城下町の占星師(下)
2016.10/11 更新分 1/1
そうして六の刻に早めの軽食をとり、しばし身体を休めてから、アリシュナはあらためて応接の間に陣取った。
ここから日没までは、ジェノス侯爵に与えられた仕事に励む時間だ。
中天の鐘が鳴ると同時に、まずは見慣れた人物が侍女に導かれてやってきた。
「おひさしぶりです、アリシュナ殿。お忙しい中、時間を作っていただき、大変感謝しています」
それはバナーム侯爵家のウェルハイドであった。
彼もまだこのジェノスに留まったままであったのだ。
「おひさしぶりです。あなた、星読みに訪れる、初めてです」
「はい。このたびようやくバナームへと戻ることになったので、その出立の日に相応しい吉日を教えていただきたいのです」
彼は貴族でありながら、アリシュナなどに対しても礼儀正しくふるまおうとする珍しい若者であった。
ジェノスではあまり見ない黒髪の西の民で、目にも鮮やかな赤い装束に身を包んでいる。きっとバナームでは赤色が高貴の色と定められているのだろう。
「我々が出立するのは、翌月の金の月です。普通であれば旅の吉日とされているのは月の半ばの15日ですが、それよりも出立に相応しい日というものは存在するのでしょうか?」
「お待ちください」
アリシュナは懐から星読みのための術具を取り出した。
幼いギャマの頭骨である。
その頭蓋に走った黒い亀裂を指先でなぞりながら、この世ならぬ空間に目を凝らす。
「……バナーム、ジェノスから見て、北西の位置ですね?」
「はい。トトスを使えばわずか2日の距離ですが、やはり10年前のこともありますので、万全を期したいのです」
「……あなた、生まれた月、わかりますか? そして、年齢も必要です」
「年齢は19で、生まれたのはおそらく黒の月だったかと」
西の民は、自分の生まれた月すらもうろ覚えであるのだ。
しかし、このていどの運命を読み解くのには、それでもかまいはしなかった。
「15日、吉日です。それよりもよき星、巡るのは、金の月の10日から13日です」
「10日から13日……ということは、10日か11日に出立して、12日か13日に到着するのが最良、ということでしょうか?」
「いえ。あくまで、出立のための吉日です。その4日の内であれば、いつ出立しても、運命、変わりません」
そして何より、このウェルハイドという若者自身に、凶運の陰りは見られなかった。金の月の間に彼が大きな不幸に見舞われることはないようであるし、そんな彼が長をつとめる一団であれば、その旅にも心配は不要であろう。
「ありがとうございます。僕の父は10年前、そんな短い旅の間に生命を落とすことになってしまったので、最善を尽くしたいと考えていたのです。それに以前は、僕自身がトトスを毒虫にやられて、街道の真ん中で立ち往生してしまいましたしね」
「あなたの生まれ、黒の月、間違いなければ、凶運、訪れないでしょう。明るい道、開けています」
「そうですか」と微笑んでから、ウェルハイドはちょっと視線をさまよわせた。
他に何者かがひそんでいないかを探っている様子であるが、侍女は次の間に控えているので、この場には彼とアリシュナしか存在しないはずであった。
「それで、あの……僕個人もちょっとその、占ってほしいことがあるのですが……それをお頼みすることは可能ですか?」
「はい。難しい話、なければ」
「これは難しい話になるのかな……その、僕の伴侶になる人間についてなのですけれど……」
そのように述べながら、ウェルハイドは頬を赤く染めていった。
彼はジェノスの民よりも色の淡い肌をしているので、そういう変化も実に顕著である。
「はい。その相手、名前と年齢と生まれた月、わかりますか?」
「ああ、いえ、誰か特定の相手ではなく、僕はどのような人間を娶ることになるのか、それを占ってほしいのです」
それはどちらかというと、難しい部類の話であった。
しかし、どのみち生誕の日付も正しくはわかっていないのだから、こまかい星の動きを見て取れるわけもない。アリシュナは、さきほどつかんだ星の流れを、もう一度指先でなぞることにした。
「正しく読み取る、難しいですが……あなたの幸い、故郷にあります。バナームの人間、伴侶にする、もっとも幸いであるようです」
「ああ、やっぱりそうですか……」
ウェルハイドは、ほろ苦い表情で微笑した。
「そんなような気はしていたのです。僕はやっぱり、このジェノスで出会った人と結ばれる運命にはないのでしょうね」
「はい。あなたが黒の月、生まれているならば」
