アムスホルンの息吹②~選別の炎~
2017.2/14 更新分 1/1
そうして俺たちは、サウティの集落に到着した。
が、本家で俺たちを出迎えてくれたのはミル・フェイ=サウティではなく、分家の年配の女衆であった。
「ようこそ、サウティの家に。本日はわたくしがこちらの仕事を取り仕切らせていただきます」
それは昨日も手ほどきをした5名の内のひとりであった。たしか、分家の家長の奥方である。
とりあえずかまどの間へと移動してみても、ミル・フェイ=サウティの姿は見当たらない。その代わりに、別の女衆が1名増えていた。これまた森の主の一件で顔見知りとなった、ヴェラの分家の女衆である。
そうして俺たちが雨具を脱いで身支度を整えると、ようよう最初の女衆が事情を語り始めた。
「実は昨晩、ミル・フェイ=サウティの下の子供が病で倒れてしまったのです。ミル・フェイ=サウティはしばらくはそちらの面倒をみなくてはならないため、わたくしが取り仕切り役を引き継ぐことになりました」
「あ、そうだったのですか! ……ひょっとしてそれは、『アムスホルンの息吹』というやつですか?」
「ええ、アスタもご存じでしたか。ミル・フェイ=サウティの一番下の子供はもう4歳であったのですが、いまだこの試練を乗り越えていなかったのです」
それはちょっと意味がわからなかったので説明を求めると、『アムスホルンの息吹』というのは5歳未満の幼子が羅患する特殊な病なのだという話であった。
乳離れをしてから5歳の誕生日を迎えるまでの間に、この大陸に生まれた幼子はみんなその試練を乗り越えなければならないのだそうだ。
「幼子に力が足りなければ、ここで魂を召されることになります。そういう幼子は決して少なくない数に及ぶので、5歳に満たぬ幼子は家人として数えないという習わしが生まれたのやもしれませんね」
「そうなんだね! ルウ家ではほとんど魂を召される子供はいないんだけど……」
「強い子供は、熱を出してもすぐに力を取り戻します。貧しい氏族ほど、この病で幼子を失うことは多いそうですよ」
淡々と語られるその内容に、俺は少なからず不安感をかきたてられてしまう。
「ミル・フェイ=サウティのお子さんは大丈夫なのでしょうか? もちろん今の段階では、確かなことなどわからないのでしょうけれど……」
「はい。ですが、上のふたりの子供たちは、先年にこの試練を乗り越えることがかないました。ダリ=サウティもミル・フェイ=サウティも強い力を持っていますので、きっと子供たちにもその強さが受け継がれていることでしょう」
そう言って、サウティの女衆はやわらかく微笑んだ。
「どのように苦しくとも、試練は3日ほどで終わります。それまでは、わたくしたちがミル・フェイ=サウティの分までこの仕事に励みたいと思います」
森辺の民にとっては――いや、この大陸に住まう人間にとっては、それも生きていくための通過儀礼なのだろう。マサラの山の生まれであるバルシャも、べつだん意外がったり深刻そうにしたりする様子もなく、静かにその言葉を聞いていた。
(それじゃあ、コタ=ルウやアイム=フォウなんかも、いずれはその試練に立ち向かわないといけないのか。……いや、ひょっとしたら、すでにその試練を乗り越えた上で、ああいう元気な姿を見せているのかもしれないな)
俺がそのように考えていると、またサウティの女衆が微笑みかけてきた。
「ですから今日の朝方は、ミル・フェイ=サウティを除く4名で、マヒュドラの女衆に手ほどきをすることになりました。まだまだわたくしたち自身に不備があるため、アスタほど立派な食事をこしらえることはできませんでしたが……女衆の何名かは、涙を流して喜んでおりましたよ」
「な、涙を流してですか?」
「はい。卑しき身分である自分たちにこのような温情をかけてもらえて、非常に感謝している、と。……わたくしは、いささかならず複雑な気持ちを抱え込むことになりました。同じ人間でありながら、どうして自分を卑しいだなどと思わなくてはならないのでしょうね」
それは俺にも、理解の外であった。
