アムスホルンの息吹⑤~安らぎの日々
2017.2/17 更新分 1/1 2/25 誤字を修正
約束通り、トゥール=ディンとユン=スドラは中天の頃に再びファの家を訪れて、俺のための食事をこしらえてくれた。
とはいえ、内容は具なしの『ギバ・スープ』である。まるまる3日も食事をとっていなかったのだから、それ以上の重い食事などは望むべくもなかったのだった。
しかしまた、その食事は俺にとてつもない感動をもたらしてくれた。
ギバ肉と野菜で出汁を取り、わずかな岩塩とタウ油で薄く味をつけられただけの、至極簡単なスープである。その簡単な料理からもたらされる滋養と温もりが、俺の情動をこれでもかとばかりに揺さぶってきたのだった。
栄養の欠乏していた肉体に、必要なものがすみやかにしみわたっていく。それはまるで細胞の一粒ずつが喜びに打ち震えているかのようであり、俺はしばらく言葉も出ないほどであった。
俺の肉体は、完全な飢餓状態であったのだ。それでいて、手ひどい衰弱状態にもある。いきなりギバ肉などをかじったら、それこそ生命に関わっていたかもしれない。実際、彼女たちは蒸し籠でやわらかく仕上げたフワノの生地というものも準備してくれたのだが、そちらはひと口かじっただけで、俺は本能的な危険を感じることになってしまった。
「やっぱり形のある食事はまだ早かったですか。すーぷにポイタンやフワノを溶かし込むと美味しさが損なわれてしまうため、どうしても使う気持ちになれなかったのです」
「だけどやっぱり、フワノかポイタンのどちらかは口にするべきですよね。生ではなく粉のポイタンを別の鍋で溶かしてみますので、それも召し上がってください」
そうして『ギバ・スープ』の後には、ポイタン汁も準備されることになった。
粉にした後のポイタンをただ煮込んでも、生のポイタン汁よりわずかに飲み口がやわらかくなるばかりである。これを本当の意味で美味であると感じることは難しいだろう。
しかし、それもまた俺には必要な滋養であった。
小麦粉を水に溶いたようなものなので、とうてい美味とは思えないのだが、不快だとも思わなかった。それに、今の俺は水分そのものも激しく欲していたので、食欲中枢とは別の部分で喜びや快楽を見出すことができているような気がした。
そのポイタン汁でもわずかな塩とタウ油が使われており、それがまた俺を深く満足させてくれた。気分としては、重湯やおかゆを食しているようなものだった。
何にせよ、俺はトゥール=ディンたちのおかげでまたさらなる力を取り戻すことができた。
この日に食べた料理の味を、俺が忘れることはないだろう。俺がその気持ちを伝えると、トゥール=ディンはまた感じやすい瞳に涙を浮かべてしまっていた。
そして俺が残した蒸しフワノと、『ギバ・スープ』の具材のほうは、アイ=ファが綺麗にたいらげてくれた。さらにアイ=ファは干し肉までかじっており、ここ数日の看護疲れを力強く癒している様子だった。
「それでは、また夕刻に晩餐を作りに来ますので」
長居をしては悪いと思ったのか、トゥール=ディンとユン=スドラはすみやかに帰っていった。
その後に訪れたのは、ルウ家およびその眷族の面々である。
顔ぶれは、レイナ=ルウ、リミ=ルウ、ルド=ルウ、ガズラン=ルティムというものであった。宿場町の商売は休業日であるし、狩人の仕事も雨季の間は普段以上に過酷なものになるので、数日に1度は休みを入れているのだという話であった。
「よー、無事に目が覚めたんだな。ま、大丈夫だとは思ってたけどよ」
ルド=ルウは、あっけらかんと笑っていた。
リミ=ルウも満面の笑みであるし、ガズラン=ルティムも静かに微笑んでいる。レイナ=ルウも取り乱すことはなかったが、その目にはうっすらと涙が浮かべられていた。
「きっと今日には目覚めるだろうけど、あんまり騒がしくしちゃだめーってミーア・レイ母さんに言われたからさ。誰が様子を見にいくか、『モルガの三すくみ』で決めてきたの!」
