滅落と再生③~滅落の夜~
2016.7/24 更新分 1/1
『滅落の日』の朝である。
ドーラ家から宿場町に移動した俺たちは、5台の屋台を出して5頭分のギバの丸焼きをふるまう準備にいそしんでいた。
5頭分の内、子供のギバは2頭分であり、残りは成獣のギバの枝肉だ。しばらくして森辺の集落から援軍が到着すると、また二人ひと組となってひたすらギバを焼きあげる。
援軍のかまど番は、レイナ=ルウ、ヴィナ=ルウ、ララ=ルウ、モルン=ルティム、フェイ=ベイムという顔ぶれであった。
これまでは俺のサポート役であったトゥール=ディンにはヴィナ=ルウと組んでもらい、俺はフェイ=ベイムとペアを組む。この行いは商売ではなかったので、小さな氏族とルウ家の垣根なく、バランスが取れるように人員を配置した。不慣れなユン=スドラのパートナーはレイナ=ルウであり、これもなかなか新鮮な組み合わせである。
なおかつこの日は、サウティの集落からダリ=サウティもが見学におもむいてきていた。
荷車の運転をしていたのは若い女衆であり、護衛の姿はない。中天から狩人の仕事を控えている男衆を連れ出す気持ちにはなれなかったのだろう。「町の無頼漢ぐらいならば右腕一本でどうとでもできる」とダリ=サウティは大らかに笑っていた。
それにまあ、ルウ家のほうで護衛役の援軍も到着していたのだから、ことさらサウティで護衛役を出す甲斐もなかっただろう。ジザ=ルウ率いる5名の狩人が、昨晩から同行してくれているルド=ルウたちに加わって、その数は10名。これで森辺の民にちょっかいを出そうとする無頼漢など、そうそう現れるものではない。
ダリ=サウティはそのジザ=ルウやスフィラ=ザザのそばに陣取って、俺たちの働きっぷりを見守ってくれていた。族長本人と、族長の跡取りと、族長の末娘というトリオである。町の人々には知るよしもないであろうが、実にそうそうたる顔ぶれであった。
それに小さき氏族のほうも、ついにユン=スドラとフェイ=ベイムが参加してくれている。俺やトゥール=ディンが参加しているのだから、宿場町の様子もあますことなく近在の氏族に伝えられているが、やっぱり家人からの生の声というものも大事だろう。そういう意味では、この早朝の仕事ばかりでなく宿場町での商売にすらいまだ参加できていないフォウやランの人々にも、俺は機会を与えたく思っていた。
あともうひと月も経てば、今度はファの家やその近在の氏族に休息の期間が訪れる。そのときこそ、フォウやランの人々に協力を呼びかけるチャンスであった。復活祭が終わっても青空食堂は継続していく予定であるから、以前よりは人手も必要になるのだ。また、食堂での仕事には調理のスキルも必要ないので、気軽にメンバーを入れ替えることも可能である。
ともあれ、いま集中するべきは目前の仕事であった。
回数を重ねるごとに、町の賑わいは増していっている。今日などは、果実酒がふるまわれる五の刻にはドーラ家の人々や《守護人》のザッシュマ、布屋や鍋屋や組立屋のご主人、それにマイムやミケルといった顔なじみの人々がのきなみ集結してしまっていた。
「よお、あのゲイマロスという貴族はようやく自分の罪を認めたんだな。城下町ではちょっとした騒ぎになってしまっているぞ?」
と、事情通のザッシュマがにやにやと笑いながらそのように呼びかけてきた。
彼はジェノスに戻って以来、毎日俺たちの屋台を訪れてくれていたので、ひと通りの経緯はわきまえていたのである。
「この平和なジェノスではなかなか力のある剣士など育たないんだろうが、その中でもゲイマロスというのは屈指の豪傑だという評判だった。そんな男が恐れをなして、小賢しい策謀を張り巡らせようとするなんてな。……ま、森辺の民との一騎打ちなんて、俺だったら絶対に最初から断っていたがね」
俺には伝聞で聞くばかりであったが、セルヴァの王都の認可を受けた正式な《守護人》というのは、いずれも一騎当千の猛者であるらしい。そのザッシュマをして、この言い様であった。