過酷なギバ狩りの仕事に従事させられ、町中の人々に忌避されていた森辺の民でも、自分たちを「卑しき身分」だなどとは思っていなかった。たとえジェノスの権力者たちに奴隷も同然の生を強いられていたとしても、森辺の民にはそのようなものに屈しない強靭さがあったのだ。
しかし、正式に「奴隷」という立場を与えられてしまったマヒュドラの民は、たとえ元が強靭な人間であっても、同じようにはいかないのだろう。実際に鎖に繋がれて、奴隷という身分に甘んじなくてはならない苦しさなんて、当人たちにしか知りようはないのだ。
「ともあれ、美味なる食事が北の民に喜ばれたという事実に変わりはありません。広場に集められた男衆などは歓喜のあまり大騒ぎをしてしまって、衛兵たちを手ひどく困らせておりましたよ」
そう言って、女衆は忍び笑いをした。
「わたくしたちは、マヒュドラの女衆にもっとしっかりと手ほどきをしてあげたいと思っています。そのために、アスタの力を貸していただけますでしょうか?」
「もちろんです。俺はそのために出向いてきたのですから」
そうして俺たちは、またクリームシチューとフワノ饅頭の作製に取りかかることになった。
リミ=ルウも、熱心な眼差しでそれを見守っている。リミ=ルウはシチューが大好物であるので、どこに美味しさの秘訣があるのかと興味津々なのだろう。いずれルウ家での勉強会が再開された折には、正式にクリームシチューのレシピを伝えてあげようかなとひそかに思う俺であった。
「そういえば、足りないフワノの代価は森辺の民が肩代わりしたいという話も、城下町に届けられたのですよね?」
俺がそのように問うてみると、サウティの女衆は「はい」とうなずいた。
「ドンダ=ルウやグラフ=ザザからも、それに反対されることはなかったそうです。……ああ、ファの家などにもそういった話は伝わっているのでしたか」
「ええ。三族長の会議にはフォウとベイムの家長も加わって、その内容をみんなに伝えてくれますので。ファの家にも、朝方に連絡が届きました」
そうしてダリ=サウティは本日、狩人の仕事が始まる中天の前に、みずから城下町に足をのばすつもりなのだと聞いていた。宿場町で働く俺たちとはどこかで顔をあわせられるかなと期待していたのだが、どうやら行き違いになってしまったらしく、それ以降の話は不明のままであったのだ。
「突然の訪問でありましたが、ポルアースという貴族に面会をすることはかなったようです。それは他の貴族たちとも話し合わねば決められない問題であるので、数日は待つようにと言われたそうですよ」
「そうですか。いったいどのような結果になるのでしょうね」
そんな風に応じながら、俺は森辺の民の言葉がそのまま聞き入れられることはないのだろうな、と推測していた。
森辺の民にしてみれば、これは自分たちの価値観に基づいた、至極真っ当な申し入れだ。ポイタンが品切れになったのは、森辺の家人たるファの家のアスタの行いがきっかけであるのだから、その責任を果たしたい。自分たちの行いによって他者が不幸になることなど、とうてい見過ごすことはできない。……という主張である。
しかし、城下町の倫理観に照らし合わせると、それは感情論であると見なされてしまうのではないだろうか?
また、焼きポイタンの美味しさを普及させてトゥラン伯爵家に痛撃を与えようと考えたのは、カミュア=ヨシュに入れ知恵をされたポルアースたちなのだ。俺の記憶では、ポルアースとサトゥラス伯爵家の人間が秘密裡に手を組んで、その技術を宿場町に蔓延させたはずだった。
よって、本当の意味で責任を問われるべきは、貴族の側にあるはずだった。
その上で、彼らは「奴隷にまで配慮をする必要はない」と判断を下したのだ。
だから森辺の民は、その判断に真っ向から反対意見を申し述べているようなものだった。
もちろん森辺の民は、貴族の側に責任などを求めてはいない。自分たちの倫理観に従って、銅貨を支払いたいと述べているばかりである。
この無私なる行いが、貴族の側にはどのように受け止められるだろうか?