「わかりました。これで思い残すことなく、バナームに帰れそうです。もっとも、使節団の長として、これからもちょくちょく訪れることにはなるのでしょうが」
それはアリシュナには返事のしようのない言葉であったので、ただ目礼を返すに留めておいた。
ウェルハイドは何かを吹っ切るように頭を振り、立ち上がる。
「それでは失礼いたします。またどこかの晩餐会でお会いできるよう願っています、アリシュナ殿」
「はい。よき風、あなたに吹きますように」
それで最初の仕事は終了であった。
そののちに訪れた客人の何組かは、やはり出立の吉日をアリシュナに求めてきた。
この貴賓館に逗留している人間の大半は、ジェノスで復活祭を楽しむために訪れた客人たちであるのだ。なおかつ、その多くは商売の話も携えていたので、商いに関する相談事も何件かは持ち込まれることになった。
西の民は、それほど星読みというものを重んじていない。それでもやっぱり不安や迷いがあるときは、その道筋を何かに照らしてもらいたく思うものなのだろう。
幸いなことに、アリシュナが託宣を躊躇うような凶運を持つ人間はいなかった。商売に関しても、決定的な何かをアリシュナの言葉だけで決めようとするような人間はおらず、ただ、彼らはちょっとした気休めを求めているだけのように感じられた。
そんな中、いささかならず不吉な気配を纏った人物が現れたのは、何度かの休憩をはさんで、下りの四の刻を迎えた頃であった。
まだ若い、武官の白いお仕着せを纏った若者である。
レイリスと名乗ったその若者は、席に着くなり思い詰めた声で語り始めた。
「わたしの家は、とてつもない災厄に見舞われることになった。この災厄をわたしの力で退けることはかなうのか、その行く末を占っていただきたい」
「……年齢と生まれた月、お願いします」
「年齢は17歳。生まれた月は、青の月だ」
ウェルハイドよりもよほど大人びた面立ちで、西の民にしては背も高いほうであったが、彼はまだアリシュナと同じ年齢の少年であるようだった。
アリシュナは、いくぶん消耗してきた気持ちを引き締めなおしながら、ギャマの頭骨を撫でさする。
「とてつもない災厄……それは、あなたの父親、見舞われたのですね」
「ああ、そうだ」とレイリスは硬い声で応じてくる。
確かに彼の家は、運命の変転期を迎えているさなかであるようだった。
災厄や凶運ではない。ただ、大きな変転に見舞われて、おそらくは彼の父親が道を踏み外してしまったのだ。むしろこれは、彼の父親が自分の家と子供に災厄をもたらしたような星の動きであるようだった。
(彼の父親が道を間違えなければ、彼の生が乱されることもなかったのだ)
しかしまた、その変転はあまりに大きく、よほど強い星を持っていなければ避けようもなかったように思える。彼の父親の名前や生誕の日を聞かされていないので、確かなことは言えなかったが、きっとそれは訪れるべくして訪れた運命であったのだ。
彼の父親の没落を契機として、さまざまな星が大きく動いている。そして、そこから読み取れるのは、きわめて大きな吉兆だ。
世界は、正しく運行されている。
彼の父親の没落が、この美しい星の流れを生み出したのだ。
だが、迂闊にそのような言葉を口にすることはできなかった。
彼の父親は、弱き星であるゆえに道を間違った。そして、彼が間違うことによって、世界は強い輝きを得た。言ってみれば、彼の父親は運命の生贄にされたのだ。しかもその責は、本人の星の弱さにある。このように救いのない運命を読み解かれて、喜ぶ人間がいるとは思えなかった。
(でも……)
それは彼の父親の話であり、彼自身の運命ではない。
アリシュナは目を凝らして、レイリス自身の星の動きを辿った。
「……あなたの家、大きな変転の時期、あります。大変な苦難、訪れたことでしょう。……それを切り開くのは、あなたの星です」
「……それはどういう意味なのだろうか?」
「あなたの星、強き力、持っています。あなたの父親、屈した変転、乗り越える力、あるでしょう。あなた、父親と同じ過ち、繰り返さなければ、明るい道、開けるはずです」
「わたしの父が屈したものに、わたしは屈するなと……わたしに父と同じ過ちを繰り返すな、というのだな?」
若者は、強く瞳を輝かせながら、笑った。
「アリシュナと申されたか。あなたは、わたしがゲイマロスの息子であるということをわきまえていたのかな?」
「ゲイマロス?」
それはどこかで聞いたことのある名前であった。
「ああ、そうだ」と、レイリスなる若者はいっそう強い光を両目に宿す。
