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異世界料理道  作者: EDA
第二十五章 モルガの御山洗(上)
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アムスホルンの息吹④~森辺の同胞~

2017.2/16 更新分 1/1

「……お前が家の裏で倒れてからは、近在の女衆が交代で面倒を見てくれていたのだ」


 やがて落ち着きを取り戻したアイ=ファは、手桶の水で手ぬぐいを絞りながら、そのように語り始めた。

 俺は木の壁にもたれながら、その言葉を聞いている。背中には毛布をあてがわれていたし、足もとには敷布を敷かれているので、体勢的につらいことはない。ただ、アイ=ファの身に触れていない心細さは、まだ少し残されてしまっていた。


「私はお前のそばを離れられなかったので、晩餐の支度や洗い物などを、その女衆が受け持ってくれたわけだな。朝方から晩になるまで、1日に何度となく誰かしらがファの家に立ち寄ってくれていた。今日も間もなく、誰かがやってくることだろう」


「そっか……アイ=ファだけじゃなく、みんなに迷惑をかけちゃったな」


「迷惑という言葉には当たらない。ただ、家人でもないのに力を添えてくれた女衆には、深く感謝するべきであろうな」


 アイ=ファは静かに述べながら、俺の右腕から手ぬぐいで清め始めた。

 そんな風に布ごしに触れられているだけで、アイ=ファの存在を身近に感じることができてしまう。この痩せ細った身体と同じかそれ以上に、俺は心を消耗させられてしまっていたのだった。


「屋台の商売も、トゥール=ディンらが見事にこなしてくれていた。サウティの家においては、リミ=ルウがお前の代わりをつとめてくれたようだ」


「リミ=ルウが、サウティで……?」


「うむ。お前のサウティにおける手際を見守っていたのは、リミ=ルウなのであろう? なので、少しはサウティの力になれるはずだと、そのように述べていたな」


 俺たちが働くさまを熱心に見守っていたリミ=ルウの姿を思い出し、俺は「そうか」と微笑んだ。

 その間に、アイ=ファの手は逆側の腕に移動している。


「近在の氏族ばかりでなく、ルウ家やその眷族からも、たびたび様子を見に来る者たちが訪れたのだ。その中でも、レイナ=ルウやガズラン=ルティムは毎日のように姿を見せていたな」


