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異世界料理道  作者: EDA
第二十五章 モルガの御山洗(上)
430/1703

アムスホルンの息吹①~朝~

2017.2/13 更新分 1/1

 茶の月の5日。

 雨季に入って2日目になるその日の朝も、俺は新品の毛布をひっかぶって、ぬくぬくと安眠をむさぼっていた。


 あくまで俺の体感に過ぎないが、もともと15度ぐらいに感じられていた夜間の気温も、いきなり7、8度ぐらいに落ち込んだ感覚であったのだ。実際の数値はともかくとして、寝具もなしに過ごすには厳しいぐらいの冷え込み加減であったことに違いはなかった。


 宿場町で手に入る敷布や毛布は、いずれもタオルケットぐらいの厚みしかなかったので、俺たちはそれらを複数買い求めて、何重にも重ねることでクッション性や防寒性を確保していた。森辺においてもよっぽど貧しい氏族でない限りは、同じ方法で雨季の夜間の寒さをしのいでいるのだという話だった。


 城下町の民たるヤンあたりに相談すれば、あちらで使われているやわらかな羽毛布団などを購入することも可能であったのだろう。かつてトゥラン伯爵邸に拉致された際、俺はそういうものが城下町に存在するという事実をすでに知らされていた。

 しかし、アイ=ファなどは昨年まで寝具もなしに、ただ毛皮のマントをひっかぶって眠っていたという話であったし、資産にゆとりがあるからといって寝具にそこまでの贅を凝らすというのは、あまりに森辺の民らしからぬ行いであると思えてしまった。


 それに、これまでは毛皮の敷物の上で雑魚寝をしていた俺たちであるのだ。窓には布のとばりを掛けて、分厚く重ねた敷布の上に横たわり、上から毛布をかぶるだけで、俺としては十分に満足できていた。

 あと、森辺においても宿場町においても枕を使うという習慣はなかったので、俺は余分に購入した敷布をぐるぐると巻いて、それを頭の下に敷くようにしていた。最初はけげんそうに俺の行いを見守っていたアイ=ファも、最終的には「悪くない」という感想を述べて、同じものをこしらえることになったのだった。


 かくして俺たちは、雨季における快適な安眠を確保することがかなったわけである。

 もともと夢も見ないぐらい眠りの深い俺であったが、寝具を使うようになってからは、いっそう深い眠りが得られていることを実感できていた。


 が、そうして眠りが深くなったぶん、体内サイクルにも微妙な変化が生じたらしい。その日の俺は定刻になっても目覚めることができず、アイ=ファの手によって無慈悲に毛布を剥ぎ取られることになってしまった。


「いつまで眠っておるのだ、アスタよ。とっくに夜は明けているのだぞ」


「うう、寒い! ……ってほどではないんだろうけど、落差がすさまじいな」


 俺はぶるっと身を震わせてから、寝具の上で半身を起こした。

 寝具に入るときは上着を脱いでいるので、長袖の肌着と脚衣だけを身につけた姿である。反射的に「寒い」という言葉が飛び出してしまうぐらいには、その朝も冷え込みが厳しいようだった。

