和解の会食②~謝罪の弁~
2016.8/30 更新分 1/1
それから半刻と少しの後、俺たちはサトゥラス伯爵邸に到着した。
元・トゥラン伯爵邸をひとまわり小さくしたような、石造りの横に広い屋敷である。建物の前には前庭が広がっており、門から入口までが灰色の石畳で舗装されている造りも同一だ。これがジェノスにおける貴族の邸宅のスタンダードなのだろうか。
「お待ちしておりました。どうぞこちらにお進みください」
年若い小姓の少年と、見慣れぬお仕着せを着た壮年の武官が、俺たちを屋敷に招き入れる。回廊には毛足の長い絨毯が敷かれ、壁にはところどころ額縁の絵画が掛けられている。どことなく、トゥラン伯爵邸よりも装飾品に力を入れており、それでいて優雅な趣の漂うたたずまいであった。
そうして最初に招かれたのは、やはり浴堂だ。
が、控えの間もずいぶん広々としており、そして、そこには思いがけない人数の従者たちが待ち受けていた。
この人数は、何事であろう。若いのから年老いたのまで男女入り乱れて、総勢は8名である。全員が乳白色のひらひらとした長衣を纏っており、両手を腹の前で組み合わせて列をなしている。
「浴堂は、10名様までが同時におくつろぎいただけます。お好きな従者を選んで、お好きな人数でご利用ください」
「従者というのは、身体を洗うお手伝いですか? それでしたら、自分たちには不要ですよ」
まだ一度しか浴堂で身を清めた経験のないジザ=ルウに代わり、俺がそのように答えてみせた。
すると、ここまで案内をしてくれた小姓が、ほんの少しだけ困ったような顔をした。
「沐浴ももてなしのひとつであるというのが、当家の習わしでございます。どうぞお客人には、ご遠慮なく従者をお選びいただきますよう」
何となく、ここで同伴を断ったら彼らが主人に咎められてしまいそうな雰囲気である。
しかたないので、俺たちは一番年若い小姓の少年をひとりだけ選び、それをともなって男衆から身を清めることにした。
顔ぶれは、ジザ=ルウ、シン=ルウ、ルド=ルウ、そして俺である。俺たちが着ているものを脱いでいる間、小姓の少年は目を伏せて静かにそれを待ち受けていた。
「なー、まさかとは思うけどよ、男の客人が女の手伝いを頼んだりすることもあるのか?」
森辺の装束をぽいぽいと脱ぎ散らかしながらルド=ルウが問うと、少年は「はい」と言葉短く答えた。
「それじゃあ、女の客人が男の手伝いを選んだりとか? まさか、そればっかりはありえねーよな?」
「いえ」
「いえってどっちだよ。まさか女が男に肌をさらしたりもすんのか?」
「はい」
ルド=ルウは黄褐色の頭をぼりぼりと掻きながら、俺とジザ=ルウの姿を見比べた。
「なー、この家、大丈夫なのかな?」
「……貴族がどのような習わしを持っていようとも、俺たちは自分の習わしを守るだけだ」
「そりゃーそうだけどよー。家族でもない男に女が肌をさらすなんてありえねーよな、なあ、アスタ?」
「う、うん、そうだね」
はるかな昔、俺はルド=ルウの謀略によって女衆が水浴びをする場に導かれることになった。それが原因でおたがいジザ=ルウにこっぴどく糾弾されることになったわけなのだが、ルド=ルウはそんなことなどすっかり忘れてしまったかのように涼しい顔をしていた。
あと、これはいまだ誰にも打ち明けていないが、俺は初めてこの浴堂という施設を使用することになった際、異性のシフォン=チェルに同伴されてしまっていたのである。思えばあれも、客人に対する貴族のもてなしであったのだろうか。
(貴族らしいといえば貴族らしいけど、そんなの森辺の民の気風に合うわけがないよなあ)
そうして俺たちは、さらに次なる扉を開けて、蒸気の満ちた浴堂へと足を踏み入れた。
ヨモギのような香りはトゥラン伯爵邸や茶会の宮殿と同一であるが、さらにそこに、花のような甘い香りが混ざっている。さらに室の奥には、水の張られた浴槽までもが設えられていた。
「何だこりゃ? この中で水浴びすんのか?」
