第六話 惰弱の徒
2016.10/13 更新分 1/1 ・2020.8/24 一部文章を修正
薄闇の垂れこめた部屋の中で、ディガははらはらと涙をこぼしていた。
その眼前には、弟が――いや、かつて弟であったドッドが横たわり、苦悶のうめき声をあげている。
ドムの集落の、ディガたちに当てがわれた分家の家の寝所である。
ドッドは今日の狩人の仕事で、深い手傷を負ってしまったのだ。
ドムの狩人たちとともに、ディガとドッドもギバを追っていた。最近はやたらと食事が美味になり、ディガとドッドもようやく腹がいっぱいになるまで食べることができるようになったので、痩せていた身体にも力が戻り、少しずつ狩りの仕事でも役に立てるようになってきていたのだ。
その矢先に訪れた、この凶事であった。
矢を射かけられて怒ったギバに突進され、ドッドは右足の付け根をえぐられてしまったのだった。
信じられないほど、血が噴きだした。
すぐに家長のディック=ドムが暴れるギバを仕留めてくれたが、ドッドはとうてい助からないように思えた。
しかし、ドッドは生きていた。
足の筋はやられていないし、骨にも問題はない。ただ、危険なぐらいに血が流れてしまったので、あとは本人がどれだけの力を持っているかだろう――手当てをしてくれたドムの女衆は、そのように述べていた。
ドッドは苦しげにあえぐばかりで、一度も目を開けようとしない。
ドッドに力が足りなければ、このまま魂を返すことになるのだ。
そのように考えると、ディガはどうしても涙をおさえることができなくなってしまうのだった。
べつだんドッドとは、仲のよい兄弟ではなかった。
正直なところ、深酒をしたときのドッドは誰よりも凶暴であったため、少し怖いぐらいであった。それを怖がらずにいられるのは、自分も同じぐらいの果実酒を口にしたときだけだった。
しかし、今のディガのそばにいるのは、このドッドだけだ。
他の家族とは引き離され、ドッドとも血の縁は絶たれてしまっている。それでも、恐ろしい狩人たちのひしめく北の集落において、手を取り合える相手はドッドしかいなかった。
それにドッドは果実酒を飲むことを禁じられていたために、ちっとも怖くなくなっていた。ひょっとしたら、自分よりも気弱なのではないかと思えるぐらいだった。
ディガはドッドの存在にすがっていたし、ドッドもディガの存在にすがってくれていた。ディガにはそれが嬉しくて、ドッドのことを昔よりずっと好きになっていた。血の縁を絶たれても、やっぱりドッドはディガの弟であり、今となってはかけがえのない存在になっていたのだった。
そんな性根が、こんな運命を招き寄せてしまったのだろうか。
血の縁を絶つことで、ディガたちは罪を許されたというのに、いつまでもおたがいの存在にすがっていた。その狩人らしからぬ脆弱さが、森の怒りに触れてしまったのだろうか。
わからなかったが、ディガは悲しくてたまらなかった。
どうしても、涙を止めることができなかった。
「ドッド……頼むから死なないでくれよお……俺をひとりぼっちにしないでくれよお……」
ディガはドッドの肩に手を置き、軽くゆさぶった。
とたんにドッドが激しくうめいたので、びくりとして手を離す。
ディガは嗚咽をこらえながら、ひたすら涙を流し続けた。
そのとき、戸板ががたごとと音をたてた。
誰かが表の閂を外そうとしているのだ。
多くの罪を重ねてきたディガたちは、もう革紐で縛られることはなくなっていたが、寝所だけは外から閂を掛けられて、勝手に動き回れないようにされていたのだった。
「待たせたな。そろそろ宴なので、お前も外に出ろ」
大柄な男衆が、そのようなことを述べたてながら寝所に入り込んでくる。
