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異世界料理道  作者: EDA
第二十一章 銀の月
378/1675

歓迎の宴④~果てなき夜~

2016.9/5 更新分 1/1 2016.9/14 文章に誤りがあったので修正しました。

・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。

「ああ、こちらにいらしたのですね」


 俺の顔色が常態に戻った頃、レイナ=ルウが大きな木皿を手にしてこちらに近づいてきた。

 そこに載せられていたのは、どうやら揚げたてであるらしい熱々のギバ・カツである。ひとかかえもある大きな木皿が、キツネ色の衣を纏ったカツでびっしりと埋めつくされていた。


「どうも火の勢いが弱かったらしく、ギバの丸焼きがなかなか仕上がらないようなので、先にこちらを仕上げてしまいました。よかったら味を確かめてください」


 ダン=ルティムを筆頭に全員が歓声をあげていたが、レイナ=ルウの目はロイとシリィ=ロウの姿をひたすら見据えていた。

 汚れた木皿は水瓶の水で洗われて、そちらに『ギバ・カツ』が取り分けられていく。後から追ってきた分家の女衆が大量の千切りティノを運んでくれたので、それも同じように取り分けられた。


 カツにはソースとシールの果汁が、ティノの千切りにはドレッシングが準備されている。こってりとしたソースをチョイスしたドーラの親父さんが笑顔で『ギバ・カツ』を頬張ると、その酒気に染まった顔にはさらなる歓喜の表情が爆発した。


「いやあ、やっぱりぎばかつってのは最高だなあ! ギバの料理の中でも、こいつは格別だよ!」


「ええ、やっぱり揚げたてのカツはたまらないですね」


 心の底から同意を示しつつ、俺もぞんぶんに『ギバ・カツ』の味を堪能させていただいた。

 衣はさくさくで申し分ないし、熱の入れ方も絶妙だ。そしてやっぱり、ギバのラードでカツを揚げると、豊かな風味がたまらない。それでいて変にくどい感じはせず、サラダ油で揚げるトンカツよりもすっきりしているようにさえ感じられるのだから、どこにも文句のつけようはなかった。


「……如何ですか?」


 レイナ=ルウは敷物に膝をつき、ロイたちの顔を真正面から見つめた。

 ソースとシールの果汁の両方で『ギバ・カツ』を味わったロイは、「美味いよ」と応じる。


「本当にお前たちは、揚げ物料理が得意なんだな。流行遅れってことで俺もあんまり真面目には取り組んでなかったけど、カロンやキミュスでこんな上等な揚げ物料理を仕上げる自信はねえな」


「……あなたはいかがですか?」


「そうですね。かつて城下町で口にしたものとは、ずいぶん印象が異なっているように思います」


 かじったカツの断面を見据えながら、シリィ=ロウは低い声で答えた。


「あの晩餐会で供された揚げ物料理には、乳脂や乾酪やサルファルの香草などが使われていました。城下町で売りに出すとしたら、あちらの料理のほうが喜ばれるとは思います」


「…………」


「ですが、ただ美味であるかという点では、こちらの料理も決して劣ってはいないでしょう。揚げる油に、レテンや乳脂ではなくギバの脂を使っている、ということですか」


「はい」


「美味だと思います。つくづくギバというのは肉も脂も優れた食材であるのですね」


 シリィ=ロウがそのように結論づけると、大喜びでカツをかじっていたダン=ルティムがいきなり「おお!」と声をあげた。


「そういえば、お前さんはあのバナームとかいう町の貴族をもてなす夜に同席していた娘なのだな! どうだ、真なるぎばかつは美味であろう?」


「……わたしは城下町で口にした料理がそこまで劣っているとは思いませんし、何より、ヴァルカスの作るギレブスの魚の炙り焼きはそのどちらよりも美味だと思います」


 いくぶん身を引きつつも、シリィ=ロウは毅然と答えた。そういえば、俺が城下町でミラノ風のカツレツを供したとき、両者は試食の場で同席していたのである。


「うむ! 森辺の民と城下町の民とでは、好む味も異なるのだろうからな! しかし、お前さんたちは昨日、たいそうな料理で森辺の民をもてなしてくれたのだろう? ルド=ルウが自慢げに語っておったぞ!」


