城下町の勉強会①~顔合わせ~
2016.8/8 更新分 2/2
・今回の更新は、登場キャラの一覧表を除いて全9話の予定です。
この大陸アムスホルンにおいて、月の名前は色で示される。
銀の月を1年の始まりとして、茶、赤、朱、黄、緑、青、白、灰、黒、藍、紫、これで12ヶ月である。
ただし、3年に1度は銀と茶の間に金の月という特別な月が差し込まれ、その年だけは13ヶ月で1年となる。俺の故郷でも閏年というものが存在したが、そうして太陽や月などの運行とのズレを補正したりしているのだろう。
なお、本年はちょうどその特別な年にあたり、この銀の月が終わったら金の月がやってくるのだそうだ。
ちなみに、俺が森辺の集落で暮らし始めたのは、黄の月の24日である。
が、俺がその日取りを知ったのは、ずいぶん後になってからのことだった。俺は最初の黄と緑の月が過ぎて青の月に至るまで、まったく暦というものを意識しないで生活してしまっていたのだ。
ともあれ、紫の月が終わったことにより、俺の森辺における生活もまるまる7ヶ月以上が終わった計算になるのだった。
黄の月の24日に、俺はアイ=ファと出会うことができた。
その数日後にはリミ=ルウがファの家にやってきて、ルウ家の人々とも縁を結ぶことができた。
そうしてすぐに緑の月がやってきて、中旬にはルティム家の婚儀の祝宴を預かり、下旬には宿場町における商売を開始した。カミュア=ヨシュを皮切りに、ターラやドーラの親父さん、ミラノ=マスやユーミ、シュミラルやバランのおやっさんという数々の大事な人たちに巡りあえたのもこの月である。
それで青の月にはスン家をめぐる騒動があり、そのさなかにナウディスやネイル、さらにはディアルやジーダたちと出会い、そしてシュミラルやおやっさんたちとは別れることになった。森辺では家長会議が行われていたし、この青の月も俺にとってはとても印象の強い時期であった。
が、その次の白の月もそれに負けない波乱に満ちていて、城下町に拉致されたり、サイクレウスとの決着がついたりしたのもこの月だ。ジェノス侯爵のマルスタインやダレイム伯爵家のポルアースといったジェノスの貴族たち、それにミケルと縁を結んだ月でもあるので、そういう意味でも大きな転換期であったろうと思う。
そこでスン家とサイクレウスにまつわる騒動にはひとまず決着がついたので、灰と黒の月は比較的穏やかに過ごすことができた。
この時期はひたすら商売に邁進し、そしてその果てにマイムやヴァルカスたちと出会うことになったのだ。
そうして藍の月では初めてダレイム領や隣り町のダバッグにまで足を向けることになり、その終り際には青空食堂をオープンさせた。
そして紫の月に太陽神の復活祭が開催され、それをやりとげると同時に前年は終了と相成ったのである。
思えば、怒涛のような7ヶ月間であった。
だけどこれからも、同じように賑やかな日々が続いていくのだろう。
目先のことだけを考えても、銀の月が終わればそろそろシュミラルがジェノスに戻ってくる頃合いであるし、金の月が終われば2ヶ月も続くという雨季がやってくる。
その前にも城下町の人々と交わしたさまざまな約束や、ギバを生け捕りにしたいと願う《ギャムレイの一座》の一件、狩人になりたいと願うレム=ドムの一件、森辺の集落に宿泊したいと願うドーラ家の一件――それに、ファの家が休息の期間を迎える際は、近在の氏族同士で収穫の宴を開いてみよう、という一件などもあった。ギバの動きに乱れがなければ、銀か金の月にはファの家にも休息の期間が訪れる計算になるのだ。
これだけでも、なかなか退屈しているヒマなどはあるように思えない。
だけどまずは、目前の仕事をひとつずつ片付けていくしかないだろう。
そんなわけで、新しい年を迎えてから5日目の、銀の月の5日。俺たちは小さからぬ仕事を果たすために、またジェノスの城下町へと向かうことになったのだった。
◇
「わたしなどをお誘いくださって、本当にありがとうございます、アスタ」