「ともあれ、これで森辺の民はサトゥラス伯爵家にひとつ貸しができたってことだろう。これまでの苦労を台無しにしてしまわないように、上手く折り合いをつけていくことだ」
「そうですね。族長たちとも話を詰めて、何とか穏便に済ませたいと思います」
そんな話をしている間に、ギバの丸焼きも仕上がってきた。
3頭分の丸焼きでは30分ていどしか持たなかったが、本日はどうであろう。けっきょく5頭分を同時にふるまうので、さばく時間に大差はないのかもしれない。それぐらい、俺たちの屋台には大勢の人々が集まってしまっていた。
そうして肉を切り分けて、これまでと同じように町の人々へとふるまっていると、やがてまた見覚えのある一団が近づいてきた。
《ギャムレイの一座》の面々だ。
「やあどうも。今日はまだまだどっさり残っておりますよ」
「ああ、うン……アタシたちも、そいつをいただいちまってかまわないのかねェ?」
「え? どういう意味ですか?」
屋台の横合いに立ちつくしたピノは、感情の読めない黒い瞳でじっと俺を見つめてくる。
「普段は銅貨を払ってるけどさァ、今日のこいつは森辺の皆サンがたの好意やら善意やらでふるまわれてるんだろォ? そんなものを、アタシたちが口にする資格はあるのかねって話さァ」
話を聞いても、やっぱり俺には意味がわからなかった。
すると、ピノの瞳が俺のかたわらに立つアイ=ファのほうに差し向けられた。
「たとえばそっちのアンタなんかは、いまだにぼんくら吟遊詩人のやりように腹を立ててるんだろォ? あんなぼんくらでも、アタシらにとっては家族同然の身内だからさァ、知らん顔はできないんだよォ」
「……私は確かにあの男の行いを許してはいない。それが意に沿わないのならば、お前たちも私に近づくべきではないだろうな」
「そうじゃないよォ。大馬鹿だったのはニーヤのほうなんだから、アンタがお怒りになるのも当然って話さァ」
そんな風に言いながら、ピノは振袖みたいな装束のたもとで口もとを隠してしまった。
すっと墨を引いたような秀麗な眉が、とても切なげに下がってしまっている。
「だから、あのぼんくらともどもアタシらまで嫌われちまってるんなら、いけ図々しくギバの肉を口にする気にはなれないよォ。……客として、銅貨を払っていただく分には、こっちもそんな思いをせずに済むんだけどねェ」
「ずいぶん殊勝なことを言うのだな」と、アイ=ファはいくぶん驚いたように目を見開いた。
「お前はもっとしたたかな人間だと思っていたのだが、まるで見た目通りの童女のごとき言い様ではないか」
「そいつはどうもォ。……アタシはニーヤよりもライ爺とのつきあいは長いし深いから、人様の運命を読み解く危うさってもんをちっとばかりはわきまえてるんですよォ。ライ爺だって、あのぼんくらがそこまでのぼんくらだってことをわきまえてたら、決して自分の読み解いたことを口にしたりはしなかったんだろうけどねェ」
アイ=ファはしばらくピノの小さな姿を注視してから、ふっと息をついた。
「ジザ=ルウは、お前のことを信義のある人間と言っていた。あのジザ=ルウが町の人間をそのように評するというのは、生半可なことではないように思える。……だからお前は、きっと信頼に値する人間なのだろう。そんな人間を、身内の罪で責めたてる気持ちは私にもない」
「……アタシはそんなご大層な人間じゃァないけれど、それじゃあニーヤと一緒くたに嫌われちまったってことはないのかねェ?」
「無論だ。お前たちがあの男の行いを正しいと言い張るつもりならば、その限りではなかったがな」
ピノは同じ表情のまま、じっとアイ=ファの姿を見つめ返している。
その間、大男のドガや笛吹きのナチャラたちなどは、ずっと無言で街道に立ち並んでいた。
「さ、それじゃあギバの肉を食べてくださいよ。うかうかしていたら、みなさんの分まで他の人たちに食べつくされちゃいますよ」
俺がそのように呼びかけると、ピノはようやく笑顔を見せた。
それはやっぱりいつもの唇を吊り上げる笑い方ではなく、何か菩薩像を思わせる静かで不思議な笑い方であった。