 どんぐりまなこを輝かせながらダン=ルティムが身を乗り出し、いっそうシリィ=ロウに身を引かせる。


「できれば俺も、お前さんたちの料理を食べてみたいものだな! それも、できればギバの料理をだ!」


「……城下町では、まだギバの肉を扱うことは許されていません」


「あ、だけど、俺たちは昨日、ギバの腸詰肉というやつを貴族の方々にお届けしたのですよ。あれは値段的に宿場町では売りに出すのが難しいので、いずれは城下町で売り買いされるようになるかもしれません」


 シリィ=ロウが、キッと俺をにらみつけてくる。


「それは本当の話ですか? ギバの肉が城下町で売りに出されると?」


「え、ええ、もちろんジェノス侯爵のお許しが出れば、ですが」


「そうですか……」とシリィ=ロウは物思わしげに目を伏せてしまう。


「どうしました? 何か気分を害されてしまいましたか?」


「気分を害する理由などありません。それが本当の話ならば、一刻も早く実現してほしいところです」


「え? シリィ=ロウはギバの肉にご興味が?」


 するとシリィ=ロウは、半分呆れたような面持ちでまた俺のことをにらみつけてきた。


「あなたがたの作法を取り入れることはできませんが、ギバというのはカロンやギャマにも劣らぬ食材です。料理人として早く取り扱いたいと願うのは当然のことでしょう?」


「そりゃあそうだ。ヴァルカスなんざ、わざわざシムから生きたギャマを取り寄せてるんだぜ? ギバなんていう立派な食材が同じ領内に存在してんのに、自分は扱うことはできないなんて、内心ではやきもきしてんじゃねえのかな」


 ロイにまでそのように言いたてられてしまい、俺は「なるほど」と感じ入ることになった。


「ヴァルカスはあまりそういう気持ちを外に出さないので、そんな風に考えたことはありませんでした。とりたててギバの肉を欲しがる様子はなかったですし」


「ま、今ある食材に関してだって、毎日が研究の連続らしいからな。本当のところはギバ肉を扱う時間なんてないのかもしれねえけど、あの人だったら、それでも欲しがるだろ」


「確かに」と俺は笑ってみせた。

 そこに、「よー」とルド=ルウが近づいてくる。


「今度はころっけが仕上がったぜー。客人たちに持っていけってよ。……俺の分も残しておいてくれよ?」


 ルド=ルウの手には、その木皿が掲げられていた。彼の大好物たる、ギバ肉とチャッチのコロッケである。さすがは歓迎の宴、大盤振る舞いだ。


「こいつも大した手並みだな。チャッチに細かく刻んだ肉とアリアを混ぜて、そいつを揚げてるのか」


 ロイはいくぶんめげた様子で頭をかきむしった。


「くそ、揚げ物に関してはやられっぱなしだな。今の俺じゃあ手も足も出ねえや」


「…………」


「そういえば、ヴァルカスも揚げ物料理を作ってる姿は見たことがねえな。やっぱりそこまで得意ではねえのか?」


「揚げ物料理は流行遅れとされているので、注文自体が入らないのです。注文が入らなければ、作る機会がないのは当然でしょう? ヴァルカスに、不得意な料理などあるはずがありません」


 ムッとしたようにシリィ=ロウが言い、その顔を見てロイは笑った。


「それじゃああんたも食べたことはないんだな。証のない部分でまで師匠を持ち上げるのは、逆に品格を落とすことになると思うぜ?」


「あなたなどに品格をどうこうと言われたくはありません」


 シリィ=ロウは、つんと顔をそむける。

 それで、満足そうに彼らの様子を見ていたレイナ=ルウが、いくぶん眉を曇らせた。


「……あなたがたは、夫婦のように身を寄せ合っているのですね」


「あん? 夫婦がどうしたって? あんまりおかしなことを言うと、俺はともかくシリィ=ロウが爆発しちまうぞ?」


「そうですか。しかし、森辺では家族でも伴侶でもない男女がそのように身を寄せ合うことはありえないのです」


「せまいんだから、しかたねえだろ。それにシリィ=ロウは俺と違って育ちがいいから、ちっとばっかりは狩人たちの面がまえがおっかなくなっちまうんだろう。好きこのんで俺にひっついてるわけじゃねえさ」