ギバの毛皮を頭からかぶった、ドムではなくザザの狩人である。まだ若いのにとても厳つい顔をしており、右眉のあたりに大きな古傷が刻まれている。
それはザザ家の本家の末弟、ゲオル=ザザであった。
齢は16歳の末弟であるが、長兄と次兄が若くして森に朽ちてしまったため、本家の跡取りと目されている男衆である。
その黒い火のような目でじろりとにらまれ、ディガは縮こまる。
ディガは、ザッツ=スンを思い出してしまうために、黒い瞳をした人間が苦手であった。ディック=ドムもファの家のアスタも、果てには妹であったツヴァイさえも、まともに目をあわせるのを躊躇うほどであった、
「何だお前、まさか、泣いていたのか?」
ゲオル=ザザに呆れたような声で言われて、ディガは慌てて目もとをこする。
涙と鼻水で、手の甲がべたべたになってしまった。
「まったく、どうしようもない柔弱さだな! お前が泣こうがわめこうが、そやつの運命は森に定められるのだ。ともかく、今宵は宴なのだから、表に出ろ」
「宴……? 宴っていったい……?」
「忘れたのか? ジーンの次兄がギバを仕留めたので、一人前の狩人と認められたのだ。その祝いの宴が行われるのだと、ディック=ドムから伝えられているはずだぞ?」
確かに、その話は昨晩に聞かされていた。
また豪勢な料理をたらふく食べられるのではないかと、ドッドとふたりで楽しみにしていたのである。
そんなことを思い出すと、また涙がじんわりと浮かんできてしまった。
「だ、だけど、その宴はジーンの家で開かれるのだろう? その間、誰がドッドの面倒を見るんだ……?」
「何の面倒を見る必要もない。薬は与えたし、血も止めた。あとはそいつが自力で起き上がるのを待つばかりだ。誰がそばにいてもやることはなかろう」
「いや、だけど……」
「やかましいぞ、ろくでなしめ。お前はドム家の家人となったのだろうが? その眷族たるジーンの次兄の祝いを蔑ろにするつもりか?」
薄闇の中で、ゲオル=ザザの黒い目が燃えあがる。
それでもう、ディガは言い返すこともできなくなってしまった。
(ごめんよ、ドッド……なるべく早く戻ってくるから、絶対に死ぬんじゃないぞ……?)
ゲオル=ザザに急かされて、ディガはとぼとぼと家を出た。
すでに太陽は西の果てに半分がた隠されてしまっている。夕闇に包まれた森の中、ドム家の家人たちはジーン家に通じる小路を目指していそいそと足を動かしていた。
「うむ? ゲオル=ザザか?」
「おお、ディック=ドム。あまりに遅いから迎えに来たぞ。あとはお前たちがそろえば、いつでも宴を始められる状態だ」
「そうか。それはすまなかった」
ゲオル=ザザが頭つきの毛皮をかぶっているように、ディック=ドムもギバの頭骨や狩人の衣を纏ったままであった。北の集落の男衆は、宴でも狩人の装いのままであるのだ。
そして女衆は、宴衣装に身を包んでいる。それは他の氏族と同じように、町で買い求めたシムの薄物や飾り物などであったが、ギバの毛皮や骨などでも飾り物をこしらえているので、ディガにはまだまだ見慣れない姿であった。
そもそも狩人の祝いというのも、北の集落独自のものだ。少なくとも、スンの集落でそのような宴は開かれていなかった。
北の集落の狩人は、野を駆けるギバを自力で仕留めて、初めて一人前とされるらしい。ディガやドッドのように罠に掛かったギバを仕留めるだけでは、まだまだ半人前という扱いであるのだ。
それで、狩人が一人前となった際には、こうして宴が開かれる。宴の大きさはその狩人の家や身分によって異なるようであるが、本日はジーン本家の次兄の祝いということで、北の集落の人間は全員集められることになったのだった。
「それに今日は、絆を深めるために眷族の長たちも呼びつけているからな。供には若い男か女を引き連れているはずだから、これで新しい婚儀でも決まれば、また宴だ」
