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異世界料理道  作者: EDA
第二十三章 闘技の候
397/1675

狩人の誇り③~決着~

2016.11/2 更新分 1/1

 そうして俺たちは定刻通り、下りの二の刻の半にはルウの集落に帰りついていた。

 本来であれば今日はルウ家で勉強会をする日取りであったが、それは明日に変更させてもらいたいという旨を、すでに朝方に伝えている。ということで、ヤミル=レイだけを下ろした後、俺たちは早々にファの家を目指そうとしたのだが、そこでひょこひょこと広場のほうから歩いてきたバルシャに呼び止められてしまった。


「ああ、アスタ。あたしもルウ家の荷車で、後を追っかけさせていただくからね」


「はい。バルシャもレム=ドムにご挨拶ですか?」


「うん、あの娘とはけっこう長いこと一緒に森に入ってた仲だからさ。ジーダはまだ帰ってこないから、あたしだけでも挨拶をさせていただこうと思ってね」


 バルシャがそのように述べたてると、まだルウルウの御者台に座ったままであったリミ=ルウが「いいなー!」と大きな声をあげた。


「リミもレム=ドムにごあいさつしたい! ドンダ父さんに頼んでくるから、ちょっと待っててよぅ」


「そいつはかまわないけど、リミ=ルウはレム=ドムとつきあいがあったのかい?」


「ううん、あんまり。でも、レム=ドムは格好がよくて優しいから、リミは好きだったの」


 もともとアイ=ファになついていたリミ=ルウであれば、女衆でありながら狩人を志すというレム=ドムの行動にも、抵抗を持つことはなかっただろう。

 それにしても、さして交流もないレム=ドムを優しいと言ってのけるのは、何ともリミ=ルウらしい無邪気さと鋭さであった。


「それじゃあ、ちょっと待っててね! あ、レイナ姉はどうする?」


「そうね……あの、アスタ、今日はそのまま近在の女衆に料理の手ほどきをするのでしょうか?」


「うん、そのつもりではあるけれど」


「それでは、わたしはそちらを見学させていただきたく思います。料理に不慣れな女衆にはどのような手順で手ほどきをするべきか、アスタの手並みを拝見したいのです」


 ということで、レイナ=ルウとリミ=ルウはギルルの手綱をバルシャに託し、ルウの本家へと駆け出していった。

 それを見送っていたモルン=ルティムが「あの」と声をあげてくる。


「わたしも今日はルウ家で手ほどきをしていただく予定であったので、仕事の手は空いています。……なので、レイナ=ルウたちとともにファの家に向かわせていただきたいのですが……」


「それはもちろん、こちらはまったくかまわないけれど」


「ありがとうございます」と頭を下げるモルン=ルティムは、何やら誰よりも思い詰めた面持ちであった。

 そういえば、先日に行われた歓迎の宴において、彼女はやたらとドム家の行く末を気にかけていたのだ。ならば、このまま真っ直ぐ帰る気持ちになれないのも当然であるように思えた。


「だったら、わたしも同行させていただこうかしら。……ツヴァイはどうする?」


「フン。あのドム家の乱暴者が泣きべそをかいてるなら、そいつはちょいと見ておきたいかもね」


 そのように言い出したのは、ヤミル=レイとツヴァイであった。

 けっきょく真っ直ぐ自分の家に戻るのは、ルウ家の屋台を手伝っているミンとムファの女衆だけであるようだ。

 レイナ=ルウたちがなかなか戻ってこないので、俺はバルシャへと言葉をかける。


「バルシャたちに狩人としての手ほどきをされるようになってから、レム=ドムはずいぶん様子が変わりましたよね。それでもやっぱり、アイ=ファにはかなわないんでしょうか?」


「うーん、どうだろうねえ。100回でも200回でも挑んでいいって話なんだから、1回ぐらいは勝ってもおかしくはないんだけど……でも、相手はアイ=ファだからねえ」


「やはりアイ=ファが相手では分が悪いですか」


「うん。あたしはアイ=ファが力比べをする姿を見たことはないんだけどさ。ダルム=ルウやラウ=レイを打ち負かして、ダン=ルティムとも互角の勝負をしたってんだろう? そんなアイ=ファに、同じ女衆であるレム=ドムが勝つってのは、そうとう厳しいだろうねえ」