「怯えてなどいないし、ひっついてもいません!」


 ちなみに注釈を加えるならば、ロイとシリィ=ロウは身体が触れ合う寸前ぐらいの距離で、敷物に座していた。

 レイナ=ルウは仏像を思わせる半眼でそんな彼らを見つめてから、ことさら丁寧な仕草で一礼して、立ち去っていった。


 それと同時に、どすんという派手な音色が響きわたる。

 見ると、ドガの巨体がついに地面に倒されていた。

 が、そのかたわらにあるのは、質量においてドガを上回るミダであった。


 そして、数メートル離れたところでも、ロロが「うひゃあ」と声をあげていた。

 そのひょろひょろとした身体が、若い男衆に組み伏せられている。「よーし!」と声をあげて彼女のもとから身を起こしたのは、なんとラウ=レイであった。


「何だ、いつの間にやら先んじられてしまったではないか! ミダとラウ=レイとて勇者であるはずだぞ、ガズランよ?」


「ええ、他の男衆では歯が立たなかったようですね。まったく大した力量です」


「ううむ! ぜひ俺とも立ち合ってもらいたいものだな!」


 ダン=ルティムはそのように叫んで腰をあげかけていたが、儀式の火の前には再び一座の楽団が進み出て、また陽気でノスタルジックな音色を奏で始めていた。それに追いたてられるようにして、ドガとロロは隅っこに引っ込んでいく。


「あ、『月の女神の調べ』じゃん! みんな、踊ろうよ!」


 少し遠くのほうから、ユーミの声が聞こえてくる。そうして彼女は困った顔で笑っているテリア=マスの腕を引っ張りながら、儀式の火の前に進み出た。


 リズムは、ゆったりとした三拍子だ。陽気だがどこか哀切でもあるその旋律に合わせて、ユーミがひらひらと踊りだす。テリア=マスはとても恥ずかしそうにしていたが、ユーミに無邪気に笑いかけられると、やがておずおずとステップを踏み始めた。


 どうやらそれはダレイムでも踊られていた舞であったらしく、やがて何名かの女衆がユーミたちに加わった。儀式の火と楽団を中心にして、10名ばかりの女衆が輪を作っている。男衆がはやしたて、手拍子や足踏みを始めると、そこにヒューイやサラまでもが進み出て、リズムに合わせてスキップをし始めた。


「わーい、楽しそう! ターラ、リミたちも踊ってこようよ!」


「うん!」


 ふたりの幼き少女が、てけてけと駆けていく。

 普段の宴では、15歳に満たない娘が舞を見せることはない。森辺の宴における舞とは、一種の求婚行為でもあるからだ。

 だけど本日は、客人をもてなすための宴である。そうしてリミ=ルウたちが踊りの輪に加わると、他の幼子や13、4歳の娘たちも喜んでその身を投じた。


「こいつはすごいな。ギャムレイたちを招いて大正解じゃないか」


 俺がそのように呼びかけると、アイ=ファも満足そうにうなずいていた。きっとリミ=ルウが楽しそうにしているのが嬉しいのだろう。


 やがて演奏は四拍子のもっと明朗な曲に変わり、いっそう娘たちは激しく舞を踊ることになった。

 今度は誰も知らない曲であったのか、振り付けはバラバラだ。が、リズムに合わせて踊るだけで、実に優美な様相である。しまいには男衆が草笛まで吹き始めたが、それも決してナチャラの奏でる旋律と不協を起こすことはなかった。


