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異世界料理道  作者: EDA
第二十三章 闘技の候
395/1675

狩人の誇り①~前夜~

2016.10/31 更新分 1/1

・今回は全7話の更新となります。

 銀の月の17日。

 大勢の客人をルウ家の集落に招いた歓迎の宴から、7日後のことである。

 歓迎の宴を終え、その翌日に《ギャムレイの一座》がジェノスから姿を消したことによって、俺たちは完全に日常へと回帰していた。


 もう復活祭からは半月ばかりも過ぎ、宿場町にも平穏な日々が戻ってきていたというのに、俺たちはまだどこかでお祭り気分の最後の余韻を引きずっていたように思う。それはきっと、期待にあふれた歓迎の宴を控えていたことと、そして《ギャムレイの一座》が森辺の集落に居残っていたことが、最大の要因であったのだろうと思うのだ。


 特に《ギャムレイの一座》というのは、俺にとってお祭り騒ぎの象徴のような存在であった。

 何となく、復活祭の浮きたった雰囲気というのは、彼らがジェノスにやってきたことによって完成されたようにすら思えてしまうのだ。


「アタシらもぞんぶんに楽しませていただいたからねェ。できることなら、来年も復活祭の時期はジェノスにお邪魔させてもらいたいと思ってるよォ」


 そんな言葉を最後に残して、ピノたちはジェノスを去っていった。

 ピノ以外の人たちとはそこまで交流を重ねる機会があったわけでもないのだが、森辺の集落を後にする7台の荷車を見送りながら、俺はたとえようもない寂寥感を噛みしめることになってしまったのだった。


 ともあれ、いつまでも感傷にはひたっていられない。

 歓迎会の翌日だけはしっかりと休み、十分に英気を養った後、俺たちは敢然と日常に回帰した。


 青空食堂をオープンしたことによって、俺たちは毎日800食分の料理を売りさばけるぐらいのお客を迎えている。その商売に不備が出ないよう、俺たちは毎日を懸命に過ごしていた。


 そんな中、ずっとルウ家の屋台を手伝っていたアマ・ミン=ルティムが、義妹たるモルン=ルティムにその役を譲ることになった。

 ついにご懐妊の話をみんなに打ち明け、宿場町の仕事を休むことになったのだ。


 森辺の女衆は、お腹が大きくなっても可能な限りは家の仕事を果たし続ける。が、やっぱり振動の激しい荷車での移動や、大勢の人間が行き交う宿場町での仕事は、不測の事態を招きかねないということで、リィ=スドラと同様に早い段階から自粛することになったのだった。


 沈着で、穏やかで、何があってもなかなか心をゆらすことがないという点において、アマ・ミン=ルティムとリィ=スドラはよく似ていたと思う。そんなふたりが立て続けに宿場町の商売から手を引いてしまうというのは少なからず痛手であったが、あとに残されたメンバーだって立派に仕事は果たせているし、その代役として参加したモルン=ルティムやユン=スドラにも、不安を感じる要素はない。俺たちは、子宝を授かったふたりに惜しみのない祝福の言葉を捧げつつ、これまで以上に頑張っていくしかないだろう。


 余談だが、この報告を受けて、ダン=ルティムは男泣きに泣いていたらしい。

 すでにルティム本家の次兄は子を生していたが、やっぱり長兄で、しかも森辺においてはずいぶん婚期の遅れていたガズラン=ルティムであったので、ダン=ルティムとしても喜びはひとしおであったに違いない。そんなエピソードを人づてに聞いただけで、俺まで胸が熱くなってしまった。


 そんな中で訪れた、銀の月の17日である。

 宿場町での営業終了後、俺はファの家で近在の女衆とともに明日のための下ごしらえに励んでいた。


 もっとも、下ごしらえをしているのは俺とトゥール=ディンとユン=スドラの3名のみであり、残りの女衆はカレーの素や乾燥パスタの作製に取り組んでくれている。復活祭以降も『ギバ・カレー』と『カルボナーラ』を定番メニューとして残すには、こうした彼女たちの協力が不可欠なのだった。