元・トゥラン伯爵邸たる貴賓館に向かうトトス車の中で、そのように声をあげたのはマイムであった。
ヴァルカスがマイムの腕前を知りたがっている、という言葉を告げてみせると、ミケルは意外なほどあっさりとそれを承諾してくれたのだ。
ただし、自分が同行することだけは頑なに拒絶していたし、俺も無理に説得しようという気持ちにはなれなかった。かつては名うての料理人でありながら、サイクレウスの非道な行いによってその身分を失ってしまったミケルであるのだ。その心情を思うと、俺などに口をはさめるはずがなかった。
「でも、今日は新しい食材を吟味するのと、あとはアスタがフワノ料理の作り方を城下町の料理人たちに伝授する、というのが目的であるのですよね? わたしは何のお役にも立てないのに、本当にのこのことついてきてしまってよかったのでしょうか?」
「そんなに重く考える必要はないよ。この一件を取りしきっているポルアースという御仁は、とても話のわかる方だから。そのポルアースも、マイムの料理をとても楽しみにしているという話だったよ」
マイムは宿場町で売りに出していたあの料理を持参してきているのだ。興奮に頬を赤らめつつ、それでもマイムはまだ少し心配そうな顔をしていた。
「でも、わたしはアスタほど数々の食材を使いこなせているわけでもありませんし……このように粗末な料理を食べさせてしまって、貴族の怒りを買ったりはしないのでしょうか?」
「粗末な料理っていうのは、あまり値の張る食材を使っていないという意味だよね? 大丈夫さ、ポルアースは貴族だけど、食材の如何で料理の価値を決めるような人じゃないから」
それでもマイムは、貴族の無法によって父親をひどい目にあわされているのだ。いつも無邪気そうにしているその面から、完全に懸念の色が消えることはなかった。
しかしその境遇や彼女の幼さなどを考えれば、驚くぐらい元気にふるまっているともいえるだろう。何にせよ、今は別の車に揺られているレイナ=ルウやシーラ=ルウなどは、マイム以上に張り詰めた面持ちをしてしまっていたのである。
レイナ=ルウたちも、今日は料理を持参していた。こちらも宿場町で売りに出していた、『照り焼き肉のシチュー』である。前回の煮込み料理でヴァルカスの不興を買ってしまった彼女たちは、もう一度自分たちの料理を口にしてほしいと申し出ていたのだった。
言ってみれば、そちらも俺たちとヴァルカス個人との間で取り交わされた私用であった。いまだ個人的に城下町へ出入りすることが許されていない俺たちがヴァルカスのもとにおもむくには、こうして貴族から申しつけられた仕事にかこつけるしか手段がないのである。
ともあれ、仕切り役のポルアースが快諾してくれたので、俺たちは本日もそれなりの人数で城下町に向かうことができていた。
俺とマイム、レイナ=ルウとシーラ=ルウ、それに調理助手という名目でトゥール=ディンとユン=スドラとリミ=ルウ、さらには視察役としてスフィラ=ザザも同行している。
護衛の狩人は、アイ=ファ、ルド=ルウ、ダン=ルティム、あとは俺が名前を知らないルウの眷族が3名で、合計6名である。
銀の月の2日をもってルウの眷族の休息期は終了とされたので、彼ら以外の狩人は今日も森に入っているはずであった。
なおかつ屋台の商売においても、いまだ多数の護衛役がつけられている。太陽神の復活祭が終わってもまだまだ大勢の余所者が宿場町に居座っているため、町が落ち着きを取り戻すまでは用心すべきである、というのがドンダ=ルウやジザ=ルウの判断であったのだ。
とはいえ、狩人としての仕事が再開されたのだから、ラウ=レイやギラン=リリンといった眷族の家長たちはそれぞれの家で男衆を束ねることになり、護衛の役目を果たすことはできなくなってしまった。それでもルド=ルウやダン=ルティムといった指折りの猛者を護衛役に回してくれたのが、ドンダ=ルウのせめてもの心づかいであったのだろう。
そして、アイ=ファである。