歩きながら、ゲオル=ザザは豪放に笑っている。
その黒い瞳が、ふといぶかしそうにディック=ドムの横顔を見た。
「何だ、ずいぶんしみったれた顔をしているな。そんなにレム=ドムの身が心配なのか?」
「……ファの家の家長もついに傷が癒えてきたので、もうじきに約束の力比べを果たしてくれるはずなのだ」
「ふん。その女狩人とやらが噂の半分でも力を持っていれば、まともな修練を積んでいない女衆など片手でひねれるはずであろうが? もしもレム=ドムに遅れを取るようならば、そやつも狩人の衣を剥ぎ取って女衆にしてしまえばよいのだ」
笑いながら、ゲオル=ザザはディック=ドムの背中を叩く。
さすがにディック=ドムと比べればひと回りも小さいが、かたや16歳でかたや17歳なのだ。しかもディック=ドムはドム本家の家長であり、ゲオル=ザザは次代のザザ本家の家長である。森辺でも、これほど力にあふれた組み合わせというのはそうそうありえないはずであった。
「そういえば、お前はその女狩人に執心していたという話だったな、ディガよ」
と、ゲオル=ザザがやおらディガに向きなおってくる。
ディガはとっさに言葉が出なかったので、おずおずとうなずき返してみせた。
「それでお前は、ことごとくその女狩人に退けられていたのだろう? お前が相手では力量もはかれぬが、そやつは狩人の名に相応しい力を持ち合わせているのだろうな?」
「ああ、たぶん……並の狩人より弱いことはないと思うけど……」
「頼りない返事だな! どうなのだ、ディック=ドムよ?」
「そのような心配は不要だ。あのアイ=ファというファの家の女狩人は、何かとてつもない力を備えているように感じられる」
「ならば、お前こそ心配するのをやめるがいい! レム=ドムが無事に戻ってきたら、約束通り、俺が嫁にもらってやるさ!」
そのように述べてから、ゲオル=ザザはまたじろりとディガのことをにらみつけてきた。
「それにしても、お前はディック=ドム以上にしみったれた顔をしているな。最近になってようやくまともな面がまえになってきたと思っていたのに、これでは台無しだ」
「…………」
「お前は性根が腐っている。レム=ドムでも、お前のような腑抜けが相手であったら、力比べで負けることもないのだろうな」
そうしてゲオル=ザザはふいに足を止め、地面から太い棒切れを拾い上げた。
「おい、そっちの端を握って、この棒切れを俺から奪い取ってみろ」
「え、ええ? いったい何だっていうんだよお……?」
「いいから、さっさとやれ。やらねば、その鼻をへし折ってやるぞ?」
ディガはしかたなく、言われた通りに棒切れを握った。
逆側の端は、ゲオル=ザザが両腕で握っている。おもいきり引っ張っても、その頑丈そうな身体はびくともしなかった。
「本気でやれ。俺に勝ったら、特別に今日だけは果実酒を飲むことを許してやるぞ?」
そんなものは、もうどのような味をしていたかも忘れてしまった。
それに、果実酒はドッドのほうがよっぽど好きであったのだ。そんなドッドを差し置いて、ディガだけ果実酒を味わう気持ちにはなれなかった。
しかし、本気でやらねば鼻を折られかねない。ゲオル=ザザは陽気な気性であったが、怒ると父親のグラフ=ザザにも負けないぐらい恐ろしいのだ。
ディガは、再びおもいきり棒切れを引っ張った。
一度では足りないので、緩急をつけて、何度も引っ張る。余裕の顔で立ちつくしていたゲオル=ザザも、それでようやく足を踏ん張ることになった。
ドム家の家人たちが、うろんげにしながらディガたちのかたわらをすり抜けていく。
全身に汗がにじむのを感じながら、なおもディガは力をこめた。
ゲオル=ザザの身体が、ぐらりとよろめく。
