マヒュドラの民①~視察団~
2017.2/18 更新分 1/1
茶の月の15日。
俺とアイ=ファは予定通り、朝からサウティの集落を訪れることになった。
城下町からの視察団は、マヒュドラの女衆が調理をする現場そのものから見届けたいとのことであったので、俺たちもほとんど朝一番でファの家を出立することになったのだった。
その途中で、ルウ家の面々と合流する。
リミ=ルウは病で倒れた俺の代わりに、この一件では手ほどきの責任者と見なされてしまっていたし、まだ朝方であったので、護衛役を同行させることもできた。しかも本日は、視察団にメルフリード自身も加わるという話であったので、それと言葉を交わすためにジザ=ルウまでもが同行することに定められていた。
「すっかり力を取り戻したようだな、アスタよ」
ジザ=ルウは、普段と変わらぬ表情でそのように申し述べてくれた。
内心は、やっぱりわからない。もはや俺のことを単なる厄介者だとは考えていないはず――と、思いながらも、やっぱりいくぶんは緊張してしまう俺であった。
「コタ=ルウもすぐに元気になったそうで、本当によかったですね。俺もとても嬉しく思っています」
「……西方神もモルガの森も、コタが森辺の民として生きていく資格を認めてくれたのだろう」
それだけ言い残して、ジザ=ルウはさっさと荷車の中に乗り込んでしまった。
その背中を見送っていたルド=ルウが、こっそり俺に囁きかけてくる。
「だったらアスタもおんなじように、森辺の民として生きていくことを許されたってことだよな」
ジザ=ルウがそこまでの意味を込めていたのかはわからない。
だけど俺は、前向きな気持ちで「うん」と応じることができた。
そうしてサウティの集落を目指す前に、俺は声をかけられるだけの相手に御礼の言葉を届けさせてもらうことにした。ララ=ルウやシーラ=ルウたちもこの数日で一度はファの家を訪れてくれていたが、なかなか家を離れることの難しい年配の女衆などにも挨拶をさせてもらったのだ。
ジバ婆さんもミーア・レイ母さんも、ティト・ミン=ルウもサティ・レイ=ルウも、タリ=ルウも分家の女衆も、みんな俺が病魔の試練を乗り越えたことを笑顔で祝福してくれた。同じ試練を乗り越えたコタ=ルウは、以前よりもいっそう元気な様子で、ずっとにこにこと笑っていた。
そして、ミケルとマイムである。
マイムはお見舞いに来てくれていたが、ミケルとはずいぶんひさかたぶりの対面であった。また、ミケルとていまだに療養中の身であるわけだが、女衆に負けないぐらい早起きをしており、そして、もう杖さえあれば何の不自由もなく出歩けるぐらいに回復していた。
「人には養生しろなどと抜かしておいて、何だそのざまは」
開口一番、ミケルが不機嫌きわまりない様子でそのように言うと、マイムは笑いながら「もう」とその胸を叩いていた。俺も温かい気持ちで「面目ない限りです」と応じることができた。
その他には、たまたま早起きをしていたミダやリャダ=ルウとも挨拶をすることができた。何事もなかったかのように出歩いている俺の姿に、ミダがぷるぷると頬肉を震わせてくれたのが、俺にはたいそう嬉しかった。
残念ながら、ドンダ=ルウやダルム=ルウは就寝中であったので、挨拶をすることができなかった。また帰り道には寄らせていただきますのでと言い残して、俺も自分の荷車に戻ることにした。
ルウ家からサウティの集落に向かうのは5名、リミ=ルウとレイナ=ルウ、ジザ=ルウとルド=ルウ、そしてシン=ルウという顔ぶれである。
レイナ=ルウも、サウティの集落でどのような仕事が行われているのかと、かねがね気にかけていたらしい。本日は屋台の商売も休業日であるし、せっかくならばと同行を願ったのだそうだ。
リミ=ルウだけがこちらの荷車に乗り、他の人々はルウルウの荷車でサウティの集落を目指した。
こちらで手綱を握るのは、むろんのことアイ=ファである。御者台では容赦なく雨に打たれるし、体調が悪くなったら大事故にもつながりかねないため、たとえ宿場町での仕事を再開することになっても、俺はしばらく運転を差しひかえるべきなのだろう。
