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異世界料理道  作者: EDA
第二十二章 群像演舞~二ノ巻~
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第七話 小鳥の部屋(上)

2016.10/14 更新分 1/1

 シフォン=チェルは、灰色の壁に囲まれた小さな空間で、ひとりぼんやりと物思いに耽っていた。


 シフォン=チェルの主人であるトゥラン伯爵家の現当主、リフレイア姫の部屋に通ずる次の間である。

 主人に用事を言いつけられない限り、ここにこうしてひとりで座しているのが、今のシフォン=チェルの仕事であるのだった。


 ただ座しているだけで仕事を果たせるのだから、これほど楽なことはない。が、一日のほとんどをそうして為すべきこともなく過ごすというのは、存外に苦しいものでもあった。


 そうしてぼんやり過ごしていると、どうしても想念はあらぬ方向に傾いてしまう。

 特に最近のシフォン=チェルは、過去の出来事に心をとらわれることが多くなっていた。


 それはおそらく、ダレイム伯爵家の人間にアスタからの言葉を届けられたためだ。

 アスタは宿場町でシフォン=チェルの兄と出会い、彼が無事に生きているということを、わざわざ伝えてくれたのである。


(兄のエレオが生きていた……それがアスタと顔をあわせることになるなんて、いったいどういうお導きなのかしら……)


 シフォン=チェルは、もう5年近くも兄とは顔をあわせていないはずであった。

 シフォン=チェルは城下町、エレオ=チェルはトゥラン領で、それぞれの生を生きている。その生活も、もう5年ぐらいが経過したということだ。


 そもそもシフォン=チェルたちは、10年以上も前に奴隷として捕縛された身であった。

 チェルの家があったターレス連山の集落は、その日、セルヴァの軍勢に急襲を受けて、滅ぶことになってしまったのだ。


 大人の男や老人たちは皆殺しにされて、若い女と子供はすべて奴隷として捕らえられることになった。マヒュドラの男は13歳にもなれば戦士として戦える大きさになっていたので、あと1年も遅ければ兄のエレオ=チェルも殺されていたに違いない。


 ということは、故郷を失ったのは兄が12歳の頃であるから――シフォン=チェルは、わずか10歳だ。今から13年ほど前に、シフォン=チェルたちは奴隷として生きていく運命を授かったことになる。


 最初に連れていかれたのは、マヒュドラから荷車で5日ほど離れた場所にある、どこかの領地の荘園であった。

 当時はまだ西の言葉を覚えていなかったし、そもそも領地の名を明かされた覚えもない。そんな名前もわからないセルヴァのどこかの片隅で、シフォン=チェルたちは8年間も過ごすことになったのだった。


 一番苦難に満ちていたのは、その時代であったろうと思う。

 親も同胞も殺されて、セルヴァで奴隷として働かされることになったのだ。どうして自分たちがこのような運命を授からなくてはならないのかと、神を恨んだことさえあった。


 鎖でつながれ、鞭で打たれ、動物のように働かされ――与えられる食事は一日に一度、骨がらと野菜のくずをポイタンで煮込まれた泥水のような煮汁だけであり、寝床に用意されているのは土だらけの藁だけであった。そこはセルヴァでもかなり北寄りの領地であったため、夜の寒さなどはマヒュドラと大差はなく、最初の数年で半分ぐらいの仲間たちが生命を落とすことになった。


 国境の近くに住むセルヴァの民たちは、マヒュドラの民を心から憎んでいたのだ。

 そんな彼らが、奴隷たちに容赦をするはずがなかった。

 シフォン=チェルの背中には、まだあの頃に打たれた革鞭の痕がくっきりと残されている。


 だが、彼らも理由なくマヒュドラの民を憎んでいるわけではなかった。

 セルヴァとマヒュドラは、シフォン=チェルが生まれるずっと前から、領土を巡って争い続けていたのである。


 マヒュドラに占領された町においては、セルヴァの民が奴隷として働かされている。また、戦においてはおたがいがおたがいの民を殺し合っている。そうしてセルヴァとマヒュドラは、数百年もの歳月をかけて、恨みと憎しみの歴史を紡いできたのだった。