アイ=ファもまた、ついに胸部を固定していた帯を外し、狩人としての力を取り戻すための修練を開始していた。
護衛役の仕事は果たしつつ、それ以外の時間は木に登ったり刀をふるったり、休む時間もなく過酷な修練に励んでいる。しばらくしたら休息の期間がやってきてしまうため、それまでには何としてでも力を取り戻すのだ、とアイ=ファは並々ならぬ気迫を見せていた。
そうして力を十全に取り戻せたら、まずはレム=ドムとの手合わせが待ちかまえている。
狩人の力比べでアイ=ファに勝利することができるか。それでレム=ドムの行く末は定まってしまうのだ。
どのような結末になろうとも、レム=ドムに商売の下準備を手伝ってもらう日々も、もうまもなく終わりを迎えることになるのだった。
「そういえば、今日は族長たちも城下町に招かれているのだという話でしたよね?」
と、飽きずに窓の外を眺めていたユン=スドラがふいに問うてきた。
「うん、だけど族長たちがやってくるのはもっと後だし、そもそも場所が違っているから、俺たちが顔をあわせることはないよ」
本日は、3ヶ月に1度の褒賞金が支払われる期日であったのだ。
森辺の民との交渉役がサイクレウスからメルフリードに切り替わってから、これが2度目の会談である。
メルフリードがこの役を担うようになってから、ただ銅貨を受け渡すだけではなく、おたがいに不満や要望などはないかをきちんと語り合う場になったのだと聞く。今回は、いったいどのような議題が取り沙汰されるのか、俺としても少し気になるところではあった。
(まず第一に、サトゥラス伯爵家との和解についてが話し合われるんだろうな。あとは《ギャムレイの一座》に関しても、こちら側から話を出したりするのかな)
何にせよ、ジェノスと森辺の絆が深まっていくよう祈るばかりである。
ちなみに、ダルム=ルウとガズラン=ルティムの両名はそちらに同伴する予定になっている。ダルム=ルウは族長たるドンダ=ルウのお供として、ガズラン=ルティムは特別枠の相談役としてだ。サイクレウスとの一件で交渉役としての力を認められたガズラン=ルティムは、前回の会談においてもそうして同行を願われていたのだった。
余談として、そうして本家の家長が狩人の仕事を抜けざるを得なかったときは、次期の家長と目されている人間が仕事を取り仕切ることになる。ルウ家においてはもちろんジザ=ルウであるし、ルティム家のように家長が若くてまだ子が育っていない場合は、次に血の近い人間――ルティム家でいえば本家の次兄が受け持つのだそうだ。
「その会談には、フォウやベイムの家長も同行するのですよね? 戻って話を聞くのが、とても待ち遠しいです」
「そうだねえ。でも、ひょっとしたら集落に戻るのは俺たちのほうが遅いぐらいかもしれないよ? 何せ仕事がたてこんでいるから」
本日の仕事は、新しい食材の吟味ばかりではない。俺が考案した『黒フワノのつけそば』のレシピを城下町の料理人たちに伝授しなくてはならないのである。
それに加えて、ヴァルカスたちに俺やマイムやレイナ=ルウたちの料理を試食してもらう約束までしてあるので、なかなか慌ただしい限りなのだった。
現在は一の刻の半を回ったぐらいであり、族長たちが集まるのは三の刻であったが、やっぱり集落に戻るのは俺たちのほうが遅いのだろうと思われる。
「わざわざ商売を早めに切り上げてまで出向いてきたんだから、実のある一日にしないとね。まあ、ヴァルカスたちに感想をもらえるだけでも有意義は有意義なんだけどさ」
「ええ、宿場町のお客たちもたいそう残念そうにしていましたものね」
ユン=スドラは灰褐色のサイドテールを揺らしながら、くすくすと笑い声をたてる。
俺たちは、普段よりも1時間ばかり早く商売を切り上げていた。というか、本当は休業日にするつもりであったのだが、昨日の内にそれを告げると、お客さんたちからとても嘆かれることになってしまったのだった。
