大いなる変革④~スンの集落~
2017.1/4 更新分 1/1 ・2017.1/9 一部、文章を改めました。
翌朝である。
定刻通りに俺がルウの集落へと向かうと、そこではちょっとした騒ぎが巻き起こっていた。
シュミラルが来訪を約束した上りの五の刻というのは、ちょうど俺がルウの集落に向かう時刻であったのである。
シュミラルはすでにルウの集落に到着しており、みんなに取り囲まれていた。
しかもそこには、ルウばかりでなく眷族の狩人たちもたくさん集まっていた。
「おお、アスタではないか! ひさしいな!」
入り口のところに荷車をとめて俺が近づいていくと、その人垣からラウ=レイが声をかけてきた。
確かに、ラウ=レイと顔をあわせるのはひさびさだ。下手をしたら、ドーラの親父さんたちを招いた歓迎会ぶりなのかもしれない。
「ひさしぶりだね。今日はどうしたの?」
「ドンダ=ルウに招かれたのだ! 酔狂な東の民と、それが連れてくる猟犬というものを見定めよ、と言われてな」
そのように述べるラウ=レイの背後から、これまた懐かしい人物が顔を出す。それは、リリンの家長たるギラン=リリンであった。
「ああ、ギラン=リリンも……ひょっとしたら、眷族の家長が全員招かれているのですか?」
「うむ。家長でない人間もいくらかまじっているようだが」
そんなギラン=リリンの言葉に、ガハハという高笑いがかぶさってくる。
確かにこれは家長ならぬ、先代家長の笑い声である。
「ちょっと失礼いたします。……ああ、ダン=ルティム、ご無沙汰ぶりであります」
「おお、アスタ! 見よ、このものどもを! 実に愉快な連中ではないか!」
ダン=ルティムは地べたに座り込み、2頭の猟犬とたわむれまくっていた。
なんというか、巨大なぬいぐるみを抱えた巨大な赤ん坊のごとき様相である。
「うむ、実に愉快だ! こやつらは、どこかヴァルブの狼に似ているのだ! そういえば、山から下りた狼は犬という獣に変ずる、という伝承があったのではなかったかな?」
「ああ、俺もアイ=ファから聞いたことがありますね。きっと犬と狼には少なからず血の縁が存在するのでしょう」
ただしこれらの猟犬は、いずれも西洋風の姿をしていた。耳が垂れていて、顔が四角くて、とても力強いのに愛嬌も備え持っている。
「やはりそうか! ヴァルブの狼もこやつらも、実に賢そうな眼差しをしている! いや、実に愉快だぞ!」
リッドの家長たるラッド=リッドはダン=ルティムに似ているなと思っていた俺であるが、やはり本家本元の豪快さは格が違っているようだった。猟犬たちも、よく怯えもせずに大人しくしているものである。
そうして一番に大はしゃぎしているのはダン=ルティムであったが、それ以外の人々もおおかたは笑顔であった。旅芸人によって獣使いの芸を見物させられた人々は、きっと見知らぬ獣というものに免疫ができたのであろう。
で、肝心のシュミラルはどこにいるのかな、と視線を巡らせると、彼はジザ=ルウやガズラン=ルティムらと真剣な面持ちで語らっていた。
ジザ=ルウにしてみれば、大事な妹に婿入りを願っている相手である。そして誰よりも森辺の習わしを重んじる彼であれば、かつての俺と同じぐらい、シュミラルの存在は頭痛の種であるのかもしれなかった。
俺もちょっと心配になってしまい、そちらのほうに足を向けようとした。
が、その前に、仲良し兄妹に呼び止められてしまった。
「よー、アスタ、お疲れさん」
「見て見てー! リミ、この子と仲良くなったのー!」
言わずと知れた、ルド=ルウとリミ=ルウである。
ふたりは左右から1頭の猟犬をはさみこみ、ダン=ルティムに負けない勢いで可愛がっていた。
森辺の民はシムの血が流れているために、トトスと早々に心を通いあわせることがかなったのではないか、と俺は考えていた。
そしてまた、森辺の民にはジャガルの血も流れているようである、とされている。こうして犬にも心をひかれてしまうのは、そちらの血の記憶がそうさせるのであろうか。