「うん……元気になったら、みんなにお礼を言わないとな」


 すると、俺の左腕を清めていたアイ=ファの手が、ぴたりと止まった。

 どうしたのだろう、と振り返ると、アイ=ファは奇妙な感じに口もとをごにょごにょと動かしている。これは、唇をとがらせるのを懸命にこらえている合図であった。


「アスタよ、これはもっとお前が力を取り戻してから問おうと思っていたことなのだが……」


「うん、何だろう?」


「……レイナ=ルウというのは、お前にとって何か特別な存在であるのか?」


 俺は、きょとんとしてしまった。

 アイ=ファは全身全霊でもって、唇がとがってしまうことを回避しようと頑張っている。


「高熱にうなされながら、お前はしきりにうわ言を口にしていた。その中で、お前は私と、自分の父親と……そして、レイナ=ルウの名をたびたび呼んでいたのだ」


「俺が、レイナ=ルウの名を……?」


「うむ。……しかも、氏をつけずにレイナ、とな」


 そこでアイ=ファは自分に敗北し、ついに唇をとがらせてしまった。

 その愛くるしさにたとえようもない幸福感を味わわされつつ、俺はぼんやり考える。


「ああ……それはたぶん、別の人間の名前だよ」


「別の人間? レイナ=ルウの他にそのような名を持つ人間がいたか?」


「うん。俺の故郷の幼馴染で、玲奈ってやつがいたんだよ。前にも話さなかったっけ?」


 アイ=ファは俺の身を清める手を止めて、猛烈な勢いで考え込み始めた。

 そうして、決然と頭をもたげる。


「思い出した。お前は確かに、その名を口にしたことがあったな。レイナ=ルウと初めて顔をあわせたとき、同じ名を持つ知人がいると、そのように述べたてていたのだ」


「あはは。すごい記憶力だな、アイ=ファは。あれは初めてルウ家に出向いた日のことだから……もう10ヶ月近くも前のことになるんだぞ?」


「お前が故郷について語ることは少ないから、強く頭に残されたのだろう」


 アイ=ファはすみやかに唇をひっこめると、今度は思わしげな瞳で俺を見つめてきた。


「では、そのレイナ=ルウならぬレイナという者は、お前にとってよほど親しい相手であったのだな」


「うん。玲奈ってのは、俺にとって家族みたいなもんだったからな。小さな頃は、同じ家に預けられてたし……他の親類とは縁もなかったから、それでいっそう玲奈の家と縁を深めることになったんだ」


 そして玲奈は、俺があちらの世界で最後に言葉を交わした相手であった。

 俺がいなくなった世界において、親父と玲奈はどのような気持ちで過ごしているのか。俺にとって、一番苦しいのはそれを想像することだった。


「……そういうことか。自分の迂闊さを恥ずかしく思う」


「気にするなよ。俺がレイナ=ルウを氏なしで呼んだりしたら、アイ=ファにどれほど責められたって文句は言えないさ」


「ふん。それでもお前が――」


 と、そこでアイ=ファは口をつぐみ、いきなりぐりぐりと頭に頭を押しつけてきた。

 俺がレイナ=ルウを嫁にすれば、文句を言うこともできなくなってしまうが――とでも言おうと考えて、それを取りやめたのだろうか。何にせよ、アイ=ファが普段通りにすねたり照れたり取り乱したりしてくれるのは、俺にとって幸福な限りであった。


「ともかく、まずは力を取り戻すのが先決であろう。アスタの身を案じてくれていた者たちも、それを望むはずだ」


 強引に話を引き戻し、アイ=ファは俺の胸や腹をぬぐい始めた。

 それは猛烈にくすぐったかったが、アイ=ファに触れられている幸福感が上回ったので、俺はなんとか耐えることができた。


「早くみんなに御礼の言葉を伝えたいな。……他に何か変わったことはあったか?」


「シュミラルは、寝て過ごす必要がないぐらいには回復してきたらしい。そして、あやつの町の同胞がリリンの家とファの家を訪れてきた」


「え? ラダジッドたちは、俺のこともお見舞いに来てくれたのか?」


「うむ。昨日の昼下がりであったかな。あのときは……お前が苦しそうにしていたので、私も後から女衆に話を聞いたばかりであるが」


 アイ=ファはそれこそ朝から晩までつきっきりで、俺の看護をしてくれていたのだろう。何より大事な狩人としての仕事を、3日も休ませることになってしまったのだ。あらためて、俺は強烈な申し訳なさと感謝の気持ちを同時に抱かされることになった。


「……背中も清めるぞ。壁から背を離すことはできるか?」


「うん」


 俺が身体を前側に傾けると、アイ=ファは片腕で優しくそれを支えながら、背中を布でぬぐってくれた。

 広間はまだかまどの火で温められているので、冷たい水に浸された手ぬぐいの感触が心地好いぐらいである。それにやっぱり、アイ=ファに近づけば近づくほど、俺の心は安らぎに満たされるのだった。


「……ああ、それにルウ家やサウティ家の幼子も、病魔の試練から脱したと聞いている」


「あ、そうなのか? それは本当によかったよ……」


「うむ。あちらは2日ほどで熱もひいたようだ。やはり幼子でないお前こそが一番の苦難を与えられることになったのであろう」


 そうしてアイ=ファは俺の身体を壁に預けると、ちょっとひさびさにやわらかく微笑んだ。


「お前がどれほどの苦しみに苛まれていたかは、私が一番間近に見ることになった。お前があのような試練を見事に乗り越えてみせたことを、私は誇りに思っているぞ、アスタよ」


「アイ=ファがいてくれたから頑張れたんだよ。これは混じりけなしに本当のことさ」


 アイ=ファは「うむ」とうなずきながら、また手桶の水で手ぬぐいをゆすいだ。

 その後は、首から上である。顔や首筋から始まって、髪もひとふさずつすくい取り、優しく、やわらかく清めていく。俺は本当に幼子に戻ってしまったような頼りなさと、アイ=ファにすべてをゆだねている心地好さとで、またどうしようもないぐらい情動を揺さぶられてしまった。