復活祭が目的でジェノスを訪れた人々も、銀の月の3日まではのんびりと過ごし、それから故郷に戻ったり別の町を目指したり、という計画であったのだ。それで本日は銀の月の5日であるから、宿場町にもまだ相当数の旅人たちが居残ってしまっているのである。
「ついこの間も休んだばかりなのに、また休むのか!?」
「明日はお前さんたちの料理をかじりながらジェノスを出る予定だったのに、ひどいじゃないか!」
そんな声が殺到してしまっては、店を閉めるのも忍びない。ということで、約束の刻限のぎりぎりまで宿場町に居残って、俺たちは商売を敢行したのだった。
日ごとにお客は減ってきているが、それでもいまだに1000食以上は売れている。年明け一発目の営業日などは、定刻よりずいぶん早く店じまいをすることになったほどである。復活祭が終わっても、宿場町そのものが落ち着きを取り戻すまでは、俺たちも気を休めるひまはなさそうであった。
「あ、着いたようですね」
ユン=スドラの弾んだ声とともに、箱型のトトス車がようやく停車した。
後部の扉が開かれて、案内役の武官が顔を覗かせる。
「お待たせいたしました。足もとに気をつけてお降りください」
武官の指示に従って、前庭の石畳に足をおろす。隣にとまった車からも、レイナ=ルウたちやそれを警護する狩人たちが同じように姿を現していた。
その中から、ルド=ルウが「うん?」と声をあげる。
「何だか今日は兵士の数が多いみたいだな。何か理由でもあるのかい?」
「はい。この館には貴き方々が大勢宿泊されているので、特に警備は厳重になっております」
「ふーん? この前に来たときはそうでもなかったのにな」
見てみると、確かに中庭には10名近い武官がたたずんでいた。先導役の武官は2名のみであったはずなので、それ以外の者たちはこの場で俺たちを待ちかまえていたのだろう。
普段から貴賓館を警護している兵士たちとは、いささか身なりや装備が異なっている様子である。仰々しい矛槍などは携えていない代わりに、長剣と短剣をひと振りずつ腰に下げている。こざっぱりとしたお仕着せに紋章の刻印が打たれた胴丸と篭手だけをつけているのが、身軽であると同時にきわめて実務的にも感じられた。
これはたぶん、護民兵団の兵士たちなのだろう。悪逆なる前団長シルエルが更迭された現在、彼らとて決して危ぶむべき存在ではないのだが、普段このような場ではなかなか見かけない姿であるので、何となく物々しい感じはしてしまった。
同じことを考えたのか、ルド=ルウもうろんげな目つきになってその武官たちの姿を見回している。
「今日は誰か特別なお客でも来てるってのか? アスタたちが相手をするのは、あのポルアースって貴族だけなんだろ?」
「は、わたしどもは上官の指示に従っているばかりですので……」
と、若い武官が言いよどんだところで、今度はもうちょっと身分の高そうな壮年の武官が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「これはこれは、森辺の皆様がた。さ、どうぞ建物の中にお入りください」
「その前に、いちおう質問に答えてもらえっかな? 俺もかまど番たちの安全を預かってる身だからよ」
ダルム=ルウが不在なので、この場の責任者はルウ本家のルド=ルウになってしまうのだ。そんなルド=ルウが同じ質問を繰り返すと、壮年の武官は「ああ……」とうなずきながら顔を寄せてきた。
「その件につきましては、ダレイム伯爵家のポルアース様がじきじきにご説明をさせていただきたいと仰っておりました。ポルアース様はすでに到着されておりますので、どうぞこちらに――」
不穏とまではいかないものの、どうにも歯切れの悪い返答である。
ルド=ルウは無言で他の狩人たちに目くばせをしてから、その武官に付き従って歩を進め始めた。
「どうしたんだろう? 何かいつもと雰囲気が違うみたいだな?」
俺がこっそり耳打ちすると、アイ=ファは「うむ」と神妙にうなずく。
「まあ、何となく想像がつかないわけでもない。ポルアースが説明をするというのなら、その言葉を待てばよいのではないのかな」
