中天の日②~宿場町の朝、再び~
2016.7/2 更新分 1/1
明けて翌日、紫の月の26日――復活祭において2度目の祝日とされている、『中天の日』である。
俺たちは前回と同じようにドーラ家から朝一番で宿場町に向かい、『ギバの丸焼き』の準備を整えていた。
体調次第ではここで帰宅する手はずになっていたジバ婆さんも、まったくくたびれた様子もなく、俺たちの仕事を見守ってくれている。
むろん、護衛役の狩人は増員されていた。
朝の一の刻を越えてもジバ婆さんが帰ってこない場合は即時に狩人らを町に下ろすという取り決めが、あらかじめドンダ=ルウと成されていたのだ。
後続のかまど番は、シーラ=ルウとトゥール=ディンの2名のみである。それに対して、護衛役の狩人はダルム=ルウとラウ=レイを含む精鋭たちが6名。それに監査役のスフィラ=ザザ、さらにはミーア・レイ母さんの姿まであった。
「これで本家はほとんど空っぽになっちまうからね。ヴィナたちには悪いけど、あたしも宿場町の様子を見物させてもらうことにしたのさ」
そういえば、ルウ家の女衆の束ね役であるミーア・レイ母さんは、買い出しで町に下りることもほとんどなかったのだ。
俺にしてみても、宿場町でミーア・レイ母さんの姿を見るのは初めてだったと思う。荷車から下りてそのように説明してくれたミーア・レイ母さんは、実に嬉しそうな顔をしていた。
「あたしは最長老に付き添うつもりだけど、もしも手が必要だったらいつでも呼んでおくれね?」
「はい、ありがとうございます」
とはいえ、こんな早い段階から6名ものかまど番がそろってしまったのだから、十分以上に手は足りている。俺たちは2名ずつで組となり、3つの屋台で『ギバの丸焼き』の面倒を見ることにした。
が、残念ながら本日は、正式なる丸焼きはわずか一体と相成った。
ギバの子供というやつは母親に守られているため、そうそう頻繁に捕獲はされないものなのである。なので、2つの屋台では半身に割られたギバの枝肉が焼かれることになった。
頭を落とし、内臓を抜き、半分に割られた上で30キログラムに相当しそうなギバの成獣の枝肉である。もとのサイズは、7、80キロといったところであろうか。やがて時が経ち街道に人通りが増え始めると、前回以上に驚嘆の声をいただくことになった。
「やっぱり大人のギバはなかなかのでかさだな! こんなもんに追いかけられたら、生命がいくつあっても足りねえや」
「ああ、子供のギバなんてずいぶん可愛らしい顔をしているが、こいつはさぞかし凶悪な面がまえをしていたんだろうなあ」
だけどこのギバも、言ってみれば中量級である。森辺には100キロ級のギバだってごろごろしているし、森の主などは計測も難しいレベルであった。そんな大物のギバを目の当たりにしたら、人々はどれほどの戦慄に見舞われることだろう。
(だからギバってのも、黒猿やガージェの豹ぐらい立派な見世物になるのかな。……でも、生きたギバが人間の命令に従って芸をする姿なんて想像もつかないけど)
俺の故郷でも、猫型の肉食獣や猿の類いは見世物をさせられていた。が、ブタやイノシシが芸をするという話は寡聞にして存じあげない。生態系の異なる世界でそのような例をあげつらっても意味はないのかもしれないが、やっぱりギバが従順に芸をする姿はなかなか想像できなかった。
(まあ、トカゲの親分が荷車を引くような世界だもんな。ギバが芸をしたって不思議はないか)
それよりも俺にとって重要なのは、森辺の民と《ギャムレイの一座》の関係性であった。
俺はピノたちに、それなりの好感を抱くようになっている。そんな彼女たちが森辺の民と悪縁を結ぶような結果にだけはなってほしくない。
(あのギャムレイって御仁がもうちょっとクセのない人だったら、それほど心配にもならないんだけどな。あれは確かに、カミュア=ヨシュと同系列の人間かもしれない)
