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異世界料理道  作者: EDA
第二十二章 群像演舞~二ノ巻~
390/1675

    小鳥の部屋(中)

2016.10/15 更新分 1/1 2016.10/28 誤字を修正

 回廊側の扉が、こつこつと叩かれた。

 物思いに耽っていたシフォン=チェルが立ち上がって扉を開けると、そこに立っていたのはサンジュラであった。


 彼は、リフレイアを守るお付きの武官である。

 もともとはサイクレウスの下で働く間諜のようなものであったらしいが、彼だけは何故かトゥラン伯爵家に居残ることが許されたのだ。

 それは別に慈悲や恩赦といったものとは関わりなく、むしろ彼が危険な力を備えているゆえに、野放しにしたくなかったという思惑であるらしかった。


「失礼します。リフレイア、何をされていますか?」


 だが、外見的には非常に温和で優しげな若者である。

 西と東の混血で、西方神の子として生きている身であるそうだが、黒い肌をしているし、西の言葉もシフォン=チェルより覚束無いので、シムの民としか思えない。ただ、淡い色合いをした髪と瞳の色だけが、少しばかりは西の民らしさをたたえていた。


「朝方に浴堂で身を清めてから、リフレイア様はずっとこちらでお休みになられています……何をされているかは、わたくしにもわかりません……」


 シフォン=チェルがそのように答えると、サンジュラは「そうですか」と口もとをほころばせた。

 彼は西の民であるために、表情を動かすことを恥とは考えていないのだ。


「私、話をしたいので、取り次ぎをお願いします」


「かしこまりました」


 よほど機嫌が悪くない限り、リフレイアが彼の来訪を拒むことはない。その日もリフレイアは分厚い扉ごしに「通してかまわないわ」という言葉を告げてきた。


「ああ、あと、お茶をもらえるかしら、シフォン=チェル?」


「かしこまりました」と同じ言葉を繰り返しつつ、シフォン=チェルはサンジュラとともにリフレイアの部屋へと足を踏み入れた。


 ジェノス城からもほど近い、公邸の一室である。

 広さのほうは申し分ないが、かつての伯爵家の邸宅のように華美な装いは施されていない。その中で、リフレイアは革張りの長椅子にゆったりと腰かけていた。


 身に纏っているのは、浴堂から上がったときと同じく、屋内用の白い長衣だ。飾り物の類いはつけておらず、ただのびかけの栗色の髪だけがくるくると渦巻いて、幼き姫の身を飾っている。


「リフレイア、ずいぶん退屈なようですね」


 サンジュラがそのように呼びかけると、リフレイアは横目でそちらを見つめ返した。


「そうね。この世でわたしほど退屈している人間など、そうそういないのじゃないかしら」


「たまには、外出、如何でしょう? 人間が健やかに生きるため、太陽の光、必要です」


「ふん。わたしが外出するには、いちいち見張り役の兵士を呼びつけなくてはならないのだから、おたがいに手間じゃない。そうまでして外を歩いたって、何か面白いものが待ち受けてるわけでもないし」


「そうですね。では、トトス乗り、如何でしょう? ジェノスの貴族たち、退屈なときは、庭園でトトス乗りに興じているようです」


「そうね……昔はひまつぶしでよくトトスにも乗っていたわ」


 リフレイアは肘掛けに頬杖をついて、遠くの何かを透かし見るように目を細めた。


「懐かしいわね。庭園をぐるぐる回るばっかりで、何が楽しいわけでもなかったけど」


「トトス乗り、身体に必要な筋肉、鍛えられます。ゆえに、貴族たちもトトス乗り、興じるのでしょう」


「ふーん。いっそトトスが空でも飛べたら、まだ乗り甲斐もあるのだけれどね」


 そのように言ってから、リフレイアはちらりとシフォン=チェルを見た。


「そうそう、お茶を飲みたいんだったわ。チャッチのお茶をお願いね」


「かしこまりました」


 裕福な暮らしと父親を失ってから、はや5ヶ月。外面的には大きな変わりもないが、やはり以前のままのリフレイアではない。かつての傲岸さはずいぶんなりをひそめてしまっているし、その瞳には物思わしげな光が灯ることが多くなった。