「はい。冷たい水と温かい湯が準備されておりますので、お好きなほうをお使いください」
小姓の少年は長衣だけを脱ぎ、下帯ひとつの姿になっていた。
色の白い、華奢でほっそりとした少年である。この少年が貴婦人の沐浴の手伝いをしているところを想像すると、ますますおかしな気分になってきてしまう。
ともあれ、浴槽の存在はルド=ルウを大いに喜ばせた。土台、身体を蒸らして垢をこする、などというものより、頭から水をかぶったほうが森辺の民には馴染みの深い行為なのである。そしてまた、かなりの温帯であるジェノスにおいて、水浴びというのはたいそう心地好いものなのであった。
浴槽は、床よりも低い位置に設えられている。石の階段を下っていって、張られた水に身体を沈める格好だ。その深さは座ると胸に達するほどもあり、そして、水面には赤やピンクの花びらが浮いていた。
ルド=ルウとシン=ルウは最初からその浴槽に身を沈め、ジザ=ルウは木べらで身体をこすっている。誰にもお呼びをかけられない少年は室の隅でひっそりと立ちつくしており、そんな彼らを横目に、俺はひとりでもうひとつの浴槽に足をつけてみた。
人肌より少し熱いていどの湯である。
外で誰かが薪を燃やしているのだろうか。5人ぐらいが一斉に浸かれるぐらいの大きさであるので、これにはかなりの燃料が必要であるように思われる。
しかしまた、俺にとっては7ヶ月ぶりに堪能する、熱い湯船であった。
湯温はいささか物足りなかったが、水浴びとはまた異なる心地良さに、身体と心がゆるんでいく。この屋敷に来て、俺は初めて貴族の贅沢な習わしにありがたさを感じることになった。
「何でわざわざ熱い湯に入るんだ? それじゃあ余計に汗をかいちまうじゃん」
シン=ルウに水をかけてはしゃいでいたルド=ルウが、不思議そうに問いかけてくる。
「その汗をここで流していけば問題はないだろう? 俺の故郷では、どちらかというと熱い湯に浸かるほうが普通だったんだよ」
「ふーん?」と首を傾げつつ、ルド=ルウがこちらの浴槽に飛び込んできた。
が、10秒と経たぬ内に、「やっぱ駄目だー」と退散してしまう。
「なんか、背中とか尻とかがむずむずしてくんよ。アスタはよくそんなの我慢してられるなー?」
「俺は普通に気持ちがいいよ。でもまあ、冷たい水をあびるのとは、まったく逆の効果なのかもね」
ということで、小姓の少年の手をわずらわせることなく、俺たちは浴堂のもてなしを満喫したおした。それで元の服を着て控えの間に戻っていくと、「ずいぶん遅かったな」とアイ=ファににらみつけられてしまった。
女衆は、やっぱり一番若い侍女を選んで、浴堂へと姿を消す。異性を選ぶのは論外であるし、老いた女性に同伴を願うのも気が引けたのだろう。そうしてアイ=ファたちも俺たちと同じぐらいの時間を浴堂で過ごし、けっきょく合わせて3、40分ぐらいはここで費やすことになってしまった。
「ずいぶん遅かったな?」
ついつい悪戯心を刺激されてそのように述べてしまうと、案の定、アイ=ファに足を蹴られた。アイ=ファも水浴びをとても好む性分であったので、ついつい長風呂になってしまったのだろう。
ともあれ、時刻はまもなく六の刻だ。無事に入浴を済ませた俺たちは、いよいよ会食の場へといざなわれた。
幅の広い階段をのぼり、2階へと案内される。そこに至るまでの道のりでも絵画や彫像や壺に活けられた花といった装飾品が目につき、そして、会食の場ではさらに豪奢な様相が俺たちを待ち受けていた。
かなり広めの、縦長の部屋である。壁のあちこちに燭台が掛けられ、しかも頭上にはお馴染みのシャンデリアが下げられていたので、昼間のように室内は明るい。足もとは幾何学模様の美しい絨毯、壁には異国的なタペストリー、部屋の四隅には奇怪な神像――やはり、トゥラン伯爵邸と同系列でありながら、さらに豪華で洗練された貴族らしい一室であった。