「アスタ、お待たせしました。こちらは出発の準備も整っています」
と、今度は背後から呼びかけられる。
振り返ると、人垣の外からレイナ=ルウが微笑みかけてきていた。
「どうも、お疲れさま。……あのさ、シュミラルの件はどうなったのかな?」
「はい。とりあえず、森に入ることは許されました。家人になることが許されるか、族長筋に婿入りすることが許されるか、という話については、シュミラルの力を見定めた後にまた協議が為されるようです」
それは確かに、一夜の協議だけですべてを決めることは難しいだろう。なおかつ、シュミラルが自分の力を示すことができなければ、その段階で話は流れてしまうのだ。
「まずは数日、ルウやその眷族の狩人たちと、森に入ることになったようですね。その働きぶりで、今後のことを定めるようですよ」
「そっか。それなら、何よりだ」
俺は安堵の息をつきながら、シュミラルのほうに大きく手を振ってみせた。
シュミラルと、それにガズラン=ルティムが礼を返してくれる。
「それじゃあ、出発しようか。俺たちも、自分の仕事を果たさないとね」
「はい」
人垣を離れると、すでにルウルウの荷車がスタンバイをしていた。リリ=ラヴィッツの研修が終わるまではファの家から2台の荷車を出す取り決めになっていたので、こちらに同乗する女衆もそのかたわらにずらりと立ち並んでいる。
そしてその中には、ヴィナ=ルウも含まれていた。
本日はヴィナ=ルウも当番であったのだ。
「おはようございます、ヴィナ=ルウ。調子のほうはいかがですか?」
「調子……? 別に、いつも通りだけどぉ……?」
昨日のしおらしい様子はどこへやら、何だか一昨日以前のご機嫌ななめな様子に戻ってしまっている。
俺が首を傾げていると、レイナ=ルウがそっと口を寄せてきた。
「今日はシュミラルが訪れるなり、あのような騒ぎになってしまったため、言葉を交わすこともかなわなかったのです。特に、ジザ兄がシュミラルのそばを離れようとしませんしね」
「ああ、ジザ=ルウにしてみれば、これも由々しき事態なのだろうしね」
「そうですね。……ですが、わたしが思っていたよりは、ジザ兄も心を揺らしていないように思います。とても厳しい目でシュミラルのことを見ていますが、彼がきちんと狩人としての力を示せば、不服を申したてたりはしないかもしれません」
そのように言ってから、レイナ=ルウは大人っぽい表情で微笑んだ。
「きっとジザ兄も、変わりつつあるのでしょう。アスタと初めて顔をあわせた頃に比べれば、まったく心持ちが変わっているように思います」
俺が森辺に現れてから、まもなく9ヶ月――人の気持ちが変わるのに、それは十分な時間であっただろう。
俺はもう一度ジザ=ルウやシュミラルたちのほうを見やってから、自分の仕事を果たすために荷車へと向かった。
◇
宿場町における商売は、本日も順調であった。
マイムの屋台も、それは同様だ。マイムは午前中だけルウ家の女衆に仕込みの手伝いを頼み、100食分の料理を準備するようになっていた。
100食の料理を売れば、得られる赤銅貨は200枚である。
食材の費用を差し引いても、純利益は赤銅貨120枚ぐらいには及ぶだろう。それでマイムは、ファの家がたてかえた薬の代金を義理固く返済してくれていた。
「おかげで父の傷もずいぶん癒えてきたようです。足の骨が繋がるにはまだ長い時間が必要になるでしょうが、すっかり元気を取り戻すことができました」
そのように述べるマイムも、8割がたは明るい笑顔を取り戻すことができていた。
残りの2割は、将来に対する不安から来ているのだろう。
ルウの集落に逗留して、本日で6日目となる。バルシャやジーダとも問題なく共同生活を営めている様子であるし、将来の話を除けばどこにも不安はないはずであった。
「わたしも森辺の集落は大好きです。このまま父さんやバルシャたちと暮らしていけるだけで、十二分に幸福です。……でも、そんな簡単な話ではないのでしょうね」