 父親のサイクレウスは罪人として投獄されたが、彼女もまた虜囚のようなものなのだ。

 名目上は当主であるが、行動の自由は許されていない。外出の際にも、人と会う際にも、見張りの兵士が呼ばれることになる。邪な考えを持つ者が彼女に近づかぬよう、最大限に注意が払われている。


 サイクレウスとともに悪事を働いていた人間は、すべて捕らえられたとされている。しかし、罪は犯していないながらも、サイクレウスと懇意にしていた人間は数多く存在するのだ。その中の誰かがリフレイアを当主として祭り上げて、自分の利益になるよう働きかけようとすることを、ジェノス侯爵は阻止しようと考えているらしかった。


 西の民は新年の訪れとともに齢を重ねるので、リフレイアは12歳となった。そんな彼女が伴侶を迎え、爵位を譲り渡すまでは、こういった生活が続いていくのだろう。

 いわば彼女は、爵位という名の鎖に繋がれて、自由を奪われている身なのである。


「……お待たせいたしました」


 黒く磨かれた卓の上に、チャッチの茶を注いだ杯と皿を置いていく。

 それを見下ろしながら、サンジュラは困ったように眉尻を下げた。


「私の分、用意してしまったのですか? 私、客ではありません」


「うるさいわね。飲むか飲まないかは好きにすればいいけれど、部屋を出ていかないなら座りなさいよ。あなたみたいに背の高い人間がぬぼーっと立ってたら、こっちは落ち着かなくてたまらないんだから」


 もちろんそれはシフォン=チェルではなく、リフレイアの言葉であった。

 そろそろ彼がそのような言葉をかけられる頃合いだろうなと思って、シフォン=チェルも2名分の茶を準備したのである。

 サンジュラは長い栗色の髪をかきあげつつ、リフレイアの正面に腰を下ろした。

 その結果に満足しつつ、シフォン=チェルはリフレイアに呼びかけた。


「御用がお済みでしたら、わたくしは次の間に戻りますが……如何でしょう?」


「あなたもしばらくここにいたら? お茶のお代わりでいちいち呼びつけるのも面倒くさいから」


「……かしこまりました」


 リフレイアは、気分によって他者を遠ざけたり近づけたりする。どうやら本日は、後者であるようだった。

 そういう気性も、以前から有していたものだ。しかし、かつての身分を失ってからは、いっそう強くあらわれているように感じられた。


 現在のリフレイアの周囲には、シフォン=チェルとサンジュラしかいない。新しく雇われた小姓や侍女たちは、なるべくリフレイアに近づけぬようにされているのだ。叛乱罪で捕らわれた貴族の娘というのは、そこまで警戒されてしまうものなのだろう。


 孤独というものは、人間を変えてしまう。だからリフレイアも、色々と変わったのだろうと思う。

 しかしそれがどのような変化なのかは、これだけそばにいるシフォン=チェルにも漠然としかわからなかった。


「……で、あなたは朝からどこに行っていたの? またうろちょろ動き回ると、トルストたちに痛くもない腹を探られるわよ?」


「はい。私、トルストに呼ばれて、ジェノス城からの使者と会っていました。月の終わり、行われる、闘技会の話です」


「闘技会? ああ、銀の月にはそんなものもあったわね。復活祭が終わったばかりだというのに、まだ騒ぎ足りないというのかしら」


「はい。雨季の前、闘技会を行うのが、ジェノス、習わしであるようですね。雨季、人間の心を沈めるので、その前に、鼓舞しようという習わしなのかもしれません」


 この地には、2ヶ月ばかりも続く雨季というものが存在する。今年は3年に1度の閏月がある年なので、いくぶん日取りが読みにくいようであるが、来月の終わりぐらいには間違いなくやってくるはずだ。その前に、闘技会というものを済ませてしまう予定であるようだった。


