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異世界料理道  作者: EDA
第二十二章 群像演舞~二ノ巻~
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    古き血の末裔(下)

2016.9/24 更新分 1/1 2016.10/3 誤字を修正

・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。

「えっ!? それではこの集落で夜を明かすつもりだというのですか!?」


 シリィ=ロウは、ついつい大きな声をあげてしまった。

 ルウ家の集落における宴が終わり、広場の片隅で他の客人たちと合流したのちのことである。

 シリィ=ロウをそんな心情に追いやった当人は、「そりゃあそうだろ」とけげんそうな顔をしていた。


「こんな夜更けに城下町に戻ったって、衛兵どもが跳ね橋を下ろしてくれるわけはないだろ? 俺たちは貴族でも何でもない一介の料理人に過ぎねえんだからさ」


「し、しかし――」


「それとも、宿場町で宿でも取るか? でも、宿場町なんざには何のツテもねえし、どの宿が安全なのかもわからねえよ。それで無法者に囲まれたって、俺はあんたどころか自分の身を守れもしねえぞ?」


 ロイがそのように言いたてると、かたわらで話を聞いていたアスタも「そうですね」と口をはさんできた。


「俺もダバッグで初めて宿屋というものを利用したのですけれど、夜中には野盗どもに踏み込まれることになってしまいました。森辺の狩人たちが一緒にいてくれたので事なきを得ましたが、やっぱり慣れない場所で宿を取るというのには相応の危険がつきまとうのだろうと思います」


 シリィ=ロウは唇を噛みながら、その場にたたずんでいる町の人間たちを見回した。

 名前は失念してしまったが、ダレイムの野菜売りの青年がにこやかに笑い返してくる。


「普段であれば、俺たちの家に招いてもよかったんだけど。あいにく、親父はもう酔い潰れてしまっているし、末の妹は森辺の集落で夜を明かすことを楽しみにしていたし――それに、俺たちも妹に負けないぐらいそれを楽しみにしていたので、家に戻るつもりはないんです」


「…………」


「何も心配はいりませんよ! ダレイムやトゥランは夜も衛兵たちに守られていますけど、この集落では森辺の狩人たちが守ってくださるのですから! むしろ、ここより安全な場所なんて他にはないぐらいなのではないでしょうか?」


 そのように声をあげたのは、ミケルの娘マイムである。

 まだ11歳の幼さでありながら、森辺の民を恐れる気配は微塵も感じられない。


「ギバやムントが家の中にまで押しかけてくることはないそうですし、無法者だって森辺の集落に近づいたりはしないでしょう。それならそもそも、最初から危険なこともありませんしね!」


 しかしシリィ=ロウは、城下町の石塀の外で夜を明かしたことなど、一度としてないのである。

 そしてこの場には、気心の知れた相手もひとりとして存在しない。一番つきあいの長いロイだって、どうせ寝所は別になってしまうのだから、何の頼りにもなりはしなかった。


「それじゃあ、いいかしらぁ……? 今日は客人もたくさんだから、いくつかの家に分かれてほしいのよねぇ……」


 と、森辺の娘がそのように言いながら、「あふぅ……」とあくびを噛み殺した。

 むやみやたらと色気を発散させている、栗色の長い髪をした娘である。


「アスタたち男衆は、みんなまとめてバルシャの家、ドーラ家の女衆はルウの本家、あとはマイムがバルシャと一緒にシン=ルウの家に移って、残りの女衆はミダの家……それでかまわないかしらぁ……?」


「ええ、問題はないと思います」


 シリィ=ロウの心情は脇にのけられ、どんどん話は進んでしまっている。

 どうしよう、とシリィ=ロウがこっそりセルヴァの護符をまさぐっていると、横からユーミが顔を寄せてきた。


「あんた、城下町に帰るつもりだったんだね。でも、こんな遅くに帰ったって、あとは寝るだけでしょ? それなら最後まで一緒に楽しもうよ!」


「いえ、ですが……明日も早くから仕込みの仕事がありますし……」


「あ、森辺の民は夜明けと同時に目を覚ましますので、よかったら俺が荷車でお送りしますよ?」


 と、また笑顔でアスタが割り込んでくる。

 まったく悪気などないのだろうが、シリィ=ロウとしては苛立ちを誘発されるばかりである。思わずそちらをにらみつけてしまうと、ユーミが「こら」と指で頬をつついてきた。


「朝っぱらから送ってくれるって言ってるのに、どうしてそんな目でアスタをにらむのさ? そいつはちょいとばっかり不義理ってもんだよ?」


「…………」


「それじゃあ、そろそろ移動しようか。でも、ほんとにあたしたちは片付けを手伝わなくていいの?」


「客人に仕事をさせるわけにはいきません。それに、わたしたちも眠る前に火の始末をするだけで、きちんとした片付けをするのは明日の朝なのです」


 そのように答えたのは、レイナ=ルウという黒髪の娘であった。

 シーラ=ルウともども、シリィ=ロウにとってはもっとも見知っている森辺の民のひとりであるが、こちらはほとんど気心が知れていない。


「もういいか? それでは、家に案内しよう」


 真っ赤な髪に黄色い目をした、森辺の民にしては肌の色が浅黒くない少年がそのように発言する。

 するとアスタが、金褐色の髪をした美しい娘のほうを振り返った。


「それじゃあな。おやすみ、家長」


「うむ」


 アスタが城下町に出向く際は、つねにかたわらにある娘である。普段は毛皮の外套を纏って刀を下げた物々しい姿であるが、こうしてそれを外してしまうと、誰よりも美しく感じられてしまう。それも、優美でありながら凛然とした、女騎士のような美しさだ。そういえば、茶会の席では武官の格好をさせられており、それも驚くほど似合っていたことをシリィ=ロウは覚えている。