元来はルド=ルウよりも警戒心の強そうなアイ=ファであるので、その言葉は俺をずいぶん安心させてくれた。今のところ、アイ=ファの危険察知センサーに触れる存在はない、ということなのだろう。
そうして建物内に踏み込んでみると、そちらでは前回と同じように小姓たちが立ち並んでいた。持参した荷物も、従者たちが黙々と運び入れてくれている。
が、俺たちが浴堂に足を向けると、呆れたことに、10名ばかりの武官たちもぞろぞろとついてきてしまった。これはもう、はっきりとした異常事態である。ゲイマロスとシン=ルウの一件があったので、俺たちにはさらなる警護が必要である、とでも思われてしまったのだろうか。
(でも、サトゥラス伯爵家とは和解の方向で話を進めているんだよな。マルスタインの意向を無視して、リーハイムあたりが俺たちに危害を加えようとするとは思えないんだけど……)
とにかく今は、一刻も早くポルアースと合流するべきであろう。
俺たちは早々に身を清めて、一路、厨を目指すことにした。
「やあ、お待ちしていたよ、森辺の皆様がた。こんなに早く再会することができて何よりだ」
厨では、笑顔のポルアースが俺たちを待ち受けていた。
奥のほうには料理人たちの姿も見えるが、ポルアースのそばに控えているのはいつも通り2名の武官のみだ。その、普段と変わるところのない明るく朗らかな笑顔にほっとしながら、一同を代表して俺が進み出た。
「どうもお待たせいたしました。何もお変わりはありませんか?」
「うん、こちらの準備も整っているよ。……その前に、説明が必要だよね?」
ポルアースの指示で、扉が閉められる。扉の外に残るのはダン=ルティムと名の知れぬ狩人で、10名ばかりの武官たちも厨に入ってこようとはしなかった。
「今日は警護の武官が多かっただろう? アスタ殿たちを不快にさせていなければ幸いなのだけれども」
「不快っつーか、理由を教えてほしいところだな。今日は何か特別な日なのか?」
ルド=ルウの問いかけに、ポルアースは「いやいや」と太い首を振る。
「何も特別なことなどありはしないよ。この館に逗留している貴賓の方々も、まだ復活祭の余韻にひたってのんびり過ごしていることだろう。……ただ、それらの人々からもっと警護を厳重にしてほしいという要請が入ってしまったのだよね」
「そいつらは何なんだ? あのサトゥラス伯爵家とかいう連中と関係でもあるのかよ?」
「いや、逗留しているのは余所の土地の人々ばかりだよ。ここは貴賓の館なのだからね。……つまり、そういう人々が、刀を下げた森辺の狩人の存在にいささか懸念を覚えてしまっているのだよ」
あれらの武官は俺たちを警護するのではなく、俺たちから建物内の人々を警護する、という名目で配置されたということだ。
にこにこと笑いながら、ポルアースはちょっとだけ声をひそめた。
「森辺の民は正直を美徳としているそうだから、僕も率直に話させていただくよ? 要するに、先日の一件がこの館に逗留する人々の耳にまで入ってしまい、それでちょっとばっかり不安感をかきたてることになってしまったわけだよ。森辺の狩人がその気になったら、これまでに配置されていた護衛の兵士だけでは役目を果たせないんじゃないか、とね」
「ふーん? 見知らぬ人間を襲う理由なんて、俺たちにはねーけどな」
「それはもちろんそうだろう。ただ、余所の土地から来た人間だと、やっぱり色々と心配になってしまうようでね。彼らは僕たちみたいに森辺の民と実際に顔をあわせているわけでもないからさ」
そのように言って、ポルアースはいっそう楽しげに微笑んだ。
「まあ、貴族や豪商というのは臆病なものなのだよ。森辺の狩人を相手に10名ばかりの武官を増やしたところで何も変わりはしないのに、それで客人らが安心できるなら安いものだ」
「そういうあんたも貴族なんだろ? これだけ大勢の狩人が目の前にいるのに、おっかなくなったりはしねーのか?」
