むような顔を見せた。

 その難しげな表情に、ポルアースは小さく笑い声をあげる。


「率直なのが、森辺の民の美点だものねえ。本音と建前を使い分けるというのは、あまりに難しい話になってしまうのかな」


「それでは、あなたがたには我々に見せていない本音が存在するということか」


「それはまあ、常に真情をさらしている人間なんて、城下町にはなかなか存在しないのじゃないのかな。僕なんかは、これでもかなり本音をさらけ出しているほうだと思うけれどね」


 アイ=ファがますます難しい顔になってしまったので、ポルアースは丸っこい頬をつまみながら「ええと」と言葉を探してくれた。


「たとえば、リフレイア姫だね。彼女の本音は、北の民にもっと人間らしい暮らしを与えてあげたい、というものなのだろう。だけどそれをそのままの言葉で主張してしまったら、王都の人間に叛逆罪とみなされる危険が生じてしまう。だから、ジェノスの富のために北の民の扱いを考えなおすべき、という建前をひねり出すことになったのだよ。それは森辺の民にとって、間違った行いであると思えてしまうかな?」


「それは……もちろん真情をさらすに越したことはないが……その建前というやつも、決して虚言ではないのであろう?」


「もちろんさ。王国の法を守りながら、北の民に人間らしい暮らしを与えるにはどうするべきか、そのように思い悩んだ結果だろうね」


「ならばそれは、正しい行いであると思える」


 アイ=ファはあっさりとそのように言いきった。

 ポルアースは満足げな顔でうなずく。


「たぶん、北の民の一件について、僕たちと森辺の民とでそれほど大きな意識の違いはないように思う。だからメルフリード殿も、誤解やすれ違いなどが生じないようにしていきたいと願っているのではないのかな」


 ポルアースがそのように述べたとき、当のメルフリードがかまどの間から退出してきた。まだ入室したばかりであったジザ=ルウやトルストたちも、それにつき従っている。


「しばらくは同じ作業が続くようなので、今の内に工事の場の視察も済ませておきたく思う。そちらは如何か?」


「ああ、異存はない」


 そのように答えてから、ダリ=サウティは俺のほうに顔を寄せてきた。


「申し訳ないが、アスタの荷車で同行させてもらえるか? サウティの荷車は屋根がないので、雨季の間はひどく不便なのだ」


「もちろんです。こちらは俺とアイ=ファのふたりきりですので」


 ということで、ギルルの荷車にはダリ=サウティとヴェラの家長も乗り込むことになった。

 なおかつ、ルウ家の側もレイナ=ルウがかまどの間に居残ることになったため、工事の現場に向かうのはジザ=ルウとシン=ルウのみとなった。シン=ルウも護衛役としてかまどの間に残すべきか、ジザ=ルウとルド=ルウの間で密談が交わされたようであるが、サンジュラが現場に向かうならばと、そのように取り決められたようだった。


 それならば、こちらの側は荷車も1台で事足りる。俺たちは全員が同乗して、アイ=ファの運転でサウティの集落を出ることになった。

 ここから南に下るというのは、俺にとっても初めての道行きである。ダリ=サウティによると、ここから先には眷族であるフェイとタムルが家を構えているとの話であった。


 かわりばえのしない森辺の道が、雨の中で煙っている。そこから目的の地まで、荷車で3分とかかりはしなかった。


「む……」とアイ=ファが低い声をあげる。

 雨具を着込んだままであった俺は、思わずその横から身を乗り出してしまった。


 ある意味では想像していた通りの光景が、そこに現れたのだ。

 北の民が、斧で樹木を切り倒している。切り倒された樹木が、台車や荷車で運ばれていく。槍を携えた衛兵に見守られながら、数十名の男たちがその場で働かされていた。


 その全員が、ドンダ=ルウにも負けない大男である。

 中にはジィ=マァムぐらい大柄な人間もいる。何にせよ、誰もが岩のように頑強な体格をしていた。


 いちおう、雨具は纏っている。しかし、このような作業に従事していれば、あまり役には立たなかっただろう。全員がびしょ濡れで、泥まみれの姿であった。


 そのほとんどは、魁偉な姿をした男衆である。だが、ところどころには女衆もいて、倒された樹木から枝葉を切り払う仕事などを受け持っていた。

 そうして丸裸にされた樹木は、最終的に屋根なしの荷車へと積まれる。ただし、荷台の尻からは大きくはみ出してしまうため、それを後ろから支えながら、外界へと運び出していくのだ。


