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異世界料理道  作者: EDA
第二十二章 群像演舞~二ノ巻~
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    小鳥の部屋(下)

2016.10/16 更新分 1/1

 翌日である。

 今日もシフォン=チェルは、石の壁に囲まれた次の間で無聊をかこつていた。


 リフレイアのもとを訪れる客人は少ないし、また、リフレイアもめったに部屋を出ようとはしないので、シフォン=チェルは朝の沐浴と二度の食事、あとはせいぜいお茶汲みぐらいでしか用事を申しつけられることもなかったのだ。


 以前であれば、洗い物をしたり宴衣装の手入れをしたり、なかなか休んでいる時間も与えられなかった。しかし、そうして動いているほうが、まだしも楽な面はあっただろう。シフォン=チェルはリフレイア専属の侍女となってから、時間の流れを倍ほども長く感じるようになってしまっていた。


「他の侍女、仕事がないときは、刺繍などをしているようですよ?」


 そのように呼びかけてきたのは、サンジュラであった。

 彼もリフレイアに呼ばれないときは、こうして次の間にこもるか、あるいは表で剣技の修練を積むぐらいしか為すこともないようである。


「……刺繍をして、それをどうするのでしょう……?」


「さあ? 身を飾ったり、誰かに贈ったり、するのではないでしょうか? 私、男なので、あまりわかりません」


「そうですか……」


 このサンジュラともずいぶん長い時間をともに過ごすようになっていたが、あまり気心は知れていなかった。

 彼は、リフレイアのことを何よりも大事に思っている。シフォン=チェルにわかるのは、それだけのことであった。どうして大事に思っているのか、どういう関係をリフレイアに求めているのか、それはわからない。ただ彼はリフレイアのそばにいたいだけであり、彼女を守るために剣技の修練を積んでいるように思えた。


「……シフォン=チェル、最近、元気がないようですね」


 と、そんなサンジュラが言葉を重ねてくる。


「しかも、昨日からいっそう、打ち沈んでいるように思えます。やはり、同胞のこと、心配なのでしょうか?」


「いえ……心配というほどのことではないのですが……」


 それ以上は、言葉が続かなかった。

 一日が経っても、シフォン=チェルは自分の気持ちに整理をつけられずにいたのだ。


 兄たちのことを思うと、胸が騒ぐ。しかし、その身を心配しているのかと問われると、それは違うように思えてならなかった。

 森辺の集落は、危険な場所だ。どれぐらい危険なのかはわからないが、とにかくモルガに住むギバというのは危険な獣なのだと聞いている。鎖で繋がれている奴隷たちが襲われれば、生命に関わるのかもしれない。


 しかし、森辺の民が力を添えてくれるというのならば、これ以上シフォン=チェルが心配をする甲斐もないように思えるし――極端な話、生命を落として何が悪いのだろう、とさえ思えてしまう。


 奴隷は生きながらえても、奴隷のままなのだ。この地では鞭で打たれることも少なく、食事や眠りも十分に与えられているが、かといって、奴隷であることに変わりはない。行動の自由もなく、銅貨を与えられることもなく、子を生すことも許されない。それで、身体が動かなくなるまで働かされるだけの生であるのなら、いつ生命を失っても同じことなのではないのか――シフォン=チェルには、そのように思えてしまうのだった。


 死にたいと思うほど苦しいわけではなく、生きたいと願うほど幸福なわけではない。それがこの地におけるマヒュドラの民の生であるのだ。それは、兄たちと引き離される前から、シフォン=チェル自身が抱いていた心情であった。

 シフォン=チェルはまたわけもなく胸がざわつくのを感じながら、サンジュラの姿を見つめ返した。


「サンジュラ……あなたはリフレイア様のお付きの武官になるまでは、前当主の言いつけでさまざまな土地を巡っていたのだというお話でしたね……?」


「はい、その通りです」


「それでは……余所の地でも、奴隷として使役される北の民を見かけたことはあるのでしょうか……?」


「ええ、何度かは。ですが、それほどジェノスを離れること、なかったので、機会は少なかったです。北の民、奴隷として使われるのは、もっと北部の地なのでしょう」


 サンジュラは、とても穏やかに微笑んでいる。

 しかし、彼の心情を読み取るのは難しい。彼はシムの民のように無表情ではなかったが、その微笑みによって己の感情を隠しているようにも感じられるのだ。


「……それらの地で、北の民はどのように扱われていたのでしょう……?」


 それでもシフォン=チェルは、そのように問うてみせた。

 仕事ではなく、自分の気持ちに従って言葉を伝えるのは、ずいぶんひさしぶり――それこそ、アスタと言葉を交わしたとき以来であるように思えた。


「そうですね。あまり近づくことなかったので、確かなこと、言えませんが……やはり、鎖で繋がれ、畑の仕事、任されていることが多かったようです。あと、材木の切り出しや、石切り場でも、北の民、見かけました」


