第四話 城下町の占星師(上)
2016.10/10 更新分 1/1
・今回は全部で7話の更新となります。
アリシュナ・ジ・マフラルーダは、その朝も荘厳なる鐘の音色を聞きながら目覚めることになった。
場所は城下町の貴賓館。しばらく前まではトゥラン伯爵家の私邸として使われていたという建物である。
鐘は3回鳴らされて、余韻を引きながら消えていく。
いつも通り、上りの三の刻である。この刻限までは貴き人々の安眠を妨げぬよう鐘の音色も抑えられるのが常であったので、アリシュナも三の刻で目覚めるのがすっかり習慣づいてしまっていた。
窓からは朝の陽光がやわらかく差し込んで、煉瓦造りの部屋を照らし出している。それに、朝の涼気をふくんだ心地好い風が、寝台に横たわったアリシュナのもとまでそよそよと届いてきていた。
アリシュナにこの部屋が与えられたのは、紫の月になってからのことだった。
より正確に言えば、太陽神の復活祭が始まる少し前からだ。
この貴賓館には、余所の土地の貴族や豪商などがたくさん招かれている。そういった人々から星読みの仕事を受けるために、アリシュナも元の屋敷からこの建物へと居を移されることになったのだった。
しかし、どこで寝起きしようとも、アリシュナの生活に変化が生じるわけではない。
やわらかいキミュスの羽毛が使われた寝具の上から身を起こし、アリシュナは毛足の長い絨毯の上に足を下ろした。
すると、それを待ちかまえていたかのように、寝所の扉がひかえめに叩かれた。
「アリシュナ様、お目覚めになられましたか……?」
「はい」と応じると、年をくったお付きの侍女が大きな籠を手に入室してくる。
その籠に収められているのは、綺麗に洗われたアリシュナの衣服の一式である。
侍女は卓の上に籠を置くと、アリシュナの言葉を待つようにじっと立ちつくした。
「着替え、大丈夫です。下がってください」
「かしこまりました、アリシュナ様……」
老いし侍女はうやうやしく頭を下げ、部屋を出ていった。
これまでにアリシュナが着替えの手伝いを所望したことはないのに、許可を得られるまでは部屋を出ていくこともできない。それが侍女たる彼女たちの役割なのだった。
こんな貴族じみた生活が、もう一年以上も続いている。
それを不幸だと思ったことはないが、また同時に、それほど幸福だと思ったこともなかった。アリシュナはただ、こうしていないと生きていけないので運命の流れに身をまかせているばかりなのである。
そんな今さらのことを考えるでもなしに考えながら、アリシュナは立ち上がって着替えを始めることにした。
さらさらとした手触りの夜着と下帯を脱ぎ捨てて、いったん生まれたままの姿になってから、あらためて準備された着衣を身に纏う。そちらもシムの絹で作られた長衣と、布の下帯だ。
そうして室の奥に移動し、物入れに仕舞われていた飾り物をひとつひとつ身につけていく。
細い銀の環が十も重なった腕輪に、シムの紋章を象った首飾り、さまざまな色合いの石に彩られた指輪、耳飾り、足飾り。長い黒髪は何本もの祈り紐と一緒に首の横でひとつに編み込んでいく。
そういった朝の身支度を、アリシュナはたっぷり半刻ばかりもかけて完成させていった。
これらのひとつひとつにも、シムの民たるアリシュナにはおろそかにできない意味が込められているのである。
やがて身支度を終えたアリシュナは、鏡台の卓に置かれた小さな壺を引き寄せた。
人間の握り拳ぐらいの大きさをした銅製の壺で、中には灰色の砂と香草の燃えさしが残っている。
新しい香草にラナの葉で火を灯し、それを壺に投じると、うっすらと紫がかった甘い煙が部屋を満たしていった。
その煙で身を清めながら、シムへの聖句を口にする。
風の化身たるシムの神は、異国の地にあっても民とともにあるのだ。
アリシュナは絨毯の上で膝を折り、胸の前で指先を組み合わせながら、さらに祈った。
(こうしてひとりで祈るようになってからも、一年以上の日が過ぎたということか……)
アリシュナは、20年ほど前にシムを追放されたマフラルーダ家の最後の末裔であった。
その追放から3年の後に生を授かったアリシュナは、一度としてシムの地を踏んだことのないシムの民であるのだ。
だけどやっぱり、それを不満に思ったことはなかった。
不満に思おうが思うまいが、すべてはシムの思し召しである。アリシュナがシムに帰る運命にあるならば、いずれ道は開けるし、そうでないならば、この異郷の地で朽ち果てるしかない。占星師は自分自身の運命を読み解くことを最大の禁忌とされていたので、アリシュナもシムの意志に身をゆだねる他なかったのだった。
それに、セルヴァの民というのは、おおむねシムの民に対して好意的であった。