「それで、リフレイア、トゥランの当主として招かれます。その打ち合わせ、トルストや使者と行っていたのです」


「ご苦労なことね。闘技会なんて、わたしは何の興味もないけれど」


 チャッチの茶をすすりつつ、リフレイアがふっと面を上げる。


「そういえば、あなたはその闘技会に出場したりしないの?」


「私が? 何故ですか?」


「何故って、あなたも剣士なのでしょう? 剣士にとって、闘技会で勝つことは何よりの誉れじゃないの?」


「……私、誉れは必要ありません。リフレイアを守る使命、果たせれば、それで満足です」


 サンジュラは目を細めて微笑んだ。

 リフレイアはうるさそうに眉をひそめて、そっぽを向く。

 サンジュラはときどき妹を見る兄のような目でリフレイアを見るときがある。そういうとき、リフレイアはいつもことさら素っ気なくなってしまうのだった。


(兄か……エレオはそろそろ昼の食事どきかしら……」


 部屋の隅にひっそりと控えたまま、シフォン=チェルは息をつく。

 すると、サンジュラが何故かこちらに視線を向けてきた。


「そういえば、シフォン=チェル、雨季の話、聞きましたか?」


「はい……? 雨季が、どうかされましたか……?」


「雨季の間、北の民たち、別の仕事をあてがわれるようです」


「別の仕事……? それはトゥランを守る塀の修理などではないのですか……?」


 5年前には、シフォン=チェルも一度だけその仕事に従事させられたことがある。雨季の間はフワノもママリアもまともに育たないため、仕事の手が空いてしまうのである。

 しかし、サンジュラは「いえ」と首を振った。


「それとは、異なる仕事です。モルガの森、道を切り開く仕事、あてがわれるそうです」


 瞬間、シフォン=チェルは言葉を失ってしまった。

 モルガの森というのは、トゥラン伯爵家を滅びに追いやった森辺の民たちの住まいであるはずなのだった。


「シムと通ずる新しい道、造りたいそうです。森辺の民からも、了承を得られたようです」


「ですが……モルガの森というのは、ギバの出る危険な区域なのではないのですか……?」


「はい。危険のないよう、森辺の民、協力するそうです」


 あの、北の民にも負けない猛々しさを持つ森辺の民のもとに、エレオ=チェルたちが遣わされる。

 シフォン=チェルは、わけもなく鼓動が速まるのを感じた。


 シフォン=チェルが最初に出会った森辺の民というのは、ファの家のアスタという奇妙な少年であった。

 アスタは余所の土地から森辺の集落に移り住んだという変わり者で、外見上は西の民にしか見えない。しかも彼は狩人ですらなく、料理人としてトゥラン伯爵家に拉致されてきたのである。


 拉致してきたのは、リフレイアに命じられたサンジュラたちだ。その罪で、リフレイアも一時期は牢獄に入り、サンジュラたちは鞭叩きの刑に処されていた。


 アスタは、不思議な少年であった。

 シフォン=チェルよりも背が小さく、とても優しげな容姿をしているのに、その内には激烈なまでの意志の力が宿っていた。森辺の集落における生活が、彼にそのような力を与えたのだろうか。貴族にかどわかされたというのに、彼はまったく屈することなく、最初の夜などは二階の窓から逃げようと試みるほどであった。


 その意志の力が、当時のシフォン=チェルにはまぶしくてたまらなかった。

 己の自由を奪われたことに対する怒りや憤り――理不尽な運命に対する反骨の気持ち――13年も前に故郷を燃やされ、運命に屈して生きるのが当たり前になっていたシフォン=チェルにとって、それはあまりに鮮烈に過ぎたのである。


 アスタが戦士としての力を備えていたなら、シフォン=チェルもそれほど驚きはしなかっただろう。

 しかし彼は、無力な料理人であった。

 下手をしたら、10歳の頃の自分よりも非力なのではないかと思えるほどであった。

 そうであるにも拘わらず、彼は運命に屈しようとしなかったのだ。


 結果的に彼を救ったのは森辺の同胞たちであったが、もしも彼が運命に屈していたなら、健やかな日常に回帰することも難しかったかもしれない。

 だが、後日再会したアスタは、見違えるぐらい幸福そうにしていた。


 彼の強さが、正しい運命を招き寄せたのだ。

 シフォン=チェルには、そのように思えてならなかった。


 もちろんアスタとて、シフォン=チェルと同じ境遇であったなら、どこかで心を折られていたのかもしれないが――シフォン=チェルには、運命に屈するアスタの姿というものを想像することができなかった。彼の内には、森辺の狩人ともマヒュドラの民とも異なる静かな猛々しさが感じられたのである。