 そうして森辺に招かれた客人たちは、それぞれの家に案内されることになってしまった。

 アスタとともにきびすを返したロイも、「それじゃあまた明日な」とさっさと歩み去ってしまう。


 広場では、集落の住人たちによってかがり火を消す作業が続けられていた。

 それが進むごとに、広場はどんどん暗くなっていく。こちらが家に到着するまでにすべて消されてしまったらどうなるのかと、シリィ=ロウは気が気でなかった。


「それでは、わたしたちもここで。……シーラ=ルウ、あとはよろしくね?」


「はい」


 レイナ=ルウと栗色の髪の娘、それにダレイムから来た女性たちは、集落の奥側へと歩を進めていく。

 こちらはシーラ=ルウの案内で、そこからすぐそばにある家に招かれることになった。

 その手前で、シーラ=ルウは「あら」と声をあげる。


 その声にびくりと振り返ったのは、まだ年若い男女の森辺の民であった。

 このような暗がりで語らっていたのだろうか。黒褐色の長い髪をした少年と、真っ赤な髪を頭のてっぺんで結いあげた少女だ。その少女のほうが、夜目でもわかるぐらい顔を赤くしながら声をあげてくる。


「あ、戻ってきたんだね、シーラ=ルウ! ヴィナ姉たちは?」


「客人を本家に案内していきました。リミ=ルウやターラはそれより先に戻ったようですよ?」


「そ、そっか! それじゃあまたね、シン=ルウ! シーラ=ルウも、アイ=ファたちも、また明日!」


「うむ」と少年がうなずき返している。

 少女のほうは慌てているが、こちらは沈着きわまりない面持ちだ。

 これはたしか、アイ=ファという女狩人とともに茶会に招かれたり、ジェノスの騎士と剣技の試合などをさせられていた少年である。


 そうして赤髪の少女は闇の向こうへと駆けていき、それを見送ってから、男のように厳つい風貌をした大柄な女が「やあ、シン=ルウ」と朗らかな声をあげた。


「今夜はちょいとお世話になるよ。あたしらの預かった家は客人の男どもでいっぱいになっちまったからさ」


「ああ、聞いている。こちらはバルシャとそちらの娘だったか?」


「はい、トゥランのマイムです! どうぞよろしくお願いいたします!」


 マイムが深々と頭を下げる。

 これで残されるのは、シリィ=ロウとユーミとテリア=マス、それに3名の森辺の娘たちであった。

 この3名はルウ家の人間ではないので、シリィ=ロウたちと同じく客人の扱いであるそうなのだ。


「この隣にあるのがミダの家です。でも、まだ戻っていないようですね」


「あ、ミダでしたら、さきほど寝具をもらってくると言ってどこかに歩いていきましたよ?」


 シーラ=ルウの言葉に、娘のひとりが返事をする。

 灰褐色の髪を頭の横でひとつに結んだ、元気で純朴そうな娘である。年齢はシリィ=ロウよりも2、3歳は若そうであったが、ずいぶん発育のいい身体つきをしている。


(……というか、森辺の女衆ってのはみんな見目がいいし、色気もあるみたい。ギバを食べると、身体が育ちやすいのかな)


 そんな益体もないことを考えていると、灰褐色の髪をした娘が町の人間たちに向きなおってきた。


「あの、一夜をともにするのですから、改めて名乗らせていただきますね? わたしはスドラ家のユン=スドラ、こちらはディン家のトゥール=ディン、こちらはファ家のアイ=ファです。どうぞよろしくお願いいたします」


「うん、よろしくね。そういえば屋台とかではさんざん顔をあわせてたけど、きちんと名前を聞くのは初めてだったのかな」


 人見知りという概念を持ち合わせていなそうなユーミがそのように答えると、ユン=スドラと名乗った娘はにこりと楽しげに微笑んだ。


 もうひとりのトゥール=ディンは、シリィ=ロウもさんざん顔をあわせた相手である。茶会ではあれほどの腕前を見せつけられたのだから、アスタを除けば一番最初に顔と名前を覚えた相手であるかもしれない。まだマイムと同じぐらいの幼さで、とても気弱げな風貌をしているが、彼女の菓子の腕前は驚嘆に値するものであった。


(本当に、菓子だけに限れば、城下町の料理人に負けないぐらいだろうな。このまま修練を積んだら、生半可な人間など相手にならないぐらいの腕前を身につけるに違いない)