「そうですか……」


 そこでサンジュラが、何かを思い出そうとするかのように視線を天井に向ける。


「そういえば……町の名前、忘れましたが、一度だけ、珍しいものを見たように思います」


「珍しいもの……?」


「はい。北の民、孕み女です」


 シフォン=チェルは、軽く息を呑んだ。

 しかしすぐに考えなおして、ゆるゆると首を振る。


「西の民は北の民を蔑んでいるので、あまりそういうことも起きないようですが……しかし、わたくしの同胞でも年齢を重ねていた女衆は別の地に売られていきました……そうして北と西の血がまざることもあるのでしょう……」


「はい。私、同じことを考えましたが、でも、違うようなのです」


「……違う……?」


「はい。言葉、交わしてはいないので、事実、わかりませんが――その孕み女、とても幸福そうであったのです」


 そう言って、サンジュラはまた微笑んだ。


「彼女たち、男衆のため、食事の準備をしていました。他の女衆、やはり、孕み女を祝福しているようでした。父、西の民であるならば、他の女衆、祝福するでしょうか?」


「…………」


「私、東と西の混血です。母、家族と引き離され、西の地に生きていました。そして、とても優しかったですが、とても苦しそうでした。私、父の命令によって、西方神の子として定められたためです」


 同じ表情のまま、サンジュラは何かを懐かしむように目を細める。


「友好国の東と西でさえ、そうなのです。北と西では、子を授かることさえ、幸福に思えないことでしょう。ましてや、他の女衆、祝福するのは余計に難しい、思います」


「…………」


「ただ、奴隷同士で子を生すこと、許されるか、私、わかりません」


「噂ですが……それが許される地もあるのだとは聞いたことがあります……」


「そうですか。では、あの地、そうだったのでしょう」


 結論として、シフォン=チェルはいっそう落ち着かない気持ちを得ることになった。

 冷たく凍てついた表層の下で、自分の感情がうねりをあげているのが感じられる。アスタに兄の無事を知らされてから、ずっとわだかまっていた何かが、激しく刺激されてしまったようだ。


 そのとき、鈴の鳴る軽妙な音色が扉の向こうから聞こえてきた。

 リフレイアが、シフォン=チェルを呼んでいるのだ。


「……失礼いたします」とサンジュラに頭を下げてから、シフォン=チェルは扉を引き開ける。

 いつもの長椅子にリフレイアの姿はなく、彼女は窓辺にたたずんでいた。

 格子の嵌った小さな窓で、逃げ出すことはもちろん、手を出すことさえ難しい。しかもここは3階であるから、屋外の人間と密会できないよう手立てが重ねられている。


「リフレイア様……何かお申しつけでしょうか……」


「ええ」とリフレイアは答えたが、そのまましばらくは動こうとしなかった。

 それから、ゆっくりとシフォン=チェルのほうに向きなおってくる。


「……少し散歩がしたいの。サンジュラにもそのように伝えてくれる? それから、着替えを手伝って」


「かしこまりました……少々お待ちください……」


 シフォン=チェルは次の間のサンジュラにその旨を告げてから、部屋の隅の衣装棚へと移動した。


「リフレイア様、どのお召し物にいたしましょうか……?」


「何でもかまわないわ。なるべく簡単なものでお願い」


 シフォン=チェルはしばし思案し、淡い黄色をした長衣とシムの刺繍が入った織り布を手にリフレイアのもとへと引き返した。


 まずはリフレイアの纏っていた白い長衣を脱がせると、それよりも白い肌があらわになる。

 まるで北の民のように白い肌だ。

 きっと屋内に引きこもっているものだから、このように白くなってしまったのだろう。


 それから、自分の指先がそれとも比べ物にならぬほど白くなっていることに気づき、シフォン=チェルは苦笑する。シフォン=チェルはリフレイアよりもさらに長い期間、石の壁の中だけで暮らしてきたのである。この屋敷に住まいを移す前からも、客人の案内で庭園に出るぐらいしか、シフォン=チェルはまともに日の光を浴びる機会もなかったのだった。


