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異世界料理道  作者: EDA
第二十章 太陽神の復活祭(下)
358/1675

滅落と再生②~前夜~

2016.7/23 更新分 1/1

 騎士王ロロの正体を知り、俺がアイ=ファに後頭部を殴打されることになった、紫の月の30日、その夜のことである。

 祝日の前日ということで、その夜も俺たちはダレイムのドーラ家を訪れていた。


 メンバーは、かまど番が俺、リミ=ルウ、アマ・ミン=ルティム、トゥール=ディン、ユン=スドラの5名、護衛役がアイ=ファ、ルド=ルウ、ガズラン=ルティム、ダン=ルティム、ギラン=リリンの同じく5名、合計で10名だ。

 ジバ婆さんが不参加であるために人数は絞られているが、明日は朝から5台の屋台を出してギバの丸焼きをふるまう予定であったので、この人数であった。


 だが、明日の夜にはさらに大勢の森辺の民がドーラ家を訪れる予定でいる。

 祝日である明日の夜は、宿場町で商売をする予定であり、なおかつ、翌日の『再生の日』は全面的に商売を休むつもりでいる。で、この10日間の大仕事の打ち上げとして、ドーラ家で宴を開くことになり、それにジバ婆さんを始めとする大勢の人々が参加することに決定されたのであった。


 明日の『滅落の日』は、この1年の最後の日、俺の故郷の言葉で言うならば大晦日にあたる日だ。

 その日は夜を徹して太陽神の復活を祝い、そして翌日の『再生の日』は町の人々も完全に休息の日と定めているという。ならば森辺の民もジェノスの習わしに則って、ともに一夜を明かしてみようではないか――という話に落ち着いたのである。


 それを強く望んだのはジバ婆さんであり、承諾したのはドンダ=ルウであった。

 余所者の多く訪れる宿場町の夜は危険だが、ダレイムでの宴であるならばぎりぎり許容範囲である、とみなされたらしい。また護衛役として同行するジザ=ルウらはなかなか気をゆるめる時間も取れなかろうが、それでもダレイムの人々と長きの時間をともにするのは、きっと彼らにとっても有意義なことだろうと思う。


「畑の仕事は今日であらかた終わらせちまったからな! この期間に雇っていた連中もみんな宿場町に繰り出しちまうから、寝床もありあまってるんだよ。遠慮なく、何十人でも呼んでくれ!」


 3度目となる会食の場でギバ料理を楽しみつつ、ドーラの親父さんはそのように言ってくれていた。

 収穫できる野菜はすべて収穫しつくして、今は倉庫に眠っている。これで銀の月の半ばまではゆっくり身体を休めつつ、その後は来たるべき雨季に備えて新たな苗を畑に植えていくのだそうだ。


「この後はタラパやティノなんかも品薄になっちまうけど、でも、宿場町を賑わせていた連中もどんどん数が減っていくからな。アスタたちも、しばらくはのんびり働くといいよ」


「ええ、こういうのは生活にメリハリがあっていいですね」


 四季というものが存在せず、復活祭の他には大きなイベントもないジェノスであるので、この時期が一番変化に富んでいるのだろう。もとより退屈するひまなどまったくない日々であるが、それでもこういった緩急ならば大歓迎という心境であった。


「だからさ、銀の月の間にまた森辺の集落にお邪魔させてもらえないかな? よかったら、今度は俺たちがそちらに泊まり込む格好で」


「あー、ちびリミなんかはもうすっかりその気になっちまってるよ。親父はリミに甘いから、今さら駄目とは言わねーと思うぜ?」


 そのように応じるルド=ルウも、リミ=ルウやターラに劣らず楽しげな表情である。


「それはやはりルウの集落で、ということになるのでしょうか。それならば、私も晩餐に招いていただきたく思います」


 ガズラン=ルティムが発言すると、ドーラの親父さんは笑顔でそちらを振り返った。


「あんたやダン=ルティムが来てくれたら、俺たちも嬉しいな! ……しかしあんたは本当に落ち着いていて人間ができてるね。町の人間よりよっぽど賢そうじゃないか?」


「とんでもないことです」とガズラン=ルティムが答えかけたが、それはダン=ルティムの笑い声によってかき消された。


「ガズランは俺の自慢の息子だからな! しかし、お前さんの息子らも実に立派に育っているではないか!」


「ああ、まだまだ頼りないところも残っているけどね」


 そのふたりの息子さんたちは、ガズラン=ルティムに比べるとやや年少だ。が、彼らもどちらかというと落ち着いた気性であり、ガズラン=ルティムとは非常にウマが合うように見受けられた。