「……何をぼーっとしているの、シフォン=チェル?」


 ふいに問われて、シフォン=チェルは我に返った。

 リフレイアが、不審げにこちらを見つめている。


「いえ……北の民たちがそのように危険な場所に連れていかれると聞いて、少し心を乱してしまっただけです……お見苦しいところを見せてしまい、申し訳ありません……」


「ふうん?」とリフレイアはまだ眉をひそめている。

 すると今度はサンジュラが微笑みかけてきた。


「シフォン=チェル、以前はトゥランで働いていたのですよね? もしかして、家族でもいるのですか?」


「……はい」と応じると、リフレイアのほうが大きく目を見開いた。


「あなたには家族がいたの、シフォン=チェル? それなのに、あなただけが城下町で働かされていたというの?」


 これにも、「はい」と応じるしかなかった。

 リフレイアは唇を噛んで、シフォン=チェルの足もとに視線を落とす。

 そうして主人が黙り込んでしまったため、それを取りなすようにまたサンジュラが穏やかに声をあげた。


「きっと、危険はないでしょう。そのために、森辺の民、協力を願ったのです。森辺の民、信頼に値すると思います」


「ええ……そうなのでしょうね……」


 そのとき、扉が外から叩かれた。

 それに続いて、くぐもった男の声が聞こえてくる。


「リフレイア姫はいらっしゃいますか? お客人をお連れしました」


 シフォン=チェルは、得体の知れない感情の渦巻く胸もとに手をやりながら、侍女としての仕事を果たすべく、そちらに近づいた。


「侍女のシフォン=チェルです……お客人とは、どなたですか……?」


「南の民、鉄具屋のディアル様です」


 その声はリフレイアのもとまで届いたらしく、シフォン=チェルが問うまでもなく「通していいわよ」と告げられた。

 シフォン=チェルが扉を開けると、まずは馴染みの武官が礼をしてきて、それから客人を案内してきた。


「やあ、ひさしぶりだね、リフレイア。今日も部屋に閉じこもってたの?」


 濃淡まだらの褐色の髪をした娘が、笑顔で部屋に入ってくる。

 まだ日が高いためか、彼女は男のようなジャガル風の装束を身に纏っていた。

 その手には何やら大きな革の鞄をたずさえつつ、室内の様子を見回してくる。その明るい緑色をした瞳がサンジュラを捕らえると、顔から笑みが消え失せた。


「あー、あんたもいたんだね。サンジュラだったっけ?」


「はい。おひさしぶりです、ディアル様」


 サンジュラは立ち上がり、騎士のような礼をした。

 それから、微笑をふくんだ眼差しでリフレイアを見つめる。


「私、次の間に待機しています。御用あれば、お呼びください」


「……別にあんたに出ていけとは言ってないよ?」


 唇をとがらせながらディアルが口をはさむと、サンジュラは「はい」とうなずいた。


「しかし、東の民の姿をした私、目に入ると落ち着かないでしょう? あなたの従者も、私、部屋を出ることを望むと思います」


「あー、それじゃあ表でラービスと遊んでてもらえる? 確かにそのほうがラービスも安心だろうからさ」


 南の民は東の民が仇敵であるため、ディアルはサンジュラを苦手にしているのだ。しかし、シムの血が入っていてもサンジュラは西の民であるため、どのように扱うべきか判じかねている様子であった。

 そういうわけでサンジュラは退室することになり、シフォン=チェルは新たな茶をいれることになった。


「あんた、いつでもおんなじ服だね。たまには貴族らしく着飾ったら?」


「外出の用事もないのに、着飾る理由はないでしょう?」


「そうかなあ? そんな夜着みたいな服を一日中着ているから、余計にぼーっとしちゃうんじゃない?」


 湯を沸かしている間にも、そのような会話が聞こえてくる。

 彼女は唯一、見張りなしでリフレイアと面会できる客人なのだった。


 少し前までは彼女との面会でも見張りがつけられていたが、彼女が扱っている商品は食材ならぬ鉄具だ。彼女とトゥラン伯爵家の間で取り交わされていた商売の話はすべてジェノス侯爵家に移し変えられたし、今さらリフレイアを相手に悪巧みをする余地もなかったので、無事に解禁と相成ったのである。


