第三話 古き血の末裔(上)
2016.9/23 更新分 1/1
シリィ=ロウはひとり為すすべもなく立ちすくんでいた。
森辺の集落における宴のさなかのことである。
旅芸人なるものたちが演奏を始めると、宿場町の娘ユーミが自分をこのような場に引っ張り出した。舞など踊ったこともないのに無理やり火の周りを歩かされて、何十人もの人目にさらされることになったのだ。
そうしてようやく演奏の音色が途絶えると、ギバの肉が焼けたという言葉が届けられた。
すると、自分の手をつかんで離さなかったユーミもそちらのほうに駆けていってしまい、シリィ=ロウはその場に取り残されてしまったのである。
シリィ=ロウの周囲では、森辺の民たちが速足で行き来している。迂闊に動けば、突き飛ばされてしまいそうな勢いだ。それはまるでトトスの詰め込まれた小屋の中にでも放り出されてしまったような心地であり、シリィ=ロウはどうすることもかなわなくなってしまったのだった。
見知った顔を探そうとするが、人影が邪魔になってそれも難しい。かがり火しか焚かれていないこのような場で、どうしてそんなにひょいひょいと動くことができるのか。野の獣のような瞳を持つ森辺の民に囲まれて、シリィ=ロウはその場にうずくまってしまいたいような気持ちにとらわれてしまっていた。
シリィ=ロウは、城下町の民なのだ。
石塀で守られた城下町に、無法者というものはほとんど存在しない。身分のあやしきものは足を踏み入れることが許されないのだから、それが当然だ。そんな安全な城下町で生まれ育ったシリィ=ロウにとって、この場は剣戟の響く戦地と変わらぬぐらい恐ろしいように思われた。
(しかもここは、モルガの山の麓なんだ……)
そのように考えると、いっそう足から力が抜けていってしまう。
シリィ=ロウの家においては、とりわけモルガの恐ろしさが伝えられていたのである。
シリィ=ロウは、旧家の生まれであった。
西の王国においては、古き血の民と称される一族だ。シリィの名に冠されたロウという氏が、その証であった。
数百年前に王国セルヴァが建国されたとき、それに従う人間は氏を捨てた。ゆえに、今でも西の王国において氏というものを有しているのは、領地を持つ貴族の人間と、古き血の民の末裔――王にまつろわぬ自由開拓民の末裔だけであるはずなのだった。
もっとも、数百年が経過した現在、自由開拓民というのはとりたてて迫害されているわけでもない。もう少し王都に近い地であるならば蛮人とみなされることもあるのかもしれないが、少なくとも、このジェノスにおいては他の民と同様に扱われているはずであった。
そもそもこの地は、自由開拓民が切り開いた土地であったのだ。
それを200年ほど前に、王命を受けたジェノス伯爵とその血族たちが占領し、支配してしまったのである。
それは、この地に川が流れ、作物を育てるのに適した土地が残されていると、王国の人間に知られてしまったためであった。
それまでは、開拓民たちも細々と暮らしていたのだという。確かにラントとタントの川は大きかったが、数百名ていどの人間では土地を切り開くのにも限界があったし、無理をせずともつつましく生きていくことはできた。魚がとれないのでキミュスを育て、アリアやフワノやママリアを必要なだけ育て、ときおり訪れる行商人から塩や必要な生活品を買い求め、きわめてひそやかに暮らし続けていたのである。
その平穏な暮らしが、200年前に打ち破られることになった。
ジェノス伯爵が率いる数千もの兵と、さらに多くの民たちに押し寄せられて、あっという間にこの地は支配されてしまったのだった。
せいぜい畑の収穫や村娘を狙う野盗ぐらいしか相手にしてこなかったこの地の開拓民たちに、あらがうすべなどあろうはずもなかった。
この地を去るか、それとも王国の民として生きていくか、好きなほうを選ぶべしと詰め寄られて、過半数は後者を選んだ。ロウの家も、そのうちのひとつなのだった。
ただしロウの家は、その中でもとりわけ協力的な姿勢を見せていたらしい。どちらかというと下賤に見られていた自由開拓民でありながら、のちのちは城下町の民となることが許されたのだ。数百名にも及んだ自由開拓民の中で、それが許された氏族は片手の指で済む数しか存在しなかった。