これなら、奪い取れるかもしれない――そのように思って、ディガがさらに力をこめようとしたとき、ふいにゲオル=ザザの両目が燃えあがった。
そうして獣のような咆哮を放つや、物凄い力で棒切れを引っ張ってくる。
ディガは棒切れと一緒に引っ張られ、前のめりに倒れ込むことになった。
「俺の勝ちだな。まったく、不甲斐ないやつだ」
棒切れを放り捨て、ゲオル=ザザがディガのもとに屈み込んでくる。
黒い瞳に間近から見つめられ、今度は冷や汗をかくことになった。
「ディガよ、お前に足りないのは、気迫だ。他にも足りないものは山ほどあるが、とにかくお前は心が弱すぎる。だからこんな力まかせの勝負でさえ、勝利することができないのだ」
「…………」
「身体の大きさなど、俺と変わらないぐらいではないか? ま、数年後には俺のほうが大きくなっているとしても、今ならば力の面でそこまで俺に劣ることはないはずだろう。だから、お前が一人前の狩人になるには、まずその腑抜けた性根を何とかするしかない、ということだ」
そうしてゲオル=ザザは、にやりと笑いつつ身を起こした。
「さて、余興はこれぐらいにしてジーンの家に向かうか。今日もディンやリッドの女衆が、眷族のために立派な食事を準備してくれているはずだぞ?」
◇
ゲオル=ザザの言う通り、ジーン家の前にはすでにすべての人間が集まっているようだった。
ザザとドムとジーンの人間すべてに、他の眷族の家長とお供が1名ずつ――そして、ディンとリッドから招かれた何名かのかまど番たちである。目算でも、60人は下らないようであった。
「全員、集まったようだな。それでは、ジーン家の次兄の狩人の祝いを開始する」
一族の長であり族長でもあるグラフ=ザザが、野太い声音でそのように述べたてた。
広場の真ん中には儀式の火が焚かれており、グラフ=ザザと2名の女衆がその前に立ちはだかっている。女衆の片方は狩人の衣を、もう片方の女衆は鞘に収められた大刀を携えていた。
「ジーンの次兄、前に出よ。お前の家族が、お前に新しき衣と刀を与えよう」
横幅の広い体格をした男衆が、のそりと儀式の火の前に進み出る。
その身に纏っているのは、ディガや他の氏族の男衆が纏うような、頭つきでない普通の狩人の衣だ。
ジーンの次兄は留め具を外し、その狩人の衣を女衆に引き渡した。
それを受け取った女衆は、新たな衣を次兄に纏いつける。
頭つきの、狩人の衣である。頭の部分にはギバの頭骨が土台に使われているため、兜をかぶるような格好になっている。そして、それは次兄自身がその手で仕留めたギバの頭骨と毛皮であるはずであった。
同じように、刀も新しいものに取り替えられる。
これで用済みとなった衣や刀は、また別の若衆が13歳になったときに与えられるのだ。
そうして次兄が新たな衣と刀を身につけると、眷族たちはいっせいに祝福の雄叫びをほとばしらせた。
男衆も女衆も、地鳴りのような声音で叫んでいる。
オーウ、オーウ、と独特の抑揚を持った、腹の底まで響きそうな雄叫びだ。
北の集落のこの習わしが、ディガはいまだに恐ろしかった。
他の眷族の家長やかまど番たちも、いくぶん怯んだ様子で北の一族の様子をうかがっている。
「我々は新たな狩人を得た! 同胞よ、母なる森に感謝の念を捧げつつ、ギバの肉で腹を満たすがいい!」
その雄叫びに負けぬ声でグラフ=ザザががなりたて、果実酒の土瓶を振り上げた。
宴の始まりである。
ゲオル=ザザやディック=ドムはさっさと輪の中心に向かってしまったため、ディガはぽつんと取り残されることになった。
他の者たちも、ディガなどには何の関心も寄せようとはしない。おそらくディガとドッドはジーンの次兄のように一人前の狩人と認められない限り、同胞としても認められないのであろう。こんなにでかい図体をして半人前の狩人である男衆など、北の集落においては価値のない存在であるのだ。