 というか、同じような立場の商人たちは、いまさらリフレイアと面会しようなどとは考えないのだろう。

 つまり彼女は、ジェノスの中で唯一、損得勘定ぬきでリフレイアに会おうと考える人間であるのかもしれなかった。


「今日は、おみやげを持ってきたんだよ! 念のために聞いておくけど、昼の食事を済ませたりはしてないだろうね?」


「まだ中天の鐘も鳴っていないのに、食事なんてするはずがないでしょう? 別に空腹なわけでもないし」


「ふふーん? こいつを見たら、空腹になるかもよー?」


 そうしてちょうどシフォン=チェルがお茶を準備して戻ったとき、卓に載せられていた鞄の蓋が開けられた。

 横に平たい、大きな鞄である。その中に収納されていたのは、また蓋をされた平たい木箱であった。


「何よこれは? まさか食事を持参したというの?」


「うん! しかもこいつは、アスタの作ったギバ料理だよ?」


 シフォン=チェルは、思わず皿を落としてしまいそうになった。

 リフレイアも、呆れたように目を見開いている。


「ちょうど仕事の手が空いたからさ、ひとっ走り宿場町まで行ってきたんだよ。もちろん、リフレイアの分も買ってきてあげたからね」


「……わたしは勝手に銅貨を使うことも許されない身よ?」


「そんなみみっちいこと言わないでよ! どうせ赤銅貨数枚の話なんだからさ。そんな値段でこんな美味しい料理が食べられるなんて、宿場町の連中は幸せだよねー」


 重ねられていた木箱が卓に並べられていき、大きな鞄は床に下ろされる。

 そうして木箱の蓋までもが外されると、とたんに芳しい香りが室内に満ちた。

 肉と野菜を炒めた料理、タラパをまぶされた丸い肉、それに、細い紐のようにのたくった奇妙な料理である。


「えーっとね、こっちのこいつが『ほいこーろー』、こっちが『はんばーぐ』、それでこっちが『かるぼなーら』ね。『はんばーぐ』ってのはポイタンの生地にはさまれて売られてるんだけど、ぐちゃぐちゃになりそうだったから別に分けてもらったの」


 そのポイタンというのはフワノにそっくりの白い生地で、布の包みにくるまれていた。


「あ、悪いんだけどさ、取り分けて食べたいから皿を持ってきてもらえるかな?」


 ディアルに言われて、シフォン=チェルは何枚かの皿を運ぶことになった。

 それに匙と三股の串を添えてみせると、ディアルは「あれ?」と首を傾げる。


「ねえ、匙とかが足りなくない?」


「ああ、料理ごとに使い分けないと、味がまざってしまいますね……大変失礼いたしました……」


「いや、そうじゃなくってさ。この量をふたりで食べきれると思う?」


 言葉の意味がわからずに、シフォン=チェルはきょとんとしてしまった。


「あのね、これにはあんたの分も含まれてるの。嫌じゃなかったら、一緒に食べようよ」


「ええ……? ですがわたくしは、リフレイア様の侍女なのです。侍女と主人が同じ卓で食事をとるわけには……」


「別にいいじゃん。格式ばった晩餐会でもあるまいし。僕だって昼の軽食なんかはラービスと一緒に食べてるよ?」


 シフォン=チェルが困惑しながら立ちつくしていると、リフレイアまでもが「かまわないわ」と声をあげた。


「あなたも席につきなさい、シフォン=チェル。客人の要望に応じるのも、あなたの仕事でしょ?」


「はい……」


 以前のリフレイアであったなら、決して侍女を同席させることなど許さなかっただろう。

 シフォン=チェルは新たな食器を運ぶとともに、生まれて初めて主人と食卓を囲むことになってしまった。


「いやー、実はあんたにも話があったんだよ。アスタに言伝を頼まれててさ」


 料理を取り分けながら、ディアルはさらにそのように述べたてた。


「あんたの兄さんの話はきちんとあんたに伝わったのか、それを確認してきてほしいって頼まれちゃったんだよ。ずいぶん昔の話らしいけど、どうなのかな?」


「はい……それはダレイム伯爵家の使者からきちんと伝えていただきましたが……どうしてアスタ様がそのようなことを……?」


「うん? なんか復活祭で慌ただしかったから、アスタもなかなかダレイムの人らと話ができなかったんじゃない? あんたにきちんと伝わってるのか、それであんたが嫌な気持ちになったりはしてないかって、アスタはずいぶん気にしてるみたいだったね」