ともあれ、ジェノスの町はこの200年でこれほどまでに発展した。
あちこちの町から大勢の人間が流れてきて、現在の民の数は10万とも20万とも言われている。ジェノス伯爵家は侯爵家に改められて、騎士階級であったトゥラン、サトゥラス、ダレイムの三家にも爵位が与えられることになった。シムやジャガルとの交易も栄え、今ではセルヴァにおいても指折りで豊かな領土である――とされている。
思うに、ジェノス家というのは、ほとんど王都を追放される格好でこの地に追いやられたのだろう。
セルヴァにおいて、伯爵以上の家には領土が与えられているはずなのだ。その領土をセルヴァ王家に没収され、新たな領土は自分たちの手でつかみ取るべし――と、領民ともども追放されたに違いない。
その怒りや無念が力となって、このジェノスの町をここまで発展させたのだろうと思う。
今ではひそかにその力を王都の人間に恐れられているほどであり、三家に爵位を与えたのも、ジェノス侯爵ただひとりがその力と豊かさを自由にはできぬようにするためである、というもっぱらの噂であった。
シリィ=ロウは、そんなジェノスの城下町の民であったのだ。
とりたてて高い地位が与えられているわけではないが、由緒は正しいとされている。ロウ家でも、伯爵家の分家や子爵家ぐらいにならば何名かの人間を嫁がせたことがあるぐらいであった。
そしてロウ家では、古き血の一族ゆえの伝承というものが残されていた。
それがすなわち、モルガの山の伝承であったのだ。
モルガの山には、恐ろしい獣が棲みついている。ヴァルブの狼、マダラマの大蛇、そして赤き野人である。
モルガの山を荒らすものは、それらの獣に滅ぼされる。それはこの地に住まう人間の絶対の禁忌なのだ。それは正しくジェノスの支配者たちにも伝えられ、現在に至っている。
だから、80年ほど前に森辺の民が移り住んできたときも、年をくった者たちは猛烈な勢いで反対していたそうだ。
山麓の森にはギバやムントやギーズぐらいしか潜んではいないが、まかり間違って狼や大蛇や野人の縄張りを荒らすようなことになれば、その災いはジェノスそのものを滅ぼしかねない。ジャガルからやってきた蛮族など、早々にこの地から追い出すべきだ――と、そのように主張していたらしい。
しかし、当時の領主は森辺の民を受け入れてしまった。
その頃はちょうどギバによって作物が荒らされ始めた時期であったし、どうせ鋼の武器も持たぬ蛮族ではギバを狩ることもかなわず森に朽ちてしまうだろう、とでも思われたのかもしれない。
何にせよ、森辺の民が滅ぶことはなかったし、また、彼らの手によってモルガの山が荒らされることはなかった。聖域としての山は守られつつ、ギバの脅威だけが退けられて、ジェノスはいっそうの繁栄を手にすることがかなったのである。
シリィ=ロウがいま立っているのは、その恐ろしいモルガの山の麓なのだった。
その事実が、シリィ=ロウをいっそう脅かしているのだ。
東の方向に目をやれば、そのモルガの山が黒々とわだかまっている。それを目にするだけで心が畏怖に縛られてしまうため、シリィ=ロウはこの森辺の集落に足を踏み入れてから、なかなかまともに顔を上げることもできないぐらいだった。
(セルヴァよ、どうか御身の敬虔なる子に救いの手を……)
シリィ=ロウはぎゅっと目をつぶり、懐の護符をまさぐった。
そのとき、背後からぽんと肩を叩かれて、思わず悲鳴をあげてしまいそうになった。
「大丈夫ですか、シリィ=ロウ? このようなところで、いったい何をなさっているのです?」
振り返ると、黒褐色の長い髪をした娘が穏やかに微笑んでいた。
シーラ=ルウという名を持つ、この集落の娘だ。
シリィ=ロウはほっと息をつきかけたが、そのかたわらに獣のような目つきをした若者が立ちはだかっていることに気づき、また身体を縮めることになった。
「ああ、こちらはルウ本家の次兄でダルム=ルウです。ダルム=ルウ、こちらは城下町の――」
「城下町の料理人とやらだろう。親父が最初に説明をしていたではないか」
シーラ=ルウの言葉を荒っぽくさえぎって、その若者は果実酒の土瓶を傾けた。
どうやら酩酊しているらしく、いくぶん眠たげに目を細めている。その有り様が、いっそうシリィ=ロウを脅かした。