『モルガの三すくみ』というのは、いつだったか俺がルウ家に普及させた、いわゆるジャンケン遊びである。紙もハサミも存在しないこの地ではパーやらチョキやらの概念を伝えるのが難しかったので、狼や大蛇や野人をなぞらえることになったのだった。
「ララやシーラ=ルウも来たがっていたのですが、今日はわたしとリミが資格を勝ち取ることになりました。アスタがおつらくなければ、明日にでも他のみんなが駆けつけると思います」
「私も父ダンを説き伏せるのには苦労をしました。あの大きな笑い声は、いささかならず今のアスタにはおつらいでしょうから」
決して取り乱さないレイナ=ルウとガズラン=ルティムの優しい言葉も、俺には何よりありがたかった。
「アスタ、すっげー痩せちゃったな! コタなんて、今じゃあすっかり元気になって、肉もポイタンもがつがつ食ってるぜー?」
「うん、コタ=ルウも試練を乗り越えられて、本当によかったね」
「ルウ家じゃ『アムスホルンの息吹』で魂を返す子供なんて、ほとんどいねーもんよ。……でも、幼子じゃないと余計に苦しむってのは本当のことだったんだな。昨日の朝方なんか、家の外にまで苦しそうな声が聞こえてたぜ?」
そのように言いながら、ルド=ルウは少し離れた場所に座しているアイ=ファのほうを振り返った。
「家族の苦しむ姿を見るのはつれーよな。しかもアイ=ファはひとりでアスタの面倒を見てたんだろうから、ほんとに立派だと思うよ」
「その代わりに他の仕事を近在の女衆が肩代わりしてくれたので、どうということはない。血の縁も持たぬのにそうして力を貸してくれた者たちこそが、立派と賞賛されるべきであろう」
「そいつらも立派だけど、お前だって立派だよ。ま、そんなことはアスタだってわかってるだろうけどさ」
俺は万感の思いを込めながら「うん」とうなずいてみせた。
家の外まで苦しむ声が聞こえたというのは、初耳だ。それでアイ=ファがどれほど心を痛めることになったのか、想像しただけで胸が痛くなってしまった。
なおかつ、ずっと朗らかに笑っているルド=ルウも、そうしてひっきりなしにファの家を訪れてくれていたのだ。この数日間で、俺がどれだけ大勢の人々に心配をかけ、その手をわずらわせてしまったのか、あらためて思い知らされた心地であった。
こういうときに、「申し訳ない」という気持ちが先に立ってしまうのが、俺の性分である。
しかし、そういった気持ちは森辺において「水臭い」と称されることが多い。だから俺は、申し訳なさではなく感謝の気持ちを込めて、みんなに「ありがとう」と伝えさせてもらうことにした。
「そんな、いちいちあらたまんなよ!」
笑いながら、ルド=ルウが右手を振り上げた。
が、すんでのところで、その動きは止められる。たとえ親愛のスキンシップであっても、今の俺に狩人の平手打ちを受け止められる体力はない、と思いなおしてくれたのだろう。
そうしてルド=ルウが腕を上げた体勢のまま後方を振り返ると、アイ=ファもまた腰を浮かせかけた体勢で停止していた。ルド=ルウの腕が振りおろされていたならば、その痛撃が俺に届く前に、アイ=ファにつかみかかられていたのかもしれない。
「あぶねーとこだったな! ラウ=レイにはしばらくアスタに近づくなって言っておいたのに、俺がおんなじ失敗をするところだったぜー」
「ラウ=レイに忠言してくれたのか。……それには心から感謝の言葉を述べさせてもらおう」
まったくさんざんな言われようであるが、俺のほうこそラウ=レイの荒々しいスキンシップを受けられるように、一刻も早く復調したいところであった。
そうしてその日はルド=ルウたちもわずかな時間でファの家を退去していった。誰も彼もが俺の身体を気遣ってくれているのだ。トゥラン伯爵家が北の民に新たな食材を支給したという一件は気になっていたが、堅苦しい話はもっと体力を取り戻すまでこらえたほうが懸命であるようだった。
それから日が暮れるまでの数刻は、ひたすら寝具にもぐっての休息である。