 その荷車を運転するのは西の民であり、後ろで樹木を支えるのは北の民だった。

 要するに、力を使っているのはトトスと北の民のみである、ということだ。


 外界へと通ずる道も、ずいぶん大きく切り開かれている。その先は、ダレイム領の南端に繋がっているはずだった。荷車を手に入れるまでは、サウティやその眷族たちはその村落からアリアやポイタンを購入していたのだ。そこから宿場町まで向かうには、徒歩で数時間もかかるはずだった。


 その外界へと通ずる道は南西にのびており、新たな道は東側に切り開かれている。俺たちが通ってきた北側からの道とあわせて、不格好な三叉路となっている形だ。


 この辺りは樹木もまばらであり、そのためか、俺が想像していたよりもずいぶん作業は順調に進められていた。すでに何百メートルもの道が作られており、その奥側から次々と樹木が運び出されてきている状況であった。


(そういえば、もともと荷車が通れるぐらいの隙間はあったってことなんだもんな)


 レイト少年の父親やミラノ=マスの義兄などは、そういう森の隙間を発見したからこそ、ここが行路になりうると判断したのだろう。

 それでジェノス城に通行の許可を求め、サイクレウスを通じてスン家を紹介されることになり――その末に、『ギバ寄せの実』でギバをけしかけられ、生命を落とすことになったのだ。


 3台の荷車が駆けつけて、そこから貴族や森辺の民が姿を現しても、北の民たちは黙々と働いていた。

 フードを目深にかぶっているので、表情はわからない。だけどやっぱり、この場でも彼らは淡々としており、急ぐでもなく怠けるでもなく機械的に作業を続けていた。


「……ずいぶん見張りの衛兵が多いのだな」


 荷車を降りて雨の中に足を踏み出すなり、ジザ=ルウがそのようにつぶやいていた。

 衛兵は、作業の邪魔にならぬよう、切り開かれた道の片側に、等間隔で立ち並んでいる。何名かは自由に動いて北の民に指示を送っているようであったが、その大半は雨の中で槍をかまえるのが仕事であるようだった。


「総勢で120名ていどの北の民に対して、衛兵は60名ていどがついている。その内の10名ていどは工事の指揮を取り、残りの50名弱は見張り役となっているはずだ」


 メルフリードが低い声で応じると、ジザ=ルウは「ふむ」とうなずいた。


「50名弱は、何も為さずに立ちつくしているばかりなのか。その者たちも手を貸せば、ずいぶん仕事もはかどるだろうにな」


「北の民が逃亡や叛逆を試みると危惧しているわけではないのだが、斧や鉈といった刃物を預ける以上、普段よりは警護を強化したいという申し入れがあった。……これらの北の民に叛逆の意思があったとしたら、5、60名の衛兵で鎮圧することなどかなわないのだろうがな」


「もっともだな。腕力だけで言えば、この者たちは森辺の狩人にも劣ってはいないだろう。……あくまで、腕力のみの話だが」


 ふたりの言葉を聞きながら、俺はきわめて落ち着かない気持ちを抱え込むことになった。

 北の民が鞭で打たれながら仕事をさせられている図を想像していたわけではないし、また、そうではないことを強く願ってもいた。そして実際に、彼らは鞭に打たれるどころか、粛々と働くばかりであった。雨の中で巨大な樹木を切り倒し、それを集落の外まで運んでいくという過酷な労働を強いられながら、彼らはロボットのように整然とふるまっていたのである。


(何だろう……何かおかしな気持ちだ)


 苦悩の色がうかがえないというのも、ある意味では奴隷という立場ならではのものなのだろうか。

 それにしたって、彼らはあまりに静かすぎた。

 かといって、泥人形のように生気がない、というわけでもない。これならば、かつてのスン家の人々のほうがよっぽど人間味を失っており、悲愴なありさまであっただろう。


(そういえば……シフォン=チェルだって、言われなければ奴隷だなんて思えない雰囲気だったよな)