《ギャムレイの一座》の天幕は、そんな俺の気持ちも知らぬげに、今日もひっそりと静まりかえっていた。
そうして五の刻が近づいてくると、キミュスの丸焼きを受け持つ人々や、果実酒のふるまいを期待した人々がぞくぞくと街道に姿を現し始める。
その人数は前回よりも遥かに多く、やがて屋台を押しつつ再登場したユーミは「そりゃそうだよ」と説明してくれた。
「ただでさえジェノスを訪れる人間は増えてきてるんだし、そうでなくっても今日は『中天の日』でしょ? 今日は昼から面白い見世物があるのさ」
「見世物? 誰か芸でもするのかい?」
「ああ、芸でもしてくれりゃあ割り銭を投げてやってもいいけどね。あたしは別に、楽しみにも何にもしちゃいないよ」
ユーミの思わせぶりな発言は、それから数分後に解き明かされることになった。
なんとその日はキミュスと果実酒がふるまわれるかたわら、貴族たちによるパレードが敢行されたのである。
いや、パレードというよりは大名行列とでも称するべきであろうか。
荷物を運ぶ荷車とは別に、箱型のトトス車がぞろぞろと街道を突き進んでくる。その先頭に立つのは近衛兵団長のメルフリードであり、それに続くトトス車は白装束の兵士たちによって厳重に警護されていた。
兵士たちは長大な槍を掲げ、何名かは単体のトトスを引いている。これだけ大勢の兵士が町に姿を現すのは、常にないことだ。それだけこの車の中には、やんごとなき身分の人々が乗せられているのだろう。
俺がそのようなことを考えていると、その行列が機械のような正確さでいっせいに足を止めた。
先頭は、もうかなり先のほうまで進んでいる。俺たちの眼前にいるのは、20台ばかりも続くトトス車のちょうど真ん中あたりであっただろう。
人々がざわめきをあげる中、先頭のトトス車の屋根の上に、長身の人影が姿を現した。
内部に階段でも仕込まれているのか、屋根の上に突然ぬうっと人間の輪郭が浮かびあがったのだ。
この距離では詳細も見て取れないが、どうやら近衛兵と同じく純白の甲冑に身を纏っている様子である。その白銀の兜のてっぺんからは、背中のほうにまで流れ落ちる紫色の房飾りが垂れ下がっていた。
「サトゥラス領の領民たちよ! そして、我がジェノスを訪れしセルヴァ、ジャガル、シムの客人たちよ! ついに太陽神の滅落と復活は、5日の後に迫ってきた!」
その人物が、朗々とした声音を街道に響かせる。
兜のせいでいくぶんくぐもっていたが、それはまぎれもなくジェノス侯爵マルスタインの声であった。
「キミュスの肉とママリアの酒でもって、その復活の儀を寿ごうではないか! ……太陽神に!」
「太陽神に!」の声が、町をゆるがす。
唱和していないのは、おそらく森辺の民とごくごく一部の人のみであるようだった。
その間に、後方の荷車からキミュスの肉と果実酒の樽がふるまわれる。人々はいっそうの歓声をあげて、太陽神とジェノス領主を祝福する声を轟かせた。
「ま、こういうわけさ。貴族なんか見慣れてるアスタには、何の面白みもなかったでしょ?」
と、肉の詰まった木箱を抱えたユーミが通りすがりに声をかけてきた。
「うん、だけど、まさか領主みずからが姿を現すとは思っていなかったから、それは驚いたよ」
「ふん。太陽神の復活祭と、あとはでっかい婚儀か何かがあったときだけは、ああやって偉そうに宿場町を練り歩くんだよ。って言っても、全身あんな鎧ずくめで、どんな顔をしているのか、本当の領主なのかもわからないような有り様だけどさ」
それはきっと、弓矢による襲撃などを警戒しているゆえなのだろう。ルド=ルウやジーダぐらいの腕前を持つ人間ならば、通りからでも矢を射かけることは容易かったはずだ。
ともあれ、宿場町の裏通りに住まうユーミは苦い顔をしていたが、それ以外の人々はあらかた喜びの声をあげていた。その理由の大は果実酒にあったとしても、このような場で貴族に対する反感をあらわにするのはごく限られた人々のみであるようだった。