俺の要望に従って、アイ=ファはずっと添い寝をしてくれていた。きっとのちのち考えたら、どれほどアイ=ファに甘えていたかと気恥ずかしくてたまらなくなってしまうのだろうが、その頃の俺に格好をつけている余裕などは微塵たりとも存在しなかった。
俺はあんまり重い病気をしたことがなかったので、こういう際に人間がどれほど弱りはて、心細くなるかということを、まったくわきまえていなかったのだ。俺は小さな子供のようにアイ=ファの温もりを求めて、アイ=ファは優しくその要望に応えてくれた。家人の堕落を許すアイ=ファではないので、アイ=ファにもこれは必要な行いであると認めてもらえたのかもしれなかった。
「私が手傷を負った際も、アスタの存在が何よりの支えになってくれた。今は私がアスタの支えになれるのなら、それはこの上もなく嬉しく思える」
俺がとろとろと微睡んでいる間、そのかたわらにぴったりと身を寄せたアイ=ファは、とてもやわらかい声音でそのように言ってくれていた。
そして、その晩までは最初と同じく具なしの『ギバ・スープ』とポイタン汁が供されることになった。
アイ=ファのほうは、普通のスープと焼き肉と焼きポイタンだ。俺が病に倒れた日から、近在の女衆はこうしてアイ=ファの晩餐の準備まで受け持ってくれていたのだった。
だが、俺が目覚めてからは、その役目はすべてトゥール=ディンとユン=スドラが受け持つことになった。病みあがりの俺の食事の準備をするのは、近在でも指折りの力量を持つその両名が受け持つべきだという話になったらしい。商売のある日も、下ごしらえと一緒に俺の食事を仕上げてくれるとのことであった。
「きっと明日か明後日ぐらいには、蒸したフワノの生地ぐらいだったら口にできると思うんだ。全部は食べきれないかもしれないけれど、また準備をお願いできるかな?」
「もちろんです! 他に何か、アスタの口にしたい料理や食材などは存在しますか?」
「そうだなあ。……あ、ポイタン汁にはギーゴのすりおろしを入れてくれると、いっそう飲みやすくなるかもしれない。ずっと前にルウ家で試したことがあるんだ」
「ギーゴですか。あれは滋養も豊かであるそうですし、ぜひ試してみようと思います」
「あと、キミュスの卵をかきまぜて、固くなりすぎないていどに焼いてくれたら食べやすいかも」
「ああ、卵も滋養が豊かなのですよね。……すみません、このような際であるのに、けっきょくわたしたちのほうが学ばされてしまっています」
「とんでもないよ。たぶん、2、3日もすれば自分で晩餐の準備ぐらいはできるようになると思うから、それまではどうぞよろしくお願いします」
俺がそのように述べてみせると、トゥール=ディンたちもかしこまった様子で礼を返してきた。
「たとえ2、3日でも、アスタの晩餐をご用意できるというのは、ものすごく光栄なことです」
「はい。しかもアスタは、そうしてとても幸福そうなご様子でわたしたちの作ったものを食べてくださるので……それがまた、胸が詰まるぐらい嬉しく感じられてしまいます」
「俺のほうこそ、人が自分のために作ってくれたものを食べるというのはあまりないことだから、とても嬉しく感じているよ」
特に、日常の晩餐で人の料理を食べるというのが、俺にとっては希少な体験であった。
しかもこれは、俺のためだけに考えて作られた食事であるのだ。俺が食べやすいのはどのような料理か、俺が美味と思うのはどのような料理か、と彼女たちが頭をひねってこしらえてくれたものなのである。そういった思いまでもが加味されて、俺に喜びと幸福感を与えてくれたのだろうと思う。
そうしてトゥール=ディンたちが帰っていった後、暗がりでアイ=ファと身を寄せ合いながら、俺は心中に生まれた気持ちを告げてみせた。
「人が自分のために料理を作ってくれるっていうのは、こんなに嬉しいものなんだな。それを知らなかったはずはないのに、何だか痛切に思い知らされてしまったよ」
「うむ……?」
「早くアイ=ファに俺の料理を食べてもらいたい。アイ=ファがこんなに嬉しい気持ちを抱いてくれていたなら、俺は幸福だ」
