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異世界料理道  作者: EDA
第二十二章 群像演舞~二ノ巻~
382/1675

    双頭の蛇(下)

2016.9/22 更新分 1/1

 ギャムレイとその仲間たちは、敷物も敷かれていない広場の隅の薄暗がりで果実酒や料理を楽しんでいた。

 といっても、かたわらにあるのは外套で人相を隠したふたりだけだ。ひとりはゼッタという奇怪な子供で、もうひとりはロロがライ爺と呼んでいた老人であった。


「座長、こちらの方々が挨拶に出向いてくださいました」


 ロロの言葉に、ギャムレイが「うん?」と振り返る。

 こちらもまた、連れの者たちに劣らず奇怪な男である。


 片方の目や腕を失っているというのは、べつだん気になることでもない。森辺においても、そうして深い傷を負う男衆は珍しくなかった。

 男のくせにじゃらじゃらと飾り物を下げているのも、シムの民やジェノスの貴族などではよく見られた習わしである。

 だからそういう外見ではなく、その身体から発せられる雰囲気や、片方しかない瞳に宿った輝きが、普通の人間とは異なっているのだった。


「俺はルウ家の眷族たるレイ家の家長で、ラウ=レイだ。こちらは家人のヤミル=レイ。お前たちは明日の朝早くジェノスを出ていくのだと聞いたので、最後に挨拶をしておこうと思ってな」


「ほうほう、それはいたみいる」


 ギャムレイはにやにやと笑いながら右手の土瓶を高く掲げた。

 樹木の幹にもたれかかり、地べたに座り込んで、広場の様子を眺めていたらしい。他の座員が運んできたのか、その足もとには料理の載った木皿が並べられており、特に不自由はないようだ。


「お前はいかにも宴が好きそうな面がまえをしているのに、ずいぶん物寂しいところに引っ込んでしまっているのだな?」


「ああ、俺たちは芸を見せるのが仕事なんでね、宴がなくっちゃ生きてもいけない。だけど、客人としてもてなされるなんてのはなかなかないことだから、芸でもしていないと身の置きどころがなくってねえ」


 そのように述べながら、ギャムレイはぐびりと果実酒をあおった。


「演奏が終わったら、また火の芸でもお目にかけよう。ロロ、その間はゼッタたちを頼むぞ?」


「ああ、はい、わかりました」


 ロロもぺたりと腰を下ろして、皿の上の肉をつまんだ。

 そのかたわらから、ラウ=レイがゼッタのことを覗き込む。


「お前もたしか、狩人とともに森に入っていたのだったな? 実に不思議な姿をしているそうだが、お前はいったい何者なのだ?」


 頭巾と外套で姿を隠したゼッタは、余計に小さく縮こまってしまう。

 その小さな頭を、ギャムレイが笑いながら何度も叩いた。


「ゼッタは黒猿と人の間に生まれた子だ。信じる信じないはご自由に。……ただ、臆病な気性をしているので、愛想がないのはご勘弁願いたい」


「臆病なのか? 野盗に襲われたときも狩りのときも、そやつはずいぶん勇猛にふるまっていたそうだが」


「敵を倒す力はロロにも黒猿にも負けないが、敵でない人間を相手にするのが苦手なのだよ」


「そうか。世の中には色々な人間がいるものだ」


 そのとき、広場の中央から玲瓏なる歌声が響いてきた。

 あのニーヤという吟遊詩人の歌声だ。

 忌々しげにそちらを振り返ったラウ=レイが、軽く眉をひそめる。


「今、ガゼの一族と聞こえたような気がするな」


「ええ、確かにそう言ったわ」


 それはまた、数百年も昔のことを歌った歌であった。

 シムを出奔したガゼという一族が、黒き森で白き女王の民という一族に巡りあう、という物語である。

 それを聞く内に、ヤミル=レイはぞくぞくと奇妙な感覚にとらわれていくことになった。


 ガゼというのは、スンの前の族長筋の氏だ。

 黒き森からモルガの森に移り住んだのち、ガゼ家が眷族のリーマ家とともに滅んでしまったため、スン家が新たな族長筋として森辺の民を治めていくことになったのである。


(その白き女王の民というのがジャガルの一族なのだとしたら……森辺に残されている伝承とも一致するわね)