「あなたはその目でわたしの父が罪を犯す場面を見ていたのだろう? わたしはその日、別の町に使節として招かれていたので、あいにく居合わせることができなかったのだがな」
「それは……ひょっとして、森辺の狩人、剣技の試合、した話ですか?」
「ああ。それで森辺の民に姑息な罠を仕掛けてしまったのが、わたしの父ゲイマロスだよ。……それではあなたは、その事実を踏まえた上でさきほどのような託宣を下したわけではない、と言い張るつもりなのだな?」
むろん、彼があの森辺の狩人に打ち負かされた騎士の子息であるということなど、アリシュナには知るすべもないことであった。アリシュナは、あの騎士の顔相すら目にしていないのだ。
「まあいい。何にせよ、わたしは父のような罪は犯さない。相手の力がどれほど大きかろうとも、自分の力だけで森辺の狩人どもを退けてみせよう」
「……あなたの前、敵、ありません」
アリシュナは、同じ調子でそのように告げてみせた。
「変転の運命、立ちはだかっています。ですが、運命、敵、違います。執着、危険です」
かぼそい星のきらめきを、アリシュナは全身全霊でたぐり寄せた。
ここは力を出し惜しむべきではない、と直観的に悟ったのだ。
「あなた、重んずるべき、己の誇りです。向かい合う、敵ではなく、あなた自身です。執着の火、あなたの剣、鈍らせます。……あなた、誇り、胸に抱くべきです」
「誇りはいつでもこの胸に抱いているつもりだ。わたしはその誇りを守るために、強大なる敵と相対しようと誓ったのだからな」
「敵、ありません。あなた、自分の星、信ずるべきです。あなた……父より強き星、持っています」
言うか言わないかを迷った末に、アリシュナはその言葉を口にした。
レイリスは笑みを消し、しばらく何かを迷うように虚空をにらみつけた。
「……そうだな。あの者たちは、敵ではない。あくまで過ちを犯したのは父のほうなのだ。わたしは邪念なく、騎士として剣をふるうべきなのだろう」
「はい。怒りや恨み、あなたの力、削ぐでしょう」
「うむ。……それで、明るい道が開けるというのだな?」
「はい。あなた、正しくふるまえば、家の不運、消え去ります。そして、あなたの星、いっそうの輝きを得るでしょう」
「そうか」といったんまぶたを閉ざしてから、若者はやおら立ち上がった。
「わたしは星読みなどというものに重きは置いていなかった。ただ、母上が強くすすめるので断りきれず、この場におもむいてきたに過ぎぬのだ。……しかし存外、胸が軽くなったように思う」
「はい」
「星読みというものも、馬鹿にはできぬものなのだな。これでわたしが正しい道を見いだせたら、あらためて礼の言葉を届けさせてもらいたく思う」
「運命、切り開く、あなたの力です。礼の言葉、不要です」
若者は、さきほどよりも屈折していない笑みをその口もとに浮かべてから、部屋を出ていった。
アリシュナは息をつき、椅子の背もたれに身体を預ける。
が、再度の休憩を求める前に、次の客人が入ってきてしまった。
一転して、今度は可憐な容姿をした貴婦人である。
そして、それはアリシュナにとっても見知った人物であった。
「おひさしぶりです、アリシュナ。今日はお時間を作っていただいて、とても感謝しています」
外出用の清楚な身なりだが、それでも上等な絹や毛織物の装束を纏った、それは貴婦人のセランジュ姫であった。
何という家かは失念してしまったが、どこぞの子爵家の貴婦人である。彼女とは御前試合の行われた晩餐会と貴婦人の茶会で2度ほど顔をあわせていた。
「わたくしはもう、どうしたらいいのかわからなくなってしまって……シムの占星師として高名なあなたに、進むべき道を照らしていただきたいのです」
席につくなり、セランジュ姫は切々と語ってきた。
「……あの、この場での会話は秘密にしていただけるのですよね?」
「はい。秘密、絶対です」
「ありがとうございます。……実はわたくしは、とある殿方に懸想してしまったのです……」
そのように述べながら、セランジュ姫は白い頬をほんのりと染めた。
まあ、貴婦人がアリシュナのもとを訪れるのは、だいたいそういった悩みを抱えた際なのである。
「ですが、父上やサトゥラス伯はわたくしがそのような想いを抱くのは間違っているのだと言わんばかりに横槍を入れてきて……それはもちろんわたくしだって、自分がどういう立場に立っているかはわきまえているつもりです。子爵家の人間として生まれたからには、城下町の民ですらない平民と恋に落ちることなど許されないのでしょう」
「はい」