 アイ=ファは俺から剥ぎ取った毛布を手に、呆れたような視線を差し向けてきている。


「お前は昨日も私が声をかけるまで、だらしなく眠りをむさぼっていたな。寝具を買うべしと忠言したのは私自身であるが、それは間違った行いであったのだろうか?」


「そ、そんなことはないよ。ただ、雨季だと日差しが差し込んでこないから、俺もついつい寝過ごしてしまうだけさ」


「ふむ……しかし、家人を堕落させてしまったような心地で、私はいささかならず心苦しい」


 そうしてアイ=ファが難しげな面持ちで考え込み始めてしまったので、俺はいささかならず慌てることになった。


「お、おい。まさか、せっかくの寝具を使用禁止にしたりはしないよな?」


「うむ……」


「明日からはなるべく気をつけるから! 短慮はおひかえください、家長殿!」


 そうして俺がその手の毛布に取りすがってみせると、親愛なる家長はいっそう呆れた顔つきになってしまった。


「……何やら必死だな、アスタよ」


「だって、夜の冷え込みは想像以上に厳しかったからさ。これで寝具を取りあげられたら、俺は風邪でもひいてしまいそうだよ!」


「……風を引くとはどういう意味だ? 風は引くのではなく吹くものであろうが?」


 その手の毛布を引っ張りながら、アイ=ファはうろんげに問うてきた。

 負けずに毛布を引っ張り返しながら、俺は「えーと」と言葉を探す。


「風邪というのは、俺の故郷の病気だよ。寒い時期にかかりやすくて、そいつにかかると熱が出たり鼻水が出たりで、それはもう大変なんだ」


「ふむ。『アムスホルンの息吹』と同じようなものか」


「『アムスホルンの息吹』? アムスホルンってのは、この大陸の名前だよな。何かそういう風土病でも存在するのか?」


「お前が案ずる必要はない。それは幼子しかかからぬ病であるからな。……貧しさに苦しむ森辺の家においては、その病で幼子を失うことも少なくはないのだ」


 そのように言いながら、アイ=ファはぐいぐいと毛布を引っ張ってきた。

「なるほど」と答えつつ、俺もぐいぐいとそれにあらがってみせる。


「アスタよ、どうしてその手を離さぬのだ?」


「いや、だって、何かそのまま物置部屋にでも放り込まれてしまいそうな気がするから」


「私がそこまで頑なな気性だとでも思っているのか?」


「ア、アイ=ファは十分に頑なな気性ではなかろうか? いや! もちろん悪い意味ではないけれど!」


 アイ=ファは小さく溜息をついてから、俺のもとへと屈み込んできた。

 その綺麗な青い瞳が、幼子でも諭すような光をたたえながら、俺の顔をじっと見つめてくる。


「お前が堕落するのではないかと懸念したのは本当のことだが、2日かそこらで性急に判断したりはしない。私はただ、寝具の片付けを手伝ってやろうと思っただけだ」


「あ、ああ、そうなのか。ごめん、別にアイ=ファを信用していないわけじゃなかったんだけど……」


「お前がそこまで嫌がることを、私が無理に強行すると思うのか? それは少し……悲しい話だな」


「ご、ごめん! そんなつもりじゃなかったんだってば!」


 俺は慌てて、毛布から手を離した。

 アイ=ファは「うむ」と身を起こす。


「たとえ物置部屋にしまいこんでも、簡単に取り出せては意味があるまい。いっそ、かまどで焼いてしまうか」


「ぎゃーっ!」


「冗談だ。朝から何という声を出すのだ、お前は」


 アイ=ファは俺から強奪した毛布で顔の下半分を隠しながら、くすくすと笑い声をたてた。

 その可愛らしい仕草に心をかき乱されつつ、俺は「勘弁してくれよー」と脱力してしまう。


「確かにこの寝具というものは寝心地がよいからな。その心地好さで堕落してしまわないよう、お前も重々気をつけるのだぞ」


 そのようにのたまいながら、アイ=ファは毛布をたたみ始めた。

 もちろんアイ=ファの寝具はすでにたたまれて、広間の片隅に片付けられている。俺は「ちぇーっ」と子供のようにぼやきながら、足もとの敷布を片付けることにした。


 そんな意地悪で可愛らしい我が家の家長も、もちろん雨季用の装束にフォームチェンジされている。上半身は俺や男衆と同じく長袖の上着で、足もとは女衆の長い腰巻きというハイブリッドのスタイルだ。


 この腰巻きは日常用で、狩人としての仕事に出向く際は、普段の短い腰巻きにはき替えられることになる。腰から上は長袖の装束に毛皮のマントの重装備で、すらりとした足もとだけを惜しみもなく露出するというのは、また普段とも異なる倒錯的なセクシーさであったのだが、そんな感想は誰に伝えられるはずもなかった。