豊かさでいえば、かつてのトゥラン伯爵家のほうが上回っていたはずである。だけどこのサトゥラス伯爵邸は、それよりも絢爛であるように感じられた。トゥラン伯爵家よりも部屋を飾ることに情熱を注いでおり、しかも、美的感覚で上をいっていたのだろう。何というか、これだけ豪華でも嫌味な感じがせず、変に圧迫されたりもしないのだ。室内装飾などというものには何の含蓄もない俺でも、ここはたいそう居心地がよくて、小洒落ているように感じられるのだった。
「おお、ようこそ森辺の客人がた。さ、どうぞ席のほうに」
貴族側のメンバーは、すでに顔をそろえていた。
見届け人として参席するメルフリード、その伴侶たる貴婦人エウリフィア、その息女たるオディフィア、同じく見届け人のポルアース――リーハイムを除けば、見知った顔はそれだけだ。
そしてサトゥラス伯爵家のほうは、思った以上の少人数であった。
上座から俺たちに声をかけてきたのが、当主であろう。リーハイムと同じように油で髪をなでつけて、気取った口ひげをたくわえた、四十がらみの貴族である。中肉中背で、ゆったりとした長衣を纏っており、首からひとつだけ銀の飾り物を下げている。
そして後は、見覚えのない若者がリーハイムの隣に座している。年齢はリーハイムより若そうで、おそらくは俺と同じぐらい。鎧ではないが武官らしき白の礼服を纏っており、厳しい眼差しで俺たちのほうを見つめてきている。
当主やリーハイムと同じように、褐色の髪に茶色の瞳、黄褐色の肌をしており、いかにも生真面目そうな面立ちをしている。髪や肌の色は異なるが、印象としてはバナーム侯爵家のウェルハイドに似ているかもしれない。
「わたしはサトゥラス伯爵家の当主ルイドロス、こちらはサトゥラス騎士団のレイリス――このたび森辺のお歴々にご迷惑をおかけした愚弟ゲイマロスの子息だ。ゲイマロスはいまだこのような場に出てこられる身体ではないので、わたしたちが不肖の家人に代わってお詫びの言葉を申し述べさせていただこうと思う」
よどみのない、流れるような喋り口調であった。
この優雅で気品のある屋敷の主人に相応しいたたずまいだ。ある意味では、今まで出会ってきた中で一番貴族らしい貴族と評してもいいかもしれない。
そんなルイドロスに対して、こちらからはジザ=ルウがひとりひとりの名を告げていった。
そして、狩人の衣を小姓に預け、ルウ、ファ、ディン、ザザの順で腰を下ろしていく。上座に当主のルイドロスが陣取り、右手側に貴族が、左手側に森辺の民が並ぶ配置であった。
「ああ、そちらには騎士の椅子を用意したからね。刀はその背もたれに差していただきたい」
見れば、背もたれの左手側に筒が取りつけられている。その椅子も筒も、精緻な彫刻のほどこされた木造りである。狩人たちは無言で革鞘ごと刀を抜き、その筒に差し込んだ。確かにこれなら、刀を身から離すことなく会食にのぞめるようだ。
「本当にこのたびは、ゲイマロスが迷惑をかけてしまったね。ジェノス侯から森辺の民と正しき縁を紡ぐべし、と強く言われているこの時期に、まったく嘆かわしい限りだ。サトゥラス伯爵家の当主として、心よりのお詫びを申し述べさせていただこう」
ルイドロスというのは、あえて言うならばマルスタインに近いタイプであるようだった。礼儀正しく、鷹揚で、それでいてあまり内心はうかがえない。ただ、マルスタインのように人を食ったような雰囲気はなく、優雅で小洒落た若々しい壮年の貴族、といった印象である。
「シン=ルウというのは、其方のことだね。其方が手傷を負うことはなかったと聞くが、本当に問題はなかったのかな?」
シン=ルウは無言で、顎を引くように小さく礼をした。
貴族の中でも伯爵家の当主という位の人物に、どのような口をきけばよいのか判別がつかないのだろう。森辺の、特に狩人たちは、あまり相手によって喋り口調を使い分ける習慣がないのだ。
「それにしても、騎士の甲冑を身につけながら、一撃でゲイマロスを討ち倒してしまうとはね。あの甲冑はトトスに乗り、騎兵槍で敵陣に突撃する際に纏うものなのだ。北の民の巨大な斧をも退けられるように、特別頑丈に仕立てられている。トトスから落ちれば自らの力で起き上がることさえ難しいというのに、そんな重たい甲冑を纏ってゲイマロスを討ち倒すとは……いや、本当にわたしは感服させられた」