マイムもまた、バルシャからシュミラルの話を聞くことになったのだ。
余所者が森辺の民として認められるには、どれほどの厳しい審査が必要となるか。それを思い知ることになったのだろう。
「でも、シュミラルはルウ家に婿入りを願っているから、あれほど厳しく審査されることになったんだよ。俺なんて、何の審査もなくファの家の家人として生きていくことが許されたんだから」
とはいえ、俺ものんべんだらりと過ごしているだけであったら、先の家長会議で森辺の集落から追放されていた可能性もある。あの頃は、ジザ=ルウだって俺は町で生きるべき、と強く思っていたのだ。
しかしまた、客人の身分であれば、そうそう厳しい目で見られることもないだろう。バルシャたちなどは、もう何ヶ月も客人として逗留しているのだ。マイムも今は、何も思い悩まずに、心安らかに過ごしてほしかった。
そんな裏事情を抱えながらも、商売は順調だ。
それに、ポイタンの取り置きの契約に関しても、着々と話が詰められていた。現在は、最低個数分の銀貨18枚だけをドーラの親父さんに支払い、追加でどれぐらいの量が必要かを確認しているさなかであった。
なおかつ、前払いの代金に関しては、ルウ家も半分を肩代わりすると申し出てくれていた。
そもそもはファの家に責任のある話であるが、それも森辺の民に喜びを与えたいと願った末の行いであったし、族長筋たるルウ家が民の窮地を見過ごすことは許されぬであろう、ということで、そういう顛末になったのだ。
あとは、森辺のすべての氏族にアンケートを取って、雨季の間にどれだけのポイタンが必要であるかを確認するばかりだ。
余れば宿場町での商売で使うだけなのだから、多めに申告してもらえればそれでいい。これで森辺の民がポイタンを買えずに飢えてしまうことは避けられるはずであった。
そして本日も、シュミラルを除く《銀の壺》のメンバーは、俺たちの屋台を訪れてくれていた。
午前に5名、午後に4名と交代で現れて、それぞれがたくさんの料理を購入してくれた。その中で、ラダジッドがあらたまった感じで俺に声をかけてきた。
「シュミラル、今頃、森ですね。無事、戻ること、私たち、祈っています」
「きっとシュミラルなら大丈夫ですよ。ルウ家の狩人たちが行動をともにするわけですし」
「はい。……トトス、乗れれば、心配ないのですが、モルガの森、トトス、入れないぐらい、緑、深いのですよね?」
「そうですね。トトスに乗っていたら、あちこち首を引っ掛けてしまうでしょう。トトスが元気に走り回れるほど広々とはしていないですし」
「残念です。トトス、乗れれば、猟犬すら、無用であったと思います」
よくわからないので聞いてみると、シュミラルはトトスを操るのが非常に巧みであり、その気になればムフルの大熊やアルグラの銀獅子といった猛獣をも退けることができるのだ、とのことであった。
「すごいですね。それなら、なおさら安心ですよ。シュミラルを信じましょう」
「はい」とうなずいてから、ラダジッドは何かを思い出したように俺を見つめてきた。
「もうひとつ、大事な話、ありました。……私たち、王都から、たくさんの食材、運んできました。トゥラン伯、失脚したのなら、アスタ、売りたい、思ったのですが、他の貴族、受け渡さねばならないようです」
「ああ、サイクレウスが扱っていた商売の話に関しては、ジェノス侯爵とトゥラン伯爵家の後見人とで色々と始末をつけているのですよ。そちらに断りなく、宿場町で売りさばいてしまうと、ちょっと混乱のもとになってしまうかもしれませんね」
「残念です。アスタ、直接、売れれば、多少、安くなっていたはずです」
「お気遣いありがとうございます。でも、海草や海魚を干したものなどはだいぶ数が心細くなっていたようなので、とてもありがたいですよ」
そんな業務的な話をも終えて、ラダジッドは城下町に戻っていった。
すでにシュミラルが西方神へと神を乗り換えてしまったため、団長の座はラダジッドに引き継がれていたのである。