 やはり、レム=ドムが勝利すると予想する人間は皆無であるようだった。

 そういえば、レム=ドムは旅芸人のロロに力比べの勝負を挑んで、まったく歯が立たなかったらしい。そんなロロに勝利したラウ=レイさえ、アイ=ファに勝つことはかなわなかったのだ。


(一縷の望みがあるとしたら、持久力で粘り勝ちすることだけど……アイ=ファは体調が万全になるまで勝負は受けないって言いきってたもんな。それじゃあ、その線も難しいか)


 狩人の力比べにおいては、相手に怪我をさせることが禁忌とされている。が、ダルム=ルウなどは脳天から地面に叩きつけられたりもしていたのだ。負けを重ねれば重ねるほどダメージは蓄積されていくし、スタミナだって消費させられるだろう。ましてやアイ=ファは相手の力を利用する戦法を取るので、かなり燃費はよさそうな印象である。


(となると、最後に残るのは、アイ=ファがうっかりレム=ドムに怪我をさせての反則負けって線だけど……アイ=ファがそんな迂闊な真似をするとも考えにくいし、そんな結末だとゲオル=ザザあたりは物言いをつけてきそうだよな)


 営業時間は3時間強であるが、移動時間や準備時間まで含めると、すでに5時間以上が経過している。いくら何でも、すでに決着はついた頃合いであろう。あとは20分ほど荷車を走らせるだけで結末は知れるというのに、俺はあれこれ考えるのを止めることができなかった。


「お待たせー! ごめんね、遅くなっちゃって!」


 元気いっぱいの声に振り返ると、そこには3名の人間が立っていた。

 リミ=ルウとレイナ=ルウと、そしてその両名の御父君である。


「あれ? どうしたのですか、ドンダ=ルウ?」


「ザザ家の跡継ぎがまだファの家に居座っているなら、少し言葉をかけておこうと思っただけだ。例の闘技会というやつで、貴族どもを相手に騒ぎでも起こされたらかなわんからな」


 そのように述べながら、青い瞳でぎろりとにらみつけてくる。


「俺が出向いて、何が都合の悪いことでもあるのか? あるなら、説明してもらおう」


「いえいえ、まったくそのようなことは……ただ、ドンダ=ルウをファの家に招くだなんて、なかなかないことだなあと嬉しく思っただけです」


 俺は本心からそのように告げたのだが、気難しい族長殿には「ふん!」と不機嫌そうに鼻息を噴かれてしまった。

 ちなみにドンダ=ルウは、ひと月半が経過したというのに、いまだに療養中の身なのである。さすがに三角巾は外れて右肩に包帯を巻いているばかりであるが、森の主の牙につらぬかれた傷は、それほどまでに深かったのだった。


「それでは、出発いたしましょう。俺が先頭を走りますね」


 2名の女衆の代わりにバルシャとドンダ=ルウが加わった格好なのだから、3台の荷車で移動に不便はない。俺、トゥール=ディン、ユン=スドラ、フェイ=ベイム、ダゴラの女衆、ガズの女衆、ヤミル=レイ、ツヴァイ、モルン=ルティム、リミ=ルウ、レイナ=ルウ、ドンダ=ルウ、バルシャ、合計13名の御一行だ。

 俺たちはそれぞれのトトスの手綱を握り、ファの家を目指して道を北に急いだ。


「まさか、ドンダ=ルウまでもが同行を願うとは思ってもみませんでした。やはり族長としては、レム=ドムの行く末が気にかかるのでしょうか」


 同じ荷車に乗っていたユン=スドラが、荷台のほうから声をかけてくる。


「そうだね。新たな女狩人が誕生するとしたら、それは族長として見過ごせない話なんだろうと思うよ。まあ、原則として余所の家のことには口出しをしない方針であるみたいだけどね」