 それらの作業が完了したのちは、ファの家の晩餐をお手本として、みんなに調理の手ほどきをする予定になっている。復活祭の間はバタバタしていたので、ようやく俺もガズやラッツやその眷族の人々とも腰を落ち着けて新しい交流を重ねていく機会を得られたのだった。


 ルウ家における勉強会というのも宿場町で商売を続けていくにあたっては非常に重要なものであったが、こうして小さき氏族の人々に美味なる食事の素晴らしさを伝えていくというのも、同じぐらい大事なことだろう。よって、俺はルウ家における勉強会とファ家における調理の手ほどきを、1日置きに実施していくことに決定していた。


 本日は宿場町での商売を手伝ってくれている5名の他に、フォウやランやリッドなどからも6名の女衆が集まって、それぞれの仕事に励んでくれている。ファの家の裏手には石作りのかまどが新しく4つも増設され、革張りの屋根も3倍ぐらいの大きさに拡張されたので、さながら青空食堂ならぬ青空厨房といったたたずまいである。


 そんな青空厨房に時ならぬ歓声があがったのは、そろそろ商売の下準備も完了しようかという頃合いのことであった。

 昨日から狩人としての仕事を再開させたアイ=ファが、巨大な獲物をひっかついで帰還してきたのである。


「うわあ、とても見事なギバね、アイ=ファ?」


 愛息を足もとにまとわりつかせたサリス・ラン=フォウがそのように呼びかけると、アイ=ファはいささか苦しげな声で「うむ」と応じてきた。

 それもそのはずで、そのギバは100キロもあろうかという大物であったのだ。


 アイ=ファの正確な体重など知るすべもないが、何にせよ、自分の倍ぐらいも重たい獲物であっただろう。ギバの後ろ足にフィバッハの蔓草を巻きつけて、そいつを背中にかついだアイ=ファは、全身が汗だくになってしまっていた。


「何だい、そんな馬鹿でかいやつを仕留めたんなら、うちの男衆に声をかけてくれりゃあよかったのにさ。いっつも毛皮をいただいてるんだから、たまにはこっちを頼っておくれよ」


 そのように述べたのは、年配のラン家の女衆であった。

 木の根もとにギバの巨体をおろしたアイ=ファは、「ふう」と息をついてからそちらに向きなおる。


「しかし、人を呼びにやっている間にギーズやムントが寄ってこないとも限らぬからな。それほど遠い場所でもなかったので、とっとと運んでくることに決めたのだ」


「まったくたいしたもんだねえ。こんなでかぶつをたったひとりで仕留めちまうんだからさあ」


 他の女衆も、みな感嘆の眼差しでアイ=ファを見つめていた。

 森の主を仕留める仕事で深い手傷を負ったアイ=ファが、ひと月半ぶりに狩人の仕事を再開させるなり、このような大物を捕らえてきたのだ。しかもアイ=ファは女衆であり、なおかつ単独でギバ狩りに励んでいるのだから、感心するなというほうが無理な話であっただろう。


 そんな中、ひとり思い詰めた面持ちをしていたトゥール=ディンが「あの」とアイ=ファの前に進み出た。


「これでアイ=ファは、狩人の力をしっかりと取り戻したということになるのですよね? それでしたら……」


「うむ。ようやくレム=ドムとの約定を果たすことがかなうな」


 アイ=ファは額の汗をぬぐいながら、静かな声でそのように答えた。

 トゥール=ディンは、「そうですか……」と目を伏せてしまう。

 その横に、ジャス=ディンがそっと進み出た。


「それでは、アスタの手伝いを終えた後、北の集落にトトスを走らせましょう。レム=ドムとの力比べは、明日でかまわないのでしょうか?」


「うむ。レム=ドムもディック=ドムも、この日を長らく待ちわびていただろうからな」


 少しでも深刻そうな顔をしているのは、俺とトゥール=ディンばかりである。その他の女衆は、たとえそれがドム家とは眷族のディンやリッドの人間であっても、すべては森の意志のままに――としか考えていないのだろう。血の縁のないフォウやランなどの人々にしてみれば、なおさらであった。