根本には、北の民に対する考え方の相違というものが存在している。森辺の民は彼らを人間と認識しており、貴族の側は使い潰しの道具としか考えていない。そういった相違が、このたびの事態を招いたのだろうと思う。
メルフリードやポルアース、ひいてはジェノス侯爵マルスタインが、この申し入れをどのような形で受け止めるか。俺としては、まずその返答を待たせていただく心づもりであった。
「うーん、饅頭のほうは、昨日のほうが美味しかったかもしれないねー」
数刻の後、フワノ饅頭の試食をしたリミ=ルウは、いくぶん眉を下げながらそのように述べたてていた。
「そうだねえ。やっぱりアロウやシールの酸味なんかが、他の味とぶつかっちゃうんだろうなあ」
それを緩和してくれるような調味料も存在しない。食材は毎日のように追加されるらしいのだが、砂糖やタウ油や酒類などはなかなか傷むものではないので、廃棄される機会も皆無に等しいのだろう。
また、シムの香草などは、もともと保存のために干されているのだから、なおさらである。香りは強いが生鮮野菜として扱われているペペとロヒョイ――ニラとルッコラに似たそれらの野菜と、肉の保存で使われている岩塩だけでは、どうにも味の組み立てようがなかった。
「せめてタウ油と砂糖でもあれば、ずいぶん違ってくるんだけどね。許されることなら、自腹で買い足してあげたいぐらいだよ」
しかし、あまり北の民に肩入れしてしまうと、それこそ貴族たちの反感を買ってしまうだろう。これは王国の法や習わしに関わってくる話であるのだから、どこまで自分たちの意見や気持ちを主張するかは、慎重に見極めなければならないはずだった。
(ポイタンが品切れになってしまった責任を取りたいっていうのと、もっと美味しい食事を食べさせてあげたいっていうのは、まったく次元の違う話だろうからな)
とにかく今は、貴族の側からのリアクションを待つしかないだろう。彼らが北の民に対してどのような考えを抱き、どのように扱っていくつもりなのか、それで少しは彼らの思惑が見えてくるはずだった。
ともあれ、その日の手ほどきも無事に終了した。
シチューのほうはそれほど簡単とは言えない献立であるので、サウティやヴェラの人々もおさらいをしたことによってずいぶん自信をつけられたのではないかと思われた。
「すっかり暗くなってしまいましたね。どうぞ帰り道はお気をつけください」
「はい。それでは、また明日。ミル・フェイ=サウティにもよろしくお伝えください」
そうしてサウティにおける仕事をやりとげたのち、俺たちはまた雨の中に荷車を繰り出した。
本当に、朝から晩までよく降るものである。これは毎年のことであるから、森辺でもジェノスでも十分に対策は取られているのだろうが、ラントやタントの川が氾濫してしまったりはしないのかと心配になるほどであった。
「ねー、アスタ、アイ=ファは元気なの?」
ルウの集落に向かう途上で、リミ=ルウが御者台の背部にへばりついてきた。
「うん、元気だよ。雨だとギバ狩りの仕事が思うようにいかないって嘆いてたけどね」
「そっかー。そうだよねー。でも、宿場町で売る肉とか料理とかも減っちゃったから、ちょうどいいと言えばちょうどよかったよね?」
「そうだね。まだ本格的な雨季になって2日目だから、どれぐらいギバの収穫が落ちるのかも俺にはわかってないんだけどさ」
反面、ダレイム伯爵家における舞踏会を終えてからは、いよいよベーコンと腸詰肉の販売も本格化されてきた。まだまだ様子見の段階ではあるものの、幾多の貴族や料理店から、それらを購入したいという申し入れを受けることがかなったのである。
貴族の側の窓口はポルアースで、森辺の側の窓口はルウ家だ。ファの家にこれ以上の労苦をかけないようにと、ルウ家がその役を担ってくれたのだった。
そうして最初に商品を準備するのは、ファの近在の氏族と定められた。その中でも、ディンとリッドはザザの眷族であるため参加することは許されず、フォウ、ラン、スドラの三家がその大役を任されることになったのだった。