 住まいがこの公邸に移されてしまったために、シフォン=チェルとアスタの縁はぷつりと途絶えてしまっていたのだ。

 そうでなくとも、シフォン=チェルは侍女であり奴隷である。貴族に客人として招かれるアスタと対等に言葉を交わせる立場ではない。


「で、僕が今日リフレイアのところに遊びに行くんだーって自慢してたら、あんたのことを聞かれたのさ。あんたって、アスタと知り合いだったんだね。ここに来るたび顔をあわせてたのに、全然知らなかったよー」


「はい……」


「で、別に問題はなかったでしょ? 家族が生きてるって知らされて、嫌な気持ちになったりはしないよね?」


「……もちろんです」とシフォン=チェルは答えてみせた。

 兄の無事を知らされて、正体のわからない感情を抱え込むことにはなったが、それが悪い感情であるはずがない。また、わざわざシフォン=チェルなどのために使者まで遣わしてくれたアスタには、どれほど感謝しても足りないぐらいであった。


「アスタ様にはとても感謝しています……もしも言伝などが許されるのでしたら、そのようにお伝えしていただきたく思います……」


「うん。僕もそんなしょっちゅう宿場町まで足はのばせないけどさ。次に行くときは、必ず伝えておいてあげるよ」


 ギバの肉に串を刺しつつ、ディアルはにっと白い歯を見せる。

 南の民たる彼女には、北の民を蔑む理由もないのだ。


「さ、それじゃあ食べようよ! できるだけ冷めないように大急ぎで帰ってきたんだからさ!」


 黙ってふたりの問答を聞いていたリフレイアも、それで匙を取り上げる。

 シフォン=チェルは、いっそう胸の中をかき回されながら、ギバの料理を口に運んだ。


 数ヶ月ぶりに口にする、アスタの料理である。

 溜息が出るほど、それは美味であった。

 シフォン=チェルは毒見役として、数々の高名なる料理人たちの料理を口にしたことがある。アスタの腕前はそれに劣るものではなかったし、しかも彼はこの数ヶ月でいっそう腕を上げたようにも感じられた。


 なおかつ、これこそがアスタの本来作るべき料理――森辺のギバ料理であるのだ。

 アスタの料理は美味であったし、ギバの肉自体も美味であった。ギバとはこれほど美味な肉なのかと、思わず匙を取り落としそうになるほどであった。


 ディアルが『はんばーぐ』と呼んでいたのは、こまかく刻んだ肉をまた丸めて焼いた料理であるようだった。

 噛むと、肉はあっけなく口の中でほどけていく。そして、その内に隠されていた脂や肉汁が、煮込まれたタラパとからみあい、えもいわれぬ旨みを味わわせてくれた。


 それに、こんなにこまかく刻まれた肉であるのに、噛み心地はとてもしっかりとしている。噛めば噛むほど味がわきだしてくるようで、ギャマやムフルの大熊にも負けない力強さであった。


『ほいこーろー』という料理には、実にさまざまな調味料が使われていた。

 シフォン=チェルには、その名前がわからない。わからないが、美味であることに間違いはなかった。

 甘くて、辛くて、酸っぱくて、塩気が強く、香りも素晴らしい。城下町の料理人たちも複雑な味付けというものを重んじていたが、これは複雑でありながら、とても均整が取れていた。甘さも辛さも酸っぱさも、この料理にはすべて必要なものであったのだ。


 こちらの肉は一口ぐらいの大きさで切り分けられており、いっそう噛み心地もしっかりしている。ときおりくっついている脂身がまた美味であり、舌がとろけそうなほどであった。

 一緒に使われているアリアやプラやネェノンといった野菜たちも、この味付けにはとても合っているように感じられる。


「どう? 美味しいでしょ? こっちの『はんばーぐ』ってのはアスタじゃなくって森辺の女衆が作ったみたいだけど、アスタに負けないぐらい美味しいよねー?」


「はい……ギバの肉というのは、これほどまでに美味であったのですね……」


「こっちの『かるぼなーら』も食べてみなよ! こうやってね、三股の串でくるくる巻き取ると食べやすいから!」


「……ディアル、これは『ぱすた』という料理じゃなかったかしら?」


「あー、こういうにょろにょろした料理はみんな『ぱすた』で、味付けによって名前が変わるみたいだよ。だからこれは、『かるぼなーらのぱすた』っていうんだってさー」


「ふん。まるであなたの嫌いなシムの呪文みたいな名前ね」


 リフレイアは仏頂面であったが、アスタの料理とディアルとの会話に楽しさや喜びを感じていることは明白であった。

 最近は食も細くなってきていたのに、ディアルに負けない勢いで料理を食べている。もともと彼女は、父親ゆずりの美食家であったのだ。


(このディアルという娘がどういうつもりでリフレイア様に近づいているのかはわからないけれど……なんだか、年の離れた姉妹みたいだわ……)


