半人前の料理道①下準備
2015.4/5 誤字を修正
そして、その日がやってきた。
ルティム家の人間を招いての、婚儀の前祝いの夜、である。
森辺においては、婚儀の7日前からこうしてひっそりと身内だけで前祝いをするのが、通例であるらしい。
明日は新郎側のルティム家で、明後日は新婦側のミン家で、その次は縁の深いレイ家で――と、連夜の宴を催すのだそうだ。
ご苦労さまとしか言い様のない風習であるが、さしあたって俺にとって重要なのは、この日この夜のみである。
縁者の中ではもっとも位の高い家で行われる、前祝いの初日――ルウの家における、宴。
そのかまどを預かるわけだから、責任は重大だ。
しかも、俺とアイ=ファはルウの家の家長ドンダ=ルウと約定を交わしている。
この晩餐でドンダ=ルウを満足させることができなければ、ファの家はルウと縁あるすべての家から絶縁されてしまうのだ。
この集落においては唯一スン家に対抗しうるルウ家に絶縁を申し渡されれば、アイ=ファはまたスン家の跡取り息子ディガ=スンに狙われてしまうかもしれない。
しかも、ドンダ=ルウがそのように非情な運命をアイ=ファに申し渡すつもりならば、ルウ家の最長老ジバ=ルウは家を捨ててファの人間になる、と決意してしまっている。
ジバ=ルウと同じようにアイ=ファを大事に思っている末娘のリミ=ルウも、どのような苦しみに苛まれてしまうかわからない。
よくもまあここまで話がこんがらがったものだと、俺は溜息をつくばかりである。
だけど、俺にやれることはひとつしかない。
美味い料理を献上して、ドンダ=ルウを納得させるだけだ。
◇
「今日は、よろしくお願いいたします」
ルウの家のかまどの間において。俺は深々と頭を下げてみせた。
ちょっと長く伸びかけてきた頭に白タオルを巻いて、白いTシャツの上にアラジンみたいなベスト、8本の祝福が輝く首飾り、グリギの木の実の首飾り、エスニックな腰あてに白シューズという、そろそろ定番になってきたハイブリッドの装いだ。
作業台には、親父の魂たる三徳包丁が備えられている。
準備も気合いも万端である。
そんな俺のかたわらにはアイ=ファが立ち、俺の正面には3名の女衆が立ち並んでいる。
家長ドンダ=ルウの妻、ミーア・レイ=ルウ。
そのふたりの間に生まれた長姉、ヴィナ=ルウ。
同じく次姉の、レイナ=ルウ。
以上の3名だ。
「前回に引き続きってのはレイナ=ルウだけか」
「はい! ……それも本当はララだったんですけど、あの子は何だか気が進まないみたいだったし、わたしはその、もっとアスタに料理を教えてほしかったから……明日の当番と変わってもらったんです」
「助かるよ。ひとりでも段取りがわかってる人間がいると効率が全然違うからね」
リップサービスでも何でもなく、俺はごく真っ当な一般論を吐いただけのつもりなのだが、レイナはぽーっと顔を赤らめて、アイ=ファは冷たい視線を飛ばしてきた。
しかし、今日こそは心を乱されまいと決意している。
もちろん前回だって心を乱されて調理をおろそかにするような失敗は犯していないが、今回ばかりは俺も不撓不屈の精神で挑む心づもりなのである。
何せ――本日の包丁さばきには、何人もの人間の命運がかかってしまっているのだから。
「何だい、あたしらは頼りにならないってかい? こいつは失礼しちゃうねえ! かまど仕事の腕だったら、まだまだレイナなんかに負けやしないよ?」
と、豪快に笑うのは、7名もの子どもを成した女傑にして、あの恐ろしげなドンダ=ルウの伴侶たる、ミーア・レイ=ルウである。
がっしりとした骨太かつ肉厚な体格に、白いものの混じった赤毛と、くっきりとした茶色の瞳。既婚女性の証したる一枚布の長衣を纏った、頼もしいおっかさんだ。
その隣りでは、母親とは髪や目の色も体型も容姿もまったく似たところのない色気の権化ヴィナ=ルウが、退屈そうに長い髪の先を弄っている。
とろんとした目に、ぽってりとした唇。超絶的なまでの起伏を見せるボディラインと、垂れ流しのフェロモン。男を悩殺するために生まれてきたようなおねえさまである。
さすがにもう俺の姿を見ても頬を赤らめたりはしないが、その代わりに、何だか持ち前の愛想を放棄して無気力モード全開のご様子だ。
何にせよ、その3名様のご様子を見るに、俺たちと家長の間に交わされた殺伐とした約定についてなど、何ひとつ聞かされていないように感じられる。