「そうですか。……ああ、何だか胸が騒いできてしまいました。いったいどのような形で決着がついたのでしょうね」


 すべては森の意志のままに、である。

 とはいえ、ファの家が近づくにつれ、俺もだんだん鼓動が速くなってきてしまった。


 ギルルは、軽快に道を駆けている。

 いくつかの集落を横目に20分ばかりも北上すると、やがてファの家の目印である大きな木が見えてきた。


 手綱をゆるめて、常歩で小路に荷車を乗り入れる。

 家の脇には、ザザ家のトトスと荷車の姿があった。

 が、アイ=ファたちの姿はない。家の中で、俺たちの帰りを待っているのだろうか。


 俺はいつもの定位置で荷車を止め、みんなを降ろしてからギルルを解放した。

 それで手綱を木の枝に結んでから、家の戸板を手の甲で叩く。


「アイ=ファ、戻ったぞ。お客さんが大勢いるんで、外に出てきてもらえるかな?」


 返事は、返ってこなかった。

 首をひねりつつ戸板を開けると、室内は無人であった。


「何をしているのだ、貴様は?」


 と、ルウルウの荷車から降りたドンダ=ルウが俺のほうに近づいてくる。


「いや、アイ=ファたちの姿がないのですよね。少なくとも、レム=ドムたちはまだ居残っているはずなのですが……」


「当たり前だ。連中は、家の裏だろう。貴様にはこんな騒がしい気配も感じ取れないのか?」


「騒がしい気配? でもまさか、いまだに力比べを続けているわけでは……」


「力比べでなかったら、別の理由で争っているのだろうな」


 そんな恐ろしい話は、想像したくもなかった。

 俺はいくぶん心を乱しつつ、急ぎ足で裏手に回る。12名の客人たちも、同じ歩調でついてきた。


 そうして胸をどきつかせながら、家の裏手を覗き込んでみると――驚くべき光景が待ち受けていた。

 アイ=ファとレム=ドムは、いまだに力比べを続けていたのである。


「おお、戻ったのか。これでようやく話し相手ができた」


 革張りの屋根の下でくつろいでいたゲオル=ザザが、あくびまじりで呑気に述べてくる。その目がドンダ=ルウをとらえるなり、すっと細められた。


「何だ、ずいぶん立派な狩人を連れているな。しかしその傷は、もしかして――」


「ルウ本家の家長ドンダ=ルウだ。貴様がザザ家の跡取りであるゲオル=ザザか」


 ドンダ=ルウが進み出ると、ゲオル=ザザはゆらりと立ち上がった。

 その目はいっそう爛々と輝き、厳つい顔には不敵な笑みが浮かべられる。


「これはこれは……このような場所でお目にかかれるとは思ってもみなかった。なるほどなあ。こいつは聞きしにまさる迫力だ。うちの親父やディック=ドムにも劣らないのではないかという評判も、まんざら出鱈目ではなかったらしい」


「狩人の仕事も放り出していいご身分だな。まあ、俺が言えた義理でもないが」


 ドンダ=ルウはゲオル=ザザの姿を上から下まで眺め回してから、やがてアイ=ファたちのほうに視線を転じた。

 屋根の張られた青空厨房の外で、アイ=ファとレム=ドムが対峙している。その姿は、壮絶の一言に尽きた。


 どちらも、肩で息をしている。全身が汗だくで、レム=ドムに至っては土まみれだ。この5時間で、数えきれないぐらい地面に転がされているのだろう。

 どちらも前かがみの体勢になり、狩人の眼光で相手の姿を見据えている。それはまるで、傷ついた2頭の肉食獣が死に物狂いで相争っているような様相であった。


 ディック=ドムとスフィラ=ザザは、少し離れたところでその対峙を見守っている。ディック=ドムは完全なる無表情で、スフィラ=ザザは涙目だ。そして、スフィラ=ザザの手にはレム=ドムから託されたらしいギバの骨の飾り物がぎゅっと握りしめられていた。


