約定と再会①約定
「……貴様たちとは、もう二度と顔を合わすこともねえんじゃないかと思っていたんだがなあ」
ルウの本家である。
物々しく飾られた巨大ギバの頭骨と毛皮を背後に、片膝あぐらをかいたドンダ=ルウが、バリバリと黒い燻製肉をかじり取りながら、俺とアイ=ファと相対していた。
日は、ルウの家を辞去してから10日後。
時刻は、中天の直前ぐらいだ。
家長のかたわらには、長兄のジザ=ルウだけが陣取っている。
女衆も、最初に出迎えてくれた奥方のミーア・レイ=ルウしか姿を見ていない。
きっとみんな、毛皮をなめしたり脂を煮詰めたりとそれぞれの仕事に取り組んでいるのだろう。
「こんな時間にのこのこ姿を現すなんてな。『ギバ狩り』の仕事はいいのかよ、ええ、ファの家の家長アイ=ファ?」
「大事ない。この半月ほどでもう4頭のギバを仕留めたので、家人とふたりの生活なら、ゆとりもある」
ちなみにこの世界でも1ヶ月は30日前後である。
1年は12ヶ月で、日数は360日前後、ただし3年に1回は13ヶ月になるとか何とか。今ひとつ俺には理解しきれなかった。
何はともあれ、そんな風に応じるアイ=ファをにらみすえ、ドンダ=ルウは「ハッ」と呼気を吐いた。
「それで? こちらには、貴様らなんぞに何の用事もありゃしねえんだぞ? 最長老の見舞いがしたいなら、どうぞご随意にってなもんだ」
「それは是非のちほど見舞わせていただきたいが、その前に、家人のアスタからルウの家長たるドンダ=ルウに、お詫びの言葉を述べさせていただきたい」
「……お詫びだと?」と、ドンダ=ルウは面白くもなさそうに口もとをねじ曲げる。
俺はきちんと膝を正して、そちらに深々と頭を下げてみせた。
「先日は、ルウの家長たるドンダ=ルウにご満足のいただけない料理を提供してしまい、まことに申し訳ありませんでした。すべてはかまどを預からせていただいた俺の腕の未熟ゆえです。ここに改めてお詫びの言葉を申し上げさせていただきます」
「ふん。何をほざいてるんだか、まったくわからねえなあ、ファの家のかまど番よ」
悪意と嘲弄に満ちた言葉が、俺の後頭部に振りかかってくる。
「貴様らは最長老ジバ=ルウの魂に救いを与えた。その件をもって、狩人の魂を腐らせるような飯を食わせてくれた罪は不問としたはずだ。不問にした話にわびなんざ入れられても挨拶に困るだけだぜ、こっちはよ」
「はい。つきましては、ファの家の家人アスタから、ルウの家の家長ドンダ=ルウにお願いしたいことがあります」
俺は顔を上げ背筋を伸ばし、真正面からドンダ=ルウの魁偉な面相を見つめやる。
「もうひとたび、ルウの家のかまどを預からせてはいただけませんでしょうか?」
「……ああん?」
「俺は確かに、最長老ジバ=ルウの心に安息を与えるため、かまどをお預かりしました。その仕事が果たせたのは何よりですが、家長たるドンダ=ルウを始めとする他のご家族の皆様をご不快にさせるような料理を提供することになってしまったのは――たとえご容赦がいただけたとしても、不本意です」
ドンダ=ルウの双眸が、ギラギラと凶悪な光を浮かべ始めている。
野生の獣とでも向きあっているかのような圧迫感だ。
それでも俺は、目に力を込めて、言った。
「もうひとたび、ルウの家のかまどを預からせてください。今度こそ、ご家族全員の心に安息と満足を与えたいと、俺は願っています」
「ご家族、か……あの腐ったみてえなギバを食って、12人のうちの8人までもが、貴様を祝福した。それでもまだ貴様は満足できねえってのか?」
その声の響きに、俺は何がなしハッとした。
しかし、その正体が知れる前に、ドンダ=ルウはまた凶悪な笑みを浮かべやる。
「それにな、小僧。食事に美味いも不味いもねえんだよ。ギバの肉を食い、ギバの角と牙で得た恵みを食い、俺の腹と魂はすでに安息と満足を得てるんだ。そんなもんが得られなかったのは、貴様にあの不味い飯を食わされたあの夜だけなんだよ」
「はい。それならば――より深い安息と満足を与えることを、ここに約束します」
「……約束」と、ドンダ=ルウがさらに口もとをねじ曲げる。
「ルウの家の家長ドンダ=ルウと約定を交わすと、貴様はそうほざくのか、小僧」
「はい」
