⑤夜、想ふ
2014.9/11 文字修正。物語の内容に変更はありません。
そんなこんなで、あっという間に10日ばかりの日が過ぎ去っていった。
それはつまり、俺がこの異世界に生まれ落ちて、もう2週間以上もが経過してしまった、ということだ。
最初の5日間はアイ=ファと2人きりで過ごし、その夜にはリミ=ルウとの出会いを果たし、6日目にはルウの家を訪問。翌日に帰宅して、それから10日だから――正確には16日か。
何だかもう数ヶ月もこの世界で暮らしているような気もするし、反面、もうそんなにもの時間が経ってしまったのかと愕然ともする。
何にせよ、濃密なる16日間だった。
もっともこの1週間ばかりは、ひたすら打倒ドンダ=ルウのために薪をくべる日々であったが。その目処も、ようやくついた。
明日は朝からルウ家におもむいて、宣戦布告をぶちかます予定なのだ。
火加減の研究などいくらやっても際限はないので、どこかで見切りをつけなくていけない。その見切りを、今日つけたわけである。
ただ、俺の胸中に不安がなかったわけではない。
その、俺がドンダ=ルウのために完成させた料理は――どうにも俺自身には正しいか否か判断のつけ難い出来栄えに仕上がってしまったのだ。
しかし、この10日目の夜、最終試作品を献上したアイ=ファに「はんばーぐと同じぐらい美味い」というお墨付きを頂けたので、俺は憂いなく決戦に挑める気持ちを得ることがかなったのだった。
「実際問題、お前と出会っていなかったら、俺なんて何もできずに数日で野垂れ死んでいただろうな」
食事を終えて食器を片付け、充足した気持ちで敷布に転がりながら、俺はふっと、そんなことを言ってみた。
ジジジ……と獣脂蝋燭の燃える音色がうっすらと響く暗がりで、アイ=ファは、少し嫌そうな顔をする。
「お前だったら、どんな窮地に陥っても、誰に拾われても上手くやっていただろう……とでも言ってほしいのか?」
「俺はそこまで自分を過大評価しちゃいないし、世の中を甘く見てもいないつもりだよ。こんな右も左もわからない土地で、最初に出会えた人間がお前だったっていうことが、どれほど幸運な出来事だったのか。そんなことは、たしか初日か2日目あたりでもう自覚していたと思う」
「……どうしてお前は夜になると、何の脈絡もなしに生真面目なことを抜かしたり感傷的なことをほざいたりするのだ? そんなものに引き回されるこちらは、いい迷惑だ」
燭台の火の下で、アイ=ファが顔をしかめているのが、かすかに見てとれる。
「そうなのかな? まあ、この世界に来てもうけっこう経ったけど、まだまだ以前の生活の感覚が抜けていないんだろうな。こんな暗い中で、誰かと静かに語り合うなんて、俺にとってはそんなに当たり前のことではないんだよ。感傷的な気分にもなろうってもんさ」
言ってみれば、毎日が修学旅行みたいなものか。
オレンジ色の火の下で、相手の顔もロクに見えないまま、眠くなるまでぽつりぽつりと語り合う。それを非日常的な空間だと感じるぐらいには、俺はまだこの世界に順応しきれていないのだ、きっと。
「もしも湿っぽい感じになっていて、お前に不快な思いをさせているなら、謝るよ。でも俺は、こんな気分でお前と言葉を交わしていられるのは、何ていうか――すごく心地がいいんだけどな」
「……だから、そういう真面目くさった物言いがお前らしくなくて気色が悪いと言っているのだ」
ちょっと自堕落な体勢で壁にもたれていたアイ=ファが、もっと自堕落な体勢で敷布に横たわっている俺の足を蹴る。
夕餉が済んだ後は、獣脂蝋燭を無駄にしないために、燭台をひとつしか灯していないのだ。
だから俺たちは、そんなに遠くない距離で、いつも夜を過ごしている。
妙齢の女の子とふたりきりの夜なんて、最初のうちは気分が落ち着かなくてしかたがなかったが、今は、こんなに安らげてしまっている。
それは別に、長い時間をともにしているうちに家族的な感覚が芽生え、アイ=ファの存在が空気のように自然なものに成り果てたから――というだけの話ではない。
もちろんそういう一面もあるのだろうが。俺はアイ=ファを家族だと思っているわけではない。家族だったら、その顔立ちの綺麗さや、とてもなめらかな褐色の肌、ふとしたときに見せる憂いの表情、ちょっと子どもっぽい仕草などに、そこまで心を揺らしたり、胸を高鳴らせてしまうこともないだろう。
俺は、異世界人である――そういう引け目がなかったら、俺なんて一発でアイ=ファに恋をしていたと思う。
いや、今でも普通に恋をしてしまっているのかもしれない。