御者台のアイ=ファにも声が届くよう、なるべく前のほうに陣取りながら、俺とリミ=ルウはのんびり言葉を交わさせていただくことにした。
「本当にアスタもすっかり元に戻ってきたみたいだね! そろそろ屋台のほうのお仕事も始めるの?」
「そうだね、今日の調子で決めようと思ってるよ。あんまりひどく疲れるようだったら、もう何日かは休ませてもらうかもしれないけど」
「うん! 無理をするのはよくないからね! ……でも、アスタが元気が姿を見せたら、ターラもユーミも喜ぶだろうなあ。みんな、すっごく心配してたからね!」
もちろん俺も、宿場町のみんなに再会できる日を心待ちにしていた。森辺でご縁のある人々はこの数日間でだいぶ顔をあわせることがかなったが、町の人々とはもう10日ばかりも顔をあわせていないのである。
屋台での商売を開始して以来、これほどまでの長きの期間、俺が森辺に引きこもったことはなかった。サイクレウスたちの大罪が暴かれて、その配下の残党が捕らえられるまでの間は屋台の仕事を休むことになってしまったが、そのときでさえ、宿屋に料理を届けるという仕事は敢行し続けていたのであった。
「そういえば、シュミラルの同胞もそろそろシムに帰っちゃうんだよね。あと2ヶ月ぐらいずれてたら、森辺の新しい道が使えてたのかもしれないのにねー」
「うん、そうだね。……でも、次にラダジッドたちがジェノスに来るのは半年後だから、そのときにはきっと新しい道を使うことになるんだろうね」
そのときは、宿場町よりもまず先に、森辺の集落へと立ち寄ることも許されるようになるのだろうか。
想像すると、ちょっとわくわくしてしまう。
「ってことは、シュミラルがジェノスに戻ってきてから、もうひと月が経っちゃったってことなのかー。なんだか、あっという間だったね!」
「そうだね。本当にびっくりしてしまうよ。……シュミラルといえば、最近のヴィナ=ルウはどうなのかな? 何日か前にルウの家に戻ったんだよね?」
俺がそのように尋ねると、リミ=ルウは荷台の振動にあわせて身体を左右に揺らしながら、「うん、そうそう!」と元気に応じた。
「ヴィナ姉はねー、前よりも溜息がひどくなっちゃって、なんだか大変なの! この前なんて、ダルム兄と大喧嘩になっちゃったしねー」
「ダ、ダルム=ルウとヴィナ=ルウが大喧嘩? たしかあのふたりって、意外に仲良し姉弟だったよね?」
「うん! だから余計に喧嘩になっちゃうのかな? そんなにあの男が恋しいならお前もリリンの家人になっちまえーとかダルム兄が怒っちゃって、あなたこそいつになったら婚儀をあげるのよーとかヴィナ姉が言い返して、ものを投げたり髪を引っ張ったり……で、最後はふたりともドンダ父さんに怒鳴られてたー」
「うーん。それは微笑ましいと受け取ってもいいことなのかな……?」
「うん! リミは楽しかったよ!」
ならば、深刻な喧嘩ではなかったのだと、俺も信じたいところであった。
そして驚くべきことには、背中でその話を聞いていたアイ=ファが、肩を震わせてくすくすと笑い声をあげたのだった。
「すまん。ルウ家にとっては一大事なのであろうが、想像したら笑いをこらえることができなくなってしまった」
「うん、ルドとかティト・ミン婆とかも笑ってたよー。レイナ姉はおろおろしてたし、ジザ兄は呆れたみたいに黙り込んでたけど」
呆れるぐらいで済んだのならば幸いだ。かくもシュミラルの存在は、ルウ家を騒がせることになってしまったわけである。
しかし、どちらかというとその責はヴィナ=ルウの側にあるのではないかと思えてしまうのは、如何ともし難い人徳の差であった。
そんな風にとりとめもなく言葉を交わしている間に、いよいよサウティの集落に到着する。
本家の脇には、すでに箱形のトトス車がとめられていた。
ジェノス侯爵家とダレイム伯爵家の紋章が掲げられた、2台の荷車である。このたびの一件にはトゥラン伯爵家が大きく関わっているはずであるが、その紋章は見受けられなかった。
が、かまどの間を目指してみると、そこには入り口のところに突貫で屋根が張られており、その下には懐かしきトルストの姿もあった。トゥラン伯爵家の当主たるリフレイアの、後見人である人物だ。