「領民たちとともに喜びを分かち合っている。……というよりは、自分たちの力を誇示しつつ、肉と酒で民の心を懐柔しているように思えてしまうな」
俺の隣でマルスタインの声を聞いていたアイ=ファは、さして心を動かされた様子もなくそのように述べた。
「だがまあ誰が損をするような話でもないし、町の人間たちも大いに喜んではいるようだ。これもサイクレウスらによって引き起こされた騒ぎが無事に収束された証なのだと思えば、私たちもまあ喜ぶべきか」
「うん、まあ、そんな感じだな」
確かにマルスタインがあのときに采配を間違っていたら、また少し違った様相になっていたのかもしれない。マルスタインは王都への体面を重んじているのだと、かつてカミュア=ヨシュはそのように述べていたが、やっぱり領民に対する体面というやつだって二の次にはできないのだろう。
悪行の露見したサイクレウスたちを赦免していたり、森辺の民に対する扱いを改めなかったり、義賊《赤髭党》の生き残りたるバルシャを処刑にしていたりしたら、このようなパレードなど敢行できなかったのかもしれない。
そうしてその一団が粛々と行進を再開し始めると、後には雑多な賑わいだけが残された。
すでに『ギバの丸焼き』もラストスパートに差しかかっているし、あちこちの屋台からもキミュスを焼く火の煙がたちのぼっている。人々は樽から注いだ果実酒の杯を打ち鳴らし、「太陽神に!」の声を唱和させていた。
「……これがジェノスの祭なんだねえ……」
そんな中、荷車を下りたジバ婆さんが、ミーア・レイ母さんと6名の狩人をともなって屋台のほうに近づいてきた。
アイ=ファが眉を寄せ、そちらを振り返る。
「ジバ婆、身体は大丈夫か? こんなに身体を使ったのはひさかたぶりなのだろうから、あまり無理をしてはいけない」
「なんにも無理はしていないよ……みんなには心配をかけるばっかりで、申し訳ない限りだけどねえ……」
「何が申し訳ないものか! 敬愛すべき最長老の願いをかなえるのは、眷族として当然のつとめであろう!」
護衛役のひとり、ダン=ルティムが豪快な笑い声を響かせる。
「それにジバ=ルウは、本当に元気を取り戻したと見える! 足が悪いので歩き方はおぼつかないが、それ以外は20歳も若返ったかのようではないか! 俺はそれを、とても嬉しく思っているぞ?」
「ありがとうねえ、ダン=ルティム……ところで、ダン=ルティムは果実酒をいただいてこないのかい……? この前の宴では、町の人間にまざって祝杯をあげていたそうじゃないか……?」
「うむ? そのような告げ口をするのはガズランだな!? まあ、酒を飲んで責められるいわれもないが、今日はジバ=ルウを守る役目であるからな! 少しは身をつつしんでおこうと決めたのだ!」
「そうなのかい……? それは残念だねえ……あたしは森辺の民と町の民が仲良く過ごす姿が見たくて、こんな我が儘を通してもらってるんだからさ……」
「そうか! では最長老の願いをかなえることにしよう!」
ダン=ルティムはあっさりと言い、俺はずっこけそうになってしまった。
ダン=ルティムは満面に笑みをたたえつつ、ジザ=ルウを振り返る。
「とはいえ、あまりジバ=ルウのそばを離れることはできんからな! 酒樽をこの屋台のそばに運んできてしまえば、用は足りようか?」
「……それで護衛の役を果たせるならば、ご随意に」
さしものジザ=ルウも、ダン=ルティムの手綱を握る気持ちにはなれなかったらしい。ダン=ルティムは大喜びで人混みに突入するや、巨大な酒樽とそれに付随する町の人々を引き連れて屋台のほうに帰還してきた。
「何だ、まだ肉は焼けないのか? そろそろ中天だぞ?」
「ああ、美味そうな匂いだなあ。この脂のしたたる姿がたまらないな!」
西の民や南の民が、酒気に頬を染めながら陽気な声をあげている。ジザ=ルウは用心深く、ジバ婆さんを数歩だけ彼らから遠ざけさせた。