これは商品であるのだから、一定の品質を保たなければならない。よって、ミケルや俺から直接手ほどきをされているそれらの氏族が、もっとも適役であると見なされたのだ。
そうしてルウ家においては、これからミケルに干し肉作りの手ほどきを受けるつもりだと、ミーア・レイ母さんはそのように述べていた。
小さき氏族だけではいずれ手が足りなくなると見越してのことなのだろう。何にせよ、無聊をかこつていたと思われるミケルに仕事が依頼されるというのは、本人にとっても幸いなことなのではないかと思われた。
(屋台の売上が半減しちゃったから、マイムもちょっと落ち込んじゃってたもんな。俺たちは半減以下まで数を絞ってるんだから、十分に立派な売上だと思うけど)
そのようなことを考えている間に、ようやくルウの集落が近づいてきた。
が、そこにほっそりとした人影を見いだして、俺は「あれ?」と首を傾げることになった。
「こんな雨の中で何をやってるんだろう。背格好からして、ルウ家の女衆みたいだけど」
「んー? あの外套は、ララのだね!」
リミ=ルウの言う通り、それはララ=ルウであった。
カラフルなフードつきマントを身に纏ったララ=ルウが、集落の入り口でぽつねんと立ちつくしていたのである。
「あー、やっと帰ってきた! 遅いよ、もう!」
俺が荷車を近づけていくと、ララ=ルウは大声でそのように呼びかけてきた。
「やあ、どうしたんだい? リミ=ルウに何か急用かな?」
「用事があるのはアスタにだよ! いいから、こっちに来て!」
まったくわけもわからぬまま、俺はララ=ルウの先導で荷車を移動させた。
そうして導かれたのは、本家ではなくシン=ルウの家であった。
「本当にどうしたの? ずいぶん慌てているみたいだけど」
「いいから、家の中に入って! ジバ婆が待ってるから!」
「ジバ婆さん……いや、ジバ=ルウが?」
いっそう、わけがわからない。どうしてジバ婆さんが、本家ではなくシン=ルウの家で俺を待ちかまえているのだろう。
しかしララ=ルウから説明を為されることはなさそうだったので、俺は素直に従うことにした。バルシャは「お疲れさん」と言い残してミケルたちの待つ家に戻っていき、リミ=ルウだけがちょこちょことついてくる。
そうして土間で雨具を脱ぎ、足を清めさせてもらってから、初めてシン=ルウの家へと足を踏み入れると、広間ではジバ婆さんとリャダ=ルウが待ち受けていた。
シン=ルウは森で、シーラ=ルウやタリ=ルウはかまどの間なのだろう。先に入室したララ=ルウは、ジバ婆さんの隣にそっと寄り添った。
「ひさしぶりだねえ、アスタ……元気にやっていたかい……?」
「はい、おかげさまで。ジバ=ルウもお元気そうで何よりです」
「ああ、あたしのほうは元気すぎて、家族にも迷惑をかけっぱなしさ……」
「迷惑なことはないけどさ! 雨季の間ぐらい散歩は我慢してよねー」
どうやらジバ婆さんは弱った足腰に力を取り戻すために、散歩の習慣を復活させたようだった。
それにはもちろん誰かの介助が必要になるのだろうが、不満に思う人間などいるはずがない。ララ=ルウは悪態をつきながらも嬉しそうに目を細めていたし、俺だって胸が熱くなるぐらい喜ばしく感じることができた。
「アイ=ファが聞いたらとても喜びますよ。でも、ぬかるみで転ばないように気をつけてくださいね」
「ああ、しばらくは家の中で歩いていようかと思っているよ……昨日と今日は、数年ぶりに雨に打たれるのが、なんだか楽しく感じまったのさ……」
垂れさがったまぶたの下で、ジバ婆さんの瞳はとても透き通った輝きを浮かべていた。
「それでね、アスタに渡しておきたいものがあるんだよ……ララ、こいつを渡してもらえるかい……?」
「うん」とララ=ルウがジバ婆さんから受け取ったものを、下座の俺にまで届けてくれた。
小さな布の包みである。口は蔓草で固く縛られている。
「そいつはね、ダビラの薬草だよ……森でとれるものではなく、町で売っている特別な薬草さ……」
「ダビラの薬草ですか。聞いたことのない薬ですね」