 モルン=ルティムは、そんなディック=ドムの姿に気づいて心配そうに両手をもみしぼっていたが、とうてい声をかけられる雰囲気ではなかった。

 しかたなく、俺も一番手近にいるゲオル=ザザへと呼びかけてみる。


「あの、まさか、ふたりは朝から今までずっと力比べを続けていたんですか?」


 ドンダ=ルウの姿を凝視したまま、ゲオル=ザザは「ああ」と言い捨てた。


「何回かは休みをはさんだし、中天には干し肉もかじっていたがな。これでは埓も明かぬということで、ここしばらくは休みも入れずにずっと取っ組み合っている。まったく、往生際の悪いことだ」


 そんな言葉も届かぬ様子で、レム=ドムがアイ=ファにつかみかかった。

 俺から見ても、緩慢に見える動作である。

 しかしまた、アイ=ファも同じぐらい緩慢な動作で、レム=ドムを迎え撃っていた。


 ほとんど足もともおぼつかない様子で身をよじり、レム=ドムの腕を取る。

 レム=ドムは、逆の腕でアイ=ファの肩をつかんだ。

 そのままアイ=ファを押し倒せば、レム=ドムの勝利だ。

 しかしアイ=ファはレム=ドムの指先をはねのけて、力なく右足を踏み出した。

 その右足にけつまずき、レム=ドムはひとりで倒れ込んでしまう。

 アイ=ファはそばにあった樹木にもたれかかり、天を仰いで息をついた。


「アスタ……帰ったのか……」


 その青い炎を宿した瞳が、ちらりと俺を見る。


「見ての通り……私はいまだ、力比べの最中だ……こちらにはかまわず、お前はお前の仕事を果たすがよい……」


 それだけの言葉を発するのにも、アイ=ファは必死であるようだった。

 その足もとで、レム=ドムも同じように荒い息をついている。


「それとも……お前の気力もここまでか、レム=ドムよ……?」


「……冗談を言わないでよ、アイ=ファ……」


 レム=ドムは地面に両手をつき、獣のような体勢でアイ=ファをにらみあげた。


「日没までは、わたしに時間を与えてくれたのでしょう……? まだまだ太陽はあんなに高いわよ……?」


「……ならば、さっさと立ち上がるがよい……」


 レム=ドムは、ぷるぷると全身を震わせながら身を起こした。

 アイ=ファもまた、もたれていた木から背を離す。


「ここでは、アスタたちの邪魔になってしまうな……砂などが舞ってしまわぬよう、いま少し距離を取るか……」


「うふふ……よくもこのような状況で、そこまで頭が回るものね……まったくあなたにはかなわないわ……」


 ふたりは両足をひきずるようにして、厨房のスペースから遠ざかっていく。

 それだけで、俺は胸が詰まりそうになってしまった。


「呆れたものだろう? ここ一刻ばかりは、ずっとこの有り様だ。こんなことなら、俺も自分の仕事を果たしてから出向いてくるべきだった」


 ゲオル=ザザが、口もとをねじ曲げながら、また言い捨てる。


「執念深さだけで狩人になれれば世話はない。まったく、馬鹿らしい話だ」


 ドンダ=ルウは無言でそちらを見やってから、俺のほうを振り向いた。


「家長の言葉が聞こえなかったのか? 貴様たちは、貴様たちの仕事を果たすがいい」


「いえ、ですが……」


「まだしばらくは決着もつかぬだろう。それまで時間を潰すつもりか? だったら、貴様たちは家に戻れ」


 後半の言葉は、俺のかたわらに立ちつくすリミ=ルウたちに向けられたものであった。

 リミ=ルウは、ほっそりとした腰に両手をあてながら、まったく似ていない父親の顔をにらみ返す。


「もー、ドンダ父さんはすぐに意地悪を言うんだから! リミたちは絶対に帰らないからね!」


「……だったら、自分たちの仕事を果たせ」


「わかったよーだ! アスタ、お仕事しよー? リミたちもお手伝いするからさ!」


「う、うん……でも、本当に大丈夫なのかなあ?」


「大丈夫だよ。アイ=ファにまかせておけば、心配はいらないって」


 そのように言って、リミ=ルウは無邪気に微笑んだ。

 この強靭さには、俺も頭が下がる思いである。


「そうだね。俺も家長に叱られないように頑張ろう。……レイナ=ルウ、よかったら、カレーの素やパスタを作るのを手伝ってもらえないかなあ? 今日はルウ家で勉強会をする予定だったから、他の女衆には声をかけてないんだよ」