「ルウの集落のスフィラ=ザザには、私みずからが伝えてこよう。……その前に、まずはこいつを片付けねばな」


 そのように述べながら、アイ=ファは狩人の衣を別の木の枝にかけ、腰の短刀を抜き放った。

 ひさかたぶりに狩人としての仕事を果たせて、さぞかし充足した気持ちであるのだろうが、それをこのような公衆の面前であらわにするアイ=ファではない。アイ=ファは黙々とギバの皮を剥ぎ、その上に取り分けた臓物を積み上げていった。


「……これでどういう結果になるにせよ、レム=ドムは北の集落に戻ることになるのですね」


 切り分けた肉を木箱のピコの葉の中にうずめながらトゥール=ディンがつぶやくと、かたわらのユン=スドラが「そうですね」と応じた。


「レム=ドムには何度かスドラの家の仕事も手伝ってもらっていましたし、住んでいる空き家も近いので、少しさびしく感じてしまいます。……眷族であるトゥール=ディンなら、なおさらそうなのでしょうね」


「はい」と答えてから、トゥール=ディンは小さく息をついた。

 顔をあわせるのは朝方の下ごしらえのときぐらいであったが、トゥール=ディンは誰よりもレム=ドムと心を通い合わせていたのだ。レム=ドムの他にもヤミル=レイやスフィラ=ザザなど、ちょっと偏屈であったり強面であったりする年長の女衆に好かれるというのは、トゥール=ディンのひとつの特性なのかもしれなかった。


「でも、いったいどちらが勝つのでしょうね。アイ=ファが負ける姿というのはちょっと想像がつかないのですが、最近はレム=ドムもずいぶん雰囲気が変わってきていますし……それで身体のほうはレム=ドムのほうが立派なぐらいなのですから、なおさらわからなくなってしまいます」


 俺もユン=スドラと同様の心情であった。

 しかし何にせよ、すべては明日に決せられるのだ。

 外野がどのように騒ごうとも、レム=ドムの運命は変わらない。俺たちにできるのは、その結末が誰かの怒りや悲しみを招かぬように祈ることぐらいであった。


 そうしてアイ=ファは早々にギバの解体を片付けると、汚れた身体を屋内で清め、それからルウ家へとギルルを走らせていった。

 その間に商売の下ごしらえも調理の手ほどきも完了し、女衆はそれぞれの家に帰っていく。俺は完成した晩餐を家の中に運び込み、屋内のかまどで汁物料理を保温しながら、アイ=ファの帰りを待ち受けた。


 アイ=ファが帰ってきたのは、日時計が役に立たなくなってから5分ていどが経過してからのことであった。

 汁物の鉄鍋をいったん下ろし、メインディッシュを焼きあげたら、ようやくファの家の晩餐である。


「今日は、はんばーぐか」


 上座に陣取った家長は、厳粛きわまりない面持ちでそのように述べた。


「ああ、しかもひさびさの乾酪バーグだからな。たまたまだけど、ひと月半ぶりの収穫のお祝いには相応しい献立だったんじゃなかろうか」


 アイ=ファは口もとがゆるみそうになるのを懸命にこらえながら、「うむ」とうなずいた。

 おたがいに心情は隠さないようにと誓い合った俺たちであるが、こういう際には相変わらずのアイ=ファなのである。


 ともあれ、晩餐をいただくことにした。

 レム=ドムのための晩餐はユン=スドラが運んでいったので、この後は来客の予定もない。

 普段通りの晩餐ではあったが、やはり何となくいつもとは空気が異なっているように感じられた。


「前にも聞いたけど、必ずしもアイ=ファが勝つとは限らないんだよな?」


 各種の野菜とキノコのソテーを取り分けながら俺が尋ねると、アイ=ファは乾酪バーグを頬張りつつ、うなずいた。

 そうして口の中身を呑み下してから、答えてくれる。


「ただひとたびの勝負であるならば、天地がひっくり返っても私が負けることはなかろう。しかし、丸一日をかけて一度でも勝利すればよい、という条件であるのだから、結果は森の思し召しであろうな」