昨日、真っ先に城下町へと向かったのも、そういった事情を商売相手に伝えるためであったらしい。ちなみに副団長の座は、星読みを得意とする年配の団員が受け持つのだそうだ。
(シュミラルは、体面的には外部からの協力者みたいな形になるんだろうな。自分の父親が作った商団をラダジッドたちに任せることになるんだから、それは相当な覚悟であったはずだ)
これだけの覚悟が報われればいい、と強く思う。
しかしまずは、猟犬というものがギバ狩りの役に立つかどうかだ。
そんなことを考えている間に、宿場町での商売は終わりを迎えた。
この後は、いよいよスン家における調理の手ほどきであった。
ルウの集落でレイナ=ルウたちに別れを告げ、道を北上し、途中でリリ=ラヴィッツを降ろしてから、スンの集落を目指す。
俺にしてみれば半年以上ぶりの、スンの集落である。
長きの時間をかけてそこまで辿り着き、荷車を集落にまで乗り入れると、えもいわれぬ懐かしさが俺の背筋を走り抜けていった。
広場の真ん中に、巨大な祭祀堂が鎮座ましましている。
干した草などで屋根の覆われた、ドーム状の巨大な建物である。
この場所で、俺たちは家長会議を執り行ったのだ。
グラフ=ザザを始めとする北の一族とも初めて顔をあわせ、みんなに血抜きをしたギバ肉の料理を味わってもらい、ファの家の行いについて弁明をし――そして夜には、ディガやドッドに襲われることになった。
頭から血を流しつつテイ=スンと対峙していたルド=ルウや、ツヴァイを小脇に抱えたダン=ルティム、獅子のごとき形相でズーロ=スンを追い詰めていたドンダ=ルウ――それに、手足を縛られて眠らされていたアイ=ファの姿などが、次々と脳裏に蘇る。
そして、スン家の人々だ。
すべての罪が暴かれた後、分家の人々は全員が声をあげて泣いていた。
トゥール=ディンも、その内のひとりであった。
これで自分たちは、頭の皮を剥がされてしまうのだ――だけどもう、ザッツ=スンの呪縛からも解放されるのだ――と、そんな思いが嘆きの声とともに夜気を震わせていたのを、今でもはっきりと覚えている。
この場所が、俺たちにとっては大きなターニングポイントのひとつであった。
森の中でアイ=ファと巡りあい、ルウの集落に招かれて、宿場町ではカミュア=ヨシュと出会い――そうして俺たちは、このスンの集落を訪れることになった。そういった積み重ねの果てに、現在があるのだ。
そんな感慨を胸に、俺はギルルの手綱を引き絞った。
「えーと、どの家に向かえばいいのかな?」
「あちらの、左の端にある家です。あれが現在の、スン家を束ねる者たちの家となります」
本家を失ったスン家の人々は、いまだ新しい本家を打ち立てることは許されず、みんなが対等な立場から家の立て直しを行っているらしい。その中で、一番年配の人間が住む家が、いちおう束ね役として定められたのだという話であった。
御者台から降り、そちらに足を向けながら、俺は思わず「あっ」と声をあげてしまう。
その家のすぐそばにあったはずの、かつての本家の家屋が消え失せていたのである。
「……あの家は、ズーロ=スンとザッツ=スンを北の集落に移動させた際、グラフ=ザザたちの手によって焼き払われたそうです。もう誰も戻ることはないのだから、と」
荷台の上から、トゥール=ディンが静かな声でそのように説明してくれた。
何ともいえない感情に胸中をかき回されながら、俺は「そっか」と答えてみせる。
確かにもう、ここに帰る人間はいないのだ。
ヤミル=レイはレイの家に、ミダはルウの家に、ツヴァイとオウラはルティムの家に、ディガとドッドはドムの家に――そうしてザッツ=スンとテイ=スンは罪人として処断され、ズーロ=スンはどことも知れぬ流刑地へと移送されていった。
そうしてようやく、彼らの罪は許されたのだ。
血の縁を絶たれて、生まれ育った家を焼き払われて、それでヤミル=レイたちはようやく新しい生を歩むことが許されたのである。
そこまで考えて、俺はドクリと奇妙な感じに心臓がバウンドするのを感じた。