 それに彼らは、かつてジザ=ルウが相手でも交流を深めたいという気持ちを見せてくれていた。そんな彼らであるので、外界に対する関心の強いガズラン=ルティムとは余計に話が合うようだった。


 これが初めての参加であるアマ・ミン=ルティムやユン=スドラも奥様がたと話が弾んでいるようであるし、トゥール=ディンはリミ=ルウやターラの輪に取り込まれている。日を重ねるにつれ、ドーラ家との垣根は目に見えて薄らいでいた。

 そんな中、俺は無言で食事を進めている親父さんの母君へと視線を転じた。


「今日の料理はいかがですか? 宿場町でもけっこう人気の品なのですが」


 母君は、ぎろりと無愛想な視線を返してくる。

 本日準備したのは、タラパの煮付け料理と、ギバのロースの揚げ焼きであった。どちらも屋台の日替わりメニューとして扱っていた商品だ。


「……このタラパは、どうしてこんなに甘みが強いんだい? あんたたちが買っているのは、大きくて酸っぱいタラパのはずだろう?」


「はい。それはこまかく刻んだアリアを炒めて一緒に煮込んだり、あとは果実酒を使ったりもしているんです。砂糖を使ったりするよりは、野菜の自然な甘みを引き出せていると思います」


「……この野菜は知らない野菜だね」


「あ、それはマ・プラという野菜です。ジャガルや、あとはセルヴァの西のほうでも採れる野菜のようですよ。苦みはないけど、プラのお仲間みたいですね」


 けっきょくギバ肉の存在には触れぬまま、母君は木匙を動かしている。

 だけど今日は、孫娘の取り分けたギバ料理をきちんと一人前、口にしてくれている。叔父君のほうも、仏頂面でロースの揚げ焼きをかじってくれているのだ。それだけで、俺は胸が詰まるほど嬉しかった。


「明日の宴とは、いったいどのようなものであるのかな?」


 と、誰にともなく尋ねたのはギラン=リリンであった。

 親父さんはまだダン=ルティムと談笑していたので、上の息子さんがそちらに向き直る。


「別に何か特別なことをするわけではありません。外でも火を焚いて、軽い食事や果実酒を楽しみながら、太陽神の復活を待ち受けるのです。……ああ、つまり、新しい年の最初の太陽の光が地に届くのを待ち受ける、という意味なのですが」


「なんと! それでは眠りもせずに朝を待つということか?」


「途中で眠ってしまう人間もいなくはありませんが、夜明けの前には全員を起こしますね。どうせ翌日は一日中休んでいられるのですから」


「ふうむ。森辺でも婚儀や収穫の宴などでは遅くまで騒いでいるものだが、さすがに朝までというのは覚えがないな。全員がいちどきに眠ってしまわぬよう、順番を定めておくべきか」


「そんな段取りはジザ=ルウやガズランなどに任せておけばいいではないか! 俺は果実酒さえあればいつまでも起きていられるがな!」


 と、ダン=ルティムも途中から加わってくると、ギラン=リリンは愉快げに口もとをほころばせた。


「もちろん俺とて、そういう話ならば朝まで眠るつもりはない。しかし、俺とダン=ルティム以外の全員が眠りこけてしまったら、きっと後でドンダ=ルウに叱責されてしまうだろう?」


「ああ、存外に若い連中のほうが酔い潰れることは多いからな!」


 それは単にこの両名がひときわ酒豪である、というだけの話なのではないだろうか。

 ドーラ家の女性陣も、楽しそうにくすくすと笑っている。


「それにしても、森辺の民には太陽神の復活を祝う習わしがなかったのですね。たしかジャガルでも一年の終わりと始めには同じような祝祭があると聞き及んでいたのですが」


 下の息子さんがそのように問いかけると、ダン=ルティムは「ふむ?」と太い首を傾げた。


「森辺の民がジャガルの黒き森を故郷としていたのは、もう80年も前のことだからな。しかも、その頃は森の外の連中と縁を結ぶこともなかったので、どのみちジャガルの習わしを知る機会もなかったのであろうよ」