「はい、ぜひ手伝わせてください」


 いくぶん魂を飛ばし気味であったレイナ=ルウが、ハッとしたように振り返る。


「ありがとう。もちろん代価はお支払いするからね。ヤミル=レイもツヴァイも、よかったらお願いします。……それじゃあトゥール=ディンは、そっちの仕切り役をお願いしていいかな? ルウ家と俺とでは食材の分量とかで多少の差が出てきているかもしれないんで」


「はい、了解いたしました」


 俺はバルシャも含めて11名の人員を配置して、総がかりで自分たちの仕事を果たすことにした。

 その間も、アイ=ファとレム=ドムは力比べを続けている。トゥール=ディンはたいそう心配げな面持ちをしていたが、それでも仕事をおろそかにすることはなかった。


 昨日の内に乾煎りしておいたスパイスがあらためて火にかけられると、辺りには食欲中枢を刺激する魅惑的な香りがたちこめる。これもまたアイ=ファたちの集中力を削いでしまいそうであったが、こちらも手をゆるめることはできなかった。


 同時進行で、次回のための香草をすりつぶし、規定の量でブレンドして、乾煎りをする。それらの作業はトゥール=ディンを班長とする班に一任し、俺は肉の切り分けと食材の仕分けだ。こちらはモルン=ルティムとバルシャに手を借りて、リミ=ルウやヤミル=レイたちにはユン=スドラの指導でパスタの作製を担当してもらうことにした。


 レイナ=ルウは言うに及ばず、リミ=ルウやモルン=ルティムといった手練がそろっているので、むしろ普段よりも順調に作業は進められていく。そうして日時計が四の刻の半を差すころには、商売のための下ごしらえもあらかた終わりが見えてきた。


