紫の月の二十四日②~乙女心~
2016.6/30 更新分 1/1
その日はトゥール=ディンが真っ先に『ギバ・カレー』を売り切ることになったので、ガズの女衆とともに青空食堂を手伝いに行くと、ララ=ルウが仕事を抜けてジバ婆さんに付き添っていた。
で、ほんのわずかな時間であるが、ジバ婆さんが荷車を降り、ドンダ=ルウと六名の狩人に守られながら、青空食堂の賑わいを間近から見物したりもしていた。
その時間にドーラの親父さんとターラもやってきて、ジバ婆さんと交流を結べた様子である。俺の位置からはあまり判然としなかったが、ジバ婆さんがターラの頭を愛おしそうに撫でている姿だけは確認することができた。
その後も客足は落ちることなく、本日も定刻ですべての料理を売り切ることがかなった。
はりきって120食分を準備してきたというユーミたちはまた最後まで店を開いていたが、こちらが店じまいをすると行列が倍以上にものびるので、きっと完売させることも可能だろう。復活祭が開催されて今日で3日目、すべてが順調すぎるぐらいに順調だ。
で、俺たちが屋台を片付けていると、ギャムレイを相手取っていたときよりも苦々しい面持ちをしたドンダ=ルウがルド=ルウとともに近づいてきた。
「ファの家のアスタよ、話がある」
「はい、どうしました?」
「……最長老ジバが、今度はダレイムに行きたいなどと抜かし始めたのだ」
「ダレイムって、それはもしかしてドーラの親父さんの家に、ということですか?」
「そうだ。明日の夜に、貴様たちはまたあの野菜売りの家に出向くつもりなのだろう? それに参席したいなどと抜かしている」
これまた驚きの発言である。
俺は「うーん」と首を傾げてみせる。
「でも、この前の人数でも親父さんの家はかなり限界に近かったのですよね。ジバ=ルウと護衛役の狩人の分まで席を増やすのはなかなか難しそうですが……親父さんは、何と仰っていたのですか?」
「何とも糞も、先に言いだしたのはあちらのほうなのだ。正確に言えば、あの野菜売りの娘が言い出して、父親がそれを了承した格好だがな」
「ああ、それなら問題はなさそうですね」
「問題がないことがあるか。そんな戯れ言を真に受けてしまう最長老の酔狂っぷりこそが大問題であろうが?」
俺は一瞬きょとんとしてから、思わずぷっと噴きだしてしまった。
「……何を笑うことがある?」
「す、すみません。ドンダ=ルウがいつになくお困りになった顔をしているので、つい」
ドンダ=ルウは野獣の眼光で俺を威嚇してから、「ふん」と頭をかきむしった。
「元気になるのはけっこうなことだが、あれでは元気になりすぎだ。……あの最長老ジバというのはな、もともとルウの家でもとびきり意固地な女衆であったのだ。あんな小さななりをして気性ばかりが猛々しいのだから始末に終えん」
ドンダ=ルウは、こう見えてまだ四十路を少し越えたていどの年齢である。で、ジバ婆さんは85歳のはずだから、ドンダ=ルウが生まれた頃はまだ40代の前半だ。ひょっとしたら、まだその頃はジバ婆さんが現役の家長としてルウの家を切り盛りしていたのだろうか。
(年齢的には、ちょうど今のドンダ=ルウと同じぐらいなわけだもんな。てことは、ジバ婆さんがドンダ=ルウの立場で、ドンダ=ルウがコタ=ルウの立場ってことだから……ううん、想像を絶するなあ)
俺がそんなことを考えていると、ドンダ=ルウはいっそうおっかない顔つきで詰め寄ってきた。
「そのダレイムの家というのは、どのような様子なんだ? 老人たちは森辺の民を疎む様子であったと聞くが、危険はないのか?」
「ええ、少なくとも宿場町より危険な場所ではないと思います。ダレイムに住むのは野菜を育てる方々ばかりなのですから、刀を下げた人間もいませんし――それに、ご主人であるドーラの親父さんの人となりは、ドンダ=ルウにも伝わっているでしょう?」
かつて、城下町に向かおうとしていたドンダ=ルウたちの前に、ドーラの親父さんは立ちふさがった。その場にはルウ家や俺たちばかりでなく、スン家の罪人たちや、それにグラフ=ザザやディック=ドムといった北の狩人たちまでもが顔をそろえ、ぞんぶんに町の人々を脅かしていたというのに、それでもドーラの親父さんは単身で俺たちの前に立ち、これからも森辺の民と縁を結んでいきたいと、そのように願ってくれたのだ。