少なくとも、家族や幼馴染の他に、ここまで俺の心をとらえて離さない人間など、これまでの17年間では存在しなかった。
しかもアイ=ファは、たかだか数日でこんなにも俺を魅了してしまったのだ。
それでも俺は、この関係を壊したくない、と思う。
明日をも知れない身で――いつかいきなりこの異世界から、燃えさかる炎の中へと引き戻されるかもしれない、そんな懸念と恐怖を抱えたまま、責任のない行動を取る気にはなれない。
だから俺は、ときおり胸中をかき乱されながらも、とても満たされた気持ちで、こうして平穏な夜を過ごせているのだと思う。
そんな感情を、明確な考えとして自覚できるようになったのは、もしかしてあの色気の塊みたいなヴィナ=ルウに襲撃されたことが一因なのかもしれない。
(あの連中は――どんな夜を過ごしているのかな)
リミ=ルウを除いては、たった一夜をともにしただけの、ルウ家の人々。
そんなに悪い連中ではなかった――と思う。
もちろん次兄のダルム=ルウなどはとうてい心を許せる相手ではないし、長兄ジザ=ルウと長姉ヴィナ=ルウもまだ評価は差し控えたいところだ。
だけど、それ以外の人たちは――まだあんまり口をきいていない人も多かったが、そんなに悪い印象ではなかった。
家長の嫁、ミーア・レイ=ルウなんかは、きっぷのいいおっかさんという感じだった。
長兄ジザの嫁、サティ・レイ=ルウは、とてもおっとりとした気性の優しそうな女性だった。
7兄妹の祖母、ともにかまどの番を果たしたティト・ミン=ルウは、穏やかな中にもどこか威厳のある素敵なお婆さんだった。
次姉のレイナ=ルウなんかは、実に可愛らしいし素直そうな娘さんだった。
末弟ルド=ルウは、まあなかなかに困ったこともしでかしてくれたが、やっぱりどこか憎めない少年だ。
三姉のララ=ルウはほぼノータッチで、笑顔のひとつも見たことはなかったが、まあ悪印象というほどのものでもない。
リミ=ルウは、いい子だと思う。
アイ=ファにとっても、大事な存在だ。
ジバ=ルウは――そんな彼らの、大事な最長老である。
あの、おとぎ話の登場人物みたいに不可思議で、俺なんかには想像もつかない激動の人生を送ってきたお婆さんに、とてもいい形で関われたというのは本当に嬉しくて誇らしいことだと思う。
そんなルウの家の人々をたばねるのが、家長のドンダ=ルウであるのだ。
俺にとっては、料理人としてのプライドを打ち砕かれた相手である。
そんな彼の鼻を明かしてやりたいとは思うが……怒りや憎しみをもって臨むのは、やめようと思う。
あの口の悪い大男が、本当に息子のダルム=ルウと同じような人間性しか持ち合わせていないなら、相互理解など望むべくもないが。それでもあの男は、リミ=ルウの父なのだ。ジバ=ルウの孫なのだ。
料理人が、敵意をもって料理に挑むなど、間違っている。
誇りや自尊心のために包丁を奮うことはありえるかもしれないが。それでも俺は、あの男を屈服させたいのではない。
納得させたいのだ。
それに――料理人が、他人の家に押しかけて料理をふるう、なんて話は聞いたこともない。俺はやっぱり未熟な半端者で、どうしても自分の感情を抑えることができなかったが。だったらせめて、不和ではなく調和をもたらしたい。
いったいどのような結末が待ち受けているのか。
まずは明日の、会見次第だ。
「……ん?」
どさりと柔らかい音がしたので面を上げると、壁にもたれて座りこんでいたアイ=ファが、床に横たわっていた。
「何だ、寝たのか? 灯りを消すぞ」
「別に……寝てはいない」
そんなところで意地を張る必要はないだろうと苦笑しつつ、俺は日中の仕事でくたびれ果てた身体を引き上げて、窓辺の燭台の蓋をしめた。
瞬時に視界が暗黒に閉ざされ――じきに月明かりに目がなれてくる。
アイ=ファは壁ぎわで、変わらぬ姿で横たわっていた。
食事の後にはほどいている金褐色の長い髪が、青白い月明かりに照らされつつ、床にふわりと広がっている。
その髪を踏んでしまわないよう気をつけながら、俺はアイ=ファの枕もとに屈みこんだ。
そのなめらかな頬にかかった髪をかきあげてやってから、少し離れて、横たわる。
「……お前だったら、どんな窮地に陥っても、誰に拾われても上手くやっていただろう……」
ほとんど聞こえないぐらいのひそやかさで、そんな声が聞こえてきた。
「そんなことはないよ」と同じぐらいの声で応じてから、俺は目を閉ざす。
そんな感じで、俺たちの時間は時に静かに、時に騒々しく、ドンダ=ルウとの決着の刻に向けて着実に流れ過ぎていったのだった。