 俺の弟は貴様らに殺されたのだと、鞭を打つ男がいた。

 わたしの娘はお前たちにさらわれたのだと唾を吐きかけてくる女もいた。

 シフォン=チェルは、たびたび聞かされる罵倒の言葉から、まずは西の言葉を覚えていくことになった。最初に覚えた言葉は、おそらく「野蛮人」であったろうと思う。


 シフォン=チェルは、もともと西の民に憎悪の念などを抱いてはいなかった。

 チェルの家があった集落は平和であり、あの災厄の日がやってくるまでは、一度として西の民の姿を見ることもなかったのである。


 だが、シフォン=チェルの同胞がセルヴァとの争いに加わっていないわけではなかった。

 シフォン=チェルの父親たちも、セルヴァの民を何人となく殺めていた。ターレスの山を下りて、セルヴァの町や集落を襲い、そこでしか手に入らない珍しい肉や野菜を山ほど持ち帰って、シフォン=チェルたちにも食べさせてくれていたのである。それを奪うためにどれほどの血が流されたか、まだ幼かったシフォン=チェルにはそれが想像できていなかっただけの話であった。


 その代償として、シフォン=チェルの同胞はセルヴァの兵たちに殺められることになったのだ。

 憎しみの連鎖というのは、こうして際限なく紡がれていくものなのかもしれない。その救い難い事実を思い知らされたとき、シフォン=チェルは親を殺されたときと同じぐらい恐ろしく、そして悲しい気持ちにとらわれることになった。


 ともあれ、シフォン=チェルはその地で8年間を過ごすことになった。

 8年も経てば、シフォン=チェルは18歳、エレオ=チェルは20歳。どちらももう、立派な大人である。

 だが、粗末な食事しか与えられていないために、奴隷たちはみんな痩せこけていた。特に男衆などは、本来あるべきマヒュドラの戦士の半分ぐらいしか肉がついていないように思われた。


 8年という歳月が、猛き北の民から力を奪ってしまったのだ。

 それは肉体ばかりの話ではない。幼い頃から鞭で打たれ続けた奴隷たちは、西の民よりも生気に乏しく、老いた動物のように弱々しかった。


 希望のない生というのは、肉体よりもまず精神を蝕むのだ。

 大いなる北方神は、どうしてその子たる自分たちにこのような苦難を与えるのか。最初の数年はその怒りに蝕まれ、怒る力も尽きてしまうと、あとは生ける屍のように働くことしかできなかった。


 そんな生活に突如として終止符が打たれたのは、いったい如何なる理由であったのか、それもシフォン=チェルたちには知るすべもなかった。ただ、ある日突然、その地で働かされていた奴隷の全員が荷車に詰め込まれて、別の地へと運ばれることになったのだ。


 おそらくは、シフォン=チェルたちを使っていた領主が没落したのだろう。特に近辺でマヒュドラとの争いが勃発した気配はなかったので、まったく異なる理由から、身分や財産を失うことになったに違いない。