あの頃の森辺の民は、サイクレウスと一触即発の状態であった。このままでは、森辺の民がジェノスを滅ぼすか、ジェノスの貴族たちが森辺の民を滅ぼすか、と、そこまでの事態が危惧されていたほどなのである。
親父さんが、どれほどの決意で俺たちの前に立ったのか。ドンダ=ルウであれば、それが生半可な決意でなかったことは理解できるはずだ。
「……集落に戻ったら、ダレイムにおもむいた全員から話を聞きたい。他の連中にもそう伝えておけ」
「はい、了解いたしました」
ドンダ=ルウは仏頂面で荷車に戻っていき、かたわらで話を聞いていたアイ=ファがそっと顔を近づけてきた。
「あのドンダ=ルウが、家長ではなく孫の顔になってしまっていたな」
「うん、俺もちょっと驚いてしまったよ」
「それはきっと喜ばしいことだ。ジバ婆にとってもドンダ=ルウにとってもな。ドンダ=ルウは、家長たらんとして厳格にふるまっているのだろうが、家族への情を忘れてしまっては家長もつとまらん」
そのように言ってから、アイ=ファはふっと口もとをほころばせた。
「そして、ジバ婆のことならば心配は不要だ。私が常にかたわらにあるのだから、何も危険なことはない」
「ああ、寝所だってアイ=ファと一緒なんだもんな。またルド=ルウたちも同行してくれるんだろうから、俺もそっちの心配はしていないよ」
唯一心配なのはジバ婆さんの体調であるが、こればかりは本人と家族のみんなに見極めてもらうしかない。俺としては、ジバ婆さんとドーラ家の人々が交流を結ぶ機会を持てるというだけで、温かい気持ちを得ることができた。
そんな風に考えていると、今度はララ=ルウが近づいてきた。
「ね、アスタ、ちょっと話があるんだけど」
「うん? それじゃあ片付けも終わったみたいだし、移動しながら話そうか」
またルウルウの荷車には4名の狩人がぴったりと付き添っている。忘れ物がないか最終チェックをしてから、俺たちはいざ街道に繰り出した。
「で、話っていうのは何なのかな?」
「うん……」といったん目を伏せてから、ララ=ルウは強い眼差しで俺を見つめてきた。
そして、石の街道を歩きつつ、胸の前で指先を組み合わせる。
「アスタ、どうかお願い! 今度城下町に出向くときは、あたしも一緒に連れていって!」
「え? 城下町って……それはもちろん、バナームの人たちに料理をお披露目する日のことだよね?」
「うん、その日はシン=ルウも招かれてるんでしょ? だから、あたしも一緒に行きたいの」
それはもちろん、ララ=ルウとしてはそのように考えるのが当然であろう。シン=ルウはその日、城下町でも指折りという剣士と剣術の試し合いをさせられるのである。
「うーん、まあ、そうだねえ……いかに森辺の狩人とはいえ、人間を相手にするために刀の腕を磨いてるわけじゃないもんね。ララ=ルウが心配になる気持ちはわかるよ」
「は? なに言ってんの? シン=ルウが貴族なんかに負けるわけないじゃん!」
「え? だって――」
「剣術なんてどうだっていいんだよ! そうじゃなくってさ、シン=ルウは、その……貴族の姫だか何だかに見初められて、城下町に招かれたっていうんでしょ?」
怒った声で言いながら、ララ=ルウはたちまち真っ赤なお顔になってしまっている。
そのシン=ルウはしんがりで俺たちを見守ってくれているので、この会話を聞かれる恐れはない。
「ああもう、いったい何だってんだろ! ユーミの仲間のあの娘とか、旅芸人のちっこいあいつだとか、どうして誰も彼もがシン=ルウに目をつけちゃうの?」
「いやあ、ピノはべつだんシン=ルウに特別な関心を寄せてはいないと思うよ? たぶんおたがいに名前も知らないぐらいだろうし」
「でも、屋台の娘はシン=ルウに色目を使ってたし、貴族の姫だとかも名指しでシン=ルウを招いたってんでしょ?」
「うん、そっちは否定できないかもね。でもみんな、真面目に嫁入りだとか婿取りだとかを考えてるわけじゃないだろうから――」
「それでもあたしは、絶対にやなの!」
隣で別の屋台を押していたトゥール=ディンがびっくりするぐらいの大声で、ララ=ルウはそう言い切った。
それで俺も、反省する。俺だって自分がララ=ルウの立場であったら――もしも城下町の貴族なんかがアイ=ファに気安くアプローチしてきたら、とんでもない煩悶を抱え込むことになるはずだ。その状態でアイ=ファだけを城下町に向かわせるなんて、そんなのは絶対に耐えられないと思う。