(でも、西の民というのは北の民よりもきめのこまかい肌をしているから、とても綺麗……まるで陶磁の作り物みたいだわ)


 それに、12歳ともなると、だんだん娘らしい身体つきになってくる。少し前までは小さな子供にしか見えなかったリフレイアも、いつのまにかその身体はやわらかい曲線を描きつつあり、ほのかな色香さえ感じられるようになっていた。


 己の罪を贖うためにばっさり切り落としてしまった髪も、そろそろ肩より長くなりかけている。鼻筋や頬の線からも少しずつ幼さが抜けていき、彼女は開花しかけのつぼみのように可憐な存在に見えた。


(それで立派な娘に成長し、伴侶を娶って家督を譲れば、リフレイア様も今よりは自由に生きられるのかしら……)


 シフォン=チェルは、同情などをしていない代わりに、リフレイアを恨んだりもしていなかった。以前はけっこうな癇癪持ちであったものの、シルエルなどに比べれば可愛いものであったし、鞭で打たれた記憶もない。それに、たったひとりの家族である父親にかえりみられることもなく、甲高い声でさえずることしかできなかった彼女は、傷ついた小鳥のように見えることすらままあったのだった。


(頑丈な石の家だって、自由に出ることができないのなら、檻と同じだもの……自分もリフレイア様も、檻に捕らわれた小鳥のようなものなのだわ……)


 そのようなことを考えながら、黄色い長衣をリフレイアに纏わせて、最後に織り布の肩掛けを掛ける。せめて髪飾りでも準備しようかと思ったが、リフレイアには「いいわ」と拒絶されてしまった。


 そうして次の間を抜けて回廊に出ると、サンジュラの他に2名の武官が立ち並んでいた。見張りのための、兵士である。

 それらの兵士に前後をはさまれつつ、階段を下りて、屋外に出た。


 この屋敷は、貴族のために準備された公邸である。

 力のある貴族は城下町に立派な屋敷をかまえているので、この公邸に住まっているのは侯爵家や伯爵家の傍流の血筋、騎士や官人やその家族たちなどであった。


 右手を仰げば、ジェノス城の威容もうかがえる。

 それに背を向けるようにして、リフレイアは中庭のほうへと歩を進めた。


 トルストの許可がなければ、この公邸の敷地を出ることは許されない。敷地は石塀で囲まれており、門は衛兵に守られている。中庭にはどこぞの貴婦人が育てた花が咲いており、石塀にはたくさんの蔓草がからんでいた。


 トトスを走らせることができるぐらいには、広い中庭である。

 現在は昼下がりであり、見渡す限り、人影はない。

 その外周を囲む形で敷かれている石の道を歩きながら、リフレイアはやがて「サンジュラ」と従者の名を呼んだ。


「少し離れてもらえるかしら? わたしは、話がしたいのよ」


「話、誰とですか?」


「……シフォン=チェルの他に、誰かいる?」


 シフォン=チェルは驚いたが、サンジュラは微笑した。


「了解しました。兵士も、下がらせましょう」


 兵士はいぶかしそうにしていたが、どうせ石塀に囲まれた空間であるし、シフォン=チェルが相手では密談もへったくれもない。兵士たちはサンジュラとともに十歩ほどの距離を取り、会話の聞こえない場所から見張りの役を果たすことに決めたようだった。