「…………」
「しかし、それが森辺の狩人の力というものなのだろう。このジェノスでも、若い人間はあまりそのあたりのことが実感できていない。だからこそ、我が愚息も森辺の狩人に剣技の試合を申しつけるような真似をしでかしてしまったのだろうな」
父親の視線を受けて、リーハイムはそっぽを向いた。
いつも通りの、ぶすっとした面持ちである。ルイドロスは穏やかに微笑みつつ、またシン=ルウのほうに向きなおる。
「もっともそれも、無理からぬことだ。森辺の狩人は卓越した力を持つと噂されながら、ごく一部の人間を除いては、町で刀を抜いたりもしてこなかったのだからね。森辺の民は無法者の集まりではないのだから、それが当然だ。そうであるからこそ、我が愚息も森辺の狩人の力量を見誤ってしまったのだろう」
「…………」
「しかし、齢を重ねたわたしやゲイマロスなどは、ささやかながらも狩人の力量というものを知る機会があった。あれはまだわたしたちが幼かった頃……それこそ、30年も以前の出来事であったかな。森辺の狩人が、報復のために町で刀を抜いてしまったのだ」
それはもしかして、ベイムの眷族の家長が族長らの制止をふりきって町に下りてしまったときの話であろうか。
ジザ=ルウは、糸のように細い目でルイドロスの穏やかな笑顔を見つめている。
「森辺の民に無法を働いた無頼漢どもは5名ほどもおり、それを町から追いたてようとしていた衛兵たちは10名ほどもいた。その全員が、たったひとりの森辺の狩人に討ち倒されてしまったのだ。どれほど優れた剣士でも、そのような真似がかなうとは思えない。森辺の民というのは本当にわたしたちと同じ人間なのかと、わたしやゲイマロスはこの屋敷の中で恐怖に身を震わせたものだよ」
「…………」
「その恐怖心が、ゲイマロスに過ちを犯させてしまったのだろう。それであやつの罪が軽くなるわけではないが、どうしてあやつがそのような罪を犯してしまったのか、それを正しく知っていただくために、このような話をさせていただいた。ご理解をいただければ幸いだ」
「それならば、勝負を避けるべきであったと思えるのだが……やはり、騎士というものの誇りがそれを許さなかったのだろうか?」
ジザ=ルウが問うと、ルイドロスは「その通りだ」とうなずいた。
「ゲイマロスは、ジェノスでも屈指の剣士という名声を得ていた。すでに盛りは過ぎていたが、その誇りを失うまいとして、逆にすべてを失ってしまったのだろう。血を分けた弟がこのような形で道を踏み外すことになり、わたしはとても心を痛めている」
「……それを理解できるとは言えないが、貴方がとても苦しい立場であるということは理解しているつもりだ。自分の預かり知らぬところで、実の弟という血の近い人間がこのような騒ぎを起こしてしまったのだからな」
「それだけでも理解していただければ幸いだ」
あくまでも悠揚せまらず、ルイドロスはまた首肯する。
「しかも、ゲイマロスをそのような道に導いてしまったのはわたしの愚息であり、その発端が、森辺の民に邪険にされた意趣返しにあったという話なのだからね。返す返すもお恥ずかしい限りだ。……レイナ=ルウというのは、其方であったかな?」
「はい」
「なるほど、確かに美しい。愚息が心を奪われてしまうのも、わからないではない」
半透明のショールの陰で、レイナ=ルウは無表情だ。森辺においては、嫁に迎えるつもりもない相手の容姿をほめることさえ、一種のマナー違反としてみなされてしまうのである。
「親睦の晩餐を始める前に、その一件についてもつまびらかにしておきたいのだが……リーハイムよ、其方はいったいどういう心づもりで森辺の民に高価な贈り物などを届けようとしたのだ?」
そっぽを向いていたリーハイムが、いかにも渋々といった様子で父親に向きなおる。
「自分はただ、その娘を侍女として召し上げたいと考えただけですよ、父上」
「ほう、侍女に」