まあ、そうでなければ俺が困る。そんな話を聞かされて、リミ=ルウやレイナ=ルウあたりがどんな気持ちを抱くことになるか、そんなことすら想像できない御仁なのだったら――はっきり言って、救い様がない。リミ=ルウたちがこんなに真っ当な人間に育ったのはすべて他のご家族のおかげだったのですねという心境になってしまうだろう。
「それでは、本日の段取りですが。人数は、ルウ家の家族12名、ルティム家の客人3名、自分とアイ=ファの分で2名、合計17名分ですね。その内のジバ=ルウの分だけは、特別仕様の献立にしたいと思います」
きわめて事務的に、俺は説明を始めさせていただいた。
「献立は、前回も作らせていただいた、ギバ肉とアリアのスープ、焼きポイタン、それにギバ肉の焼き料理ですね。ジバ=ルウにはハンバーグを提供しようと思うのですが、えーと、普段はギバ鍋もジバ=ルウにだけは食べやすいように特別な調理がされているのでしょうか?」
「そうだね。アリアを食べやすいように小さく切って、別の鍋で煮ているよ。で、肉なんかは全部あたしたちの鍋に移しちまうのさ。どうせジバ婆ははんばーぐで肉をたらふく食べられるからね」
と、ミーア・レイ=ルウがにこやかに応じてくれる。
レイナ=ルウは一言も俺の言葉を聞き逃すまいとばかりに真剣な顔で身を乗り出しており、ヴィナ=ルウはまるでそのバランスを取ろうとしているかのように「あふ……」と色っぽくあくびを噛み殺している。
「そうですか。それでは俺もそれに倣いたいと思います。で、調理のほうなんですが――スープの得意な人、焼きポイタンの得意な人、なんていう区別はありますか?」
「ポイタンを焼くのはレイナが一番上手だねえ。ギバ鍋は誰が作っても一緒だけど、かまどの番が一番苦手なのは、このヴィナだろうね」
「そうですか。それじゃあポイタンはレイナ=ルウに、スープはミーア・レイ=ルウに、基本はおまかせいたします。ヴィナ=ルウは、俺と一緒に肉料理を担当しつつ、みんなの補助をお願いしますね」
「……わたしなんて、どうせ足を引っ張るだけだよぉ? 今からでもティト・ミン婆かリミとでも交代してきてあげようかぁ?」
何だかちょっとすねたような声で、ヴィナ=ルウが初めて発言した。
俺はそちらに、にこりと笑いかけてみせる。
「いいえ。あなたもルウの家の女衆なのですから、きっちり仕事をしてください。俺も俺の仕事をやりとげるつもりですから」
「…………」
「では、レイナ=ルウはもう焼きポイタンの準備を始めてくれるかな? ヴィナ=ルウも荷物運びを手伝ってあげてください」
ヴィナ=ルウは本格的にすねた顔になって、レイナ=ルウとともにかまどの間を出ていった。
「で? あたしはどうしたらいいのかね、アスタ?」
「はい。ミーア・レイ=ルウにはお聞きしたいことがあります。前に俺がかまどを預かって以来、ルウの家でもポイタンを焼くのが毎晩の献立になったと聞いているんですけど。それ以降もギバの鍋には、あの食糧庫にある色々な野菜を入れたりしているんですか?」
「そりゃあそうだよ。あれがなくっちゃ毎日おんなじ味になっちまうからねえ。……大体さ、鍋のほうだって、あたしらが作るとどうしたってギバの臭みが抜けないんだよ。タラパだとかリーロだとかを入れてちょっとでも臭いを誤魔化さなきゃさ」
「へえ。リーロを入れたりもするんですか? いくら何でも、香りがきつすぎません?」
「おかげでギバの臭みはだいぶ誤魔化せるからね。……ねえ、あんたの持ってくる肉は何なのさ? あのはんばーぐも最高だったけど、臭くないギバ鍋ってのもあたしらには驚きだったんだよ! いったいどういう魔法を使えばあんなにギバの肉が美味しくなるわけ?」
「何の魔法でもないですよ。ただ、ギバを仕留めた時にすぐ適切な血抜きをするだけです。……だからそれは、女衆じゃなく男衆の仕事ですね」
「そうかい……それじゃあ、駄目だねえ。あの偏屈どもがあんたの言うことなんて聞くはずもないし」
残念そうに肩を落とすミーア・レイを見つめつつ、俺は「それでは」と言葉を重ねる。
「このような宴では、贅を尽くした食事で客人を歓迎すると聞いたのですが、森辺における贅ってのは、いったいどういうものなのでしょう? やっぱりあの食糧庫にあるさまざまな野菜を使うのですか?」