「どうされたのですか、リフレイア様……? わたくしなどに、いったい何のお話が……?」


 リフレイアは、しばらく無言で歩いていた。

 サンジュラたちも、同じ距離を保ちながらついてきている。

 やがてリフレイアが口を開いたのは、広い中庭を半周ほど進んでからのことであった。


「シフォン=チェル。あなたは家族がトゥランで働かされているのよね? その家族というのは、あなたとどういう間柄なの?」


「それは……わたくしの兄となります……」


「兄」と言って、リフレイアは軽く唇を噛む。

 歩きながら、その視線はずっと自分の足もとに向けられたままであった。


「でも、あなたはわたしが幼い頃から、ずっと屋敷で働かされていたわよね? その兄とは、いったいいつから顔をあわせていないの?」


「……わたくしは5年前から伯爵様のもとで働くことになり、それ以降は兄とも同胞とも顔をあわせてはおりませんが……」


 どうしてリフレイアがそのようなことに関心を持ったのか、シフォン=チェルにはまったく理解できなかった。

 リフレイアは、沈んだ声で「5年……」とつぶやく。


「あなたたちは、5年前に奴隷として捕らわれたのね?」


「いえ……わたくしたちが故郷を失ったのは、13年前です……セルヴァの別の地で8年を過ごし、それからトゥランに連れてこられたのです……」


「…………」


「どうして今さらそのようなことをお気になさるのでしょうか……? 西の民が北の民を奴隷として買いつけるのは、何も珍しい話ではないでしょう……?」


「でも、このジェノスで奴隷を使うのは父様だけだったわ。こんな南寄りの地でわざわざ奴隷を買いつけるような人間は他にいなかったという話だもの」


「ええ……マヒュドラとジェノスは、トトスの荷車を使ってもひと月以上はかかるぐらい遠く離れていますので……なかなかそのような時間と手間をかける人間はいないのでしょうね……」


 リフレイアは足を止め、シフォン=チェルの顔を見上げてきた。

 幼き暴君の時代のように、その眉が吊り上がっている。

 が――その淡い色合いをした瞳に宿っているのは、不安と悲しみの光であった。


「シフォン=チェル、あなたはさぞかし、わたしや父様のことを恨んでいるのでしょうね。奴隷として買われたあげくに、こうして家族たちとも引き離されてしまったのだから」


「恨む……というのは、どうでしょう……? わたくしの故郷を焼き、奴隷にするために捕縛したのは、ジェノスとも関わりのない他の土地の兵士たちであったのでしょうから……」


「でも、あなたと家族を引き離したのは、わたしの父様だわ」


 それが、何だというのだろう。

 リフレイアの心情を理解できぬまま、シフォン=チェルは小首を傾げてみせる。


「確かに兄と引き離されて、わたくしは心が虚ろになりました……でも、兄とともにトゥランで働いていた時代が幸福であったか、と問われると……べつだん、そのようにも思えないのです……」


「奴隷である以上、家族がそばにいようがいまいが、苦しいことに変わりはない、ということ?」


「そう……なのでしょうか……わたくしには、よくわかりません……今ではもう、奴隷でなかった頃のことを思い出すのも難しいので……」


 リフレイアは、口をへの字にしてしまった。

 これもまた、昔はしょっちゅう見せていた表情だ。

 しかしやっぱり、今は泣くのをこらえているように見えてしまう。


「……わたしはたったひとりの家族である父様と引き離されることになったわ。でも、それは父様が大罪を犯していたのだから、誰を恨むこともできない。父様が伯爵家の当主でなかったら、きっと首を刎ねられていたぐらいの大罪だったのだもの」


「はい……」


「でも、あなたたちは何の罪を犯したわけでもないのでしょう? それなのに、故郷を奪われて、家族と引き離されて……それで、誰のことも恨んでいないというの?」


 シフォン=チェルは胸もとに手を置いて考えてみた。

 凍てついた心の下で、何かが激しくうねっている。

 しかし、これが恨みや憎しみの感情であるとは思えなかった。


「恨んでは、いません……誰かを恨むという気持ちは、もうずっと昔になくしてしまったようなのです……」


「それじゃあわたしは、どうしたらいいの?」


 駄々っ子のように、リフレイアが述べたてた。

 その目に、うっすらと涙が浮かんでしまっている。


「あなたが兄のもとに帰りたいというのなら、そのように取り計らうよう、トルストに告げるつもりだったわ。でも、それでもあなたが幸せになれないというのなら……わたしはいったいどうしたらいいの?」


「それは……どうしてリフレイア様が、そのようなことを……?」


「だって! 家族というのは、一番大事なものでしょう? 何の罪も犯していないなら、それを引き離すことなんて誰にも許されないはずよ?」


 リフレイアは、その家族をすべて失ってしまったのだ。

 失って、初めてその大事さを思い知らされたということなのだろうか。


 かつて彼女は、アスタを城下町にさらってきた。それを救い出したのは、アスタの家族を名乗る森辺の女狩人だ。

 罪のない人間を家族から引き離したリフレイアが、今、その苦しみに涙を流している。これも西方神の導きであったのだろうか。


 シフォン=チェルは、正体の知れぬ激情が勢いを増すのを感じていた。

 それを封じ込めている表層が、ぴしぴしと軋む音をたてているかのようだった。


「シフォン=チェル、もう一度よく考えて。兄のもとに帰りたいとは思えない? それはトゥランでの生活のほうが、奴隷にとっては苦しいものかもしれないけれど、それでも、家族と一緒にいられるのよ? あなたにとって、少しでも幸福に思えるのはどちらなの?」