 外見も気性も生まれた国すら違うはずであるのに、シフォン=チェルはそのように思ってしまった。

 そういえばシフォン=チェルは北の民であるし、サンジュラは東の血を引く若者だ。四大王国の人間がこのように集結する地など、ジェノスを置いて他にはなかなかないのだろうと思える。


「そういえばさー、あの東の民のアリシュナってやつ、しょっちゅうアスタの料理を城下町の屋敷にまで運ばせてるんだよ? それってずるくない?」


「別にずるくはないでしょ。ずるいと思うなら、あなたも真似をすればいいじゃない」


「えー? だって僕は、貴族の晩餐会に招かれることも多いからさー。届けてもらっても、なかなか食べる機会がないんだよ! どうして貴族ってのは、あんなに客を呼ぶのが好きなんだろうね?」


「知らないわ。自分たちがどれだけ豊かであるかを競っているのかもね」


「うーん、アスタを料理人として呼んでくれれば、なんの不満もないのになー」


 そうしてポイタンの生地というものに肉をくるんで食してから、ディアルは「あ、そうだ!」と瞳を輝かせた。


「今度、この屋敷にアスタを呼んでみたら? そうしたら、またみんなで一緒にギバの料理を食べられるじゃん!」


「……森辺の民を勝手に呼びつけることは禁じられているし、わたしにはそれをジェノス侯爵に願い出る力も資格もないわ」


「資格って何さ? いちおうリフレイアはトゥランの領主なんでしょ?」


「名ばかりの領主よ。後見人のトルストだって無駄に銅貨をつかうことを嫌うから、わざわざ外から料理人を呼びつけたりはしないでしょうね」


「ちぇーっ! いい考えだと思ったんだけどなー」


「……それに第一、アスタだってわたしのためなどに料理は作りたくないでしょう。わたしは森辺の民の仇の娘なのだし、森辺の民はわたしの父の仇なのだから」


 ディアルは鼻白んだようにリフレイアを見つめ返した。


「リフレイアはさ、アスタや森辺の民のことを恨んでいるの?」


「……罪を犯していたのはわたしの父のほうなんだから、それを恨んだら逆恨みよ」


「そっか。だったら、問題ないんじゃない? 森辺の民ってアスタも含めて、罰が下されればそれでおしまいって考え方らしいし。いまだにリフレイアやリフレイアの父親を恨んでる人間なんて、たぶんひとりもいないと思うよ?」


 リフレイアは答えずに、串からこぼれてしまった『かるぼなーら』をちゅるちゅるとすすっている。

 その幼子めいた姿を見ながら、ディアルは「ごめん」と眉を下げた。


「差し出がましいことを言っちゃったね。僕もそんな話を蒸し返すつもりはなかったんだ」


「……南の民であるあなたにそのような配慮は期待していないわ」


「何だよー。嫌な気分になったんなら、きちんと怒ってよ。じゃないと僕も、反省できないじゃん」


「わたしは西の民だから、思ったことをそのまま口にしたりはしないの」


 ディアルは「もー!」と短い髪をかきむしった。

 しかし、ディアルが心配しているほど、リフレイアは沈んでいないだろう。人を恋しいと思っている日にディアルがやってきてくれたのだから、その嬉しさのほうがいまだにまさっているように思える。やはりリフレイアにとって、ディアルはかけがえのない存在になりつつあるのだ。


(それを恨んだら逆恨み、か……)


 すべての人間がそのように考えていたら、セルヴァとマヒュドラもこのように憎しみの歴史を紡いでいくことにはならなかったのだろうか。

 そのようなことをぼんやり考えながら、シフォン=チェルもにゅるにゅるとした『かるぼなーら』を串で巻き取った。


 そうして食事を進めていく内に、ようやく中天の鐘の響く音色が窓の外から聞こえてくる。

 外の世界から隔絶されたこの部屋で、今日も時間はゆったりとなだらかに過ぎ去っているようであった。

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