「そうだろうねえ……これまでのファの家では、必要のないものだっただろうからさ……」
そうしてジバ婆さんは、ララ=ルウに支えられながら、じっと俺の姿を見返してきた。
「そいつはね、『アムスホルンの息吹』にかかった幼子に与える薬なんだよ……その病については、何か知ってるかい……?」
「はい。5歳未満の幼子がかかる特殊な病であるそうですね。ちょうど朝方にアイ=ファともその話をしましたし、サウティ家では家長のお子さんがその病にかかってしまっていました」
「そうかい……実は、うちでもコタがそいつにかかっちまったんだよねえ……」
「えっ! コタ=ルウは大丈夫なのですか!?」
「大丈夫かどうかを決めるのは、人間じゃなくって大陸の神々さ……こればっかりは、森じゃなくって神々に祈るしかないんだろうねえ……この苦難を退けなければ、この大陸で生きる資格はなしって話なんだからさ……」
そのように述べながら、ジバ婆さんはかすかに肩を震わせた。
「アイ=ファがこの朝にその話を持ち出したのも、きっと偶然ではないんだろうねえ……少なくともこのジェノスや森辺においては、雨季の間に『アムスホルンの息吹』にかかる子供が多いのさ……理由はわからないけれど、雨水だか寒さだかが関係しているのかねえ……」
「なるほど。俺の故郷でも、寒いと流行する病気がありましたよ。そちらはむしろ、空気が乾燥していたほうが危険なようでしたが」
「そうかい……それでね、ひとりの幼子が病にかかると、そのそばで暮らす他の幼子も次々にかかっちまうのが、この病の特徴なのさ……いっぺんかかっちまえば、もう二度とはかかることもないんだけどねえ……だからきっと、ルウの集落でも選別の済んでいない幼子は、これからみんな試練を受けることになるんだろうねえ……」
「選別、と言われましたか? 試練という言葉は、サウティでも使われていましたが」
「ああ、『アムスホルンの息吹』ってのは、『選別の炎』とも呼ばれているらしいんだよ……炎で炙られてるみたいに熱が出て、その試練に打ち勝てなかった子供は魂を召されちまうから、人として生きていくことを神々に選別されるっていう意味合いらしいんだよねえ……」
「なるほど」としか言い様はなかった。
ただし、この小さな布袋を託された意味を考えると、否応なしに鼓動が速まってきてしまう。
「それで、ジバ=ルウ、もしかしてその病を癒す薬草を俺に託してくれたということは――」
「ああ、そうだよ……ひょっとしたら、アスタもその病にかかっちまうんじゃないかと、あたしはそいつを危ぶんでいるのさあ……」
俺は、生唾を飲みくだした。
ジバ婆さんは、透徹した眼差しで俺を見つめ続けている。
「ずうっと昔に、町の噂でね、こんな話を聞いたことがあるんだよ……海の外から訪れた人間は、その選別を受けていないから、アムスホルンに住むことが難しい……大人になってから『アムスホルンの息吹』にかかると、それは恐ろしいほどの苦痛で……大人だったら幼子よりもよほど強い力を持っているはずなのに、なかなか乗り越えることができないっていうのさ……」
「……はい」
「しょせん噂は噂だからねえ、確かなことはわからないんだよ……そもそもここいらは、海なんてもの自体が噂で聞くだけのものに過ぎないし、海の外の人間がうろつくこともなかったから……誰かが面白がってこしらえた、根も葉もない作り話かもしれないんだよねえ……」
「はい」
「だけどアスタは、海の外から来たんだろう……? 少なくとも、この土地の生まれではないんだよねえ……?」
「はい。俺はこの大陸の外で生まれた人間です。それだけは間違いありません」
「うん……でも、たとえ噂が真実であっても、アスタは強い人間さ……そんな試練は乗り越えてくれると、婆は信じているからね……?」
俺はジバ婆さんから託された布袋を握りしめながら、もう一度「はい」とうなずいてみせた。
「それじゃあ、手間を取らせて悪かったね……こんな古い噂話は、もうあたしぐらいしか知る人間もいないと思って、アスタに伝えておこうと思ったのさ……」