「ギバの丸焼きはもう口にしましたか? さきほどまで、わたしも切るのを手伝っていたのですが」
「い、いえ……わたしは、あの……」
連れのロイを捜しているのです、と伝えたかったが、生の香草でもかじったかのように舌が痺れて、うまく言葉を発することができなかった。
そんなシリィ=ロウの様子を見て、シーラ=ルウはにこりと笑う。
「それでは、わたしが運んできましょう。この勢いでは、すぐになくなってしまうでしょうから。……ダルム=ルウ、申し訳ありませんが、しばらくシリィ=ロウをよろしくお願いいたします」
「あ、ちょっと、あの……!」
シリィ=ロウの呼びかけなど聞かばこそ、シーラ=ルウはふわりと人混みの向こうに姿を消してしまった。
恐ろしい目つきをした酔漢と二人きりにされてしまい、シリィ=ロウは生きた心地もしない。土瓶に直接口をつけて果実酒を飲む人間など、シリィ=ロウにはまぎれもなく蛮族としか思えなかったのだった。
「……お前は城下町で、俺の兄や弟たちに料理をふるまったそうだな、娘よ?」
やがてダルム=ルウなる若者は、底ごもる声でそのように述べてきた。
「ジザやルドは、城下町であのような料理を口にできるとは思わなかった、などと言って、たいそう驚いていた……お前はずいぶんな力を持つかまど番であるようだな」
「…………」
「女衆がかまど番の仕事に励むのは正しいことだ。俺はギバの肉を使っていない料理など食べたいとも思えないが、お前は自分の力を誇るがいい……ジザがあのような言葉を口にするのは、めったにないことなのだからな……」
「…………」
「俺の話を聞いているのか、娘よ?」
「き、聞いています!」
「ふん……」とダルム=ルウはまた果実酒をあおった。
だいぶん酒気が回っているのではないだろうか。少し足もとがふらついている。
「ギバの肉など、口に入れば何でも同じだと思っていたのだがな……まったく小賢しいことだ……こんなに美味いものを食わされたら、文句をつけることもできないではないか……」
「…………?」
「美味い料理を作ることは、正しいことだ……癪にさわるが、それは認めてやる……だからもっと、自分の力を誇るがいい……以前に比べればずいぶん元気になったとは思うが、まだまだまったく足りていないぞ……?」
「あ、あの、あなたは何を仰っているのですか……?」
おそるおそる、シリィ=ロウは問うてみた。
しかしダルム=ルウは焦点の合っていない目つきで、今にも倒れ込んでしまいそうな気配である。
そのとき、シーラ=ルウが木皿を手に戻ってきた。
「お待たせいたしました。あら、どうなさったのですか、ダルム=ルウ?」
「どうなさったではない……俺が話しているのだから、きちんと返事をしろ……」
シーラ=ルウは困ったように笑い、シリィ=ロウを振り返ってくる。
「申し訳ありません。いったい何のお話をされていたのですか?」
「……わたしにもよくわかりません」
シリィ=ロウは、もうシーラ=ルウに取りすがってしまいたいぐらいの心境であった。
森辺の民の中でも、この娘はとりわけ親切で、しかも理知的であるように感じられるのだ。頼りにならない連れと案内役が見つからない以上、このシーラ=ルウこそがシリィ=ロウにとっては唯一のよすがであった。
「とりあえず、こちらをどうぞ。これが昼間から焼いていた、ギバの丸焼きです」
シーラ=ルウが木皿を差し出してきたので、シリィ=ロウは乱れた気持ちをそちらに集中させることにした。
炙り焼きにされた皮つきの肉が、小さく切り分けられて皿の上に載っている。皮は褐色に照り輝き、肉は白くてしっとりとしている。漂ってくるのは、肉とピコの葉の芳香だ。
「ダルム=ルウもどうぞ。果実酒ばかりでなく、料理も召し上がってください」
「ふん……」と力なくダルム=ルウが手をのばしたので、シリィ=ロウもそれにならうことにした。
すでに何度となく味わわされたギバの肉である。
やはり塩とピコの葉しか使われていないらしく、肉の味が直接的に伝わってくる。
キミュスやカロンに比べれば、肉質は固いほうだろう。
ギャマよりも、少し固いぐらいかもしれない。
しかしそれは筋張った固さではなく、しっかりとした肉の繊維から生み出される心地好い噛み応えであるように思えた。