「ありがとサン。……ただ、ひとつだけ言わせていただくと、アタシらを『町の人間』と呼ぶのはちっとばっかり的外れだよォ?」
「うむ? それはどういう意味だ?」
「言葉のそのまんまの意味でさァ。ご覧の通り、アタシらは町に住んでるんじゃなく、町から町へと渡り歩く漂泊の民なんだからねェ。町の人間にしてみりゃあ、こんなロクデナシどもと一緒くたにされたらたまったもんじゃないでしょうよォ」
「ふむ……しかし、町の人間がお前たちを蔑んでいるようには思えぬが」
「そいつは祭で気が大きくなってるからでさァ。そうでもなかったら、アタシらなんて子供に石でも投げられるようなゴロツキの集まりさねェ。……それこそ、かつての森辺の民とおんなじぐらいには、蔑まれたり疎んじられたりしてるんだからさァ」
不思議な微笑をひっこめたピノが、今度はくすくすと笑い声をあげる。
「アタシらは、町の人間としての正しい行いや習わしってもんをすべて打ち捨てて、自由気ままに生きることを選んだ大馬鹿モンだからねェ。この世の中の人間全員がアタシらみたいにふるまったら、それこそ国が立ち行かない。だから、アタシらをまともな人間扱いすることは決して許されないのさァ」
「しかし……」
「いいんだよォ。アタシらは好きでこんな生き方を選んだんだから、誰を恨むのも筋違いさねェ。悔しかったら、アタシらみたいに生きてみなってモンさァ。……だからねェ、町の習わしどころか四大神の存在すら屁とも思っていない森辺の民ってやつには、アタシも昔っから心をひかれていたんだよォ」
そのように言って、ピノは可愛らしく小首を傾げた。
「それで実際に話してみたら、誰も彼もが気持ちのいい人ばっかりだったからさァ、アタシはいっぺんで森辺の民ってのを大好きになっちまったんだ。そんなアンタたちに嫌われずに済んだんなら、そいつは本当に嬉しい話だよォ」
「ふむ! 別に俺もお前さんたちのことを嫌ったりはしておらぬぞ?」
と、いきなり横合いから大きな声が響いたので、俺は心から驚いてしまった。
「ダ、ダン=ルティム、ずっとそちらで騒いでいたのに、俺たちの会話が聞こえていたんですか?」
「これほどの距離しか離れていなかったのだから、もちろん聞こえていた! ……しかしな、そこの娘よ。アイ=ファは本当にあのなよなよとした若衆の行いに腹を立てていたようだった。何をそんなに怒っているのか俺にはさっぱりわからんのだが、アイ=ファもアスタも俺にとってはかけがえのない友だ! またあの若衆がアイ=ファを怒らせるようなら俺も黙ってはおられんので、それだけは忘れずにいるといい!」
「もちろんでさァ。二度とそんな失礼な真似はさせやしませんよォ」
そうしてその後はピノたちもギバの肉を取り、しばらくはダン=ルティムらと一緒に騒いでいた。ドガやディロは寡黙であったが、ピノやナチャラは華やかに場を盛り上げて、獣使いのシャントゥなども楽しそうに笑っている。町の人々が彼らを蔑んでいる様子などはまったく見受けられず、妖艶なるナチャラなどはヴィナ=ルウやレイナ=ルウらと同じぐらい男性陣の関心をひいているようだった。
(故郷を持たない漂泊の民か。俺なんかには想像もつかない生き方だな)
このような異郷でも自分の家と呼べる場所を得ることができた俺は、きっととてつもなく幸運であったのだろう。
そのようなことを考えている内に、5頭分のギバ肉はやっぱり30分ていどでさばききることになってしまった。
その後は急いで集落に引き返し、夜の営業の下準備である。
ルウの集落では居残り組のシーラ=ルウが指揮を取って、朝から準備に励んでいたらしい。ファの家に戻った俺も、それに負けじと力を振りしぼった。10日間にも及ぶ大仕事の、これが最後の下準備なのだ。近在の女衆の力を借り、これまでで最大の量の料理を仕上げ、ついでにドーラ家でふるまう料理の準備も仕上げてしまう。それらを荷車に詰め込むと、ギルルやファファが気の毒になるぐらいの大荷物になってしまった。