「その約定が守られなかったら、自分がどんな目に合わされるかもわかってるんだろうなあ、ええ、小僧?」
「……すべてはドンダ=ルウのご随意のままに」
するとそこで、初めて長兄ジザ=ルウが言葉をはさんできた。
「我が父なるドンダ=ルウ。そうは言いましても、ファの家には代価を支払う富もありません。約定を破っても、その身を差し出す以外に道もないでしょうが――このような戯れで民の血を流させては、ルウの家の名が地に落ちるばかりです」
「ふん。そこの小僧は民にあらず、生白い肌をした余所者だろうが?」
「とはいえ、今はファの家に属する身です。たとえ異国の生まれでも、森辺の家人であることに違いはありません」
俺たちの身の上を案じている――わけではないのだろうな、きっと。
森辺の規律を重んじるというジザ=ルウは、そもそも他家の人間にかまどを預けたりしたくはないし、家長に暴虐な真似をさせたくもないのだろう。
「まあ、待てよ。俺だって食事の如何なんざで血を所望するほど、荒くれちゃいねえよ。……狩人の魂を腐らせるような毒でも食わされない限りは、な」
ほとんど蓬髪と髭で隠されてしまっているドンダ=ルウの岩のような顔に、獲物を見つけた肉食獣のような笑みが広がる。
「だけど、代価もなしに約定を交わすのもつまらねえ話だ。……おい、小僧、それじゃあ貴様のその自慢の食事とやらを、他の家の人間にもふるまう覚悟は、持ち合わせているか?」
「はい?」
意味がわからなかったので首を傾げてみせると、ギバの化身のごとき大男は何か楽しくてたまらぬ様子でその頑健な肩を震わせた。
「今日から10日の後、ルウの眷族であるルティムの家で嫁入りの祭がおこなわれる。その挨拶として、3日後の夜に、ルティムの家長どもがこのルウの家にやってくるのさ。前祝いとして、ルウの家が贅を尽くした宴を催してやるわけだが――そのかまどを預かる覚悟があるのかと聞いているんだ」
「ドンダ=ルウ、それは……」
「うるせえぞ、ジザ」
正体不明の圧力を有するルウ家の跡取り息子も、まだ家長の前では役者が不足だった。
細い目をさらに細めて息をつくジザ=ルウを横目に、俺は「どれぐらいの人数が参加されるのですか?」と聞いてみた。
「何、人数自体は3人きりだ。ルティムの家長と、その長兄と、その花嫁だな」
「長兄……」とアイ=ファが低くつぶやいた。
「ああ、長兄さ」とドンダ=ルウはさらに笑う。
「つまりはルティム家の跡取り息子ってわけだなあ。その嫁を迎えようってんだから、ルティムにとっては一番のお祝いだ。……ついでに言っておいてやると、ルティムはルウの眷族でも一番大きな家だ。男衆の数も多く、ルウの家とも縁は深い。もしもこの連中の怒りを買うような事態になれば、ルウの家としても、ファの家には絶縁を申しつけることになるだろう」
「絶縁?」
俺は、アイ=ファを振り返った。
アイ=ファは静かに、ドンダ=ルウの言葉を聞いている。
「ルウの家は、今後一切ファの家に関わらない。たとえファの家が助けを請おうとも、手を取るにあたわず。……ルウの本家だけの話じゃねえぞ? ルウに縁ある7氏族、100人を越える眷族すべてが、ファの家とは縁を絶つってわけだ」
「それは……?」と問うたのは俺である。
アイ=ファは眉筋ひとつ動かしていない。
「なあ、ファの家の家長アイ=ファ。貴様はルウ家からの嫁入りの申し出を突っぱねたが、それ以降ものうのうと生きのびてこられたのは、まさか自分ひとりの才覚によるもの、なんて思い違いはしてねえだろうなあ?」
立てた膝に腕を乗せて、ドンダ=ルウがぐっと身を乗りだしてくる。
「スンの家の連中は、ルウの本家が関わったことによって、貴様に手を出すのを差しひかえたはずだ。けっきょく嫁入りは成されなかったものの、どうやらルウの家とファの家には何らかの繋がりがあるらしいってな。……もちろんそんな風に考えるのはあのボンクラどもの勝手だし、貴様も知ったことかと放っておいただけだろう。別にそれで恩に着せる気もねえ。俺だって、スンの連中が歯噛みしてるなら、何もご親切に疑いを解いてやることもねえと放置してただけだからな」
「……それで?」とアイ=ファはわずかに首を傾ける。
その青い瞳が、わずかに光を強めていた。