「それは……」


「それとも、あなたの兄を城下町に呼び寄せる? それは少し――いえ、かなり難しいかもしれないけれど、あなたがそれを望むのなら、わたしがトルストやジェノス侯の靴を舐めてでも嘆願してみせるわ」


「ど、どうしてリフレイア様がそこまでして、わたくしや兄の行く末をお気にかけられるのですか……?」


 平常心を失いつつ、シフォン=チェルが身を引こうとすると、リフレイアに両手をつかまれてしまった。

 なめらかな白い頬に、涙が伝っている。その顔は怒ったまま、リフレイアは泣いていた。


「今、わたしのそばにいてくれるのは、あなたとサンジュラのふたりだけだわ。その内のひとりが、わたしや父様のせいで不幸であることが、わたしには耐えられないのよ。あなたを失いたくはないけれど……それ以上に、あなたには不幸であってほしくないの」


「……わたくしは、銅貨で買われた奴隷なのですよ……?」


「関係ないわ! わたしにとっては、ただの侍女よ!」


 視界の端で、兵士たちが身じろぎしているのが感じられた。

 しかしサンジュラがそれを押し留めているらしく、こちらに近づいてこようとするものはなかった。


 シフォン=チェルは、惑乱してしまっている。

 いきなり思いも寄らなかった激情を叩きつけられて、シフォン=チェルの内なる激情も、それに呼応してしまったかのようだった。


「わたしは、どうしたらいいの? あなたにとっては、どのようにするのが一番幸福なの? 何でもいいから、それを教えて! わたしには何の力も残されていないけれど、少しでも自分と父様の罪を贖いたいの!」


「わたくしは……わたくしはもう、人間らしい気持ちなど失ってしまっているのです……何が幸福で何が不幸か、そんなことすら見分けがつかないようになってしまっているのですよ……」


 言いながら、シフォン=チェルはリフレイアの手を握り返した。

 それはとても小さくて、とても温かい手であった。


「でも……リフレイア様のおかげで、ようやくわかりました……わたくしが求めていたのは、リフレイア様のように人間らしくふるまうことであったのです……」


「どういうこと? わかるように言って!」


「はい……わたくしは、兄のもとに戻ることが幸福であるかもわかりませんでした……そんな自分が、嫌でたまらないのです……兄が無事だと知らされたのに、それを喜ぶべきか悲しむべきかもわからないなどという、自分やこの世界の有り様が嫌でたまらないのです……」


 固く凍てついたシフォン=チェルの心の表層は、その内側の濁流に蹂躙されて亀裂だらけになりながらも、いまだ強ばったままである。

 13年もの歳月をかけて凝り固まったこの心は、それほど容易く打ち砕くことはできないのだ。


 シフォン=チェルには、怒りも悲しみも喜びもない。

 シフォン=チェルは、そのこと自体を疑問に思うべきであったのだった。

 何が幸福かもわからないなら、それを知るために、全力で抗わなくてはならなかったのだ。


 かつてのアスタがそうしたように、今のリフレイアがそうしているように、自分の身に訪れた運命に抗いたい。運命の流れに身をまかせるのではなく、自分の手の届く限りの幸福をつかみたい。――いや、幸福をつかみたいと思える人間らしい感情を取り戻したいのだ。


「……リフレイア様。わたくしが望むのは、兄や同胞が幸福に生きることです……そして、自分自身も同じものを幸福と感じ、ともに生きることです……」


「うん……それには、どうしたらいいの?」


「はい。奴隷を解放する、というのは、セルヴァの何者に願ってもかなわぬ夢想でしょう……北の民とて西の民を奴隷として使役しているのですから、わたくしたちだけを解放せよというのは、かなわぬ願いです……また、セルヴァとマヒュドラの戦いが終わらぬ限り、奴隷を解放するというのは敵方に与する行為になってしまうのでしょうから、なおさらそのような真似はできないはずです……」


「うん」


「でも、西の地においても北の民が幸福に生きることはできるかもしれません……余所の町では、奴隷に銅貨を与えたり、子を生すことを許す領主もいるという話なのです……そういう町からトゥランに買われてきた奴隷たちの何人かは、この地における生活に耐えかねて脱走を試みて、処断されることになりました……その者たちにとっては、生命を賭すほどに、そういった生活が幸福に感じられたという証ではないでしょうか……?」