さらに、そのかたわらに控えている人物の姿に、アイ=ファたちは緊張の色を見せた。
東の民のように革のフードつきマントを纏ったその人物は、リフレイアの従者たるサンジュラであった。
「ご足労をかけたな。元気そうで何よりだ、ジザ=ルウ」
白革の甲冑ではなく、動きやすそうなジャガル風の装束を纏ったメルフリードが、まずはそのように声をあげた。もちろんこちらも、サンジュラと似たり寄ったりの雨具を着込んでいる。
近衛兵団の団長としてではなく、森辺の民との調停役として訪れた、という意味合いがその装いには込められているのだろうか。何にせよ、冷徹で凛然としたたずまいには何の変わりもない。
「うむ」と目礼を返しつつ、ジザ=ルウはその場に居並んだ人々を見回していく。
森辺の民との調停役であるメルフリード、その補佐官であるポルアース、リフレイアの後見人トルスト、リフレイアの従者サンジュラ――名前がわかるのはその4名のみで、あとは護衛役の武官たちである。その数は、10名以上にも及んでいた。
そして、大きく張られた屋根の下には、ダリ=サウティともうひとりの若き狩人が立ちつくしている。俺の記憶に間違いがなければ、それはサウティの眷族たるヴェラの本家の家長であるはずだった。先代家長は森の主との戦いで狩人としての力を失ってしまったため、まだ年若い彼がその重責を担うことになったのだ。
俺たちがダリ=サウティらの横に並んで相対すると、今度はポルアースがにこやかに笑いかけてきた。
「病魔の話は聞いていたよ、アスタ殿! まさか『アムスホルンの息吹』が渡来の民にそのような災難をもたらすものだとは知らなかった。とりあえず、元気な姿を見ることができてほっとしているよ」
「はい、ありがとうございます」
「それにつけても、まさかこのような形で森辺の集落に足を踏み入れることになろうとはね! まったく世の中、何がどう転ぶかわからないものだよ」
そう、城下町の貴族が森辺の集落に足を踏み入れるというのは、この80年の歴史の中でも、まだたったの2度目であるはずだった。
最初に足を踏み入れたのは、誰あろうリフレイアである。
父親の悪行が暴かれたのち、彼女は俺たちのもとを訪れて、最後にサイクレウスのためにギバ料理の晩餐をふるまってほしいと願い――そうして、長くのばしていた髪を、その代償として切り落としてみせたのだった。
そのときにも同行していたのが、このサンジュラだ。
東の民との混血で、東の民にしか見えない風貌をしたサンジュラは、静かな表情で俺たちの視線を受け止めていた。
「まず、最初に告げさせてもらいたい。このサンジュラなる者は、すでに鞭叩きの刑罰で罪を贖った身であるが、森辺の民にとってはとうてい歓迎するような心持ちにはなれないところだろう。その心情を慮って、刀剣の類いはすべて取り上げてある」
メルフリードが灰色の瞳を冷たく瞬かせながら、そのように述べたてた。
「トゥラン伯爵家の当主たるリフレイア姫が、どうしてもこの者を同行させてほしいと願ったため、わたしの判断でそのように取り図らせていただいた。しかし、トゥラン伯爵家からはその責任を担うべきトルスト卿が同行しているのだから、このサンジュラなる者を必ずしも立ちあわせる必要はないようにも思える。よって、そちらがこの者の同行を忌避するならば、車の中に下がらせようと考えているのだが、如何なものであろうか?」
「……我々には、それを強く拒む理由はない。あなたがたが判断された通りに扱えば、それで問題はないように思える」
ダリ=サウティはそのように応じたが、ジザ=ルウは「しかし」と声をあげた。
「そうまでして、このサンジュラなる者の同行を願ったのは何故なのだろうか? その者は、トゥラン伯爵たる娘の従者に過ぎないのだろう?」
「そこのところが、わりと問題の要でもあるわけなのですよね。実を言うと、北の民に十分な食材を支給するべきと主張していたのは、そのトゥラン伯爵家の当主たるリフレイア姫なのです」
ポルアースの言葉に、ジザ=ルウは「ほう」とそちらを見やる。