「なるべくゆっくり進むから、荷物が崩れないようによろしくね?」
荷台に乗り込んだトゥール=ディンたちに念を押して、四の刻の半には集落を出発する。
トゥール=ディンもユン=スドラも、それにフェイ=ベイムや他の女衆も、商売に参加していた者たちはみんなダレイムでの宴に参加することがそれぞれの家長から許されていた。
彼女たちはこの半月ほどで、小さからぬ富を家にもたらしたのだ。商売を取り仕切っているファやルウの家に比べればささやかなものであるとしても、半日を拘束されれば給金は最低でも赤銅貨12枚、ギバ1頭分の牙や角に相当する。それが半月なら、ギバ15頭分だ。そんな彼女たちをねぎらうための宴でもあるのだと説明すれば、首を横に振る家長も存在しなかった。
むろん、仕事の後に宴が控えているという状況でも、集中を切らすような人間は存在しない。むしろ誰もが今まで以上に真剣な面持ちで、かつ楽しそうに商売の準備を進めてくれた。
復活祭の最終日たる本日の献立は、ファの家が『ギバ・カレー』『カルボナーラ』『ギバまん』、ルウの家が『照り焼肉のシチュー』『ギバ・バーガー』であった。
『ギバまん』と『ギバ・バーガー』が売り切れた際は、これまでと同じように『ポイタン巻き』と『ミャームー焼き』を売りに出す。『中天の日』から後は、毎日この売り方に改めていたのだ。特に本日は、40食分ずつであった『ポイタン巻き』と『ミャームー焼き』を60食分ずつに増やしていた。
そして、『ギバ・カレー』と『カルボナーラ』に関しては、おもいきって300食分ずつを準備している。
以前から、カレーの素や乾燥パスタはゆとりをもって数日先の分までを作製していた。で、明日は休業日であるし、その先も客足は減っていくという話であったので、下準備が間に合うだけの量を追加してみせたのだ。
いっぽうルウ家のほうでも、400食分であった『照り焼肉のシチュー』をさらに50食分、追加で準備していた。これはシーラ=ルウが朝方から頑張っていた成果であろう。シチューの作製も当然簡単なものではないが、それに添える焼きポイタンを焼きあげるのも、それに負けない手間であるはずだった。
なおかつ人員は、ルウ家の側でのみ3名が追加されていた。
それは人手が必要であったというよりも、本家の4姉妹が全員参加したがったための処置であったらしい。本来の当番はシーラ=ルウとリミ=ルウであったので、そこにヴィナ=ルウとレイナ=ルウとララ=ルウが加えられたのだ。
その移動手段に関してはダリ=サウティが名乗りをあげ、その荷台にすら乗りきれなかった護衛役の狩人たちは、先んじて徒歩で町に下りていた。
かくして、『滅落の日』の営業は万端の態勢で開始されたのだった。
料理の総数は1410食、売り上げの見込みは赤銅貨2235枚、参加する人員は18名。営業時間は、すべての料理を売り切るまで。明日が休業日と見越しての、俺たちにとってのフル出力であった。
いちおう復活祭というのは銀の月の3日までと期日が切られているが、年が明けてからは町の人たちも祭の余韻を楽しみつつゆったりと過ごす方針であるらしいので、俺たちもここで力を使い尽くす所存であった。
明後日からの力は、明日の休業日で蓄えればいい。
すべてをここで振り絞るのだ。
言葉にしてそのように話し合われたわけでもないが、みんなの表情にはそういった気合がありありとみなぎっていた。
「やー、やってるね、アスタ!」
と、日没たる六の刻が近づいたあたりで屋台を押してきたユーミが笑顔で声をかけてくる。
「うーん、『滅落の日』に相応しい賑やかさだね! こっちもアスタたちに負けてらんないや」
「そうだね。今日は俺たちもひときわたくさんの料理を準備してきちゃったからさ。眠くならない内に完売を目指さないと」
「やだなー、じーさんばーさんじゃあるまいし、『滅落の日』に眠たいなんて言わないでよ? みんなで一緒に太陽神の再生を祝うんだから!」
本日はユーミも営業後、悪友たちを引き連れてダレイムでの宴に参加するのである。