「ところでさ、さっきの病気についての話なんだけど」


「うむ? ファの家に幼子はいないのだから、何も案ずる必要はないぞ。『アムスホルンの息吹』は恐ろしい病であるが、あくまで幼子しか冒されることはないのだ」


「それじゃあ、大人がこの寒さで病気になることはないのかな?」


「ない。……ただし、熱を奪われれば力も失われるし、力を失えば胸や腹を病むことはある。ゆえに、雨季の冷気を侮ってはならぬのだ」


 それではやっぱり、この地に「風邪」に該当する病気は存在しないようだった。

 風邪というのは、ウイルスがもたらす病気である。だから、この土地にそういった病原菌そのものが存在しないなら、どんなに寒くとも風邪をひく心配はしなくともよい、ということになるのだろう。そういえば、南極大陸なども土壌的にウイルスがはびこりにくいため、あれほど極寒の地であるにも拘わらず、風邪をひく心配はほとんどないのだそうだ。


(もしも俺が風邪っぴきの状態でこの地を訪れることになっていたら、とんでもないパンデミックになってたのかもしれないんだな。……まあ、俺も風邪らしい風邪なんてここ数年はひいたこともないけれど)


 そういえば、森辺においては川の水も雨の水も、そのまま飲料水として使えてしまっている。もちろん濾過をしなければこまかい不純物を取り除くことはできないが、とりたてて煮沸などをする必要はない、とされているのだ。何にせよ、俺の故郷よりも病原菌が少ないということに、まず間違いはなさそうなところであった。


 ゆえに、こうした雨季の期間は水場まで足をのばす必要もほとんどなくなり、水瓶に溜めた雨水で洗濯や食器洗いを片付けることができた。身を清めるのも、川に入るのは身体が冷えすぎてしまうため、同じように水瓶の水と天然のシャワーを駆使して済ませるようになっていた。


 ということで、今日も晩餐で使った食器や鉄鍋を土間まで運び込み、玄関口で洗い物にいそしむ俺たちである。

 しとしとと霧雨の降りそぼる情景を眺めつつ、アイ=ファと肩を寄せ合いながら、俺は静かな充足感にとらわれた。


「雨季ってのは色々と厄介だけど、悪いことばかりじゃないよな」


「ふむ? 何をそのようにあらたまっているのだ?」


「いや、家の中で過ごす時間が増えた分、アイ=ファとふたりきりで過ごす時間も増えたじゃないか? それを嬉しく思っているんだよ」


 アイ=ファは虚をつかれた様子で目を白黒とさせていたが、けっきょくは口をへの字にして、俺の脇腹を肘で小突いてきた。


「それでも、雨季の厄介さを軽んじぬことだ。視界も足もとも悪くなるのだから、荷車の運転などでは特に注意を払うべきであろう」


「うん、わかったよ。アイ=ファもギバ狩りの仕事では気をつけてな」


「言われるまでもない。リリンの家のシュミラルの話を持ち出すまでもなく、雨季においては身に危険が及ぶことも多いのだ」


 洗った食器を布でぬぐい、玄関口に重ねながら、アイ=ファはふっと息をつく。


「それに、雨が多いと『ギバ寄せの実』の香りも薄らいでしまうため、どうしても収穫の量が落ちてしまう。休息の期間に雨季が訪れれば一番理想的であるのだが、こればかりは森の思し召しだ」


「そっか。宿場町での商売も完全に閑散期だし、やっぱり苦労のほうが上回っちゃうみたいだな」


 それでもこうしてアイ=ファとふたりきりで過ごしていると、心は安らぎに満ちていく。商売をしている間は陰鬱に感じられる雨音や白く煙った情景までもが、いっそう俺を穏やかな心地にさせるかのようだった。