「あとは足だな。冷えるようなら薪を加えるが」


「大丈夫だよ。雨季の前より温かいぐらいさ」


 俺は腹まで掛けられていた毛布を自分で剥いでみせる。

 この世界で下帯と呼ばれる下着だけを巻きつけた裸体である。モモもスネもすっかり細くなってしまっているし、腹などは6つに割れてしまっていた。皮下脂肪がなくなると、こうまで腹筋があらわになってしまうらしい。


 なおかつ、ここまで素肌をアイ=ファにさらすことはなかったので、俺はようやく多少の気恥かしさを感じる人間がましさを取り戻していた。

 が、病人の身で羞恥心を重んじても詮無きことであろう。海水浴にでも来たと思えば露出具合は変わらないし、自分で腕をのばして両足を清めるというのは、今の俺にはまだまだ苦しい作業であった。


「そういえば、アイム=フォウは雨季になる前にこの病魔を退けていたそうだぞ」


「あ、雨季じゃなくても発症することはあるんだっけ?」


「うむ。金の月の終わりには、だいぶん冷気も厳しくなっていたからな。アイム=フォウも、いずれ立派な狩人に育つことであろう」


「うん、何せアイ=ファから名前をもらってるんだから……あ、ごめん待ってくれ! すごくくすぐったい!」


「くすぐったい?」


 アイ=ファがきょとんと俺を見返してくる。その指先の手ぬぐいは、俺の足裏にあてられていた。胴体においては辛抱のきいた俺も、その箇所ばかりは我慢がならなかった。


「お前は以前にもそのようなことを述べていたな。あれは足ではなく腹であったが」


「足の裏は、誰でもくすぐったいんじゃないのかな。……とにかく、そこは自分でのちほど清めさせていただくよ」


「そうか」とアイ=ファはまた俺のかたわらに移動してきた。

 そうしてまぶたを閉ざしたかと思うと、おもむろに下帯へと手をかけてくる。


「家長! 何をなさるおつもりでしょうか!?」


「下帯の下も清めるのだ。まぶたは閉ざしているのだから案ずるな」


「み、見なければそれでいいという話ではないと思うのですけれども!」


「しかし、毒を含んだ汗はぬぐっておくべきなのだ」


「自分でやりますから! どうぞおまかせください!」


 それだけのやりとりで、俺はぐったりしてしまった。

 俺の下帯から手を離したアイ=ファは、まぶたを開けて心配そうに顔を寄せてくる。


「力を失っているのに、そのように騒ぐものではない。それに、どうしてそこまで騒がねばならぬのだ?」


「ア、アイ=ファが同じ立場であったなら、騒ぐことなく受け入れてたのか?」


 アイ=ファは形のよい下顎に手をあてて考え込んだ。

 そして、いきなり顔を真っ赤にしたかと思うと、鼻先がぶつかるぐらいの勢いで顔を寄せてくる。


「……何を想像させるのだ、お前は?」


「……俺の恥ずかしさを理解してもらえたのなら幸いです」


 ともあれ、俺はアイ=ファに後ろを向いてもらい、その間にしかるべき場所を清めて、ついでに下帯も着替えさせていただくことにした。それだけでもずいぶん体力を消耗することになってしまったが、背に腹はかえられなかった。