冷たい汗が、つうっと頬を垂れていく。
血の縁を絶たれて、生まれ育った家を焼き払われて――新しい生を歩むことが許された。
ただの偶然に過ぎないのであろうが、それはまるで――
(それはまるで、俺自身の話みたいじゃないか)
俺は、生唾を飲みくだした。
すると、俺のかたわらを歩いていたユン=スドラが心配そうに声をかけてきた。
「どうしたのですか、アスタ? 少し顔色が悪いように思えますが……」
「いや、何でもないよ」
こんなものは、偶然に過ぎない。
俺は別に、誰かに罪を問われたわけでもないのだ。
だけど俺は、これまでとは少し異なる気持ちでヤミル=レイたちの今を思うことができた。
(ヤミル=レイたちも、多くのものを失うことと引き換えに、幸福な生をつかみ取ることができたんだ。そういう意味では、俺と一緒だ)
ザッツ=スンとテイ=スンだけは、生きている間に救われることができなかった。そんな彼らの分まで、残された家族は幸福になるべきなのだろう。
そんな風に考えながら、俺は古びた家の前に立った。
「失礼いたします。かまど番の手ほどきをするためにうかがいました」
戸板が開かれて、そこから年老いた女衆が姿を現した。
老女、というほどの年齢ではないのだろうか。ただ、髪はだいぶん白くなってしまっている。
その女衆は、俺の姿を見るなり、「ああ……」と涙をこぼし始めた。
「アスタ……本当に来てくださったのですね……あなたはスン家に怒りを抱いたままなのではないかと心配しておりました……」
「そ、そんなことは決してありませんよ。昨日はたまたま急用が入ってしまい、こちらにうかがうことができなかったのです」
俺は慌ててその女衆をなだめながら、ユン=スドラのほうをうかがった。
ユン=スドラは、少し困った感じで微笑んでいる。
「きちんと説明はしたはずなのですが、なかなかわたしの言葉だけでは不安をぬぐいきれなかったようです」
「そっか。……あの、泣かないでください。俺はスン家に怒りなどありませんよ。スン家を許そうと決めたのは、森辺の民みんなの判断だったではありませんか?」
それでもその女衆はぽろぽろと涙をこぼしながら、俺の顔を見つめていた。
腐った魚のような目ではない。涙でいっそうきらきらと光る、茶色の瞳だ。
家長会議の際にはすべての分家の女衆が駆り出されていたはずなので、この女衆もひとたびは顔をあわせたことのある相手であるはずだった。
女衆は胸もとで指先を組み合わせながら、泣き笑いの表情を浮かべる。
「みなは、かまどの間に集まっております……どうぞ手ほどきをよろしくお願いいたします……」
「承知いたしました。それでは、またのちほど」
俺たちはその女衆に見送られながら、家の裏手へと回ることになった。
そうして、そこに足を踏み入れると、思いも寄らぬほどの大勢の人々が待ちかまえていた。
「ああ、アスタ、お待ちしておりました」
「アスタ、再びお目見えすることができて、嬉しく思います」
それは、10名ばかりの女衆と、それに何名かの幼い子供たちであった。
すでにスンの集落には、20名足らずの家人しか残されていないと聞いている。その言葉が正しいのなら、これは狩人を除くすべての家人なのではないかと思われた。
5歳に満たない幼子たちは、きょとんとした目で俺たちを見つめている。
もうちょっと大きな子供たちは、はにかむように笑ったり、母親の陰に隠れたりしながら、やっぱり俺たちを見つめていた。
老若の女衆は、笑顔であったり緊張気味の表情であったりと、さまざまだ。
しかし、死んだ魚のような目をしていたり、泥人形のように無表情であったりする人間は皆無であった。
その中で、何人かは確かに見覚えのある顔である。
みんな、ともに家長会議の料理を作りあげた人々なのだ。
熱湯をはねさせて、トゥール=ディンに火傷を負わせそうになった女衆がいた。
シーラ=ルウに手ほどきをされながら、『ミャームー焼き』を焦がしてしまっていた女衆もいた。