 スフィラ=ザザが「ああっ」と大きな声をあげたのは、ちょうどそんな頃合いであった。

 慌てて振り返ると、レム=ドムが大の字になって倒れている。何か派手な投げ技でも繰り出されたのか、アイ=ファも自分の両膝に手をついて背中を大きく波打たせていた。


「もう十分です! これ以上やっても結果は変わらないでしょう? こんなことは終わりにしてください、レム=ドム!」


 スフィラ=ザザが、半泣きで叫ぶ。

 しかしレム=ドムは、不屈の闘志で起き上がった。

 きっちりと結いあげていた髪も半分がたほどけてしまい、ウェーブがかった黒髪が顔のほうにまで垂れている。それで余計に、レム=ドムは鬼気迫る形相に見えてしまった。


 もはやスフィラ=ザザの言葉に答える気力もないのか、ひゅうひゅうとかすれた呼吸を繰り返しながら、レム=ドムはアイ=ファに向きなおる。

 アイ=ファもまた顔のほうにもつれかかる金褐色の前髪を払いのけながら、申し訳ていどに上体を起こした。


「……次の勝負で、限界だな」


 ぼそりと、ドンダ=ルウがつぶやいた。

 それと同時に、レム=ドムが地を蹴った。


 まだそれほどの力を残していたのかという、獣じみた俊敏さであった。

 その鉤爪のように折れ曲がった指先が、真正面からアイ=ファの両肩をつかむ。


 いまのアイ=ファではとうていこらえることもできなそうな、死力を尽くした猛攻であった。

 アイ=ファの身体は勢いに押されて、棒のように倒れ込んでいく。


 しかし、最後の最後でアイ=ファは踏みとどまった。

 足を前後に大きく開いて、レム=ドムの右手首を両手でひっつかむ。

 そうしてアイ=ファが身体をひねると、両肩にめりこんでいたレム=ドムの指先がもぎ離された。


 アイ=ファの上半身が横を向き、レム=ドムの右腕をおもいきり引きつける。

 レム=ドムの腰がアイ=ファの腰に激突する。

 それでアイ=ファが腰を沈めると、レム=ドムの足が地面から浮いた。


 変形の、一本背負いのような体勢である。

 レム=ドムの身体は空中で綺麗に一回転して、背中から地面に叩きつけられた。

 その勢いでアイ=ファも一緒に転がって、やはり背中から倒れ込んでしまう。


 しばらくは、どちらも地面に倒れ込んだまま動かなかった。

 ただ、胸もとだけがものすごい勢いで上下している。


「レム=ドム!」と叫びながら、スフィラ=ザザがそちらに駆け寄っていった。


「何よ……? 勝負はまだ終わってないわよ……?」


 レム=ドムが、あえぐような声を振り絞った。

 だけどやっぱり、起き上がることはできない。


 そんな中、アイ=ファがのろのろと身を起こした。

 髪留めが完全にほどけてしまい、金褐色の髪が背中にまで流れ落ちている。


「レム=ドムよ……力比べは、ここまでだ……」


「何を言っているのよ……? わたしはまだ力尽きていないわよ……?」


 取りすがっているスフィラ=ザザの手をはねのけて、レム=ドムがごろりとうつ伏せの体勢になった。

 そうして両手を地面につき、全身を痙攣させながら起き上がろうとする。


「そうであっても、ここまでなのだ……お前は、禁を破ってしまったからな……」


 かすれた声で言いながら、アイ=ファが長い髪をかきあげた。

 その拍子に、ぽたりと赤いしずくが落ちる。


 アイ=ファの左肩に、レム=ドムの爪痕が刻まれていた。

 血がしたたるほどの、深い傷である。そこから流れた血が肘のほうまでしたたっていた。


「これほどの手傷を負っては、もはや私も十全の力を出すことはできん……時間はまだあるが、お前が禁を破ったために、勝負を続けることはかなわなくなってしまったのだ……」