「……俺は3日間も眠っていたんだから、その間もアイ=ファは汗をぬぐったり着替えをさせたりしてくれていたんだよな」


「うむ」


「そうか……いや、どうもありがとう……」


「くどいようだが、お前の裸身を目にしてはおらんぞ。家人といえども10歳を過ぎて男女の別がつけられたのちは、そのようにふるまうのが森辺の習わしであるからな」


 そうしてアイ=ファは俺から受け取った手ぬぐいを乱暴に洗いながら、また赤い顔で俺をにらみつけてきた。


「あまりくどくどとそのような話を言いたてるな。私のほうまでおかしな気持ちになってくるではないか」


「うん、ごめん。大変だったのはアイ=ファのほうだよな。俺だって自分がアイ=ファの立場だったらと考えると――」


「そのような状況を想像するな! そして私にも想像させるな!」


 そのようにアイ=ファを惑乱させてしまったのも、俺が普段以上に頭が回っていないということでご勘弁を願うしかなかった。


「とにかく、これで病の毒はのきなみ取り除けたはずだ。今後は装束を纏って過ごすといい」


 ということで、俺は3日ぶりに衣服を着用することも許された。

 長袖の肌着と脚衣だけを纏い、再び壁際に座り込んで、毛布を腹まで引き上げる。それで俺は、ようやく人心地をつくことができたようだった。


 そしてその後は、アイ=ファのほうも軽く身を清めて、着替えも済ませることになった。一晩中ずっと身を寄せ合っていたのだから、それは必要な措置であったのだ。

 が、そうしてアイ=ファが数分ばかりも別室にこもっている間が、俺にとってはもっとも苦しくて切ない時間だった。それでアイ=ファが戻ってきたときにはよほど嬉しそうな表情になってしまっていたのか、何とも複雑そうな面持ちをしたアイ=ファにくしゃくしゃと頭をかき回されてしまった。


「そういえば、今日は茶の月の何日なんだろう? 3日が過ぎたっていうけど、それは倒れた日を含めて3日って意味なのかな?」


 俺が照れ隠しでそんな話を振ってみせると、アイ=ファは俺のすぐそばに腰を下ろしながら「いや」と首を横に振った。


「その日を除いて、丸3日という意味だ。今日は茶の月の9日となる」


「ああ、それなら屋台の商売の休業日か。本当だったら、森辺の開通工事の見学をさせてもらいたかったんだけどな」


 しかしこれでは、体調を回復させるのにも数日はかかってしまうことだろう。今はとにかく元の力を取り戻すのに専念するしかなかった。


 それで現在は、いったい朝のいつぐらいであるのか――と俺が問おうとしたとき、戸板が外から叩かれた。

 アイ=ファは壁に掛けられていた自分の上着を羽織り、玄関口の前に立つ。


「トゥール=ディンとユン=スドラです。……アスタのお加減はいかがでしょうか?」


 そんな懐かしい声が、広間の奥に陣取った俺のほうにまでうっすらと聞こえてきた。


「アスタはようやく目覚めることができた。いま、戸を開けよう」


 そうしてアイ=ファは閂を外すと、細めに開いた隙間から小声で何かを伝えてから、ようやく戸板を全開にした。

 ファの家においては、リリンの家のように玄関口にとばりを張っていない。よって、俺はその位置からでもトゥール=ディンとユン=スドラの姿を確認することができた。


「ああ、アスタ……よくぞお目覚めで……」


「おひさしぶりです、アスタ! お気分はいかがですか?」


 きっとアイ=ファから取り乱さぬようにと言葉をかけられていたのだろう。それでもふたりは雨具のフードをはねのけると、涙を流さんばかりに喜色をあらわにしてくれた。


「もう大丈夫だよ。心配してくれて、どうもありがとう」


 謝罪ではなく感謝の言葉を先に述べるべきだろうと判断し、俺は遠くからそのように答えてみせた。

 アイ=ファは戸を閉め、土間の水瓶を指し示している。


「多少の時間ならば言葉を交わすこともできるだろうし、また、アスタもそれを望むであろう。よければ少し上がっていくといい」


「ありがとうございます! それじゃあ、洗い物などはその後に――」


「アスタが目覚めたのだから、もう皆の手をわずらわせる必要もない。今の内に私が片付けておくので、その間に言葉を交わせばよかろう」


 というアイ=ファの気づかいによって、俺たちは3日ぶりに対面することが許された。

 雨具を脱いで足を清めたトゥール=ディンとユン=スドラが、俺の前で膝をつく。


「アスタ、すっかり痩せてしまわれましたね。でも、熱が下がったのなら、もう大丈夫です。すぐに元の力を取り戻せますよ」


 ユン=スドラは輝かんばかりの笑顔であった。

 その横で、トゥール=ディンは泣きべそのような顔になってしまっている。


「本当に……本当によかったです……アスタに万が一のことがあったら、わたしたちは……」


「トゥール=ディンは、かまど番の中で一番アスタの身を案じていたと思います。かつてのスン家では『アムスホルンの息吹』で魂を返す幼子が多かったようなので、余計に心配になってしまったのでしょう」