「そのリフレイアなる娘は名目上の当主に過ぎず、実際にトゥラン伯爵家を取り仕切っているのは、そちらのトルストなる人物であるという話ではなかったか?」
「まさしく、その通りです。ですから、森辺のお歴々にも事情を説明する必要が生じてしまったわけですね。リフレイア姫にいっさい当主としての権限を与えないというのは、ジェノス侯爵と森辺の族長らの間で取り交わされた大切な約定でもあったわけですから」
そういった約定があったからこそ、リフレイアは俺という存在を拉致した罪も不問にされ、拘束を解かれることになったのである。それは、罪人として拘留されたままでは爵位を継承させることもままならない、という理由があってのことでもあった。
なおかつ、その提案を受け入れることと引き換えに、バルシャは盗賊時代の罪を許された、という裏事情も存在する。セルヴァの国王への体面から、トゥラン伯爵家を勝手に取り潰すことはかなわなかったため、マルスタインとしては何としてでも早急にトゥラン家の爵位をリフレイアに継承させる必要が生じたのだという話であった。
「その約定を違えたわけではない、ということをこの場で説明させていただく。提案をしたのはリフレイア姫であったが、それに承諾を与えたのは後見人のトルスト卿であるのだ。……それに相違はないな、トルスト卿」
メルフリードに一瞥されて、「は、はい」とトルストは目を伏せる。
くたびれたパグ犬のようにしわくちゃの顔をした、いかにも気弱げな壮年の貴族である。後見人をまかされるほどであるのだから、きっと気弱なだけの人物ではないと思うのだが、とにかくこの御仁はいつでもくたびれ果てているような印象があった。
サイクレウスが当主であった時代には日陰者であったのに、いきなり伯爵家の最高責任者にまつり上げられてしまい、大変な苦労を背負い込むことになった人物であるのだ。
「わ、わたしも最初はご当主の心情がわからなかったために、当惑させられることになりました。北の民を優遇することで、いったいご当主にいかなる利があるのかと……お笑いになられるかもしれませんが、わたしはその、北の民を使って謀反でも起こす心づもりなのではないかと、そのようなことまで疑ってしまったのです」
「何も笑いはしない。しかし、トゥランの北の民が石塀の外で蜂起したところで、ジェノス城を脅かすことはままならぬだろうな。特にトゥランに集められていたのは、戦の経験もない奴隷ばかりであるはずなのだから」
「は、はい。それでご当主のお考えをうかがったところ……どうもご当主は、自分の従者である北の民の娘に、その、情を移されたご様子であったのですな」
「従者である北の民って、あのでっけー女衆のことか」
じっとサンジュラの動向をうかがっていたルド=ルウが、いくぶん興味をひかれた様子でトルストを振り返った。
トルストは、かいてもいない汗をぬぐいながら、「はい」とうなずく。
「森辺の方々も、かつての伯爵邸で幾度かは顔をあわせておりましょう。それでご当主は、その娘と懇意にしている内に、トゥランにおける北の民の扱いについて思い悩むことになったそうなのです」
聞けば聞くほど、俺には意外な話であった。
しかし、いまやリフレイアの周囲には、サンジュラとシフォン=チェルしか残されていないのだ。
大罪人たるサイクレウスの娘であり、また、自身も人さらいの罪人であったリフレイアは、マルスタインたちから強く警戒されていた。それで、貴族としての社交の場からは遠ざけられ、名目だけの当主として生きていくことを余儀なくされたのである。
「ただし、そのような情だけで北の民の扱いを変えるわけにはまいりません。それでご当主は、北の民がもっとトゥランやジェノスに益をもたらすような存在になれるように手を尽くすべきだと主張され始めたのです」
すでにメルフリードたちは聞いた話であるのだろうし、森辺の人々はただけげんそうにしているばかりであった。北の民と身近で触れることになったダリ=サウティは彼らの境遇に心を痛めた様子であるが、本来的には森辺の民に関わりのある話ではないのだ。みんなの視線を一身にあびながら、トルストはひたすら恐縮していた。
すると今度は、そのかたわらにあったサンジュラが口を開いた。