「とても不思議な話ですね。外の人間と一切の交流もなく生きていただなんて……これは悪気があっての言葉じゃありませんが、そんなのはまるで伝説に聞くモルガの野人みたいです」


「ふむ。モルガの赤き野人か。そればかりは俺も実際に目にしたことはないな」


「え? それじゃあ、マダラマの大蛇やヴァルブの狼を見たことはあるのですか?」


「マダラマの大蛇は、崖の上をしゅるしゅると這いのぼっていくところを見かけたことがあるばかりだ。しかしヴァルブの狼は、俺の友だぞ!」


 ダン=ルティムがえっへんとばかりに分厚い胸をそらし、息子さんたちは期待に瞳を輝かせた。俺はたまさか手傷を負ってラントの川を流れてきたマダラマの大蛇と出くわしたことがあるが、本来であればモルガの山の獣たちは人間の目に触れる機会もない伝説上の存在であるはずなのだ。


 かくしてその夜の晩餐は、ダン=ルティムがこれまでに2度ほど遭遇したヴァルブの狼の逸話によって締めくくられることになった。

 純白の毛皮を持ち、ダン=ルティムの生命を2度までも救ったというヴァルブの狼の物語は、ニーヤの語るミーシャの歌みたいに幻想的でロマンに満ちあふれていた。


 その後、俺たちにはまた男女でひと部屋ずつの寝室があてがわれることになったが、そこに引っ込む前に、ルド=ルウからひとつの報告が為された。

 本日、商売を終えて集落に戻ったのち、メルフリードからの使者がドンダ=ルウのもとに遣わされてきたのだ。その内容はドーラ家に向かう途上でリミ=ルウからざっくり聞かされていたが、あまり食卓の場に相応しい話題でもなかったので、正式な報告はこの時間まで先のばしにされていたのだった。


「あのゲイマロスって貴族が、ようやくまともに口をきけるぐらい回復したらしくてよ。自分の罪を、洗いざらい白状したらしいぜ。……何でもそいつは森辺の狩人に勝てる自信がまったくなかったもんだから、こんな勝負を持ちかけられてほとほと困ってたって話だ。それでも逃げるわけにはいかなかったんで、あんな悪巧みに手を染めちまったんだってよ」


 その場に居残っていたのは、俺とアイ=ファとガズラン=ルティムの3名であった。その中で、アイ=ファが「ふむ」と眉をひそめている。


「剣士や騎士といったものどもは、狩人のように誇りを重んずるのではなかったか? 私は以前、ジバ婆からそのように聞いた覚えがあるのだが」


「ああ、だからその誇りが間違った方向に向いちまったんだろ。そいつにとっては、負けることや逃げることより、汚い手段を使ってでも相手に勝つほうが誇り高い行為に思えたってことさ」


「まったく理解できん。それで誰にも悪行を知られぬまま勝利を収めたところで、いったいどのような喜びを得られるというのだろうか?」


「俺に言われたってわかんねーよ。とにかくそれで、そいつは騎士団長とかいう身分を奪われることになったらしい。……ま、どっちみちシン=ルウの一撃で、二度と刀を取ることもできなくなっちまったみたいだけどな」


「その人物は、鼻と左腕の骨を折り、なおかつ首の筋をひどく痛めてしまったようです。森辺の狩人であればどれほどの時間がかかっても元の力を取り戻そうとするでしょうが、城下町の貴族にはそのような気概もない、ということなのでしょう」


 べつだんそれを蔑む風でもなく、ガズラン=ルティムが落ち着いた声で補足をする。


「また、騎士団長という身分を失うことは、その人物がすべての力と権勢を失うという意味であるようです。察するに、貴族というのは血筋のみではなく、役職というものが非常に重んじられているのではないでしょうか。あのポルアースもサイクレウスを討ち倒すまでは力を持たない貴族であったようですし――それに、サイクレウスの弟シルエルも、力と権勢を手に入れるために、あのような悪行に手を染めたという話でありましたしね」


「ああ、なるほど。確かにあのゲイマロスという人物もポルアースもシルエルも、全員が伯爵家の次男坊だったり三男坊だったりするわけですね」


 それで、シルエルは護民兵団団長の座を奪取するために暗殺という最悪の手段を取り、ゲイマロスという人物は現在の身分を守ろうとして墓穴を掘ることになった。こうして見ると、自身が役職を得るためではなく、ダレイム伯爵家そのものの地位や力を高めるために尽力しているポルアースが一番の成功を収めている、というのが何やら皮肉な話でもあった。