 そのように考えながら見つめていると、それに気づいたトゥール=ディンは頬を赤くしてうつむいてしまった。

 こういうとき、彼女はいつもアスタの背に隠れようとするのだが、この場にはそれに代わる人間がいないらしく、所在なさげにもじもじとしている。

 そこに、ユーミの「あっ」という声が響いた。


「あれじゃない? うわー、山が動いてるみたい!」


 山が動くという言葉からモルガを連想して、シリィ=ロウも慌ててそちらを振り返る。

 すると、モルガが動くにも匹敵しそうな驚くべき光景がそこに待ち受けていた。

 布の寝具を何重にも重ねて両腕に抱えた巨大な人影が、よたよたとこちらに近づいてきていたのである。


「大儀だな。私も手伝うぞ、ミダよ」


 アイ=ファがそのように告げると、寝具の向こうから「ううん……」という舌足らずの声が返ってきた。


「大丈夫なんだよ……? でも、家の戸を開けてほしいんだよ……?」


「では、家の主人としての許しの言葉をもらいたい」


「うん……ルウ家のミダは、ファの家のアイ=ファがミダの家の戸を開けることを許すんだよ……?」


 その言葉を聞き届けて、アイ=ファは家の戸板を引き開けた。

 巨大な人影はそこから寝具を家の中に放り込み、「ふう……」とこちらに向きなおる。


 それでシリィ=ロウは、改めて怯懦の気持ちに見舞われることになった。

 それはあの、宴の際にも否応なく視界に入ってきてシリィ=ロウを脅かしていた、とりわけ大柄な森辺の狩人であったのである。


 いや、大柄などという言葉では収まらない。背丈などはシリィ=ロウよりも頭ふたつ分ぐらいは大きいほどであったし、横幅などは、並の男の倍ぐらいもあるだろう。まるでカロンがむくりと巨体を起こしたような、それは信じ難いほどの大男であったのだ。


 あの旅芸人の大男なども尋常でない大きさであったが、こちらはそれに幅と厚みが加算されている。顔にも腕にも足にもどっしりと肉がついており、まるで服を着た肉饅頭のようでもある。こんな大男がその気になったら、シリィ=ロウなど片腕でひねり潰されてしまうに違いない。


「アイ=ファ……アイ=ファは、ミダの家で夜を明かすんだね……?」


「うむ。世話になるぞ、ミダよ」


「嬉しいなあ……ミダの家にお客が来るのは初めてなんだよ……? 初めてのお客がアイ=ファだから、ミダはよけいに嬉しいんだよ……?」


「そうか。今日はアスタがどうしても他の客人たちと同じように朝を迎えたいと言い張ってな」


 落ち着き払った声で答えつつ、アイ=ファは目もとだけで笑ったようだった。


「私はあまり他の家の世話になることをよしとは思えぬのだが、お前が苦労をして造った家で夜を明かすというのは、まあ一興といえなくはないかもしれん」


「ううん……やっぱりアイ=ファの言葉はときどき難しいんだよ……?」


「何も深く考える必要はない。実に立派な家だな、ミダよ」


「うん……ありがとうだよ……?」


 当たり前のことであるが、森辺の民がこのミダという大男を恐れている気配はまったくない。

 だが、同じ一族である彼女たちはともかく、ユーミやテリア=マスまでもが平気な顔をしているのが、シリィ=ロウには信じられなかった。


「それではミダが戻ってきたので、わたしも失礼いたします。……シリィ=ロウ、大丈夫ですか?」


 シーラ=ルウに呼びかけられて、シリィ=ロウはぎこちなく振り返る。

 シーラ=ルウはとても申し訳なさそうに眉尻を下げていた。


「わたしの部屋はそんなに大きくないので、マイムとバルシャを招くだけでいっぱいになってしまったのです。できればわたしもシリィ=ロウを招きたかったのですが」


「へーえ、シーラ=ルウって、そんなにこのコと仲良くなってたの?」


 と、ユーミが横から割り込んでくる。


「ま、今日のところはあたしらに譲っておいてよ。城下町の人間なんて、あたしらは森辺のみんなより触れ合う機会が少ないぐらいだからさ!」


「そうですね。また明日の朝に、ご挨拶をさせていただきます。ミダ、お客人をよろしくね?」


「うん……よろしくするんだよ……?」


 そうしてシリィ=ロウが口をきく気力を振り絞る前に、シーラ=ルウは自分の家に戻っていってしまった。


「それじゃあ、入ってほしいんだよ……?」


 ミダなる大男が、暗い家の中に消えていく。

 それでもシリィ=ロウが動けずにいると、いきなりユーミが腕をつかんできた。


「森辺の民って、暗い中でも平気で動けるよね。あたしらは転ばないように気をつけなきゃ」


 こうなると、この場においては一番頼りになるのがこのユーミになってしまうようだった。

 踊りを強要された恨みを捨てきれずにいるシリィ=ロウも、その温かい指先を振り払うことはかなわないまま、悄然と歩を進めるしかなかった。


「ミダ、悪いけど明かりをつけてもらえないかなあ?」


「うん……ちょっと待っててほしいんだよ……?」


 客人が履物を脱いでいる間に、部屋の奥で赤い光が瞬いた。

 ラナの葉で燭台に火を灯したのだろう。やがてぼんやりとした光で室内が照らされてくる。


 どうということのない、木造りの家であった。

 城下町で言えばキミュスの飼育小屋にも等しい粗末さであるが、きっと宿場町やダレイムなどと比べれば大きな差はないのだろう。板張りの床には毛皮の敷物が敷かれて、壁には外套や棍棒が掛けられている。さらに室の奥にはいくつかの扉と、そして石造りのかまどの影が見えた。