「それでサトゥラス伯爵家の力を示すために、銀と宝石の首飾りを捧げようとしました。この行為は何かの法を犯してしまっているのでしょうかね?」
「ふむ。城下町の民ならぬ人間を侍女に召し上げるというのは、あまり聞く話ではないが、まったくありえないというわけでもないであろうな。このように美しく、なおかつ卓越した厨番の腕を備えているというのなら、なおさらに」
と、口髭をひねりながらしばし黙考して、ルイドロスはまたジザ=ルウのほうに視線を向ける。
「族長代行のジザ=ルウ殿。たとえばこれが名もなき町娘を相手にした話でも、きっとリーハイムは同じようにふるまっただろう。そして、その町娘が貧しさにあえいでいたとしたら、一も二もなくその話を了承していたに違いない。伯爵家の侍女として働くことがかなえば、その者は一生貧しい生活と無縁でいられるのだからね」
ジザ=ルウは、探るようにルイドロスを見つめ返した。
それをなだめるように、ルイドロスは微笑する。
「しかしまた、すべての人間が貴族に召し抱えられることを喜ぶわけでもないだろう。伯爵家の侍女ともなれば、そうそう親のもとへ帰ることも、宿場町や農村の男と契を交わすこともかなわなくなる。それまでの生活を打ち捨てて、伯爵家の従者として一生を過ごす覚悟がなければ、そのような申し出を受けることはかなわないのだ」
「うむ。そうであるからこそ、妹レイナも貴族と深く関わる心持ちになれなかったのだろう」
「ああ、それは正しい判断だ。貴族が余所の人間を召し抱えたいと願うのは自由だが、それを強要する権利はない。ジェノスの法においても、銅貨で売り買いされるのはマヒュドラの奴隷のみ、と定められている。だから、其方の妹御が言外にリーハイムの申し出を断ったところで、本来は終わった話であるはずなのだが……リーハイムよ、それで執心を断つことのできなかった其方の未熟さが、このたびの災厄を招いてしまったのだぞ?」
リーハイムは相変わらずふてくされたような面持ちであったが、何も反論しようとはしなかった。
ルイドロスは、もったいぶった口調でさらに言葉を重ねる。
「このように美しく、そして才覚のある娘が相手であったなら、わたしも其方の行いを咎めたりはせず、侍女として召し抱えることを許しただろう。それは森辺の民に対して公正な気持ちを持ち、蔑む気持ちがない、という証左でもあるので、わたしには喜ばしい行いであるようにさえ思える。しかし、その見込みがなくなったのちにまで未練を捨てることがかなわず、幼子のように駄々をこねていては、せっかくの志も水泡に帰してしまうではないか?」
「…………」
「かのトゥラン伯爵家の前当主は、己が召し抱えようとした料理人にその申し出を断られると、非道な行いで報復したと聞く。そしてまた、トゥラン伯爵家の現当主たるリフレイア姫は、問答無用で森辺の民を城下町に連れ去ってしまった。其方がそこまでの罪を犯したわけではないが、己の稚気にゲイマロスを巻き込み、そしてこのような結末を招いてしまったのだ。その点に関しては、猛省すべきであろう」
「……反省はしています。ただ、自分は叔父上が森辺の狩人を恐れているなどとは夢さら思っていなかったし、また、そうだからといって非道な行いに手を染めるとも考えていなかったのです」
感情のない声でリーハイムが応じると、隣のレイリスなる若者がふいに椅子を鳴らして立ち上がった。
その強い光をたたえた瞳でその場にいる全員を見回したのち、若者は深々と頭を下げる。
「斯様な事態に陥ってしまったのは、ひとえに我が父ゲイマロスの愚かさゆえです。セルヴァの誓約を破って剣士の勝負をも汚した父ゲイマロスの罪は、決して許されるものではありません。その罪を贖うためならば、わたしは父ゲイマロスとともにどのような罰でもこの身に受ける所存です」
「ゲイマロスの罪を贖えるのはゲイマロスのみだ。子たる貴殿に罰を負わせる法は、ジェノスにはない」
氷のように冷たい声音でメルフリードが言い、レイリスはきつく唇を噛みしめる。しばらくその姿を見つめてから、ルイドロスは彼に着席をうながした。