「やはり人間は、正しい誇りを胸に生きていくべきなのだ。あのポルアースというのは飄々としていて子供じみたところもあるが、やはり貴族の中では信頼に足る人間であったのだろう」


 俺と同じようなことを考えたらしいアイ=ファが、しかつめらしくそのように発言した。


「それでですね、ジェノス侯爵は和解の場をもうけたいと申し出てきたそうです」


「和解の場?」


「はい。ゲイマロスという人物に弁明の余地はありませんが、そのような罪人を出すことになったサトゥラス伯爵家は森辺の民に詫びる必要があるだろう、と。……以前にはリーハイムという貴族がレイナ=ルウと悶着を起こすことにもなりましたし、また、シン=ルウとゲイマロスの御前試合を決めたのもそのリーハイムでありました。それで今後に確執を残さぬよう、和解の場をもうけたいとの話でありましたね」


 つまりはこれが、ジェノス侯爵マルスタインの目指していた結果であったわけだ。ゲイマロスがおかしな罪を働いたばかりに、いっそうマルスタインの望む格好に落ち着いたのかもしれない。


「ま、これはルウ家と貴族の問題だけどよ。そもそもレイナ姉はアスタの仕事を手伝うために城下町まで出向いて、それでその貴族に見初められることになっちまったわけだから、まんざらファの家も無関係じゃねーだろ? そのサトゥラス家とかいう連中を敵に回したら宿場町での商売もどうなるかわかんねーみたいだし」


「うん、俺も同行しろって話なら、もちろんそうさせてもらいたいけど……かまわないよな、アイ=ファ?」


「それはむろん、そうするべきなのだろうと思うが……しかしそれは、いったいいつ頃の話になるのだろうな? 私はそろそろ狩人としての力を取り戻すための修練を始めねばならんし、ルウの家とて、まもなく休息の期間が終わる頃合いであろう?」


「ああ、ちょうど今日で半月ぐらいだもんな。ま、ギバがぞろぞろ戻ってくるにはまだ時間がかかるだろうけど、厄介事は早めに済ませておきたいところだなー」


 ともあれ、復活祭が終わるまではその日取りを決定することもできないだろう。新しい食材を吟味するために城下町まで出向くという話もあがっているし、しばらく商売のほうは落ち着くとしても、まだまだ苦労の種は尽きないようであった。