 それではやはり、森辺の民というのはシムとジャガルの間に生まれた一族なのだろうか。

 ヤミル=レイは、自分でも驚くほどに情動を揺さぶられてしまっていた。


(漂泊の民と呼ばれていたわたしたちの祖が、最後に辿り着いたのが黒き森……そこで流浪の生を終えて、先人たちは狩人として生きていくことに決めたのかしら……)


 ニーヤの歌声が途絶えても、ヤミル=レイはなかなか自分を取り戻すことができなかった。

 しかし、その隣でラウ=レイは「ふん」と鼻を鳴らしていた。


「やはり胡散臭い男だな。数百年も昔の話を、どうして自分が見てきたように語れるのだ? 虚言は罪だぞ?」


「ほほう、それは森辺の習わしかな? あいにく吟遊詩人というのは、法螺を吹くのが仕事みたいなもんなんでね」


「なるほどな。あいつには相応しい役割だ」


 ぶすっとした顔で言い、ラウ=レイはギャムレイの前で屈み込んだ。


「だけどまあ、お前たちの芸というのはなかなか愉快だ。そちらの子供や老人たちは、どのような芸をするのだ?」


「ゼッタは曲芸を修行中の身で、ライラノスは過去や未来を言い当てる星読みだ。何なら、何か占ってみせようか?」


「占いか。そのようなもの、森辺の民には不要だな」


 ラウ=レイの素っ気ない返答に、ギャムレイは楽しげに笑い声をあげる。


「不安や迷いを抱かぬ者に、星の導きは不要だからな。確かに果断なる森辺の狩人には、無用の長物かもしれん」


「ああ。しかし、町の人間がそれを求めるなら、立派な仕事だ。べつだん星読みという芸を貶めているわけではないからな?」


 さきほどの反省があったのか、ラウ=レイは珍しくそのように弁明した。

 ギャムレイはうなずき、新品の土瓶をそちらに差し出す。


「それでは、友情の証に酒盃を掲げよう。俺も森辺の民の明るくて胆の据わった気性はとても心地好く感じられる。さきほどの歌を持ち出すつもりはないが、そういうところは南の民に通ずるところがあるな」


「ふむ、お前たちはジャガルやシムなどにも足をのばすという話だったか?」


 土瓶を受け取ったラウ=レイがそのように問うと、ギャムレイは「ああ」とうなずいた。


「ジェノスを出たら、ジャガルに向かうつもりだよ。その前はシムにいたもんでね。……シムはシムでよいところはたくさんあるが、何をしてもぴくりとも笑わないので、芸の見せ甲斐があるのはジャガルだな」


「ああ、シムの民は表情を動かすということを知らぬようだからな。まあそういう人間は森辺にも多いし、俺はそういう連中も大好きだが」


 楽しげに笑いつつ、ラウ=レイがふっとヤミル=レイを仰ぎ見る。


「お前はいつまで突っ立っているのだ? 宴衣装でもないのだから、地べたでもかまわぬだろう?」


「ええ……そうね」


 ヤミル=レイは、ラウ=レイの隣に膝を折った。

 ギャムレイとロロは笑っており、残りの2名はうつむいたままである。


「……あなたたちは、漂泊の生に身を置いているのよね? それはどういう気分なのかしら?」


「気分? 気分か……最高のようであり、最低のようであり、とうてい一言では語れんな」


 ギャムレイは鉄串で肉を刺し、にやりと笑いかけてくる。


「しかしまあ、俺たちはこのような生き方しかできないからそうしているのだ。ひとつの場所で何年も同じ暮らしを続けるなんて、想像しただけで頭がおかしくなりそうだからなあ」


「そう……」


「漂泊の生に興味がおありか? お前のように美しい娘であれば、こちらは大歓迎だが」


 ヤミル=レイは息を呑む。

 しかし、ラウ=レイは笑っていた。


「森辺の民は、森を離れては生きていけぬのだ。森に生きて、森に魂を返す。それが俺たちの生なのだからな」


 ヤミル=レイは、ラウ=レイの横顔をじっと見つめた。

 女衆のように優美でありながら、果断で勇猛な笑みを浮かべた横顔である。その水色に輝く瞳にも、森辺の狩人に相応しい力強さが宿っている。


 いささか短慮で子供じみてはいるものの、17歳の若さでレイ家を率いるラウ=レイなのである。

 たしかドム家の家長も同じぐらいの齢であっただろうか。外見も気性も正反対だが、その勇猛さや迷いのなさというのは、どちらも引けを取らぬようであった。


 その力強さや迷いのなさというのが、今のヤミル=レイには眩しく、そして妬ましかった。

 自分が正しいのだと信じることのできる、それが森辺の民の強さなのだろう。誰に恥じることもなく、正しいと信じた道を突き進んでいるからこそ、森辺の民はこのように力強く、誇り高くふるまうことができるのである。