「ありがとうございます。ジバ=ルウには本当に感謝しています。ファの家には、その病気に対する備えなんて何もありませんでしたので」
「それはそうだろうねえ……幼子がいなければ無縁の話であったはずなんだからさ……それじゃあ、リャダ=ルウ、あとは頼んだよ……?」
「うむ」と立ち上がったリャダ=ルウが、壁に掛けてあった狩人の衣を取り上げた。
「リミ=ルウよ、お前はたしか、荷車の扱いにも長けていたはずだな?」
「うん! レイナ姉よりも上手だと思うよ!」
「では、俺がルウルウの荷車で後を追うので、リミ=ルウはアスタの荷車を頼む。アスタをファの家まで送り届けて、アイ=ファの帰りを待つことにしよう」
「ちょ、ちょっと待ってください。『アムスホルンの息吹』というのは、そんないきなり発症するような病なのですか? 今のところ、俺はまったく元気なのですが」
「元気に遊んでいた幼子が、いきなり倒れて熱に苦しむ。『アムスホルンの息吹』というのは、そういう病なのだ」
では、俺はそのような恐れがあるのに、何の用心もなくみんなを乗せて、荷車を運転していたということだ。
あらためて、背筋が寒くなってしまう。
「あたしもさっきコタが熱を出すまでは、『アムスホルンの息吹』の噂話なんてすっかり忘れちまっていたからねえ……」
「ルウとサウティで病にかかる幼子が出たのだから、その間を行き来していたアスタも、今日か明日には熱を出すだろう。……逆に言うと、今日から明日までに熱を出すことがなければ、アスタには『アムスホルンの息吹』にかかる恐れはない、と考えることができると思う」
そのように言いながら、リャダ=ルウはいきなり俺の肩に手を置いてきた。
「杞憂で済むなら、それが一番なのだ。口惜しいだろうが、明日ばかりは宿場町での仕事を休み、アイ=ファとともに一日を過ごせ。人手が足りなければ、ルウ家からも力を貸せるはずだ」
「ありがとうございます。お世話をかけますが、どうぞよろしくお願いいたします」
俺はもう一度ジバ婆さんにも礼を言ってから、シン=ルウの家を出た。
リミ=ルウとともに荷車に乗り込み、リャダ=ルウがルウルウを連れてくるのを待つ。
「うーん、アスタが『アムスホルンの息吹』にかかっちゃうかもしれないなんて、びっくりだなー! 大人は絶対にかからない病気だって聞いてたのに!」
「それはきっと大人がかからないんじゃなくて、一度かかった人間は二度とかからないってことなんじゃないのかな。この大陸で生まれた人たちは、誰でも幼子の頃にかかっているから、それ以降はかかる心配がなかったっていうことなんだよ、きっと」
そういう類いの伝染病は、俺の故郷にだって多数存在したはずだ。そのために、予防接種というものが存在するのである。
なおかつ、おたふく風邪などというものは、成人になってからかかるとたいそう症状が重くなるのではなかっただろうか。
(風邪ってものが存在しない代わりに、そんな強烈な伝染病が存在したのか。羅患率100パーセントって、ちょっと尋常な数字じゃないぞ)
しかし、俺の故郷ではワクチンによる予防接種が確立されていたため、そういう脅威と無縁でいられただけなのかもしれない。薬といえば薬草を煎じるぐらいしかなさそうなこの世界においては、伝染病の脅威がこのような形で残されていた、ということだ。
「ねえ、アスタはアムスホルンの伝承って知ってる?」
「うん? アムスホルンっていうのは、この大陸の名前だろう?」
「うん。だけどね、そもそもそれって神様の名前だったんだって。この世界を作った最初の神様がアムスホルンで、そのアムスホルンが眠っちゃったから、その子供たちである四大神ってのが代わりにこの世界を守ってるんだってよー」
御者台に陣取ったリミ=ルウは、俺のほうを振り返りながら、にこにこと笑っていた。
「それでね、『アムスホルンの息吹』っていうのは、眠っている神様の寝息なんだって! ぐーぐー眠ってる神様の寝息を吹きかけられて、生きるか死ぬかが決められちゃうなんて、なんか面白い話だよね!」