「もしもレム=ドムが、気力か体力のどちらかでアイ=ファにまさっていれば、最後の最後で勝てるかもしれない、と……うーん、それでも俺はアイ=ファが負けるようには思えないんだよなあ」


「そうであろうな。私もそう思う」


「でも、それで気力と体力を最後のひとしずくまで振り絞ることができたら、レム=ドムも納得がいくのかな」


 アイ=ファは分厚く切られたタンの塩焼きに手をのばしつつ、「私もそう思う」と同じ言葉を繰り返した。


 アイ=ファ自身もまた、レム=ドムの行く末は森に定められていると信じ、一切の感傷を排しているようなのだ。

 レム=ドムが狩人としての資格を得られれば、それはアイ=ファに続いて森辺で2人目の女狩人となる。そうすれば、アイ=ファも今よりは肩身のせまい思いをせずに済むようにも思えるのだが、まあ、そのようなことで心をゆらすアイ=ファではないのだろう。


(もちろん近所の人たちやルウ家の人たちなんかは、のきなみアイ=ファの狩人としての力量を認めてくれているんだろうけど、ろくに顔をあわせる機会のない氏族の人たちにしてみれば、いまだにアイ=ファは森辺の習わしに背いた異端者って扱いなんだろうし……ここで族長筋の眷族であるレム=ドムが女狩人として認められたら、アイ=ファを見る目もずいぶん変わってくるんじゃないかなあ)


 俺としては、そのようにも考えてしまう。

 しかしそんなのは、俺個人の都合であり感傷だ。狩人というのはいつ森に朽ちるかもわからない危険な仕事であるのだから、そんな俺だけの都合でレム=ドムの勝利を願うわけにはいかなかった。


(ディック=ドムにしてみれば、たったひとりの家族が女衆として生きるか狩人として生きるかっていう瀬戸際なんだからな。こんなことは、考えるだけでもおこがましいや)


 するとアイ=ファが、うろんげに目を細めながら身を乗り出してきた。


「何を浮かぬ顔をしているのだ? ちっとも食事が進んでおらぬではないか?」


「いや、別に。……乾酪バーグのお味はどうかな?」


「……お前が作ったはんばーぐで、しかも乾酪まで使われているのに、不味くなる道理があるのか?」


 アイ=ファは、つんと顔を背けてしまう。

 ひと月半前に肋骨をへし折られて、半月ほど前からリハビリを開始したアイ=ファであるが、本当にすっかり調子を取り戻せたご様子である。


 仕事を休んでいた間、アイ=ファはほのかに女性らしさが増した感じがして、本人は肉がついた肉がついたと大いに騒いでいた。実際のところ、俺には外見上の変化などとりたてて見て取れはしなかったのだが、それでもやっぱり狩人としての仕事を再開させたアイ=ファは、二割増しで凛然としているように感じられた。


 瞳の輝きが増しているし、表情もどこか引き締まっている。何がどうとは説明し難いのだが、確かにアイ=ファというのはこういう存在であったのだと、俺はしっかり再確認することができた。


(どっちにせよ、魅力的であることに変わりはないけどな)