「でも……!」


「そして、お前は私よりも早く、自分の力を律する余裕を失った……これ以上続けても、結果は変わらぬだろう……だから、これで終わりにするべきなのだ、レム=ドムよ……」


 レム=ドムは、がっくりとうなだれた。

 地面に額をすりつけて、逞しい背中を震わせる。


 やがて、小さな声が聞こえてきた。

 レム=ドムが、嗚咽をもらしているのだ。

 スフィラ=ザザが背中に取りすがったが、その声がやむことはなかった。

 呆然と立ちつくす俺の胴衣を、リミ=ルウがくいくいと引っ張ってくる。


「アスタ、こっちは大丈夫だから、アイ=ファの手当をしてあげたら?」


「う、うん、ありがとう」


 俺は大急ぎで家に舞い戻り、物置きから薬と包帯を引っ張り出した。

 町で買った、高価な傷薬である。それと木桶に水瓶の水を移し、柄杓と一緒に抱えながら、俺はアイ=ファのもとに駆けつけた。


 アイ=ファたちの周囲には、ディック=ドムとゲオル=ザザ、それにドンダ=ルウも集まっている。

 レム=ドムはまだ地面に突っ伏したまま子供のようにすすり泣いており、アイ=ファはそのすぐそばであぐらをかいていた。


「アイ=ファ、手当をさせてくれ。悪い風が入ったら大変だ」


「うむ……ずいぶん気がきいているな、アスタよ……」


「気がきいていたのは、リミ=ルウだよ。まずは傷口を洗うからな。しみるだろうけど、我慢してくれ」


 新品の手拭いを木桶の水で湿してから、左肩の傷痕をそっとぬぐう。

 まるで獣にでも掻きむしられたかのような、生々しい5本の傷痕である。

 逆側の肩には、同じ形で青痣のような痕が残されている。アイ=ファの肩をつかんでいたのは一瞬であったのに、すさまじい握力だ。


 俺は黄白色の軟膏みたいな薬をアイ=ファの右肩に塗り、ガーゼ代わりのやわらかい布をあててから、包帯をぐるぐると巻いていった。

 しかし、すぐにじんわりと包帯の上にまで血がにじんできてしまう。ドクターストップもやむを得ないほどの、それは深い裂傷であったのだ。


 そうして俺が手当をしている間に柄杓で水を飲み、布で汗をぬぐったアイ=ファは、ようやく人心地がついた様子で呼吸も落ち着き始めていた。

 いっぽうのレム=ドムは、同じ調子でずっとすすり泣いている。


「ずいぶん時間はかかったが、勝負としては順当であったな」


 さすがに気の毒そうな感情をにじませながら、ゲオル=ザザがそのようにつぶやいた。


「最後まで死力を尽くしたのだから、満足であろうが? いいかげんに泣きやめ、レム=ドムよ。そんなに俺の嫁になるのが嫌なのか?」


 レム=ドムはぷるぷると頭を振ってから、またこらえかねたように嗚咽をもらしてしまう。

 その姿をしばらくじっと見下ろしてから、アイ=ファはディック=ドムに向きなおった。


「ディック=ドムよ、ひとつ提案があるのだが」


「……何だ、ファの家長アイ=ファよ」


「このレム=ドムを、見習いの狩人として認めてもらうことはかなわぬだろうか?」


 ディック=ドムはうろんげに目を細め、ザザの姉弟は同じ感じに眼光を燃やした。そして、弟のほうがディック=ドムよりも先に口を開く。


「何を抜かしているのだ、ファの女狩人よ? 勝負は、お前の勝ちであろうが?」


「うむ。私は勝利を収めた。しかし、レム=ドムがあそこで抑制を失っていなければ、日が沈むまで決着はつかなかったやもしれぬな」


「しかし、お前は勝ったのだ。その事実をくつがえすことはできん」


「わかっている。だが、これほどの力を持った人間が、狩人の中にはいったい何人いるのであろうか?」


 地面にあぐらをかいたまま、アイ=ファは静かにゲオル=ザザの顔を見上げた。


「私とこれほど長きの時間を戦い続けて、それでも勝負をあきらめないような人間が、それほど多く存在するとは思えん。また、肉体的な力においても、動きを悟らせぬ気配の殺し方も、己を律する心の強さも、レム=ドムには確かに備わっていた。……ゆえに、私には、レム=ドムに狩人としての力が備わっているように思えてならんのだ」


「ふん。つまりお前は、勝負の結果など関係なく、最初からそのような言葉を述べる心づもりでいたのだな。こいつはまったくお笑いぐさだ」


「それは違う。実際に手をあわせるまで、私にもレム=ドムの力ははかりきれていなかった。これだけ長きの時間をともに過ごしたからこそ、そのように思えるのだ」


 アイ=ファの眼差しは、あくまで穏やかであった。


「また、私は一切の手加減をしていない。手傷を負わせないように配慮はしていたが、並の狩人であれば最初の10回ていどで動けなくなっていたところであろう。しかしレム=ドムはそのような苦しみにも耐えて、己の力を示してみせたのだ」


「そのような言葉が、やすやすと信じられるか! お前はけっきょくレム=ドムを自分と同じ道に引きずり込みたいだけなのだろうが!」


「私の言葉は、信用が置けぬか」


 アイ=ファは息をつき、長い前髪を右手でかきあげた。


「ならば、その身をもって確かめてみるか? 日をあらためて私と力比べをしてみれば、おのずと真実も知れよう。10回の力比べをした後に、お前が立っていることができれば、お前の言葉が正しかったということだ」