 ユン=スドラは優しく微笑みながら、トゥール=ディンの肩に手を回した。

 ユン=スドラの身体にもたれながら、トゥール=ディンはぐしぐしと涙をこぼしてしまう。


「そこまで心配してくれてありがとう。本当に感謝しているよ、トゥール=ディン、ユン=スドラ。……それに、家のことでも商売のことでも、みんなに大変な苦労をかけてしまったね」


「アスタとアイ=ファの苦しさに比べれば、どうということはありません。……あの、アイ=ファは大丈夫なのでしょうか?」


 と、ユン=スドラが声をひそめて問うてくる。

 アイ=ファは玄関口で衣類や木皿などを洗っているので、たぶん聞こえてはいないだろう。


「『アムスホルンの息吹』にかかった幼子を救うには、朝と夜の区別なく、ひたすら水と薬を飲ませて、毒を含んだ汗をぬぐい、自らの温もりを与え続けなくてはならないのです。普通は家族で交代するものなのですが、アイ=ファはひとりでその役を担っていたのですよね。フォウやスドラがその役に力を貸そうと願い出ても、アイ=ファはすべて断っていましたから」


「……うん」


「そうなると、アイ=ファは4日前の夜からほとんど寝ていないということになってしまうのです。特に夜の間は、かまどの火を絶やさぬように、ずっと薪や炭をくべていたのでしょうし。……狩人たるアイ=ファには普通の女衆よりも強い力が備わっているのでしょうが、わたしは少し心配です」


「うん、わかった。伝えてくれてありがとう。アイ=ファには後でゆっくり休んでもらおうと思うよ」


 ユン=スドラは笑顔を取り戻し、「はい」と元気にうなずいてくれた。

 トゥール=ディンも、涙をぬぐいながら恥ずかしそうに微笑んでいる。


「アスタやアイ=ファはそれほどの苦難を退けたというのに、わたしがこのように取り乱すのはおかしいですよね。みっともない姿を見せてしまって申し訳ありません」


「それをみっともないなんて思うわけがないじゃないか。同じ言葉しか言えないけど、本当にありがとう」


 油断をすると、俺のほうこそ涙をこぼしてしまいそうであった。

 言葉なんて、必要ではない。その表情や眼差しだけで、俺は彼女たちがどれほど心を痛めてくれていたかを実感することができていた。


「この後は、近在の氏族にもアスタが目覚めたことを伝えてきますね。今日で3日が過ぎたので、みんなさぞかしやきもきしていることでしょう」


「でも、みんなに押しかけられたらアスタも気が休まらないでしょうから、明日までは家を訪れるのを我慢するように伝えておきます。……わたしたちは、こうしてアスタと言葉を交わすことがかなって幸運でした」


「中天が近くなったら、食事をお作りしますね。アスタのために食べやすいすーぷの作り方をずっと考えていたのです」


 口を開いたら開いたで、この有り様である。俺は感謝と喜びの思いで目眩を起こしそうなほどであった。

 それから数分ほどでアイ=ファは片付けものを終えてしまったので、ふたりは名残惜しそうな様子を見せながら立ち上がった。


「それでは、いったん失礼します。……あ、それと、北の民の食事については、アイ=ファからも聞きましたか?」


「うん。リミ=ルウが俺の代わりに力を貸してくれたそうだね」


「はい。でも、それだけではなくて……城下町から、砂糖とタウ油とフワノが届けられてきたのです」


「え? フワノはまだわかるけど、砂糖とタウ油ってのは何の話だい?」


「砂糖とタウ油さえあれば、粗末な食事をもっと美味に仕上げることがかなうはずだと、アスタがそのような言葉を告げたのでしょう? それがリミ=ルウから城下町の人間へと伝えられることになったのです」


 それでも、俺には理解が及ばなかった。確かに調味料を欲してはいたが、それを城下町に要求するつもりなどなかったし、また、要求したところでかなえられるはずがない、と俺は考えていたのである。