 このジェノスにおける奴隷というのは、俺の固定概念からは外れた存在なのかもしれなかった。

 それにそもそも、俺の故郷には奴隷という身分が存在しなかった。俺が持つイメージは、あくまで歴史やフィクションから得たものであったのだ。

 ジェノスの貴族たちだって、俺の持つ貴族のイメージとぴったり一致するわけではない。町人や商人や狩人だって、それは同じことなのかもしれなかった。


 だけど、それでも彼らは奴隷なのだった。

 好きでこのような場に集められたわけではないし、その足には鎖がはめられている。どんなに働いても賃金がもらえるわけでもなく、伴侶を娶ることすら許されない。そうして、永久に故郷へと帰ることも許されない、というのなら――やっぱりそれは、比類もなく不幸な生であるはずだった。


「……我々が頭を悩ませることになったのは、トゥラン伯爵家の前当主サイクレウスに自由を与えていた代償なのだろう、とダリ=サウティは言われていたな」


 と――やがてメルフリードが、感情のうかがえない声でそのように述べた。


「まさしく、それが真実なのだろうと思う。伯爵家の当主が自分の領地で何を為そうと、それを掣肘する権限は我が父たるジェノス侯爵にも与えられていなかったわけだが――それでいて、トゥランはジェノスの一部であり、トゥランの不始末はジェノスの領主が負わなければならない。これもまた、サイクレウスの残した負の遺産であるのだ」


「代価もなしにこのような者たちを好きに扱えるのだから、それはジェノスの得になる。……とは、考えてはいないということか?」


 ダリ=サウティの問いかけに、メルフリードは「無論」と応じた。


「我々は、北の民に憎しみを抱いていない。また、奴隷に頼らねばならないほど貧しいわけでもない。それなのに、否応なく奴隷を使わなければならないというこの状況は――決して望ましいものではないはずだ」


 そうしてメルフリードは、目に見えぬ敵をにらみすえるように灰色の瞳を瞬かせた。


「いっそ、奴隷などは他の町に売り払ってしまえばいいという話も出た。しかし、いきなりそのような真似に及んでしまえばトゥランは働き手を失ってしまうし、また、この近在で奴隷を扱う町などは存在しないことだろう。それに――」


 そこでメルフリードが口をつぐんでしまったので、ダリ=サウティが「それに?」とうながした。

 しかしメルフリードは黙して語らず、その代わりにポルアースが口を開いた。


「それに、売られた先がトゥランよりも幸福な地であるとも限りませんからね。それでは苦労をして買い手を探す甲斐もないというものです」


 ダリ=サウティとジザ=ルウは、無言のままメルフリードのことを見つめていた。

 雨具を着込んだメルフリードは、月光のように冷たく冴えわたった目で北の民たちの働く姿を凝視している。


「……さきほどは、いくぶん言葉が足りなかったかもしれない。しかし、森辺の民が北の民について取り沙汰するべきではない、というのはまぎれもない我らの真情だ」


「うむ。ややこしい話に首を突っ込むな、というのは間違った言葉ではないのだろうなと思っているよ」


「世の中には、分相応という言葉がある。……そして、ジェノスに住まう北の民について思い悩むのは、ジェノスの貴族の役目であると思うのだ」


 そう言って、メルフリードはようやくこちらに向きなおった。


「森辺の民が、北の民について思い悩む必要はない。ただ、北の民の食事に関しては、今後も助言を願うことになるやもしれんので、そのときには力を貸してもらえればありがたいと思う」


「了承した。……続きは会談の場で、だな」


 ダリ=サウティは、静かな目つきで北の民たちを見回していく。

 ジザ=ルウも、メルフリードの姿とそちらを無言で見比べていた。


 そのときになって、俺はようやくひとつの事実が腑に落ちてきた。

 カミュア=ヨシュは、このメルフリードと盟友と言ってもいい間柄であったのである。

 それがどのような関係性であるのか、俺にはまったくわかっていない。だけど、もしもメルフリードにとって、カミュア=ヨシュが友と呼べるような存在であるならば――この場にいる誰よりも、複雑な気持ちを抱くことになるのではないだろうか。


(こんなときに、あのお人はどこをほっつき歩いているんだろう。世界中を旅しているカミュアだったら、北の民の扱いに対してもさぞかし有効な助言ができるだろうに)


 だけどあの飄々としたカミュア=ヨシュならば、こんな際でも薄笑いを浮かべて傍観者を気取ってしまうのだろうか。

 そんなことは、推測するだけ無駄であったが――何にせよ、いまメルフリードのかたわらに、カミュア=ヨシュの姿はない。ジェノスの次期の領主たる彼は、その双肩に覚悟と責任を担いながら、北の民の存在と向きあわなければならないはずだった。

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