アイ=ファは吐息のような笑い声をもらし、俺の身体を抱きすくめてきた。
もう就寝時にかまどの火を焚くこともなかったので、俺はアイ=ファの温もりだけを全身に感じながら眠りに落ちることになった。
◇
それからの数日間は、休養とリハビリの期間であった。
『アムスホルンの息吹』は風邪のようにぶり返す病気ではないので、いったん回復したなら後は快方に向かうばかりなのである。
とはいえ、俺は幼子でもなくこの病にかかってしまったので、すべてが通例の通りにはいかなかった。とにかく体力を削られに削られていたので、無理をして別の病を招いてしまわないようにと慎重にふるまうことを余儀なくされたのだ。
回復して2日目は、やはり具なしの『ギバ・スープ』とポイタン汁、それにキミュスの炒り卵のみを口にすることになった。
その翌日から、こまかく刻んだ肉とアリアもスープに加えてもらい、きちんと形のある食材を口にするようになったのは、さらにその翌日からのことであった。
それでもギバ肉はミンチのみにとどめてもらい、野菜もくたくたになるまでやわらかく煮込んでもらった。香草などの刺激物も避けて、タウ油と砂糖を中心に薄めの味付けをお願いすることになった。
そういった『ギバ・スープ』に、蒸したフワノをひたして食べる。時にはワンタンのように茹であげてもらい、とにかく消化をするのに苦にならない形で俺は各種の栄養を摂取し続けた。
その頃には、痩せ細った身体にも多少の肉が戻ってきていた。
肌にも水気と弾力が戻り、まず真っ先に頬肉と目の下の隈が改善された。長袖の服を着てしまえば、もう外見的にはほとんど変わりもなかったのではないだろうか。その日の夜、アイ=ファがしみじみと俺の姿を見つめてから、ぎゅっと身体を抱きすくめてくれたのは、きっとそういうことなのだろうと思う。
俺がリハビリを兼ねてかまどに立つ決断をしたのは、その翌日のことだった。
日取りとしては、茶の月の13日である。雨季に入って10日目、俺が目を覚ましてから5日目のことだ。
もちろんまだ完全に復調はしていなかったが、目眩や立ちくらみを感じることはなくなっていた。重いものを運んだりしなければ、みんなに心配をかけることもないだろう。疲れたときは、休ませてもらえばいい。それぐらいにゆとりをもった上での、暫定的な復帰であった。
まず最初に為すべきは、朝方の仕込み作業であった。
屋台の商売はトゥール=ディンたちの尽力によって継続されていたので、毎日ファの家のかまどの間ではその下ごしらえの仕事が為されていたのだ。定刻に、俺がかまどの間に向かうと、そこに集まったみんなからは拍手と笑顔を差し向けられることになった。
ここまでの何日かで、顔なじみの人々はかわるがわるお見舞いに来てくれていた。ガズやラッツやベイムはもちろん、南の果てからはダリ=サウティとミル・フェイ=サウティが、北の果てからはスフィラ=ザザとレム=ドムまでもが来てくれていたのだ。恥ずかしながら、俺が病魔に倒れてそこから復帰したという話は、フォウとベイムの連絡網によって森辺中に知らしめられていたのである。
よって、近在の女衆などは、そのほとんどが1度はお見舞いに来てくれていたぐらいであると思うのだが、それでもやっぱり、寝具にうずもれていた俺が仕事の場に現れることで、まったく異なる安心感を与えることがかなったのだろうか。人々は本当に幸福そうな顔で笑ってくれており、俺は涙をこらえるのが大変なほどであった。
そうして朝方の2時間ぐらいをかけて、屋台や宿屋の料理を仕上げた後は、家に戻ってまた休息である。眠りたい、とまでは思わなかったが、みんなの戻ってくる昼下がりまでは、十分に休んでおくべきだろうと思われた。
アイ=ファの苦悩が始まったのは、このあたりからである。
つまりは、いつ狩人としての仕事を再開させるか、という悩ましい問題であった。
「俺ももう倒れたりはしないだろうから、そういう意味での心配は不要なんじゃないかな」
俺がそのように述べてみせると、アイ=ファは迷うことなく唇をとがらせた。