「へー、なかなか立派な家じゃん。こんな立派な家に、ひとりで暮らしてるの?」


「うん……ミーア・レイ=ルウやリャダ=ルウに、普通の大きさの家を造りなさいって言われたんだよ……?」


「ふーん? まあ、いずれ家族でもできたらこれぐらいの大きさは必要だもんね。森辺の民って、たくさん子を生むみたいだし」


「……ミダは子供を生めないんだよ……?」


「あったり前じゃん! いつかミダの嫁になる娘が生むんだよ!」


 ユーミが笑いながら言うと、ミダは遥かな高みにある小さな目をぱちくりとさせたようだった。


「ミダはまだルウの氏をもらってないから、嫁はもらえないんだよ……? それに、ルウの氏をもらえても、まだ嫁をもらえる年齢じゃないんだよ……?」


「あ、そうなの? 町では15、6にもなれば婚儀をあげる人間も珍しくないけどね」


「……ミダはまだ14歳なんだよ……?」


 ユーミは「ええっ!」と大きな声をあげ、シリィ=ロウも目がくらむほどの驚きに打たれることになった。


「ミダってそんなに若かったんだあ? いやー、なんか幼げだから、あたしよりは年下なのかなーとは思ってたんだけど、ちょっとびっくりだね、テリア=マス?」


「はい、そうですね。わたしはてっきり年上だと思っていました」


「そういえば、他のみんなは何歳なの?」


「17だ」「11歳です」「15です」の声が響く。


「げー、ユン=スドラは15歳なんだ? 顔は幼いけど、色っぽいよね」


「ユーミほどではありません。わたしはようやく伴侶を娶れるようになったばかりです」


 はにかむように、ユン=スドラは微笑んでいる。


「そちらの皆さんは、いったいおいくつなのですか?」


「あたし? あたしはアイ=ファと一緒だね」


「わたしは18になりました」


 四方から視線をあびせかけられ、シリィ=ロウは「……わたしも18です」と答えてみせた。


「おー、けっこう年齢の近い人間が多いんだね! こいつは楽しい夜になりそうだ!」


 いったい何が楽しいのだろう、とシリィ=ロウはこっそり息をつく。

 そんな中、足もとに視線を落としていたアイ=ファが「おい」とミダに呼びかけた。


「ずいぶんたくさんの寝具が準備されているのだな。ルウ家ではこれほどの寝具が余っていたのか?」


「うん……? これはレイナ=ルウたちが、町で買ってきたんだよ……?」


「ああ、そうです。レイナ=ルウたちが、商売の帰りに買っていました。あの日はもう、アイ=ファも護衛の仕事を取りやめていたのでしたね」


 ユン=スドラの説明に、アイ=ファは「なるほど」とうなずく。


「しかし、ずいぶんな数を買い求めたのだな。普段は使い道もあるまいに」


「ええ、ですが客人を板の上で眠らせるわけにもいかないし、それに、これからもたびたび使うことになるのではないか、とレイナ=ルウは言っていました」


「そうか。それがドンダ=ルウの判断であるのだな」


 何やら物思わしげな声で言い、アイ=ファは足もとの寝具をつかみ取った。


「私はあまり寝具というものに馴染みがないのだが、とにかく重ねて敷けばいいのだな?」


「うん……ひとり3枚なんだよ……?」


 それは羽毛も使われていない、ただの毛織物の敷物に過ぎなかった。

 3枚を重ねても、厚みは手の平ぐらいにしかならない。それで下は毛皮を敷いただけの板張りであるのだから、とうてい安らかな眠りなどは期待できそうになかった。


「……これを使ってほしいんだよ……?」


 と、粗末な寝具を敷き終えたところで、ミダが両手を差しのべてくる。その分厚い手の平に載せられているのは、細長く切り分けられた木の皮であるようだった。

 他の者たちは礼を言いながらそれを取り、シリィ=ロウだけがわけもわからず立ちすくむ。


「あれ? あんたは歯木を使わないの?」


「し、しぼく?」


「眠る前に歯を洗うんだよ。こうやって、先っぽをしがんでやわらかくして、それで歯をこするの」


 城下町では、カロンの毛を加工した刷毛で歯を磨いていた。

 シリィ=ロウは泣きたいような気持ちになりながら、得体の知れない木の皮をかじることになった。


 そうして水瓶の水で口をゆすいで、ようやく眠りの準備が完了する。

 その後、アイ=ファやユン=スドラたちが長い髪を肩に垂らすと、はっとするほど美しかった。

 森辺の若い娘たちは、みんな城下町の貴婦人みたいに長い髪をしているのだ。特にアイ=ファとユン=スドラは東や北の民みたいに金色や灰色の珍しい髪をしていたので、その美しさもひとしおであった。