「それが信頼というものだろう。これまでにジェノスの貴族は2回、森辺の民の信頼を裏切っている。すなわちサイクレウスと、先日のゲイマロス殿だね。それに対して、森辺の民が城下町で無法な真似をすることは1度としてなかった。これで僕たちの側が森辺の民の真情を疑うことなどできるはずもないさ」
ルド=ルウは、ようやく納得したように、にやりと笑った。
「色々とうるせーことを言っちまって申し訳なかったな。俺も親父から護衛の束ね役を任されてる身だからよ」
「いやいや、礼を失しているのはこちらのほうなのだから、警戒して当然さ。それでもやっぱり今日の仕事を果たすにはこの厨が最適だったから、場所を移すわけにもいかなかったのだよ」
そう言って、ポルアースは肉づきのいい手を後方に差しのべた。
「さ、それじゃあ気を取り直して、始めようか。まずは例の料理の指南からお願いできるかな、アスタ殿?」
「はい。了解いたしました」
ポルアースに付き従って厨の奥へと歩を進めると、そこには総勢で15名ぐらいの料理人たちが立ち並んでいた。
その中で見知った顔は、6名。ヤン、ティマロ、ボズル、タートゥマイ、シリィ=ロウ、そしてロイである。
「ようこそ、アスタ殿。我々も見学させていただいてよろしいでしょうかな?」
そのように述べてきたのはヴァルカスの弟子のひとり、大柄なジャガルの民たるボズルであった。
「ええ、もちろんです。……というか、ヴァルカスはまだいらっしゃらないのですね」
「はい。この料理に関してはあまり調理の過程を目に入れたくないようです。シャスカを作る際の雑念になってしまいそうだ、ということで」
その明るくきらめくグリーンの瞳が、ふっと俺のかたわらを見る。
「そちらは、おひさしぶりですな。わたしのことを覚えておいででしょうか?」
「はい! あなたがヴァルカスという方のお弟子さんだったのですね。あとからアスタに話を聞いてびっくりしてしまいました」
マイムが、ぴょこんと頭を下げた。
それを注視している人間が2名いる。ロイとシリィ=ロウである。
ロイもマイムの料理を口にしたことはあるので、彼女の存在は見過ごせないところであろう。いっぽう、シリィ=ロウといえば、俺と初めて顔をあわせたときと同じぐらい強い眼差しをマイムに向けている。そちらはそちらでボズルからマイムの評判を聞き、油断なくロックオンしている様子であった。
「ヴァルカス殿のお弟子を除いたそちらの者たちは、いずれも城下町で店をかまえている料理人たちだ。まずは彼らに『黒フワノのつけそば』という料理の作り方を伝授していただきたい」
ポルアースの言葉に、俺は「はい」とうなずいてみせる。
そこに並んでいるのはティマロを筆頭に、そのほとんどが壮年の男性たちであった。こんな立派な人々を相手に講師役をつとめなくてはならないのか、と俺は身が引き締まる思いである。
「こちらは森辺の料理人、ファの家のアスタ殿だ。バナームから買いつけた黒いフワノをきっちり売りさばくために、アスタ殿のお力を借りることになった。すでに言い渡されている通り、彼は前身が渡来の民であるため、なかなかジェノスの民には及びもつかないような調理の技術というものを持っている。その技を取り入れて、君たちにも美味しいフワノ料理の作製に励んでいただきたい」
いずれも白か薄墨色の調理着を纏った料理人たちは、あまり明瞭な表情を浮かべないまま、それぞれ俺に礼をしてきた。
マヨネーズやドレッシングといった後がけの調味料に関しては、彼らも現在研究に取り組んでいるさなかであるので、手ほどきは不要、という答えが返ってきたらしい。
彼らはどのような心情でこの仕事に取り組んでいるのか、俺としては大いに気になるところであったが、おたがい貴族からじきじきに依頼された身なのである。ここは仕事に徹するべきであろう。
「森辺の民、ファの家のアスタと申します。見ての通りの若輩者ですので、色々と至らぬところもあるでしょうが、どうぞよろしくお願いいたします。……それでは、さっそく作業に取りかかりましょう」