「それはつまり……この俺を、10回連続で打ち負かす自信があるという意味なのだな、ファの家の女狩人よ?」


 ゲオル=ザザの双眸に、黒い炎が噴きあがった。

 アイ=ファはいぶかしげに眉をひそめる。


「お前は相手の力量をはかるのが得手ではないようだな、ザザの末弟よ。ならば、レム=ドムの力量もお前にはわからなかったのだろう」


 ゲオル=ザザは、無言でアイ=ファのほうに腕をのばそうとした。

 それを横からつかまえたのは、ディック=ドムであった。


「ファの家長アイ=ファよ、お前はあくまでレム=ドムを狩人として認めるべし、というのだな?」


「いや、あくまで見習いの身として働かせて、本当に狩人としての資格があるかを見極めてほしいと願っているのだ。力比べだけですべての力量をはかることはかなわぬのだから、後は実際に森に出るまで、正しき道は見えぬように思う」


 アイ=ファは俺の肩に手を置いて、よろよろと立ち上がった。

 そうして、頭ひとつ分も高い位置にあるディック=ドムの顔を見つめる。


「少なくとも、私が初めて森に入った13歳の頃よりも、今のレム=ドムのほうが強い力を持っている。見習いの狩人が一人前になるにはおよそ2年の歳月が必要だとされているのだから、その2年間で、レム=ドムの道を定めてほしいのだ」


「…………」


「レム=ドムは、いまだ15歳なのであろう? 2年が経っても、いまだ17歳だ。それで狩人として生きていく道が閉ざされたとしても、十分に女衆として生きていく時間は残されている。レム=ドムは、これほどまでに狩人として生きていくことを強く願っているのだから、せめてそれだけの猶予を与えてやってほしいと思う」


「……しかし、その2年の間で森に朽ちてしまえば、己の血を残すこともかなわなくなってしまう」


「わかっている。だから決めるのは、家長たるお前だ、ディック=ドムよ」


 そう言って、アイ=ファは口もとをほころばせた。

 このように大勢の人間の前でアイ=ファが笑顔を見せるのは、非常に珍しいことであった。


「私はお前に見込まれた狩人として、自分なりの気持ちを伝えたに過ぎん。あとはお前が家族とどのような道を進むべきか、悔いがないように考えてほしい。……お前のように立派な狩人に、このような大役をまかされたことを、私はとても誇らしく思っている」


 そうしてアイ=ファは、ディック=ドムに背を向けた。

 そこでぐらりと身体が傾いでしまったので、俺は慌てて背中に手をそえる。


「待って、アイ=ファ……」


 レム=ドムが、涙に濡れた面を上げた。

 その顔は、まるで小さな幼子のようであった。


「今日までどうもありがとう……わたしみたいなはぐれ者の面倒を見てくれたことを、心から感謝しているわ……」


「……兄や眷族たちとともに、正しき道を歩むがいい」


 レム=ドムにやわらかい笑みを投げかけてから、アイ=ファはふらふらと歩き始めた。

 とたんに、待ちかまえていたリミ=ルウとモルン=ルティムが駆け寄ってくる。


「アイ=ファ、おつかれさま!」


「アイ=ファ、ありがとうございました」


 モルン=ルティムは深々と頭を下げてから、そのままディック=ドムたちのほうに近づいていった。

 アイ=ファは半分俺の身体にもたれて歩きながら、リミ=ルウの赤茶けた髪にぽんと手を置く。


「家の中で、身体を清めたい。もしも仕事の手が空いていたら手伝ってくれるか、リミ=ルウよ」


「うん、いいよ! ちょうど一段落したところだから!」


 リミ=ルウはにこにこと笑いながらアイ=ファの右腕にまとわりついた。

 厨房のみんなに目礼をして、家の横手に回り込みつつ、アイ=ファはちらりと俺を見てくる。


「何だ、何か言いたそうだな、アスタよ?」


「うん。……すごくかっこよかったぞ、アイ=ファ」


 アイ=ファは何かまぶしげな感じで目を細めつつ、俺の頬にこつんと頭をあててきた。


「もう少しましな言葉で家長をねぎらえぬのか、まったく」


「気のきかない家人で申し訳ありませんね、家長」


 俺はリミ=ルウに気づかれぬ角度で、アイ=ファの頭にそっと手をあてた。

 そうして3ヶ月にも渡ったレム=ドムの騒動は、ここでひとまず幕を閉じることに相成ったのだった。

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