 ヤミル=レイは軽く唇を噛み、頭巾を纏った老人のほうに視線を差し向けた。

 老人はぴくりとも動いていなかったが、木にもたれもせず、静かに座している。まるで生命のない置き物であるかのようだった。


「ライラノス……といったかしら? あなたに星を読んでもらうには、銅貨が必要なのでしょうね?」


 ラウ=レイがけげんそうに振り返り、ギャムレイは興味深そうに顎髭をまさぐった。


「このような宴に招かれて、銅貨を取るわけにもいくまいよ。お望みなら、何でも占ってもらうがいい」


「ヤミルは星読みなどというものに興味があるのか? 酔狂な女だな」


 そのとき、ギバの丸焼きが焼けたと告げるシーラ=ルウの声が聞こえてきた。

 ラウ=レイは、目を輝かせて立ち上がる。


「それでは俺は肉を運んできてやろう。客人たちは、ちょっと待っていてくれ」


「あ、ボクもお手伝いいたします」


 ラウ=レイとロロが立ち去って、その場には4名だけが残された。

 ヤミル=レイは、老人の前に膝を進める。


「それじゃあ、占ってもらえるかしら? わたしの――今後の行く末を」


「かしこまりました……」と老人が外套の内から手を出した。

 その手に握られていたのは、透明な石を連ねた首飾りだ。


「お名前と齢、そして生まれた月をお聞かせ願えますかな……?」


「名前はヤミル=レイ、齢は21、生まれた月は緑の月よ。……生まれた日はいいのかしら?」


「ほう、森辺の民は生まれた日までを覚えているのかな? 西の民には、そのように奇特な人間は少ないのだが」


 これはギャムレイの言葉である。ヤミル=レイは老人のほうを向いたまま「ええ」とうなずく。


「生まれた月と日は、生誕の日として家人に祝われる習わしよ。そういえば、西の民にはそういう習わしがないそうね」


「ああ、西にも南にもそういう習わしはない。生まれた日までもがわかっているなら、いっそう正しく星を読むこともできるだろう」


「それは幸いね。わたしが生まれたのは、緑の月の30日よ」


「緑の月の30日……」と、老人がじゃらじゃらと首飾りをまさぐる。

 そして、光を失った目がヤミル=レイのほうに向けられてきた。


 この老人は、盲目であるのだ。

 その顔は痩せ細り、そして頬や額には奇怪な紋様が描かれている。


「あなた様は、蛇の星……それも、非常に珍しい、双頭の蛇の星でございますね……」


「双頭の……蛇?」


「はい……世を乱し災厄を招く、凶星にてございます……」


 ヤミル=レイは、腰のあたりの布地をつかんだ。

 首の裏からするすると体温が逃げていくのを感じる。


「これは……さらなる凶星、火の竜の星より生まれし星でありましょう……火の竜も双頭の蛇も、他者の運命を貪欲に喰らい尽くす奇禍の星であるのです……」


「…………」


「しかし……双頭の星を生んだ火の竜の星は、滅しました……さまざまな星を率いた大獅子の星に、その光をかき消されたようです……これは……なんと眩い輝きか……」


 老人は、見えぬ瞳を包むまぶたを小さく震わせた。


「大獅子の星の率いる、狼の星、犬の星、豹の星……鷹の星、猫の星、猿の星……まるで流星群のごとき輝きに見舞われて、火の竜の星は滅しました……そしてこれは……黒き深淵……?」