「……うん、理解した。なんとか今回はララ=ルウも同行してもらえるように、ちょっと計画を立ててみるよ」
「え、本当に?」
ララ=ルウはむしろ驚いたように目を丸くした。
「でもあたし、トゥール=ディンやリミほど役には立てないよ? それに今回のは、ルウじゃなくファの家が引き受けた仕事なんだろうし……」
「ああ、だけど、俺はもとからレイナ=ルウとシーラ=ルウにも同行してもらおうと思ってたんだよ。彼女たちには、ぜひヴァルカスの料理を食べてもらいたいからね」
というか、昨日の今日なのでまだ話は詰めていないが、レイナ=ルウたちだって当然同行を願い出ようと考えていることだろう。
「で、レイナ=ルウたちも白いママリア酒を使った素晴らしい料理を作りあげているからさ。本人たち的にはまだ未完成の味らしいけど、そもそも城では酒を料理に使う習わしがあんまりないみたいだから、きっと十分に驚かせることはできると思う」
「でも……だったらなおさらレイナ姉たちも、きちんと腕の立つリミとかアマ・ミン=ルティムに手伝いを頼みたくなるんじゃない?」
「いや、その日も商売の準備で慌ただしいからさ、きっとレイナ=ルウたちは家で料理を作りあげて、それを城下町で温めなおす方法を取るんじゃないかな? ほら、ダレイムで香味焼きをふるまったときみたいに」
「……だったらあたしの手伝いなんていらなくない?」
「それを言ったら、レイナ=ルウとシーラ=ルウもふたりそろって出向く必要はないんだよ。でもきっと、ふたりはどっちも同行したがると思う。それならララ=ルウが同行することだって許されるんじゃないかな?」
ララ=ルウは、その面にありありと葛藤の表情を浮かべながら押し黙ってしまった。
きっと、自分の都合だけで家の仕事を放り出してしまうことを気に病んでいるのだろう。レイナ=ルウたちは、そのようなことで苦悩せずに済むぐらい、調理の腕を上げることに熱意を燃やしまくっているのだ。
「そんな風に便乗するのは、気が進まない?」
「…………うん」
「それじゃあやっぱり、ファの家でララ=ルウに助力をお願いする形にしようか。ララ=ルウだって、ユン=スドラに負けないぐらいの腕前は持ってるんだからさ。トゥール=ディンやユン=スドラと一緒に、俺の調理を手伝っておくれよ」
「……アスタは本当に、それでいいの?」
「うん。俺のほうはレイナ=ルウたちより品数も多いから、もともと何人かに手伝いをお願いするつもりだったんだ。で、フォウやランの人たちは家の仕事が忙しいから、トゥール=ディンとユン=スドラだけで収まらなかったら、ヤミル=レイあたりに声をかけるつもりだったんだよね」
ララ=ルウはうつむき、上目づかいに俺を見ながら「ありがと」と小さな声でつぶやいた。
「絶対に、ヤミル=レイにしとけばよかったなんて思われないように頑張るから」
「うん、それじゃあ当日はよろしくね」
ララ=ルウはぴょこんと頭を下げてから、ジバ婆さんの待つ荷車のほうに駆け戻っていった。
俺の隣でずっとこのやりとりを聞いていたアイ=ファが「ふむ」と厳粛な面持ちでうなずいている。
「ずいぶん難儀な話になったものだ。あの貴族の娘たちはいったい何を考えているのだろうな」
「どうだろうね。あのレイナ=ルウに執心していたリーハイムほどの熱情ではないと思いたいけど」
「ふむ……そもそも私には、あの貴族めの心情も理解することができなかった。まさか貴族が森辺の民を嫁に迎えたいとまでは思わぬであろうにな」
「そうだなあ。ま、お気に入りの娘をおそばに召し上げたいというぐらいの軽い気持ちだったんじゃないか?」
「軽い気持ちなのに、それを断られてあそこまで態度を変えるものなのか? 晩餐会の折には人が変わったようにアスタの料理に文句をつけていたではないか」
「うーん、そりゃまあ色恋の気持ちがまざっていたとしたら、貴族としての自尊心を傷つけられたりもするだろうしね」
アイ=ファがやたらと食い下がるので、何だかデリケートな話になってきてしまった。
が、アイ=ファはまだ納得できていない様子で俺に身を寄せてくる。
「その色恋の気持ちというのがわからん。やっぱりあの貴族はレイナ=ルウを嫁に迎えたかったということか?」