「……お前に悪意がないということはわかっているが、私の存在など不要だと言われているような心地がして、気分が悪い」
「ええ? そんなつもりは、まったくなかったんだけど……」
「そんなつもりがないことはわかっている。つまりこれは、私の弱さや未熟さからもたらされる気持ちなのだ」
そうしてアイ=ファは、寝具の上に座した俺のもとに屈み込んできた。
「アスタが元気になったのだから、これほど喜ばしいことはない。しかし……昨日までのお前は、幼子のようでとても可愛かった」
「そ、そうか。だけど、俺がそんな状態から抜け出せなかったら大変なことだよな」
「それも重々わかっている。しかし、とても可愛かったのだ」
このような言葉を述べられて、俺はどのように対応するべきだったのだろうか。
その答えを見つけられない内に、アイ=ファはまた俺の寝具にもぐりこんできた。
そうして俺の肩をつかんだかと思うと、やわらかくも力強い所作で敷布の上に引き倒してくる。
「アスタが完全に力を取り戻したあかつきには、こうして同じ寝具で眠ることも許されぬのだろうな」
「うん、まあ……そうなんだろうな」
アイ=ファの指先が、衣服の上から俺の脇腹をまさぐってきた。
くすぐったさが尋常でなかったが、アイ=ファはとても真剣な目つきをしていたので、俺はぐっとこらえてみせる。
「いまだにあばらがはっきりと浮いている。アスタが完全に力を取り戻すのには、まだ数日ばかりの時間がかかろう」
「うん、俺もそう思うよ」
「……『アムスホルンの息吹』というのは、一度かかれば二度とかからぬ病だ。だから、私がここまで心を乱されることも、この先はそうそう訪れぬことだろう」
そうしてアイ=ファは、脇腹にあてていた手を顔のほうにのばしてきた。
アイ=ファの温かい手の平が、俺の頬にひたりと当てられる。
「だから……もう数日は狩人の仕事を休んで、お前の様子を見守りたいと思う。狩人として、家長として、それが正しい行いなのかはわからないが……この気持ちを押し殺すことが正しいとは思えぬのだ」
「うん。これからはアイ=ファに心配をかけないように心がけるよ」
「今回は、そのような心がけが通用するような災厄でもなかったであろうが? お前に罪はないのだ、アスタよ」
そうしてアイ=ファは、ようやく微笑んでくれた。
「私は、未熟だな。しかし、この数日を乗り越えた後は、これまで以上に強い気持ちで狩人の仕事に励むということを、ここで森に誓ってみせよう」
「うん」と応じながら、俺もアイ=ファの頬に手の平をあててみた。
アイ=ファは嬉しそうに目を細めながら、いつまでも俺の顔を見つめていた。
◇
その翌日の朝方には、実に賑やかな面々がファの家を訪れてくれた。
ダン=ルティムとガズラン=ルティム、ラウ=レイとギラン=リリン、それに何とシュミラルまでもが加わっての豪勢なメンバーである。ガズラン=ルティムとシュミラルは寡黙なタイプであったが、それを補ってあまりある3名の賑やかさであった。
「もうすっかり力を取り戻せたようではないか! ずいぶんひどいありさまであったと聞いて、俺も心を痛めていたのだぞ!」
そのように述べながら、ダン=ルティムはガハハと笑っていた。
同じように、ラウ=レイも楽しそうに笑っている。
「俺たちはやかましいので、ファの家を訪れるべきではないなどと言われていたのだ。ひどい言い草とは思わぬか、アスタ?」
「う、うん、そうだね。まあ、俺も数日前まではかなり弱り果てていたからさ」
「しかし、力を取り戻せたのなら何よりだ。ここでアスタを失うのは、我々にとってもとてつもない悲しみであったからな」
比較的穏やかなギラン=リリンは、やわらかく微笑みながらそのように述べていた。
そのかたわらで、シュミラルはいっそう穏やかに微笑んでいる。
「話、聞いたとき、驚きました。『アムスホルンの息吹』、このような形、訪れること、あるのですね」
「はい。みんなのおかげで、大事に至らず済みました。……シュミラルもすっかり元気になられたようですね」