(こいつらだって、ちょっと前まではみんなスン家の眷族だったのになあ……)
ディガは隅っこに引っ込んで、同胞ならぬ同胞たちが宴を繰り広げるさまを遠く眺めた。
ザザもドムもジーンも――そして、リッドもディンも、ハヴィラもダナも、それらはみんなスンを中心に寄り集まった眷族であったのだった。
その中心であったスン家が縁を切られてしまったのだから、このいくつかは血の縁も持ってはいないはずだ。ついこの間、ジーンとリッドが血の縁を繋いだが、ディンなどはきっとスン以外のどの氏族とも縁を交わしていないはずである。北寄りに集落のあるハヴィラやダナだって、リッドやディンとはほとんど交流がなかったはずであった。
(だけどこれからは、スン家を抜きにして血の縁を重ねていくんだろうな……その真ん中に集落をかまえている、スンの分家の連中はほったらかしにしてさ……)
そして、スンの分家の人々にそのような運命をもたらしたのは、他ならぬディガたちであったのだ。
ディガは深々と息をつきながら、木の根もとにへたり込んだ。
中天に干し肉をかじって以来、何も口にしていないので、胃袋がねじ切れそうなぐらいに腹は空いている。
しかし、ドッドもいないのにひとりであの輝かしい場所に踏み込んでいく勇気を振り絞ることはできなかった。
(ちぇっ。こんなときにレム=ドムがいたら、俺たちを馬鹿にしながらも手を引っ張ってくれたのになあ……)
そして、ドッドのことを思うと、また涙がにじんできてしまう。
頼りなくて、情けなくて、ディガはこのままドッドのもとに逃げ帰ってしまいたかった。
「あの……身体のお加減でも悪いのですか……?」
と、気弱げな娘の声が頭上から投げかけられてくる。
顔をあげると、ひとりの女衆が木皿を手に立ちつくしていた。
いや、女衆というか、幼い小娘だ。それでも10歳は越えているらしく、きちんと上下で分かれた女衆の装束を纏っている。あまり豊かな氏族ではないのか、薄物を羽織っているばかりで、あとは木の実や花で作られた飾り物が申し訳ていどにその身を飾っていた。
「何だ、お前は……? 眷族の女衆か?」
「はい。ディン家のトゥール=ディンと申します。……あの、わたしのことを覚えてはおられませんか……?」
「……トゥール=ディン?」
そんなに長くもない髪をふたつに結った、なかなか可愛らしい娘である。いささか気弱げな面立ちではあるものの、もう何年かすれば美しい女衆に成長することだろう。
「何か聞き覚えはあるような気はするけど、誰だっけ……? どこかで顔をあわせているのか……?」
「はい。わたしは――かつてスン家の分家の人間でした。あの滅びの夜を境に、母の生まれであったディン家に引き取られたのです」
「ぶ、分家の人間?」
ディガはこっそり生唾を呑みくだした。
「そ、そんなやつが俺に何の用だよ……? 恨み言でもぶつけに来たのか……?」
「いえ、そのようなつもりはありませんでしたが」
トゥール=ディンは、困ったように口もとをほころばせた。
そうすると、彼女はいっそう可愛らしくなった。小さな花のような、可憐なたたずまいである。
「ただ、ちょっとあなたとお話がしたくて……よかったら、こちらをお召し上がりになりませんか? ギバの臓物とタラパを使った汁物料理です」
まだ熱そうに湯気をたてている木皿が鼻先に突きつけられる。
そのタラパの酸っぱそうな香りを嗅いでいるだけで、ディガの腹は盛大に鳴いてしまった。
トゥール=ディンはまた笑い、ディガは顔を赤くしながら木皿を受け取る。
「お、俺に話って何なんだよ? 恨み言を言う他に、俺に用事なんてないはずだろ?」
「それはちょっと込み入った話ですので、よかったらその前に召し上がってください」