 いつぞやのようにうっかり本心をもらしてしまわないように気をつけながら、俺はそのように考えた。

 親しき仲にも礼儀あり。心情を隠さない、というのと、心の内を垂れ流しにする、というのは、やはり似て異なる行為なのだろう。


 そんな感じに俺の思考が横道にそれかけたところで、本日の晩餐も無事に終了と相成った。

 使った食器を鉄鍋に放り込み、就寝前の団欒の時間である。

 髪をほどいて壁際に座したアイ=ファは、燭台の光の下で「アスタよ」と俺を招き寄せた。


「今日の晩餐は、いつにも増して満足のいく出来であった」


「それは嬉しいな。どうもありがとう」


 なんだかアイ=ファらしからぬ言葉であったので、俺も自然と笑顔になってしまう。

 が、アイ=ファのほうは何やらちょっと複雑そうな面持ちであった。


「それでだな、いささかややこしい話があるのだが、聞いてもらえるであろうか?」


「どうしたんだよ、あらたまって? そんな前置きはアイ=ファらしくないぞ」


「ややこしい話なのだから、しかたなかろう」


 唇をとがらせながら、アイ=ファも身を乗り出してくる。

 ちょっと最近ではひさびさの距離感である。


「つまりだな……私はようやく狩人としての力を取り戻すことができた。お前を家人として招いてから、これほど長きに渡って狩人としての仕事を休んだことはないはずだ」


「そうだなあ。左肘を脱臼したときは、たしかひと月もかからずに復活してたもんな」


「うむ。腕とあばらでは傷の重みが異なるからな。まるまるひと月もろくに身体を動かせなかったものだから、力を取り戻すのに半月もかかってしまったのだ」


「いやあ、普通は休んでいた期間の倍ぐらいは鍛え込まないと、元の力を取り戻せないんじゃないかなあ。森辺の狩人ってのは本当に大したものだよ」


「それはお前が力になる食事を毎日準備してくれたおかげであろう。そしてまた、今日は普段以上に私が好ましく思っている食事を準備してくれたのだから、とても嬉しく思っている」


 ならば、どうしてそのようにすねたお顔をしているのだろう。

 普段よりは距離が近いので、俺のほうは少しだけ心拍数が上がってしまっている。


「……私にとって、狩人としての力を取り戻せたことは、きわめて強い喜びであるのだ」


「うん、それは理解できてるつもりだけど」


「……そして家人というのは、その喜びを同じ大きさで分かち合う存在であるべきなのだ」


「うん、もちろんその通りだろうな。……あれ? 俺がそれを喜んでいないとでも思っているのか?」


「そうではない。しかし、レム=ドムの一件があったためか、お前はそちらのほうにばかり気が向いてしまっている様子だったではないか?」


 それは確かにその通りかもしれない。サリス・ラン=フォウたちなどは実に感心した様子を見せていたが、俺やトゥール=ディンは即時にレム=ドムとの力比べについて気持ちを飛ばしてしまっていたのだ。


「えーと、それでアイ=ファを不機嫌にさせてしまったのかな?」


「そのようなことで気分を害するほど、私は狭量な人間ではないつもりだ。しかし、いささかならず物足りなくは思えてしまう」


「そ、それじゃあ、どうしたらいいんだろう?」


 アイ=ファはうつむき、上目づかいで俺をにらみつけてくる。

 その唇はまだとがったままであったので、何とも卑怯なお顔つきである。


「……私の父ギルであれば、きっと情愛を込めて頭のひとつでも撫でていたところであろうな」


「あ、頭をですか」


「うむ。しかし、お前は家人だが年長なわけでもないし、その……私たちはみだりに触れ合うべき間柄でもないということはわかっている。だから、どうするべきかをお前と論じ合うべきだと思ったのだ」