(どうせ2ヶ月も経てば、また変わらない毎日がやってくるんだ。それなら、いい部分も悪い部分もしっかり味わいつくさないとな)


 そのようなことを考えながら、俺は鉄鍋にたまった雨水を玄関の外へと盛大にぶちまけてみせた。


               ◇


 宿場町の商売のほうは、昨日とあまり様相も変わらなかった。

 相変わらず人通りは少なくて、半分以下に減らした料理もぎりぎり売りきっている感じである。それでもまあ、他に出店している店が少ないからこそ、ここまでの売上を保てているのだろう。もしも宿屋で昼間からギバ料理が売りに出されていたら、のきなみそちらに客を奪われてしまいそうなところであった。


「もちろん、アスタたちの信頼を裏切るような真似はいたしません。わたしはあくまで『晩餐のための料理を買う』という契約をアスタたちと結んでいるのですから、たとえ朝方にそれを届けられても、昼から売りに出すことは許されないでしょう」


《玄翁亭》のネイルなどは、そのように言ってくれていた。

 これは雨季に限った話ではなく、俺たちの屋台の商売の邪魔にならぬよう、ギバ料理を売りに出すのは夕刻以降から、という暗黙の了解を守ってくれていたのだ。


 しかしまた、生鮮肉のほうは「晩餐限定」という契約で売っているわけではない。それで自前のギバ料理を昼から売りに出しても誰にも文句は言えないところであるが、ネイルばかりでなくミラノ=マスもナウディスも、果てには《西風亭》のサムスまでもが、そのような真似に及ぼうとはしていなかった。


「たとえばそれで、森辺の民の不興を買ってしまい、ギバの肉を売っていただけなくなってしまったら、こちらのほうが大損になってしまいますからな。どのような宿屋でも、アスタたちの商売を邪魔しようとは考えますまい」


《南の大樹亭》のナウディスは、そのように述べていた。

 復活祭の時期に屋台を出す件に関しては、ナウディスもユーミも事前に了承を求めてきてくれたのである。ひとりでも多くの人々にギバ料理の美味しさを知ってもらいたいと願う俺たちには、それを断る理由などどこにも存在しなかったのだった。


 だから、復活祭の時期に限らず、普段の昼時でもぞんぶんにギバ料理を売っていただいてはどうかという思いもあったが、それでもご主人たちは方針を変えようとはしなかった。もともと昼の軽食は露店区域の屋台で楽しむもの、という習わしが根強いのだから、そういった宿場町の流儀をやみくもに乱すのは、他の屋台を出している人々に対しても体面が悪いのだ、とのことであった。


「ただし、雨季の間は話が別ですからな。この時期だけは宿屋で腰を落ち着けて軽食を楽しもうというお客様も多いので、アスタたちが屋台を休む日だけは昼からギバ料理をお出しするようにいたしました。……するとまあ、その日だけは昼時の売上も驚くほどに跳ね上がるのです。我々にとっては、これだけでも十分に大きな恩恵ですぞ」


 なおかつ、俺たちが屋台を出している日は、たとえ雨季であってもこれほどの売上は望めないであろう、というのが謙虚なご主人たちの共通した意見であった。


 ということで、金の月の終わりぐらいから料理と肉の仕入れ量を絞った各宿屋のご主人たちも、俺たちが商売を休む前日だけは、これまでと変わらないぐらいのギバ肉を買い入れてくれたのだった。


「それにしても、いまだにギバ肉を買いつけようという宿屋は増えないままなのか? そいつは少しばかり意外なことだな」


 そのような疑問を呈してきたのは、《キミュスの尻尾亭》のミラノ=マスである。


「そうですね。やっぱり復活祭の前後でカロンの胴体の肉を買いつけられるようになったのが大きいのではないでしょうか。それを普及させるために、ヤンという御方が《タントの恵み亭》で頑張っておられるさなかでありますし」