そうしてリミ=ルウは小さな手をのばして、俺の指先をそっとつかんできた。
「アスタだったら、そんな寝息なんかに負けないよ! だから……もしも熱が出ちゃっても、絶対に頑張ってね?」
顔には無邪気な笑みを浮かべながら、リミ=ルウの淡い水色をした瞳には不安の光がゆらめいていしまっていた。
その指先を握り返しながら、俺は「うん」とうなずいてみせる。
「ちなみに、リミ=ルウは何歳ぐらいの頃にその病気にかかったのかな?」
「リミはねー、1歳の終わりにかかったみたい。熱は出たけど元気だったから、最初は誰も気づかなかったんだってー」
「そっか。リミ=ルウだってアイ=ファだって、みんなこの試練を乗り越えてきたんだろうから、俺だって乗り越えてみせるよ。コタ=ルウや、ミル・フェイ=サウティのお子さんだって、きっと大丈夫さ」
「うん!」とリミ=ルウが元気にうなずいたとき、ルウルウの荷車に乗ったリャダ=ルウが近づいてきた。
「待たせたな。それでは出発しよう」
そうして俺は、リミ=ルウの運転する荷車でファの家に帰還することになった。
今のところ、身体に変調は見られない。肌寒いのはもともとであるし、自分の額に手をあてても、異常を感じることはできなかった。
(発症するとしたら、今日か明日――念のために、明後日ぐらいまでは休ませてもらったほうがいいのかな。仕事中に発症したりしたら、それこそみんなに大迷惑をかけちゃうだろうし)
倒れるぐらいの高熱だというのだから、それはかなりの重い病なのだろう。小学生の頃にインフルエンザで38度ぐらいの熱を出したことはあったが、それ以上の高熱だとしたら、もう想像の範囲外だ。
試練や選別といった大仰な言葉が、不安に拍車をかけてくる。この試練に打ち勝たねば生きていくことを許されないだとか、それが神々の選別なのだとかいう話は、異世界生まれの俺には余計に不吉に感じられてしまった。
(俺にはこの世界で生きていく資格があるんだろうか?)
そんな風に考えると、ぞっとしてしまう。
しかし、ひとつの光明も存在した。
それは、復活祭で吟遊詩人ニーヤに聞かされた、『白き賢人ミーシャ』の伝承であった。リミ=ルウが神々の伝承を聞かせてくれたおかげで、俺はそちらの伝承も思い出すことができていた。
ミーシャというのは、ひょっとしたら俺と同じ境遇であったかもしれない人物である。俺はアリシュナからも旅芸人の占星師ライラノスからも、ミーシャと同じ「星無き民である」と見なされていたし、また、ミーシャの本名であるとされているミヒャエル・ヴォルコンスキーというのも、いかにもロシア風の名前であった。
その『白き賢人』にして『星無き民』であるミーシャは、ラオという一族にシムの全土を平定させるのに力を添えた人物だとされている。さらにその後は宰相という地位につき、王国の礎を築いたという話であるのだ。
むろん、すべては伝承の類いである。数百年も昔の物語であるというのだから、信憑性などは求めるべくもない。
しかし、それらのすべてが真実であったとすると――ミーシャは何年もシムで暮らしていたことになる。この大陸で生きている限り、『アムスホルンの息吹』の脅威とは無縁ではいられないはずであるから、彼はそれを退けて数年間を過ごすことができた、と解釈できるわけだ。
ミーシャに可能であったのなら、俺にだって希望は残されるはずだ。
少なくとも、『星無き民』だからといって無条件に生命を奪われるわけではない。俺は前向きに、そのように考えることにした。
「もしも『アムスホルンの息吹』にかかってしまったら、俺はこのダビラの薬草ってやつを飲んで、ひたすら大人しくしていればいいのかな?」
「うん! 熱は3日ぐらいでおさまるはずだからね! その間、食べ物は咽喉を通らないかもしれないけど、水と薬は毎日飲まなきゃ駄目なんだよー」
「3日間も食べ物を食べられなかったら、きっと痩せちゃうな」
俺が努めて明るい声をあげてみせると、リミ=ルウは「あはは」と笑ってくれた。