「何だ、今日は男衆も大勢だな! あんたたちも、好きなだけ果実酒を口にするといい! そうすることが、太陽神への祝福だぞ?」
と、ジャガル人のひとりがそのように呼びかけてくる。
それに応じたのは、ダン=ルティムとギラン=リリンのみだ。
ジバ婆さんはミーア・レイ母さんの準備した敷物の上に座し、そんな彼らの様子を飽くことなく見つめていた。
それから小一時間が経過すると、ついに『ギバの丸焼き』が仕上がった。
俺たちが火鉢の始末を始めると、もう目ざとい人々が屋台に押しかけてきてしまう。やはり前回のふるまいが評判を呼んだのか、おびただしいほどの人の群れであった。
「少々お待ちくださいね! すぐに切り分けますので!」
俺とトゥール=ディンは、子ギバの正式な丸焼きだ。前回と同じ要領で熱いギバ肉を切り分けていくと、しばらくは大皿に溜める余地もなく次々とかっさらわれていってしまった。
西も南も東も区別なく、誰もが満足そうにギバ肉を頬張っている。お酒の入っている方々が大半であるので、普段の商売のときよりもなおさら遠慮はない。この遠慮のなさこそがジバ婆さんにさらなる感銘を与えることを俺は願った。
それに、ジザ=ルウとスフィラ=ザザもだ。
彼らはもう、ジバ婆さん以上にこういった光景を目の当たりにしている。宿場町で商売をすることは、森辺の民にとっての薬になるのか毒になるのか。彼らはどのように思いを巡らせてくれているのだろう。
「うむ! 今日はあちらのあばら肉をいただくか!」
そのように言いながら、ダン=ルティムはレイナ=ルウたちの屋台からあばら肉をいただいていた。それは子ギバより成獣のギバのほうが食いではあるだろう。同じものを受け取ったギラン=リリンも、笑顔で肉をかじっている。
それからドーラ一家の御一行も到着すると、俺たちの屋台の周囲はいっそう騒がしくなった。親父さんや息子さんたちはまたダン=ルティムと酒盃を酌み交わし、ターラはリミ=ルウたちの屋台にへばりつく。
「……今日も、あっという間に肉は尽きてしまいそうですね?」
と、一緒に肉を切り分けていたトゥール=ディンがひかえめに囁きかけてくる。
「そうだねえ。思いきって、次の祝日にはもう2台の屋台も出して、5頭分の肉を焼いてしまおうか」
「え……ですが、その肉の代価はファとルウが出しているのですよね?」
「うん、だけど、年に一度のことだからさ。もちろん、アイ=ファやドンダ=ルウの気持ち次第だけど」
「私が反対するとでも思うのか?」と、アイ=ファがぬうっと俺たちの間に割り込んでくる。
「どうせ銅貨など使い道はないのだから、好きにしろ。森辺の民の食べる分さえ守られれば、残りのギバ肉をどう扱おうがかまいはしない」
「わかった。それじゃあその方向で計画を立ててみるよ」
そんな会話をしている間にも、ギバ肉は見る見る減じていく。
あと10分もしたら、脳と目玉の摘出だな――と、俺がそのように考えたところで、見覚えのある一団が屋台の前に立った。
「今日ものんびりしすぎちまったねェ。ギバも骨がらになる寸前じゃァないか?」
「ああ、どうも。本当にぎりぎりのところでしたね」
言うまでもなく、《ギャムレイの一座》の人々である。
本日は、曲芸師のピノ、怪力男のドガ、笛吹きのナチャラ、獣使いのシャントゥ、壺男のディロに加えて、吟遊詩人のニーヤ、アルンとアミンの双子の姿もあった。
「おお、麗しき人よ。今日こそ君の名を明かしてもらえるかな?」
背中に楽器をかついたニーヤが、今日も性懲りもなくアイ=ファへと呼びかける。
アイ=ファは無言でそっぽを向き、ジザ=ルウは立ち位置を変えて彼らの目からジバ婆さんの姿を隠した。
「ほら、せっかく出向いてきたんだから、アンタがたもひと切れずついただきな。ぼんくらどもにつきあって干し肉なんざをかじるこたァないんだよ」
ピノにうながされて、双子の兄妹もおずおずと手をのばしてくる。
それを横目に、ピノは小馬鹿にしきった面持ちでニーヤを振り返った。