作業台には、すでに必要な食材が取りそろえられていた。普段はこの厨に存在しないポイタン粉も、ポルアースの手によって準備されている。
模範の調理役は、麺作りに一番長けているトゥール=ディンを選出していた。彼女をお手本にして実際に自分たちでも作製してもらい、俺がこまかなアドヴァイスを与えていく、というやり方である。その他の女衆は、必要な食材を取り分けたり配ったりする助手役であった。
監査役のスフィラ=ザザと客分のマイムは狩人たちとともに身を引いて、俺たちの仕事を見守ってくれている。ポルアースやボズルたちも、それは同様だ。
そんな彼らに見守られながら、まずは生地の下ごしらえであった。
「分量は、黒フワノの4に対して、ポイタンが1です。水の量は、フワノやポイタンに対して半分ていどの重さが必要になりますので、自分はこれらの器を使って目安にしています」
「黒フワノが4、ポイタンが1、水の量は食材の半分の重さ、ですね」
と、いきなり背後から声があがったので、俺はギクリと振り返ってしまう。
そこでは、比較的若めの男性が大きな木の板を抱えて立ちつくしていた。
「あの、あなたは何をされているのですか?」
「はい。わたしは料理の作り方を書き留める役を仰せつかりました」
見るとその板にはパピルスのようなごわごわとした紙が張りつけられており、男性の手には筆が握られていた。腰には黒い塗料の注がれた木筒が下げられている。
宿場町ではあまり見かけない道具である。というか、そもそも宿場町においては店の看板や罪人の手配書ぐらいでしか文字というものが使われていなかったのだ。
(なるほどね。たった1日で正確にレシピを伝えられるかどうか不安だったけど、メモができるならちょっとは安心か)
食材の分量や、熱を入れる時間など、それを文字で残すことができるならば、だいぶん彼らの負担は少なくなるはずであった。
(というか、それって無茶苦茶うらやましいぞ。森辺の女衆だって、メモがとれるならもっと速やかに料理のレシピを覚えられるはずだ)
これはどうにか森辺の集落でも取り入れることはできないだろうか。
紙や筆などはそこまで重要ではない。何だったら、刀で板に彫りつけるという方法でもいいのだ。あとは少しばかりの文字と数字を覚えることができれば、後世にまで俺やレイナ=ルウたちのレシピを正確に残すことができるはずだった。
(まあ、その文字を覚えるってのが大ごとだもんな。森辺のみんなが興味を持つようだったら、焦らずじっくり取り組んでみよう)
そんなことを考えながら、俺は講義を進めていった。
水を入れて生地をこねたら、今度はそれを寝かせている間に、つゆの調理に取りかかる。燻製にされた魚と海草のあわせ出汁だ。
それを煮立てている間に、タートゥマイがぼそりと発言した。
「アスタ殿の作るその汁は非常に美味でした。しかし、魚や海草の燻製というのは、西の王都から届けられる希少な食材です。これだけの数の料理人がそれを扱かったら、いずれ数が足りなくなってしまうのではないでしょうか」
「うん? だけどそれらの食材はヴァルカス殿やアスタ殿ぐらいしか持ち帰ろうとしなかったから、まだまだ山のように余っていたじゃないか? それほど腐る心配はないようだけれど、足りなくなるぐらい使ってもらえるなら、こちらは大いに助かるよ。もっとたくさんの量が必要になるようなら、それにあわせて仕入れを増やせば問題もないだろう」
ポルアースがそのように応じると、タートゥマイは静かに目を光らせながら「しかし」と言いつのった。
「西の王都から食材が届くのは、せいぜい年に1度か2度なのでしょう? 新たな数を要求してもそれが届くのは数ヵ月後になりますし、また、必要な数が確実に手に入るかも知れたものではありません」
「それはごもっともな意見だけどね、僕たちとしてはまず食材を腐らせずに使いきるというのが一番肝要なのだよ」
珍しくも、ポルアースの笑みがやや苦笑っぽいものに変じていた。