「北の民、どのように扱うかは、セルヴァでもさまざまです。私、それほど多くの土地を巡ったわけではないですが――北部や王都の近在では、もっと粗雑に扱われ、それ以外では、もっと手厚く扱われている、思います。北の民、どれほど憎んでいるかで、差が出るようです」
シュミラルに負けないぐらい穏やかな声で、シュミラルよりもいくぶん流暢な口調である。狩人の中でも、特にアイ=ファとルド=ルウとシン=ルウは、油断のない目つきでその姿を見守っていた。
「それで、リフレイア、考えました。北の民、もっと手厚く扱えば、さらなる力を生み出せます。食事、待遇、よくすれば、それに必要な銅貨を上回る富、トゥランとジェノスにもたらすのではないかと」
「まあ、今回で言えば、それがフワノや砂糖やタウ油といった食材になるわけですね。実際の滋養うんぬんはもちろん、美味なる食事を口にすれば、もっと元気に働けるのではないかと、つまりはそういう話なわけです」
と、今度はポルアースが声をあげる。
「もともとトゥランでは、優秀な働き手にはそれなりの報酬を与えていたようなのですよ。西の言葉をきちんと覚えて、他の者よりも仕事に貢献すれば、上等な食事や寝床が与えられる、といったような。……その質をもっと向上させたいというのが、このたびのリフレイア姫の提案なわけですね」
「このジェノスは、セルヴァにおいてもきわめて南方に位置する町です。我々も、国境の争いとは無縁な生活を送っておりますので、北の民に憎しみや恨みといったものは抱いておりません。それでも北の民に自由を与えることは王国の法で固く禁じられているため、奴隷という身分を解くわけにはいかないのですが……しかしどうやら、他の土地では北の民に賃金を与えたり、中には北の民同士で伴侶を娶ることさえ許されていたりするようなのです」
ポルアースたちの口添えに元気を得たのか、トルストもいくぶん舌がなめらかになってきた。
「それが真実であるかは、これからジェノスを訪れる行商人などから詳しく話を聞いてみようと思っております。何せこの地における北の民というのは、前当主が独断でかき集めたものですので、我々としても扱いに困っていた部分があったのです」
「また、シムやジャガルの民などでは、北の民を粗雑に扱うことを不快に思う方々も少なくはないようなのですよね。どうも東と南では、敵国の人間を奴隷として扱う習わしもないようで……まあ、それを言ったらジェノスにおいても、そのようなものを扱う習わしはなかったのですが」
「しかし、いったん捕らえた北の民をマヒュドラに返すことも、王国の法では禁じられてしまっている。国境で戦う同胞にとって、それは敵に利する行為となってしまうからだ。解放された奴隷が北の兵士として刀を取ることになれば、そのぶん西の兵士が脅かされることになるのだから、それも致し方のないことなのだろうと思う」
トルスト、ポルアース、メルフリードにたたみかけられて、ダリ=サウティなどは少なからず辟易している様子だった。
「あなたがたにとって、北の民というのはずいぶん扱いの厄介なものであるようだな。それもまた、サイクレウスに自由を与えていた代償ということか」
「うむ。しかも、トゥランにおいては畑の仕事の大部分を北の民に担わせているために、町の人間には仕事が生まれず、人心が荒んでいったという側面もある。それは先頃に生じた物盗りの一件にも繋がっていく話なのだろう」
そのように述べながら、メルフリードはいっそう灰色の瞳を冷たく光らせた。
「ゆえに、北の民に関しては、今後もさまざまな状況と照らし合わせて、慎重に取り扱っていこうと考えている。……その上で、森辺の族長らに申し述べておきたいことがある」
「うむ。何であろうかな?」
「今後はそちらも、北の民に関しては慎重に扱っていただきたい。具体的に言うならば……北の民に情をかけて、我々に進言をするような真似は、差し控えていただきたいのだ」
わずかな緊張が、その場を走り抜けた。
最近はずいぶん友好的になっていたメルフリードから、ひさびさに冷たい刃のような圧力を感じることになったのである。