スンの集落にアリアやポイタンの備蓄はない、と答えていた女衆もいた。
「みなさん、おひさしぶりです。お元気そうで何よりです」
胸を詰まらせながら俺がそのように述べてみせると、また何名かの女衆が目頭を押さえてしまった。
彼女たちにとって、俺はスン家の滅びの象徴みたいな存在なのだろう。
ドンダ=ルウを筆頭とする家長たちは全員でズーロ=スンを追い詰めていたが、「食料庫をあらためさせてほしい」というとどめの一言を放ったのは、他ならぬこの俺なのだ。
あのときも、彼女たちは生ける屍のような様相で俺たちを取り囲んでいた。
そうして食料庫の秘密が暴かれるなり、堰を切ったように泣き崩れたのである。
「申し訳ありません。全員がご挨拶をしたかったために、かまど番の仕事も果たせぬ者たちまで集まってしまいました。お仕事の邪魔にならぬよう、すぐに戻りますので」
「いえ、みなさんのお心づかいはとても嬉しいです。これから数日間、どうぞよろしくお願いいたします」
幼子を連れた女衆は、頭を下げながらその場から立ち去っていった。
残されたのは、5名ばかりの女衆だ。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします、アスタ。アスタたちのおかげで、わたしたちはまた生きる喜びを増やすことがかないました」
「男衆のほうの手ほどきは、今日が最終日でしたね。もう血抜きをしたギバの肉を味わうことはできているでしょう?」
「ええ、もうピコの葉が足りなくなるぐらいの肉が集まってしまって――」
女衆のひとりがそのように答えかけたとき、歓声めいた声が広場のほうから聞こえてきた。
まだ日は高いが、男衆が森から帰ってきたらしい。
そちらに挨拶をしてから仕事を始めさせていただこうかな、と思っていると、ちょっと想定外の巨大な人影が現れて俺を驚かせた。
それは頭つきの毛皮をかぶった、北の集落の狩人であった。
「ファの家のかまど番か。今日はお前も出向いてきていたのだな」
その男衆の後からも、同じいでたちをした屈強なる狩人たちがぞろぞろと現れる。その人数は6名ほどで、彼らは3頭ものギバを抱えていた。
「俺たちは、ジーンの狩人だ。今日はスン家の男衆に狩りの手ほどきをするために訪れていた」
「ああ、そうだったのですね。どうもお疲れさまです」
彼らはギバ狩りの技術の失われたスン家の男衆をフォローするために、いまだに数日に一度、こうして集落を訪れていたのだった。
また、それは、彼らが正しく生きているか――再び森の恵みに手を出したりはしていないか、それを確認するという意味合いも存在するらしい。彼らは誰よりもスン家の行いに怒り、かつ責任を感じてもいたのである。
そうして彼らの後からは、見覚えのある一団と見覚えのない一団も姿を現した。
スドラの狩人たち、およびスンの狩人たちである。
スドラは4名で、スンは7名だ。
そして、そちらには全部で5頭ものギバが担がれていた。
「ライエルファム=スドラ、お疲れさまです。まだこんなに日は高いのに、すごい収穫ですね」
「うむ。血抜きに成功したのはこの内の半分だけだがな。毛皮を剥がねばならないので、すべてを持ち帰ってきた」
小猿を思わせるスドラの家長は、そのように述べながら額に深いしわを寄せた。
「しかし確かに、8頭ものギバを仕留められるとは思わなかった。このようにギバの多い狩場を見たのは初めてだ」
「そうであるからこそ、この地はスン家の集落に選ばれたのだ。かつてのスン家は、どの氏族よりも強い力を持っていたのだからな」
最初に声をあげたジーンの狩人が、そのように口をはさんでくる。
「この半年あまりで森の恵みは完全に蘇ったので、ギバの数も増えるいっぽうだ。ときおり俺たちがやってこなくては、スンの男衆の身が危うかろう」
「うむ。お前たちはすぐれた狩人だな。北の一族の力をまざまざと思い知らされた。……しかしお前たちは、狩りに弓を使わぬのか?」