 シリィ=ロウがそんな想念にとらわれている間に、ミダが図太い胴体を屈めるようにして礼をしてくる。


「それじゃあ、ミダは眠るんだよ……? 何か用事があったら、起こしてほしいんだよ……?」


「こっちも眠るだけなんだから、お気遣いはいらないよ。ミダもゆっくり休んでね?」


「うん……」とミダは頬の肉を震わせつつ、奥の戸を開けてその内側へと消えていった。

 全員が敷物に腰をおろすのを待ってから、アイ=ファが燭台の火を消す。


 真の闇が、シリィ=ロウを包み込んだ。

 固い寝床に身を横たえ、音がしないよう気をつけながら、大きく息をつく。


 部屋にはまだ、獣脂蝋燭の香りが強く漂っていた。

 静寂が落ちると、窓の外から野鳥や虫の声が聞こえてくる。

 しばらくすると目が慣れて、月明かりだけでも部屋の様子がうっすらと見えてきた。


 まだまだ頭が冴えてしまっていて、まぶたを閉ざす気持ちにさえなれない。

 これで明日は仕事になるのだろうか、とシリィ=ロウはもう一度溜息をついた。

 そこで、かたわらのユーミがもぞもぞと動く気配がする。


「いやー、それにしても楽しかったね。本当に、復活祭がもういっぺんやってきたみたいな騒ぎだったよ」


 とりたてて大きな声でもなかったが、周りがあまりに静かであったため、それはくっきりと闇の中に響きわたった。

「そうですね」と応じているのは、テリア=マスだ。


「わたしは復活祭の夜にもダレイムには行けなかったので、よけいに楽しかったです。宿屋の人間にしてみれば、祭の間は仕事漬けですし」


「あー、ほんとだよねー。あたしは働いたぶん遊ばせてもらったけど、テリア=マスなんかは一歩も家を出られなかったんでしょ?」


「ええ、仕事が一段落した後は、くたびれ果ててすぐに眠ってしまいました」


「だらしないなー。来年は一緒に遊ぼうよ? お客を楽しませた後は、あたしらだって楽しまないとさ」


 そこでまたユーミが蠢く気配がする。


「ね、あんたは『滅落の日』の夜はどこで何をしてたの? 城下町だと、さぞかし立派な宴があるんでしょ?」


「……それはわたしへのお言葉なのでしょうか?」


「当たり前じゃん。城下町の民はあんたしかいないでしょ? それに、他のみんなはダレイムで一緒に騒いでたんだから」


 闇に溶け込んだ天井を見上げたまま、シリィ=ロウは三度目の息をつく。


「わたしもその日は仕事でした。貴賓館に招かれて、宴の料理を作っていました」


「ふーん? その後は?」


「家に戻って、眠りましたよ」


「そっかー。あたしは10歳ぐらいから、年の終わりに眠ったことなんてなかったなー。森辺の民は、もともと太陽神のお祝いすらしてなかったんだよね?」


「はい。そのような習わしはありませんでしたね」


 いくぶん遠いところから、ユン=スドラの声が返ってくる。

 ひょっとしたら、まだ眠りに落ちている人間はいないのかもしれない。


「そっかそっか。でもまあ森辺の民には他に色々なお祝いがあるんだもんね? 収穫のお祝いに、誕生のお祝いだったっけ?」


「はい。ですが小さな氏族ですと、それほど大きな宴にはなりません。ルウ家のように家族や眷族の多い氏族は、森辺でもごく限られているのです」


 そのように述べてから、ユン=スドラの声が楽しそうな響きをおびた。


「でも、今度の収穫祭では近在の家が集まって宴を開くことになったのです。わたしはそれが今から楽しみでなりません」


「へー、そいつはよかったね。アイ=ファやトゥール=ディンも一緒なの?」


「はい。スドラとファとディンを含む、6つの氏族の祝いとなります。それでもルウ家の宴とは比べるべくもありませんが、わたしはとても楽しみです」


「なるほどねー」とユーミも笑いを含んだ声で応じる。


「そういう場では、若い娘が求婚されたりするんでしょ? そいつはなおさら楽しみだね」


「え? ああ、はい……よくそのような習わしをご存じですね?」


「うん。ダレイムの宴のとき、舞を見せるのは求婚のしるしだって教えてもらったんだー。それで最初はみんな踊るのを嫌がってたんだけど、町にそういう習わしはないからって説得したんだよ」