放浪の生活に身を置いていた際は、数多くの野盗や無法者などと出くわすことも多かったが、そういった者たちも、むやみにシムの民を襲おうとはしなかった。それは好意や善意とは関係なく、毒草の扱いに長けたシムの民を襲うことは危険である、と広く認知されていたからだ。
しかし何にせよ、アリシュナに西の民を疎む理由は存在しなかった。
特にこのジェノスなどでは領主たるマルスタインに取りたてられることになり、こうして不自由のない生活を与えられている。
星読みの師であった祖父などは権力者に近づくことを危険とみなしていたが、幸いマルスタインという人物は占星のわざに重きを置いておらず、一度として自分の運命を知ろうとすらしなかった。彼はジェノスを訪れる大事な客人をもてなすために、道化師や楽師の類いとしてアリシュナを重宝している様子であったのだった。
(シムは風で、セルヴァは炎……風は炎にいっそうの力を与えることもできるし、また、それを吹き消すこともできる。私とマルスタインがともに道を見誤らなければ、きっと手をたずさえて生きていくことはできるだろう)
そのようなことを考えながら、アリシュナは香草の壺に蓋をした。
それからほどなくして、再び扉が叩かれる。
「アリシュナ様、お客人がお見えになっておられます」
「お客人? 仕事、中天からのはずですが」
「いえ、星読みのお客人ではございません。ダレイム伯爵家の第二子息様でございます」
「ポルアースですか。……どうぞ、お通ししてください」
アリシュナは屋内用の薄い外掛けを一枚羽織ってから、応接の間へと足を向けた。
その席について待ち受けていると、やがて侍女に案内をされたポルアースが「やあやあ」と入ってくる。
「このような朝早くから申し訳なかったね。朝のお祈りのお邪魔ではなかったかな?」
「はい、大丈夫です。……お茶、お願いします」
もちろん後半の言葉は侍女に向けたものであった。
侍女は頭を下げて別室に姿を消し、ポルアースは「よいしょ」と木造りの椅子に腰を下ろす。
「今日はこちらの館に逗留しているお客人がたに用事があってね。ちょっと約束より早くついてしまったので、ご挨拶にうかがったのだよ。最近はなかなかアリシュナ殿とも顔を合わせる機会がなかったからねえ」
本日もポルアースは、とても健やかな顔色をしていた。
いささか無駄な肉の多い体格であるが、健康を害するほどではないらしい。穏やかだが力強い生命の波動が、その丸っこい肉体に脈打っているのが感じられる。
「アリシュナ殿も毎日忙しいのだろう? 復活祭を終えてもうけっこうな日が過ぎているのに、相変わらずこの貴賓館は満室であるようだからね」
「はい。中天から日没まで、星読みの客、途絶えること、あまりありません」
「そうだろうそうだろう。あげく、余所の館に逗留されているお客人や、もともとジェノスに住んでいる人間たちまでもが押し寄せているらしいじゃないか。日を追うごとに、アリシュナ殿の名声は高まっている様子だねえ」
そのようにのたまうポルアース自身は、マルスタインと同じように星読みというものを重んじていない。そうであるからこそ、彼はこうして必要以上にアリシュナを敬ったり恐れたりすることなく、気さくにふるまえるのかもしれなかった。
「でも、いいかげんにお客人たちも自分の故郷が恋しくなる頃合いだろうからね。忙しいのももうしばらくの辛抱だよ、アリシュナ殿」
「はい。……ポルアースも、忙しい様子ですね?」
「うん。お客人の半分がたは、商いのために訪れた商団なんかだからねえ。今日だって、ここに逗留しているジャガルの商人らと食材の買い付けについて話し合うためにやってきたんだよ。うかうかしていると、砂糖やタウ油の備蓄が尽きてしまいそうだからさ」
しかし、普通は貴族が取り仕切っている商売でも、そのような交渉には代理の人間を立てるものであろう。トゥラン伯爵の一件があったので他人任せにはできないという面もあるのかもしれないが、このポルアースという人物はそれ以上に、あちこち動き回るのが性に合っているようであった。
(……このポルアースは、いずれ大きな成功を収めるだろう)
星など読まずとも、それは顔相にもはっきり表れていた。
が、問われもしないことを語るのは、やはり誠実さに欠ける行いである。自分には当たり前に見えるものが、余人にはまったく見えていないこともあるのだ。まだ若いアリシュナはそれで失敗することも多かったので、こういう際には自重が必要なのだった。
「ところでアリシュナ殿は、闘技会について聞き及んでいるかな?」
「とうぎかい? ……ああ、闘技の会、ですか?」
「そうそう。剣士たちによる闘技の大会さ。銀の月の終わりにね、非常に大きな闘技会が執り行われる予定になっているのだよ。それで、その闘技会については星読みで占うことを禁じるように進言しようかと考えているのだけれども、アリシュナ殿はどう思うかな?」