ちなみに悪友というのはユーミの弁で、男女ともに不良がかった面子が多いことは否めないが、本当の悪人など存在はしないと俺は信じている。
「だけど、ご両親がよく許してくれたね? 祝日の夜は、家族と祝うものなんだろう?」
だからこそ、ドーラ家といえども夜には宿場町に姿を現さないのである。ターラはその集いをちょっぴりだけ抜け出して、《ギャムレイの一座》の天幕におもむいていたのだ。
「だからそんなのも、じーさんやばーさんの取り決めた習わしさ。……ていうか、こうやって祝日の夜にまで働かされてるんだから、うだうだ文句を言われる筋合いはないっての! 『滅落の日』はいっつも友達と過ごしてるんだから、その場所がダレイムに変わるだけさ」
それは何となく、俺の故郷と似たようなものなのかもしれなかった。高校のクラスメートたちなどは、それぞれの友人たちと年越しの計画を練っていたように記憶している。
(ま、俺は自分の家か玲奈の家で過ごすばっかりだったけどな)
俺の家と玲奈の家は、毎年順番でおたがいの家を年越しの場所と定めていた。で、どちらの家で過ごすとしても、年越しそばを作るのは俺と親父の役割であった。
(……たしか今年は、玲奈の家で過ごす順番だったよな)
ふっと心が感傷にとらわれそうになってしまう。
それを振り払うために、俺は大慌てで首を横に振り回した。
「……いきなりどうしたのだ、アスタ?」
「何でもないよ。ちょっと故郷のことを思い出しただけだ」
俺は素直に心情を打ち明け、アイ=ファは「そうか」と静かにつぶやいた。
俺が故郷のことに気持ちをとらわれてしまうのはしかたのないことだ。あれは俺が17年を生きた、何よりも大事な場所であったのだから。
だけど俺があの場所に戻れることはない。それは7ヶ月以上が経過しても忘れることのできない死の記憶とともに、心に刻みつけられてしまっている。
そうでなかったら、きっと俺はこの世界にここまで没入することはできなかっただろう。
この世界も、もはや俺にとっては大事な故郷なのだ。元の世界と今の世界、いったいどちらが大事なのだと問われても、今の俺には答えることができない。そんな選択を迫られることがあったら、それこそ俺は全身全霊で運命神というやつを呪うことになってしまうに違いなかった。
(……ミーシャはシムを追われた後、いったいどんな気持ちでこの世界をさまようことになったんだろうな)
そんなことを想像すると、俺は心底からぞっとしてしまう。
かつての故郷を失うことになって、俺が絶望せずに済んだのは、アイ=ファと巡りあえたおかげだ。アイ=ファを通じて森辺の民と懇意になり、ここでも幸福に生きていくことはできるのだと信じることができた。そんな第二の故郷をも追われることになってしまったら――そのときこそ、俺は絶望の深淵に呑み込まれてしまうだろう。
注文に応じててきぱきと『ギバ・カレー』を器によそいながら、俺はふっと息をついた。
まだ右頬のあたりに視線を感じるので振り返ると、やっぱりアイ=ファが真摯な眼差しで俺を見つめている。
「俺は大丈夫だよ。大丈夫じゃないように見えちゃうか?」
「そういうわけではないが……いい、今は仕事に励め」
「うん、了解」
俺もアイ=ファと語り合いたい気分であったが、もちろん今はそんな時間もひねり出せない。こんな話は、仕事をやりとげた後にゆっくり語るべきだろう。
絶望の深淵が深ければ深いほど、それに落ちなかった幸福を強く噛みしめることができる。
今の俺は、間違いなく誰よりも幸福であった。
かけがえのない家族や幼馴染を失ってなお、絶望の深淵に落ちずに済んだ、それがどれほど幸運で幸福なことか、俺以上に実感している人間はそうそう存在しないはずであった。
(それも突きつめれば、みんなお前のおかげなんだよ、アイ=ファ)
言葉にすることはできなかったので、俺はそんな思いを視線に込めてみせた。
その結果としてこっそり足を蹴られることになったが、やっぱり俺は幸福な心地だった。