「ああそうさ。アリアやポイタンより高くつくあの野菜たちをドカドカ鍋にぶちこむんだよ。ま、考えなしに放り込んだら、それこそ食えたもんじゃなくなっちまうけどね!」
「なるほど。ではきちんと考えた上で放り込んでいるのですね。……それじゃあこれはもうミーア・レイ=ルウ個人の好みでかまいませんけど。この前に俺が作った臭みの少ない『ギバ・スープ』、あれにアリア以外の野菜を入れるとしたら、どれが一番美味しく仕上がると思いますか?」
「ええ? そりゃまあ、ティノなんかは何でも合うだろうねえ。臭みがないなら、リーロやタラパを入れる必要はないし……ギーゴは駄目だね。ポイタンを入れたみたいにドロドロになっちまう。後は、ちょっと苦いけど、プラなんかはなかなか良いんじゃないのかね。ルドやララなんかは渋い顔をするかもしれないけどさ」
もはや俺には人名と食材がごっちゃになってしまいそうである。プラと間違えてララを鉄鍋にぶちこんだらさぞかし怒られるのだろうなあ。
「それじゃあ、ティノと、プラですか? 今日はそのふたつを入れてみましょうか」
「えっ! やめておくれよ! せっかくあんたが来てくれたのに、あたしが余計なことをして味が滅茶苦茶になったら大変じゃないか! 今日はルティムの客人もいらっしゃるんだよ?」
「大丈夫ですよ。何事も挑戦です。創意工夫なくして料理の向上はありえませんよ」
言いながら、俺はちらりとアイ=ファを見てみた。
前回とはまったく真逆な発言をしてしまっている俺であるが――アイ=ファは静かに、強い目で俺を見守っていてくれた。
俺の本日の方針は、最初からすべてアイ=ファに伝えてある。
アイ=ファは相当びっくりしていたが、それでも最後には「お前の判断にまかせる」と言ってくれた。
その信頼に、応えたいと思う。
「……ところで、最近の家長のご様子はいかがですか?」と俺が唐突に尋ねてみると、難しい顔で考えこんでいたミーア・レイ=ルウは「ほえ?」と愉快な声をあげた。ギバ鍋作成のシミュレーションでもしていたのだろうか。申し訳ない。
「ドンダがどうしたって? あんたたちだって3日前に来たばかりじゃないか?」
「そうですが。その後にお変わりはないかと思って」
「お変わりねえ。……そういえば、その日の夜からやたらと不機嫌そうな顔をしている気がするね。ちょいちょいジバ婆の寝所にも顔を出してた気がするし。何かお説教でもされてるのかねえ」
いや、違うだろう。ドンダ=ルウの気性をわきまえているジバ=ルウは、この期に及んで説教などしないはずだ。明哲なる最長老は、すでに自分の道を決めてしまったのだし、今さらドンダ=ルウに用事はないと思う。
ならば――ドンダ=ルウが、こんな馬鹿げた勝負からは手を引くように説得しろ、とでもジバ=ルウにかけあっているのだろうか?
だったらまだしも救いはあるのだが。真相はわからない。
それに、俺のやることにも変わりはない。
俺は気持ちを引き締めなおし、自分の仕事に取りかかることにした。
「さて。それじゃあ俺も肉料理の準備を始めちゃいますね。スープはポイタンの目処がたった後で十分間に合うでしょうから、ジバ=ルウのためのハンバーグの調理方法をおさらいしましょうか」
言いながら、俺は持ち込みのギバ肉の包みを解いていった。
前回はモモと肩ロースのみだったが、本日は3種類の肉を準備している。
実のところ、研究に励むあまり、部位によっては人数分の確保が難しく、俺やアイ=ファの分までは回ってこないかな――というギリギリの状況に陥りかけたりもしてしまっていたのだが。何と2日前にはアイ=ファがまた40キロ級の若いギバを持ち帰ってくれたので、そんな不安も解消された。
そんなわけで、足りないどころかちょっと余分にまで確保できた肉たちを、丁寧にひとつずつ調理台の上に広げていく。
すると、ミーア・レイ=ルウが「あんた……」と声を詰まらせた。
「こんなの使って大丈夫なのかい? ドンダのあの時の怒りっぷりを忘れたわけじゃないだろう?」
「大丈夫ですよ。要は、美味い料理を作ればいいだけのことなんですから」
驚き呆れるおっかさんにはかまわずに、俺はモモ肉からハンバーグ用のぶんを三徳包丁で切りわけていく。
そのかたわらで、自分たちの出番をひっそりと待ちかまえているのは――ドンダ=ルウが憎んでやまない「ムントの餌」こと、ギバ肉の肩ロースと、そしてまだ骨からも切り離していない脂ののった「あばら肉」の塊だった。