少し意味がわからなかったので、アリシュナは小さく首を傾げてみせた。
そこに侍女が、茶を載せた盆を運んでくる。甘酸っぱい香りのする、アロウの茶だ。
「実はその闘技会というやつは、いわゆる賭け事の場でもあるのさ。どの剣士が勝ち抜くか、見物客たちが銅貨を賭けて予想するわけだね。そういう賭け事で星読みの占いを持ち出すのは、あまりに無粋だろう?」
そのように述べながら、ポルアースは銀の匙で茶に砂糖を入れていく。西の民は、茶を甘くして飲む習わしがあるのだ。
アリシュナ自身は熱いアロウの茶をそのままで味わってから、「はい」とうなずいてみせた。
「賭け事、星読みの力を使う、無粋であり、危険である、思います。また、敗北の運命を読み解かれた人間、占星師、恨むかもしれません。人間、悪い運命、占星師がもたらした、思うものなのです」
「うんうん、確かにそういう一面もあるのだろうねえ。だから僕は、なるべく星読みの力というものに頼りたくはないのだよ。成功も失敗も、すべては自分の裁量でもたらされたものだと信じたいからさ」
にこにこと笑いながら、ポルアースは赤いアロウ茶を熱そうにすすった。
「それじゃあ、その件に関しては禁止ということでかまわないね? マルスタイン侯爵には、僕のほうから話を通しておくからさ」
「ありがとうございます。ポルアースの心づかい、とても感謝します」
「いやいや、無用な騒ぎで苦労をするのはけっきょく僕たちだからさ。すべてはジェノスの安寧のためだよ」
それはどうやら本心で言っているように感じられた。
このポルアースというのは、きわめて損得勘定に長けた人間でもあるのだ。
先の大きな苦労を回避するためならば、今の小さな苦労を厭わない。貴族というよりは、目端のきく商人のような気質なのだった。
貴族としては珍しいそういう部分が、大きな成功の要因になっているのかもしれない。無言でアロウ茶をすすりながら、アリシュナはこっそりそのように考えた。
「そういえば、その闘技会には森辺の狩人も参加することが決定されたようだよ」
「……森辺の狩人? 何故ですか?」
「それはほら、あの晩餐会での御前試合から生じてしまった因縁を晴らすためだね。アリシュナ殿も、ジャガルのご令嬢と一緒に見物していただろう?」
それはどうやら、昨年末に行われた森辺の狩人とジェノスの騎士による剣技の試し合いの話であるようだった。
「先日、サトゥラス伯爵家で和睦の晩餐会が執り行われてね。それでいちおうは手打ちにされたはずなのだけれども、また何やかんやと事情が重なって、森辺の狩人が闘技会に招かれることになってしまったんだ。よかったら、アリシュナ殿も一緒に見物などどうだい?」
「……その日、アスタ、招かれるのでしょうか?」
「アスタ殿かい? いやあ、どうだろう。族長筋の方々は招かれるだろうけど、アスタ殿は闘技会なんて興味があるのかな? べつだん料理人が必要な会でもないわけだし」
「そうですか」
アリシュナが小さく息をつくと、ポルアースに笑われてしまった。
「何だか、がっかりさせてしまったかな? アリシュナ殿は、本当にアスタ殿の料理に魅了されてしまっているのだねえ」
内心を見透かされるのは、シムの民にとって恥ずべき行為であった。
が、それでさらに羞恥の念までさらすのはいっそうの恥になってしまうので、アリシュナは「はい」と普段通りの調子で答えてみせる。
「アスタ、素晴らしい料理人です。またアスタ、招かれるときは、お声、かけていただけると嬉しいです」
「うんうん。そんなにたびたびアスタ殿を城下町に呼びつけることはできないけれど、その希少な機会には是非ともお声をかけさせていただくよ。あのジャガルのご令嬢と一緒にね」
陶磁の杯を皿に戻しつつ、アリシュナはまた小首を傾げてみせた。
「闘技会、彼女、招かれるのでしょうか?」
「彼女って、ジャガルのディアル嬢のことかい? そうだねえ、闘技会の優勝者に贈られる剣なんかは、彼女の鉄具屋で特別に作らせた品であるようだから、やっぱり貴賓として招かれることになるのじゃないのかな」
「そうですか。ならば、私、参席したく思います」
「おお、アリシュナ殿は、彼女とも懇意にされているのかな?」
「懇意、違います。ディアル、シムの民、疎んでいます。……しかし、南の民、触れ合う機会、少ないので、私、懇意にしたいと願っています」
「なるほどなるほど。それでは、アリシュナ殿のためにも席を準備させておくよ」
それからしばらくは益体もない話に興じ、四の刻の鐘が鳴る寸前に、ポルアースは部屋を出ていった。
けっきょくは、空いた時間を利用して、アリシュナに闘技会についてのあれこれを伝えたかったということなのだろう。そういう手間を手間と思わないところが、ポルアースのポルアースたる所以なのだった。