 それでシフォン=チェルたちは、別の地の領主に売られることになった。

 その頃にはシフォン=チェルも多少は西の言葉をあやつることができるようになっていたので、兵士たちの立ち話からも、そんなような内容の言葉を盗み聞くことができた。


 そうしてシフォン=チェルたちは、このジェノスの町に――正確に言えば、トゥラン伯爵の領地にと連れてこられたのである。

 その道行きは、ずいぶん長かった。ひと月ぐらいは荷車に揺られていたように思う。


 そして、道を進むごとにどんどんと気温は高くなっていき、半月も過ぎた頃には毛皮の装束すら不要になるぐらいであった。

 日差しは強く、じりじりと肌を焼いてくる。世界は明るい光に包まれ、地面や木々さえもが色合いを変じているようであった。


『セルヴァには、このように豊かな領土が広がっていたのね』


 同じ荷車に揺られていた女は、虚ろな声でそのように述べていた。


『それなのに、どうしてセルヴァの民は氷雪に閉ざされたマヒュドラの領土までをも脅かそうとするのかしら……セルヴァの民というのは、どこまで貪欲なの……?』


 荷車の小さな窓から同じ光景を眺めつつ、シフォン=チェルには返す言葉を見つけることができなかった。

 セルヴァの軍はシフォン=チェルの故郷を跡形もなく燃やしつくして、そこを占拠しようとはしなかった。だから、相手の領土を奪おうとしているのはマヒュドラのほうで、セルヴァはそれに抗っているだけのように思える。


 しかしその反面、セルヴァだけがこのように肥沃な地を独占している理由もわからない。もしかしたら、もともとはマヒュドラの土地であったものを、太古の昔にセルヴァが奪ったのかもしれないのだ。


 セルヴァとマヒュドラはいつから争っていたのか。争う前には、おたがいに平和な暮らしを営んでいたのか。いったいどういうきっかけで領土を奪い合うことになり、正義はどちらの側にあるのか――そのようなことが、シフォン=チェルなどにわかるはずもない。そのようなことがわかるのは、人間たちの営みを遥かな高みから眺めている神々だけなのだろうとシフォン=チェルは考えるようになっていた。


 そうしてひと月ばかりの時間が過ぎ去り、シフォン=チェルたちはトゥラン領に到着した。

 荷車から下ろされると、そこに待ちかまえていたのは白い甲冑を着たトゥランの兵士たちであった。


「お前たちは、今日からこの地で働くことになる。十分な働きを見せることができれば、鞭で打たれることもない。また、脱走を企てた者はその場で斬首に処されることとなるぞ」


 その場に居並んだ同胞たちは、無言でその言葉を聞いていた。

 捕らわれてからもうすでに8年もが経過していたので、幼子などと呼べるような人間はいない。また、20歳を超える女衆は別の地へと売られていったので、そこに残されたのは少数の若い娘と、さまざまな年齢の男衆ばかりであった。


「……この中で、西の言葉をあやつれる者はいるか?」


 やがて、兵士の長と思しき男がそのように述べたてた。


「西の言葉をあやつれる者には、我々の言葉を仲間たちに伝える役目を担ってもらう。その役目を果たせば、他の者よりも上等な食事と寝床を与えられることになるぞ」


 10名ほどの人間が、しかたなしに名乗りをあげることになった。

 上等な食事や寝床などというものが本当に与えられると期待したわけではない。ただ、虚言を吐いたら後で鞭を打たれるのだろうなと思ったまでだ。

 シフォン=チェルと兄のエレオ=チェルも、その中には含まれていた。


「よし。それでは、わたしがさきほど述べた言葉を全員に伝えろ。そして、怠けた人間は食事を抜かれることもあるので、懸命に励むがいい、ともな」


 そうしてトゥラン領における新たな生活が始まった。

 仕事はやはり、畑仕事であった。

 この地で収穫できる、フワノとママリアというものを育てる仕事だ。夜が明けてから日が沈むまで、奴隷たちはまた一日中、動物のように働かされることになった。


 だが、これまでに比べれば、生活はうんと楽になったように思える。

 日中の暑さは耐え難いものがあったが、その代わり、夜に凍えることはなくなった。食事も一日に二度は与えられ、やっぱりそのほとんどは粗末なポイタン汁であったが、肉や野菜の量は格段に増えていた。また、西の言葉をあやつれる者は、最初に告げられた言葉の通り、ときおりは焼いたフワノや香草のきいたキミュスの肉を食べることが許された。


 それに、どのような者であれ、とにかく食事は腹いっぱいになるまで口にすることができた。この地の領主は、奴隷が飢えや病気で死ぬことを「損」と考えているようで、とにかく食事の量だけは決して惜しもうとはしなかったのだった。