「ともあれ、ゲイマロスはサトゥラス騎士団団長としての座とともに、騎士としての称号も失った。今後は許されざる背信者としての汚名を背負いながら、余生を過ごす他ないだろう。其方は罪人の父を持つという汚名を背負いながら、今後も騎士として生きていくのだ。それで十分、其方たちの罪は贖えるのではないのかな」
「……はい」
「そして、法を犯すこともないままに、そんな災厄をサトゥラス伯爵家と森辺の民にもたらしてしまった其方はどのようにふるまうつもりなのだ、リーハイムよ?」
「……今後は身をつつしみ、決して伯爵家の名を貶めるような行為には手を染めないとセルヴァに誓約いたします」
やはり感情のない声でリーハイムが応じる。
その目はひたすら空の小皿が並ぶ卓の上のみに据えられていた。
「うむ。サトゥラス伯爵家はダレイム伯爵家と手を取り合い、トゥラン伯爵家の招いた災厄から脱する道を歩んでいるさなかであった。そんな我々にとって、森辺の民との縁は決してないがしろにできるものではない、という話であったな、ポルアース殿?」
「はい。以前からお話ししていた通り、城下町の食材を宿場町で流通させるには、アスタ殿を始めとする森辺の民の協力が不可欠でありましたからね。その成果は、ルイドロス殿もご承知の通りです」
そう、宿場町に焼きポイタンを流通させて、トゥラン伯爵家を経済的にも追い詰める、という策略は、ダレイムとサトゥラスの両家が手を組んで押し進めたものであったのだ。その後のさまざまな食材の普及に関しても、サトゥラス伯爵家の全面的な協力のもとに、ポルアースは活動しているはずであった。ヤンが宿場町で働いているのも、その普及活動の一環なのである。
「森辺の民との交渉についてはポルアース殿に一任してしまっていたが、言ってみれば我々と森辺の民はトゥランの前当主を討ち倒すために手を取り合った戦友だ。このたびの復活祭では宿場町も例年以上に賑わったが、そこにも森辺の民の影響は少なからずあったに違いない。わたしはこれからもあなたがたとは良好な縁を紡いでいきたいと考えているのだよ、ジザ=ルウ殿」
「我々もジェノスの貴族とは正しい縁を結びなおさなくてはならないと考えている。それには、おたがいが誠実であらねばならないだろう」
ぱっと見には温厚に見えるジザ=ルウが、穏やかな口調でそのように応じた。
「そこで気になるのは、貴方の子息の心情だ。確かにその者は何の法も犯してはいないのだろうが、ジェノス侯爵マルスタインに働きかけて、我が眷族シン=ルウを城下町に呼びつけた。そしてマルスタインは、サトゥラスの次期当主たるその者の申し出をないがしろにすることはできず、そして、サトゥラスと森辺の民の悪縁を断ち切るためにも必要な措置であると感じ、それを受け入れたのだという話を聞かされた」
その話をもたらしたのは、他ならぬポルアースだ。森辺の民らしいジザ=ルウの直截な物言いに、さすがのポルアースもちょっと首をすくめている。
「その者は、本当に森辺の民への悪念を断ち切ることがかなったのだろうか? 俺としては、もうひとたびそこのところを確認させてもらいたい」
ジザ=ルウの言葉に、ルイドロスは重々しくうなずいた。
「もっともな話であるな。リーハイムよ、ジザ=ルウ殿は斯様に仰っておられる。其方はどのような考えでいるのだ?」
「……今後は森辺の民と正しい縁を紡いでいけるように努力していきたいと思います。彼らにおかしなちょっかいを出したりはしないと、ここでセルヴァに誓います」
言い様は殊勝であったが、やっぱり彼は仏頂面のままであり、誰とも視線を合わせようとしなかった。
ジザ=ルウは「ふむ」と椅子の上で身じろぎする。
「ずいぶん簡単に神への誓いなどというものを口にするものだ。それは果たして、我らが母なる森に対して誓う言葉と同じ重みを持つものであるのかな」
「もちろんだ。セルヴァの民にとって西方神への誓いは絶対であるのだから、それを破るような人間は決して存在しないと断言しよう」