野生の獣ならではの、乱暴な味わいだ。
しかし、不快な臭みはまったく感じられない。しっかりと血抜きがされているのだろう。
半日も炙られていたので、脂気や水気は抜けている。しかし、皮と肉の間にはぷるぷるとした脂の層が残されており、旨みは損なわれていない。噛んでも噛んでも味のつきない、これはカロンやギャマにも負けない上等な肉質であるのだった。
「食材として、ギバの肉というのは本当に素晴らしいと思います。でも、これは料理としてあまり工夫はされていませんね。使われているのは塩とピコの葉だけのようですし、火加減以外では何の苦労をすることもなかったでしょう」
「はい。ですが、長い時間をかけて炙り焼きにするからこそ、ここまでギバ肉の素晴らしさを引き出すことがかなうのだとアスタに習いました。工夫がないぶん、誰でも作ることができるのですから、森辺のかまど番にとってはとても得難いことなのです」
そのように言って、シーラ=ルウはまた微笑んだ。
「そして、長い時間をかけるというのは、わたしたちにとって特別な行為ですし、それが許される豊かさというのも、かけがえのないものだと思います」
「……わたしにはよくわかりません。まあ、祝いの席には相応しい料理なのでしょうね。シムにおいては祝いの席で、丸焼きにしたギャマを頭ごと卓に並べる習わしがある、とも聞きますし」
料理の話をしている間だけ、シリィ=ロウは気丈でいることができた。
シーラ=ルウも、心なしか嬉しそうな顔をしてくれているように感じられる。
「それでは別の料理のご案内をいたしますね。あちらにはリミ=ルウたちの作った菓子もありますが、いかがですか?」
「あ、いえ、わたしは連れのロイを捜しているのですが……」
シリィ=ロウの言葉に、シーラ=ルウは「ああ」とうなずく。
「ロイという方はアスタたちとご一緒でした。それでわたしがシリィ=ロウをご案内することになったのです」
「え? それはどういう意味ですか?」
「はい。アスタたちもシリィ=ロウの姿が見えなかったので心配していたようです。それで、わたしがこれからギバの丸焼きをお届けするのだと伝えたら、それじゃあよろしくお願いするよと言われました」
「そ、それでどこかに行ってしまったというのですか? わたしを置き去りにして?」
「あ、いえ、わたしが自ら願い出たのです。あなたとはもっと縁を深めたいと思っていたので……ご迷惑でしたか?」
シリィ=ロウは、言葉に詰まることになった。
このシーラ=ルウという娘の申し出を退けるのは気が引けたし、それに――それを断ってロイたちとの合流を望んだら、まるで迷子の幼子みたいではないか、と思えてしまったのだ。
(どっちみち、何かあってもロイでは助けにならないしな……)
どうも最近、あの若者は昔のふてぶてしさを取り戻してきたようで、シリィ=ロウにはなかなか扱いが難しくなってきていたのだ。
あの若さで、何の後ろ盾もなく、トゥラン伯爵家の前当主に見初められるぐらいであるから、料理人としての下地はできているのだろう。けっきょく最後まで使用人の食事の準備ぐらいしか任されることはなかったようだが、それでも彼は誰かの弟子ではなくひとりの料理人としてあの屋敷に招かれていたのである。
(だからといって、ヴァルカスに無礼な口を叩いていい理由にはならないけれど)
するとシーラ=ルウが、心配そうに呼びかけてきた。
「どうされましたか? やはりおひとりではご心配ということでしたら……」
「いえ、かまいません。この場を巡っていれば、いずれどこかで出くわすでしょう。それまでご案内をしていただけたら、とても助かります」
「そうですか」とシーラ=ルウは瞳を輝かせた。
他の森辺の民に比べれば清楚でつつましい娘であると思えるが、やっぱりふとしたときに町の人間とは異なる力強さや生命力が感じられる。今がまさにそのときであった。
「ありがとうございます。それでは、菓子のところに行きましょう。ダルム=ルウは、大丈夫ですか?」
「何がだ……? 俺は酔ってなどいないぞ……?」
いっそうまぶたの下がってきたダルム=ルウが、ぼんやり言葉を返してくる。
最初に顔をあわせたときよりも、彼は格段に恐ろしくなくなっていた。