この世界の人々は、この病魔に対しても最初から覚悟を備え持っているのである。だから、コタ=ルウが発症したと聞いても、リミ=ルウは顔色ひとつ変えなかったのだろう。サウティの人々だって、むやみにミル・フェイ=サウティを心配しようとはしていなかった。
(すべては森と、神々の導くままに、か。……俺もみんなを見習わないとな)
むしろ気になるのは、この話を聞かされたときのアイ=ファのリアクションであった。俺が逆の立場であったなら、アイ=ファの身を案じて存分に取り乱してしまいそうなところである。
(しかも、幼子でもないのにこの病気にかかるってのは森辺でも普通のことじゃないわけだし、症状も重く出るかもしれないなんて聞かされたら、さすがのアイ=ファも取り乱しちゃうかもしれないな)
そうして俺が軽く息をついたとき、荷車が減速をして横道に入り始めた。
ファの家に到着したのだ。リミ=ルウの脇から顔を覗かせると、家にはまだ明かりが灯されていなかった。
「こんなに暗いのに、アイ=ファはまだ帰ってきてないみたいだね」
そのように述べながら、リミ=ルウは荷車を家の横まで進めてくれた。
すると、かまどの間のほうには明かりが灯されていた。もう晩餐を作らねばならない刻限であるはずなのに、誰かが居残っているらしい。
「家に戻る前に、かまどの間に顔を出してみるよ。明日の打ち合わせも必要だしね」
「うん、わかったー。アスタ、身体は大丈夫?」
「今のところ、変化はないね」
俺は雨具を纏いなおして、濡れた地面に降り立った。
そうしてかまどの間の戸を引き開けると、そこにはトゥール=ディンとユン=スドラだけが居残っていた。
「やあ、お疲れさま。こんな遅くまで、ふたりはどうしたのかな?」
「お帰りなさい、アスタ。今日は家のほうにも仕事が残っていなかったので、ちょっと居残らせていただきました」
どうやらふたりは、甘い焼き菓子の修練に励んでいる様子だった。俺の横から同じ光景を目にしたリミ=ルウが「うわあ」と歓声をあげる。
「いい匂い! ひょっとしたら、ろーるけーき?」
「はい。ユン=スドラが作り方を学びたいとのことだったので。……あ、もちろん食材や薪は自分たちの家から持ち込んできましたので!」
「トゥール=ディンたちを疑ったりはしないよ。2日連続で下ごしらえの仕事をおまかせしちゃって申し訳なかったね」
そしてこの調子では、明日は下ごしらえの仕事どころか屋台の商売そのものをトゥール=ディンたちに一任しなければならなくなる。それに、サウティやリリンにもしばらく顔を出せなくなることを伝えてもらわなくてはならなかった。
「実は、折り入ってトゥール=ディンたちに相談があるんだけど――」
俺がそのように言いかけたとき、リミ=ルウが「あ」と声をあげて外套を引っ張ってきた。
振り返ると、そこにはずぶ濡れのアイ=ファとリャダ=ルウが立ちはだかっていた。狩人の衣にはフードがなく、また、狩りの仕事には顔をさらしたほうが都合がいいとのことで、首から上はむきだしのままなのである。
ただその代わりに、ふたりは頭に渦巻き模様のバンダナみたいな布を巻いている。なおかつ、アイ=ファの背には小ぶりの若いギバが抱えられていた。雨にも負けず、本日も収穫をあげることがかなったのだ。
「どうしたのだ、アスタよ? 何か危急の話であるそうだが」
「ああ、実はちょっと、とんでもない話が持ち上がってしまって――」
そのように答えながら、俺はアイ=ファのほうに足を踏み出そうとした。
すると、不可思議な衝撃が右肩から腕にかけて伝わってきた。
それはいきなり誰かに突き飛ばされたような感覚で、俺はわけもわからず「あれ?」とつぶやいていた。
アイ=ファたちの姿が、真横になっている。
いや、俺のほうが真横になっているのだ。俺の右半身を叩いたのは、濡れた地面に身体がぶつかった衝撃であったのだった。
「アスタ!」とアイ=ファが悲鳴まじりの声をあげる。
その姿がじわじわと真っ赤に染まっていくような感覚にとらわれながら、俺は意識を失うことになった。
ジバ婆さんが予見した通り、俺は『アムスホルンの息吹』を発症してしまったのである。