 そうなると、もとは頑健なるマヒュドラの民である。男衆などは見る見る身体が大きくなってきて、身長までもがのびたように感じられた。すでに18歳であったシフォン=チェルも、そこでようやく月のものを得ることになった。


 さらに、特筆することがある。

 この地に来てからは、革鞭で打たれることがほとんどなくなっていたのだ。

 以前の屋敷では、些細な失敗でも鞭を打たれていた。いや、失敗をしなくても鞭を打たれ、罵倒されていた。北の民を憎む彼らにとって、鞭をふるうのに特別な理由など必要なかったのである。


 しかし、この地の西の民たちは、めったなことで鞭をふるうことはなかった。

 脱走を企てた者は容赦なく処断されたが、それ以外では暴力を受けることも罵倒されることもなかった。


 そもそも彼らには、北の民を憎むという気持ちがないようにさえ思えた。

 北の民を蔑んだり、あるいは恐れたりはしているように思える。しかし、そこに憎しみや恨みや怒りの感情を見て取ることはできなかった。どうやらこのジェノスの町に住む人間たちは、マヒュドラの民と剣を交わしたこともないので、憎しみや恨みを抱く理由がないようであった。


『だからといって、決して上等な主人というわけではないわ。わたしが以前に働かされていた町では、北の民ももっと人間らしく扱われていたもの』


 そのように述べていたのは、別の領地から買われてきた女衆であった。

 彼女が以前に働かされていた地においては、仕事のできる奴隷には銅貨が与えられ、同じ北の民を伴侶として娶ることさえ許されていたというのだ。

 シフォン=チェルにとって、それは想像し難い話であった。


『この地は逆に、マヒュドラから離れすぎているために、奴隷の扱い方がわかっていないのよ。銅貨を与えれば頑張る人間はいるし、子を生すことさえ許されるのなら、この地で生きていこうと覚悟を固めることもできる。どうせ生まれた子供だって奴隷として使われることになるのだから、主人にとっても損にはならないはずでしょう? ここの主人には、そういう当たり前のことがちっともわかっていないのだわ』


 そういう不満を持つ者は、他にもちらほら存在するようだった。

 よって、脱走を企てるのもそういう者たちばかりであり、シフォン=チェルと故郷を同じくする者たちは、みんな大人しく新しい生活を受け入れていた。


 シフォン=チェルたちは、もっと劣悪な環境で働かされていたのだ。

 ここで生きることをあきらめなければ、もっと上等な主人に買われることもあるかもしれない。あるいは、また以前のように過酷な生を与えられるかもしれない。脱走をするならば、そうして今よりも事態が悪くなってからでも遅くはないのではないか――そんなような思いにとらわれることになったのである。


 そうして半年ほどが経過したとき、変転の日がやってきた。

 見覚えのない顔をした武官がやってきて、奴隷たちを畑の前に並ばせたのだ。


「このたび、領主様が側仕えの奴隷を所望されることになった。この中で、もっとも西の言葉をたくみにあやつれる者を3名、領主様のもとに連れていくこととする」


 選ばれたのは、シフォン=チェルを含める2名の女衆と、1名の男衆であった。

 エレオ=チェルも名乗りをあげたが、それはあえなく却下された。


 シフォン=チェルが兄の姿を見たのは、それが最後である。

 もともと寝所は男女で別に分けられていたし、仕事の最中は口をきくことも許されていなかったので、兄の存在を身近に感じられるのは二度の食事のときのみだった。そんなささやかな時間さえ、シフォン=チェルたちは奪われることになってしまったのだ。