トゥール=ディンは、ほどよい距離を空けてディガの横に腰を下ろした。
まったくわけもわからないまま、ディガは木匙で煮汁をすすり込む。
とたんに、鮮烈な味が舌の上で跳ね上がった。
タラパだけではない、さまざまな野菜やさまざまな香草が使われた、刺激的な味である。
「ああ、こいつはジーンとリッドの婚儀の宴でも出されていた料理だな! こいつは、お前が作ったものなのか?」
「は、はい。わたしが作り方を手ほどきして、北の女衆と一緒に作りあげました」
「すげえなあ。最近ではドムの家でもめっぽう美味い料理を食べさせてもらっていたんだけど、やっぱりこいつとは比べ物にならねえよ」
「ええ、つい最近までルウやルティムの女衆が北の集落に留まっていたのですよね。……それと比べて、見劣りするようなことはなかったでしょうか……?」
「見劣りなんてするわけがねえよ。宴のときの料理でも、俺はこいつが一番好きだったんだ」
あとはもう、夢中になって木皿の中身をかき込んだ。
ギバの臓物と言っていたが、くにゅくにゅした内臓ばかりでなく、普通の肉のようにしっかりとしたものも入れられている。それがまた辛くて酸っぱい煮汁ととても合っており、涙がこぼれそうなほど美味かった。
「本当に美味いなあ。婚儀の宴のときよりもっと美味く感じちまう……いや、それどころか、ずっと前にルウの集落で食べさせられた料理に負けないぐらい美味いや」
「まあ。それはさすがに言いすぎです。あれはアスタやルウ家の女衆が作りあげた料理なのですよ?」
そのように述べながらも、トゥール=ディンはとても嬉しそうな顔をしていた。
何だか見ているディガの胸が痛くなるほど、それはあどけない笑顔であった。
「……お前、スン家の人間だったくせに、そんな顔で笑えるんだな」
「え?」
「スンの集落にいたときは、分家の人間なんてみんな死人みたいな目つきをしてたじゃねえか? 俺たちが無理やりスン家の掟を守らせていたせいでさ」
トゥール=ディンの笑顔が、少し切なげなものに変化した。
だけど、やっぱりまだ笑っている。
「本家の過ちを正せなかったのは、分家の人間の罪だったのでしょう。その罪を贖えるように、わたしは正しく生きていこうと努めています」
「ふん。分家の人間が本家の人間に逆らえるわけねえじゃねえか? 逆らえば、どんなひでえ目にあわされるかもわからなかったんだからな」
弱きことは罪である。スン家の人間は強くあり、弱き者たちを支配せねばならない――それがザッツ=スンの定めたスン家の掟であった。
だからディガやドッドたちも自分の弱さを虚勢で覆い隠し、支配者たろうと振る舞っていたのだった。
弱ければ、ザッツ=スンに見捨てられてしまうかもしれない。その先に待ち受けるのは、絶望と破滅だけだ。ゆえに、ディガたちは強者のふりをして、他の人間たち――力を持たない分家や眷族や余所の氏族の人間たちに、絶望と破滅をなすりつけていたのである。
何だかディガは、消え入りたいような心地であった。
自分やドッドはまだかつての罪を贖いきれず、こんな浅ましい姿をさらしているというのに、いわれのない絶望をなすりつけられていたトゥール=ディンが、このように清らかな姿で微笑んでいる。まるで美しい花を地べたから見上げる毒虫にでもなったような気分であった。
しかもディガは、トゥール=ディンのほっそりとした肩がこまかく震えていることにも気づいてしまった。
トゥール=ディンは、内心の不安や動揺を必死に抑え込みながら、こうして微笑んでいるのである。
スンの分家の人間であったなら、それが当然のことであった。