そうしてシリィ=ロウは、シーラ=ルウによって広場の一画へと案内された。
石のかまどは築かれておらず、かがり火に照らされた敷物の上に、木皿がずらりと並べられている。そこにも大勢の人間が集まっていたが、その大半は女性であった。
「あ、あんた、いったいどこに行ってたのさ?」
その中のひとり、森辺の民とは肌の色が異なる娘が大きな声をあげてくる。シリィ=ロウを現在の状況に追い込んだ張本人、ユーミである。
「あなたこそ、わたしを無理やりあのような場に連れ出しておいて――!」
「んー? 仲良くなるには、一緒に歌ったり踊ったりするのが一番でしょ。すっごく楽しかったじゃん」
そのように言ってから、ユーミはくすくすと笑い声をたてた。
「でもあんた、城下町の人間のくせに踊りはからきしなんだね。酔っ払ったキミュスみたいにへろへろ回るばっかりでさ」
「わ、わたしは料理人の弟子に過ぎませんし、舞踏会に招かれるような身分でもありません! 城下町の人間だからといって、誰もが踊りが達者であるという道理はないでしょう?」
「そんなに怒んないでよー。踊りなんて、当人が楽しければそれで十分なんだから」
おかしなことに、ユーミは最前までよりもよほど気さくな態度になっていた。
シリィ=ロウを疎んじる気配がなくなり、楽しそうに笑っている。まさか、あれだけのことでシリィ=ロウに対する警戒心を解いてしまったのだろうか。
「あとでまた何曲か演奏してくれるみたいだから、そしたらまた一緒に踊ろうね?」
「お断りいたします!」
シリィ=ロウが声を荒らげても、いっかな気にする様子はない。
また演奏が始まったら力ずくで拉致されるのではないかと、シリィ=ロウは本気で心配になってきてしまった。
「それじゃあ、また後でね。あたしらはちょいと用事があるから」
と、ユーミは大きな木皿を手に立ち上がった。
どうやらそれは自分で運んできた皿であるようで、色とりどりの菓子が小分けにされてぎっしりと載せられていた。
そうしてユーミはテリア=マスとともにその場を去り、空いた場所にシリィ=ロウたちは腰を落ち着ける。
先客であった幼子や若い娘たちは、笑顔で菓子を頬張っていた。
並べられているのは、茶会や晩餐会でも披露された不思議な菓子や、焼き菓子などだ。それに、小皿でパナムの蜜や果実の煮汁などが添えられている。
「どれも美味しそうですね。シリィ=ロウは、どれから手をつけますか?」
「そうですね。一通りは口にしたいので、どれからでもかまいません」
すると、優しげな面立ちをした年配の女性が、手ずから菓子を取り分けてくれた。
「こちらをどうぞ。この菓子にはそちらの淡い茶色をした蜜がよく合うようだよ」
「……ありがとうございます」と、シリィ=ロウはその木皿を受け取った。
半透明の不思議な菓子が、ぷるぷると揺れている。アスタたちが『チャッチ餅』と呼ぶ菓子である。
これは茶会のときと同じようにカロン乳が使われているらしく、ほんのりと白く照り輝いていた。
で、淡い茶色をした蜜というのは、ホボイの実に黒く煮込んだ砂糖を練りあわせたものであるらしい。ホボイの実の香ばしい匂いがやわらかく鼻をくすぐってくる。
「……この菓子は、やはり美味ですね。見るたびに異なる食材が使われているようですが、それは味を決めかねているわけではなく、さまざまな味を楽しませようという意図なのでしょう」
「そうですね。ギギの葉を使ったものもカロンの乳を使ったものも、わたしは同じぐらい美味であると思います」
「だけど、これも大もとはアスタの考案した菓子なのですよね? これはとうてい元の食材を活かそうとした菓子には思えないのですが」
そのように言ってから、シーラ=ルウはあの場にいなかったのだということを思い出した。
「何のお話でしょう?」と問われてしまったので、しかたなくシリィ=ロウはミケルから聞かされた言葉を説明してみせる。
「元の味を活かそうというのがミケルやアスタの作法で、元の味から遠ざかろうというのがヴァルカスの作法、ですか……なるほど、言われてみれば納得できるお話ですね」
「はい。ですが、これはチャッチを煮詰めた粉から作りあげた菓子なのでしょう? とうていチャッチの味を生かした菓子だとは思えません」