「それで? ……それで、ルウの家が貴様に絶縁を申し渡せば、スンの連中はもう何の憂いもなく2年前の続きに励めるってことだろうがよ。何の後ろ盾もない小娘ひとりを嬲りものにするなんざあ、連中にとってはギバの赤ん坊をひねるより簡単な話だ」
「……そのような無法が、この森辺で許されると?」
「力がなければ法もねえだろ。娘をかどわかすのも嬲りものにするのも、この森辺では禁忌だがな、族長筋であるスン家がそいつを破っちまったら、それに鉄槌を下せるのは、誰だ? ルウの眷族以外にスンの家に刀を向けられる狩人がいるか?」
膝をそろえて座したまま、俺は両方の拳を握りしめた。
目の前にいる大男を通りこし、その向こう側にいる相手に殺意にも似た感情を覚えてしまう。
「ましてや貴様には家族もいない。唯一の家人はそこの余所者だ。貴様らがかどわかされたところで、集落の連中は何も気づかねえだろう。だからこそ、2年前のあの夜にも、あのボンクラは禁忌を破ってでも貴様の家に乗りこんできたんだろうがよ? あれで痛い目を見たボンクラは、今度は何人の男衆を引き連れてくるんだろうなあ?」
「……何人引き連れてこようがかまわん。私は私の敵を討ち倒すだけだ」
アイ=ファの瞳が、ついに火を噴いた。
ドンダ=ルウにも負けぬ眼光が、獣のような大男をにらみすえる。
「それがルウの家の家長ドンダ=ルウの提示する約定か。我が家人アスタが貴方がたの心を満足させなかったら、ルウの家はファの家に絶縁を申し渡すと。……承った。ファの家の家長として、その約定を了承しよう」
「おい、アイ=ファ!」
叫ぶ俺に、アイ=ファが青く燃える瞳を向けてくる。
「何だ? まさか自信がないなどとほざくつもりではなかろうな? 私は言ったはずだ。ファの家の名を背負う覚悟で挑め、とな」
アイ=ファは、怒っていた。
もしかしたら、俺がこれまでに見てきた中で、一番に――怒り狂っていた。
それはたぶん、ドンダ=ルウが無法な要求を突きつけてきたからでは、ない。
自分は、ルウ家の情けにすがって生きのびてきたわけではない、と――己の尊厳を踏みにじられたことに、怒り狂っているのだ。
(アイ=ファ……)
本心を言えば、こんな約定を交わしたくはない。
俺が自分のプライドをかなぐり捨てることでアイ=ファが救われるなら、そんなものはいくら捨てたって、かまいはしない。
アイ=ファの安全な生活を質草にしてまで挑む勝負なんて、馬鹿げている。
しかし――
俺がここで逃げても、きっとアイ=ファは救われないだろう。
少なくとも、その烈しくも清廉な魂が救われることはないだろう。
むしろ、俺までもがアイ=ファの尊厳や矜持を踏みにじるつもりかと、激怒するに違いない。
「……アスタ」と低い声が俺を呼んだ。
火のような青い目が俺を見ている。
眉には深くしわが刻まれ、俺の名を呼んだ後は、その唇も厳しく引き締められ――肩が、小さく震え始めている。
(お前も、私を信じてはくれないのか……?)
(私はそんなものに屈しないと、お前も信じてはくれないのか……?)
その火のような眼光が、そんな風に激しく訴えかけてきている気がした。
「……わかった、よ」
小声でつぶやき、俺はドンダ=ルウに向きなおる。
「その条件で、お受けいたします」
ドンダ=ルウは、いぶかしそうに目を細めた。
そのグローブのように図太い指先が、たてがみのような蓬髪をかきむしる。
「受ける、だと? 貴様ら、自分が何を言っているのか、本当にわかっているのか?」
「その条件で、お受けいたします」
もう一度、強い声で俺は答えた。
ドンダ=ルウの双眸に、苛立ちの激情が燃えあがる。
「いいだろう。それでは貴様とも約定を交わさせていただこうか、かまど番。貴様の作るものが俺を満足させることができなかったときは、その誇らしげに首から掛けているものを、ルウの家に返してもらう。……約定を違えるような痴れ者に、ルウの人間の祝福は授けられないからな」
「わかりました」
上っ面だけは平静を保ち、俺はうなずき返してみせる。
本当にこれで良かったのかと、隣りのほうを横目でうかがってみると、アイ=ファは少しうつむいて、その燃える瞳をまぶたに隠してしまっていた。
もしも、見間違えでないならば――
その口もとには、ひどく満足そうな微笑が漂っているように感じられた