「使わないことはないが、今日は弓を得意とする狩人を連れてきていなかった」
「ジーンとて、狩人の数は10名ていどであろう? その内の6名までもが、弓を使わぬのか」
ライエルファム=スドラは、難しい面持ちで短い腕を組んだ。
その間に、スンの男衆がひとりずつ俺に挨拶をしてくれていた。
こちらは直接面識のない相手ばかりであるが、それでもやっぱり全員があの滅びの瞬間には立ちあっていたのだ。女衆のように涙を浮かべたりはしていなかったものの、その眼差しにはいずれも万感の思いが込められていた。
そうして彼らが8頭もの獲物を木に吊り下げ始めたところで、再びライエルファム=スドラが口を開く。
「ジーンに、スンの狩人らよ。1日に8頭ものギバを仕留めるというのは、お前たちにとって当たり前の話なのか?」
「8頭は、さすがに当たり前ではないな。俺たちジーンが力を貸す際でも、せいぜい5、6頭ぐらいが普通であったように思う」
ジーンの男衆の言葉に、ライエルファム=スドラは「なるほど」とうなずく。
「それではやはり、俺たちの弓も役に立てたということなのだな。ギバを追い込むのに、俺たちの弓は有効であったろう?」
「ふん。こちらの頭を射抜かれるのではないかと、ひやひやさせられたがな」
「そんな間抜けな真似はせん。……しかし、俺たちはこの半月ほどスンの集落に通っていたが、ジーンの狩人ぬきでこれほどの収穫をあげられたことはない。となると、やはりこれはジーンとスンとスドラの力があわさったからこそ、為せた結果なのだろう」
ジーンの狩人は、ギバの上顎の陰でいぶかしそうに目を光らせた。
「スドラの家長よ、お前はさきほどから何をくどくどと申し述べているのだ?」
「いや、俺はお前たちの手並みに感服したのだ。見ての通り、スドラにはあまり身体の大きな狩人がいない。あれほど巨大なギバの首を刀の一撃でへし折ることなど、とうてい誰にも為すことはできないだろう」
「……ふむ?」
「しかし、ギバを弓で追い込んだのは、俺たちの手柄だ。弓を得意とする俺たちと、刀を得意とするお前たちが力を合わせることによって、俺たちはまたとない収穫をあげることができたというわけだ」
「だから、何だというのだ? まさか、俺たちの眷族になることを望んでいるのか?」
「いや、俺たちはフォウ家と血の縁を結ぶことを考えている。家の遠い北の一族と血の縁を結んでも、たがいを血族として慈しむことは難しいだろう」
そのように述べながらも、ライエルファム=スドラは考え深げに顎をさすっていた。
「だが、なんというのかな……これほどの力を使わずにいるのは、惜しい気がしてしまう。北の一族も俺たちも、荷車を使えばこうしてスンの集落までやってくることは容易いのだ。ときにはこうして力を合わせたほうが、これまで以上の収穫をあげることがかなうはずであろう」
「しかし、俺たちには俺たちの狩場がある。……まあ、こうして数日に一度はスンの集落を訪れても、俺たちの狩場からギバがあふれることはない、とこの数ヶ月で証しだてられることにはなったがな」
北の集落には、ザザとドムの狩人たちも控えているのだ。さぞかし広大なる狩場をおさえているのだろうとは思うが、それでも手が足りなくなることはそうそうないのだろう。
「そうか。俺たちスドラのほうなどは、むしろギバの数が物足りないぐらいでな。今は休息の期間なのでギバがいないのも当たり前だが、そうでなくとも、いささか手があまってきていたところであったのだ」
「ほう? そちらは狩場がせますぎる、と?」
「うむ。ファの家の近在に住まう氏族は、ここ数ヶ月で強い力を得た。おそらくどの氏族も、この数ヶ月でこれまで以上の収穫をあげられるようになったのであろう。それゆえに、狩場が手狭に感じられてしまうのだ。あの場所から狩場を広げるには、さらに森の奥へと進まなくてはならないので、自ずと限界も知れているしな」
そうしてライエルファム=スドラは、頭ひとつ分以上も高いところにあるジーンの男衆の顔を見上げた。