「ふん。あるいは、いまだに森辺の民に対して及び腰の人間も多いのかもしれんな。宿屋の寄り合いなんかでは、やたらとお前さんたちのことを聞きほじってくる人間も多いのに、なかなか最後の一歩を踏み出せずにいるのだろうさ」


 露店区域の屋台というのは宿屋に管理されるものであるため、俺たちの話題はそちらの寄り合いで取り沙汰されているのだ。

 町で商売を行う者は、同じ職種の人間で定期的に集まって、さまざまな取り決めを為している。それがいわゆる、商会というやつである。だが、屋台の商売においては流れの商売人でもない限りはだいたい他に本業を持っているものなので、「屋台の主人の商会」というものは存在しないのだった。


「肉を売る、という商売に関しても、ジェノスではダバッグのカロン売りとダレイムのキミュス売りしかおらんからな。そっちのほうは城下町の連中に取り仕切られてしまっているので、商会を作る理由もなくなっちまうというわけだ」


「なるほど。でも、森辺の民もいちおうジェノスの民なのですから、本来であればどこかの商会に属したほうが体面はよいのでしょうね」


 雨季の間は品薄のポイタンではなくフワノを使います、だとか、我が店は薄利多売の方針で値段は上げません、だとか、俺は誰と話し合うこともなく、おっかなびっくり手探りで取り決めているのである。それで今のところは大きな不自由を感じたこともないが、やっぱり「よそ者が荒稼ぎをしている」と思われているのではないか、という感覚からは脱せずにいた。


「まあ、町の連中に大きな反感を買っているわけでもないのだから、べつだん気にする必要もあるまい。それでも、町の連中と言葉を交わしてみたい、と思っているのなら……」


 そこでミラノ=マスは、ぶすっとした顔で黙りこんでしまった。


「何でしょう? 町の方々と意見を交わす手段があるなら、ぜひ教えていただきたいと思います」


「うむ……それなら、俺の店の関係者として、宿屋の寄り合いに顔を出すことは……できなくもないかもしれん。軽食の屋台を出しているのはみんな宿屋の連中なのだから、お前さんが参加するには一番相応しい寄り合いでもあるだろう……おそらくは」


 何だか妙に歯切れの悪いミラノ=マスである。


「だが、そうすると、お前さんはいよいよ俺の店と一番に懇意にしている、と周りの連中に思われてしまうかもしれんが……」


「それはその通りのお話ではないですか。……あ、ミラノ=マスにとって、そのように思われてしまうのは不都合なのでしょうか?」


「そんなわけがあるか! ……しかし、俺の店では他の宿屋ほど、お前さんたちから商品を買いつけているわけではないし……」


「そのようなことはお気になさらないでください。一番最初にご縁を結ぶことができた《キミュスの尻尾亭》は、俺にとって特別な存在です」


 そういうわけで、俺はいずれ宿屋の寄り合いというものに参加させていただく約束を、ミラノ=マスから取り付けることがかなったのだった。

 ただし、宿屋の寄り合いは月始めに行われることが多いそうで、茶の月の分はすでに終了してしまっていた。どんなに早くとも、実現がかなうのは来月以降ということだ。


 その他に、その日の宿場町において特筆するべきことと言えば――ラダジッドたちに、シュミラルの一件を打ち明けたことぐらいであった。

 なかなか感情をあらわさないシムの民たるラダジッドも、このときばかりは肩を震わせて身を乗り出していた。さすがにその表情を乱すまでには至らなかったが、その黒い瞳からは不安と懸念の光があふれまくってしまっていた。