「それに、旅芸人の連中がギバを捕まえたいって話もどんな風に落ち着くかわかんねーしな。まったく、ややこしい話ばっかりだよ」


 そのように言ってから、ルド=ルウは「ふわあ」と大あくびをした。


「ま、とりあえずは明日の仕事やら宴やらを終えてからだな。明日も早いんだから、そろそろ寝ようぜ?」


「そうだね。色々とありがとう。……じゃあ、アイ=ファ、おやすみ」


 何となく本日は立ち話をする雰囲気でもなかったので俺がそのように挨拶をすると、アイ=ファは一拍取ってから「うむ」とうなずいた。

 アイ=ファは左側の扉を、俺たちは右側の扉を開けて、それぞれの寝室へと潜り込む。

 こちらの寝室では、すでにダン=ルティムたちが寝息をたてていた。床に寝具を並べただけの、雑魚寝である。


「……毎日が、とても有意義ですね」


 寝具の上に身を横たえながら、ガズラン=ルティムがそのように述べてきた。

 同じように身体をのばしつつ、俺は「ええ」とうなずき返す。


「こうやってガズラン=ルティムと同じ部屋で眠りにつくというのも、俺にとっては貴重で有意義な体験です」


「そうですね。私もそのように思っていました」


 仰向けに横たわった体勢で、ガズラン=ルティムははにかむように笑う。


「あとは明日の朝にギバの肉を宿場町でふるまい、夜に商売をして、その後でダレイムでの宴に加わり――それでひとまず、復活祭というものは終わりを告げるのですね」


「はい。あっという間であったような、そうでもないような、何だか不思議な感覚です」


 だけど何にせよ、貴重で有意義な日々であった。

 感傷にひたるのは明日の夜まで取っておくとしても、やっぱり修学旅行の夜みたいな特殊な感覚にとらわれてしまう。


「次の青の月には家長会議が執り行われ、そこで宿場町での商売がすべての家長たちに認められれば――また来年も、このような時間を味わうことができるのですね」


「ええ、何としてでもその権利を勝ち取りたいところです。……あ、そういえば次の家長会議には、ガズラン=ルティムが参加することになるのですよね」


「むろんです。私がルティムの家長なのですから」


 青みを帯びた月明かりの下、ガズラン=ルティムは穏やかに微笑んでいるようであった。

 ルド=ルウはあっさりと眠りに落ちてしまったらしく、寝息が三重奏になっている。


「森辺の民が大きな変革を迎えようとしているこの時期に家長となり、私も身が引き締まる思いです。ルティムのためにというのはもちろん、親筋たるルウのため、友たるファのため――そして森辺のすべての同胞のために力を尽くしたいと思います」


「ガズラン=ルティムなら、ダン=ルティムにも負けない素晴らしい家長になることができるでしょう。ルティムの友として、俺もアイ=ファとともに力を尽くしたいと思います」


 ガズラン=ルティムとふたりきりだとどうしても真面目な方向に話が傾いてしまうが、それでも何となく、大事な友人とおたがいの気持ちを確かめ合っているような、少しくすぐったいような気持ちを俺は得ていた。

 さきほどの言葉は社交辞令でも何でもなく、こうしてガズラン=ルティムとともに過ごせる時間も、俺には貴重でかけがえがなかったのだ。


 それからしばらく沈黙が落ち、ガズラン=ルティムも眠りに落ちたのかな――と俺がぼんやり考えたとき、またその低くて落ち着いた声が闇に響いた。


「アスタ、実は打ち明けておきたい話があるのですが……これはまだアスタとアイ=ファの胸に収めておいていただけますか?」


「はい、何でしょう? もちろん秘密はお守りしますよ」


「ありがとうございます。これはまだルティムでも本家の人間にしか打ち明けていない話なのですが――」


 そこで少し間をはさんでから、ガズラン=ルティムは静かに言った。


「実はアマ・ミンが、子を身ごもったかもしれません」


 俺はいっぺんで目が覚めてしまい、慌ててガズラン=ルティムのほうを見た。


「まだ確証はありませんし、それに、この段階では流れてしまう危険もあります。ですから、今しばらくは口外せずにおいてほしいのです」


「も、もちろんです。……ええと、祝福の言葉にはまだ早いですか?」


「はい。それはまだ後に残しておいてもらえれば幸いです」


 ガズラン=ルティムが、微笑んだまま俺のほうを向いてくる。


「ただ、そうするとアマ・ミンもまた遠からず宿場町での仕事を手伝えなくなってしまうでしょう。本人もそれだけを気に病んでいました」


「それはしかたのないことです。お子を授かる喜びに比べたら、なにほどのことでもないではないですか」


 嬉しくなって、俺も口もとをほころばせてしまう。


「もしもその話が確かなら、リィ=スドラと同じ年の子を授かることになりますね。スドラとルティムはあんまり家が近いわけでもないですが、彼女らはひそかに気が合う様子でしたし、何かいっそう喜ばしいことのように思えます」


「ええ、そうですね」


「ルウ家のコタ=ルウとは、2歳ぐらいの差になるのでしょうかね。……数十年後には、コタ=ルウとガズラン=ルティムの子が、ドンダ=ルウとダン=ルティム、ジザ=ルウとガズラン=ルティムのように家長となってルウの一族を盛り立てていくことになるわけですね」


「アスタはそこまでの行く末に思いを馳せるのですね。……だけどそれは、何だか目がくらむほど幸福な想像です」


 リィ=スドラの子が無事に生まれれば、そちらはフォウ家のアイム=フォウと年の近い子供になる。フォウとスドラならそこそこ家も近いし交流は深いので、今のライエルファム=スドラやバードゥ=フォウのように手を取り合っていくことになるだろう。


 そうして森辺の民の歴史は連綿と紡がれていくのだ。

 そういった幼子たちのために、今を生きる俺たちは精一杯力を絞って明るい未来を切り開いていくべきなのだろう。

 ジバ婆さんやラー=ルティムたちがそうしてきたように、ドンダ=ルウやダン=ルティムたちがそうしてきたように、誰もが次代への架け橋となって、世界を形づくっていくのだ。