「そうか、アスタはその前の話からして聞いていなかったのですよね。ええと……2日前に、城下町からの使者がサウティの家を訪れたのです。それは、足りないフワノの代価はすべてトゥラン伯爵家が受け持つことになったので、森辺の民がそれを肩代わりする必要はなくなった、という話でした」


「トゥラン伯爵家が、フワノの代価を……うん、もともと北の民っていうのはトゥラン伯爵家が連れてきたものなんだろうから、そこまでは何とか理解できるよ。でも、砂糖とタウ油まで支給されたってのは?」


「はい。北の民がさらなる力をふるうのに必要な食材はあるかと問われたので、その場に居合わせたリミ=ルウがそのように答えたのです。それで、昨日からタウ油と砂糖も運ばれるようになったそうですよ」


 聞けば聞くほど、意想外な話であった。

 美味なる料理のために、ではなく、北の民がもっと元気に働けるように、というのが主旨であるならば、まあ納得できないこともないが――しかし、つい先ごろまでは、必要なフワノの量までをも絞っていたのが、彼らのやり口であったのだ。それが、森辺の民にひとこと進言されただけで調味料の支給まで許すというのは、あまりにいぶかしい話であった。


「それは、どういうことなんだろう? いったい誰の判断で、そんなことが許されるようになったんだろうか?」


「さあ……サウティを訪れたのは、メルフリードという貴族からの使者であったとは聞いていますが」


 森辺の民との調停役はメルフリードなのだから、それは当然のことだろう。

 しかし何にせよ、メルフリードというのはマルスタインの代理人だ。メルフリードが許したのなら、それはマルスタインが許したも同義であると解釈できるはずだった。


「詳しい話は族長筋の人たちに聞くしかないみたいだね。俺が元気になったら、ルウやサウティの人たちに聞いてみるよ」


「はい。今日もルウ家の誰かしらはアスタのもとを訪れることでしょう。さすがにわたしたちも、族長筋の人間に遠慮をしろとは述べられませんので」


 悪戯っぽく笑いながら、ユン=スドラは小さく舌を出した。

 そんな魅力的な表情を最後に、ふたりの客人はファの家からいったん立ち去っていった。


「トゥラン伯爵家の件も伝えておくべきだったか。しかし、あまりあれこれと頭を悩ませるのではないぞ、アスタよ」


「うん。まだ頭を悩ませるほどの力は戻っていないみたいだ」


 俺は深々と息をつき、敷布の上に身を横たえた。

 それがあまりにぐったりとした姿に見えてしまったのだろうか。アイ=ファはすかさず俺のもとに膝を折り、顔を寄せてくる。


「疲れたか? 客人を招くには、まだ早かっただろうか?」


「いや、ふたりと喋れてよかったよ。でも、食事の時間までは少し休ませてもらおうかな」


 下がってきそうになるまぶたを何とか保持しながら、俺はアイ=ファを見つめ返す。


「……アイ=ファのほうこそ、疲れているんじゃないか? 俺はもう大丈夫だから、アイ=ファもゆっくり休んでくれ」


「私は、狩人だぞ? これしきのことで力を失ったりはせん」


 そのように述べながら、アイ=ファは俺の頭にぽんと手を置いてきた。


「お前は、休むといい。私が見守っているからな」


「それじゃあアイ=ファも、見守りながら休んでくれよ」


 アイ=ファは小首を傾げると、やがて猫のような動作でもぞもぞと俺の寝床にもぐりこんできた。

 そうして同じ枕に頭を乗せながら、間近から俺の顔を見つめてくる。


「これならば、見守りながら休むこともできるやもしれん。しかし、病が癒えた後にまで身を寄せるのは、あまり正しくない行いだろうか?」


 俺は無言のまま腕をのばし、アイ=ファの身体を抱きすくめてみせた。

 アイ=ファは「そうか」とつぶやくと、俺の頬に頭をこすりつけてきた。

 そうして俺たちは、食事の準備をするために再びトゥール=ディンたちがやってくるまで、しばし安息の時間を得ることになったのだった。

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