「はい。二日前から、狩人の仕事、再開しています」
シュミラルが負傷してからも、すでに10日ぐらいが経過しているのだ。背筋を真っ直ぐにのばして座したシュミラルは、俺が知る通りのシュミラルそのものであった。
「それじゃあ、ヴィナ=ルウもルウの集落に戻られたのですか?」
「はい。二日前の朝、戻りました。心づかい、無駄にせぬよう、励みたい、思っています」
と、シュミラルは恥ずかしそうに目を伏せてしまう。
ギラン=リリンとウル・レイ=リリン、シュミラルとヴィナ=ルウ、そして時には幼子たちも交えて、リリンの本家ではどのような縁が紡がれていったのか、なかなか想像が難しいところである。ギラン=リリンはにこやかに微笑んだまま、とりたてて口をはさんでこようとはしなかった。
「ヴィナ=ルウのほうもそこまで執心しておるのであれば、とっとと婿入りを認めてしまえばいいものをな!」
遠慮というものを知らないダン=ルティムが豪放にそう言い放つと、ラウ=レイも「まったくだ!」と同意していた。
「しかし、俺はヴィナ=ルウのようにくにゃくにゃした女衆は苦手だな。女衆でも、毅然としていたほうが好ましかろう」
「毅然、私、女衆に求めてはいません」
このような場でシュミラルがダン=ルティムたちと交流を結ぶさまというのも、かなり新鮮なものがあった。
そんな中、ガズラン=ルティムは静かに微笑んでいる。
俺が意識を失っている間、もっとも頻繁に姿を見せてくれていたのはこのガズラン=ルティムであるらしいのだが、俺が復調した後も、それほど多くの言葉が届けられることはなかった。ただ、こうして優しい眼差しで見つめられているだけで、彼がどれほど心配してくれていたか、今ではどれほど安心してくれているか、それを察するのは容易なことだった。
「ところで、明日の話については、もうアスタも聞かされていますか?」
ガズラン=ルティムがようやく言葉らしい言葉を発したのは、そろそろ一同が帰り支度を始めようとしていた頃合いであった。
「明日ですか? いえ、特に何の話も聞いてはいませんが」
「そうですか。城下町からサウティの集落に、視察の人間が訪れるとのことでした。森辺の女衆がどのような手ほどきをして、北の民たちがどれほどの力をつけることができたか、それを見届けたいとのことでした」
「ああ、そうなのですね。明日ということは、たしか……」
「はい。宿場町での商売は休みの日となりますね。ルウ家からは、手ほどきをした責任者としてリミ=ルウを立ちあわせるそうです」
俺がこのような状態になってしまったため、リミ=ルウが責任者に繰り上げられてしまったのだ。実際、俺は2日間しかサウティの集落に出向いていないので、今ならばリミ=ルウのほうがよっぽど責任者の名に相応しかっただろう。
「でも、献立を決めたり、タウ油と砂糖を所望したりしたのは、俺なのですよね。何か不備があったとしたら、その責任は俺にあります」
「いえ。そもそもアスタに助力を願ったのはダリ=サウティなのですから、その責任は自分にあると述べています。不備を責められるのではなく賞賛を得られるのならば、それはアスタとリミ=ルウに向けられるべきだとも述べていましたが」
そう言って、ガズラン=ルティムはまた静かに微笑んだ。
「何にせよ、アスタにとっては重要な意味を持つ話なのではないかと思い、伝えさせていただきました。病みあがりの身体で無理にサウティの集落まで出向く必要はありませんが、いちおう心におとどめ置きください」
「はい、ありがとうございます」
それで会話も一段落したと見て、他のメンバーは立ち上がった。
同じように腰を上げかけたガズラン=ルティムは、最後にそっと俺の手を握りしめてきた。
「アスタがずいぶん力を取り戻せたようで、私も心から嬉しく思っています。アマ・ミンは身重ですのでファの家を訪れることもできませんが、私と同じ気持ちです」
「はい、俺のほうこそ、本当に嬉しく思っています」