「黒き深淵というのは、初めて聞いたな」と、ギャムレイが小さく潜めた声でつぶやいた。きっと老人の託宣の邪魔をしないように気遣っているのだろう。


「黒き深淵……いや、黒き星……? ああ、失礼いたしました……これは違います……」


「違う?」


「この黒き深淵を読み解くことは、わたしにはかないません……この星ならぬ星なくして大獅子と竜の邂逅はありえなかったのでしょうが、それを語っても詮無きこと……ともあれ、竜の星は滅しました……」


「だけどわたしは、竜ではなく蛇なのでしょう?」


 囁くような声で、ヤミル=レイは問うた。

「はい……」と老人はしわがれた声で答える。


「双頭の蛇は……父なる竜を失って、己の尻尾に喰らいつきました……これは円環の相……繰り返される苦痛……終わらぬ死……」


「繰り返される苦痛」


 ヤミル=レイは、発作的に笑いだしそうになった。

 何か胸の奥に封じておいた邪悪なものが、もぞりと蠢いたかのような――凄まじい恐怖と快楽がないまぜになって、心臓に纏わりついてくる。


「繰り返される苦痛と終わらない死が、わたしの運命なのね?」


「いえ……」


 老人は、じゃらじゃらと首飾りをまさぐった。

 肉の薄い顔に、汗が浮かんでいる。


「しかしこれは双頭であるゆえに……完全な円環を描くことがかないませんでした……頭はふたつでも、尻尾はふたつないのです……」


「わからないわね。何でもいいから、結論を聞きたいわ」


「結論は……ありませぬ……」


「結論はない? それじゃあわたしは何のために長々とあなたの話を聞いていたのかしら?」


 ヤミル=レイは、頬のあたりに違和感を感じた。

 ひょっとしたら、自分は笑っているのかもしれない。

 笑いたくもないのに、唇が勝手に吊り上がっている。そんな異様な感覚に、全身が痙攣しそうであった。


「円環は崩れました……尻尾を喰らっていた頭も、喰らわれていた尻尾も、闇の底へと砕け散り……残されたのは、片方の頭のみ……もはやその座に双頭の蛇はなく、蛇の頭のみが漂っております……」


「しかし、蛇というのはそれ自体が死と再生をつかさどる星だという話だったな?」


 また低い声音で、ギャムレイが口をはさんできた。

 老人はうっそりとうなずく。


「古き皮を脱ぎ捨てて、この蛇の頭も生まれ変わりましょう……胴体がないので時間はかかりましょうが、いずれは元よりも強き光を放つはず……その古き皮を脱ぎ捨てるまで、わたしにこの星の行く末を見ることはかないませぬ……」


「蛇の頭というのは、凶星なのか?」


「いえ」と老人は言い切った。


「凶星なるは、双頭の蛇……これはもはや双頭ならぬ、ちっぽけな蛇の頭にすぎませぬ……生まれたての小さき蛇よりも無力で、みずから動くこともかなわない……己の無力さを嘆く、か弱き星です……」