「王都から食材を買いつけているのはトゥラン伯爵家と、それを半分肩代わりしているジェノス侯爵家だ。ヴァルカス殿がそれを独占したいと願っているなら、自分で王都の商人たちと話をつけるしかないだろうね」
タートゥマイは無言で礼をして引きさがった。
きっとこの老人は、むやみに希少な食材を使われたくないと願うヴァルカスの気持ちを代弁していたのだろう。
「まあ、シムの香草やジャガルのタウ油なんかも、これまで以上の量を取り引きするように改められたんだ。それはジェノスにより多くの富をもたらしてくれる話でもあるのだから、必要とあらば、どんな食材でも十分な量が取り引きされるように手を打ってもらえると思うよ?」
大局を見る、という意味においては、間違いなくポルアースのほうが上を行っているいるはずだ。というか、ヴァルカスは最初から大局などは見ておらず、ひたすら美味なる料理の探求に情熱を注いでいるばかりなのである。
俺としてはそのひたむきさに胸を打たれなくもないが、「希少な食材が不出来な料理に仕立てられるぐらいなら、腐らせたほうがマシである」というヴァルカスの意見には同意できない立場であったので、大人しく口をつぐんでおくことにした。
「燻製魚や海草が尽きてしまうようならば、他の食材を使って美味なる汁を作るばかりです。もとより、汁の味付けについてはおのおのが研鑽するべきものでありましょうからな」
そのように発言したのはティマロであった。
「そうでなくては、料理人の沽券に関わりましょう。わたしどもは、アスタ殿の弟子ではないのですから」
「うん、それももっともな意見だね」
鷹揚にうなずきながら、ポルアースが俺のほうに視線を転じてくる。
指導の手は休めぬまま、俺はそちらに笑いかけてみせた。
「俺もティマロと同じ意見です。今回の眼目はあくまで『黒フワノをいかに美味しく仕上げるか』ということですので、汁のほうまで俺の味を真似る必要はないと思います」
「ふむ。別に魚や海草という食材にこだわる必要はない、と?」
「もちろんです。俺の生まれは島国で、魚や海草に不自由することはありませんでした。そういう土地柄だからこそ、こういう出汁の取り方が主流になったのでしょう。料理というのはその土地の恵みから導きだされるものなのですから、このジェノスではジェノスらしい料理を考案するのがもっとも正しい姿なのだろうなと思います」
「なるほど」と、ポルアースも得心したように微笑する。
自分の意見が通ったのに、ティマロはあんまり嬉しそうな顔をしていなかった。
(まあ、お偉方の都合で作りたくもない料理を作らされるんだとしたら、それは料理人として面白くないところだろうしな)
ならば、この料理を叩き台として、さらに美味なる料理を考案してもらえれば幸いだ。ティマロであれば、さぞかしユニークなジェノス流のそばを作りあげることも可能なのではないだろうか。
(俺としては、ジェノスで麺の料理が根付くだけでも大満足さ)
なんとなく、俺の心中にわだかまっていた最後の懸念も、ティマロのおかげで解消できたような気がしていた。
これはウェルハイドやバナームの人々に対する贖罪の気持ちから請け負った仕事である。しかしそれはバナームに対して負い目のある俺たちの都合であるので、ティマロたちに対してはずいぶん面倒な仕事を押し付ける結果になってしまったのかな、と俺はこっそり気に病んでいたのだった。
貴族たちに命じられれば、彼らにもあらがう道はなかっただろう。それでこんな若造に料理の指南をされなければならないのだから、決して面白くはないはずだ。
だけど彼らが料理人としての矜持をもって、この『黒フワノのつけそば』を自分たちなりに改良するか――あるいは、これよりももっと美味なものを作れるはずだ、と新たな黒フワノ料理を考案してくれれば、それは誰にとっても損のない話だろう。
いずれも真剣な眼差しをした料理人たちの姿を見守りながら、俺はそんな風に考えることができた。