「何やってんのさ! あんたも踊りなよ!」


 と、小気味のいいステップを踏みながら、ユーミがこちらに近づいてくる。

 その視線の先にあるのは、誰あろうシリィ=ロウであった。


「……ひょっとしたら、わたしに言っているのですか?」


「あんた以外に誰がいるのさ! あ、そっちのみんなも踊ろうよ!」


 後半の言葉は、ドーラ家の奥方2名に向けられたものだ。

 ふたりは嬉しそうにいそいそと立ち上がり、いくぶんしんみりとしていたモルン=ルティムも、ガズラン=ルティムらに背を押されて身を起こす。

 そんな中、シリィ=ロウはひとりで顔色を失っていた。


「わ、わたしは、ご遠慮します。わたしはあくまで料理のために出向いてきただけなのですから」


「だからこそ、でしょー? これはあたしらと仲良くなるために開いてくれた宴なんだよ? 本当だったら、森辺の民と仲良くなるつもりのない人間がいていい場所じゃないのさ!」


「い、いえ、ですから……」


「どんな目的のために出向いてきたんでも、この場にいる限りは知らん顔できないの! 森辺のみんなが許したって、あたしは許さないからね! わかったら、とっととみんなの輪に入りな!」


 かくしてシリィ=ロウはユーミと親父さんの奥方に左右から腕をつかまれて、拉致される運びとなった。

 シリィ=ロウは決死の形相でロイに助けを求めていたが、薄情なる朋友は肩をすくめてそれを見送るばかりであった。


(シリィ=ロウには悪いけど、こいつはルウ家の宴でも過去最高の盛り上がりなんじゃないかな)


 客人の数が多いために、すべての眷族を集めるときとも人数的には負けていない。そして、森辺の装束とは異なる色彩が多く加わることによって、そこには普段以上の華やかさがもたらされているように感じられた。


 気づけば、マイムもリミ=ルウたちと踊っている。トゥール=ディンも、ユン=スドラあたりに引っ張り出されたのだろうか。踊ってこそはいないものの、みんなと一緒に儀式の火の周囲を回っていた。


 少し離れた敷物では、ギャムレイが愉快げに果実酒をあおっている。そのかたわらにあるのは、占星師のライラノスと人獣のゼッタだ。

 シャントゥは楽団のそばに陣取って手を打ち鳴らしており、ロロとドガは男衆に囲まれて料理を突きつけられている。壺男のディロは、何故だかバルシャやジーダとともにあり、何やら語り合っている様子であった。何か異国の物珍しい話でもせがんでいるのだろうか。


 そういえば――と、俺がさらに視線を巡らせようとしたところで、朱色の色彩がふわりと近づいてきた。

 演奏にも踊りにも加わっていなかった、ピノである。


「どうもォ、ご挨拶が遅れちまって。……こんなに楽しい宴に招いていただいて、ほんとにありがとさァん」


「いえ、招いたのはルウ家の人たちですから。でも、皆さんとご一緒できて、俺も嬉しいです」


「あァ、アタシらも嬉しいよォ。アタシらは、宴の中でしか生きられない生き物だからねェ」


 ピノはかがり火を背後に立ちつくしたまま、くすくすと笑った。


「このジェノスってェのは大きな町だけど、石塀の外じゃあ太陽神のお祭ぐらいしか宴がないからねェ。もうちっと城と町の垣根が低いとこなら、もっと色々な祭があるんだけどさァ」


「あ、そうなのですか。西の王国でも、色々なのですね」


「あァ、色々さァ。……だからジェノスには多くても年に一回しか来る用事はないけれど、今回はとりわけ楽しませていただいたよォ」


 夜の森辺におけるピノは、いつも以上に不可思議な存在に見えた。

 生きた人形が喋っているような、そんな不可思議さである。外見的には童女にしか見えないのに、そこらの大人よりもよほど世慣れていて、色々な表情を持っている。軽業や笛吹きの芸を見せずとも、ピノはそうして立っているだけで不思議な感動やおののきを俺に与えてくれるのだった。