「ええ。きっとアスタは元の味を活かすという作法にだけこだわっているわけではないのでしょう。それよりもまず、見知らぬ食材を使って自分の知る料理を作りあげる、ということを一番の眼目にしているのでしょうから。……たとえば、ポイタンを粉にしてから水に溶いて焼きあげる、という食べ方を考案したのもアスタなのですが、それより早くフワノという食材に巡りあっていたら、頭を悩ませることもなかったかもしれないなあと話していたことがありました」
「それはつまり……アスタの故郷にはもともとフワノのような食材があったので、ポイタンをそのような形で調理することを考案することになった、ということでしょうか?」
「はい。ポイタンは穀物と呼ばれる食材であるようだから、きっと何とかできるはずだと思ったのだそうです」
何だか頭の痛くなるような話であった。
アスタはこの集落を訪れてから、初めてアリアやポイタンやギバ肉という食材を扱うことになったのに、わずか数ヶ月で現在のような料理を作りあげるに至ったのである。
反面、故郷に存在した食材と共通点が見つけられない食材はどのように扱えばいいかもわからないので、今でも何種類かの香草や野菜は手付かずで放置されている。こんな奇妙な料理人が、他に存在するだろうか。
「本当にアスタというのは不思議な方です。わたしには、森辺の民に幸福をもたらすために遣わされた聖なる存在であるように思えてしまうのです」
「……わたしにとっては、ヴァルカスを惑わす不吉な存在でしかないのですが」
「ヴァルカスは惑っているのでしょうか? この作法は自分に必要のないものだ、と切り捨てることによって、素直にアスタの手並みを楽しんでいるように思えるのですが」
シリィ=ロウは、反論できなかった。
どうもこの夜は、何を言っても言い負かされるばかりであるようである。
「だけど、わたしにとってはヴァルカスもシリィ=ロウも不可思議な存在です」
「え? わたしが何ですか?」
「昨日も言いましたが、城下町の民でありながら、ギバの肉も使わずに、森辺の民をあそこまで喜ばせることのできたシリィ=ロウは、ヴァルカスと同じぐらい不可思議で得難い存在であるように思えるのです。……シリィ=ロウが森辺の集落に来てくださって、わたしは心から嬉しく思っています」
そのように言ってから、シーラ=ルウは「きゃあ」と悲鳴をあげた。
隣に座していた若者が、いきなり彼女にのしかかってきたのだ。
いったん肩にもたれてから、そのままずるずると足もとにまで沈没していく。そうしてシーラ=ルウの膝の上に墜落した若者は、すうすうと安らかな寝息をたてていた。
「ダ、ダルム=ルウ、眠ってしまわれたのですか? お酒を召されすぎなのですよ」
シーラ=ルウは真っ赤になりながら、若者の肩をゆさぶった。
しかしダルム=ルウは目覚める気配もなく、心地好さげにまぶたを閉ざしている。
そうして意識を失ってしまうと、この若者もずいぶん幼げに見えてしまった。
「あ、あの、ダルム=ルウをおろすのに力を貸していただけませんか?」
シーラ=ルウが呼びかけると、年配の女衆は楽しそうに微笑んだ。
「こんな薄っぺらい敷物よりは、あんたの足の上のほうが寝心地もいいんじゃないかねえ? ほら、こんなに幸せそうな寝顔をしているじゃないか」
「で、ですが、ティト・ミン=ルウ、未婚の男女がみだりに触れ合うというのは森辺の習わしに――」
「あんたとダルムならかまうこともないんじゃないのかね。昔から、宴のときぐらいはお目こぼしをもらえたもんだよ」
他の娘や幼子たちも、にこにこ笑いながら菓子を食べ続けている。
シーラ=ルウはいっそう真っ赤になりながら、すがるような目でシリィ=ロウを見つめてきた。
「お気遣いなく。菓子ぐらいは自分の手で取れますので」
「あ、いえ、そうではなく――」
それ以上の言葉は黙殺して、シリィ=ロウはポイタンの焼き菓子に手をつけることにした。
べつだん意地悪をしようと思ったわけではない。とても困った顔をしながらも、シーラ=ルウはどこか幸せそうに見えたので、余計な手を出す気持ちになれなかったのである。
そうしてゆるやかに時間は流れていき、長きに渡った宴もいよいよ終わりが近づいているようだった。