「俺たちは狩場を手狭に感じている。スン家ではギバの多さに困らされている。ならば、俺たちはときおりスン家を訪れるのが、たがいにとっての益であるように思えるし――そこで北の一族の力を借りることができれば、なおのこと有意であるように思える」
「……確かにまあ、このようにわずかな時間で8頭ものギバを狩れたのは、ジーンとスドラとスンの狩人がそろっていたからなのであろうな」
ジーンの男衆もまた、考え深げに首をひねった。
「俺たちは、1頭でも多くのギバを狩るのが仕事だ。そういう意味では……俺たちの家長も、一考に値する話だと考えるかもしれん。どのみち、まだしばらくはスンの集落を訪れるつもりでいたことだしな」
「そうか。では、その日取りを教えてもらえれば、俺たちのほうからもスンの集落に出向こう。俺たちはファの家に肉を売れば銅貨を得られるので、角も牙も毛皮もそちらにすべて預けてもかまわない」
「それでは、俺たちがほどこしを受けているようで気分が悪い。収穫は、均等に分けるべきだ」
と、最後には北の一族らしい頑なさを見せつつも、大枠においてはライエルファム=スドラの提案が受け入れられた様子であった。
ライエルファム=スドラの弁舌は北の一族が相手でもこのように効力を発揮するのかと、俺はひそかに感心させられてしまう。
そうしてライエルファム=スドラは、ちらりと俺のほうを盗み見てから、また言った。
「ところで、スン家の人間がファの家に肉を売ることは許されているのか? かつてスン家はファの家の行いに賛同していなかったが、本家の人間がいなくなったのだから、今では考えも変わっているはずだ」
「それは……族長に聞くべき話であろうな。スン家が分不相応な富を得ることは危険であるようにも思える」
「ならば、食料や薬といった必要なものだけをそろえさせて、余った銅貨はザザの家で預かればいいのではないだろうか。スンの集落には幼い子供も多いようだし、今のままでは富が足りていないように思える」
「……決めるのは族長だ。お前の言葉は、グラフ=ザザに伝えておく」
「そうか。よろしく頼む」
ライエルファム=スドラは大きくうなずいてから、今度ははっきりと俺のほうを振り返ってきた。
「ところで、アスタたちはいつまで俺たちのことを見物しているのだ? ずいぶん太陽も下がってきてしまっているようだぞ」
「あ、そうですね。それでは、失礼いたします」
俺たちは、ぞろぞろと連れ立ってかまどの間に引っ込むことになった。
その途上で、トゥール=ディンが囁きかけてくる。
「あの、ライエルファム=スドラというのは、なんていうか……とても不思議な男衆ですね。何かわたしたちには見えていないものが見えているように感じられてしまいます」
「うん、あの人はすごい人だと思うよ。森辺の生活を一変させた立役者のひとりなんじゃないかな」
そうしてユン=スドラのほうをうかがってみると、彼女はとても誇らしげな面持ちで微笑んでいた。
「わたしは何だか、胸がいっぱいになってしまいました。スドラの家人であることを誇りに思います」
「うん、それは正しい気持ちだと思うよ。……もう家長のことを聡明でないだなんて思ってないよね?」
「聡明でない? どうしてわたしがそのようなことを?」
「ずいぶん昔の話だけど、そんな風に言ってたじゃないか。ほら、ユン=スドラがダバッグに行くことをライエルファム=スドラに反対されたときさ」
「あ、あれはだって、わたしもアスタたちとご一緒したかったですし……何も本気で家長を貶めていたわけではありません!」
ユン=スドラの大声に、スン家の女衆がきょとんとした顔で振り返る。
ユン=スドラは顔を赤くしながら、恨めしげに俺を見つめてきた。
「……そんな昔の話を引っ張りだすなんて、アスタはひどいです」
「あはは。ごめんごめん」
森辺は今でも、変革のさなかにある。
その中で、シュミラルという存在がうまい形で組み込まれることを心から願いながら、俺は本日の仕事に取りかかることにした。