 そうしている間に、曲がまた変わっていた。

 今度はまたゆったりとしたテンポの、少し荘厳にも聞こえる旋律だ。

 そして、そこに今までにはなかった音色もかぶさった。

 ニーヤの弾く、7本弦の楽器の音色である。

 楽団の中心に居座ったニーヤは、その楽器を奏でながら通りのよい声を響かせた。


「一曲、歌わせていただきましょう。皆々様は、どうぞそのまま楽しく舞ってくださいませ」


 俺の隣で、アイ=ファが身じろぎをした。

 それに気づいたピノが、またくすりと笑い声をたてる。


「心配はご無用ですよォ、狩人の姐サン。アンタがたを不愉快な気持ちにさせる歌じゃあないし、族長サンと最長老サンにも許しをいただいてるからさァ」


「ドンダ=ルウと、ジバ婆に?」


 アイ=ファがうろんげな表情で問う。

 それと同時に、ニーヤの歌が始まっていた。


 それはやっぱり、東の民の物語であった。

 白き賢人ミーシャの働きによって、シムが王国として統一されるより、さらに昔――今では伝説の存在となった、シムの8番目の一族にまつわる物語であった。


 かつてシムには、8番目の一族があった。しかし彼らは住む場所を定めず、シムの領内を転々としていた。山に住めば山の民として生き、草原に住めば草原の民として生きる。彼らガゼの一族は、他の一族に雲の民と呼ばれていた。


 彼らは平和を愛する一族であった。しかし、一族の窮地には団結し、比類なき力で敵を討ち倒した。普段はぷかぷかと浮かび流れる優雅な雲のごとき存在でありながら、有事の際には漆黒の雷雲と化し、どの一族よりも強大な力を見せつけたという。


 やがて、そんな彼らはシムで疎まれることになった。当時の実質上の支配者であった山の民の二大部族と悶着を起こし、血で血を洗う抗争を繰り広げることになってしまったのだ。


 どうもその山の民というやつは、のちにラオの一族を追い詰めた蛮なる一族であったらしい。ガゼはラオよりも強き力を有していたのでおめおめと敗北することはなかったが、このままではどちらかが滅びるまで戦を続けるしかないだろう、という状況にまで陥ることになった。


 それでガゼの一族は、シムを捨てた。

 どこに落ち延びても、山の民との諍いは避けられない。草原に移り住めば草原の民をも巻き込んでしまうかもしれない。そうして戦乱が広がることを恐れたガゼは、シムの外に生きるべき場所を求めたのである。


 ガゼの民は、西に向かった。

 やがて道は暗灰色の泥沼にさえぎられた。

 すると今度は、南に向かった。

 そこはトトスを使うこともできない、険しい岩山であった。

 ガゼの民はトトスを草原に帰し、自らの足でその岩山を踏破した。強靭なる彼らには、そんな岩山も大した苦難ではなかった。


 岩山の次に待ちかまえていたのは、不毛の砂漠地帯だ。

 このような場所に住むことはできない。彼らは、砂漠をも乗り越えた。

 その向こうに待ちかまえていたのは、黒き獣の住む黒き森だ。

 そこもやっぱり、安住の地とは言い難い場所であった。彼らはさらに西か南に向かうべく、黒の森をも踏み越えようとした。


 そこで出会ったのが、白き女王の一族であった。

 白き女王の一族は、白い姿をした不思議な一族であった。彼らは小さく、言葉すら通じず、とうてい同じ人間だとは思えなかった。

 しかし彼らは、森の声を聞くことのできる、不思議な力を有していた。

 彼らは名前のある神を持たず、森を母と呼んでいた。

 神なるシムを捨てたガゼの民は、そこに何らかの運命を見出し、白き女王の一族とともに黒き獣を討ち倒すことにした。


 やがてガゼの長は白き女王と契を結び、子を生した。

 彼らは森に生き、森に死ぬことに決めた。

 白き女王から言葉を習い、ともに手を取り合って黒き獣と戦い、彼らは黒き森の民となった。


 それで物語は終わりであった。

 ニーヤの最後の歌声が、闇と炎の狭間に溶けていく。

 森辺の民は、歓声や拍手ではなく、沈黙でそれに報いた。

 いつの間にやら、踊っている人間もいない。誰もが魂を抜かれた様子で、その場に立ちつくしていた。その中で、ユーミやマイムやテリア=マスたちは、ちょっときょとんとした様子でみんなの顔を見回していた。