「シュミラル、大丈夫でしょうか? 私、心配です」


「はい。数日もすればまた元気に動けるようになるはずだという話でしたが――心配なことに変わりはありませんよね」


 そうしてラダジッドたちがお見舞いに出向くことも、リリンの家長から了承を取りつけることができた、という話も伝えることになった。


「そうですか。アスタ、感謝します。近日中、必ず、出向きます」


「はい。明日か明後日ぐらいにはずいぶん加減もよくなるはずだというお話でしたので、それぐらいを目処に考えていただければいいと思います」


 そんな感じで、その日も静かに商売を終えることになった。

 その後は、再びサウティの集落までの遠征である。

 もはやルウ家は同行する理由もないはずであったが、リミ=ルウとバルシャだけはその日も連れ立っていくことになった。


「薪とかピコの葉とかは、雨季になる前にいーっぱい準備しておいたから、家でもやれることが少ないんだよね。だったらサウティの様子でも見てこーいってドンダ父さんに言ってもらえたの!」


「たぶんそっちは口実で、アスタをひとりきりで向かわせるのが心配なんじゃないのかね。昨日は姿を見せなかったけど、やっぱりあのへんには衛兵やら北の民やらがわんさかうろついているはずだしさ」


 確かにアイ=ファも、その点をひどく気にしていたものであった。開通工事をしている現場とサウティの集落の位置関係がいまひとつはっきりしないので、どうしても気がもめてしまうのだろう。


「俺たちも、いっぺん工事の現場を見学させていただきたいところですよね。今度の休業日にそれを実行しようと考えているんですけど、やっぱり護衛役を準備しないと家長たちには許してもらえなそうです」


「そりゃそうさ。もともと北の民なんてのは、凶暴な蛮族として知られている連中なんだからね。いくら鎖に繋がれてるって言っても、そいつが100人以上もいるってんなら、よっぽどしっかりした護衛役が必要になるんじゃないのかね」


 バルシャやリャダ=ルウたちだけでは不十分である、と見なされてしまうと、なかなか難しいところである。ファの近在やルウ家では休息の期間も終わってしまっているのだから、きっとこのような話で狩人としての仕事を休ませることはできないだろう。


(とりあえず、今晩にでもアイ=ファと相談してみるか。どこかの氏族が休息の期間だったら、そちらから男衆を借りることはできるかもしれないし)


 そんな風に考えながら、まずはリリンの家に立ち寄ることにした。

 昨晩、けっきょくヴィナ=ルウは自宅に引き戻されることなく、リリンの本家に留まることが許されたのである。その様子を見てくるという仕事も、リミ=ルウは託されていたのだった。


 昨日と同じように戸板を叩くと、昨日と同じようにウル・レイ=リリンが出迎えてくれた。

 相変わらず、妖精のように不思議な雰囲気を纏った女衆である。その水色の透き通った眼差しで見つめられると、理由もなしに気持ちを乱されてしまうのだった。


「ようこそ、リリンの家に。どうぞおあがりください」


「あ、いえ、今日はヴィナ=ルウに届け物がありまして……シュミラルの様子はいかがですか?」


「今日は呼吸も落ち着いて、ずいぶん楽になったようです。今は、眠っておりますが」


「それでは、ヴィナ=ルウに届け物をお渡ししたら、すぐに退散します。俺たちも、これからサウティでの仕事をひかえておりますので」


 ウル・レイ=リリンはひとつうなずき、とばりの向こう側へと姿を隠した。

 すると今度は、深くうつむいたヴィナ=ルウがのろのろとした挙動で姿を現した。彼女は長い髪を不自然なぐらいに前に垂らして、今日もその表情を隠そうとしているようだった。