「そうなのか。しかし、その者の言葉にはまったく真情というものが感じられない」
そんな言葉を放つと同時に、いきなりジザ=ルウの大きな身体がさらに大きくなったかのように感じられた。
ここ最近ではなかなか見ることもなかった、不可視の威圧感である。こちら側の座席では、アイ=ファやシン=ルウやルド=ルウたちがぴくりと腰を浮かせそうになっていた。
「そしてそれは貴方も同様だ、サトゥラス伯爵。虚言を吐いているわけではないのだろうが、貴方はあらかじめ決まっていた言葉をそのまま口に出しているように思える。貴方ばかりでなく、サトゥラス伯爵家の3名全員がな」
ポルアースやエウリフィアなどは何となくきょとんとしている感じであったが、メルフリードは灰色の目を細めてジザ=ルウを注視している。やはり武の心得がある人間には、ジザ=ルウの放つ強烈な威圧感もまざまざと感じられるものなのだろう。
そしてジザ=ルウは、一心にルイドロスの姿のみを見つめている。ルイドロスはいささか顔色をなくしつつ、「それは誤解だ、ジザ=ルウ殿」と返した。
「そうなのか? 貴方は決まっていた通りの言葉を述べ、そちらの2名もそれに従って返事をしているように感じられてしまうのだ。貴方がこのように述べたら、そちらの2名はこのように応じる、という具合に、最初から話す言葉が定められていたのではないのか?」
リーハイムはちらちらと横目で父親の姿を見やっており、レイリスは真っ直ぐ背筋をのばしたまま、まぶたを閉ざしていた。
「だから、貴方はともかく、そちらの2名からは何の真情も感じられなかった。貴方に命じられた通りの言葉を口にするだけなら、彼らがこの場に同伴する意味もなかったのではないだろうか?」
「……わたしはサトゥラス伯爵家の当主だ。伯爵家の人間が当主の意向にそうのは、至極当然の話ではないだろうか?」
とりなすようにルイドロスが言ったが、ジザ=ルウは静かに首を横に振った。
「我々とて、家長や族長の意向に逆らえるものではない。そうだからといって、心情にない言葉を口に出すことはない。我々と正しい縁を結びたいと願っているならば、家人にそのような命令を下すのは不要だと思える」
「いや、しかし……」
「貴方の子息は、何歳なのだろう?」
このふいの質問に、ルイドロスはいっそう困惑したように冷や汗をぬぐう。
「リ、リーハイムはこの銀の月で22歳となった。それがいったい何だというのだ?」
「22歳か。俺はまもなく24歳となる。そして俺は族長ドンダ=ルウの長兄であり、彼はサトゥラス伯爵家の長兄だ。おたがいがつつがなく父からその座を受け継いだとしたら、次代においては俺と彼が森辺と伯爵家の縁を紡いでいくことになろう。……それゆえに、俺はいっそう彼の真情を二の次にすることがかなわぬのだ」
ジザ=ルウの糸のように細い目が、伯爵家の主人からその息子へとゆっくり移されていく。
リーハイムは、ほとんど死人のような顔色になってのけぞった。
「あらためて問わせてもらいたい。サトゥラス伯爵家の長兄リーハイムよ、貴方はこのたびの一件についてどのような心情でいるのだ?」
「お、俺の心情はさきほど語った通りだ! 俺は主君たる父上の命令に逆らう気持ちはない!」
「では、その命令さえなければ、今でもレイナを召し抱えたいと願っているのだろうか?」
リーハイムは、ほとんど椅子ごと後ろにひっくり返ってしまいそうになっていた。
それを気の毒に思ったらしいポルアースが、のほほんとした調子で「どうしたのだい、リーハイム殿?」と助け船を出した。
「別にそのように取り乱さずとも、正直な気持ちを述べればいいのではないのかな。まさかリーハイム殿とて、かつてのリフレイア姫のように森辺の民を力ずくでさらおうなどと考えていたわけではないのだろう?」
「も、もちろんだ! そんな罪を犯すつもりはない!」
「では、どうして貴方はさきほどからそのように不本意そうな顔をしているのだろうか?」