 論じ合うとは、これ如何に。

 可愛いお顔ですねている家長を前に、俺は大いに混乱することになった。


「それは難しい問題だなあ。俺がもっと喜びの感情をあらわにすればいいんだろうか?」


「……そのような真似が、お前にできるのか?」


「わーい」と俺は両腕を上げてみせた。

 いちおうリミ=ルウなどを参考に、せいいっぱい無邪気にふるまったつもりである。

 しかしアイ=ファの双眸には狩人としての眼光が閃いてしまっていた。


「……お前を家人として招いてから、これほど腹が立ったのは初めてかもしれぬ」


「それなのに殴らないでくれてどうもありがとう」


「手加減を忘れてしまいそうだから、必死に耐えているのだ」


 俺の混乱は深まるばかりだ。

 何だか冷や汗まで浮かんできてしまった。


「だ、だったらお前が道を示してくれないか? 俺は家人として家長の言葉に従おう」


「……これはファの家の問題であるのに、お前はすべてを私ひとりに押しつけようという心づもりか?」


「未熟な俺には正しい道が見えてこないんだよ。家長として、未熟な家人に道を示してくれないか?」


 この問答を盗み見している者でもいたら、いったいどのような顔をするだろうか。

 しかし、俺もアイ=ファも真剣そのものなのだった。

 アイ=ファは押し黙り、しばし視線を足もとの敷物に落としてから、言った。


「……頭を撫でてみよ」


「はい」


 ぽふっとアイ=ファの頭に手をのせる。

 その髪はやわらかく、そしてアイ=ファの温もりがじんわりと伝わってくる。

 俺は丹念に、その金褐色の髪に包まれたアイ=ファの頭を撫でてみせた。


「いかがでございましょうか、家長?」


「……お前がしぶしぶ従っているのかと思うと、喜びも半減だ」


「別にしぶしぶではないよ。ちょっとドギマギしちまうだけで」


「よし、わかった。撫でるのをやめよ」


 俺はすみやかに手をおろした。

 アイ=ファは真正面から俺の顔を覗き込んでくる。


「やはりこのように形式張ったところで、気持ちを分かち合うことはかなわぬのだ」


「そうだろうな。俺もそう思うよ」


「うむ。……しかし、今日という日は私にとって寿ぐべき大事な夜であるのだ。このようなめでたい日に鬱屈したまま眠りに落ちるのは、とても悲しい」


「アイ=ファが悲しいのは、俺も悲しいよ」


「ならば、この夜だけは感情のおもむくままにふるまっても許されるのだろうか?」


「……許されるんじゃないかなあ?」


 おそるおそる俺が答えるなり、アイ=ファは山猫のような敏捷さでつかみかかってきた。

 俺の心臓がもう少しデリケートなつくりをしていたら、その驚きだけで機能停止していたかもしれない。

 アイ=ファは俺の胴体を抱きすくめ、これでもかというぐらいの勢いで俺の頬に頭をこすりつけてきた。


「私はこれぐらい嬉しいのだ、アスタよ」


「う、うん、ひと月半も耐え忍んできたんだから、それが当然さ」


「お前は本当に、私と同じぐらい喜んでくれているか?」


「ああ、アイ=ファの喜びは俺の喜びだからな」


 すでに休息の期間が迫っているので、ファの家の近辺はギバの数が減ってきている。ゆえに、アイ=ファは罠にギバ寄せの実を使っており、その甘い香りが髪や衣服に残ってしまっていた。


 その甘い香りが、ぞんぶんに俺の鼻腔をくすぐってくる。

 乱気流のように情動をゆさぶられて、俺は目がくらんでしまいそうなほどであった。


「お前と迂闊に触れ合うべきではないのはわかっている。しかし今宵は、特別な夜なのだ」


「うん、わかってるよ。アイ=ファの好きにしろって言ったのは俺だからな」


 俺は左手をアイ=ファの背に回し、右手でアイ=ファの頭を抱えた。

 そのやわらかい髪を、今度は情愛を尽くして撫でてみせる。

 アイ=ファは俺の胸もとで熱い吐息をもらし、いっそう強い力で抱きすくめてきた。


「俺がひと月半も料理を作れなかったら、間違いなく地獄の苦しみだろうからな。アイ=ファがそんな苦しみからようやく解放されたってことがどれほどの喜びか、俺もきちんと思いを巡らせるべきだったよ」


 アイ=ファは無言で、今度は俺の頬に頬をすりつけてきた。

 もはや俺の心臓は爆発寸前だ。


 だけど俺は、幸福だった。

 こんなにアイ=ファが幸福そうであるのだから、俺が幸福でないわけがなかった。

 そうして俺たちは、睡魔が訪れるまでおたがいの体温を感じ合い、この夜の喜びを入念に分かち合い続けたのだった。

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さすがにわーいは無いだろうw
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