「で? アンタはけっきょく女を口説きに来ただけかい? まったく、色ぼけにつける薬はないねェ」
「こんなに胸が満たされてしまったら、肉など咽喉を通るものではないよ。ま、お前みたいな無粋者には一生わからないだろうけどね」
ニーヤはへこたれた様子もなく肩をすくめる。
「それに、何度も言ってるだろう? ギバの肉だか何だか知らないが、こんな道端で焼かれている粗末なものを口にする気にはなれないよ。このあとは、城下町の茶会に招待されてるんだからさ」
「ふうん? 通行証をひとつ賜ったぐらいで、旅芸人風情がここまで増長できるものなのかねェ。アンタだって、座長に拾われるまでは泥水をすすってたクチだろうにさァ」
「そんな大昔のことは忘れたよ! ギバ肉なんざを口にして腹でも壊しちまったら一大事じゃないか? こんなものをありがたがるのは、カロンの肉も満足に買えないような貧しい人間たちぐらいだろう」
「……よくもまあこんなに大勢の森辺の狩人を前にして、そんな馬鹿げた口を叩けるもんだ。アンタと一緒にいたら、こっちまでいらぬ恨みを買っちまうよォ」
珍しく、舌打ちでもしそうな表情でピノがそのように言い、屋台の背後に控えたジザ=ルウのほうに視線をくれた。
「まったく申し訳ありませんねェ、ジザ=ルウ。腹に据えかねたら、このぼんくらを好きにいたぶってやってくださいな。口と指先さえ残してもらえれば、銅貨を稼ぐのに不都合もないでしょうからねェ」
「……べつだん、そのような口を叩くのはその者に限った話ではない。数ヵ月前までは、ギバの肉を口にする町の人間などひとりとして存在しなかったのだからな」
感情の読めない声で、ジザ=ルウはそのように応じる。
「ただし、同じ調子で森辺の民を愚弄するような言葉を聞かされたら、俺たちも黙ってはいられなくなる。そのことだけは、注意していただきたい」
ジザ=ルウは普段通りの柔和な表情であったが、まあ彼の気性を知る者であれば悪寒は禁じ得ないところであろう。
もちろんニーヤはジザ=ルウの気性などひとつもわきまえていないので、悪びれた様子もなくへらへら笑っている。
「別に俺は森辺の民を愚弄しているわけではないさ。ただ、こんな不味そうな肉をありがたがって食べなきゃならない皆さんを気の毒に思っているだけのことで――」
「だから、そういう口を叩くなって言ってるんだよォ。度し難いぼんくらだねェ、まったく……それに、アンタは知らないだろうけど、このアスタってお人はなんべんも城下町に足を運んでいる立派な料理人なんだよォ?」
色っぽく、そして冷たい眼差しで、ピノがニーヤをねめつける。
「アスタのギバ料理は、ジェノスの領主様のお墨付きなのさァ。アンタはあんな大きなお城の領主様まで気の毒に思ってるってわけかい、ええ、ぼんくら吟遊詩人?」
「そいつはずいぶん大きな風呂敷を広げたもんだ。そんな与太話をお前はどこで拾ってきたんだ?」
「どこでも何も、カミュア=ヨシュと出くわしたときにそんな話で大いに盛り上がったじゃァないか? ま、アンタはあの御仁を苦手にしてるから、声も届かない隅っこで小さくなっていたんだろうけどねェ」
「……ふん」と初めてニーヤが黙り込み、そして、たぶん初めて俺の姿をじろじろと見回してきた。
「そんなのは、カミュア=ヨシュ得意の冗談だったんだろうさ。こんな貧相な兄さんが城下町に招かれるだなんて……」
「おい」と裂帛の気迫をはらんだ声がニーヤの言葉をさえぎった。
それが誰の声であったかなどとは、説明の必要があっただろうか。
「お前はジザ=ルウの言葉を聞いていなかったのか? 私の家人を愚弄するならば、ファの家の家長として黙ってはおられんぞ?」
ニーヤはきょときょとと周囲を見回してから、最後に視線をアイ=ファのもとで固定させた。
「あ、あれ? 今のは君の声だったのかな、愛しき人?」
「今すぐにその口を閉ざすか、あるいはこの場から消え失せろ。それでお前の罪は不問にしてやる」