 よって、城下町に召されることになっても、シフォン=チェルは空虚な気持ちしか得ることはできなかった。

 鎖を外され、身体を洗われ、故郷にいたときよりも上等な服を着させられても、その気持ちが変わることはなかった。


 そして、シフォン=チェルの思いは正しかったのだ。

 そこは決して、外界よりも幸福な場所ではありえなかったのである。


 シフォン=チェルたちが任されたのは、立派な石の屋敷における下働きであった。食事や荷物を運んだり、洗い物をしたり、客人の世話をしたり、というのが仕事の内容だ。


 農地で働くよりは、よほど安楽な仕事であった。

 しかし、その場には西の民しかいない。ときおり東や南の民が訪れることはあったが、北の民が招かれることなどはありえない。そして、同じ下働きの身である2名とは別の場所で働かされていたので、これまでで一番の孤独感を味わわされることになったのだった。


 屋敷の主人は、トゥラン伯爵家の当主、サイクレウスという薄気味悪い小男である。

 この男もまた、北の民を憎んだりはしていなかった。しかし、奴隷を監督する兵士たちよりもいっそう強く北の民を蔑んでおり、まるで野の獣でも見るような目でシフォン=チェルたちを見ていた。


 そんなサイクレウスがわざわざ北の民に側仕えを命じたのは、ほんの気まぐれであったのだろう。彼の屋敷を訪れる客人たちはシフォン=チェルの姿に驚きつつ、面白がっていた。特に南の民などは、遠く離れたマヒュドラの人間と顔をあわせる機会もなかったので、心底から物珍しがっているように感じられた。


 そして考えられるのはもうひとつ、サイクレウスが北の民を人間扱いしていなかったゆえである。

 シフォン=チェルたちは普段の雑用とは別に、「毒見」という仕事も与えられることになったのだ。


 おそらくサイクレウスという人間は、他者というものをまったく信用していなかったのだろう。

 それでいて、彼は外部からひっきりなしに高名な料理人というものを招き入れていたので、毒見をさせずにはその料理を楽しむこともかなわなかったのだ。


 北の民ならば、毒に当たって生命を落とすことになってもかまわない。それが、シフォン=チェルたちを側仕えにした最大の理由であるようだった。


 だが、それを除けばサイクレウスというのも、決して悪い主人ではなかった。

 ともかく彼は北の民を人間扱いしていなかったので、興味も関心も抱いてはいなかったのだ。そもそもサイクレウスとは直接顔をあわせる機会もほとんどなかったので、どれほど蔑まれていても何か害になることはなかった。


 だから問題は、もうひとりの主人のほうにあった。

 シルエルという名を持つ、サイクレウスの弟である。

 護民兵団というものの長であったその人物は、サイクレウスよりも残虐で、悪い主人であった。そちらともそれほど顔をあわせる機会はなかったのだが、彼には何回か鞭で打たれることになった。


 シフォン=チェルは、べつだん失敗を犯したりもしていなかった。

 そしてシルエルという人間も、北の民を特別に憎んでいる様子はなかった。

 そうであるにも拘わらず、彼はシフォン=チェルを鞭で打ったのだ。

 それは単なる憂さ晴らしであり、癇癪を起こした子供が皿を投げたりするのと同じような行為であるように思えた。


 だが、シルエルは子供ではない。西の民にしてはそれなりに立派な体格をした、壮年の男だ。武官の長であるのだから、力が弱いこともない。彼に鞭で打たれると、半日ぐらいはまともに動くこともできなくなってしまった。


 しかしまた、そのていどの被害で済んだのは僥倖であったのだ。

 シフォン=チェルを除く二名の男女は、一年と経たずしてシルエルに責め殺されることになってしまったのである。


 こまかな理由を聞かされることはなかったが、とにかくシルエルの前で失敗をしたり、不興を買うようなことをしでかしてしまったらしい。それでも脱走を企てるような真似をしたわけではないはずであったのに、シルエルによって神に魂を返すことになってしまったのだった。


 それでサイクレウスは、珍しく弟を叱責したのだと聞く。

 客人たちにマヒュドラの奴隷たちは面白がられていたし、また、貴族の館で働かせるためにはさまざまな手ほどきをする必要があった。また新しい奴隷をしつけるのにはたいそうな手間がかかってしまうのだから、自重すべし――と、そのように述べていたらしい。