ディガはトゥール=ディンのことなど見覚えていなかったが、分家の人間が本家の人間を忘れることはありえない。特にディガやドッドはかつてのザッツ=スンやミギィ=スンと同じぐらい粗暴にふるまっていたので、分家の幼子であればその恐怖心が骨の髄まで叩き込まれているはずであった。
かつてディガたちがミギィ=スンたちを恐れていたように、分家の人々はディガたちを恐れていたはずなのだ。
いくら血の縁を絶たれたって、その恨みや恐怖が簡単に消えることはないだろう。
それなのに、トゥール=ディンはこうしてディガに微笑みかけてくれている。
その事実が、いっそうディガを情けない気持ちにさせるのだった。
「それっぽっちでは足りませんよね? 何かもっと食べごたえのある肉の料理でも持ってきましょうか?」
そんなディガの内心も知らず、トゥール=ディンが微笑みかけてくる。
「もういいよ……」とディガは弱々しく首を振ってみせた。
「俺のことは放っておいてくれ……あんなにたくさん眷族がいるんだから、お前もあっちで楽しんでくればいいだろう? 俺なんかにかまっていたって、ろくなことにはなりゃしねえよ……」
「いえ、ですが、わたしはあなたと話があってやってきたのです」
腰を浮かせかけていたトゥール=ディンが、あらたまった調子で言葉を重ねる。
「ところで、次兄の……いえ、かつて次兄であったドッドはどこにいらっしゃるのですか? さきほどから姿が見えないようですが……」
「ドッドは、怪我をしちまったんだ」
鼻の奥が、つんと痛くなる。
「ギバの牙で足のところをえぐられちまって、このまま死んじまうかもしれない……あいつは今もひとりで、苦しそうにうんうんうなってるんだよ……」
「そうだったのですか……」
気の毒そうに、トゥール=ディンがつぶやく。
その声があまりに優しげであったため、ディガはついに涙をこぼしてしまった。
「もういいから、俺たちのことは放っておいてくれ。せっかくまともに生きていけるようになったんだから、俺たちなんかにかまっちゃいけねえんだよ……俺たちはやっぱり、ろくでなしのまま森に朽ちる運命だったんだ……」
「でも、グラフ=ザザやディック=ドムは、そのようには言っていませんでした」
真剣な声で言い、トゥール=ディンが身を乗り出してくる。
「ディガもドッドも、ようやく狩人らしい面がまえになってきた。もうしばらくすれば、狩人の衣を与えることができるだろう、と……あなたの家長や族長たちが、そのように言ってくれていたのですよ?」
「だけど、俺はひとりじゃなんにもできねえよ。ドッドが死んじまったら、俺もおしまいだ」
「ドッドのことが、心配なのですね。でも、きっと大丈夫です。母なる森が見守ってくれています」
ぐしぐしと鼻水をすすりながら、ディガはトゥール=ディンの顔を見返した。
しかし、その優しげな顔を見ていると、余計に泣けてきてしまった。
「わたしたちにできるのは、森に祈ることだけです。ドッドが試練に打ち勝って、また狩人としての仕事に励めるように、祈りましょう。スンの本家であったあなたたちは、とても強い力を持っているのですから、きっと大丈夫です」
「全然大丈夫じゃねえよ……俺とドッドなんて、虫けらみてえなもんじゃねえか……」
「そんなことはありません。ヤミル=レイも、ミダも、ツヴァイも、オウラもみんな、その強き魂で苦難を退けているのです。あなたたちだって、大丈夫なはずです」
ディガは顔面をぐしゃぐしゃにしながら身を乗り出した。
「あ、あいつらみんな、元気にやってるのか? ミダなんて、馬鹿力なだけで何の役にも立ちゃしねえのに……」
「ミダは、ルウ家の力比べで8名の勇者に選ばれました。それも、2回連続です」
トゥール=ディンは、とてつもなく優しい顔でまた微笑んでくれた。