「わたしにいったい何の用事……? わたしを笑いに来たのかしらぁ……?」


「ど、どうして俺たちがヴィナ=ルウを笑うのですか? それは被害妄想というものですよ」


「だってぇ……これじゃあまるで、わたしのほうがあの人に嫁入りを願ってるみたいじゃなぁい……?」


 どんなに前髪を垂らしても、口もとの部分はさらされてしまっている。本日も、ヴィナ=ルウのお顔は羞恥に赤く染まってしまっていた。


「別にどっちでもいいんじゃない? 自分の気持ちを確かめるのに必要なら、好きにすればいいってミーア・レイ母さんは言ってたよー?」


「…………」


「それよりも、いつまでも伴侶を迎えようとしないほうがよっぽど心配だってさー。シュミラルが伴侶に相応しい人間だったら、みんな大喜びだねー!」


「もう……うるさいわよ、リミはぁ……」


 ヴィナ=ルウは色っぽく身をよじり、今にも消え入ってしまいそうな風情であった。

 ヴィナ=ルウが消滅してしまわない内に、俺は準備していた包みを差し出してみせる。


「あの、これは俺からのお見舞いです。晩餐でシュミラルに食べてもらってください」


「何よ、これぇ……? 晩餐は、その家のかまどで作ったものじゃないと、口にしてはいけない習わしでしょう……?」


「これは完成品の料理ではないので、森辺の習わしにも背いていないはずです。美味しい料理に仕上げてあげてくださいね」


 言うまでもなく、それは各種の香草をアリアとフワノと乳脂と一緒に炒めたのちに干し固めた、カレーの素であった。宿場町で購入した蓋つきの容器にぎっしりと詰め込んでおいたので、リリン本家のみなさんで召し上がっても3日分ぐらいにはなるはずだ。

 包みから漏れる香りでその正体を察したのか、ヴィナ=ルウは「もう……」といっそうもじもじしてしまった。


「いったい何なのよぉ、みんなしてぇ……わたしを責め殺そうというつもりなのぉ……?」


「そんなつもりは毛頭ありませんってば。それでは、シュミラルにもリリンの人たちにも、くれぐれもよろしくお伝えください」


 ヴィナ=ルウが力尽きる前にと、俺たちは早々に辞去することにした。

 再び発進された荷車の中で、「やれやれだねぇ」とバルシャが笑い声をあげる。


「あんなに綺麗であんなに色っぽいのに、初々しいったらありゃしない。あれで20にもなってるなら、色恋に無縁で生きてきたわけでもないだろうにねぇ」


「うーん、だけどヴィナ姉は婿入りとか嫁取りの話をかたっぱしから断ってたから、あんまり余所の家の男衆とも口をきいたことがないんだよねー」


「それじゃあこれで婚儀が決まったら、本当に家族のみんなも大喜びってわけかい」


「うん、そうだね! ……ドンダ父さんは、ちょっぴりさびしそうだったけど」


 さびしそうなドンダ=ルウというのは想像がつかないので、きっとリミ=ルウがその卓越した感受性と洞察力で汲み取ったものなのだろう。

 何にせよ、ふたりが結ばれるにはまずリリンの氏を獲得しなくてはならないのだ。俺としては、ふたりの気持ちが通じ合った上で、シュミラルが森辺の民として不適格であると判断されてしまうことが、想像し得る中で最低最悪な結末であった。


(だけどシュミラルなら、きっと立派に森辺の民として認められるに違いないさ)


 シュミラルは負傷してしまったが、それもリリンの家人をかばったためのものである。これでシュミラルの迂闊さを責めるような森辺の民は存在しないだろう。

 なおかつその結果として、シュミラルは長らく顔をあわせていなかったヴィナ=ルウと、思いも寄らない形で時間をともにすることができた。ひょっとしたら、そんな行いが許されたのも、雨のおかげで家や商売の仕事が減って、ルウ家でも人手にゆとりが生じたためなのかもしれなかった。


 だからやっぱりそれもまた、雨季がもたらした苦難と恩恵であるはずだった。


(いいことばっかりじゃないけれど、悪いことばっかりでもないはずだ)


 朝方に抱いたのと同じ感慨を胸に、俺はサウティの集落へとギルルを走らせた。

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― 新着の感想 ―
相当今更な疑問かもしれませんが、キノコも発酵食品も存在していてもウイルスは存在してないんですね(現地人の免疫が強靭なだけかもしれないけど)。 細菌性の疾患としては、結核や食中毒、性病などがあると思うの…
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