「『黒き王と白き女王』の物語でありました。……そこな娘さん、次はいかなる歌をご所望かな?」


 と、ニーヤがまた陶然とした面持ちになりながらユーミを振り返る。

 ユーミはけげんそうにそちらを見返したが、やがて気を取りなおしたように「そうだなー」と腕を組んだ。


「今のはあんまり踊りに向いてなかったみたいだね。やっぱ『ヴァイラスの宴』とかがいいんじゃない?」


「火神ヴァイラスの物語か。そいつはうちの座長の一番のお気に入りだ」


 ニーヤの合図に、ザンがトコトコと太鼓を叩き始める。それに合わせて、ナチャラや双子たちも雄大で能動的な旋律を奏でた。

 呆然と立ちつくしていた女衆はハッとした様子で我に返り、ユーミとともに手足を動かす。そうして広場が賑やかな演奏に包まれると、さきほどの静寂が嘘であったかのように熱気と生命力が蘇った。


「アイ=ファ、今の歌は――」


 俺が振り返ると、アイ=ファは「うむ」と難しい顔でうなずいた。


「黒き森の民、と言っていたな。……そして、ガゼというのはスンの前の族長筋の名だ」


「おやァ、やっぱり当たりだったのかァい? ひょっとしたらこいつは森辺の民に関わる伝説なんじゃないかと、前々から思ってたんだよねェ」


 ピノは楽しげに微笑みつつ、朱色の袖をぱたぱたとそよがせる。


「で、あの最長老サンが黒猿の姿を見て、ずいぶん感じ入ってる様子だったからさァ。実はこれこれこういう歌があるのですけれど、ご興味はおありですかいと尋ねてみたのさァ。それで族長サンからもお許しが出たんで、ぼんくら吟遊詩人にご登場を願ったってわけさァ」


「ふむ……」


「だけどまァ、しょせん伝説は伝説さねェ。いずれ吟遊詩人の法螺話、話半分で聞き流し笑い飛ばしてもらえれば幸いさァ。数百年も大昔の話じゃァ、そいつが真実だって証しだてられる人間もいないんだからねェ」


 ピノはひたひたと近づいてきて、敷物に座っている俺たちの顔を間近から覗き込んできた。


「アタシらは、人様を驚かせたり喜ばせたりするのが商売だからさァ。それ以外のことは、のきなみどうだっていいんだよォ。……あのぼんくらだって、そこんところはアタシらと一緒さァ」


「それは、あの者の以前の行いに腹を立てる必要はない、と述べているのか?」


「あらら、お怖い顔だねェ。……ウン、あのぼんくらも、歌っている間しか楽しく生きることのできない、ならずものだからねェ。そんな大事な歌を使って、人様に喧嘩をふっかけたりはしない。せいぜいアスタを驚かせてやろうっていう子供じみた考えしかなかったと思うよォ?」


「…………」


「別にあのぼんくらを許してほしいって言ってるわけじゃないさァ。それでアンタがたを嫌ァな気持ちにさせちまったんなら、何の言い訳のしようもないからねェ。……ただ、さァ……」


 と、ピノが赤い唇を吊り上げた。

 かがり火が逆光になって、黒い瞳が陰に沈んでいる。それはまるで深淵を覗き込んでいるような心地であり、俺はぞくりと寒気を感じることになった。


「星占いのライ爺は、西の民でありながら東の民に弟子入りをして、あれほどの力を身につけたっていう変わり者でねェ。星を見る力も、それにまつわる知識ってやつも、シムのご立派な占星師に負けないぐらいに備え持ってるのさァ。……で、星を読む人間にとって、星を持たない民ってやつは、昔っから大きな関心事で……」