「それでもこの想いを押し留めることなど、わたくしにはまったくできそうにないのです。夜ごとに想いはつのるばかりで、いっそ子爵家の名を捨ててしまいたいぐらい……そうすれば、わたくしが誰に懸想をしたって、みんな文句は言えなくなるでしょう?」
「……生まれた月、年齢、お願いします」
「生まれた月は朱の月で、年齢は20歳です」
20歳で未婚の貴族というのは珍しいな、と心中でつぶやきながら、アリシュナはセランジュ姫の星を辿ってみた。
案の定というべきかどうか、そこには何の変革の兆しも見られない。
彼女はきっと、この地でつつましく幸福に生きていくだろう。身分違いの恋に身を投じ、その運命をくつがえすような変革の相は、どこを探っても見当たりはしなかった。
しかし、アリシュナは黙考する。
それをそのまま伝えても、彼女が納得しそうにないように思えたのだ。
きっと彼女は彼女なりに思い詰めているのだろう。彼女の父親やサトゥラス伯爵がそれを抑圧しようと試みたばかりに、よけいに気持ちが昂ぶっているのかもしれない。ここでアリシュナが否定的な見解を述べてみせても、それはかまどに薪をくべるような効果しか与えられそうになかった。
(そうすると、彼女の運命は大きくねじ曲がってしまうかもしれない……いや、彼女自身の運命は変わらないとしても、他の星に乱れが生じる。これは、そういう星の位置だ)
彼女自身は、無力な存在である。が、彼女は子爵家の令嬢だ。たとえば彼女がちょっとした家出を試みるだけで、城下町には小さからぬ騒乱が生まれてしまうだろう。
そしてアリシュナは、茶会や晩餐会における彼女の言動も思い出していた。
彼女が懸想している相手は、おそらくあのシムの民とよく似た空気を持つ森辺の狩人の少年であるのだ。
彼女が城下町を抜け出して、森辺の集落に押しかけることになったら、いったいどうなるか――ジェノスの貴族と森辺の民の間に、いらぬ亀裂が生み出されたりはしないだろうか?
(だけど私は、占星師だ。読み解いた運命を偽りの言葉で語ることは許されない)
ギャマの頭骨を撫でながら、アリシュナはひそかに煩悶した。
その末にひねり出した言葉を、考え考えセランジュ姫に届けることにする。
「……セランジュ姫、あなたの想い、とても強いです。燃えさかる火、似ています」
「はい……」
「大きな火、時として危険です。強き火、自分のみならず、他者の運命、燃やすことがあるからです」
もっとも、あの狩人の少年の星がセランジュ姫の星にかき消されることはないだろう。アリシュナは彼の星を読み解いたわけではなかったが、あの顔相からはとても強い力が見て取れたのだった。
だが、そのような言葉は語らない。虚偽は罪でも、隠匿は罪ではないのだ。むしろ、正しい星の運行をさまたげぬように言葉を選ぶのは、占星師にとって重要な役割なのである。
「あなたの行い、他者の運命、乱す危険があります。あなたの想い、あまりに大きすぎるのです」
おそらくそれで乱されるのは、彼女の父親やサトゥラス伯爵の運命だ。
大獅子の星に率いられた流星群のごとき森辺の民の運命は、ちょっとやそっとで乱されるようなものではなかったのだった。
むしろ、それらの星のうねりによって、セランジュ姫の周囲にある人間の運命が脅かされてしまうのではないか――と、アリシュナはそういう方面の危惧を抱かされていたのだった。
「想い、押し殺す、苦しいことでしょう。でも、あなたの涙、他者を救うのです。あなたの星、そのように告げています」
「まあ……」とセランジュ姫は自分の頬を両手で包み込んだ。
その茶色い瞳には、早くも涙が浮かび始めている。
「わたくしの想いの火が、あの方を燃やしつくしてしまうと……? ああ、そうですわね。貴族と平民が恋に落ちてしまったら、その結末は無残なものになると決まっています。アルフォン子爵家だって、それが原因で断絶されたようなものですもの……」
「…………」
「わたくしが耐え忍べば、あの方の運命は救われるのですね? ああ! 愛するひとのためにこそ、自分の気持ちを殺さなくてはならないなんて……どうしてセルヴァは、わたくしにこのような試練をお与えになったのでしょう?」
「……神の御心、人間、知るすべはありません」
アリシュナは厳粛に、そのように述べてみせた。
セランジュ姫は、どこか陶酔した眼差しであらぬ方向を見つめている。
「わかりました。耐え忍ぶことこそが、あの方を救うことになるというのなら……わたくしはどのように苦しくとも、耐えてみせましょう」
「はい」