「ヤミル=レイとツヴァイは、宿場町で屋台の仕事を手伝っています。オウラはずっとルティムの集落なので、あまりわたしは顔をあわせる機会はないのですが、この前の宴ではとても元気そうな様子でした」
「そうか……みんなはきちんと、罪を贖えてるんだな……」
「あなたたちもですよ。そしてズーロ=スンも……セルヴァのどこかで、罪を贖っているのでしょう」
遠い目つきになりながら、トゥール=ディンはそのように述べた。
「そして、わたしたちも……眷族に引き取られたわたしや父のような人間も、集落に居残った分家の人々も、みんな懸命に生きています。今日、この北の集落にやってくる道すがら、わたしはスンの集落に立ち寄ることが許されたのです。何人かの男衆は森に魂を返してしまいましたが、みんなみんな懸命に生きて、自分たちの罪を贖おうとしています」
「分家の連中も……そうなのか……」
「はい。だから、わたしたちは大丈夫です。母なる森は、正しく生きようと願う子らを見捨てたりはしないのです」
まるで彼女自身が森そのものであるかのように、トゥール=ディンの表情は慈愛に満ちみちていた。
そのやわらかい光をたたえた青い瞳が、包み込むようにディガを見つめている。
「わたしはそのことを、あなたとドッドに伝えたかったのです。あなたたちは血の縁を絶たれてしまいましたが、かつての家族たちがどのように過ごしているかを知ることは、きっと励みになると思い、それを伝えることをグラフ=ザザに許してもらったのです」
「グラフ=ザザに、お前がそんなことを頼み込んだってのか……?」
「はい。怖くて足の震えが止まりませんでしたが、何とか許していただくことはかないました」
恥ずかしそうに、トゥール=ディンが微笑む。
ディガは、派手な音をたてて鼻水をすすり込んだ。
「やっぱり俺は情けねえよ……お前みたいな小さな娘でも、そんな立派に生きてるってのに……」
「あなたはきっと、ドッドが手傷を負ってしまったために気持ちが弱っているだけです。それに、お腹も空いているのではないですか? 人間は、お腹が空くといっそう気持ちも弱くなってしまうものなのです」
そう言って、トゥール=ディンは元気よく立ち上がった。
「他の料理を運んできましょう。それで元気が出たら、もっとドムでの生活について、聞かせてください。わたしもまだまだヤミル=レイたちについて、語ることがたくさんあるのです」
「待ってくれ。その前に……ドッドのところにも、料理を持っていってやりたいんだ」
ディガが述べると、トゥール=ディンは不思議そうに目を丸くした。
「ドッドは、食事ができるような状態なのですか? さきほど、生命も危ういと仰っていたようですが……」
「だからさ、こんなに美味そうな料理の匂いを嗅がせたら、目を覚ますかもしれねえだろ? あいつは俺と同じぐらい、食い意地が張ってるんだよ」
ディガは全身の気力をかき集めて、笑ってみせた。
トゥール=ディンは目を細め、母親のような表情でまた微笑む。
「それでは、料理を届けましょう。それで目を覚ましたら、ふたりでお話を聞かせてください」
「ああ、わかったよ」
ディガは萎えきっていた足に力を込めて立ち上がった。
トゥール=ディンは、ディン家の人間だ。ドム家の人間にとっては、血族である。
ディガやドッドも正しく生きて、ドムの氏を授かることができれば、このトゥール=ディンの血族なのだと胸を張って言うことができるのだ。
それが正しき人間の縁――森辺の民の絆であるはずだった。
「さあ、行きましょう。ギバ肉の香味焼きなんて、タラパのモツ鍋にも負けないぐらい素晴らしい香りなのですよ?」
ディガは手の甲で顔をぬぐい、トゥール=ディンとともに足を踏み出した。
光のあふれた広場では、名前もわからない大勢の人間たちが火花のように騒いでいたが、その光景ももう恐ろしいものではなくなっていた。