はたから見れば、にこやかに微笑んでいるようにしか思えないジザ=ルウである。ポルアースやエウリフィアは、むしろリーハイムたちがいきなり態度を豹変させたことをいぶかしんでいるような様子であった。
そんな人々に見守られながら、リーハイムは卓に敷かれた敷物をわしづかみにして、わなわなと肩を震わせている。かつてはルド=ルウをも子供のように怯えさせたジザ=ルウの威圧感なのだ。俺としては、このような状況でもリーハイムに同情したいような気持ちになってしまった。
「お、俺は……」
「うむ?」
「俺はどうしても、その娘を召しかかえたいという気持ちを捨てきれぬのだ。それでも父上やジェノス侯に逆らうことなどはできないから……鬱屈とした気持ちが隠しきれないのだろうと思う……」
「貴方はそこまで強い気持ちでレイナに執心していたのか」
ジザ=ルウはいくぶん感心したような口調で言い、そのかたわらから当のレイナ=ルウも発言した。
「ジェノスを統べる貴族にそのような申し出を受けるのは光栄なことなのでしょう。しかし、森辺の民は森を出て生きることはかなわないのです。どうかご容赦ください」
「わかってる……わかってるんだよ、俺だって……」
リーハイムは、青い顔をしたまま、うつむいてしまった。
その姿を見つめてから、ジザ=ルウはレイリスに向きなおる。
「では、貴方は? 自分の父が犯した罪について、貴方はどのような思いを抱いているのだろう?」
「わたしは別に、当主に謝罪を強要されていたわけではありません。父は己の弱さから騎士にあるまじき罪を犯してしまったのですから、もはや釈明の余地もないでしょう。わたしはそんな父に代わって、心よりお詫びの言葉を申し述べたつもりです」
そうしてレイリスはまぶたを開き、ジザ=ルウの隣に座したシン=ルウのほうに鋭い視線を差し向けた。
「ただ、父をそこまでの恐怖に突き落とし、なおかつ、一撃のもとにそれを討ち倒した人物というのは、いったいどれほどの剣士であるのか。この身でそれを確かめたい、という思いを消すことができずにいます」
「なるほど、だから貴方はずっとそのように猛々しい気配を放っていたのか。聞いてみれば、どうということのない話だ」
ジザ=ルウは、納得したようにうなずいた。
「我々には刀を取って力を試し合う習わしはないので、ただちにその願いを聞き届けることはできないが、貴方が父親の罪を罪と認めているならば、さしあたって問題はない。よもや貴方も、いきなりシン=ルウに斬りかかるような心づもりではないだろうな?」
「もちろんです。わたしが望むのは、誇りをかけた剣技の試し合いです」
「では、それはまたのちの話ということにさせてもらおう」
ジザ=ルウの大きな身体から、不可視の威圧感がすうっと消え失せた。
そうしてジザ=ルウは、ルイドロスのほうへと視線を戻す。
「おふたりの真情を聞くことができて、俺もようやく得心することができた。族長の代理としてこの場に参じている身であったので、ことさらくどくどと言葉を重ねることになってしまい、とても申し訳なく思っている」
「あ、ああ……それでは、我々の謝罪を受け入れていただくことがかなったのであろうか……?」
「森辺の族長ドンダ=ルウの長兄ジザ=ルウの名において、サトゥラス伯爵家の謝罪の言葉を受け入れよう。……おたがいに異なる習わしに従って生きる身であるのだから、なかなか真っ直ぐに心を通じ合わせることも難しいのだろうが、それでもよりよい縁を紡いでいけるように努力していきたいと願う」
「そうか……」という言葉とともに、ルイドロスは深々と息をついた。
瀟洒で若々しかったその姿が、いくぶん老け込んでしまったかのようである。たとえ君主筋であっても、納得がいかなければ刀を取ることも辞さない――という森辺の民の覚悟を、彼は真正面から受け止めることになったのだ。
「それでは、そろそろ料理を運ばせてはいかがでしょうかね、ルイドロス殿? みなの明るい行く末を願って、ともに酒盃を傾けようではないですか」
そんなポルアースののんびりとした声音に従って、ようやく親睦の晩餐会は執り行われることになったのだった。