「いや、嫁じゃなくて、それに準ずる存在というか何というか……森辺の民には理解できないかもしれないけど、町にはたぶん自由恋愛という概念がはびこっているんだよ。俺の故郷でもそうだったし」
「じゆうれんあい」
アイ=ファはますます困惑の表情になっていく。
賑やかな街道で屋台を押しながら、俺は「えーと」と言葉を選んだ。
「町にはな、嫁ではなくって恋人という概念があるんだよ」
「こいびと」
「その相手と婚儀をあげるべきかどうかを見定める期間とでもいうべきかな。好ましい相手と夫婦のような関係を築き、それで自分と相手の気持ちを確かめ合うんだ」
「だが、貴族が森辺の民を嫁に取ることはありえまい。ならば、気持ちを確かめ合っても詮無きことだ」
「うん、まあ、それはそうなんだけど……中には、婚儀を抜きにして、ただ恋愛関係を楽しみたいっていう人もいるんだよ。ユーミの友人のルイアなんかは、まさにそういう感じだったんじゃないのかな?」
「婚儀をあげるつもりもないのに、夫婦のような関係を結ぶというのか?」
アイ=ファのまぶたが半分ばかり下がることになった。
やはり清廉なる森辺の民には許容できない話であったらしい。
「あ、いや、ルイアや貴族の姫君たちが実際にどういう気持ちでいるのかはわからないぞ? 俺はただ、自分の故郷の風潮を当てはめてみただけだから――」
「お前の故郷では、そのような行為が許されていたのか」
これには「はい」と答えざるを得ない。
森辺において、虚言は罪なのである。
「…………」
「まあほら、国にはそれぞれの習わしってもんが存在するんだよ。森辺の民は、自分たちが正しいと思う道を進めばいいのさ」
「…………」
「あのー、家長殿?」
「…………お前はどうであったのだ?」
とても静かな声で、そのように問われた。
静かだが、その内に暴風雨の気配をはらんだ声音である。
「…………お前も森辺にやってくるまでは、そうして婚儀をあげるつもりもない相手と色恋を楽しんでいたのか、アスタよ…………?」
これには正々堂々と「いいえ」と答えることができた。
「幸いというか何というか、故郷でそういう相手と巡りあうことはなかったよ。俺も家の仕事が忙しくて、年頃の女性とお近づきになる機会なんて皆無だったからなあ」
俺のそばにいてくれたのは、兄妹同然で育った幼馴染の玲奈のみである。
そんな俺と玲奈の間にあったのは、恋愛感情とはまったく異なる、別の何かであったのだった。
「…………」
「おーい、納得してくれたのか、アイ=ファ?」
「…………お前はもはや森辺の民だ。それだけは忘れるのでないぞ、アスタよ」
「当たり前だろ。俺がそんな大事なことを忘れると思うか?」
「…………ならばよい」と、アイ=ファは少しだけ苦しそうに眉根を寄せた。
「お前がいずれ誰かを嫁にしたいと考えられるようになったときは、私は家長として、毅然とふるまうことを約束しよう。しかし、じゆうれんあいなどというたわけものを許容する気持ちは、断固としてない」
「ああ、俺だってそんな概念を森辺に持ち込む気はさらさらないよ」
そして、報われぬ恋心を打ち捨てる気持ちも、さらさらない。
アイ=ファがどのような覚悟を固めていようと、それだけは確かであった。
(だけどアイ=ファにとっては、そういう覚悟も固めておかなきゃならないんだろうな。……家長として)
アイ=ファ以外の人間を嫁に迎える気持ちにはなれない。そのような言葉を聞かされてしまったら、アイ=ファだって心を乱されてしまうだろう。自分の存在が枷となって、家人が嫁を迎えることができないのだとしたら、それは家長として忸怩たる気持ちであるはずだ。
だけどアイ=ファは、自分のことなど打ち捨てて、誰か別の女衆を嫁に取れ――などと言い出したりはしなかった。その代わりに、「世の中はままならぬものだな」と、とても幸福そうに、とても悲しそうに言ってくれたのだ。
(俺にはその気持ちだけで十分なんだよ、アイ=ファ)
そんな思いを込めて、俺はアイ=ファを見つめ続けた。
アイ=ファは少しだけ頬を赤らめ、俺の脇腹に鋭い肘打ちをえぐり込ませてから、歩くことに専念し始めた。
そうしてジバ婆さんの宿場町見物は無事に終わりを遂げ、翌日にはダレイム見物が敢行されることに決定されたのだった。