(だけど、ポルアースが善良で親切な人間であるということに変わりはない)
そうでなければ、彼が森辺の民からの信頼を勝ち取ることはできなかったろうと思う。
彼はきっと、ジェノスが繁栄することを心から願っている。そして、それに関して大きな力になりえる森辺の民に対して、心から感謝の念を抱いているのだ。
森辺の民というのは、彼にとって得になる存在である。占星師らしく表現するならば、彼の運気を高める存在である。ポルアースの星を読めば、そこにはきっと森辺の民との出会いが彼の運命を好転させたのだという星の動きが見て取れるはずだった。
そんな森辺の民が、理解のできない蛮族でなかったという事実を、ポルアースは心から喜んでいる。そしてまた、森辺の民もポルアースとの出会いでよき運気を手にしたに違いない。あらたまって星を読むまでもなく、それぐらいのことはアリシュナにもはっきり見て取ることができていたのだった。
(森辺の民を示す大獅子の座には、それを助ける星々のきらめきがいくつも見える。きっとポルアースも、その星の内のひとつなのだろう)
そんなことを考えながら、アリシュナは自分の日常に戻ることにした。
仕事の始まる中天まで、残りは三刻ほどだ。浴堂を使うのは夜の眠りの前と定めていたので、余った時間は読書や調べ物に費やすのがアリシュナの常であった。
祖父は山のような書物を遺していってくれたし、また、マルスタインに相談をすればジェノス城の貴重な文献を借り受けることもできる。シムの歴史やセルヴァの歴史、大陸に残されている数々の神話、伝承、おとぎ話――それらを学ぶこの時間が、アリシュナにとっては何よりかけがえのないものであった。
アリシュナは、祖父から星読みの力を受け継いでいる。しかし、時にはその力を持て余すこともある。自分が見えているものの意味を正しく知り、それを正しく余人に伝えるには、どれほど学んでも際限がなかったのだった。
(この世界には、たくさんの謎が満ちている)
侍女に新しい茶を所望しつつ、今日は祖父の遺品である巻物の文献を吟味することにした。
記されているのは、半ば神話となりつつある太古の英雄や偉人にまつわる伝承だ。
それを読み進めていく内に、アリシュナの目がとある文節のところで止まる。
そこに記されているのは、シムに大いなる繁栄をもたらした白き賢人ミーシャの伝承であった。
(白き賢人ミーシャ……その類いまれなる叡智でシムに繁栄と安寧をもたらした異邦人)
それは星無き民である、というのが占星師にとっては定説であった。
否応なく、アリシュナはアスタの存在を思い出してしまう。
(運命の読めない黒き深淵、星ならぬ星……アスタはきっと、星無き民であるに違いない)
それはもう、アリシュナにとって厳然たる事実であった。
外見上は、どこもおかしいところのない西の民に見える。しかし、アリシュナにはアスタの星を読むことができない。いにしえの魔術師には己の星を隠す術を持った人間もいたと聞くが、そうではなく、アスタは星そのものを持っていないのだ。
アスタは確かに存在している。しかし、彼の座には漆黒しか見えない。天空にぽっかり空いた、漆黒の深淵。それがアスタの星ならぬ星なのだった。
それはいっさいの光を持たないゆえに、占星師にも行く末を読むことがかなわない。その存在によって周囲の運命に変転をもたらしつつ、黒き深淵はどこに向かうのか、どこまで大きくなるのか、いつまで存在し続けるのか、何もかもがまったく判然としないのである。
(だけど、かつての星無き民たちがどのような運命を辿ったかは、いくつかの文献が残されている)
それと照らし合わせれば、アリシュナにもアスタの行く末をあるていどは読み解くことができた。
しかし、それを口にすることは許されない。アリシュナはすでに過去において問われもしないことを口にしてしまい、アスタの心を乱してしまったのだ。
それは占星師に許されぬ行為であったし、また、アリシュナ自身がアスタを苦しめたくないという思いもあった。
運命など知らなくとも、人間は健やかに生きていくことができる。むしろ、運命を知ることで逃れようのない絶望にとらわれる人間もいる。かつてアリシュナの祖父によって滅びの運命を読み解かれてしまった、ジの一族の藩主のようにだ。
(星無き民には、大きな希望と大きな苦難がともに訪れる運命にある。願わくば、アスタにもたらされる希望がその苦難をも退けられるように……)
アリシュナは指先を組み、心の底からそのように願った。
アスタが異邦人である以上、そのような祈りにどれほどの力があるのかはわからなかったが、アリシュナにできるのはそうしてシムに祈ることだけだったのだった。