「おい」とアイ=ファが鋭く声をあげた。

 深淵のごとき瞳をした童女は、いっそう唇を吊り上げる。


「余計なことを口走るつもりなんてありゃしないよォ。ただ、ライ爺だったら星無き民に関しても、あれこれ知ってるってことを伝えたかっただけさァ。アスタには色々とお世話になったから、こっちだってお役に立ちたいと思うのが当然だろォ……?」


「…………」


「もちろん、星無き民の正体を知る人間なんて、いやしない。でも、占星師じゃなけりゃあその名を耳にすることもない星無き民に関して、ライ爺はちっとばかりの知識を蓄えてる。それをアスタが知りたいっていうんなら――」


「俺のことは、俺自身が一番よく知っていますよ」


 その瞳の中に吸い込まれそうな感覚に陥りながら、俺はそのように答えてみせた。


「どうして自分がこんな目にあったのかはわかりませんけど、自分がどんな目にあったかってことは、細部もらさず覚えています。その上で、俺は森辺の民として生きていくと決めたんです」


「……星無き民についてなんて、アスタにはどうでもいいってことかァい……?」


「そうですね。何を聞かされたって、俺が進む道に変わりはないでしょうから」


 ピノはぴたりと口をつぐみ、俺の瞳を見つめ続けた。

 深淵を覗くとき、自分もまた深淵に覗き込まれているのだ――というのは、何の一節だっただろう。

 やがてピノは身を起こし、白い首をのけぞらしながら、「あっはっはァ」と笑い始めた。


「アスタがそういう気持ちなら、なァんも話すことはないさねェ。余計な気を回しちまって、ごめんなさいよォ」


 そうして俺たちに向きなおったとき、またピノは見たことのない顔で笑っていた。

 それはとても透き通った、それでいて何もかもを包み込むような、慈愛に満ちみちた笑顔であった。


「アタシらも、昔のことなんかはうっちゃって、今を楽しむことに決めたぐうたらの集まりだからねェ。昔どころか、明日のことを考えるのだって億劫でありゃしない。運命だとか星だとか、そんなもんを一番ないがしろにしてるのは、他ならぬこのアタシたちってことさァ」


「はあ、そうですか」


「ウン、アンタの心意気は気にいったよォ、アスタ? できればアンタを荷車に突っ込んで、かっさらいたくなるぐらいさねェ」


「おい」


「お怖い顔をしなさんなァ。アタシは森辺の民も好きだから、そんな無体なことできゃしないよォ。そんな真似をしちまったら、アンタに地の果てまで追っかけられそうだからねェ」


 そんな風に喋っている内に、だんだんピノは俺たちの知る顔に戻っていった。

 こまっしゃくれていて、何もかもを見透かしているような――それなのに、妙に心をひきつけられる、魅力的で悪戯っぽい笑顔だ。


「だから、アンタたちとまた会うのは、一年後さねェ。それまでは、どうかお元気で……また美味しいギバの料理を食べさせておくんなさいよォ、ファの家のアスタ?」


「ええ、もちろん」


 それで俺は、ようやく笑い返すことができた。

 ちょうどそのとき演奏の音が止まり、その間隙をついたシーラ=ルウの大きな声が聞こえてきた。


「ギバの丸焼きがようやく仕上がりました! ちょっとみんなも身体を休めて、こちらを味わってみてはどうでしょう?」


 見ると、踊りに加わっていなかったヴィナ=ルウやレイナ=ルウも、肉切り刀を手にシーラ=ルウのかたわらに控えている。

 森辺の民と客人たちは、歓声をあげてそちらに群がることになった。

 俺は立ち上がり、親愛なる家長と不可思議なる客人の姿を見比べる。


「俺たちもいただこう。この人数じゃあ、うかうかしてると食いっぱぐれそうだ」


「うむ」「そうだねェ」と、ふたりはそれぞれうなずき返してきた。

 俺たちの背後でも、ロイやダン=ルティムやドーラの親父さんたちが立ち上がっている。


 空には青白い月が浮かび、いよいよ世界は夜のとばりに黒々と閉ざされていたが、この広場だけは明るい光に包まれて、宴はまだまだ終わる気配もなかった。

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