「…………」


「しかし……そのかたわらにある犬の星が、この蛇の星を守りましょう……いずれ強き光を取り戻す、その日まで……」


 そのとき、ふいに肩を叩かれた。

 半ば忘我の状態にあったヤミル=レイは悲鳴を噛み殺して、後ろを振り返る。


「何だ、そんなに驚かせてしまったか? そら、ギバの丸焼きだぞ」


 大きな木皿を両手に抱えた、それはラウ=レイであった。

 思わず地べたに崩れ落ちそうになりながら、ヤミル=レイはゆるゆると首を振る。


「まだ星読みなどというものに興じていたのか。まったく、物好きなことだな」


 その手の木皿を地面に置いてから、ラウ=レイはどかりと座り込んだ。

 そして、「うん?」とヤミル=レイに顔を寄せてくる。


「どうしたのだ? 何を泣いているのだ、ヤミルよ」


「泣いてなどいないわ。馬鹿なことを言わないでちょうだい」


「しかし、涙を流しているではないか」


 そのように言いながら、ラウ=レイが指をのばしてきた。

 身を引くヤミル=レイの目もとにそっと触れ、怒ったように口をとがらせる。

 驚くべきことに、確かにその指先はわずかに濡れているようだった。


「老人よ、いったいお前はヤミルに何を語ったのだ? 事と次第によっては、俺も黙ってはいられんぞ?」


「やめて、家長。この人に罪はないわ。……これはちょっと、砂が目に入ってしまっただけよ」


「本当か? 虚言は罪だぞ、ヤミルよ?」


 ラウ=レイが、ぐっと顔を寄せてきた。

 その水色の瞳は、それこそ夜空に浮かぶ星のように強く明るく光っている。

 ヤミル=レイは目もとをぬぐい、笑ってみせた。


「本当よ。わたしがこれまでに虚言を吐いたことがあった?」


「お前はちょくちょく虚言を吐くではないか。俺がそれをどれだけ気に病んでいるのか、お前にはわからんのか?」


 強い口調で言い、ラウ=レイはヤミル=レイの肩をぐっとつかんできた。


「虚言は罪だし、何より、そのようなものを口にする必要はない。お前は正直に、思ったままのことを口にすればいいのだ。それが間違った言葉であれば俺が正してやるし、正しいのに他者を怒らせてしまったときは俺が守ってやる。とにかく、同胞に心を隠すな」


「……それがどれほど難しいことか、あなたには想像もつかないのでしょうね」


「当たり前だ。でも、ヤミルが苦しんでいることはわかる」


 水色の瞳が、真っ直ぐヤミル=レイの内側に食い入ってくる。

 乱暴で容赦のない、森辺の狩人の眼光だ。


 どうしてそんなに前だけを向いていられるのか、それがヤミル=レイにはわからなかった。

 だからヤミル=レイには、真っ直ぐ向き合うのが難しいほど、眩しいのだ。


 ヤミル=レイは小さく息をつき、肩をつかんだ家長の手をぴしゃりと叩いた。


「家人といえども、血の繋がっていない女衆に気安く触れるのは如何なものかしら? それだって虚言と同じぐらい罪なことなのじゃない?」


「やかましいやつだな。だったら、そのように心配をかけるな」


 ぶちぶちと言いながら、ラウ=レイは手をおろした。

 しかしまだその熱がヤミル=レイの肩に残っている。


 胸の奥底に蠢いていたおぞましい感覚は、綺麗に消えていた。

 まるで悪い夢でも見ていたかのようだ。

 見ると、占星師の老人は首飾りを外套の内にひっこめて、また置き物のようにうつむいていた。


(生まれたての蛇よりも無力で、みずから動くこともかなわない、か……)


 それはきっと真実なのだろう。

 ヤミル=レイは、きっとこの森辺の集落で一番無力な存在であるのだ。

 それとも、ディガやドッドもまだ自分の道を見いだせずに苦しんでいるのだろうか?

 自分にとって正しい道はどこにあるのか、それを見つけられない限り、心の安息など得られるはずはないのだ。


「お待たせしましたぁ。果実酒ももらってきましたよぅ」


 と、そこにロロも帰ってきた。

「ご苦労」とギャムレイが陽気に声をあげる。


「それではもう一度、森辺の民との出会いを祝させていただこうか。そちらの皆々様も、如何かな?」


「ええ、いただくわ」と、ヤミル=レイはロロから土瓶を受け取った。


「何だ、飲むのか? ヤミルが果実酒を口にするのはひさびさだな」


 まだちょっと不機嫌そうな顔をしていたラウ=レイが目を丸くする。

 ヤミル=レイは、そちらに小さく舌を出してみせた。


「今日はそういう気分なのよ。しょっちゅう酔いつぶれているあなたに文句を言われる筋合いはないわ」


「…………」


「何よ、おかしな顔をして」


「いや、ヤミルでもそのように幼げな顔をするのだな。とても可愛いし、幼げなのに色っぽかった」


「……そうやって心情を垂れ流すのが正しい姿だというのなら、わたしはちっともあやかりたくないわね」


 ヤミル=レイは果実酒を口にした。

 強い酒精が、咽喉を焼いていく。

 確かに果実酒を口にしたのはひさびさであったので、この夜は自分が酔いつぶれてしまうかもしれなかった。


(そういえば……)


 犬とは、どのような獣なのだろう?

 口をへの字にしている家長の顔を見つめながら、ヤミル=レイはこっそりそのように考えた。


 そんなヤミル=レイたちの背後からは、また賑やかな音色が聞こえてくる。ギバの丸焼きを食した座員たちが、再び演奏を始めたのだろう。

 この夜の宴が終わるには、まだまだ長きの時間がかかるようだった。

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