「ああ、なるほど……」


「トゥール=ディンはまだちっちゃいけど、ユン=スドラやアイ=ファはもう結婚できるんでしょ? 次の宴で伴侶が決まったりするのかなあ?」


 何か言いよどむような気配の後、ユン=スドラは「どうでしょう?」と答えた。


「わたしはまだ嫁となるには力が足りていません。15になったばかりでもありますし」


「ユン=スドラぐらい可愛かったら、男どもも黙ってないでしょ。結婚した後のあれこれなんて、婚儀をあげてから身につければいいんだよー」


「はあ……」


「それじゃあ、アイ=ファは? アイ=ファこそ、そんなに綺麗だったら相手も選び放題じゃない?」


 しばらくは返事も聞こえてこなかった。

 すでに眠っているのかな、とシリィ=ロウがぼんやり考えたところで、「いや」という毅然とした声が響く。


「私が伴侶を娶ることはない。私は、狩人であるからな」


「えー? 女の狩人って結婚しちゃいけないの? それってひどくない?」


「そのような習わしが存在するわけではない。というか、これまでに女の狩人など森辺に存在したことはないのだ」


「あ、そーなの? それなら遠慮なく結婚しちゃえばいいじゃん」


「……私は伴侶を娶って子を残すのではなく、狩人として森に朽ちる生を選んだのだ」


 何かシリィ=ロウは、胸の中がざわめくのを感じた。

 闇の中で、誰かが緊張している気配がする。普段はそのような気配を感じることなどないのに、妙に頭が冴えているために、精霊か何かに声ならぬ声を届けられたかのような感覚であった。


「へーえ、もったいないなあ。……あたしはてっきり、アイ=ファはアスタと結ばれるんだろうなーと思ってたんだよね」


 しかしユーミは何も感じていないらしく、そのように言葉を重ねている。


「おたがいを大事に思ってるってのは横から見てても丸分かりだし、女の狩人と男のかまど番だったら組み合わせとしてもぴったりじゃん? 一緒の家で暮らしてるのに、そういう気持ちにはならなかったの?」


「……それでも私は、狩人として生きていくことに決めたのだ。それはすでに、アスタにも伝えてある」


「ふーん? それでアスタは、何だって?」


「この場にいないアスタの心情を、私が勝手に語ることは許されない」


 ひどく静かな声音で、アイ=ファはそう言った。


「そっかー。残念だなー。アイ=ファとアスタが婚儀をあげるんだったら、あたしもお祝いに駆けつけたかったのに」


「…………」


「それじゃあ、テリア=マスは? この中で一番年上じゃん?」


「え、な、何ですか? どうしてさっきからそのような話ばかりなのです?」


「んー? せっかく女だけの夜なんだし、普通はこういう話で盛り上がるもんなんじゃない?」


「そ、そうなのでしょうか? わたしは家族以外の人間と眠ること自体が珍しいので、よくわかりません」


 何となく、張り詰めていた気配がゆるゆると解けていくように感じられた。

 闇の中で、シリィ=ロウはこっそりと汗をぬぐう。


「で、どうなのさ? 気になる男のひとりぐらいはいるんじゃないの?」


「それはまあ……で、でも、わたしはそんな簡単に婚儀をあげるわけにはいかないのです」


「どうしてさ? そっちにも何かややこしい事情があんの?」


「別にややこしくはないのですが……わたしが余所の家に嫁入りしてしまうと、マスの氏が絶えてしまうのです」


 今度はまた別の方向から驚かされることになった。

 これでは眠るに眠れない。


「マスの家は他の親族も絶えてしまったので、氏を残しているのはわたしと父だけなのです。ですから、伴侶を迎えるには婿を取らなくてはならないのです……」


「あー、そっかー。テリア=マスは自由開拓民の血筋なんだもんねー。でもさ、よくわかんないけど、そういう氏って残さなきゃならないものなの? テリア=マスたちはもう開拓民じゃなくって普通に王国の民なんでしょ?」


「はい。それでもやっぱり、数百年も続いた氏を自分の代で絶やしてしまうのは、すごく気が引けてしまうのです。残したところで何も意味はないのでしょうけれど」


「なるほどねー。そういえば、あんたも氏持ちだったよね?」


 当然のごとく、ユーミの関心はシリィ=ロウにも向けられてきた。

 上を向いたまま、シリィ=ロウは「はい」と答えてみせる。


「確かに古き血の氏は先細りであるようですね。何か特別な意味があるわけでもないので、余所の人間からも重んじられることはありませんし。……ただ、絶やしてしまうのは惜しいという気持ちはわかります」