アイ=ファの瞳は爛々と燃えさかり、鼻のあたりにしわが寄っていた。ガージェの豹や銀獅子も顔負けの山猫フェイスである。
「な、何をそんなに怒っているんだい? 家人? 家人って――」
と、ニーヤの目が驚愕に見開かれる。
「それじゃあまさか、その若衆が君の伴侶なのか!? いくら何でも、そんな馬鹿げたことは――!」
「そのようなことはどうでもいい! 今すぐその口を閉ざさぬと――」
アイ=ファの怒声に、ぺしんという間抜けな音色がかぶさった。
ピノがいきなりのびあがり、ニーヤの顔面に正面から平手打ちをかましたのだ。
まともに鼻っ柱を叩かれたニーヤは「ぎゃあ」とのけぞり、ピノは「ふん」と手の先を服でぬぐう。
「アンタみたいなぼんくらを放っておいたら、ほんとに刃傷沙汰になっちまいそうだよォ。……ドガ」
寡黙な大男は無言でニーヤの襟首をひっつかむと、その細い身体を軽々と肩の上に担ぎあげてしまった。
「申し訳ありませんでしたねェ。言われた通り、アタシらは姿を消しましょォ。あっちでもう二、三発ひっぱたいておくんで、どうか勘弁してやってくださいなァ」
「馬鹿、やめろ! 楽器! 楽器が傷むだろ!」
わめくニーヤをかついだまま、ドガはのっしのっしと天幕に向かって歩いていく。事情を知らない街道の人々は、楽しそうにそれをはやしたてていた。
そうしてピノたちも姿を隠すと、ルド=ルウが「何だかなー」と呆れたような声をあげた。
「あいつ、あんなんでよく今まで生きてこられたな? マダマラの大蛇が口を開けてる前でキイキイ鳴いてるギーズみたいだったぜ」
確かに、あそこまで余人の気持ちを察せない人間はちょっと珍しいかもしれない。何か人として大事なものが欠落してしまっているのではないだろうか。
「だけど、アイ=ファもちょっと短気すぎんだろ。貧相の一言でそこまで怒ることはねーんじゃん?」
「……それではお前は、リミ=ルウを同じように愚弄されて黙っていられるというのか、ルド=ルウよ?」
「なんでリミを引き合いに出すんだよ。……んー、まあ確かに、そんときは黙ってられねーだろうけどよ」
そんなふたりを、ジザ=ルウは糸のように細い目で見守っている。
「あのピノという娘は、町の人間としては強い信義の心を持っているように見受けられる。しかし、その仲間の全員がそうであるとは限らないようだな。……ルドよ、それでもお前はまだあの者たちに近づこうというのか?」
「んー? 俺は別にどうでもいいんだけど、リミとか他の連中が行きたがってるんだよ」
そう、リミ=ルウたちは本日の夜、また《ギャムレイの一座》の天幕に出向く計画を立てているのである。
まさか再び野盗に襲撃されることはあるまいとドンダ=ルウも渋々ながら許可を出したようだが、当然ジザ=ルウとしては承服しかねる部分があるのだろう。
「……家長ドンダが気持ちを変えぬようなら、今日は俺も同行するぞ」
「あー、いいんじゃね? あの黒猿ってのは、ちょっと見ものだよ。ジバ婆の親父たちなんかは黒き森であれを狩ってたってことなんだろうからなー」
ルド=ルウがそのように応じると、ジザ=ルウの背後からそのジバ婆さんが笑い声をあげた。
「婆は夜に町を出歩くことも、あやしげな天幕に近づくことも、ドンダに許されなかったけど……次代の家長であり族長であるジザには、黒猿の姿を見ておいてほしい気がするねえ……」
「そうか」とジザ=ルウは静かに応じる。
仕事の手を止めてその背後を覗き込むと、ジバ婆さんはいつもの感じで穏やかに笑っていた。
「……それにしても、町には色々な人間がいるもんだ……なんとも面白い話だねえ……」
「面白いで済む話ではなかったぞ」
と、アイ=ファは不満顔でぼやいたが、ジバ婆さんは笑顔のままだ。
ともあれ、丸焼きの肉は残りわずかであり、俺たちにとっての『中天の日』の昼の部は、早くも終わりが目前に差し迫っていた。