「我々は、余計な差し出口をしてしまった、ということなのかな。もっとまともな食事を与えれば、もっと仕事にも力が入るだろうに、というのは我々もトゥランの当主と同じ意見なのだが」
ダリ=サウティが穏やかに応じると、メルフリードは「うむ」とうなずいた。
「しかし、北の民について責任を持つトゥラン伯爵家の人間と森辺の民とでは、まったく立場が異なっている。さきほども申し述べた通り、北の民を手厚く遇するというのは、王国の法に触れかねない行いであるのだ。ましてや、ジェノスの領民に過ぎない森辺の民がそのようなことを進言するのは、本来許されぬことであると理解していただきたい」
ダリ=サウティは、「ふむ」としか言わなかった。
ジザ=ルウはもとより、糸のように細い目でメルフリードを見つめるばかりである。
緊迫感が、じわじわと高まっていく。それを横から打ち砕いたのは、いまだに笑顔であったポルアースであった。
「それぐらい、北の民というのは慎重に取り扱うべき存在である、ということなのですよ。そして、それを定めているのはジェノスではなく王国の法です。ジェノスで北の民の扱いを間違えれば、それはセルヴァの王からジェノス侯爵が罰せられることになる、というわけですね」
「セルヴァの王、か。しかし、王という者はここからトトスでひと月ばかりもかかる場所に住まっているという話ではなかったか?」
「その通りです。しかし、ジェノスはセルヴァにおいても非常に豊かな領地であるため、国王からはとても厳しい眼差しを向けられているのです。あまりにジェノスが力をつけると、国王の支配から脱して独立国家を僭称しかねない、と危惧しているわけですね」
そうであるからこそ、ジェノスの領地は三つの伯爵家にも分け与えられたのだと聞いている。ジェノス侯爵家だけが強大な権力と豊かさを独占してしまうという事態を恐れてのことなのだろう。
「それゆえに、王都からはたびたび視察の人間が訪れます。王都から届けられる食材というのは、その副産物のようなものなのですよ。そうした視察団は年に二、三度ほどもジェノスを訪れるので、きっと雨季が明ける頃にはまた姿を見せることでしょう」
「そういった王都の人間に今回のような話が伝わると、危険になるのは森辺の民なのだ。森辺の民は王政に歯向かう危険な一族なのだと見なされてしまったら――我々とて、それを救うことは決してかなわないだろう」
そう言って、メルフリードはジザ=ルウとダリ=サウティの姿を見比べた。
「わたしは森辺の民との調停役として、またジェノスの次期領主として、森辺の民と正しい縁を紡いでいくべきだと感じている。だからこそ、軽率な行動はつつしんでいただきたい。これは、現当主であるジェノス侯爵マルスタインも同じ考えでいることだ」
「どうもこれは、家の外の立ち話で済むような話でもないようだな」
ダリ=サウティは、その四角い顔に力強い笑みを浮かべた。
「今の言葉は、森辺の族長として確かに聞き届けた。俺たちには俺たちの気持ちや言い分というものも存在するが、俺たちの君主はジェノス領主であるということを忘れたわけではない。また三族長がそろった場で、あなたがたとは納得いくまで言葉を交わさせてもらいたく思う」
「了承した。……思うに、森辺の族長との会合が三月に一度というのは、用が足りていないのではないだろうか。月に一度か、少なくとも二月に一度ぐらいには機会を増やしたいように思う」
「うむ。それもまた俺から他の族長たちに伝えておこう。俺個人としては、まったくの同感だ」
そうしてようやく、その場の張り詰めた雰囲気はいくらか緩和されたようだった。
「それでは、本日の仕事に取り組みましょうかね。ちょうど北の民のかまど番たちも到着したようですし」
ポルアースの言葉に振り返ると、新たな荷車がこちらのほうに近づいてくるところだった。
御者台に座しているのは、雨具を纏った西の民だ。おそらく、衛兵なのだろう。雨具の合わせ目から革の胸あてが覗いている。
そうして彼が地面に降り立ち、メルフリードらに敬礼したのち、荷車の戸を引き開けると――ついにそこから、北の民の女衆がぞろぞろと姿を現したのだった。