「あ、そうなんだ? それじゃあ、あんたも婿を取るの?」


「……わたしは修行中の身なのですから、婚儀のことなど考えられるわけもありません。それに、兄や姉がいるので責任がかかってくるわけでもありませんし」


「あー、やっぱりあんた、末っ子だったんだ? なんかちょっと甘えん坊だから、そんな気はしてたんだよねー」


「だ、誰が甘えん坊ですか! それはあまりに失礼な言い様ですよ!」


「そーお? さっきのシーラ=ルウとのやりとりなんて、お姉ちゃんに甘えてる妹みたいだったよ?」


 シリィ=ロウは暗がりの中で頬を赤らめることになった。

 それを察してくれたのか、テリア=マスがまた声をあげてくる。


「ユーミは人に聞いてばかりですね。そちらこそ、誰か気になる男性はいないのですか?」


「あたし? あたしはさー、森辺の民とかどうだろうって考えてるんだよねー」


「ええっ!?」と何名かが同時に声をあげていた。


「も、森辺の民と? ユーミが婚儀をあげるのですか?」


「だ、誰か気になる男衆でもできてしまったのですか?」


「別にそういうわけじゃないけどさ、森辺の狩人って、男前が多いじゃん?」


 そんな中、ユーミはくすくすと笑い声をたてている。


「でもまあシン=ルウやルド=ルウなんかは年下だし、上の兄ちゃんはおっかなそうだし、なかなかこれっていう相手はいないんだよねー」


「そ、そうですか……でも、森辺の狩人が町の人間に婿入りすることなどはありえませんから、その場合はユーミが森辺に嫁入りしなくてはならなくなるのですよ?」


 そのように述べているのは、やはりユン=スドラであるようだった。

 シリィ=ロウと同じかそれ以上の驚きに見舞われていることに疑いはない。が、ユーミのほうはあくまであっけらかんとしていた。


「だからこそ、じゃん。森辺での生活ってすごく楽しそうだし、屋台の仕事を手伝えば毎日のように宿場町にも顔を出せるし。……って、そんなお気楽な考えじゃあ、みんなに怒られちゃうのかな?」


「べ、別に怒りはしませんが……でも、これまで森辺の民が余所の人間を伴侶に迎えることなどはなかったはずなので……」


「だけど別に禁忌ではないんでしょ? アスタが家人として迎えられてるぐらいだもんね。……そんな深刻そうな声を出さなくても、今すぐどうこうって話じゃないよ? そもそもお相手すら見つけられてないんだからさ!」


 けらけらと笑い声をたててから、ユーミは少し改まった口調で続けた。


「だけどやっぱり、こうして森辺の集落に呼んでもらえるようになったから、そういうことを考えつくようにもなったんだよね。ちょっと前まではあたしだって、森辺に嫁入りなんて冗談でも考えられなかったぐらいだし。……あ、あとさ、実はあたしの友達が森辺の狩人にのぼせあがっちゃって、それをアスタにたしなめられたとき、なんかすっごく素敵だなって思えたんだよね。ああ、この人たちはほんとに真面目で誠実なんだなってさ」


「はあ……」


「だからまあ、あたしは森辺の民そのものに憧れちゃったのかな? 今のあたしなんてどうしようもなく不真面目で、森辺の男衆に相手にされるわけもないからさ! そんな浮ついた気持ちじゃなく、心の底から好きだって思える相手に巡りあえたら、本気の本気で頑張ってみよーって思っただけなんだよ」


「そうですか……」と、ユン=スドラがしみじみとした口調でつぶやく。


「やっぱりわたしには、町の人間であるユーミの心情を正しく理解するのは難しいのですが……町の人間が森辺に嫁入りするようなことがあったら、それは素晴らしいことなのだと思います」


「そっか。そう言ってもらえるだけで、今のあたしには心強いよ」


 ユーミははしゃいでいるようであり、照れくさそうにしているようでもあった。


「あっ! それからひとつ言っておくけど、あたしはアスタを狙ったりはしてないからね、アイ=ファ?」


「……うむ?」


「あたしはアスタみたいになりたいんであって、アスタに嫁入りしたいわけじゃないの。あんたに誤解はされたくないから、それだけは忘れないでおいてね?」


「そうか」と静かにアイ=ファは答えた。

 また空気が張り詰めるのではないかとシリィ=ロウは首をすくめたが、むしろアイ=ファの声音はこれまでと異なるやわらかさを帯びているように感じられた。


「私もユン=スドラと同じ気持ちだ。少なくとも、町の人間であるお前が森辺の民に憧れている、などという言葉を聞くことになるとは思わなかった。町の人間と正しい縁を結びなおしたいと願う我々にとって、それほど得難い言葉はなかなかないだろう」