「ありがとうございます、アリシュナ。あなたはわたくしの恩人です。今度は是非、わたくしの家の晩餐にお招きさせてください」
「はい。ありがとうございます」
セランジュ姫が部屋を出ていくのを見送ってから、アリシュナはがっくりとうなだれた。
ただでさえ精神を摩耗していたところで、今度は頭まで疲れてしまった。このような案件で頭を悩ませるのは本当に占星師の仕事なのかと疑わしくなるほどであった。
(だけどこれで彼女の父親やサトゥラス伯爵の星が脅かされることはないだろう。弱き星は、あまり強き星に近づくべきではないんだ)
そこで扉が叩かれた。
アリシュナは重い頭を片手で支えながら、それに答える。
「申し訳ありません。しばし休憩、お願いします」
「星読みのお客人は、今の貴婦人が最後でございました。……それとは別のお客人が参られたのですが、如何いたしますか?」
「仕事、終わったなら、休みます。今日、疲れてしまいました」
「さようでございますか。……ただ、お客人というのはダレイム伯爵家のシェイラ嬢なのですが……」
アリシュナは、ハッとして身を起こす。
「彼女ならば、お通ししてください」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
アリシュナは背筋をのばしてシェイラ嬢の入室を待ち受けた。
ほどなくして、すっかり顔馴染みとなったダレイム伯爵家の侍女が姿を現す。
「ごきげんよう、アリシュナ様。アスタ様からの料理をお届けに参りました」
「はい。ありがとうございます」
シェイラの手には、四角い容器の形をした布の包みが携えられている。が、そうして二重に梱包をされても、芳しい香草の香りがうっすらと嗅ぎ取れた。
およそ二日に一度の割合で届けられる、『ギバ・カレー』だ。
アスタはもうこれでひと月近くもアリシュナのためにこの料理を届けさせてくれているのだった。
「シェイラ、とても感謝しています。本当に、謝礼、不要ですか?」
「はい。アリシュナ様から銅貨など受け取ったら、わたくしがヤン様に叱られてしまいます」
アリシュナの前まで進み出たシェイラが、荷物を卓の上に置きながらにこりと微笑み返してくる。
「アリシュナ様は、ポルアース様とも懇意にされているのでしょう? それならば、なおさらです。わたくしはダレイム伯爵家の侍女なのですから、お気遣いは不要ですよ」
「ですが、あなたの仕事、増やしてしまっています。私、それが心苦しいのです」
「わたしはトトスの車に揺られているだけなのですから、どうということはありません。この貴賓館は、伯爵家のお屋敷に戻る途上にありますし。……それでは、ごきげんよう」
とても温かい微笑を残して、シェイラは早々に立ち去っていった。
それと入れ替わりに、侍女が入ってくる。
「失礼いたします。すぐにお食事にされるようでしたら、そちらの料理を温めさせてまいりますが」
「ありがとうございます。でも、まだ五の刻です。他の料理、間に合わないでしょう」
アスタに頼んでいるのは『ギバ・カレー』のみであるので、フワノや野菜料理などは厨の料理人たちに準備してもらっているのである。以前にも六の刻までお待ちくださいと言われてがっかりした覚えがあるので、アリシュナはそのように答えてみせた。
が、老いし侍女は「いえ」と首を振っている。
「他の料理の準備はできております。あとはフワノを焼くのみとの話であったので、四半刻とかからずにお届けできるでしょう」
「そうなのですか? 以前、無理でしたが」
「はい。わたくしのほうから料理人たちに願い出ておいたのです。アリシュナ様の料理だけは、五の刻にもお出しできるように準備しておいてほしい、と。……シェイラ嬢がこちらに見えるのは、だいたいそのあたりの刻限であるようでしたので」
そのように述べて、老いし侍女はうっすらと微笑んだ。
東の民のように感情をあらわすことの少ない彼女としては、それぐらいのことでも非常に珍しいことであった。
「差し出がましい真似をしてしまい、申し訳ありません。ただ、以前に早い時間のお食事を断られたとき、アリシュナ様はとても落胆されていたようでしたので、わたくしも放ってはおけなかったのです……」
内心を見透かされるのは、シムの民にとって恥ずべき行為である。
そして、羞恥の念を悟られるのもまた、同じように避けたいことだ。
が、このたびはアリシュナも頬のあたりが熱くなっていくのを、どうしても止めることがかなわなかった。
そんなアリシュナの姿を見つめながら、老いし侍女はいつまでも優しげに微笑んでいたのだった。