 俺は何だか居ても立ってもいられなくなり、寝床の上で身を起こしてしまった。

「どうしたのですか?」とガズラン=ルティムが不思議そうに問うてくる。


「いえ、ちょっと目が冴えてしまったので、水でも一杯いただいてこようかと」


「ならば、私もご一緒しましょう」


「家を出るわけではないので大丈夫ですよ。ガズラン=ルティムは休んでいてください」


 俺は立ち上がり、月明かりを頼りに寝室を出た。

 キイッとかすかな音をたてながら、木造りの扉を閉める。

 そのまましばし、俺は闇の中でたたずんだ。

 10秒と待つことなく、今度は隣の寝室の扉が開かれる。


「やはりお前か。いったいどうしたのだ?」


 姿を現したのは、アイ=ファであった。

 その結果に満足しながら、俺は闇の中で笑ってみせる。アイ=ファの視力なら、この暗がりでも俺の表情を見間違えることはなかっただろう。


「やっぱり扉を開け閉めする音を聞き分けてくれたね。さすがは森辺の狩人だ」


「私に用事なのか? ……ひょっとしたら、アマ・ミン=ルティムのことか?」


 後ろ手で扉を閉め、アイ=ファが俺の前に立つ。

 何とかその面を闇に中に透かし見ようと試みながら、俺は「ああ」とうなずいてみせる。


「アイ=ファはアマ・ミン=ルティム本人から聞いたのか?」


「うむ。この夜にガズラン=ルティムがアスタに告げるはずだと言って、話を始めたのだ。まだ確かな話ではないとのことであったな」


「うん。確かな話になることを祈ろう」


 アイ=ファは闇の中でけげんそうに小首を傾げる。


「ところでアスタよ、お前はどうしてそのように目を細めているのだ? 眠いならば眠るべきであろう」


「いや、アイ=ファの表情がよくわからないんだよ。俺はアイ=ファほど夜目がきかないから」


 アイ=ファは肩をすくめつつ、廊下を何歩か後ずさった。

 扉があるのとは逆の壁に窓が切られており、その場所には月明かりが差し込んできていたのだ。

 金褐色の髪をほどいたアイ=ファは、とても穏やかな表情をしていた。


「これで満足か?」


「うん」と言いながら、俺もアイ=ファのもとに歩を進める。

 30センチていどの距離を置いて、俺たちは対峙した。

 誰か通りかかる者があったら、このような暗がりで何をやっているのだと呆れたことだろう。それでもやっぱり、これは俺たちに必要な行為であったのだ。


「やっぱり眠る前にはアイ=ファとふたりで言葉を交わさないと気持ちが落ち着かないな」


「……すでに知れていることをわざわざ口に出す必要はない」


 口では意地悪なことを言いながら、アイ=ファはふっと微笑んだ。

 青い瞳が、とても優しげに瞬いている。


「このたびの仕事も、あと1日となったな」


「うん」


「その後にも厄介な仕事が待ち受けているが、今は目の前の仕事に力を絞る他ない」


「うん、その通りだな。……不謹慎な言い方だけど、怪我をしたアイ=ファがずっと護衛役としてそばにいてくれたことは、とても心強かったし、とても嬉しかったよ。この時間をアイ=ファと共有できたことは、俺にとってすごく大きかったと思う」


「別に、いらぬ前置きをすることはない。私とて、このような時期に護衛の仕事を他人任せにしていたら、きっととてつもない心労を背負うことになっただろう」


 そのように言いながら、アイ=ファは額にもつれる前髪をゆっくりとかきあげた。


「さすれば、このような手傷を負ったのも森の導きかと思うこともできる。……私たちは、幸いであったな」


「うん」


 うかつに触れ合えぬような関係になってしまったが、俺は以前よりもアイ=ファの存在を近くに感じることができている。自分たちの心情を何ひとつ偽ることなく、隠すことなく、思うままに語り合うことができるのだ。こんな幸福なことは、他にないだろう。


「それじゃあ最後の1日もよろしく頼むよ。その後はみんなで騒いで、ゆっくり休もう」


「うむ」とアイ=ファは慈愛に満ちみちた表情で微笑んだ。

 そうして紫の月の30日の夜は更け、ついに俺たちは太陽神の滅落と再生の日を迎えることになったのだった。

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