「うん」とリフレイアはひたすらうなずいている。

 シフォン=チェルが何を言いたいのか、何を求めているのか、必死に理解しようと努めてくれているのだろう。


「このジェノスには、さまざまな土地からの旅人が集まります……それらの者から話を集めれば、どうして余所の土地では奴隷に銅貨を与えているのか、子を生すことを許しているのか、その理由を知ることもできるでしょう……それで、奴隷はそのように扱ったほうが領主にとっても利になるのだと、ジェノス侯爵に思わせることができれば……トゥランの奴隷たちも、そのような生活を送ることが許されるようになるかもしれません……」


「それがあなたの望みなのね、シフォン=チェル?」


「はい……わたくしの兄たちには、もはや西の王国から逃げるという気力も残されてはおりません……ならば、この地で幸福に生きていく道を求める他ないのではないでしょうか……?」


 そのように述べながら、シフォン=チェルは自然に微笑むことができた。

 そんな風に勝手に微笑がこぼれるのは、アスタと別れて以来、初めてのことであった。


「兄たちには、貴族に言葉を伝えるすべもありません……でも、わたくしのそばには、リフレイア様がおられます……そして、わたくしなどのために、力になりたいと仰ってくれています……北の民の奴隷としてジェノスの貴族に言葉を伝えられるのは、この世でわたくしだけなのです……わたくしは、いまだにそれが正しいことなのか、幸福なことなのかも判ずることはできませんが……今が幸福でないならば、幸福になるためにすべての力を尽くしたいと思います……」


「うん」とリフレイアはまたうなずいた。

 その目はまだ涙に濡れたままであったが、これまでにないほど強くきらめいてもいた。


「あなたはマヒュドラの奴隷だし、わたしは何の力も持たない名目だけの貴族だけど、頭を振り絞れば、少しは運命を動かせるかもしれない。トルストもジェノス侯爵も、それにダレイム伯爵家のポルアースだって、ジェノスの得になるような話だったら、手間を惜しむような人間ではないもの。そこのところをうまくつつけば、あなたの兄たちにもっと安楽な生活を与えることはできるかもしれないわ」


「はい……でも本当に、わたくしのためなどにそこまで力を尽くしてくださるのですか……?」


 シフォン=チェルが問うと、リフレイアは眉を吊り上げたまま笑った。

 もはや笑っているのか怒っているのか泣いているのかもわからない顔つきだ。


「わたしには、もうあなたとサンジュラしか残されていないのよ。たったふたりしかいない従者の面倒も見られない主人なんて、折れた刀よりも意味のない存在なのじゃないかしら」


 そうしてリフレイアは小さな手の甲で涙をぬぐうと、片手でシフォン=チェルの指先をとらえたまま歩き始めた。


「そうと決まったら、部屋に戻って作戦を立てましょう。まずはトルストを言いくるめて、ポルアースあたりに渡りをつけるか……ああ、もうじき闘技会なんてものもあったわね。そこならジェノス侯爵と直接口をきく機会もあるし、それに、侯爵の後継ぎの伴侶であるエウリフィアという貴婦人も、妙にわたしにかまってくるのよね。あのあたりも巻き込んでしまえば、いっそう話は早いかもしれないわ」


「リフレイア様……くれぐれも無茶はなさらないでくださいね……?」


「いいじゃない。どうせわたしたちなど飼い殺しにされている小鳥みたいなものなのだから、力いっぱいさえずってやらないと見向きもされないわよ」


 やはりリフレイアもそのような気持ちで日々を過ごしていたのかと、シフォン=チェルはまた微笑することになった。

 この凍てついた心はいずれ砕くことがかなうのか、兄との幸福な生など得られることはできるのか、そんなことは神の御心ひとつであったが、進むべき道は定まったのだ。何も失うものなどはなかったし、その道をともに歩こうとしてくれている存在がある。これが間違った道であるならば、西方神と北方神がふたりがかりで立ちはだかればいい。


 セルヴァとマヒュドラが争いを始めて数百年――その歴史の中で、西の貴族と北の奴隷が仲良く手を繋いで歩くことなど、一度としてあっただろうか?

 そのように考えると、シフォン=チェルはいっそう清々しい気持ちで笑うことができたのだった。

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