 それでシフォン=チェルは、救われることになった。

 サイクレウスの配慮でシルエルと顔をあわせる機会はより少なくなり、鞭で打たれることもなくなった。


 だが、生命を落としたふたりの代わりに、新たな奴隷が呼びつけられることもなかった。それまでは当番制であった毒見の仕事についても、毎回シフォン=チェルが受け持つことになった。

 そうしてシフォン=チェルは、完全に孤独になってしまったのだ。


 それ以降、シフォン=チェルは一度として北の民の姿を見たことがない。

 石の塀に囲まれた石の屋敷の中で、シフォン=チェルはただひとりの北の民であった。


 赤く日に焼けていた肌はどんどんと白くなっていき、筋肉が落ちた代わりに脂肪がついた。鏡と呼ばれる不思議な道具の前に立つと、そこに映るのはかつての母親とそっくりの美しい姿であった。


 だが、それでシフォン=チェルの気持ちが浮きたつことはなかった。

 最悪な環境からトゥランに居場所を移されて、少しずつ人間らしい情感を取り戻しつつあったのに、それがまた冷えて固まっていくのを強く感じた。


 客人に失礼がないように、と優雅な立ち居振る舞いを覚えさせられ、楽しくもないのに笑う訓練までさせられて、傍目には何不自由なく生きているようにさえ見えるのかもしれないが……シフォン=チェルの心は、夜明け前の川面のように凍てついていた。その下にどのようなうねりが隠されているのか、自分自身にもわからなくなるほどであった。


 そうして5年もの月日が流れ――シフォン=チェルは、やっぱり石の壁の中で過ごしている。

 この数ヶ月で大きく情勢は変化したが、その一点だけは変わりがなかった。


 今のシフォン=チェルの主人はサイクレウスではなく、その娘であるリフレイアだ。

 サイクレウスとシルエルは、それぞれ罪人として裁かれることになった。

 サイクレウスは牢獄に閉じ込められ、シルエルはどこかの地で苦役の刑を課せられたのだと聞いている。

 奴隷を鞭で打っていたシルエルが、今度は自分が奴隷のように鞭を打たれて働かされているのである。


 トゥラン伯爵家は、突如として滅びを迎えることになったのだ。

 いまだその家名は残されているし、当主としてのリフレイアは健在であるが、もはやかつての栄華は見る影もない。立派な屋敷は侯爵家に没収され、リフレイアもまた虜囚のように自由を奪われている。その後見人として選ばれたトルストという人物があれこれ奔走している様子であるが、それで守られるのは家名のみであり、サイクレウスやシルエルやリフレイアの立場が変わるわけではないように思われた。


 シフォン=チェルは、再び主人を失うことになったのだ。

 しかし、新たな主人はリフレイアであり、5年前のようにシフォン=チェルの運命が大きく動くことはなかった。

 すべての小姓や侍女たちが遠ざけられた代わりに、シフォン=チェルはただひとりで主人の側に仕えることを命じられてしまったのである。


 これでトゥランの農地に戻されるかもしれない――あるいは、また別の地に売りつけられるのかもしれない――そういう予想は、ことごとく外れることになった。

 それが幸いであったのかどうか、シフォン=チェルにはわからない。

 ただシフォン=チェルの胸には、アスタから届けられた言葉だけがいつまでもぐるぐると渦巻いていた。


(エレオは、まだ生きている……5年前と同じように、トゥランの畑で働かされているのだわ……)


 それで自分は、何を思うべきなのか。この胸に宿った感情は喜びであるのか悲しみであるのか、それすらシフォン=チェルには判然としなかった。


 シフォン=チェルは、灰色の壁に囲まれて暮らしている。それと同じぐらい分厚い壁が、自分の心を覆っているかのようだった。

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