「そうなのかなー? あたしぐらい森辺の民と深く関われば、おんなじようなことを考える人間はたくさん出てきそうだけどね」


 そのように言いながら、ユーミはまた笑い声を響かせた。


「それじゃあ、そろそろ眠ろっか。あんたは明日も早いんだもんね?」


「……今のはわたしへの言葉でしょうか?」


「だから、そうに決まってんでしょー? どうして目は開けてんのに上ばっかり見てんのさ」


 と、いきなり視界にユーミの影が割り込んできた。

 長い髪が顔のほうまで垂れてきて、シリィ=ロウは閉口する。彼女は森辺の女衆に負けないぐらい長い髪をしているのだ。


「けっきょくあんた、最後まで一回も笑顔を見せなかったね? 宴を楽しめなかったの?」


「……ですからわたしは、宴を楽しむために出向いてきたわけではないのです」


「それじゃあ、来たことを後悔してるとか?」


 月明かりの下でユーミの顔を見つめ返してから、シリィ=ロウは自問した。

 最初から最後まで、まったくさんざんな一日であった。

 これだけ疲れ果てているのだから、きっと明日の仕事はたいそう厳しいものになるだろう。それを想像しただけで、ちょっと憂鬱になってしまう。


 しかし、このような場所に出向いてきたことを後悔しているのか、と問われると――答えは「否」であるようだった。


「……べつだん、後悔はしていません」


「そっか。それなら、よかったよ」


 暗がりの中で、ユーミは笑う。


「たった一日じゃあ、あんたと仲良くなるのは難しそうだからさ。またどこかで遊ぼうね?」


「……わたしはそれほど暇な身体ではありません」


「あのねー! そういうときは、お義理でも『機会があれば』とか言っておくの! そうすれば波風も立たないでしょ?」


 シリィ=ロウは何度目になるかもわからない溜息をついてから、言った。


「……では、機会があれば」


 ユーミは一瞬きょとんとしてから、たいそう嬉しそうに笑みを広げた。

 それをしばし見つめてから、シリィ=ロウはまぶたを閉ざすことにした。


(ジェノスには、これほどにさまざまな人間が暮らしているんだな)


 自由開拓民たちが切り開いたこの地がジェノス伯爵の軍勢に支配されて、およそ200年――余所の町の人間や、しまいには森辺の民までもが移り住んできて、ジェノスはこのような発展を遂げた。


 色の淡い肌をしたこのユーミなども、きっと余所から来た人間の血筋であろう。そういった人々が大勢移り住んできたからこそ、ジェノスはここまでの繁栄を手にすることができたのだ。


 ジェノスが繁栄しなければ、そこに通ずる石の街道が築かれることもなかった。街道がなければ、大がかりな行商人が訪れることもできない。道なき道を進んで余所の土地と商売をしようとする人間など、せいぜいシムの民ぐらいしか存在しないのだ。


 石塀の外で、これだけさまざまな人間たちが暮らし、ジェノスを支えているからこそ、城下町では豊かな食事を楽しむことができている。そんな当たり前のことを、シリィ=ロウは初めて実感として得ることができたようだった。


(それでわたしの作る料理の質が高まるわけではないけれど……)


 しかし、ロイがどうして危険な石塀の外に出向いてまで、森辺の民の様子を知りたがったのか。今ならば、その意味がほんの少しだけわかるような気がした。


 城下町しか知らなければ、城下町の民を喜ばせることしかできないのだ。

 シーラ=ルウがあれほどまでに自分の料理を評価してくれたのも、ロイが森辺の民というものの嗜好を理解していたからにすぎない。シリィ=ロウなどは、その言葉に従って、自分の引き出しからそれに相応しい献立を引っ張り出したにすぎなかった。


 自分が城下町の民しか相手にしていないのならば、それでもかまいはしなかった。

 しかしジェノスには、大陸中の人間が集まってくる。ヴァルカスはそういう遠方よりの客人に料理を出す機会が多く、なおかつシリィ=ロウはあらゆる面において師匠に追いつきたいと心の底から切望していたのだ。


 それで、森辺の民である。

 彼らはアスタを筆頭に、城下町の内情などほとんど知らないのに、貴族たちに優れた料理人であると認められている。

 また、宿場町にはきわめて雑多な人々が集うのに、そこでも成功を収めることがかなっているのだ。


 育った環境が異なれば、美味なる料理の基準も変わってくるはずであろう。シムで育てばシムの料理が、ジャガルで育てばジャガルの料理がもっとも好みに合致するはずだ。

 城下町の内にしか目を向けていなかった自分が、教えられた通りのシム料理やジャガル料理を作るだけで、本当に、森辺の民と同じようにすべての客人を満足させることができるのか――そして、シムやジャガルほど特色のはっきりしていない、セルヴァのさまざまな町に住む人々を満足させることができるのか――そんなのは、心もとないこと甚だしかった。


 もともとジェノスの生まれではなかったタートゥマイやボズルなどは、最初からそんなこともわかりきっていたのだろうか。

 そして、生粋のジェノスの民であるヴァルカスなどは、天才であるゆえに、その知識と技量だけで誰をもうならせるような料理を作ることができるのだろうか。


 シリィ=ロウなどは、まだそのどちらの領域にも達していない。

 シーラ=ルウがあれほどまでに自分を評価してくれたのは、すべてロイのおかげであったのだ。彼女の優しくて温かみにあふれた笑顔は、ロイにこそ向けられるべきものだった。


 自分が思いのままに料理を作っていたならば、かつてのティマロのように森辺の民を失望させていたかもしれない。

 シーラ=ルウからあのように自分の存在を求められることもなかったかもしれない。

 そのように思うと、胸が痛くてたまらなかった。

 自分の未熟さが、悔しくてたまらなかった。


(それじゃあ……ユーミやテリア=マスなんかは、わたしの料理を食べたらどのような感想を抱くのだろう?)


 涙のこぼれそうな無力感に苛まれながら、ようやく訪れた睡魔にその身をゆだねようとしたとき、シリィ=ロウの頭を最後によぎったのはそんな思いであった。

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