俺はせいいっぱいの気持ちを込めて、ガズラン=ルティムの頑健な指先を握り返してみせた。
ガズラン=ルティムは最後にひときわ優しげな微笑をこぼしてから、みんなの後を追ってファの家を出ていった。
「本当にたくさんの人たちが俺なんかを気にかけてくれて、ありがたい限りだよ。元気になったら、こっちからみんなの家を巡って御礼の言葉を届けたいぐらいだな」
ファの家が静けさを取り戻した後で俺がそのように述べてみせると、アイ=ファは「うむ……」と物思わしげに応じながら、寝具のそばに膝をついてきた。
その青い瞳が、真摯な光をたたえて俺を見つめてくる。
「アスタよ、お前はきっとサウティの集落に出向きたいと考えているのだろうな」
「え? うん、それはもちろん。……でも、無理をするべきじゃないってこともよくわかっているつもりだよ」
「うむ」とうなずきながら、アイ=ファは両手を俺の脇腹にのばしてきた。
その温かい手の平が、また衣服の上から俺の身体をまさぐってくる。これはアイ=ファにとって健康診断のようなものであるらしいので、その日も俺は懸命にこらえてみせた。
「……1日が過ぎるごとに、お前の身体は力を取り戻している。今の時点でも、お前が初めて森辺を訪れた頃と変わらないぐらいの状態であろう」
「それは、森辺の生活で鍛えなおされる以前の状態ってことか。それなら、貧弱だけれど健康体って解釈でいいのかな?」
「うむ。幼子のように貧弱で、手荒に扱ったら壊してしまいそうなほどだ」
素直に過ぎる感想を述べながら、今度は俺の頬をぺたぺたとさわってくる。しまいには、口の中を覗き込んだり、首筋に手をあててきたりと、本日は特に念の入った診断であった。
「……いきなり宿場町に下りるよりは、サウティの集落に出向いてみるというのも悪い話ではないかもしれんな。荷車に揺られたり、雨に打たれたり、長きの時間を立って過ごしたりしてみれば、自分にどれほどの力が戻っているかを正しく知ることもかなうであろう」
「それじゃあ、俺も参加させてもらってもいいかなあ? 城下町の人たちがどういう気持ちで新しい食材を届けてくれたのか、俺はずっと気になっていたんだよ」
「うむ。今ならば、私も護衛役として同行することもかなうしな」
アイ=ファはうなずき、寝具の上に腰を下ろしてきた。
毛布の中に忍び込んできたアイ=ファの足が、俺の足にぴたりと寄せられてくる。
「明日の疲れ具合などから、宿場町での仕事を再開させる日取りを決めるがよい。そうしてお前が宿場町に下りられるようにまでなったら、私も狩人としての仕事を再開させよう」
「うん、わかったよ」
「……それでは、休息するがいい」
アイ=ファが俺の肩に頭をもたせかけてくる。
その重みにうながされるようにして、俺は敷布の上に身を横たえた。
アイ=ファは目を閉ざし、俺の片腕をぎゅっと抱きすくめると、肩のあたりに頬をすりつけてくる。それはもはや頼もしい保護者ではなく、甘えてくる子猫のような仕草に感じられてならなかった。それだけ俺は力を取り戻し、アイ=ファの内からも張りつめたものがなくなってきた、という証なのだろう。
俺がファの家を訪れて以来、ここまでふたりして仕事を為さず、ひたすら甘やかな時間を過ごしたことはなかったはずだ。
休息の期間すらも慌ただしく過ごしていた俺たちにとって、この時期こそが初めて訪れた骨休めの期間なのかもしれなかった。
そうしてふたりで黙り込んでしまうと、細い雨がぱらぱらと屋根を叩く音色が聞こえてくる。
雨の休日に、アイ=ファと身を寄せ合って、ただその音色を聞いている。これもまた、俺にとってはかけがえのない記憶になるはずだった。
(……これで俺が完全に回復したら、アイ=ファも何事もなかったかのように毅然とふるまうんだろうしな)
堕落を嫌うアイ=ファであるので、俺がその一点を疑うことはなかった。
だから俺はアイ=ファと同じように、今後はまたこれまで以上に力を振り絞って仕事に励むということを森に誓いながら、今だけはこの幸福で放埒な時間に身をゆだねることにした。




